なぜ人は誰かと別れる時に痛みを感じるのか。その問いに対して、ある人がこんなふうに答えていたことがある。
 もともと痛みはそこにあって、その人の存在が痛み止めになっていただけなのだ、と。
 その言葉を初めて聞いたとき、胸の奥が静かに打たれた。あまりにも簡潔であまりにも正確で、そして、残酷なほど優しい言葉だと思った。もしそれが本当ならば、人が痛みなく生きていられる瞬間は、きっと、偶然のように存在しているだけなのだろう。誰かが隣にいてくれているその時間のあいだだけ。だから、忘れてはいけないのだと思う。今こうして痛みを感じずに歩いていられるのは周りにいる大切な人たちのおかげなのだと。

 *

 その日は、本当になんでもない顔で終わるはずだった。仕事を終えて駅へ向かう途中。人通りの多い通りを選び、スマートフォンを確認しながら歩く。夜の街はまだ賑やかで会社帰りの人たちがそれぞれの方向へと流れていく。ただの帰り道。それだけのはずだった。その角を曲がるまでは。

「ちょっと止まって!」

 興奮しているような声だった。はっきりとしたその響きに反射的に足が止まる。振り向いた先に立っていたのは見覚えのない一人の女性だった。年齢はたぶんホークスと同じくらいか、もしくは少し上。服装は落ち着いていて、化粧も丁寧で、どこにいても目を引くような整った顔立ちをしている。ぱっと見ただけなら、仕事帰りのきちんとした女性という印象だった。ただ、目の奥だけが違ったように見えた。

「あんたでしょ」

 それは確認ではなかった。断定だった。鋭くて冷たい。まっすぐこちらを射抜いてくるその視線に、背筋がほんの少しだけ冷える。

「え……なにが、ですか」

 言葉が出ると同時に身体が無意識に一歩引く。防衛反応に近い動きだった。けれど彼女は、その距離を埋めるように一歩前へ出る。距離が一瞬で詰まり、私は思わずもう一歩、後ずさる。

「見たでしょ? 私と寝てるところ」

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が刺された気がした。記憶が勝手に蘇る。身勝手な誘いの連絡。返信をしたあとに残った、既読だけの文字。そのあと立て続けに送ってしまった自分の短い文章。部屋のドアを開けた瞬間に感じたあの嫌な予感。玄関で見つけた、私のものではない女性用の靴。閉じられた扉の向こうから聞こえてきた声。男女の息遣い。頭の奥がぐらりと揺れる。視界が少しだけ遠くなる。

「今も連絡、取り合ってるんでしょ?」
「取ってない」

 言葉はすぐに出た。迷いはなかった。だって、本当に、連絡など取り合っていないから。むしろ連絡先すら知らない。あの日、ホークスと別れたあとに削除したから。
 彼女は笑った。その笑い方がどこか決めつけたようで、私の胸の奥に重く落ちる。

「嘘……嘘よ……」
「……」
「だって、聞いたの。まだ会ってるって」
「……はい?」
「彼が言ってた。完全には切れてないって——」
「……それ、事実じゃないと思います」
「じゃあなんで最近、そわそわしてるの!?」

 彼女の声が少し大きくなる。その言葉一つ一つが胸に突き刺さる。そんなこと、私に聞かれても困る。呼吸が浅くなる。気づけば通行人の視線がこちらへ向き始めていた。不意に足を止める人、スマートフォンを構える人。ざわめきが、ゆっくりと周囲に広がっていく。

「浮気してるんでしょ?今も裏で繋がってるんでしょ?」
「繋がってなんかいません」
「うそ……」
「連絡先すら知らないです。消したんだから」
「うそつき! だったら見せてよ、スマホ!」

 彼女が手を伸ばした。「やめてください!」と声が思ったより強く出て私は反射的に鞄を背中に隠す。それでも相手は引こうとしない。ダメだ。何度否定しても聞く耳を持ってくれない。まるで私の方が悪人みたいだ。視界の端でスマートフォンか何かのカメラが向けられているのが見える。誰かが、動画を撮っていのだ。——まずい。そう思った、その瞬間だった。

「そこまで」

 はっきりとした声が空気を割った。次の瞬間、視界に赤い光が差し込んだ気がした。剛翼——。赤くて大きな羽根。ホークスだ。彼はすでにそこに立っていた。ヒーローとしての、距離を保った位置で。感情を挟まない、冷静な立ち位置。それでも確実に、彼女と私の間に立っている。まるで自然な動作みたいに、私を守るような形で——。背中越しに見えるその姿に胸の奥が強く脈打つ。安心なのか動揺なのか自分でも分からない感覚が身体の中を巡る。街のざわめきが少しずつ遠ざかっていく。夜の空気の中で赤い羽根だけが静かに揺れる。その背中を見つめながら私はふと思う。痛みはもともとそこにあったのだと。ただ誰かが隣にいるときだけそれを忘れていられるのだと。そして今、その誰かが確かにここに立っているのだと。

