皆、ヒーローを欲しがっているだけだと思う。世界を変える奇跡そのものではなく、ただそこに「そういう存在がいる」と信じられる事を願っている。恐怖のただ中で、人はときどき現実よりも先に、希望の形を思い描いてしまう。誰か特別な人間が現れて鮮やかにすべてを解決してくれる。そんな物語のような出来事を、どこかで期待してしまう。
理由は単純。そういう存在がいると、気分的に救われるから。恐怖の最中でも誰かすごい人間がいて、そして、その人物が素晴らしい奇跡を起こしたと思いたいだけ。けれど、ヒーローだって、神様ではない。スーパーマンでもない。空を飛ぶことができても、炎を操れても、結局は私たちと同じ、一人の人間にすぎないのだと、ここで働くようになってから私は、何度も思い知らされた。
多くのヒーローにとって��ここ�≠ヘ、怖い場所だと思う。常に緊張感があり、嫌な記憶が、積み重なる場所。通信を受信するたびに胸のどこかが軋むような、そんな場所。だからヒーローが好む場所といえば多分、教会や神社。あるいは学校、もしくは、家。祈りがあって日常があって、帰る理由が、はっきりしている場所。
けれど、私はここで育った。ヒーロー緊急支援センターで人の痛みや、悲しみを知った。怒りや恐怖、どうしようもない後悔が声や沈黙になって溢れるのをずっと見てきた。その一方で、休憩室では、湯気の立つ紙コップ越しに人の優しさや、愛に触れた。誰かが誰かを気遣う仕草や、無事を確かめ合う声が静かに息をしている場所だった。
この国を守るヒーローたちの名前は、暗記したわけじゃない。息をするのと同じくらい自然に、生活の一部として、身体に、染み込んでいった。
ヒーロー緊急支援センターは、私にとっての、祈りの場所であり、聖地だった。学び舎であり、家でもあった。傷ついた心を癒やし合い少しだけ休んでまた歩き出すための、安全な場所。安息の地。そして——あのヒーローと、出会った場所。だから私はここが好き。怖いことも悲しいこともたくさん、知っている場所だけれど。それでも、確かに人が人でいられる時間が、ここにはあったから。
*
夜勤の時間帯というものは、不思議な静けさを湛えている。昼間の喧騒が嘘のように引いてしまったオフィスには、壁一面に並ぶモニターの光と機械が吐き出す微かな電子音だけが、淡く漂っていて、まるで海の底に沈んだ街のようだと、私は時折そんなことを思う。光だけがゆらめき、人の声は遠く、何かが起こる瞬間をじっと待ち続けている場所。
けれどその静けさは、決して安らぎではなく、むしろ、嵐の前の水面のように、わずかな振動を孕んだまま、いつでも、波立つ準備をしている。ここでは穏やかに見える時間ほど、どこか不穏な張り詰め方をしているのだ。
ヒーロー緊急支援センター。ここでは、誰かの人生がほんの数秒の判断で分岐する。私はヘッドセットを軽く押さえながらモニターを流れていく通報履歴に目を走らせていた。文字の列が淡々と並び、時刻、住所、案件種別——出動ヒーロー。画面の中ではすべてが整理された情報として処理されているけれど、その一つ一つの裏側には必ず誰かの声と、呼吸がある。そして今日に限って、その声があまりにも多い。災害案件が重なりすぎているのだ。沿岸部では台風の余波で土砂崩れ。都内では個性暴走による火災。さらに別区域ではビルの外壁崩落。ヒーローたちは、すでに各地へ散っていて、モニターの地図上には、出動を示すアイコンがいくつも点灯している。それぞれが、別方向へ移動していた。
センターの室内は静かなのに見えないところで何本もの神経が、引き絞られているような気配がある。この静けさは疲労にも似ている。皆、声を荒げるわけでもなくただ黙々とキーを打ち続けている。それでも空気はどこか重くほんの少しでも状況が傾けば一気に崩れてしまいそうな張りつめ方をしている。
そのとき、耳元で電子音が一つ鳴った。新規の通報だ。ほんの一瞬、胸の奥に、薄い緊張が滑り込む。それは恐怖というより、身体に染み込んだ反射のようなもの。私は指先を動かし通話接続のボタンを押した。
「ヒーロー緊急支援センターです。事故ですか、事件ですか」
