乾いた衝撃音が思考より先に身体を震わせた。硬いものが壁と天井のあいだを跳ね返り、受付のガラスが、砕け散る。透明だったはずの境界が、粉々の破片となって空気を裂いた。喉が引きつるような誰かの悲鳴が響き、視界の端で、ロビーの警備員が、崩れ落ちる。制服の黒が床に滲むのを私は動くこともできずに、この場所で見ていた。
銃声は、一度で終わらなかった。二発、三発。間を置かずに重なり合い、連続する破裂音がセンター全体の空気を引き裂いていく。椅子が倒れる音、必死に走る足音、押し殺そうとして失敗した声。普段は、機械音だけが支配するこの場所が、いまは、生身の恐怖で満ちていた。
男は銃を構えたまま、ゆっくりとフロアに足を踏み入れてきた。慎重というより、確信を持った歩き方だった。視線は泳いでいない。ただ誰かを探すように、デスクと人影をなぞっていく。
「……おい、いるんだろ」
低く乾いた声が空間に落ちる。銃口が無造作に左右へと振られる。その先にいるかもしれない、誰かの命を、まるで、数えるみたいにして。
「電話に出たやつだ! 出てこい!」
その直後、天井へ向けて一発。重い衝撃が腹の底まで響き、石膏の粉が、白い雪のように降ってくる。照明が揺れ蛍光灯の光が不規則に瞬いた。
「全員、声を出せ! どこだ!」
怒鳴り声が反響する。誰も動かない。誰も声を出さない。息を殺した沈黙が、異様な重さで床に張りつく。その数秒を男はゆっくりと見回した。まるで、選別でも、するみたいにして。そして、ためらいはなかった。床に伏せていた職員の机へ躊躇なく銃を向け、引き金を引く。銃声。木片とプラスチックの破片が弾けて、悲鳴が遅れて追いかけてくる。男の声は怒りと狂気の境目で裂けていた。
「声を出せって言ってるだろ! 電話の女だ!」
その瞬間、背中を冷たいものがゆっくりと流れ落ちる。
彼は探している。あの日、受話器の向こう側にいた声を。名も顔も知らないはずの、私を——。そのときだった。室長のデスクから鋭い警告音が鳴り響く。ビーッ、という電子音。赤いカバーが跳ね上がり、室長の手が迷いなく、非常ボタンを叩き込む。次の瞬間、センター中のモニターが、一斉にオレンジ色へと染まった。警告灯が回転を始め、視界が断続的に赤く塗り替えられる。館内スピーカーが低く唸り非常事態を告げる無機質な音声が現実だと認めたくないこの状況を容赦なく突きつけてきた。
世界が完全に、非常モードへと切り替わった。そして私はその中心にいる。声だけでつながっていたはずの出来事が、いま、確かな重さを持って私の前に、立ちはだかっていた。
『緊急事態発生。緊急事態発生』
感情を持たないはずの機械音声がやけに冷たくはっきりと響く。都市ネットワークが、自動的に開かれ、回線が次々と接続されていく。ヒーロー通信、警察本部、特殊救難隊。モニターの端から端まで、同じ赤い表示が連なっていく。
『ヒーロー緊急支援センター武装侵入者を確認』
その情報は瞬時に、街へと放たれる。巡回中のヒーローの端末へ。警察車両の車載モニターへ。出動待機中の特殊救難隊のシステムへ。そして、空の上を飛んでいる、たった一人の、ヒーローの通信端末にも——。通信機の向こうでホークスの声がわずかに低くなったのが分かった。
『今の音、なんすか』
「……」
『……あれ?オレンジのランプが点滅してる気がするんですけど』
私は、答えなかった。声そのものが、喉の奥で凍りついていた。返せないままの沈黙を挟んで、それでも通信は切れず微かなノイズを孕んだまま私と世界——いや、一人のヒーローを繋ぎ続けている。気づけば身体の隅々までが強張り、呼吸の仕方さえ思い出せない。まるで時間だけがそこで立ち止まり、私だけが、置き去りにされたみたいだった。