「公共の場での口論は、お控えくださいねー?」

 その声は軽く聞こえるのに、妙に静かだった。場の空気を強引に切り替えるような力ではなく、ただ当たり前のことを置くような響き。ホークスは、私と女性の間に立ったまま続ける。

「彼女はあなたの主張を否定していますよね?」

 女性は一瞬だけ言葉を失った。そして次の瞬間目を見開く。どうやらホークスに私たちの会話が聞こえていたらしい。最悪の展開だ。周囲のざわめきが、少しだけ色を変える。人の視線がまた、こちらへ向くのが分かる。

「……ホークス」

 無意識に、その名前を呼んでいた。ヒーローとしての名が、静かな水面に石を落とすみたいに、この場の中心へすっと広がっていく。自分で発したはずの音なのに、どこか遠くから聞こえてくるような感覚があった。けれど彼は、すぐに「黙って」と短く制した。低く抑えられたその一言が、余計なものをすべて削ぎ落とすように響く。それだけで、場の空気は輪郭を変え、ざわめきが一歩引いたみたいに静まった。

「でもこれは、わたし自身の……」

 私は、小さく口を開く。自分の問題だと思ったから。ここに立っているのは私の過去の話の延長だから。でも、その先を彼が静かに遮った。その声は、穏やかだった。

「事実関係を確認する必要があるなら法的な窓口とか、案内しますけど?」
「……」
「ですが——」

 女性は言葉を失ったまま固まっている。しかしホークスは淡々と続けた。その視線は、彼女ではなく、私に向いたままだった。

「今ここで、この人を責め立てる理由には、なりませんよ」

 その言い方は、感情を押し出すものではなかった。ただ、境界線を引くような声。ここから先は踏み込ませない、と。
 女性は何も言わない。代わりに、周囲の空気がざわつく。スマートフォンのカメラを構えている人影がまだ視界の端に映っている。ホークスは、見ていなくても剛翼で感じ取ったみたいにして、ふっと肩をすくめて周囲を軽く示しながら言う。

「ほら見て? み〜んな、あなたのこと見てますよ」
「……」
「きっと数時間後には、ネット上に動画があがっちゃいますねぇ。こわいこわい」

 その言葉は軽いのに妙に説得力があった。女性は下唇を噛む。そして一度だけ周囲を見回した。その視線に現実が映り込んだのだろう。数秒後、彼女は、私とヒーローに背を向けた。

「……覚えてろ、この尻軽女」

 悔しそうにそれだけを言い残して足早に去っていく。人の流れがゆっくり戻る。ざわめきが遠ざかり、街の音がまた普通の大きさに戻っていく。
 ——終わった。そう思ったのに。身体が、動かなかった。足の裏が、地面に張りついたみたいに重い。するとホークスが、そっと私の方へと振り返った。

「名前さん」
「……」
「大丈夫ですか」

 その声が私に向けられているとわかった瞬間、胸の奥で張り詰めていた何かが静かにほどけた。「……うん」と声は出た。それでも足元が、少し揺れる感覚が残っていた。視界の端が、わずかに霞む。ホークスは何も言わずに、もう半歩だけ、近づいた。距離を詰めすぎない。触れもしない。ただ、そこにいる。

「……顔色、良くないですね」
「ん、平気」
「平気な人はそんなふうに立ち尽くさないです」

 責める声ではなかった。むしろ事実をやさしく指摘するような声音。私は何も言えない。身体の中に残っている冷たい感覚が、まだ抜けていないから。ホークスは少しだけ視線を落とす。そして迷うような間のあとポケットに手を入れた。取り出したのはずいぶんと見覚えのある代物だった。

「これ」

 彼は私の手を取らずに、「手を出して」とだけ言う。促されるように右手を出すと、それをただ手のひらに、そっと置く。金属の重みが、指先に伝わる。

「なに……」
「もー、見たことあるでしょー?」
「……」
「俺のセーフハウスの鍵です」

 私は自分の手のひらを見つめる。その意味が、すぐには理解できない。それを知ってか知らずかホークスが、先の言葉を続けた。

「今日は、一人にならないほうがいい」

 それは拒否ではなかった。命令でもない。ただ状況を整えるための言葉。

「仕事、まだ残ってるんで」

 彼はそう言う。ヒーローの顔に戻った声音で。それでも、視線は私から逸らさない。

「早く片付けます。俺の出せる、最高速度で」
「……」
「だから、待っててもらっても、いいですか」

 その言い方が、あまりにも自然だった。特別な提案でもなく特別な優しさでもなく、ただ当たり前のことみたいにして。胸の奥が、じんと痛む。私は鍵をそっと握った。指の中で、金属が静かに冷えている。