その声はいつも通りの調子だったと思う。落ち着いた速度、穏やかな抑揚。通報の最初の数秒で相手の呼吸を整えること、それがこの仕事の基本だ。こちらが焦れば、向こうはさらに混乱する。
数秒の沈黙のあと『……あの、』と、受話器の向こうから男性の声が聞こえた。息がやや乱れている。言葉が喉の奥で、何度もつかえているようだった。
『妻が……あの、妻が、倒れてるんです……』
その言葉を聞いた瞬間、私はすぐにキーボードへと手を置いた。視線はモニターから外さない。通報ログの新規入力欄が開く。指先は、ほとんど反射のように動き始める。
「落ち着いてください。場所を教えてください」
『えっと……えっと、駅……じゃなくて、違う、あの……ここは……』
声が震えていて、混乱しているのは、あきらかだった。おそらくパニック状態だ。こういうとき人は自分のいる場所さえ思い出せなくなる。頭の中が恐怖で満たされてしまうと、普段なら簡単に言える言葉が急に遠くなってしまうのだ。私は、声の温度を少しだけ下げ、意識的に言葉の速度をゆっくりにした。
「大丈夫です。ゆっくりで構いません。ご自身のスマートフォンをお使いですか?」
『……あ、は、はい……』
「近くに看板、もしくは、建物などありますか?こちらもすぐに、GPSで位置を追います」
『……あ、えっと……看板、建物……えっと、』
受話器の向こうから聞こえてくる呼吸は荒く、ところどころ、途切れている。おそらく、周囲を見回しているのだろう。足音のような、わずかな物音も混じっていた。私はモニターの地図を開き位置情報の連携画面を呼び出す。
『看板……が、あります……』
「文字は見えますか?」
『……○○区、えっと、△△町……三丁目……』
その住所を、私はほとんど、画面を見ずに入力した。マップが自動展開される。同時に、近隣の監視カメラの映像がいくつかサブモニターに表示された。住宅街。災害発生エリアからは、すこし離れている場所だった。大きな事故が起きている様子は見受けられない。それでも受話器の向こうには、確かに��今�≠ェある。私は、ゆっくり息を吐き、呼吸を整えてから、淡々と次の質問を口にした。
「奥様は、意識がありますか」
また、沈黙が落ちる。数秒。その沈黙の質で、だいたい、察してしまった。長くこの仕事をしていると言葉になる前の気配で、ある程度のことが分かってしまう。それでも今、聞かなければならない。どんな結果になろうとここで情報を集めることが、現場へ向かう誰かの助けになるからだ。私は集中して受話器の向こうの気配に耳を澄ませながら、次の言葉を待った。
『……えっと、あの……えっと、』
言葉が、何度も途切れる。何かを、見ているのだろう。あるいは、見たくないものを。それでも受話器の向こうの相手は今、目の前で確認しなければならない状況に、立たされているのかもしれない。
「意識が、ないんですね?」
私はできるだけ、穏やかな声で尋ねる。問いの形を整えることで、相手の混乱を少しでも外側へ押し出すためだ。
『え……ええ、ない……です。呼びかけても……動かない……』
その答えは、想像していたよりもずっと弱々しかった。受話器の奥には、恐怖と困惑が入り混じった呼吸が流れていた。それでも私は、視線を、モニターから外さない。画面の光が目の奥に淡く滲む。
「呼吸は、確認しましたか」
『……わ……わから、ない……』
「胸の動きは、ありますか」
『……ある。いや……ない、かも……』
私はモニターを見つめたまま、喉の奥に小さな重さが沈むのを感じていた。こういう感覚は何度経験しても、身体から消えてくれない。胸の奥のどこかが静かに冷えていく。けれど、それを声に滲ませるわけにはいかなかった。
「いくつか確認しますね。奥様の肩を軽く叩いて名前を呼んでください」
私のその声は驚くほど落ち着いて聞こえたことだろうと思う。こういうとき、自分の声がまるで他人のもののように感じることがある。
受話器越しに衣擦れの音がする。きっと男性が身体を、かがめたのだろう。
『……おい、聞こえるか……俺だ……返事をしてくれ……』
