人間の寂しさというものに、周期があるのだとしたら、きっとこのあたりが俺の限界のはじまりなんだろう。
【 二日目——。】
昼の光はやけに冴えていた。雲ひとつない空の下を飛びながら、俺は街の気流を読んでいた。
救助要請、遅延電車の誘導、落下物の回収——どれも日常業務に過ぎないのに、今日に限っては一つひとつの動作が異様に軽かった。スピードを上げることで考えないようにしているのかもしれない。頭を空に預けるみたいにして次から次へと依頼をこなしていく。
気づけば午前中だけで通常の倍の任務を終えていた。時計を見るとまだ昼前。風を切る音だけが世界のBGMになっている。空の広さがやけにもの寂しい。
——ああ、やっぱり飛ぶってのはひとりの動詞なんだな。
そんなことをぼんやり考えながら俺はそのまま事務所に戻った。ビルの屋上に降り立つと、街の喧噪が遠くで溶けていく。翼をたたんでエレベーターに乗る。扉の反射に映る自分の顔が、どこか疲れて見えた。事務所のドアを開けると香ばしいコーヒーの匂いとパソコンの小さな打鍵音が出迎えてくれる。それだけで少しだけ、地上に戻った気がする。
「所長〜、通常運転でも早いのに、なんか今日はもうトップギア入ってません? 評判ですよ」
このところ事務所に新しくに入った事務の子がタブレットを片手に、にこっと笑いながら俺の席までやってきた。淡いベージュのカーディガンに指先には、書きやすいと評判のタッチペン。明るい照明の下で、あの人とは違う、職場の声がする。
それなのに、どうしてだろう。その声の響きが一瞬だけ、違う誰かの声に重なって聞こえた気がした。
「いやぁ〜、時間が余って仕方ないから。つい、ね?」
軽く笑ってみせる。デスクの端に置かれた書類の束をまとめながら、わざと視線を落とす。
「なるほど。つまり私生活が充実していないと、ヒーローの業務が進む、と?」
「それ、言い方……泣きますって。やめて」
返す声は軽いのに胸の奥が少しだけしんとしていた。『私生活が充実していない』という言葉が冗談の矢の先でほんの少しだけ痛く突き刺さったのだ。彼女がいないことをこんなふうに笑い話にできる自分がほんとうは一番、寂しいのかもしれない。
事務の子がクスッと笑いながら、カップにコーヒーを注いでくれた。湯気が立ち上る。それを、ぼんやり眺めながら無意識に、彼女が淹れたコーヒーの香りを思い出していた。彼女が淹れると、同じ豆でも味が違うんだよな。口には出さない。けれど、その香りの記憶だけが、コーヒーよりも濃く、胸の奥で静かに残っている。
「……所長、今日ちょっとテンポ早いですよ?」
「そうです? たぶん風がよかったんでしょう」
「風のせい、ですか」
「うん。あと、まぁ……。考える時間が多いと、空って妙に広く見えるから。だから忙しくしてるほうが落ち着くんだよね」
自分でも、少しだけ本音が混じったなと思う。彼女がいないこの二日間で空がどれだけ広くても帰る場所がなければその広さが逆に孤独の単位になるということを知った。
コーヒーをひと口飲む。少し冷めている。それでも喉を通る温度だけは確かだった。タブレットの通知音が鳴る。新しい救助依頼だ。画面には、『高層ビル屋上からの転落危険』の文字。俺は、即座に立ち上がる。反射的に翼を広げる。
「——じゃ、行ってきます」
「はい、お願いします! でも、無理はしないでくださいね?」
事務員の女の子の言葉に、軽く親指を立てる。窓の外の光が、翼に反射して眩しかった。
ほんとに無理なんかしていない。ただ風の中にあの人の匂いを探しているだけ。そんなことを、誰にも聞こえない声で呟きながら、俺はまた空へ飛び出した。都市の上空を渡る風は冷たい。けれど、その冷たさの奥に微かに、彼女の声の残響が混じっている気がして息を吸い込む。それだけでまた少しだけ、今日も生きていける気がした。
日中は、救助と会議と報告書でどうにか思考を散らしていられる。けれど夜になると世界が急に静かになりすぎて自分の呼吸の音がやけに大きく感じる。ふとベランダに出ると夜風が羽根の縁をなぞる。羽毛の隙間に入り込む冷えが遅れて背中に広がった。遠くでは、車のエンジン音が流れ、どこかの部屋からは笑い声が零れてくる。それらすべてが、彼女のいない世界のBGMみたいに必要以上に鮮明だった。賑やかなはずの音が、俺には輪郭だけを残して中身を欠いたように聞こえる。ここに足りないものがはっきりしているせいだ。
俺は寝室に戻りベッドに腰をかける。気づけば指先で勝手にスマホを探していた。画面が点き、彼女の名前が浮かび上がる。それだけで胸の奥がわずかに温まるのがわかる。触れていないのに、体温を思い出す感覚。

こんばんは

こんばんは。
今どこ?