『え?ちょ、待っ……まさかこれJアラート!?名前さん!? 無事なんですか!?』
ホークスの声を遠くに聞いて国民保護に関わる警報が発動されたのだと遅れて理解する。頭では分かっているのに、身体の感覚が、それについてこない。そのとき再び銃声が響いた。空気を裂く乾いた音と、男性の怒鳴り声が重なる。
「いいから声を出せ!俺はな、覚えてるんだよ。あのときの、女の声を!」
焦りと執着が混じった声。モニターのランプがセンター全体を染め上げる。警告灯が回転して、その光が、人々の顔を断続的に照らしては消す。さっきまで保たれていた秩序はもう跡形もない。椅子が倒れ、机が引きずられ、無線からは指示と怒号が飛び交う。そんな中で、室長たちの声が、フロア内を貫いた。
「全員、奥の非常通路へ! 急げ!」
「警察とヒーロー本部に緊急コード送信!建物を封鎖する!」
通信卓のモニターが次々と切り替わる。侵入者警告。館内、ロックダウン。警察連携回線。ヒーロー緊急出動要請。すべてが、同時に動き出し、センター全体が一つの生き物のように軋みながら機能し始める。そのとき、また一発、銃声が鳴り響いた。壁の向こうから突き抜けるその音に喉を詰まらせたような悲鳴を誰かが上げて、それを、また他の誰かが、必死になって抑え込む。その、瞬間だった。
「名字さん!」
強く腕を掴まれる。反射的に振り向くと、同じ班の女性オペレーターが立っていた。顔色は紙のように白い。それでもその目だけは必死に現実をつかみ取ろうとして強く張り詰めている。彼女の手の温度が、はっきりと伝わってくる。それが、これが夢でも訓練でもないことを痛いほど教えていた。
「こっち!」
彼女は私の手を、強く引いた。抵抗する余地もないまま椅子から引き上げられ、身体は半ば宙に浮くような感覚で、フロアの奥へと連れていかれる。足が床を打つ音が、やけに大きく廊下に反響する。走る、というより、逃げる、に近い。
背後で、また銃声が鳴った。音が空気を裂き、その衝撃が背中を押す。振り返る余裕などない。前だけを見て、ただ必死に、脚を動かした。
奥の廊下。普段はほとんど人の出入りがない、業務用の裏動線。白い壁が続き、足音だけが追いかけてくる。突き当たりにある分厚い鉄扉の前で彼女は立ち止まり、震える手でカードキーをかざした。——カチリ。小さな電子音のあと重い扉が低く唸るような音を立てて開く。
「早く、入って!」
背中を押され中へ転がり込む。金庫室だ。壁も天井も、すべてが厚い鉄筋で覆われた小さな箱のような空間だった。外部通信を遮断する構造で、電波は一切届かない。彼女がすぐに扉を閉める。重い鉄がゆっくり噛み合い、最後に——ガン、と鈍い音を立てて、完全に閉じた。その瞬間、外の世界が遠ざかる。さっきまで耳を刺していた叫び声や足音は消え、それでもなお銃声だけが鉄筋を通して微かな震えとなって伝わってきた。
部屋の空気はひんやりしている。静かすぎて、息をする音さえ大きく感じる。私はようやく息を吐いた。胸の奥で、心臓が暴れるように、打っている。彼女も壁に背を預けたまま肩を上下させて荒く呼吸していた。数秒。お互い何も言わない。ただ、遠くの衝撃音だけが、一定の間隔で響く。やがて、彼女が私のほうを見た。
「あの男性からの通報、受けたの……名字さんでしょ」
問いかけは静かだった。責める色はなく事実を確かめるだけの声音。私は顔を上げる。頭の奥であの日の通話がゆっくりと再生される。受話器の向こうの切羽詰まった声。焦りと、期待と、崩れ落ちていく気配が。
「うん……」