その呼びかけは、さっきまでの混乱した声とは少し違っていた。どこか必死に抑え込まれているような響きがある。男性が、何度も何度も名前を呼ぶが返事はない。沈黙はときどき、言葉よりもはっきりと、結果を伝えてくる。
「次に、胸の中央を見てください。上下に動いていますか」
返答がない。私はその沈黙の間に、モニターの地図を拡大しながら位置情報の精度を上げ同時にヒーロー出動候補を検索する。現在、この区域に最も近いヒーローは——ホークス。彼のヒーローアイコンと、そのヒーロー名が画面に表示されている。思考の奥にほんのわずかな私情が触れた。けれどそれは、長くは続かない。私はその感覚を自分の内側に押し込める。ここで私が担っているのは、あくまでもセンターのオペレーターという役割だ。ヒーローを呼ぶのは私情ではなく距離と状況の判断によって決められる。画面の中の彼と通信卓に座る私。今はただ、その二つの位置が、機械的に結びついているだけだった。
『……動いて、ないです……』
そのとき、ようやく受話口の向こうから男性の声が戻ってきた。その声は、さっきよりもさらに弱くなっていた。
『お、お願いです……誰か……助けてください』
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に小さな痛みが走った。この仕事をしていると同じ言葉を何度も耳にする。けれど慣れることはない。人が助けを求める声というのは、毎回、違う形をしている。
私は一度、息を整えた。指先は、キーボードの上に置いたままモニターに並ぶ複数の出動状況を素早く確認する。相変わらず、現在進行中の災害案件が、いくつも重なっている。今この瞬間も、どこかで別の誰かが「助けて」と、叫んでいる。
「……申し訳ありません」
私は言葉を選びながらゆっくりと告げた。この言葉を口にする瞬間が、いつも身を削られる。
きっと、この国には救われるべき人が多すぎるのだ。それでも、目の前の��SOS�≠ゥら、逃げることはできない。
「現在、同時多発の災害対応が続いていて、出動できるヒーローの手配に、少し、時間がかかっています」
受話器の向こうで男性の呼吸が一瞬、止まった気がした。私は言葉を挟まない。その、わずかな沈黙のあと、相手の声の温度が変わった。
『……時間?』
「はい」
『時間って、どういうことですか』
問いは静かだった。けれどその静けさの奥には抑えきれない、いくつもの感情が、溜まっているのが分かる。私は相変わらずモニターから視線を外さないまま、感情を揺らさないように答えた。
「現在、現場対応中のヒーローが多く——」
『そんなの、関係ないだろっ!?』
遮られた受話器の向こうで空気が破れるような声が弾けた。耳元が、じんと痛むほどの音量だった。私は反射的にヘッドセットを押さえ、背筋を伸ばす。怒鳴り声の奥で、呼吸が乱れ、過換気を起こしかけているのがはっきりと分かった。言葉より先に、焦りと恐怖が漏れ出していた。
「まずは、落ち着いて——」
『落ち着いていられるか!妻が倒れてるんです!名前を呼んでも、動かないんですよ!?』
言葉が重なり、語尾が崩れる。その必死さに、胸の奥がひとつ沈む。受話器越しに、何かが強くぶつかる音がした。金属なのか、硬い壁なのか、それとも車のドアなのか。想像が追いつく前に、さらに、雑音が入り込む。
私はモニターに視線を走らせながら男性の声の震えを拾い上げるようにゆっくりと息を吸った。ここで、こちらが揺れれば、相手はもっと崩れてしまう。
『警察でも救急でもヒーローでもなんでもいい!誰でもいいから、早く来てくださいよっ!』
叫ぶような声が切羽詰まって跳ね上がる。その言葉は、要求というより懇願に近かった。助けを呼ぶ声というより、もう一人では、抱えきれなくなった人間の、限界の音だった。私は指先を軽く握り込み、震えそうになる喉を抑える。ここで、私ができるのは繋ぐこと、それだけだ。それが今この人にとっても命綱になることを、私は知っている。
怒りも焦りも絶望も、この回線の向こうから、何度だって聞いてきた。人は、追い詰められると目の前にいない相手にさえ怒りを向けてしまう。それでもその感情の奥にあるのは、ただ一つだ。失いたくないという願い。だからこそ、私は声を揺らさない。
