それから、一週間ほどが過ぎた。劇的に何かが変わったわけではない。朝になればそれぞれ仕事へ向かい、夜になれば、どちらかの部屋で夕飯を食べる。そんな日が少しずつ増えただけだった。
彼は相変わらず不規則で深夜に帰ってくる日もあれば、朝方まで任務で戻れない日もある。それでも『今から帰るよ』『今日は遅くなる』と短い連絡が届くようになって、そのたびに私はご飯を温め直す時間を考えたり、一人分で済ませていた味噌汁を二人分にしたりするようになった。
たったそれだけのことなのに生活の輪郭は少しずつ、変わっていく。誰かの帰宅時間を気にして夕飯を作ることも「おかえり」と言う相手がいることも、ついこの前までは私の日常にはなかったものだった。それが今では、ごく当たり前の顔をして毎日の中へ溶け込んでいる。
今日も私の部屋のテーブルには二人分の食器が並んでいた。冷蔵庫の残り物で作った肉じゃがと焼き鮭。それに、豆腐とわかめの味噌汁。
特別な献立ではない。それでも、向かいに座る人が「うまっ」と、嬉しそうに箸を動かしているだけで、不思議と食卓は少しだけ賑やかになる。
「名前ちゃんってさ」
肉じゃがのじゃがいもを頬張りながら、不意にホークスが、何気ない調子で口を開いた。
「料理、ほんと家庭的だよね」
「褒めても何も出ませんよ?」
「えー、出るじゃん。ほら、ご飯」
そう言って、悪びれもなく笑う。最初の頃ならその笑顔だけでまともに目を合わせられなかったはずなのに、今では「もう」と、肩を竦めて笑い返せるくらいには慣れてしまった。
——いや。慣れたと思っているのは、たぶん、私だけだ。彼から、不意打ちみたいに「好き」と言われれば、いまだに心臓は、律儀なくらい騒ぎ出すし目が合うだけで落ち着かなくなる日だってある。少しだけ平気なふりが上手くなっただけで本当のところは、何も変わっていない。
食卓の端では、テレビが小さな音でニュースを流している。今日もどこかで、ヴィランが騒ぎを起こしたらしい。画面の隅には、ホークスのヒーロー名まで映っていたけれど、当の本人は他人事みたいな顔で、味噌汁をすすっていた。その顔を眺めながら私はそっと箸を置く。
「そういえば、さ……。また、飲み会があって」
その瞬間だった。味噌汁を口へ運びかけていた手が、ぴたりと止まった。視線だけが、ゆっくりこちらへ向く。その反応がおかしくて私は思わず笑いそうになった。それでも「飲み会?」と聞き返す声が、いつもより、ほんの少しだけ低い気がした。
「……はい、金曜日に」
「明日じゃん。ほんと、飲み会好きだねぇ」
彼は小さく息をついて、やれやれとでも言いたげに肩を竦めた。私は途端に居心地が悪くなり、苦笑いを浮かべる。
「好きで行ってるわけじゃないですよ。ほとんど会社の付き合いが多いし」
「はいはい」
その返事だけは素直なのに、ぜんぜん納得していない顔だった。それが、あまりにもわかりやすすぎて説教を喰らう前に私は、先回りするように言った。
「今回の飲み会は、飲みすぎないように気をつけます」
するとホークスは箸を置いて、小さくため息をついた。「へぇ」と片眉だけを持ち上げてじっとこちらを見やる。その口元だけが、笑っている。
「それ、信用していいやつ?」
「あ、その顔。信用してない」
「どうかなぁ。半々くらい?」
「ひどい」
「……いやぁ。だってさ、前科あるもん」
ホークスは、困ったように笑いながらも、その目だけは少しも、冗談ではなかった。ただ、その一言だけで、あの日の朝が鮮やかによみがえってしまう。酔った勢いで隣の部屋へ押しかけた事も記憶がなくなったことも、翌朝、あれほど真剣な顔で「思い出すまで帰さない」と言われた事も。
思い出した途端、耳の奥まで熱くなる。私は、誤魔化すように小さく咳払いをして、味噌汁へと視線を落とした。あれ以来、飲みすぎないと何度心に決めても、その失敗談だけは、どうやら彼の中で簡単には風化してくれそうになかった。
「で。誰と?」
何気ない声だった。けれど、こうして隣にいることが増えたからこそわかる。この人が、何でもない顔で聞く時ほど、その奥にはちゃんと理由があるということを。
