【 四日目——。】

 6時40分。朝の光がカーテンの隙間から滲み込むよりも早く、俺は目を覚ましていた。
 アラームが鳴るには、まだ数分あるはずなのに身体のほうが先に、朝を知ってしまったらしい。まどろみの名残を抱えたままゆっくりとまぶたを開く。シーツの感触。毛布の重み。夜の名残りをまだ含んだ空気。そして、隣に——。

「……名前さん、ぎゅーして……よか?」

 考えるより先に言葉が零れた。その直後右隣の空間がひどく冷たいことに気づく。温度がない。呼吸も寝返りの気配もない。俺は顔を横に向けたまま、しばらく黙っていた。枕がほんの少しだけへこんでいる。その微かな痕跡が、余計に苦しくなる。
 そこにいるつもりだった。朝はいつも何も考えずに手を伸ばして寝ぼけた彼女が小さくうなずくのを見る——そんな日常が、当然のように続くと思っていた。

「……いないって。何やっとーとや、俺」

 低く呟いて、ゆっくり上半身を起こす。シーツの皺も、残った香りも、まだ彼女がいた証みたいで胸の奥がじんと熱を帯びる。
 離れて四日目。たったそれだけなのに朝はもうこうして裏切ってくる。寝室を出ようとしてふと足が止まる。何気なく振り返り誰もいないベッドを見てから、俺は小さく息を整えた。

「……おはようございます、名前さん」

 目を閉じたまま、空間に向かってそっと言う。声に出すだけで少しだけ心が落ち着く気がした。そこに返事がないことを今はまだ、静かに、受け止められる。その瞬間だった。スマホが、微かに震える。枕元に置いたままの画面が光り、そこに愛しい彼女の名前が浮かび上がった。

「ゎあ……っ」

 声が喉に引っかかる。思わず片手で口元を覆った。反射的にスマホを掴んで、急いでキッチンへ向かう。背中の羽根がばさりと広がり、コーヒーメーカーに手を伸ばし、カップを取り出して水を注ぐ。
 何かしていないと心臓の鼓動がうるさすぎた。通話ボタンを押す直前に、深く一度、息を吸う。何もなかった顔を作る。それは彼女を安心させるための癖だ。

「……おはよう、ございます」
『おはよ……あ、起きてた?』

 聞こえてきた声に胸の奥が緩んで思わず笑ってしまいそうになったが、それを必死に抑え込む。

「はい。ちょうど、今」
『よかった。起こしちゃったら、どうしようかと思って』
「大丈夫ですよ。いつもこのくらいですし」

 嘘ではない。でも理由は言わない。さっきまで隣にいないことを受け入れきれずにいたなんて。

『でも、まだ眠そうな声してるね』
「……それは、まあ。朝ですから」

 軽く笑ってみせる。羽根を畳み、コーヒーが、こぽこぽと落ちる音を聞きながらいつもの調子に戻る努力をする。画面越しに彼女がこちらを覗き込む気配がする。

『ちゃんと、寝てる? 毎日順調?』
「ええ……あなたがいない以外は」

 言ってから少しだけ間を置く。冗談に聞こえるかどうか、その境界を探るような沈黙。

『……もう』
「すみません。朝っぱらから」

 彼女の小さな笑い声が、朝の空気をやわらかくする。それだけで、この朝はどうにか乗り切れる気がした。

「……今、コーヒー入れてます」
『うん、聞こえる。朝からちゃんとしてるね』
「あなたと話す日は、ちゃんとします」

 言い切ってから、胸の奥で小さく笑う。こんなふうに理由をつけて生活の輪郭を整える自分が、少し可笑しくもあり少しだけ誇らしくもあった。

『ホークスの、今日の予定は?』
「午前中に数件ほど任務が。あとは移動ですね」
『そっか。無理しないでね』
「それ、俺の台詞じゃないです?」
『今日は、私が言う番』

 声の端に混じるかすかな眠気が、画面越しでも伝わってくる。朝の彼女は夜よりも少しだけ無防備で、そのぶん胸に触れる。コーヒーが落ちきる音を聞きながら、俺はカップを手に取る。湯気が立ち上り、目の前が一瞬だけ霞む。

「……ちゃんと、朝ごはん食べてます?」
『今から。そっちは?』
「これからです。あなたに、確認されてからじゃないと」
『なにそれ』
「儀式です」

 笑い合う声が朝の空気を柔らかくしていった。
 そして、四日目の朝はこうして始まっていく。隣に彼女はまだいない。それでも声がある。それだけで、今日も生きていける気がしてしまうのが少し悔しくて、でも、悪くはなかった。