「分かっています。どうか落ち着いてください」
声の速度を意識して落とす。早くなりすぎないように、言葉の端が、尖らないように。こちらの緊張は受話器を通してそのまま相手に流れ込んでしまうから。
「今、現場に最も近いヒーローを確認していますので」
『……本当に、来るんですか……』
受話器の向こう側で、短く息を呑む音がした。疑いと祈りが同時に滲んだ声だった。呼吸がまた少しずつ、乱れていくのが分かる。必死に立っている人間が足元の地面を何度も確かめるような、そんな調子。
『ヒーローってやつは……いつも、そうだ。いつだって、口ばっかりだ……』
「……」
『その場しのぎの言葉ばっかりで……肝心なときには、誰もいない……』
声は低く投げやりに近い言い方だった。怒りの形をしているけれどその奥には縋る場所を失った人間特有の、脆さが見え隠れしていた。
追い詰められた人間は、ときどき、希望を疑うことでしか、自分を守れなくなる生き物だ。そうすることでしか、保てないからだ。
『妻は……助かるんですか……?』
その問いには、私は答えられない。答えを探さなかった。いや、探してはいけない。ここでは、結果を約束する言葉は禁句で約束してはいけない言葉がある。どれほど強く願っても、どんな状況でも、結果を断言することは許されない。
私の視線が自然と、モニターの一角へ吸い寄せられる。画面の地図の上で、小さなアイコンが、淡い光を放って、静かに点滅している。
ウィングヒーロー・ホークス。現在位置、高度移動中。それはただの記号でしかない。地図上の光点、データとして処理された位置情報。けれど私の目はどうしてもそこから離れない。光の点は一定の速度で動いているだけなのに、その軌跡がまるで、遠くの空を、切り裂くように飛んでいる彼の姿と、重なって見えてしまう。ほんの一瞬、胸の奥に柔らかな感覚が触れた。仕事の枠をはみ出しそうになる。けれど、私それを、すぐに押し戻した。ここではただの、オペレーターだ。彼はヒーローで、私は出動要請を送る側。その関係の線を決して、越えてはいけない。
静かに息を吐き、指先をキーボードの上に置き直す。キーを叩く音が、センターの空気の中に、わずかに響いた。出動要請送信——。モニターの一角に、新しい情報が表示される。
【 ヒーロー名:ホークス
現場到着予測/二分三十秒 】
私は、その機械的な数字を、ただ、見つめた。二分三十秒——。ただの計算結果のはずなのに、胸の奥には、妙な重さを持って沈んでいく。
「今、ヒーローを向かわせました」
そう告げた瞬間に、受話器の向こうで、空気が変わるのが分かった。荒く波打っていた呼吸が、わずかに大きくなり、息を吸う音に、力が宿る。
『……本当ですか!?』
声が裏返りかけている。そこには、はっきりとした期待があった。ついさっきまで、希望を疑うことでしか立っていられなかった人の声が、ようやく掴めそうな何かに、手を伸ばしている。
「はい。まもなく到着します。それまで、奥様のそばにいてください」
『よかった……よかった……本当に、ありがとうございます……』
その言葉を聞いたとき胸の奥でかすかな揺れが生まれた。感謝の言葉を向けられるたびに、私はいつも、少し戸惑う。私は何かを成し遂げたわけではない。ただ繋いだだけだ。声と声を、現場と空とを。けれど、受話器の向こう側にいる誰かにとっては、その行為が、救いの形をしてしまう。男性はまだ何かを言おうとしているようだった。息を吸って吐いて、そのたびに、喉の奥で言葉が引っかかっている。
『あ、あの……』
「はい」
返事をすると、しばらく間があった。それからためらうように、しかし、逃げ場を探すように、同じ問いが、繰り返される。
「……妻は、本当に助かりますか』
二度目の質問だった。その事実が、胸の奥に、静かに沈んでくる。どれほど経験を重ねてもこの問いに答えられる日は訪れない。希望を保証することは、許されていない。それはこの場所で働くすべての人間に課された、絶対のルールだから。
私は、ほんの短い時間だけ目を閉じた。決して逃げるためではない。声を、気持ちを、仕事用の形に整えるための、必要な沈黙。ゆっくりと目を開けて、いつもの調子で言葉を選ぶ。