「……えっと、女友達。専門学校時代の」
素直にそう答えると、ホークスは、置いていた箸を持ち上げてまた動かし始めた。けれど、その視線は、茶碗の中に落としたままだった。
「女友達ねぇ」
語尾に、わかりやすい含みが乗っている。私は思わず、そばに置いてあったコップを手に取り、一口、水をしっかり飲み込んでから眉を寄せた。
「……なんですか、その言い方」
「え? いやぁ?別に?」
言葉とは裏腹に、全然「別に」という顔をしていない。この人は本当にこういうところだけ妙に子どもっぽいなと思う。普段は、何を考えているのかわからないくらい余裕があって、どんな状況でも笑っているくせに、私に関わることになると途端に隠し方が雑になる。それがいいことなのか悪いことなのかは、よくわからない。
「今回は、何時から?」
「八時からですね。仕事が終わって、そのまま、向かう感じで」
「仕事って何時までだっけ。たしか、六時半?」
「はい、定時なら」
ホークスは「ふうん」と、小さく返しながら、漬物を一切れ、箸で取った。そして、なぜか私の皿の隅へと、そっと乗せる。
「……食べろ、ってこと?」
「ん。最近ちゃんと野菜食べてる?」
「なんか、お母さんみたい」
「はは。よく言われる」
否定しないあたり本当にそういうところがあるのだろうなと思う。私は素直に、漬物を箸で持ち上げた。けれどその次に続いた彼の言葉で漬物を口の中に入れる前にまた、箸を止めてしまった。
「迎え行くよ」
「え?」
あまりにも自然に言うものだから一瞬、意味を理解するのが遅れた。
「……いやいや、大丈夫です。仕事終わってから少し時間潰して、そのまま向かうので」
そう返すとホークスはすぐに首を横に振った。「だめ」と、言い切る声音は柔らかい。けれど、そこに迷いは一切なかった。
「あの日みたいになったらどうすんの」
正論だった。ぐうの音も出ないくらい、綺麗な正論。私は途端に、返す言葉を失ってしまう。
「八時に店の前いるから。あとで場所送って」
「あ、あの……」
「ん」
「八時って、飲み会が始まる時間なんですけど」
「知ってるよ」
あまりにもあっさり返されて私は目を瞬いた。つまり——。飲み会が終わるまで外で待つつもりなのだ。この国で知らない人はいないほど有名なウィングヒーロー・ホークスが。
「それってもう、ボディガードの域なのでは」
少し呆れながら言うとホークスは味噌汁を最後まで飲み干したあと空になった椀を置いて、ようやくこちらを見やる。その口元が、わずかに吊り上がっている。
「ボディガードじゃなくて彼氏ね」
「ああ……ん? はい!?」
思わず声が裏返った。ホークスは、そんな私に見向きもしないで、空いた皿を重ねていく。なんとも静かな動作で、音も立たなかった。そして、その目が持ち上げられると、今度は真っ直ぐ私を射抜いて、何でもないことみたいに続けた。
「だってさ〜。あの日、好きって言ったの、俺」
「……」
「で、名前ちゃんが『うん』って言った」
「え」
「いや——え、じゃなくて」
ホークスは呆れたように笑った。そして重ねた皿を端に除けて、漬物をもう一切れ口に運んだ。今度はあえて、品もなくボリボリと、音を立てている。
「酔ってたのは知ってる。でも、うんって言ったよね」
「……」
「えー? うそでしょ……そこ、とぼける?」
そう言って彼は、スマホへ手を伸ばしかけた。その動きだけで嫌な予感がした。こっちは証拠があるぞ、と言いたげな無言の脅迫だったからだ。
「まさか——」
「いや、証拠あるけど」
「あるんですか!?」
「あるよ」
「悪趣味! 隠し撮り!?」
「うん」
平然と言う。この人なら本当に何かしら残していそうなのが怖い。私は思わず背筋を伸ばした。
……なるほど。そういうことか。私はこの人の彼女なのだ。プロヒーローホークスの。テレビの向こうで笑っていて人気者で、街を飛び回って、この国の誰もが知っているヒーローの。ん……?彼女……? 本当に——?
