翌日。昨日あれだけ通知を飛ばしてきた張本人は、何事もなかった顔で現れた。——いや、そう見せようとしているというほうが正しい。視線の置き方、口元の角度、声の高さ。すべてが不自然にならないぎりぎりの位置で「いつも通り」に、調整されている。その完成度の高さが、かえって彼の内側を透かしてしまう。分かってしまうから少しだけ可笑しくて、同時に妙に気になった。
夕方のフロアは、昼の慌ただしさが、すっかり引いている。モニターの白い光だけが島のように浮かび、キーを叩く音もまばらだ。集中しているふりをした呼吸と、今日は早めに帰りたいという気配が、同じ空間に静かに重なっている。端末のログを確認し、ようやく一区切りついたところで肩の力を抜いた。その瞬間、「すみませーん」と背後から聞き慣れた声が届く。昨日の昼と夜とのあいだに落とされた距離を何事もなかったように跨いでくる調子。その軽さが、なぜだか胸の奥に引っかかった。
振り返るとカウンター越しに立つホークスが、困ったように片手を挙げている。その仕草はあまりにも軽い。昨夜あれほど感情を剥き出しにしていた人物とは思えないほどだ。無理をしている、そう判断するのに、時間はいらなかった。平静に寄せられた声も立ち位置も作り込まれすぎているからこそ分かる。それでも私は、気づいていない顔を選ぶ。内側に浮かんだ考えをそっと押し戻し表情だけを、仕事用に切り替える。視線の温度を落とし呼吸を整え言葉を選ぶ。彼が必死で保っている『いつも通り』を、ここで崩す理由はない。そう判断した自分が少しだけ大人びて感じられて同時に、胸の奥がわずかに疼いた。
「お疲れです、ホークス」
「お疲れさまで〜す」
「どうしました?」
彼は一瞬、視線を宙に泳がせてからポケットに手を突っ込み、端末を取り出す。その間がすでに��やらかした人�≠フ、それだった。
「あの、また……調子悪くて」
その言い方自体がもう、本人の自覚がにじんでいる。私は無言で端末を受け取る。画面は点いているが、通知表示が固まったまま動かない。
「今度はなにをしたんですか」
「なにもしてないです」
「前回もそう言ってましたよね」
電源を落としながら言うと彼は小さく咳払いをした。誤魔化すときの無意識の癖だ。
「……強いて言うなら」
「……」
「通知、見すぎました」
軽やかに放たれたその言葉に、思わず私の指が止まる。
「……それが、原因なの?」
「たぶん?」
彼は視線を逸らす。昨日の夜、立て続けに届いた質問の列が脳裏をよぎる。すると、彼はさらに一歩だけ距離を詰め、小声になった。
「名前さんからの返信、気になりすぎて」
「……」
「夜更かし、しちゃいました」
危うく吹き出しかけて私は咳を一つ噛み殺す。そういえば、ここは職場だった。気を取り直してなるべく平坦に言う。
「ヒーローの自覚」
「ありますあります」
「ほんとかなぁ」
「でも、個人の自覚がちょっと……」
彼の言葉を聞き流すように、私は端末を操作しながら、短く息を吐く。
「とりあえず、再起動しますね」
画面が暗転する。そのわずかな待ち時間の間、ホークスはカウンターに右手をつき何も言わずに私を見ていた。視線の重さに気づいた瞬間、胸の奥で小さく、警鐘が鳴る。仕事用に整えたはずの呼吸が、そこでほんの少しだけ乱れた。
「……なに」
思わず零れた声は想定していたより低く乾いている。彼はすぐには答えずに一呼吸だけ置いた。その間が、言葉の内容を先に想像させてしまう。そして、まるで雑談の続きでも始めるみたいに、さらりと切り出した。
「昨日の人」
——来た!