私が小さく頷くと、彼女は一度、目を伏せる。自分の声が、思った以上にかすれていた。そして彼女は、小さく息を吐いてから「やっぱり」と、短く呟いた。
そのとき、また遠くで、銃声が聞こえた。鈍い衝撃が鉄筋の壁を震わせる。彼女は無意識に腕を抱きながら続ける。
「さっき、受付で叫んでたの……」
「……」
「��電話の女を出せ�≠チて……」
喉の奥が、ひりつく。私は目を閉じた。暗闇の裏側で、あの日の声が鮮明によみがえる。怒鳴るようでいて、縋るようだった声。その奥にあったどうしようもない絶望。私は静かに声を落とす。
「私も聞いた……恨んでるんだと、思う」
彼女は何も言わなかった。否定する必要もない言葉だったからだろう。ここにいる誰もが、もう分かっている事実。
受話器の向こうの沈黙。呼吸。通話の最中に、絶望が声の奥で崩れていた。それでも私は、ヒーローを送った。最も早く到着できるヒーローを。それでも、間に合わなかった。
金庫室は、相変わらず静かだった。静かすぎてまるで世界から切り離されたような感覚になる。すると彼女が、少し迷うような仕草を見せてから言った。
「でも……名字さんのせいじゃないよ」
私はゆっくりと目を開ける。金庫室の蛍光灯が鉄筋の壁に白く反射して光っている。その下で、本来、仲間である彼女の顔は、青白かった。
「災害も重なってたし。ヒーローも全然、足りてなかった」
その声は震えている。それでも、必死に言葉を選ぶように続けてくれた。
「……仕方、なかったんだよ」
私は、答えなかった。遠くで、また鈍い衝撃が響く。分厚い壁の向こうでは、まだ誰かが走り、誰かが叫び、そして——あの日の声が、私の声を探している。
ゆっくりと息を吐く。すると、胸の奥では別の光景が浮かんだ。緋色の羽根。空を切る、背中。今この瞬間も、きっとどこかで、この非常信号を受け取っている。私は、目を伏せた。ここには、電波は届かない。だから声も届かない。けれど、それでも。胸の奥で、私は静かに思う。マイヒーロー、ホークス。どうか、早く——。
*
ビルの屋上の縁に立ったままホークスはほんの一瞬だけ街を見下ろした。夕方の光はすでに傾き始め、ビルの影が長く伸びている。道路には帰宅ラッシュの車列が連なり、テールランプが、赤い帯となって街を縫っていた。人々は、それぞれの時間を抱えたまま歩いている。誰ひとりとして、今この瞬間に起きている出来事を知らない顔で。その穏やかな空気を耳の奥で鳴り響いた警報音が鋭く切り裂いた。通信端末の画面が、一瞬で赤に染まる。
『ヒーロー緊急支援センター武装侵入者を確認』
胸の奥で、何かが短く、しかし確かに弾けた。考えるよりも早く、背中の翼が反応する。緋色の羽根が一斉に広がり、空気を掴む。足が、屋上を蹴り、身体は迷いなく、前へ投げ出された。
次の瞬間、彼はもう空にいる。強い上昇気流が翼を持ち上げ街のビル群が一気に足元へと沈んでいく。風が頬を打ち、耳元で唸る。ホークスは、即座に通信回線を開いた。
「全回線に割り込みます。こちら、ホークス」
声は低く冷静だった。しかし、よく通る。ヒーロー共通回線。警察、救難隊、巡回中のヒーローたちすべてに届く回線。
「ヒーロー緊急支援センターより非常警報。建物は封鎖されています。至急、援護を要請します」
翼を強く打つ。身体が前へ滑るように加速し、空気がさらに硬さを増す。センターまでは数分の距離。だがこの速度なら、それすら短縮できる。そのとき、通信に低く割り込む声があった。
『ホークス。状況を報告しろ』
トップヒーロー、エンデヴァーだ。ホークスは高度をさらに上げながら即座に反応して答える。
「エンデヴァーさん! センター内部で武装した一般人が暴れている模様です!」