「今、ヒーローが向かっています。まずはそれを待ちましょう」
それ以上は言えなかった。言ってはいけない。視線をモニターへ戻す。都市の地図の上で小さな赤い点が滑るように動いている。空から一直線に現場へ向かってくる軌跡。彼の速度を私は知っている。何度もこの画面で見てきたし、その速さが命を繋いだ瞬間も、数えきれないほど見てきた。
残り、一分——。数字にすればほんのわずかな時間。それでもその一分がある人の人生にとってどれほど長く、重く、感じられるものなのかを、私はもう、嫌というほど知っていたから。
*
あの悲惨な一日の通報記録をようやく最後まで書き終えたのは、それからおよそ一週間が過ぎた頃だった。
モニターの端に表示された『送信完了』という小さな文字を、私はしばらくぼんやりと見つめていた。キーを叩き続けていた手は、まだボードの上に置かれたままで、指先だけがわずかに、熱を持っている気がした。
蛍光灯の白い光が、深夜のオフィスを隙間なく満たしている。その白さはどこか、水分を失った色をしていて、長くここに身を置いていると世界そのものから彩度が少しずつ、削り取られていくような錯覚に陥る。
夜勤のセンターは人が少ない。視線を上げても席の多くは闇に沈み遠くのデスクで叩かれるキーボードの音だけが、一定の間隔で浮かび上がる。その音はすぐそばで鳴っているはずなのに何枚も壁を隔てた向こう側から届くみたいに、現実感が薄く、出来事というよりただの規則として流れていく音のように耳に残った。
「……うわぁ〜。すごいですね、報告書の山」
同じく夜勤に入っていた、近くの席の部下が、私の机の端に積み上がったファイルへ視線を向け遠慮のない顔で、そう呟いた。感嘆というより、半ば引き気味の声音だったのが可笑しくて、私は小さく息を吐く。肩が、勝手にすくんでしまう。
「でしょう? もう、目眩がしちゃう」
「名字さん、あの日は、かなりの量の通報取ってましたもんねー」
「見ないふりをすると、増えるんだよ? これ」
冗談とも愚痴ともつかない調子で返しながら、書類の角を、指先で揃える。紙の感触はひんやりしていてさっきまで電話口で受け取っていた人の体温や感情とは、あまりにも、かけ離れている。現場の切迫した声が、こうして紙になった瞬間、急に、無機質な重さへと、変わってしまう。その落差に慣れたつもりでいても、ときどきやっぱり戸惑ってしまう。
「癒しが必要ですね。イケメンエキスとか」
その言葉を聞きながら、私は少しだけ笑った。笑ったつもりだったけれど実際にどんな顔をしていたのかは分からない。報告書というものは感情を、削ぎ落として書かなければならない。そこにあるのは、いつだって、事実だけだ。
通報の時刻、現場の住所、出動したヒーロー、到着時間、結果。ただ、それだけ。けれど本当はその数行の記録の裏側に、いくつもの呼吸や声の震えがある。言葉にならなかった沈黙や受話器の向こうで、誰かが必死に堪えていた気配がある。それらは、報告書には書かれない。書いてはいけないものなのだ。
「名字さーん。先に仮眠室、使わせてもらいますね〜」
「はーい。ごゆっくり」
私は、ゆっくりとヘッドセットを外した。耳の後ろに残る圧迫感が、じんわりと戻ってくる。
気づけば肩も背中も固まっていて、椅子の背にもたれた瞬間、身体の奥から静かな疲労が浮かび上がった。筋肉の深いところに沈んでいたものがようやく、表に出てくるような感覚だった。
あの日は通報が多かった。本当に、多かった。台風の余波での事故。個性暴走、建物崩落、交通事故——。モニターのマップには赤いアイコンがいくつも点滅していて、まるで世界中のどこかで同時に、炎が上がっているみたいだった。そしてその中の、ひとつ。あの、男性からの通報。
私は、目を閉じる。ヘッドセット越しに聞いた男性の声を、思い出す。息が乱れていて、言葉が崩れていて、それでも必死に、愛する妻の名前を呼んでいた声。
『 助けてください 』
『 妻は……助かるんですか 』
あの、切実な言葉。きっと、この仕事を続ける限り、私はあの声を、忘れられない。
