【 六日目——。】
6時20分前。この日もアラームの鳴る前に、目が覚めた。眠りは浅く夢は曖昧で心はまだ夜の途中にいた。カーテンの隙間から差し込む光が天井を淡く照らしている。その光をぼんやりと眺めながら小さく息を吐く。
「……声、聞けなかったなぁ」
自分ひとりしかいない寝室に、昨夜の静けさがそのまま残っていた。空気が動かない。時間さえまだ眠っているようだった。枕元にあるスマホを手に取る。画面の明かりが、薄暗い部屋の空気を切り裂くように灯った。スリープを解除すると、一件の通知が目に飛び込んでくる。
【名字 名前
ボイスメッセージを送信しました】
その瞬間、心臓が躍った。指先が一瞬止まり、呼吸が浅くなる。まるで、生き返る前の、一拍の静止。慌てて再生ボタンを押した。耳元にスマホを当てた瞬間、空気の粒が震えて音になる。
『ホークス、おはよ。昨日は、電波がなくて……ごめんね。ちゃんと寝られた? 少しでも休めてたらいいな……今日は声、ちゃんと届けたくて。明日会えるからそれまでがんばって、ヒーロー』
その声が夜の名残を一瞬で吹き飛ばした。ただの十数秒。けれど、それは世界を変えるには十分すぎる時間だった。胸の奥で、一気に何かがほどける音がした。
「ずるいですってぇ……そんな、声……」
呟いた瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。笑ってるのに泣きそうで、いやもう、泣いていたのかもしれない。顔を両手で覆ってしばらくそのまま動けなかった。昨夜どれほどその声を求めていたか、その一言一言がまるで、心臓の底に差し込む光のように染みてくる。
「おはよう」という声。たったそれだけで夜の長さを赦せる気がした。スマホを胸に抱きしめて息を吸う。その中に彼女の気配が混ざっている。心臓の鼓動と重なって、まだ耳の奥で、あの声が響いていた。
「……よかった。無事で、元気で。声が届いて」
言葉が無意識のうちに、勝手にこぼれていく。涙が頬を伝う前に、笑いが少しだけ先に溶けた。
「好いとーなあ……ほんとに、……どうしようもないくらい」
その言葉は、誰に聞かせるでもなく、ただ朝の光の中へと静かに流れていった。カーテン越しの風が羽根を撫でる。まるで「届いたよ」と返してくれるように——。
コーヒーを淹れる。湯気が立ちのぼるカップの中に今日だけは世界が優しく映った。香りが部屋に満ちて彼女の声と混ざり合う。スマホから何度も再生される「おはよう」がまるで呼吸みたいに響く。そのたびに、心が温まっていく。
あと少し。あと少しでこの声が体温に変わる。そう思うだけで、この朝の光が、少しだけ眩しくなった。カップを両手で包み込みながら俺は静かに笑った。その笑顔は、六日ぶりにヒーローではない自分を取り戻した人間の顔をしていた。
その日の午後。空気は季節の変わり目の気配を孕みながら透明の色をしていた。風を切って飛ぶと街の匂いが少し冷たく、まるで世界そのものが静かに呼吸を潜めているように感じられる。
任務と報告と打ち合わせ。それらをひとつずつ終わらせていく間、時間は粛々と流れていくのに心の中ではずっとひとつの時計が、彼女の帰る日までの残り時間を刻み続けていた。
あと一日。たった一日。そのたった一晩が耐えられない。でもそれが永遠にも感じるのが、恋というやつなのだろう。
センターでの午後の会議を終え白い廊下へ足を踏み出したとき、建物特有の乾いた空気が、肺に触れた。壁に反射する照明、足音の反響、遠くで交わされる声。ここはヒーローのための人が集まり、別れ、そして、また次の現場へ送り出されていく場所だ。その通路を歩いていると、すれ違うスタッフたちの笑い声が、ふいに耳に届いた。
「今日の所長さ、やけに静かだなーと思ったら。なるほどねぇ」
その声の方向に軽く目をやると、司令係の女性たちが、タブレットを抱えて談笑している。ひそひそ声のつもりなのだろうが俺の剛翼はそういう微細な音を拾うのに、あまりにも優秀すぎる。
「名字さんと一週間の遠距離だからねー。けなげだねぇ、トップヒーロー」
「え、やっぱりあの二人って、そういう関係?」
「じゃないの?もう噂っていうか完全なる事実」
「てか、けなげっていうより……生存、ギリギリって感じ?」
……好き勝手言いやがって。聞こえないふりをして歩き続けるけれど背中の羽根がわずかにぴくっと反応した。ああ、もう。ほんと、この個性、感情に正直すぎる。