「はい」
「何歳くらいですか」
「……そこ?」
こちらが構えた分だけまるで肩透かしを食らうみたいに私はそう言い返して顔を上げ、思わず、片眉を動かした。しかし彼のほうは真顔だった。
「俺よりは年上でしたよね」
「たぶん、少しね」
「どのくらい」
「三つくらい……かな。詳しくはわかんないよ」
答えた瞬間今度は彼の眉がわずかに反応する。「三つ」と小さく復唱し何かを計算するみたいに目を細めた。
「落ち着いてそうでしたもんね」
「……」
「優しそうで」
「……仕事の仲間です」
やんわりと釘を刺すと、彼は素直に「分かってます」と頷く。頷くけれど引く気はなさそうだ。
「でも、タイプではありそうだなって」
「何の。誰の。」
「名前さんの」
「……勝手に、決めないでください?」
端末を操作しながら言うと彼はすぐに「じゃあタイプじゃないんですか」と言葉を重ねてくる。距離がまた、一段近い。彼の香水の匂いが仕事の空気に混じる。
「仕事仲間だってば」
「でも、嫌いではないでしょ」
言い方が、じわじわと少しずつ逃げ道を潰してくる。私は端末の画面から目を離さずに答える。
「嫌いだったら昨日も昼、行ってないです」
「偶然会っただけって言いよったとに……」
「それは、嘘じゃないもん」
論理で詰めないでほしい、と思った瞬間。彼の声が「それでも」とほんの少しだけ低くなった。軽口の裏にある本音がいま、こちらに向いている音だった。
「俺以外に外でご飯行ってる人がいるの、普通に複雑です」
あまりにも率直すぎる言い方だった。ここが、私の職場であることも、周囲に人がいる可能性も完全に頭から抜け落ちている声。感情だけがそのまま口を通って出てきたみたいな調子だ。
「ホークス」
「はい」
「ここ、職場」
「分かってます」
口ではそう言いながら距離も視線も引かない。その矛盾が、彼の今の状態を、よく表していた。分かっているけれど、止められない。理性よりも気持ちのほうが前に出ている。
「連絡、今も取ってます?」
「取ってないってば」
「最近は?」
「業務連絡くらいは業務端末で普通に」
「頻度は?」
——出た。質問が、完全に尋問の流れに入っている。私は小さく息を吐いて、再起動の終わった端末を操作しながら、少しだけ肩の力を抜いた。端末の画面が正常に立ち上がる。
「質問攻めって言うんですよ、それ」
「……」
「はい、直りましたよ」
そう言って差し出すが彼はそれをすぐには受け取らない。その視線はまだ、私の顔に固定されたままだ。
「——で。今後、二人で会う予定は」
「ないっ!」
思わず声が考えるよりも先に即座に出た。彼がぴたりと動きを止める。数秒の静止。そのあと、妙に満足そうな静かな声で言った。
「……即答でしたね」
「しつこいんだもん」
「仕事終わったら、誰と帰る予定ですか」
それでも、話は終わらないらしい。呆れが先に立つのに不思議と突き放す気持ちは湧いてこない。応援していると思ったら突然拗ねてみたり、その振れ幅ごと受け止める役回りにいつの間にか自分が収まってしまったことを遅れて自覚する。その事実をわざわざ確かめるでもなく私は感情を声に乗せない選択をして、淡々と答えた。
「一人です」
「本当に?」
「疑う前提やめて?」
「いやいや、疑ってなんて」
「まるで浮気者みたいじゃん、私が」
口ではそう軽口を叩きながらも胸の奥がほんの少しだけくすぐったくなる。昨日の夜の延長戦をまさかこんな場所でしかも私の職場でやることになるとは思わなかった。
「じゃあ明日も一人で帰るんです?明後日も?」
「ホークス」
「はい」
「わたし、いま、し・ご・と・ちゅう」
一音ずつ区切って真顔で言う。その瞬間、彼はようやく現実に引き戻されたみたいにして、軽く咳払いをした。
「ああ……すみません」