要請したヒーローが到着したときには、もう、遅かった。報告書にはただ一行だけ書いてある。
【 到着時、対象者はすでに死亡。】
それだけ。たったそれだけの文章。けれどその一行の重さを、私は知っている。
椅子に座ったまま、私はゆっくり息を吐いた。この仕事は正直、きつい。本当に。誰かの人生が受話器の向こうで崩れていく瞬間を、私は何度も聞いてきた。もちろん、助かった通報も、ある。奇跡みたいに間に合った日もある。けれど、そうじゃない日だって当然あるのだ。そのすべてを、声だけで受け止めなければならない。
私はヒーローじゃない。誰かを直接救えるわけでもない。ただ、繋ぐだけ。助けを、命を。それでも。それでも、この仕事を続けているのは——
私はゆっくりとポケットからスマートフォンを取り出して、画面を点けた。そこに表示される、一人の名前。ホークス。ほんの数秒だけ胸の奥が柔らかくほどける。
あの日も、彼が現場に向かった。空を切り裂くような速さで。誰よりも早く。それでも間に合わないことがあるのを、私は知っているし、きっと彼だって知っている。ヒーローは万能じゃない。空を飛べても、時間を巻き戻すことはできない。それでも彼は飛ぶ。何度でも。誰かが「助けて」と言った、その場所へと。
私はスマートフォンを指先で撫でた。今、彼はどこを飛んでいるのだろう。遠くの空か街の上かそれとも、どこかの現場でまた、羽根を散らしているのか。
「名字さん、お疲れ。どうぞ、温かいコーヒー」
「わー、ありがとうございます。いただきます」
ふと、あのときの男性の声と、剛翼を背に持つヒーローの横顔が、同時に胸に浮かんだ。不思議だと思う。私は声しか知らない人たちの人生を、こんなにもたくさん、抱えているのに。
その重さに潰れずにいられるのはたぶん、空のどこかに彼がいるからだ。世界のどこかで誰かのところへ飛んでいく背中を私は知っているから。それだけで、ほんの少しだけ息ができる。だから私はまた、明日も、ここへ来る。受話器を取って誰かの声を聞いて、そしてヒーローを呼ぶ。空へ向かって。あの赤い羽根を持つヒーローの名前を静かに告げながら。たぶんそれがこの場所で働く私の、役目なのだと思う。
誰かの祈りと誰かの飛ぶ背中のあいだにほんの細い、一本の線を引くこと。それだけの、小さな使命。けれど、夜の静けさの中で、ときどき私は思う。その細い線の上を、今日も誰かの希望が、かすかな光になって、渡っていくのだと。
*
それからというほど劇的な区切りもないまま、同じ朝と夜の繰り返しのなかで、いくつかの日付だけが静かに、めくられていった。
昼間のセンターは、夜勤の時間帯とはまた違う静けさを持っている。騒がしいわけではないのにどこか落ち着ききらない気配が空気の奥に漂っている。窓は高く、外の空は見えない。都市の色や季節の変化は、この部屋にいる限りほとんど感じ取れない。それでもモニターに映る都市のライブ映像を見ていると、時間の流れだけは、分かる。ビルの壁に当たる光の角度がゆっくりと変わり、道路を走る車の影が、少しずつ長くなっていく。
昼の白い光が傾きはじめ、街の輪郭が少しずつ深い色へ沈んでいく様子を私はときどき無意識のうちに、目で追ってしまう。
あの日の通報からまだ一ヶ月も経っていない。それなのに、あの夜の出来事は、ずいぶんと遠い時間の向こうへ置き去りにされたようにも感じるし、ふとした瞬間についさっきの出来事のように胸の奥に浮かび上がることもある。この仕事は、ときどき時間の感覚を曖昧にする。記録の上ではひとつの通報に過ぎない出来事が、記憶の中ではいつまでも終わらないまま残り続ける事がある。
私はヘッドセットを整えながら次の案件ログを確認していた。画面に並ぶのは今日の通報履歴。今日は比較的に、落ち着いている。災害の報告も少なく、通報件数も平常に近い。こういう日は、むしろ不思議な気分になる。静かな時間が続くと都市そのものが、息を潜めているみたいに思えてくるからだ。
そのとき——。通信ラインの一つが、控えめな電子音を立てて点灯した。ヒーロー回線だ。私は視線を、画面に落とす。そこに表示された名前を見た瞬間、私はほんのわずかに息を止めた。