「……いい、の?」

 思ったより小さな声だった。自分でも驚くくらい頼りない響きで鍵を握る指先に少し力が入る。
 彼は迷わず「はい」と答えた。間を挟むこともなく、考える素振りもなく、まるで、その判断が最初から決まっていたみたいにして。

「今の名前さんを、一人にしておくほうが、よくない」

 その言い方は、ヒーローとしての判断ではなかった。誰かを助ける職業の人間としての台詞でもない。もっと静かで、もっと個人的な声だった。親友としてでもなく誰かの保護者としてでもなくただ今この瞬間、私のすぐ近くにいる人としての言葉。私は手のひらに乗ったそれをもう一度握りしめた。金属の冷たさが指の内側に残っていて、ほんの少しだけ胸の奥の震えが落ち着いていく。

「……待ってるね」

 それだけ言うのが精一杯だった。ホークスは、ほんの少しだけ表情を緩めた。いつもの軽い笑みではなくどこか、静かな安心を含んだような顔。

「ありがとうございます」
「……」
「無理に、元気出さなくていいんで」

 ホークスは付け足すようにそう言った。そして私に背中を向ける直前、ほんの少しだけこちらを振り返って。

「——今日は、守る側、俺がやります」

 赤い羽が、夜の空気を押し分ける。彼の背中は街灯の光の上をすっと越えてあっという間に夜へ溶けていく。その姿が見えなくなるまで私はしばらく動かなかった。人の流れは、もう完全に元に戻っている。さっきまでここで起きていた出来事なんて、街の中では、小さな波紋でしかなかったみたいになる。でも。私の手の中には確かに鍵がある。今日、帰る場所の鍵。そして、待つ場所の鍵。夜の空を見上げると遠く、赤い羽が一瞬だけ街灯の光を受けて揺れた。

 『——今日は、守る側、俺がやります』

 彼の言葉を反芻しながら私は手の中の冷たさを確かめるみたいにしてそっと目を伏せた。そしてようやく理解する。ダメージを受けていたのは、あの女性の言葉じゃない。誰かに疑われる立場にもう、戻りたくなかっただけだと。
 あの瞬間、胸の奥が凍りついたのは過去の記憶が呼び起こされたからだった。誰かの誤解や疑念の中で弁解する側に立つあの感覚。何を言っても信じてもらえない空気の中に、自分の立場を置かれるあの重さ。私はそれをもう一度味わうことが怖かったのだと思う。
 でも。その場所から迷いなく手を引いてくれる人が今ここにいた。それだけのことが胸に静かに沁みていく。胸の奥の痛みはまだ消えていない。けれど今は、その痛みを忘れられる場所が確かにひとつ、与えられているのだと知っていた。

 夜の風が、少し冷たい。駅へ向かう人の流れの中で、私は一度だけ空を見上げる。赤い羽根は、もう見えない。それでも不思議とどこにいるのか分かる気がした。
 人は、人を想うことで、その大切さや苦しさを知るのだと思う。それは喜びと苦難の裏表のようなものだ。どちらかだけを選ぶことはできない。想うことは、痛みを知ることでもある。けれど、その痛みの分だけ、人は少しずつ大きくなる。
 すぐには変われなくても、時間がかかっても、きっとどこかで静かに育っていく。たとえ、その恋が、成就しなかったとしても——。それでも、人は恋をする。夜の街の灯りが遠く揺れている。私は鍵をポケットにしまいゆっくり歩き出した。待つ場所があるということを、胸の奥でそっと、確かめながら。

 ホークスのセーフハウスは相変わらず静かだった。鍵を差し込んで扉を開ける、その一連の動作すら、どこか自分のものではないみたいにぎこちなく感じる。
 ここに入ることを許されているのに一人で踏み込むことにはまだ、慣れていない。その、曖昧な境界の上に立たされているような感覚が靴を脱ぐだけの仕草をやけに重くした。室内は必要最低限の明かりだけが残されている。照明は落とされ、カーテンも半分ほど閉じられていて、夜の気配がそのまま部屋の奥に溜まっているみたいだった。彼が急いで出ていった痕跡が、あちこちに残っている。ソファの背に無造作にかけられた部屋着。テーブルの端に置かれたままの、少し冷めかけたコーヒー。生活の途中で、切り取られたみたいなその光景に、胸の奥がゆっくりとほどけていく。整えられた空間よりも、こうして途中で止まっている痕跡の方が、なぜか安心する。ここに、あのヒーローが、ちゃんといるのだと分かるから。