「もう一回言おうか?」
「え、いや、大丈夫です! わかりました!」
慌てて遮るとホークスは満足そうににんまりと笑った。今度は揶揄いではなく本当に嬉しそうな笑顔だった。蜂蜜色の瞳まで隠しきれないくらい柔らかく緩んでいる。相変わらず、ずるい男だと思う。この人はいつだってそうだ。気づいたときには逃げ道なんてひとつも残っていない。優しい顔をして、軽い口調で当たり前みたいに私の隣を自分の居場所にしてしまう。そして、最後には、そんな事をした本人が一番嬉しそうに笑うのだ。
「じゃ、八時ね」
そう言って、彼は立ち上がった。食器を下げる動作も、もう何度もここでしているみたいに自然だった。
最初の頃なら「勝手に触っていいの?」と不安そうに言ってきたはずなのに、今ではその背中を見ていることの方が不思議ではなくなっている。
ホークスは自分の皿を持ったまま、キッチンへ向かう。そして蛇口をひねって水を出しながら、こちらを見ないまま「あ、そうだ」と、何か思い出したような声を出した。第二波——嫌な予感がした。
「このあいだの、チューだけどさぁ」
その言葉に思わずキッチンを振り返ると、彼は慣れた手つきで流し台で水を流しながら、平然としていた。
「酔っぱらってたから、抵抗する暇もなく許してくれたんだっけ?」
突然、何を言い出すのかと思った。いや、正確には、この人なら、言いそうだと思った。思ったけれど、まさか、食器を洗いながら言うとは思わなかった。私が、呆然としていることなど気にも留めず、ホークスは濡れた手を軽く振って水滴を落とす。横着な仕草なのに、妙に様になっているのが悔しい。そのまま片手で、金色の前髪をかき上げた。そして、ゆっくりこちらへ歩いてくる。逃げる理由も逃げるタイミングも見つけられないまま、気づけば彼は目の前にいた。少し屈んで、視線の高さを合わせてくる。近い——近いのに、あの夜までのような勢いは、今はなかった。
「今度はさ、ちゃんとしたいんだけど」
「……、」
「酔ってないときに」
声が少しだけ低くなる。蜂蜜色の瞳がまっすぐ私を見る。いつだって、その視線からは、逸らすことを許されない。
彼の顔からは、いつもの軽い笑いも、人を煙に巻くような余裕も消えていた。ただひとりの男として、返事を待っている顔だった。
「……そのうち、いつか」
やっとのことで絞り出した言葉は、それだけ。言ってから自分でも、ずるい答えだなと思った。断っているわけではない。でも、受け入れているわけでもない。その間に置いたような言葉。彼はしばらく無表情のまま何も言わなかった。そしてやがて、ふっと目元を緩める。
「そっか」
笑った。けれど、その笑顔は少しだけ、不自然だった。いつもの、相手を安心させるための笑顔とは違う。隠すためにつくったような笑顔。
それでも彼は、それ以上は何も言わなかった。追及もしないし、困らせるようなこともしない。そのままキッチンへ戻ると、今度こそ壁にかけてあるタオルで、丁寧に手を拭く。
「はいはい。そのうちねー」
少しだけ拗ねたような声。けれど、その言葉の奥にあるものを、私はほんの少し、わかるようになっていた。彼は振り返りもせず玄関へ向かう。
「お茶碗」
「え?」
「米粒、残ってるでしょ。ちゃんと食べなね」
「あ、うん……。子供じゃないんだけどなぁ」
「知ってる。でも——心配なんだよね」
振り返らずに、さらりと言われたその一言に、また私は返す言葉を失ってしまった。ホークスは靴を履きながら、背を向けたまま今度は少し声を張った。
「あと、飲み会では水ちゃんと挟んでねー」
「……」
「脱水なるからさぁー」
まるで現場にいる市民へ避難指示を出すみたいな口調だった。あまりにもヒーローらしくて私は思わず、苦笑してしまう。
この人は、どこまでいってもホークスなのだと思った。好きな人の心配をするときでさえ誰かを守るときと同じ顔をする。そして靴を履き終えた彼は、ドアノブに手をかけた。やはり背を向けたままで、今度は少しだけ声の調子を落とす。
「……お邪魔しましたぁ」
ドアが閉まる。少し遅れて廊下を翼がはためく音が聞こえた。それが遠ざかっていって、部屋に静けさが戻る。さっきまで二人分あった食卓には私ひとり分の時間だけが、残されていた。湯気の消えた肉じゃが。冷めた味噌汁。