ホークス。思わず、口元が緩みそうになるのを私はぐっと堪える。ここは職場だ。回線はすべて記録される。たとえ私情があったとしてもそれを声に滲ませることはできない。私は、小さく息を吸って胸の内をならし、通信回線を開いた。
「ヒーロー緊急支援センターです」
声に、余計な温度が混じらないよう意識して、いつもと同じ業務用の調子で、応答する。ほんの一瞬の沈黙を挟んでノイズ越しに聞き慣れた声が耳の奥へ滑り込んできた。
『お疲れさまでーす』
軽い調子で、けれど、耳に届いた瞬間に分かる柔らかさがある。声だけで、その人の姿が浮かぶことがある。この仕事をしていると、ときどき、そんな感覚に出会う。このときこそ、いい例だ。
「今日もこちらで任務ですか?」
『いえいえ、ちょっと公安に用事がありまして』
「飛べる個性はいいですね。いつでも、交通費がかからなくて」
『はは、おかげさまで。いや今さ、巡回中なんすけどね?』
反射的に、モニターの端に表示されたヒーロー位置情報を確認する。市街地上空。高度三百メートル。やはり飛んでいるらしい。今日も変わらずこの街の上を。その事実を確認しただけなのに、胸の奥に、小さな安心が落ちるのを感じる。
「巡回中? では——事故ですか、事件ですか」
『もー。ほんと仕事熱心なんだからぁ〜』
「それだけが取り柄ですので」
『さすがぁ〜! オペレーターの鑑っ!』
その声を聞きながら、私は画面のログを淡々とスクロールする。通信の向こう側で、彼がふと、柔らかく笑った気配がして、思わず、頬を緩めてしまう。
『見習いまぁーす。いやね、そんな大した話じゃないですよぉー』
その言い方は、どこか力を抜いたものだった。任務の報告というより、ただ、回線を開いてみただけのような気配が漂っている。
『ちょっと確認だけ。今日って、この区域の通報多いです?』
私はログをもう一度確認する。画面には今日の通報履歴が整然と並んでいる。通信の奥で、風の音がかすかに聞こえる。街の上を飛ぶときのあの風。羽根が空気を掴むときの、独特の流れ。私はその音が、好きだった。
「いいえ。今のところ落ち着いていますよ」
『ですよねぇ〜、珍しく静かだなと思って』
「静かね。確かに静か」
『そっちはどうです?』
彼の声が続く。それから、少しだけ声の調子が変わった気がした。ただの、任務中の確認。そう言ってしまえば、それだけの言葉だ。けれどその響きの奥に別の意味が含まれていることを、私は知っている。『大丈夫ですか。特に変わりはないですか?』たぶん、彼は、そう聞いているのだ。あの悲惨な日のことを彼も覚えているのだろう。私は小さく、息を吐いた。
「今日は平和です」
『それはよかった』
平和だと答えた私の声は業務用の回線に乗せるには、ちょうどいい温度だったと思う。過不足のない、ただ、事実を伝えるためだけの声。通信の向こうでほんのわずかな間が生まれる。その短い沈黙のあいだに空気の張りつめ方が少しだけ緩むのが分かる。そして彼は小さく、ふっと笑った。
『ちゃんとご飯食べました?』
その言葉に、私は思わず眉を寄せる。こういう質問を、彼は何の前触れもなく差し込んでくる。任務の報告の途中でも、業務回線の真ん中でも、まるでそこが私たちだけの会話の場所であるかのような調子で。
「ホークス、仕事中ですよ?」
『いや、だから聞いてるんですってばぁ』
返ってきた声は少し慌てたような響きを含んでいた。私はそれには特に何も突っ込みを入れず、キーボードの上へと、視線を落とす。
『おとといは、昼抜いてたじゃないですかぁ』
そう指摘された瞬間、胸の奥で小さな戸惑いが生まれる。どうして、そんなことを知っているのだろう。私自身でさえ、忘れてしまうようなことなのに。私はキーボードを打つふりをしながら、そっと、画面を見つめた。通信卓の上でこうして指を動かしていると表情が隠れる。それは、ときどき都合がよかった。声だけの会話ではわずかな感情の揺れも、伝わってしまう気がするから。
「どうして知ってるんですか」
『ははは! 俺を誰だと?』
通信の向こうで笑い声が広がる。その明るさを聞きながら、私は呆れながらも溜め息まじりに、短く答えた。