廊下の突き当たりで自販機の前に立ちブラックコーヒーを一本取り出す。プルタブを引くと、炭酸ではないのに小さくプシュと音がして、その音がやけに心地よかった。缶を唇に当てて苦みが舌に広がるその瞬間、脳裏に浮かぶのはやっぱり彼女が淹れてくれたあの朝のコーヒー。あれはどんな豆を使ってたっけ。俺あのときちゃんと味わってたかな。もうすっかり��欠乏症�≠チて呼ばれても仕方ないな。
笑ってみた。けれど笑いは少し遅れて胸の奥に沈んでいく。彼女のいない六日目のこの地は風も音もすべてが少し鈍く感じる。周りが同じように動いているのに、自分だけがわずかにズレているような気がした。
仕事は完璧にこなす。報告も、救助も、判断も。けれどその完璧さの裏で心のどこかにぽっかりと穴が開いているのが自分でもわかる。
「——所長。今日の現場対応、無茶しすぎです」
背後から声がして振り返ると。センターの若い男性が書類を抱えながら小走りに近づいてくる。
「え? そうです?」
「はい。午前の案件、到着から完了まで約七分。普通、あれ三十分コースですよ」
「あー、それね。風の流れが良かっただけです」
軽く肩をすくめて笑ってみせる。本当は違う。ただ何かをしていないと落ち着かないだけ。じっとしていると心の中で彼女のいない時間が響いてしまうから。若い補佐官は、首を傾げて苦笑しながら去っていった。その背中を見送ったあとふと窓の外に目をやる。遠くの空に小さく光る飛行機が見えた。もしかしたら、あの中に彼女がいるのかもしれない。まだ帰る日じゃなくてもあの空のどこかで、同じ風を感じているのかもしれない。そんなことを思ってしまう自分に、少しだけ苦笑した。
明日。明日になれば、この風の匂いが、彼女の髪に触れるはず——そう思うだけで最後の今日という一日が少しだけ持ちこたえられる気がした。
日が傾き、窓の外の色が、ゆっくりと変わっていく。午後の喧騒が遠のき事務所の中にも仕事を終えた者たちの静かな気配が残るだけになる。
キーボードの音が途切れ椅子を引く気配がして世界は少しずつ夜へ席を譲っていった。
夜——事務所の窓辺に立ち、街の灯を見下ろす。ビルの谷間に生まれた風が光を縫うように流れ、遠くの街の方角へと抜けていく。その流れに彼女の名前をそっと混ぜて、声にならないほど小さく呟いた。
「……名前さん、早く帰ってきてくださいね」
声に出した瞬間、胸の奥に小さな痛みとそれに似たあたたかさが広がった。六日目の風はどこか甘い匂いがしていた。それはきっと彼女の帰りを予感する風だった。
*
帰宅して、ドアを閉めた瞬間——鍵の回る音がやけに大きく響いた気がしてその余韻が消えきる前に俺はリビングの床へ倒れ込むように身を投げ出していた。
冷たいフローリングに背中が触れ、現実に引き戻される。スマホを胸に抱きしめるとそこだけがかろうじて、温度を保っているようだった。
「……明日。明日、帰ってくる……」
声にすると、ようやく実感が追いついてくる。
「——生き延びたァ、俺ェ……!」
情けないほど正直な言葉が天井に吸い込まれていった。そのままの姿勢で、スマホのアラームを確認する。六回ほど。念のためもう一度。指先が疑り深く、忙しなく画面をなぞる。『絶対に寝坊しないモード』に切り替えた途端に、羽根の一枚一枚がわずかに落ち着きを失うのが自分でもまざまざとわかった。まるで明日の再会を前に、先に気持ちだけが跳ね出してしまったかのように。
一秒が長い。一呼吸が、そのまま時間になる。壁の時計が一分を刻むたび、胸の奥にある何かが微かに軋む音を立てる。
シャワーを浴び髪を拭きながらふと鏡を見る。頬のあたりが、少しだけ削げたような気がした。光の当たり方のせいだとわかっていても、視線はそこに留まる。口元を持ち上げて、無理に笑ってみせる。
「……大丈夫。」
誰に向けた言葉でもない。ただ自分をその場に立たせるための呪文だ。けれど部屋に戻った途端その笑顔は簡単に剥がれ落ちた。ベッドの上には六日前から抱いて寝ている抱き枕。買ったばかりなのにもうすでに少しだけ形が歪んでいる。無意識に、力を込めていた証拠だ。手に取ってみる。軽い。匂いがしない。体温が残らない。当たり前のことなのに、その当たり前が胸に刺さる。