遅れて訪れた自制。彼は、ようやく端末を受け取りながら「でも」と、ぽつりと言って、そっと私に視線を合わせる。
「ちゃんと答えてくれるの、嬉しいです」
私は何も言い返さずただ静かに視線を伏せた。昨日の昼もその夜も、そして今日も。彼はずっと私の世界の端にある��他人�≠ノ、ひどく敏感だ。その独占欲を重いと思うより先に私はもう当たり前みたいに、その中心に自分が置かれている事を受け取り始めてしまっている。
端末を受け取ったホークスはようやく仕事用の距離に戻るかと思ったのにそうはならなかった。彼はスマホを確認しながらもそのまま立ち去らずカウンターの端に残ったまま、わずかに逡巡するような間を置いた。先までの質問攻めとは違う、沈黙だった。探るような沈黙じゃない。決めかねている人の沈黙だと、なぜか分かってしまう。
「……あの」
呼びかける声がほんのわずかに低くなる。探るような、距離を測り直すための声だった。
「はい?」
私はログ画面を閉じながら応じる。業務の手順はもう身体に染みついているのに意識だけが彼のほうへ引き寄せられていくのを感じていた。
「今日」
「今日?」
「仕事終わったあと」
「……」
「予定、あります?」
言葉は丁寧で、仕事相手に向ける体裁を保っている。けれどその奥に混じる個人的な温度は隠しきれていない。さっきまで強引だった人が、今は慎重に扉を叩いている。
「今日は……特に」
正直に答えると彼の目がわずかに明るくなる。ほんの一瞬の変化なのに、こちらには、はっきり伝わってしまう。
「ほんとですか」
「うん。嘘ついてどうすんの」
その瞬間に、彼の中で何かが決まったらしい。逡巡の気配が消え、迷いが収束していく。そして「じゃあ」と少しだけ前屈みになって声を調子を上げる。
「今日の夜、飲みに行きましょ」
疑問形じゃない。でも、命令でもない。多少のぎこちなさも気まずさも、全部抱えたまま、それでも前に進もうとする人の言い方。
「……急だね」
そう言いながら、断る理由を探している自分がいない事に遅れて気づく。ホークスはまるでそれに気づいたみたいにして、小さく肩をすくめた。
「急ですけど」
「……」
「昨日の夜の続き、みたいなもんなんで」
『続き』という言葉がなぜか妙に胸に落ちる。たとえそれが文章のやり取りだとしても、ぶつかってすれ違って、それでも手放さなかった時間のその先。それでもこのヒーローは「無理なら」と一応、といった調子で付け足した。
「無理って言ってもらっても、いいですけど」
「……」
「でも、言われない前提で、話してますけどね」
さらりと退路を塞ぐ。そのやり方は、いつもと同じだ。選択肢を用意しているようで心の中ではもう、並んで歩く未来を置いている。
「……ホークスって、ほんと強引だよね」
「ええ、ですね。今日は、特にね」
思わず小さく笑ってしまうと、彼は軽い調子であっさり認めた。けれど次の瞬間には視線をわずかに外し、言葉を続けるまでに、ほんの短い間を置く。その切り替えがさっきまでの軽さとは違う温度を連れてきた。
「昨日の昼に、あんなの見せられたまま、終わりたくなかったんで」
仕事でも任務でもヒーロー活動でもない理由。それをこんなふうに、当たり前みたいに差し出されると嫌でも、胸の奥が揺らいでしまう。
「私、お酒そんなに強くないけど?」
「知ってますよ?でも好きでしょ?」
「……」
「だから、潰れそうな店は連れて行きません」
即座に返ってきた声は驚くほど早く、そこには迷いの影は見当たらなかった。考えていないわけではない。ただ、考えたうえで躊躇しない。その潔さが、あまりにも彼らしくて、胸の奥で小さく息が抜ける。そういうところが、困るほど分かりやすくて同時に、嫌いになれない理由でもあるのだと、今さらのように思う。