 『待っててもらっても、いいですか』

 あの一言が思っていた以上に残っている。私はソファの隅に腰を下ろして深く息を吐いた。ようやく身体の中に溜まっていた力が少しずつ抜けていく。しばらくして鞄の中で眠っていたスマートフォンが震えた。



ホークス

もう少しかかりそうです
先に寝ててもらっていいんで





 淡々とした文面で余計な言葉を挟まないところが、彼らしいなと思う。私は画面を見つめたまま少しだけ考えてから『起きてるよ』とだけ返す。それ以上は打たない。送信された文字が、画面の中で、静かに収まるのを確認してから、そっと、伏せる。
 部屋は相変わらず静かだった。時計の音だけがやけに大きく響く。一定の間隔で刻まれるその音が、時間の経過を、過剰に意識させる。さっきの出来事が少し遅れて身体の奥に沈んでくる。もう終わったはずなのに言葉だけが残っている。事実ではないはずなのに、彼女の声が粘り気を持ったまま、意識のどこかに張り付いて離れない。
 私は膝の上で手を重ねたまま、動かずにいた。そうしているうちに、玄関の方で鍵の音がした。ドアが開く音。日付が変わる少し前の、遅い帰宅だった。

「あら……起きてました?」

 低く、抑えたような声が部屋に落ちる。疲れを隠しきれていない響きだった。私が、「うん」と言って立ち上がると、ホークスはほんの一瞬だけ驚いた顔をした。それからすぐにいつもの表情に戻る。整えるのが早い人だなと思う。

「無理させましたよね」
「ううん、してないよ」

 そう答えながら、私は、彼の動きを目で追っていた。ジャケットを脱ぐ仕草。肩の力がわずかに抜ける瞬間。アンダーシャツの首元が、少しだけ崩れていてきちんとしているはずの輪郭にほんの少しだけ隙が見える。

「……仕事、長引いたの?」
「少しね」

 それ以上は言わない。説明しようともしない。だから私も深追いしない。彼はスマホを置いて、首を鳴らしながら、キッチンへ向かう。グラスに水を注いで一口飲む。その一連の動作を私はただ黙って見ていた。何かを確かめるみたいにして。

「あ……座っててください?」

 彼が言う。その声に従って、私はまたソファへ戻る。さっきと同じ場所。同じ姿勢。けれど彼がこの空間にいるというだけで、空気の温度が少し変わる気がした。
 ホークスは、少しだけ距離を取った位置に腰を下ろした。近すぎない。でも、遠くもない。その絶妙な距離が、今の関係を、そのまま表しているみたいで私は一瞬だけ視線を落とす。すると彼が先に切り出した。その声に、身体の奥がわずかに強張る。

「さっきの、ですけど……怖かったですよね」
「……うん」

 正直に答えると、彼は小さく息を吐いた。その吐息がどこか自分に向けられているもののように感じられて、私は無意識のうちに指先をぎゅっと重ねた。

「疑われるのって、一番しんどいやつですよね」

 言い切る声音だった。慰めでも気休めでもなく経験として知っている人の、温度を帯びた言葉。私はその横顔を、ほんの少しだけ見つめる。彼は私を見ないまま、ただ事実を置くように続けた。

「名前さんは悪いこと、ひとつもしてない」

 その一文が、思っていたよりも深く胸に落ちてくる。言われるまでどこかで自分の側にも責任があるのではないかと曖昧に疑っていたことに気づく。理由のない非難に晒されたときほど、人は、自分を疑うしかなくなるのだと遅れて理解する。けれど、それでも——。
 私は、「でもさ」と言い置いて、膝の上で指を組み直す。絡めた指先に、わずかに力が入る。

「何も悪いことしてなくても勝手に物語作られて責められるんだなって」

 言葉にしてしまうと、それは思っていたよりも現実味を帯びていた。誰かの中で勝手に組み立てられた筋書きに、自分が役を、与えられてしまう不快さ。それでも返ってきたのは、間を置かない彼の真っ直ぐな声だった。

「ありますよ」
「……」
「人間は、そういうことします」

 淡々とした言い方なのにその中に諦めと理解が混ざっているのが分かる。否定はしない。でも、正さない。ただ��そういうもの�≠セと受け入れている。しかし、次に続いた彼の声の調子がほんのわずかに変わる。

「だからさ」
「……」
「ちゃんと線を引く人が、そばにいた方がいい」

 その言葉に彼自身が含まれていることを、私は考えるまでもなく理解してしまう。だから返事ができない。沈黙が、ふたりの間に静かに落ちる。けれどそれは、さっきまでの張り詰めたものではなく少しだけ柔らかく形を持たないまま広がっていくような沈黙だった。