『そろそろ、準備しなきゃ』
「……はい」
『夜、また電話しよ』
「約束ですか?」
『うん。約束』

 その一言で胸の奥が静かに整う。通話の終わり際に多くを言わないのは、名残りを引きずらないための、互いの知恵だ。

「じゃあ……今日も一日、がんばりましょうね、名前さん」
『うん。ホークスも、気をつけて』
「はい。……声、ありがと」
『いいえ、どういたしまして』

 通話が切れる。部屋に残ったのは、コーヒーの香りと彼女の声の余熱だけ。俺は、それを逃がさないように、ゆっくり息を吸った。彼女に届け、じゃなくて、彼女の癖を俺の中に刻みたいんだ。朝に交わす短い言葉の抑揚、間の取り方、最後に少しだけ声の調子が下がるところ。全部、覚えておきたい。

「……あと何回、こうやって朝を迎えればいいんやろ」

 目をこすってまるで子どもみたいに小さな声でぽつりと漏らす。答えが返らないことは、わかっている。それでも、言葉にしてしまうくらいには、静けさが身に染みすぎていた。

「ほんと……はやく会いたかぁ」

 窓の外は、よく晴れている。光はまっすぐで、雲ひとつない。それなのに、心だけが少し曇っているのが、自分でもはっきりとわかった。
 俺はマグカップを両手で包み込み、その温度に今日一日を預けることにした。夜になれば、また声がある。そう思えるだけで、この朝はどうにか終えられる。


 *


 昼の任務は、順調だった。カメラにも、笑顔を見せたし、ヒーロー仲間とも、冗談を交わせた。それなのに夜になると急にすべての音が遠のく。
 毎晩の電話が、日課になっていた。画面越しに聞こえる彼女の声は距離の向こうで暮らしているという現実を優しく包み込むようにして和らげてくれる。

『……ねえ、ホークス。ちゃんと寝てる?』
「寝てますよ、ほら、こうして通話中も、まぶた重たいです」
『それ、寝不足の人が言うやつね』
「だってさ……あなたがいないベッド、温度設定、間違ってるみたいなんですもん」
『もう……また、そんなこと言って』
「言いますとも。俺、今、愛の欠乏症ですから」

 声が重なって笑い合う。その短い時間だけは、世界が元の色を取り戻す。けれど通話を切ったあと静寂がすぐに戻ってくる。その静寂の深さがまるで海みたいだなと思った。息をすれば沈み、声を出せば泡になる。
 窓の外、夜風がビルの谷間をすり抜ける。その音に耳を澄ませながら俺は一人ベランダに出る。夜の空気は冷たく澄んでいて、街の灯りが点々と広がっている。そこに彼女がいる気がした。遠くの風景のどこかに、同じ星を見ている彼女が。

「……会いたかね。」

 誰にも聞こえない声で小さく呟く。その声が、風にさらわれていくのを見送る。空はこんなにも広いのに、彼女のいない夜はどうしてこんなにも狭いんだろう。眠れない夜はベッドに横たわっておもむろにスマホの録音アプリを開く。彼女に、何度も頭を下げて送ってもらった音声メッセージを再生する。

 『——おやすみ、啓悟くん。』

 その一言を聞くだけで、心臓がゆっくりと動き出す。彼女の声が消えたあとも、スマホを胸の上に置いたまま目を閉じる。まるでそれが彼女の手のひらみたいに思えるから。そうして俺はようやく眠りに落ちる。羽根の重みを感じながら、彼女の名前を心の奥で何度も呼びながら。
 彼女が不在の一週間が、こんなにも長いとは、思わなかった。けれど寂しさの中に確かにある。��恋をしている�≠ニいう実感が——。


【 五日目——。】


 もしもこの日をドラマに仕立てるならきっと、題名は『彼女不在につき、ホークス不調』だとかそんな、少し意地の悪い見出しが与えられるのだろう。笑い話の体裁を借りなければ扱えない程度には、俺の不調は、わかりやすかった。

 東京——。
 冷たい硝子の塔のように聳える公安本部のビルは、いつ足を踏み入れても、空気が乾いている。無機質な白壁と金属質の匂い。ここに来るたびに俺は自然と翼を畳むことを意識させられる。ヒーローの姿でありながら、もっとも自由から、遠い場所だ。
 呼び出されたのは定例の報告会。机の上には、任務記録と進行中のケースファイルが無数に積み重なっている。それを眺めながら、俺は無意識にため息をついた。紙の匂いに紛れてどこか遠くにいる愛しい人の匂いの気配を探してしまう自分に軽く苦笑した、そのとき。

「なあ、ホークス」

 背後から投げられた声に、肩越しに振り向く。壁際に寄りかかり、腕を組んで笑っているのは、ミルコさんだった。銀色の髪が蛍光灯の光を弾きその存在そのものが、場の空気を一段階上げる。