声は、訓練で染みついた落ち着きを保っていたはずだった。けれど、通信に乗ったその響きは、わずかに、息を噛んでいる。速度を上げたことで肺に流れ込む空気が多すぎるのか、それとも別の理由か。自分でも分からないまま喉の奥で一度、言葉を整えた。
「センターからの情報では、対象者は、無個性。入手経路は不明ですが、銃を所持しています!」
ビルの谷間を抜けると、視界が一気に開ける。風が強まる。羽根が軋む音が、エンデヴァーにも微かに伝わった。通信越しの声が、はっきりと、重くなる。
『銃だと……? なぜそんな事態になった!』
「わかりませんよ!こっち側でも、詳細は掴めてません」
ホークスは一直線に、センターの方向へ剛翼を切った。都市の輪郭が遠景から輪を帯び始める。夕暮れに沈みかけたビル群の向こう、他よりも、無機質な輪郭を持つ建物が徐々に輪郭をはっきりさせていく。
ヒーロー緊急支援センター。見慣れたはずの、その姿が、今日はやけに遠く、重く見えた。
「大至急、増援の手配をお願いします!自分も、今、現場へ向かってます」
声はまた、仕事用の調子を保っていた。少なくとも、本人はそう思っていた。だが、その言葉を遮るように、通信の向こうから、鋭い圧が落ちてくる。
『待て、ホークス。貴様は行くな!』
「……はい? どういう意味です?」
空中で背中の翼がわずかに揺れた。ホークスはほんの一瞬、眉を寄せる。
問い返しながらも、速度は落とさない。むしろ無意識に前へ出る。風圧が強まり、羽根が空気を裂く音が低くなる。
『センターには今、貴様に因縁のある人物がいる可能性が高い』
その一言で、胸の奥に、冷たいものが走った。思考が一瞬だけ別の方向へ逸れる。乾いた銃声。赤く染まるモニター。最後に受話器越しに聞いた彼女の、あの、震えた呼気。だが、次の瞬間には歯を食いしばって、現実へと引き戻す。
「なに、言ってんすか……それでも行きますよ」
風に声が持っていかれそうになる。ビルの影を抜ける。空気を切る音が強まる。視界が、一気に開けて、センターの建物が確かな距離感を持って迫ってくる。ホークスは、迷わなかった。
「あの場所は、俺たちヒーローが、守るべき聖域です」
言い切るように、放たれたその言葉には、外へ向けた拒絶というよりも、揺らぎそうになる自分自身を無理やり、地面に縫い止めるような力が、込められていた。
誰がその中にいるのかを意識の表層で整理するよりも早く、身体のほうがすでに、結論を出している。翼は迷いなく風を掴み、進路は一切ぶれることを知らない。
『認めん。貴様はセンター外の市民の安全を、』
「だって! センターには——」
『だからだ!』
これ以上言葉を重ねることすら許さない調子で通信越しにエンデヴァーの声が落ちてくる。低く硬く逃げ場を塞ぐような重さで、その一音一音がホークスの胸に沈んだ。
『身内の救助には向かわせられん』
その瞬間、思考が、音を立てて途切れた。頭の中が真っ白になる。風の音も羽ばたきの感覚も、一拍だけ遠のく。だがその空白は長く続かない。押さえ込んでいたものが、焼けた金属みたいに、一気に内側から噴き上がる。
「……はぁ!? 正気ですか!」
声が荒れるのを止められない。背中の翼が強く空気を叩き、反動で身体がわずかに前へ引きずられる。速度は、意識しないうちに上がっていた。胸の奥では、怒りとも、焦りともつかない熱が、確かな痛みを伴って広がっていく。
「俺が行かなくて、誰が彼女を——」
『いいから落ち着け』
言葉が最後まで形になる前に切り落とされる。通信の向こうの声は相変わらず揺れない。感情を挟む余地すらない、命令として完成された、響きだった。だが、それがかえってホークスの内側に渦巻くものを逆撫でする。