「……食べました」
『ほんとです?』
「ほんとです」
『うわ〜、怪しいなぁ』
通信の奥で、風を切る音が強くなる。おそらく彼が少し、高度を変えたのだろう。街の上を滑るように飛んでいるとき、羽根が空気を掴む音は、こういうふうに変わる。
『名前さん、無理しないでくださいね』
その声は、いつもの軽さを保ったままだった。けれど、その奥には、柔らかな温度がある。私はモニターを見つめたまま小さくまた息を吐いた。
「ホークスこそ」
『俺? あー......俺はほら、丈夫ですから』
冗談みたいな軽い言い方だった。まるで本当に何でもない事のように。けれど私は知っている。彼が、どれだけ無茶をする人なのか。どれだけ、危険な現場へ飛び込んでいくのかを——。何度も何度も空から。私は一度、息を吐き切ってから、静かに言った。
「本当に、無理だけはしないで」
言葉にしたあと、私はモニターから目を離さなかった。けれど胸の奥では、自分でも気づかないうちに呼吸を浅くしていた。業務回線の上で口にするには、ほんのわずかに、私情が混ざっている気がして、それを悟られないよう声の温度だけを静かに整えて、もう一度だけ、その名前を呼ぶ。
「ホークス」
『……はいはい』
軽く受け流すような響き。けれどその言い方はいつもより穏やかで優しかった。通信の向こうでほんの一瞬、風音が弱まった。続けて彼が言う。
『気をつけますよ』
その言葉は何気ない一言なのにどこか柔らかな響きを残していた。まるで、私の声を受け取ってからほんの少しだけ声の温度を変えたみたいに。私はそれ以上、何も言わず、ただモニターの光を見つめたまま、その短い余韻を胸の奥に、静かに落としていた。
『じゃあ、また何かあったら呼んでくださいね。すぐ、飛んで行きますから』
「了解しました」
業務的な返事を返しながら、私は画面にそっと目を落とす。この回線はあくまで仕事のものだ。私たちは絶対にその枠の中でしか話さない——と思っていたのに。
『あ!それと——今日、終わるの遅いです?』
その問いに、私はほんの一瞬だけ目を閉じた。どうしてこの人はいつもこういう聞き方をするのだろう。業務の延長のままで。誰が聞いているか分からない場所で。それでも、こちら側も素直に声にしてしまうのだから、救えない。
「たぶんね」
『じゃあ——帰り、迎え行きますよ』
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが緩む。張りつめていた糸が、少しだけほどけるような、そんな感覚。私は何も言わなかった。言葉にしてしまうと、その感覚が、壊れてしまいそうだったから。しかし、それを悟ったようにホークスは、楽しそうに笑うのだ。これも、いつもの流れだ。
そのときだった。センターの受付回線から鋭いノイズが割り込む。電子音が、空気を裂くように響いた。緊急内線だ。
私はホークスとの通信を繋いだままコンソールのスイッチを、いくつも叩いた。複数回線の切り替え。受付の内部カメラ、館内無線——。
次の瞬間、目の前の巨大モニターが一斉に切り替わる。受付ロビーの映像で、誰かが声を荒げている。目を凝らしてみると、ガラス越しになった受付カウンターの前で一人の男が身を乗り出していた。警備員が距離を取っている。受付の職員の顔は蒼白で何かを必死に説明している。室長席の方ではすでに数人が無線機を掴んでいた。椅子が引きずられる音。低く短い指示が飛び交う。私は一瞬だけ呼吸を忘れた。記憶の奥が、ゆっくりと形を結ぶ。それと同時に繋がったままの通信機の向こうから、ホークスが声を掛けてきた。
『ん? どうしました?』
私はそれに返すこともできず、視線を、受付の映像から離せなかった。胸の奥で、冷たいものがゆっくりと広がる。そして、気づいてしまった。あの声。あの悲惨な日の通報。妻の名前を何度も何度も呼んでいた、男性の声を。——あの人だ。
男性の手が、コートの内側へ入る。次の瞬間。金属のようなものが光った。銃声が、私の祈りの場所——聖地でもある、この、ヒーロー緊急支援センターの静寂を、引き裂いたのだった。