「……ねぇ」
「はい?」

 返事はいつも通りで、けれど耳に届く響きが、少しだけ、近く感じる。言葉を選びながら、私は続けた。何を聞きたいのか、自分でも、完全には分かっていないまま。

「今日さ」
「うん?」
「助けてくれたの、ヒーローとして、でしょ」

 一瞬だけ、間があった。「……最初は。」と、そこで一度切る。そして続きを言う前にわずかに呼吸を置いた。私は黙って、その先を待つ。

「途中からは、名前さんの、親友としてです」

 ——親友。それ以上は踏み込まない。けれど、十分すぎるほどの線引き。どこまでが仕事でどこからが私に向けられたものなのか。その境界を、あえて曖昧にしない言い方。

「……ありがとう」
「どういたしまして」

 あまりにも、簡単なやり取りだった。けれど、その軽さの中に嘘が一切含まれていないことが、かえって分かる。少ししてホークスがソファから立ち上がった。

「何か、温かいの飲みます?」
「……うん、飲みたい」
「りょーかいでーす」

 軽く伸びる語尾。それだけで場の空気がほんの少しだけ日常に戻る。キッチンへ向かう背中を、私は目で追っていた。無駄のない動き。けれど、急いでいるわけでもない、ちょうどいい速度。
 この人は、こういうとき、何も聞かない。必要以上に踏み込まない代わりに、必要なものだけをきちんと差し出してくる。その距離の取り方に、どれだけ救われているのかを私は今さらのように実感していた。この場所は彼のもので私はそこに招かれているだけなのに。それでも、待っていていいと言われて実際にこうして待っていて帰ってきた彼を迎えている。その一連の流れが、思っていた以上に胸の奥を満たしている。誰かの帰りを待つこと。その帰りを、受け取ること。それが、こんなにも静かに人を落ち着かせるのだと、私はようやく知る。
 やがてホークスがマグカップを二つ手に持って戻ってくる。湯気がゆっくり立ちのぼり温かさが視界の中に滲む。彼は何も言わずに、それを差し出した。触れそうで触れない距離のまま、ただ、そこに置くように。

「火傷、気をつけて」

 差し出されたマグの縁から立ちのぼる湯気が、視界をやわらかく曇らせる。その向こうで、彼が何気ない顔をしているのが、かえって不思議だった。ほんの数時間前まで、あんなにも世界がざわついていたのに。

「……お母さんみたい」

 口に出してから、自分でも少しだけ可笑しくて笑った。こんなふうに軽口を叩けること自体が、どこか現実から浮いているようにも感じられた。

「えー、お兄ちゃんがいいです」

 すぐに返ってくる声はいつも通りの軽さを含んでいる。けれど、その軽さの奥に、さっきまでの緊張をなぞるような静けさが残っているのを私は知っている。彼も小さく笑った。その瞬間、胸の奥で張り詰めていた何かが、音もなく、ほどけるように切れていく。強く、意識していたわけではないのに、ずっとどこかで力を入れていたのだとそのときになってようやく分かる。

「……ねぇ、ホークス」
「はーい?」

 相変わらず間延びした返事。でも、その声音はきちんとこちらを向いている。

「今日はさ」
「うん?」

 私は、マグを両手で包み込む。じんわりとした熱が、冷えきっていた指先からゆっくりと身体の内側へ染みていく。

「ここに来て、よかった」

 言葉にしてしまうと、それは驚くほど簡単で、あっけない一文だった。けれどその中にはさっきまで言葉にできなかったものがすべて溶け込んでいる気がした。ホークスはすぐには答えなかった。ほんのわずかな沈黙。そのあいだ彼の手元にあるマグが少しだけ緩く持ち直されるのが視界の端に映る。

「それなら——鍵、渡した意味ありましたね」

 それだけ。それ以上でも、それ以下でもない。何かを確かめるわけでも、深く踏み込むわけでもなく、ただ事実として置かれる言葉。その距離の取り方に私はもう驚かない。むしろ、そのままの温度で差し出されることに静かに安堵している。
 その夜も特別なことは何も起きなかった。同じ空間にいて同じ夜を過ごして、同じ時間の流れの中に身を置いただけ。触れ合うことも踏み越えることもなく、ただ隣にいることを選び続けた夜。けれど、疑われたあとで、守られたあとで、何もされないということ。何も起こさないままでいられる関係が、こんなにも深く心に残るのだと私は知らなかった。マグを持つ手のひらにまだ温もりが残っている。それを確かめるみたいに少しだけ指先に力を込める。言葉にはできないまま、ただその熱を抱えている。