落ち着けと言われて落ち着ける状況じゃない。そう言い返す代わりにホークスは唇を噛みしめたままさらに前を見据えた。視界の先でセンターの輪郭が、夜の街から浮かび上がりつつある。もうここで引き返すという選択肢は、どこにも残っていなかった。
『俺たちも間もなく現場に到着する。その場で、待機を——』
その言葉の途中でホークスは、通信を切った。強引に。躊躇もなく、指が端末を叩いた。回線が沈黙して、代わりに風の音だけが耳を満たした。街の上空を、彼は飛び続ける。センターの建物が目に見えて近づいてくる。心臓が、荒く鳴る。
分かっている。言われたことが、正論だということも。ヒーローは、冷静であるべきだ。私情で判断を誤ってはいけない。そんなことは、嫌ってほど、何度も何度も、叩き込まれてきた。ただ、それでも——。
翼が、さらに強く風を掴む。頭に浮かぶのは、たった、ひとつだけだった。センターの通信卓。ヘッドセット。淡く光るモニター。——そして、あの声。
「……待てるわけ、ないでしょ」
小さく呟く。風を裂いて、羽根が鳴る。彼女のいるであろうヒーロー緊急支援センターは、もうすぐそこまで迫っていた。
*
まだ銃声は近くない。けれど、静けさがすでに壊れていることだけは、床を伝ってくる振動で、十分に分かった。私は金庫室の内側で、壁に背を預けたまま、呼吸を数えていた。電波の届かないこの場所は、外界から切り離された箱のようで、厚い扉一枚を隔てただけなのに現実がやけに遠く感じられる。
一緒にいた女性オペレーターは唇を噛みしめたまま、何も言わずに、私の腕を掴んでいた。その指先が小刻みに震えているのを私は見ないふりをした。
このまま隠れていていいのか——。自分に問いかける声が、胸の奥で何度も反響する。
頭では分かっている。私はヒーローじゃない。丸腰のまま出て行っても、状況が好転する保証はどこにもない。むしろ、危険を、増やすだけかもしれない。それでも私は、あの声を知っている。受話器の向こうで何度も、何度も聞いた。呼吸が乱れ、言葉が絡まり、それでも愛する人の名前を呼び続ける声。助けを求めるというよりも、縋るような音。あの人は、ただ壊れてしまったのだ。悪意より先に、喪失があった。
きっと、彼は——ホークスは、もう、こちらへ向かっている。モニターに映った、空を切り裂く赤い軌跡。街並みを無意味に迂回することなく、最短距離だけを選び取って、伸びてくる線。その先にある意思まで、はっきりと、見えてしまった気がした。
彼が到着すれば状況は必ず動く。いい意味でも悪い意味でも。そしてそれはこの場を『解決』に変える代わりに取り返しのつかない何かを確実に終わらせてしまう。——ならば。そうなる前に。
「……私が、行く」
自分の口から出たとは思えないほど、声は静かだった。胸の内では、ざわめきが収まらないままなのに、音にした瞬間だけ、感情が薄く磨かれたみたいに整ってしまう。その落差に、本人がいちばん戸惑っている。隣で同じ影に身を潜めていた彼女が思わず息を詰めるようにして顔を上げた。暗がりの中で、視線がぶつかり、状況を理解するより先に、ただならぬ気配だけが伝わっていく。言葉の意味が追いつくまでの、その短い沈黙が、かえって重く、周囲に落ちた。
「だ、だめ……! まだ、今は——」
「少しだけ。ほんの少し、話すだけだから」
声を荒らげないように言って、私は彼女の指を一本ずつ、そっとほどいた。引き留めようとする力は弱く、震えだけが残る。その震えがかえって胸に刺さる。