「おまえ最近、彼女シックひどすぎじゃねーか?目の下の隈、だいぶ来てるぜ」
「眠れてないだけっすよ。なんすかその症状名」
「一週間、家出したんだろ?」
「あーもう。それ、ファットさんでしょ。何でもかんでも、すぐ広めるんだから」

 片手をひらひら振って受け流す。けれど、否定の力は弱い。図星に近い言葉ほど軽く扱うしかないのが悔しい。

「わはは!ヒーローの情報網甘く見んなよ!彼女ショックヒーローって、もうあだ名ついてんぞ」
「違いますって。彼女欠乏症って呼んでくださいよ、もう」
「おいおい、それもう、大病じゃねーか」
「ええ。重症っすね。でも治療薬が……」

 言いかけて、言葉を選ぶ間が生まれる。ミルコさんは目をまん丸くして続く言葉を待っている。

「……おやすみの声、だけなんす」

 口にしてから、わずかに、照れが遅れてやってくる。けれど、引っ込める気にはなれなかった。事実は、どう取り繕っても変わらないので。
 ミルコさんは「はぁ……」と額に手を当てた。その仕草に混じるのは軽蔑でも嘲笑でもなく面倒見のいい諦観だ。そのとき、廊下の向こうから、もう一つ、声が重なる。

「なんですかそれは。映画化にしましょうか?」

 資料を抱えたまま現れたのは目良さんだった。無表情のままこちらを一瞥し、鼻で小さく笑って肩をすくめる。

「彼女ショック・ザ・ムービー。主演ホークス。内容は、救助ゼロ、スマホ連打三百回」
「ちょっと〜、誰がそんな脚本書いたんすかぁ?監督、公安の監視カメラでしょ絶対」

 冗談を返しながらも、心の奥で苦笑していた。ほんと否定できない。今の俺は彼女の通知一つで心拍数が上がる、極めて単純な構造だ。

「恋愛体質のヒーロー、というのも新鮮ですね」
「任務中にまで、愛の後遺症とか言い出すんじゃねーぞ?」

 ミルコさんの声に目良さんがくぐもった笑いを漏らす。俺は頭を掻き、手元のコーヒーを、ひと口含んだ。舌に残る苦味が、はっきりとした輪郭で彼女の淹れてくれるコーヒーを、思い出させる。同じ苦さなのに味が違う。温度も余韻も、そこに込められた時間も。カップの中を覗くと黒い液面に自分の顔が薄く映る。笑っているようでどこか疲れている。仕事用の笑顔と彼女の前でほどける笑顔は、似て非なるものだ。この部屋の照明は、後者を許さない。目良さんが去ったあと、ミルコさんは肩をすくめたまま俺を見た。その視線にはからかいよりも、見守るような色が強い。
 不調は、否定しない。ただ、それでも前に進むしかない。彼女が戻るその日まで俺はこの乾いた場所で翼を畳み、折れない程度に耐えるのだと、胸の内で静かに言い聞かせていた。

「ま、でも悪くねえ顔はしてるぜ」

 ふいに投げられた声に、意識が引き戻される。ミルコさんは腕を組んだまま、俺を、値踏みするみたいに眺めていた。からかいの色は薄く、その視線には戦場をいくつも越えてきたヒーロー特有の、落ち着いた距離感がある。

「え?」
「愛に生きる奴の顔だな。それもなかなかいい。昔のヒーローも、だいたいそうだった」

 意外な言葉だった。あのラビットヒーローらしからぬ、重みのある声音。胸の奥で、張りつめていた空気が、ほんの少しだけ緩む。

「……愛、っすか」
「ああ。古い教訓だけどな。愛があるやつは結局強ぇ」

 一瞬、言葉に詰まる。強さと愛を、同じ文脈で語られることに、まだ慣れていない自分がいる。それでも、否定する気にはなれなかった。

「ま、いない間に弱るようじゃ帰ってきたときに倍返しで頑張るしかねぇな」

 その言い方が、叱咤というよりも、先の景色を示す合図のように聞こえて、思わず口元が緩む。

「倍返し、ね。俺、たぶん千倍いけます」
「……あーあ、もう末期だな、それ」
「そうそう。末期すよ、末期」
「せいぜい、死に別れしねぇよーにな!」

 両手を挙げて笑うミルコさんの声は豪快なのにどこかやさしい。呆れと理解が、同じ比率で混ざっている。その笑いに背中を押されるように胸の奥の重さが、わずかに位置を変えた。