「……ずるいなぁ」
「よく言われます」
軽く笑うけれど、目は真剣だ。昨夜の不安も、今日の質問攻めも今のこの誘いも全部同じ根から伸びている。私は小さく息を吐き切って、書類を手に取る。
「終わるの、少し遅いよ」
そう言った瞬間、彼の表情がぱっとほどける。そして「了解です!」のあと間髪入れずに続く。
「じゃあ、終わりそうな時間に迎えに来ますね」
「え、ここに?」
「はい。当然でしょ」
自然に放たれた「当然」というひと言が、胸のあたりをむず痒く撫でていく。本人はむしろ得意げで、それが余計に本心なのだろうと思わせた。
「目立つでしょ」
「目立たない努力はしますよ」
たぶん、しないだろう。私が観念したように、
「……仕方ないな」と言うと彼は満足そうに目を細めた。
「ありがとうございます」
その言い方が任務を受けたヒーローじゃなくて約束をもらって喜ぶただの二十一歳の男の人の声だった。彼が去っていく背中を見送りながら私は思った。昨日までのぎこちなさは、まだ完全には消えていない。でも、こうして当たり前みたいに次の約束が生まれること自体が、もう、答えなのだと。離れるより、並ぶほうを選ぶ。今日もまたその選択を私たちは、揃ってしている。
仕事を終えて建物を出ると夕方と夜の境目みたいな空気が街に溜まっていた。昼の名残の明るさと夜の気配がまだらに混ざり合い、駅前の灯りもどこか中途半端な色をしている。帰宅を急ぐ人とこれからどこかへ向かう人とが、同じ歩道を違う速度で流れていく。そんな中、いた。探すまでもなかった。入口から少し離れた街路樹の影に黒いキャップを深く被った、ホークスが立っている。壁にもたれるでもなく、ただ待つための姿勢で。彼はこちらに気づいた瞬間控えめに手を挙げた。その仕草が任務帰りのヒーローじゃなくて、ただ待ち合わせをしている人のそれで胸の奥が緩むと同時に少しだけ苦しくもなる。待たれることにはまだ慣れていない。私が近づくと彼は、声を落として言う。
「お疲れさまです」
「お疲れさま。早かったね」
「そりゃ、迎えに来るって言いましたし」
当然みたいに言うくせに、目はどこか落ち着かない。私の顔色を確かめるみたいにして一瞬だけ視線が泳ぐ。
「大丈夫そうですか」
「なにが?」
「今日一日」
その聞き方がいかにも彼らしい。踏み込みすぎないのにちゃんと芯を外さない。心配の仕方が、さりげないのに真っ直ぐだ。
「うん。問題ナシ」
そう答えると、彼はようやく肩の力を抜いた。
「なら、よかったです」
それだけで迎えに来た意味は十分だったのだと分かる。
歩き出すと彼は自然に私の半歩前を取る。守るでも、急ぐでもない距離。昨日と今日の夜の間に生まれた新しい位置取り。
「——で、どこ行くの」
「静かなとこがいいですよね」
「うん」
「じゃあ、前にも行ったとこで」
「前にも行ったとこいっぱいありすぎるけどね」
「はは、確かに」
笑いながら同時に気づく。その言葉がもうこの流れが当たり前みたいに共有されていることに、少しだけ、くすぐったくなった。
店は、駅から一本入った通りにあった。暖色の照明がガラス越しに滲み、外の雑踏をやわらかく遮断している。扉を開けると低めの音量で流れる音楽とグラスが触れ合う控えめな音が迎え入れてくれた。平日の夜らしい、肩の力が抜けた空気。私たちは自然とカウンターに並んで座る。距離は近いのに窮屈じゃない。肘が触れそうで触れないその曖昧さが心地いい。そんな中メニューを開く前に少しだけ間を置いて彼が言った。
「今日は、ちゃんと、ゆっくり飲みましょ」
��ちゃんと�≠ニいう言葉に、昨夜までの多少のぎこちなさが滲む。急がず誤魔化さず逃げずにという意味を全部含んだような言い方だった。
「うん。ちゃんと、ね?」