金庫室の扉に手をかける。ひやりとした金属の感触が、思考を夢から現実へと強く引き戻した。逃げ場はない。ここが戦場だと、掌に、刻み込むみたいに——。扉を開けた瞬間、閉じ込められていた空気が一気に流れ込んでくる。焦げたような匂い。割れたガラスが床に散らばり、照明が不規則に、明滅している。どこか遠くで誰かが、声を殺して泣いているのが聞こえた。センターという場所が持つはずの秩序が薄皮一枚で剥がれ落ちている。その廊下の先に男性はいた。銃を握る腕ははっきりと震えていて、照準は定まっていない。それでも、こちらを射抜く目だけが、異様なほど冴えている。私の姿を認めた途端、獣みたいに、息を荒くした。
「……来るな! 来るなよ、俺に近寄るなっ!」
怒鳴り声。けれど、耳に残るのは威嚇よりも、追い詰められた恐怖の音だった。私は両手をゆっくりと持ち上げる。視線は外さない。床に散ったガラスを踏まないように気をつけながら、ほんの一歩だけ、前に出た。
「早く……あの女を——」
「あなたから、通報を受けた者です」
名乗らなかった。名前は、この場では、余計な重さになる。男性の眉が、わずかに動く。
「奥様の件で……以前、お話ししました」
「……嘘だ、だって俺はちゃんと声を覚えてて」
低く、掠れた声だった。途中で喉に引っかかるみたいに言葉が途切れた。私は小さく首を振る。
「嘘じゃありません。あのとき、あなたは——」
言葉を、選ぶ。刃のない言葉だけを、慎重に。男性の指が、引き金にかかっているのが見えた。それでも、足は止めなかった。
「あなたは最後まで、最愛の奥様の名前を呼んでいました」
空気が、きしんだように感じた。男性の肩が、ほんのわずかに落ちる気配。
「おまえらが……あいつらが……奪ったんだ」
「あなたは、助けようとしました。私たちも」
私は、そこだけを掬い上げる。正しさでも裁きでもない。ただ嘘偽りなく、起きた事実として。
「必死でした。声が、出なくなる直前まで」
男の瞳の中が揺れる。怒りと悲しみが同じ色に溶け合って、境目が分からなくなっている。このまま何かが壊れるかもしれない。あるいは、踏みとどまれるかもしれない。
そのとき遠くで低く、しかし確かな風切り音が重なった気がした。胸の奥がひやりとする。私は気づいてしまう。空が近いことに。もうすぐだ。彼が、来る。だから私は、逃げ道を断つみたいに最後の一歩を踏み出した。この距離で、もう一度だけ、言葉を届けるために。
「……ちゃんと、聞いていましたよ」
自分の声が思っていたよりも静かで落ち着いていて驚いた。震えてはいない。ただ薄い膜を一枚隔てたみたいに、現実感だけが、少し遠い。
「ヒーローたちも、急いで、向かっていました」
男性は何も言わない。けれど、さきほどまで、こちらを突き刺すみたいに向けられていた視線がかすかに動揺して、震えているのが分かる。それでも銃口は、まだこちらを向いている。だが力の入れ方が、違う気がした。引き金にかかっていた指が、ほんのわずかに緩んでいる。
私は一度、息を吸った。肺の奥に焦げた匂いが入り込む。それでも、言葉を選び直さなかった。
「……あなたは、一人じゃありませんでした」
それが祈りだったのか、別れの言葉だったのか自分でも分からない。ただ、言わずにはいられなかった。男性の肩が、目に見えて落ちる。そして銃口が、ほんの少しだけ下がった。
その瞬間だった。天井の向こうから、空気そのものを引き裂くような、衝撃が降ってくる。低く唸る風圧。建物が悲鳴みたいに軋む。次の瞬間、赤い光が視界を横切った。大きな、緋色の羽根。光の粒子を散らしながら一直線に落ちてくる影。
——来た。
名前を呼ぶよりも早く身体が理解してしまう。あの速度。あの軌道。迷いのない、選択。世界が一度、鮮やかに塗り替えられる。私は息を呑んだまま、その赤を見上げていた。