いつもと変わらないはずの夕食なのに、なぜか少しだけ特別なものに見えた。私はしばらくその場から、動けずにいた。それから、ようやく箸を持ち直して、一口食べる。
「……おいしい」
悔しいくらいちゃんとおいしかった。どれだけ頭の中が騒がしくても、どれだけ心臓が落ち着かなくても、人間の身体というものは妙に正直らしい。私はもう一口、肉じゃがを口に運ぶ。そしてふと、思う。この先、何かが変わっていくのかもしれない。けれど、今はまだ、隣の部屋に帰っていく彼の背中を見送るこの距離こそが、ちょうどよかった。
*
それから翌日の夕方までは、少しだけ、奇妙な一日だった。
朝になれば、いつも通り起きて、いつも通りに支度をして、いつも通り仕事へ向かう。生活そのものが変わったわけではない。なのに、その日はスマートフォンだけがやけに忙しかった。原因はわかっている。ホークスからの、メッセージだ。
午前十時。『水分取ってる?』
午後一時。『昼、何食べた?』
午後四時。『あと二時間。頑張って』
午後六時半。『お疲れさま〜』
まるで、体調管理アプリの通知みたいだった。いや、もっと言えば、これはもう、定期報告ではないだろうか。ヒーロー事務所から安否確認でも任されているのかと思うくらい細かい。けれど、不思議と嫌ではなかった。
画面に並ぶ短い言葉を見るたびに、隣の部屋に住んでいるだけのヒーローがちゃんと私の一日を気にしているのだと思ってしまう。それが、少しだけ、くすぐったくて嬉しかった。
仕事を終えロッカールームで軽く身だしなみを整える。専門時代の友人たちとの飲み会。ただ、それだけの予定だったはずなのに鏡を見る自分がいつもより少し落ち着かないのは、たぶん、気のせいではない。
約束の店は駅前のバルだった。仕事終わりの人で賑わう時間帯。待ち合わせ場所へ向かう途中、店の前に、妙な人だかりができていることに気づいた。黄色い声。スマホを構える人たち。何か、撮影でもしているのだろうか。
「ホークスだ!」
「うそ! 本物!?」
ホークス……その名を聞いた瞬間、嫌な予感がした。そして、その予感は見事に当たった。
店の前には私服姿のホークスがいた。いつものヒーロースーツではない。ラフな服装にゴーグルではなく黒っぽいサングラスを額へ上げている。それなのに、どうにも、隠しきれない華やかさがあった。本人は周囲の騒ぎを気にする様子もなくいつものように、柔らかく笑っている。
「写真いいですか!?」
「もちろ〜ん。今日だけね」
「握手してください!」
「はいはい、順番ねー」
人当たりのいい笑顔。誰にでも向ける、優しい態度。テレビで見る、ホークスそのものだった。けれど。人混みの向こうから私を見つけた瞬間、その表情が少しだけ変わった。目が合う。そして迷うことなくその片手を、大きく上げたのだ。
私は思わず、ぎょっと目を見開かせた。そしてその口元が動く。【は・や・く】と、そう動いた気がした。
早くこっちに来て——という、意味だろうか。しかしその瞬間。胸の奥が妙に騒いだ。それでも私は、周囲の視線を感じながら人垣の間を抜けていく。
「なに? 誰?」
「知り合い?」
「え、もしかして……」
聞こえてくる声にどんどん居心地が悪くなる。なのに、ホークスは本人は、全く気にしていないようだった。いや。気にしていないというより、全部わかった上でやっている顔だった。
私が近づいた瞬間、彼の手が伸びる。肩を引き寄せられた。いつの間に。本当にこの人の動きは時々、理解が追いつかない。速すぎる男、という言葉を、こんなところであらためて実感するとは思わなかった。
ホークスは、ざわめきが波紋のように広がっていく周囲へ向けて、にこっと笑う。
「ごめんねー、みんな。これからデートなんで」
一瞬の沈黙。そして——「ええ!?」と悲鳴が上がった。それはもう周囲の空気が揺れるくらいの勢いだった。私は、反射的に顔を上げる。
「……ホークス」
「ん?」
「今、何を……」
「んー?」
彼は悪びれもしない。むしろ楽しそうだった。そして、サングラスを下ろして、私だけを見る。
「お疲れさま」
「お、お疲れさま……じゃ、なくて!」
抗議したところで肩に回された手は離れない。そのまま自然な歩調で店の入口へ向かっていく。背後からは、まだざわめきとシャッター音が追いかけてきていた。途中でホークスがちらりと振り返る。そして、いつものようにファンへ向かって軽くウインクを飛ばした。感心してしまうほど、最後までホークスだった。けれど私の隣に戻ってきたときの顔は、少しだけ違っていた。