「……おいしいね、これ」
「ルイボスティーす」
「ふふ。おしゃれ……」
「ノンカフェインです」
「寝る前には抜群だね」
「っすね」

 夜は静かに更けていく。時計の針の音と遠くで流れる車の気配だけが、現実を、ゆっくりと繋ぎ止めている。それでもこの部屋の中だけは、外の世界から切り離されたみたいに穏やかで。
 守られたあとに訪れる静けさは、どこか、やさしい余韻に似ていると思った。たぶん、私はまだこの関係の名前を知らない。けれど。名前を持たないままでもこうして同じ夜を分け合えることがどれほど救いになるのかだけはもう知っている。
 湯気が、ゆっくりと消えていく。その向こうで彼の輪郭もまた夜の中にやわらかく溶けていく。触れない距離のまま確かにそこにいる気配だけを残して。その曖昧さごと抱きしめるように、私はそっと、目を閉じた。


 *


 残業が思いのほか長引いてしまい、職場を出たときには肩の奥にじんわりと重さが残っていて、けれど終電まではまだいくらか猶予があることに気づいたとき、わずかに呼吸が楽になったような気がした。それなのに、遠くから聞き慣れた声が届いた途端、その緩みかけていた何かが反射的に強張って、ぴたりと止まるのが分かった。
 笑っている。軽く、あの人懐こい誰にでも同じように向けられる、人の良さそうな、どこまでも無防備に明るいヒーロー、ホークスの声——。
 視線を向けた瞬間、胸の奥がわずかに鳴った。囲まれている。女子たちに。肩に触れる手、腕に絡む指、躊躇のない距離。彼はそれを拒まない。拒まないどころか、慣れた動作で相手の肩に軽く触れて、体を寄せるようにして応じている。その一つ一つがあまりにも自然で、作られたものではなくて、だからこそ、私の中のどこかが、静かに軋んだ気がした。

「はいはーい、順番ね〜」

 声が少しだけ遠くに聞こえる。サイン。写真。カメラを構える子のほうへと身体を傾け別の子が袖を引けば、そちらへと視線を落とすその一連の動きがあまりにも滑らかで日常として処理されていることが分かってしまうような横顔だった。
 ああ……知っていたはずなのに。これが本来の��ヒーロー・ホークス�≠フ姿で、これが彼のいる場所で彼の仕事で、彼の役割で、そういうものを全部、私は理解しているつもりでいたのに、いざ目の前に置かれると、頭で整えたはずの理解は、まるで役に立たなくて身体のほうが先に拒否してしまう。私は視界が滲む前に踵を返した。歩く。とにかく、歩く。背中に焼きついた光景が、振り払っても振り払っても離れないままついてくる。
 しかし、そのとき後ろから、慌てた足音が追いかけてきた。

「名前さん! ちょ、待って——!」

 聞きたくない。今はまだ、あの声を近くで受け止めたくない。だから、振り返らない。歩幅を、ほんの少しだけ速める。

「違うんですって!あれほんと、いつもやってるやつで——!」

 背後から届く言葉に足は止めないまま胸の奥で何かがひどく、歪むのを感じた。逃げるほどではない。けれど追いつかれないように調整するその中途半端な速度が自分の感情のどこにも居場所を作れていないことをよく表していた。

「いや、さ! ベタベタされてたでしょ?あれは俺がどーとかじゃなくて、ほら、ひなどりちゃんたちが——」
「なんでそんな必死に弁解するの?」

 口をついて出た自分の声は、思っていたよりも平坦で、驚くほどに、感情が乗っていなかった。けれど、その平坦さの奥で、確かに何かが擦れている。立ち止まりはしない。視線も合わせない。ただ、前だけを見て歩き続ける。

「いつもやってるやつなんでしょ」

 歩きながら言葉を落とす。自分でも、我ながら性格の悪い返し方だなと思う。それでも一度口にしてしまったものは引っ込められないまま、次の言葉を重ねる。

「あれが、ホークスじゃん」
「あれがって……」
「ファンに囲まれて触られて笑って、軽く自分も相手に触れたりしてさ?」
「やけん、ちが——」
「ちがわないよ」

 遮るように言った瞬間、胸の奥底に鋭い痛みが走った。それは一過性のものではなくじわじわと内側に残り続けて、歩みを進めるたびにわずかに揺れ、白く引かれた歩道の線を踏み越えるとその痛みもまた小さく位置を変えるみたいに、確かにそこにある。人の流れは途切れない。忙しそうに通話を続けるサラリーマン、これからの夜に期待を滲ませ笑い合う大学生たち。誰もが自分の速度で誰かの時間を生きている。その中に私たちも、ただ、紛れ込んでいるだけで、特別なものなんて何ひとつないはずなのに。なぜかこの距離だけが妙に現実から、浮いているように感じられた。