注文したグラスが運ばれてきて、軽く触れ合う音がする。澄んだその音が、今夜の始まりの合図みたいに響いた。私はまたメニューを手に取り、焼き物のページを眺める。すると「……昨日」とホークスがグラスを持ったままぽつりと呟いた。
「連絡してよかったって、今でも思ってます」
「……」
「聞きたいこと、ちゃんと聞けて」
唐突だけれど彼らしい。それから少しだけ言葉を選ぶ間があって。
「でも、なんていうか……見なかったことには、したくなかったんで」
「……」
「だから今日、誘いました」
視線はグラスに落ちたままだった。真正面から言うにはまだ少し照れが残っているらしい。説明の体裁を取っているのにどこか告白に近い温度。
「ありがとう」
「いえ。俺の都合なんで」
私が素直にそう言うと、彼は小さく笑ってそう返した。でもその都合の中に私が含まれている。それが分かるだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
料理が運ばれ二人で取り分けながら取り留めのない話をする。最近あったどうでもいい出来事、変わった顧客……というかヒーローの話、任務の合間に見た空の色。重くもなく、軽すぎもしない話題が、グラスの減りと一緒にゆっくりと流れていく。
「ここの店、やっぱ落ち着きますね」
「うん。声、張らなくていいしね」
「あ。それ、分かります」
彼は頷きながら、グラスの水滴を指でなぞる。
「名前さんといると、無理に喋らなくていい感じがして」
「それ、褒めてる?」
「かなり」
思わず笑うと彼もつられて口元を緩めた。昨日まで張っていた何かが、音もなくほどけていく。今夜もまだ踏み込まない。けれど戻りもしない。ただ同じ温度の時間を、並んで飲んでいる。それだけで、十分すぎる夜だった。カウンター越しの照明がグラスの中で揺れる。この先どんな言葉が来ても今日はきっと受け止められる。そんな確信だけが、静かに胸に残っていた。
「名前さん」
不意に名を呼ばれる。グラスを置く乾いた音のあと、ほんの短い間が落ちた。その隙間で言葉を選ぶみたいにホークスの視線がわずかに揺れる。その揺れに、先にこちらの神経が反応してしまうのが悔しい。
「ん?」
「今日は、ちゃんと笑ってますね」
そんなことを、彼は言った。あまりにも観察が細かい。指摘されて初めて自分の頬が緩んでいることに気づく私も私だけれど、それを見逃さない彼の目線の置き方が、少しだけ胸に引っかかる。
「私って、そんなに分かりやすい?」
「分かりますね」
「……」
「昨日の昼間は、目が笑ってなかった」
そこまで見ていたのかと思うと、胸の奥が少しきゅっと、縮む。責められているわけじゃない。ただ、見抜かれていた。その事実だけが、静かに効いてくる。
「ちゃんと楽しかったけどなぁ、昨日のお昼」
「へぇ。楽しかったんだ……」
「なんで?楽しくない人と、ご飯なんて食べないでしょ」
意地悪をしたいわけじゃない。ただ本心をそのまま置いただけ。それなのに目に見えてホークスの機嫌が少しだけ沈む。その変化がどうしようもなく分かりやすくて、そしてやっぱり可笑しい。
「俺的にはあんま笑ってないように見えました」
「じゃあ、それでいいよ」
「あ、バカにしとー?」
「してない、してない」
「でも、だから——」
彼は私の言葉を遮るように声を落とした。カウンター越しのざわめきに溶ける程度の、とっても小さな音量で。
「今日は、笑わせられてよかったです」
「……」
「……って、独り言です。あんま気にせんで」
一丁前に照れているのが可愛らしいと思った。『笑ってくれて』じゃない。『笑わせられて』。彼は自分が関わった結果として言う。そこがどうしようもなく優しいと思う。グラスを傾けながら私は思った。昨日は少しだけ気まずい夜だった。たぶん今日はそれを埋め直す夜。でも、埋めるというより少しだけ先へ進む夜なのかもしれない。彼は変わらない距離を保ったまま確実にこちらへ意識を向けてくる。触れない。けれど離れない。その距離感が今はちょうどいいのだと、私はまだ自分に言い聞かせている。