「約束。飲みすぎないでね、今日は」
「……は、はい」
意外にも店の入り口まで来ると、中には入らず彼は素直に手を離した。暖簾の前で立ち止まり、もう一度、私を見やる。
「何時くらいに終わりそう?」
「……二時間後、くらいには」
ホークスは少し考えるように「んー」と言い、顎へ指を添えた。それから、近くのビルの屋上を翼の先で示す。
「あそこにいる」
「あそこ、って……二時間、待つんですか?」
「うん」
あまりにも、当然みたいに言われた。忙しなく目を瞬かせている私に彼は目元を緩めて「だって心配だから」と、また、さらりと言われて私は、言葉に詰まる。けれど、その場所を選んだのは、きっと、彼なりの配慮なのだろうと思った。
このまま店の前で待っていたら、騒ぎになる。でも、離れるつもりもないという中での選択——本当に、この人らしい。私が、何か言おうと口を開くより先にホークスは、ひらりと手を振った。
「じゃ、楽しんできてね〜」
赤い翼が夜風を掴む。一瞬で体が浮かび上がり次の瞬間には、近くのビルの上へ消えていた。
速い。あまりにも、速すぎる。そして、そんな彼が、自分を待っているという事実だけが、妙に現実味を持たずに残った。
私は小さく息を吐いて、店の扉を開けた。中へ入ると友人たちがすでに席についていた。
「来た来た! も〜、遅いー!」
「ごめんごめん……」
「ほら、乾杯するよ」
席につくなり、目の前へジョッキが置かれた。どうやら私の分まで、先に、注文してくれていたらしい。
いつもの友人たち。いつもの飲み会。専門時代から何度も繰り返してきた、なんでもない夜の、はずだった……ただ、ひとつだけ違う。店の外の夜空のどこかに、赤い翼のヒーローが私を待っている。その事実だけが、どうにも、現実離れしていた。
「っていうかさ……今の何!?ホークスじゃなかった!?」
乾杯のグラスが触れ合った直後だった。来た。開始早々、その話題が。予想していたとはいえ、あまりにも早い。早すぎる。三人の目が、一斉にこちらへ向く。きらきらというより、もう完全にぎらぎらと、獲物を見つけたような目だった。
「ねえねえ、肩抱かれてたよねぇ?」
「ねっ!しかも、デートって言ってなかった?」
「ちょっと待って、名前ってホークスと知り合いだったの!?」
質問が、三方向から飛んでくる。返事を考える暇もない。そして、案の定——。三人はすでに、自身のスマホを取り出していた。画面を見ながら三人のうちの一人が「え!?待って!」と、声を上げる。
「見て見て!『ホークス 彼女』……トレンド入りしてるんだけど!」
「……へ?」
思わず間の抜けた声が出た。いや、待って……本当に待ってほしい。そんな規模の話になるとは思っていなかった。
いや、少し考えれば、わかることだったのかもしれない。ナンバーツーヒーローが駅前の飲食店の前で堂々と、「これからデートなんで」なんて言えば、そりゃ話題にもなる。なるのだけれど。まさか、こんなにも早く——。
三対の目が、相変わらずギラギラと獲物を狙う猛禽類のように光っている。いや、こちらが鷹に捕まった側なのだが……。
そんな中、三人のうち、また他の一人の友人がメニューを私に押し付けながら言った。
「とりあえず飲め!吐け!全部!」
「はぁーい、質問タイム開始〜!」
もう一人が、楽しそうに箸を持ちあげて言い、残りの一人は、こちらへ身を乗り出す。
「で? いつから?」
「どこで知り合ったの?」
「どっちから告白したの?」
矢継ぎ早の質問攻めに、私はもはや、口を開く暇も与えてもらえなかった。するとまた一人が、スマホを置いて、目の前の酒に口を付けながら、問う。
「さっきの距離感さぁ、どう見ても付き合いたてっていう感じじゃ、なかったんだけど?」
「ね。あれ絶対もっと前から仲良いやつ」
「もしかして……すでに、同棲してる?」
「……」
「あー、してるんでしょ〜」
「……い、いやぁ」
隠していたつもりだった。少なくとも自分から誰かに言った覚えはない。口篭っている私を目の前に友人は、呆れたように手に持っていた自身のスマートフォンを「これ」と、こちらへ向ける。画面に表示されていたのは、私個人の、SNSの投稿だった。
「これ、先週の日曜のやつでしょ?」