 報告会が終わり建物を出る。夜風に触れた瞬間肺の奥まで空気が流れ込み昼間の乾きが洗い流される。
 東京の空は高く、街の灯が遠くで瞬いている。その一つひとつが、彼女の住む街へと、見えない線でつながっているように思えた。ジャケットの裾が風に揺れ羽根を広げてビルの縁に立つ。風の匂いを吸い込むとその中にごく微かな懐かしさが混じっている気がする。記憶が勝手に香りを補っているだけだとわかっていても、それを否定する理由はなかった。

「……もうすぐ、会える。」

 小さく呟いた声は、夜の喧噪に溶けて消える。けれど風だけは確かに応えるみたいに羽根の先をやわらかく撫でていった。
 この時間になると部屋の灯りがやけに白く感じられる。光の温度が低い。いや、冷たいわけじゃない。ただ、その光の下に、彼女がいないという事実が色彩のすべてを、少しずつ鈍らせてしまうのだ。昼間は風を切って飛びながら、ずっと同じことを考えていた。
 あと二日。たった二日。そう自分に言い聞かせ夕焼けの空とその言葉のあいだを何度も往復していた。けれど夜が来ると時間は、別の速度を持ち始める。待つという行為だけが重く長くはっきりと意識に浮かび上がる。それでも。この渇きは、再会のための前触れだと、今は信じていたい。


 *


 任務を終えた帰宅は夜の二十二時を少し過ぎていた。救助現場のアラートが連続で入り、最後の報告書に署名をする頃には、街のネオンがまるで遠い惑星の光のように見えていた。指先にはまだ埃と焦げた匂いが残っていて、それを洗い流しても、心の奥の疲れまでは落ちなかった。
 玄関の灯をつけて、靴を脱ぐ。ただいま、という言葉が喉まで出かかったけれどそれを口にしても返ってくる声がないのを知っている。その沈黙がもう夜の一部になりかけていた。
 リビングのソファに体を沈め手の中のスマホに目を落とす。液晶の光が室内の淡い闇を切り裂き、その小さな光が、今夜いちばん眩しい。
 声が聞ければそれで癒される。ただそれだけの願いで、指先が発信ボタンを押した。

 ——発信中……。3コール。4コール。5コール。出ない。あれ?と思って、もう一度かけ直すが、やはり出ない。胸の奥で、何かがゆっくり沈んでいく。

『おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか——』

 その無機質な声が、まるで他人の心音みたいに冷たく響く。それが今夜の��代わり�≠ノは、ならなかった。

「……そっか。電波、ないのか」

 言い聞かせるように声に出してみる。その声があまりにも頼りなく笑っている。笑い声の奥に、ひどく小さな痛みが混じっていた。
 スマホを手に持ったまま、ベッドに倒れ込む。天井の明かりは消してあるのに、目を閉じても、明るく感じるのは、きっと疲れと寂しさの境目にいるからだ。
 しょうがない、こういう日もある。そう思おうとする。そう思うしかない。けれど彼女がいないことと彼女の声すら届かないことはまるで違う。前者は孤独で、後者は喪失だ。今までは、通話の最後に聞こえる「おやすみ」で、救われていた。それさえあれば眠ることも、明日を迎えることもできた。けれど今夜はそれがない。たった一言がないだけで、世界の重心が少し傾く。
 無意識に、右隣のシーツへと手が伸びた。そこには当たり前に誰もいない。けれど、掌は確かに何かを求めるように動く。指先が空気を掴むようにしてやがてシーツの端をかすかに引っ張った。その布の皺の向こうにかつて眠っていた温もりの記憶がまだ残っているような気がした。

「寂し……」

 つぶやいた声は驚くほど脆く儚かった。それを聞いた自分自身が驚くほど、人間らしい音をしていた。羽根を広げゆっくりと自分の身体を包む。そのまま小さく、小さく丸まる。まるで寒さから逃げるようにして。もしかすると孤独というのは冷たさの形をしているのかもしれない。

「……声、聞きたかったです」

 その一言は、部屋のどこにも届かずに溶けた。それでも、言わずにはいられなかった。目の奥が熱くなる。泣くほどのことじゃないと思う。それでも、体が勝手に反応する。呼吸が浅くなるたび胸の中で、彼女の名前がかすかに光る。
 俺、こんなに弱かったっけ。トップヒーローが聞いて呆れる。苦笑した。その笑みが涙の温度で震えた。天井を見上げながらまぶたがゆっくりと閉じていく。けれど今夜は、どんなに眠っても、彼女の夢を見られる気がしなかった。

 眠りに落ちる瞬間、遠くの風が、窓を叩いた。その音が、まるで、誰かが俺を呼んでいるように聞こえた。
 あの声が、明日は届きますように。祈るように息を吐きながら羽根の中で俺はひとりの夜をやり過ごした。深く眠ることはできなかった。夢と、現実の境目を彷徨いながら彼女の声の残響を探し続けていた。


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