「見てたよ、ちゃんと」
「……」
「ちゃんと……慣れてた」

 その一言を口にした途端、過去の、いくつかの光景が意図せず重なって浮かぶ。少し踏み込んだ夜も居酒屋の個室で正面から抱きしめられた時の距離も。初めて夜の境界を越えてまだ名前のない場所へ触れた夜の、あの、キスも——。どれも、確かに存在していたはずなのに今の光景と並べたとき、急にその輪郭が曖昧になっていく。
 ホークスの息が少しだけ荒くなるのが分かる。私の横——半歩、後ろ。距離を詰めようとして、けれど、触れないまま保たれているその位置が、逆に強く意識される夜。

「俺、追い払えますよ。でもさ、ああいうのって下手にやると——」
「分かってる」
「……」
「仕事だもんね」
「……」
「ヒーローだもんね」

 どこまでも彼の言葉を遮る。自分で言っておきながらその響きが胸の奥に引っかかるのが滑稽でならない。それでも、止めることができないまま言葉を重ねてしまう。私は、ほんの一瞬だけ足を緩めた。

「そうでしょ?」
「……」
「だから、いいじゃん」
「名前さん……」
「私たち、別に付き合ってないし」

 その言葉が、どれだけ不用意で、どれだけ取り返しがつかないものなのかを、遅れて理解する。それでも、もう遅い。空気を切り裂くようにはっきりと形になってしまった。それでも大丈夫だとどこかで思う自分がいる。私だって、同じようなことを言われたことがあるから。そう、彼の——二十一歳の誕生日に。
 ホークスの足音が、ふっと止まる。けれど私は止まらない。歩き続ける。振り返らないままその距離だけをわずかに、けれど確実に引き延ばしていく。

「縛る理由、ないよね」

 言いながら、自分の声がどこか、他人のもののように聞こえて、ほんの少し遅れてから、それが確かに自分の口から出た言葉なのだと理解する、その距離のぶんだけ現実感が薄れていくのに胸の内側では逆に、何かがじわじわと締めつけられていく。

「私は、付き合ってもいない人に、独占欲なんて抱かないから」

 続けた言葉は、明らかに自分を守るための形をしていた。分かっている。それでもそれを言葉にして外に出してしまわないと、内側で抱えているものが形を保てなくなってしまいそうで崩れ方を選べないまま、ただ先に、口を動かしてしまう。彼の気配が、すぐ後ろにある。

「俺は——」

 声が少し低くなる。そのわずかな変化に背中のあたりが緊張するのを感じた。

「俺は、あれが平気だと思われるの、正直……」
「思われる?」

 ようやく、足を止める。けれど振り返らない。反射的に返した言葉に、ほんの少しだけ、苦笑が混じっていた。自分でもそれがどこか歪んだ反応だと分かっているのに抑えきれなかった。視線は前に向けたまま、さっき見た光景をなぞるように言葉を重ねる。

「だって、平気そうだったよ」
「……」
「順番ね〜、とか言ってさ」
「それは……」
「上手だった。さすが、人気ヒーロー」

 街灯の下で伸びた影だけが、わずかに重なっているのが視界の端に見える。その重なりが実際の距離とはまったく関係なく見えることが、妙に、現実味を削ぐ。

「ホークス」

 名前を呼ぶ。それだけで喉の奥が少しだけ狭くなる。声にするだけのはずの行為が、どうしてか境界線に触れるみたいに重たく感じられた。この先を言葉にしてしまえば、きっと何かが変わる。戻れなくなるというより、同じ呼び方のままではいられなくなる気がした。
 ただ、名前を呼ぶだけで保たれていた距離が、音にした途端、意味を持ちすぎてしまう。そんな予感が、言葉の続きを喉元で引き留めていた。

「私はさ」
「……」
「自分が、どの立場なのか分からなくなるのが、嫌なんだよね」

 言葉にした瞬間に、胸の奥に引っかかっていたものが、少しだけ形を持つ。けれどそれは、軽くなるというよりも、むしろ、輪郭がはっきりした分だけ痛みが増すような種類のものだった。

「見ていいのか、見ちゃいけないのか」
「……」
「気にしていいのか、ダメなのか……」

 どこまで踏み込んでいいのか分からないまま、足場のない場所に立っている感覚が、ずっと消えない。その不安定さをどうにか言葉で支えようとしているのだと、話しながら理解してしまう。
 背後で、彼が、何かを言おうとしている気配がある。言葉を選んでいる間の沈黙がかえって重くなる、あの瞬間だ。

「だから、今日は帰る」

 区切るように言ったあとほんの短い間があってそのあとに届いた彼の声は、それまでよりもはっきりと、熱を帯びていた。足音が近づく。距離が詰まる気配だけがはっきりと分かるのが悔しい。