スマホを手に取り、通話履歴をなぞる。昨日、彼女が笑ってくれた時間が数字として残っている。二十五分。たったそれだけ。でもこの部屋に残された唯一の、あたたかい記録だった。
指が勝手に動く。考えるより先に通話ボタンを押していた。数秒後、あの愛しい声がまた部屋の空気を満たす。
『……もしもし? どうしたの?』
彼女の声を聞いた瞬間、胸の奥に溜まっていた空気が、一気に外へ流れ出す。まるで深いところから、ようやく浮上したみたいな感覚だった。
「今、寝室で名前さんの代わりに抱き枕抱いてんですけどね?」
『え、なにそれ。ちょっと怖い』
「あなたが出発した日に、速攻で買ったんすよ、アマゾンで」
『……う、うん?』
「全然ちがう。匂いもしないし、柔らかさも違うし、何より……あったかくない」
スマホをスピーカーにして、ベッドの上で転がる。わざと、声を少し大きくして、軽口みたいに仕立ててみせる。すると、スピーカーの向こうで彼女が小さく笑う音がした。
『抱き枕に、そんな文句言う人、初めて聞いた』
「だって……完敗ですよ?」
天井を見上げる。夜の光が、ぼんやりと滲んでいる。
「俺の一日の終わり、全部あなたでできてたんだなって、今さら気づきました」
声がわずかに掠れる。笑って誤魔化しながらも喉の奥が少しだけ熱い。
「ねぇ、名前さん」
『なぁに?』
「『ただいま』って、言ってみてもらってもいいです?」
『え? なにそれ?』
「今日、帰ってきたふりして。玄関のドア開けて『ただいま』って」
『えー?』
「いいじゃないすか。俺たぶん、それで寝れる」
少しの間があって彼女の息づかいがスピーカー越しに微かに聞こえた。その沈黙さえ今の俺にはやさしく響く。言葉が来る前の呼吸だけの時間。そこに彼女が生きているという事実が、なにより真実だった。次の瞬間、柔らかく、それでいて、間違いなく俺だけに届く声が——。
『……ただい、ま?』
胸の奥で、何かが音を立てて崩れる。
「……うわ。もっかい」
『ただいま、啓悟くん』
その名前を呼ばれた途端に心臓が強く脈を打つ。視界が滲み息が詰まる。声に含まれた温度がそのまま血流に流れ込んでくるみたいだった。
「っ……やば……泣きそぅ……」
言いながら、本当に涙がこぼれそうになって、慌てて枕に顔を押しつける。情けないくらいに、彼女の声ひとつで、世界の均衡が崩れてしまう。それでも恥ずかしいとは思わなかった。むしろ、こうして揺れる自分を今夜は否定したくなかったから。
『ねぇ、泣き虫ヒーローの啓悟くん』
「……はい」
『ちゃんと食べてる? 眠れてる?』
「……食べてますし寝てますよ。でも、あんまり味がしないし夢にあなたが出てこないからたぶん不良品ヒーローです、俺」
『……バカ』
短い一言のあと、彼女が笑う。その笑い声が、あまりにもやさしくて、思わず目を閉じた。
まぶたの裏で声が光の粒みたいに散っていく。触れられないぶん、音だけが鮮やかに残る。
「……明日、帰ってくるんですよね?」
『うん。お昼には戻るよ』
「ほんと?嘘じゃなか?帰ってくると?絶対?」
自分でも呆れるほど、確かめるように繰り返す。子どもみたいだとわかっているのに、どうにも、止められない。しかし『うん。ぜったい』とすぐ返ってきたその即答に胸の奥が静かに落ち着く。
『ホークス』
「はい?」
『おやすみ電話、今日で最後だね』
「ううん。もうずっと続けましょ。どんなに近くにいても、毎晩あなたのおやすみを聞いてたい」
『え? そばにいるのに電話するの?』
「ええ。そういうこと」
スピーカー越しに、彼女が小さく鼻を啜る音がした。その微かな音を今日の俺はどうしても聞き流すことができなかった。
「泣かんで」
『泣いてない』
「うそつき。……帰ってきたら、おかえりって、ちゃんと一番に言わせてくださいね」
『……うん。約束ね』
「約束」
その言葉を最後に通話の向こうが静かになる。切れた後も彼女の声は耳の奥に残り続けていた。天井を見上げる。そこには、さっきまでの彼女の言葉が、浮かんでいた気がする。『ただいま』という音だけが、まだ、空気の中を漂っている。
そしてその夜。結局俺は、スマホのほかにも、目覚ましを五つセットした。彼女に一秒でも早く会うために。「おかえり」を一番に言うために。
「ただいま」と言ってくれた音が、ゆっくりと部屋の空気に溶けて、その温もりがようやく心の底まで届いていく。彼女のいない世界で、俺は、彼女の声だけを抱いて眠った。