愛の巣です

もう寝る準備です

はやいね

いや、寝るっていうか

寝れないんですけどね
他愛ないやり取りを何往復か。意味は薄いのに手放せない。言葉の内容よりも彼女と同じ時間を刻んでいるという感覚が、今は必要だった。
やがてふと指が止まる。画面の向こうに沈黙が落ちる。その沈黙は、不安を呼ぶものではなく、湯気みたいに、ゆっくりと立ち上る気配を伴っていた。

あの、今日もさ
寝る前に

啓悟くんって

呼んでくれません?
ふざけているようでどこか切実な響き。願いという言葉にするには軽すぎるけれど、祈りと呼ぶには、あまりに正直だ。
すると間を置かずに着信が鳴る。コール音が、一度も鳴りきる前に俺はその通話を取っていた。
『ふふ、はやいね』
耳に届いた声に胸の内側が静かに揺れる。画面越しに、湯上がりの彼女が濡れた髪をかき上げて小さく笑っている気がした。現実なのに夢の延長みたいな距離感だ。
「……鳴る前から、構えてましたから」
『そっか』
「今、何してるんです?」
『髪乾かしてた。ちょっと休憩』
「じゃあ、今は俺の時間ですね」
『はいはい』
軽い応酬の裏で互いに確かめ合っている。声の調子、呼吸の間、今日の疲れ具合を。それらを、拾い集めながら、俺は言葉を選ぶ。
「ほら……前にさ?名前呼ばれるたびに理性削れてたやつ、覚えてます?」
『ああ、あったね。そんなこと』
「今はそれすら足りない……削れてもいいから、欲しくて」
自分で口にしたくせに、その『欲しくて』が、やけにゆっくり耳の奥へ沈んでいく。返事を待つあいだ少しだけ息を吸う音が混じる。沈黙が怖いわけじゃない。ただどんな声で返ってくるのかが心臓に悪すぎた。ややあって『……じゃあ』と、彼女の声が、少しだけ低くなる。
『……啓悟くん』
たったそれだけ。音としては短いのに胸の奥が電気を浴びたみたいに熱くなる。血の巡りが変わるのが、はっきりわかる。
俺の名前は、彼女に呼ばれるために生まれた音なんだと思う。呼ばれた瞬間、俺という存在が、輪郭を取り戻す。今夜あらためて思い知った。その中心に、彼女の声がある。
「……ずるいですよ、それ」
『何が?』
「そんな静かに、そっと、甘い声で呼ぶの」
『煩くドスの効いた声で呼んだ方がよかった?』
「いや……今のが、いちばん効きました」
羽根の先が風もないのにわずかに震える。彼女の名前を呼び返したい衝動を飲み込む。今日は、どうしても、受け取る側でいたかったから。
「……もう一回、いいですか」
『啓悟くん?』
「それです!」
笑い声が画面越しに零れる。今夜も彼女の声がある。触れられなくても名前ひとつでこんなにも満たされてしまう。離れている時間が、少しだけ短く感じられた。
「はぁあ……ほんっと、無理……」
天井を仰いで、思わず呻いた。指先が震えて、羽根がわずかに動く。遠くで風が鳴って、部屋の中の空気がひとつ、彼女の名前で満たされる。
「これ、あと何回聞けば、帰ってくると……?」
誰に言うでもなく呟くと画面の向こうで彼女がまたくすくすと笑う。その天使のような笑い声がこの夜の静けさを溶かしていく。
『あと五日、ね』
「……五日かー。長いなぁ」
『でも、こうして話せるから、だいじょうぶ』
「あなたがそう言うと、本当に、だいじょうぶになりそうで、ずるい」
『ずるいのは啓悟くんでしょ。そんな顔して言うから』
「顔、見えてるんですか?」
『見えてるよ。ちゃんと、こっちでも』
通話のノイズが波のように小さく揺れる。それが彼女の呼吸のように感じた。世界が小さな画面の中に閉じて、でもその中だけは確かにふたりで息をしていた。
彼女が『おやすみ』と言ったあとも俺はスマホを手の中で握りしめたまま消えた画面に映る自分の顔を見つめていた。目の奥にまだ、彼女の声が残っている。その余韻を抱いたまま俺は深く息を吸い、そして、ゆっくりと吐いた。
夜の匂いが少し甘くなっていた。もしかしたらそれは、彼女が呼んだ『啓悟くん』という音の、残り香だったのかもしれない。
【 三日目——。】
夜、愛の巣に戻ると、彼女がいない静けさが、今日はいつもより重たく感じた。照明をつけて、カーテンを閉める。その動作、ひとつひとつが、やけに機械的で、まるで生活というものをひとりぼっちで演じているようだった。
時計は二十一時を指している。いつもならこの時間、彼女からのメッセージが届く。『いまお風呂入ったよ』とか『今日のごはんおいしかった』とか、そんな他愛ない文字列がこの部屋の空気を温めてくれる合図だった。けれど今夜は何もない。通知も光も沈黙すら深く息をひそめている。俺はスマホの画面を見つめながら呼吸のリズムが少しだけ乱れるのがわかった。指先が画面の上をなぞる。あの、名前の表示欄。たったそこを押すだけで彼女の声が世界を満たすはずなのに今夜はなぜか、その押すという行為がひどく怖かった。
出なかったら、どうしよう。たったそれだけの可能性が、胸の奥に重く沈んでいく。
馬鹿みたいだと思う。彼女だってそりゃ忙しいだろうし眠いかもしれないし、色々と理由はあるってことも。そんなことはわかってる。それでも声が聞けないという事実は愛の量に比例して少しずつ肺の中の酸素を奪っていく。
意を決して通話ボタンを押した。呼び出し音が鳴る。一秒、二秒、三秒——。まるで、砂時計の砂が落ちていくようにその音が部屋の中に、降り積もっていく。十秒。二十秒。それでも、応答はない。その沈黙の向こうに彼女が笑っている姿を想像する。誰かと、会っているのかもしれない。家族と団欒しているのかもしれない。けれどその��誰か�≠ノ無条件に嫉妬してしまう自分がいる。
「……ったく、情けなか。」
小さく笑ってみせる。でも笑い声が思ったより弱っていた。電話を切ったあと、部屋の空気が、さらに、冷たくなった気がした。画面が真っ暗なままのテレビ、時計の針の音、そのすべてが彼女のいない時間を誇張していた。
そのままソファに沈み込み、両手で顔を覆う。指の隙間から零れる息が少し震えている。何かを失ったわけじゃない。ただ、声が届かないというそれだけで、世界が静かに軋む。しばらくして、スマホが小さく震えた。その瞬間、心臓が一気に跳ね上がった。画面には紛れもなく彼女の名前。