「……俺は、あれが普通だと思ってないです」
「……」
「慣れてるだけで」
「……」
「慣れたくて、慣れたわけじゃない」

 その言葉が耳に届いた瞬間に、胸の奥で何かが揺れた。けれど私は、それをどう扱えばいいのか分からないままただ受け止めきれずにいるのだ。

「あなたに、見せたい姿じゃない」

 そこでようやく呼吸が少し落ち着いたのを自覚する。けれど振り返らない。振り返ってしまえばその言葉の意味を正面から受け取ってしまう事になると分かっているから。少し遅れて返した声は自分で思っていたよりも静かだった。

「……それ、今、言うの?」
「今じゃないと、逃げられそうなんで」
「……」
「あなたが、離れていきそうで……」

 その一言で、胸の奥に積み上がっていたものが静かに崩れた。音もなく、けれど確実に形を失っていく。それでも、私はその崩れをまだ受け止めきれない。

「ごめん……今日は、無理」

 それだけをどうにか絞り出してまた歩き出す。後ろから、彼が名前を呼ぶ声が重なる。何度も。止めるように、引き戻すように。それでも、振り返らない。今、目を合わせてしまえば、そのまま全部を許してしまうことが、分かっているから。その選択を自分に許さないために、ただ前だけを見て、歩き続けることしかできなかった。


 *


 ホークスとの連絡は、取ろうと思えば取れた。返さない理由も返せない理由もどちらもはっきりしていないまま私はただスマートフォンを伏せて仕事と日常に身を沈めていた。
 既読をつけないことも、未読のままで放置することも、どちらも同じように幼稚に思えて結局、通知だけが静かに積もっていく。
 その夜、私は職場の人に誘われた飲み会に顔を出した。男女混じりのごく普通の集まりで特別な期待も特別な意味もなかったはずなのにグラスを重ねるうちに、胸の奥に張りついていたものが、少しずつ緩んでいくのを感じていた。

「なんだか、テンション低めですね」

 そう声をかけてきたのは、隣に座っていた男性だった。会話のテンポも無難で、特別に惹かれるところがあるわけではない。けれど、だからこそ安心できる距離感だ。

「え。そう、見えます?」
「ええ。肩の力が、張ってる感じがしますよ」

 張っているのか、張ろうとしているだけなのか自分でもよくわからないまま私は小さく笑った。
 飲み会がお開きになり店を出たあと、同じ方向だということで隣に座っていた男性と駅まで歩くことになった。夜風は思っていたよりも冷たくて頬に触れるたびに少しだけ意識が外へ引き戻される。私は無意識の内に歩く速さを緩めた。すると並んでいた彼がそれに気づいたのか、さりげなく歩幅を合わせてくる。その調整の仕方が、あまりにも自然で、こちらに何かを求めている気配も、距離を詰めようとする意図も感じられない。ただ隣にいることを選んでいるだけのような控えめな近さ。近すぎず、遠すぎず。触れそうで触れない距離のまま何も期待されていないことがかえって心地よく思えた。

「今日は、お疲れ様でした。楽しかったです」
「……ええ。また、機会があれば」

 そんな、ありふれたやり取りを交わしながら、駅前の明るい通りへ出たそのときだった。視線を感じた。人の波の向こう——少し離れた場所に、見覚えのある背中があって、それがこちらを振り返った瞬間、胸の奥が、はっきりと鳴った。
 ホークスだ。少しだけ砕けた私服姿でそばにはヒーロー仲間らしき数人の影。別件で飲みに来ていたのだろう。楽しげな空気の中で、彼だけが、一瞬、動きを止めた。目が合った。ほんの一瞬。でも、確実に。
 私は咄嗟に、すぐに視線を逸らした。逸らしてそのまま、何事もなかったみたいに、隣の男性に向き直る。

「じゃあ、私……ここで」
「あ、はい。気をつけて」

 言葉はちゃんと出た。声も震えていなかった。男性と別れて歩き出すと背中に視線が突き刺さるのがわかった。振り返らなくてもそれが誰の物かわかってしまうくらいには私は、彼を知りすぎてしまっていた。それでも、歩みは止めなかった。止めたらきっと戻ってしまう。戻ってしまえば、またあの曖昧な場所に引き戻される。だから私は駅の改札へ向かう人の流れに沿って歩き続けた。
 二人で歩いていたところを、見られていたかもしれない。仲睦まじく見えたのかもしれないし、そう見えるように、無意識に距離を測っていたのかもしれない。背後で不意に、誰かが名前を呼ぶ気配がした気がした。でも、確かめなかった。

 改札の光に吸い込まれる直前、ふと、胸を締めつけたのは罪悪感ではなく奇妙な静けさだった。
 これでいい。少なくとも今は。そう思いながら私は、一度も振り返らなかった。


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