*
「送りますよ」
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃない顔してるんで、強制です」
「なにそれ」
言い切る調子は軽いのに、逃がさないと決めている声音だった。結局、私はそれ以上断らずに、店を出る。
外に出る頃には夜がすっかり落ち着いていた。昼の熱を失った空気は澄み街の輪郭がいつもより少しだけ鋭く見える。息を吸うと肺の奥まで冷えた空気が届く。その感触が今夜の出来事を現実に引き戻してくる。
並んで歩き出すと、彼はごく自然に私の歩調に合わせた。意識していないふりをして、ちゃんと揃えてくるところが、いかにも彼らしい。しばらくは、他愛もない話が続く。さっきまでの店内のざわめきが嘘のように会話の間に、静かな余白が増えていく。その余白を縫うように、不意に彼が口を開いた。
「あの……」
その前置きだけで何か核心に触れる話が来ると分かってしまう。声の低さも、言葉の選び方も、さっきまでとは違っていたから。
「昨日の、昼間の……ことなんですけど」
「うん?」
「正直に、言っていいです?」
「どうぞ?」
彼は一度、息を吸う。その短い準備が、言葉の重さを予告していた。
「めちゃくちゃ、複雑でした」
「……」
「見た瞬間に頭では分かってて。俺が何か思っていい立場じゃないって」
「……」
「でも、感情のほうが、全然ついてこなくて」
軽さも、冗談の逃げ道もない声だった。夜道の街灯が彼の横顔を一瞬だけ照らす。その光の中で彼の表情は驚くほど正直だった。
「知らない場所で知らない人と笑ってる名前さん見るの……思ったより、効きました」
そう言って彼は小さく息を吐く。その吐息が、夜の空気に溶けていくのを私は黙って見ていた。
「独占したいとかそういう言葉使うのは違うって分かってますけど」
「うん」
「でも、なんか。俺の知らない時間ってやつに、弱くなっちゃったみたいで」
あまりにも素直な告白に、胸の奥が静かに熱を帯びる。揺れたのは感情だけじゃない。足先までじんわりと温度が伝わってくる。
「嫌だった?」
「嫌、っていうより……羨ましかったです」
彼は、少しだけ言葉を探してから言い切った。怒りでも疑いでもない。ただ取り繕われていない本音だった。
「俺といるときと、同じような顔してたから」
「……」
「それが、なんか……余計に」
彼はそこで言葉を切った。続きを言えば、踏み込みすぎると分かっている人が選ぶ沈黙だった。
「ふふ。私、笑ってないんじゃなかったの?」
「あのさァ……ほんっと、イジワルっすよね」
「そうでもないよ」
「そう、思いたかっただけです。わかるでしょ」
「わかんないよ、言ってくれないと」
「……っ、でも今こうして一緒に歩けてるんで」
「うん」
「結果オーライってことにします」
照れ隠しみたいに言って、彼は小さく笑った。並んで歩きながら、私は思う。昨日は互いに他の人と一緒にいて少しだけ居場所を見失った日だった。それでも今日はこうしてまた二人で同じ夜を歩いている。その両方を経験したうえでそれでもなお、並んでいられる関係。それはもう、ただの知り合いとは言えない。
この関係に、名前はまだついていない。けれど確かに続いていく夜だと静かに分かる。彼の歩幅と私の歩幅が揃う。街灯の下で影が一つになる。今夜は、急がなくていい。そう思えること自体がもう、十分特別だった。でも逆にこの夜を越えてしまった以上、もう何も知らなかったふりでは、並んで歩けない気がしていた。