ごめん!お風呂入ってた
出ようとしたら切れたの
短い文字列なのにその文を見た瞬間世界が息を吹き返したようだった。まるで生き物みたいに、空気がやわらかくなる。俺は笑いながら、返信を打つ。

無事でよかった

俺、三回くらい

寿命縮みました

そんなに心配してたの?

当たり前でしょ

名前さんの声がないと
呼吸の仕方忘れる仕様なんで

大げさ(笑)

でも本気です
少し間をおいて『既読』の文字の下に、新しいメッセージが現れた。その一文を見た瞬間、胸の奥の何かが音を立ててほどけた。俺は急いでまた通話のマークを押した。二、三回の呼び出し音のあと、彼女の声が聞こえる。
『啓悟くん』
その一言で世界が戻ってくる。耳鳴りのように広がっていた静寂が遠ざかっていくのがわかる。名前を呼ばれるたび心臓の拍動が呼吸のリズムを思い出す。さっきまで、自分がどれほど浅い呼吸で耐えていたのかを、その瞬間になって知る。
「ずるかぁ……そげん『会いたい』なんて——」
『ははは。ごめんね、啓悟くん』
「……あー、やばい。もう、無理。やっぱその声反則」
『えぇ?……なに、それ』
「いや、ほんと。名前さんの��啓悟くん�≠セけで一日ぶんは生きられるけん」
言葉にしてしまってから、少し、照れが遅れてくる。けれど誤魔化す気にはなれなかった。画面の向こうで、彼女が小さく笑っているのが、声の揺れだけでわかる。その笑い声が冷えかけていた部屋の空気を、またゆっくりと温めていく。
『じゃあ、あと三日、がんばって』
「……はい。でも、その代わり」
『うん、その代わり?』
「明日も��名前�≠ュださいね」
『名前くださいって……なんか変なの』
「いいんです。名前、欲しいんで」
欲しい、と言ってしまった自分に、変な安堵が広がる。強がらなくてもいい夜だと、彼女の声が教えてくれている。
『はいはい。啓悟くん、おやすみ』
「名前さん、おやすみなさい」
通話が切れる。それだけのことなのに、部屋の中に彼女の声の残響が漂い続けている気がした。耳の奥に、胸の内側に、まだ微かに振動が残っている。俺はその余韻を壊さないように、深く息を吸い込む。すると、その瞬間だった。手元でまたスマホが光る。

ごめんね。
心配させて
その一文を見た途端、胸の奥で、固く結ばれていた何かが、音を立てずにほどけていく。ああ、この人は、ちゃんと自分の言葉が残した影を見ている。笑って別れたあとでも、気づいてしまう人なのだと、改めて思う。

謝らなくていいですよ

むしろ今日も声聞けたから

もう充分です
送信して、画面を伏せる。彼女のいない夜は、やっぱり静かすぎる。羽根を撫でる風も外の音もどこか、遠回りに感じる。けれど、その静けさの奥には確かに彼女の声が生きていた。名前を呼ばれた感触。笑い声の温度——通話が切れたあとに残る、呼吸の記憶。
三日目の夜はそうして、何も足さず何も削らず静かに終わった。それでも胸の奥には明日へつながる、確かな余熱が残っている。