そこには最近新しく買ったマグカップを撮っただけの何気ない投稿が。休日の朝。少しだけ陽の当たるテーブル。特別な意味も、匂わせる理由も何もない写真の、はずだった。「ここ見て」と、友人が指を置いた場所を見る。写真の端の辺りにほんの少しだけ、赤い羽根のようなものが、写り込んでいた。友人のスマホを持ったまま固まっている私に友人は、笑いを堪えながら言う。
「これさ、どう見てもホークスの羽じゃん」
「わ〜! 匂わせじゃん、もう!やるぅ♡」
「——いや、違うから!」
慌てて顔を上げて抗議した。それからもう一度改めて、画面を見る。確かにある。赤い羽根が。しかも、どうしてそこにあるのか、説明できないような位置に。写真を撮ったとき、こんなものはなかったはずだ。ということは……まさか。頭に浮かぶ人物は一人しかいない。写真を撮る気配を察知して、わざわざ、飛ばしてきたのだろうか。いや、そんなまさか。でも、あの人ならやりかねない。人のせいにはしたくないけれど。たぶん、あの人はそういうことをする。
私が絶望して呆然としている間にも友人たちは他人事だというように、楽しそうに笑っていた。
「いやぁ、まさか身内にナンバーツーヒーローの彼女がいるとはねぇ」
「人生って、ほんと何が起こるかわかんない」
「ほんと、ほんと。——で?」
友人の一人がメニューを閉じ、妙に落ち着いた声でこちらを見た。その声色だけで、嫌な予感がした。その友人は案の定——にやりと口元だけで笑った。
「結局さ、どこまで進んでるの?」
やっぱり。あまりにも遠慮のない直球だった。友人の特権、というやつなのだろう。恋愛の話になると、この三人は容赦というものを知らない。
私は、答える代わりに、ゆっくりとジョッキを持ち上げた。とりあえず、今日は飲むしかない。そう思って口をつけたものの沈黙というのは時に何より、雄弁らしい。三人は、顔を見合わせる。そして次の瞬間、揃って目を丸くした。
「えっ、まさか……何もないの?」
「嘘でしょ!?相手ホークスだよ?あのウィングヒーロー・ホークス!」
私は自然と真顔というか無表情になっていた。否定も肯定もできず、曖昧に笑うことさえ忘れてしまう。すると、友人の一人が身を乗り出した。
「それ、逆に心配になるんだけど」
「ほんとだよ。嫌な思いしてない?」
「大事にされすぎて、まだ手とか、出されてないパターン?」
どうしてお酒の席というものは、こうも恋愛と下世話な話題ばかりで盛り上がるのだろう。返事に困っているだけなのに、その沈黙すら都合よく解釈されていく。その証拠に、友人がテーブルに肘をつき、無遠慮にも私を指さして声を上げた。
「その顔、図星だ!」
「えー意外。とっくに食べられてると思ってた」
「いや逆じゃない?向こうが我慢してるんだよ。それ、相当大切にされてるってことじゃん」
運ばれてきた唐揚げが、ことりと、テーブルに置かれた。誰も箸を伸ばさない。私はその静かな皿だけが妙に気になって、一つだけ摘まんで口へ運んだ。揚げたてのはずなのに、味がよくわからない。熱さだけが、やけに舌へ残った。
結局、その後も話題は途切れず、友人三人は、ホークスのことばかりを話していた。専門時代の思い出話も、仕事の愚痴も、近況報告も、全部が途中で彼の話へすり替わっていく。本人がここにいるわけでもないのに、まるで席を一つ占領しているみたいだった。
そんな調子で、一時間ほど経過した頃だった。店員が、小さなショットグラスを、四つ並べる。透明な液体——。見覚えしかない。嫌な予感しかしない。グラスを並べ終えた店員の後ろで三人が満面の笑みを浮かべていた。その笑顔だけで犯人が誰なのかは、聞くまでもない。
「はいっ、今夜の議題!」
友人の一人が、勢いよく手を叩く。そのまま、ショットグラスを一人ずつ配りながら、高らかに宣言した。
「『名前とホークスの今後を真剣に考える会』!」
「ちょっと、待っ——」
「待ちませ〜ん! まずは、乾杯し直し〜!」
全員の前へテキーラが配られる。私を除く三人が楽しそうにグラスを掲げる。そして、注文した張本人が私を見据えて、また遠慮なく人差し指をぴしりと向けた。だから、指をささないで……。
「逃走禁止だからね♡」
包囲された。完全に。目の前には、四つのショットグラス。飲まない、という選択肢は最初から存在していなかった。思い返せば、専門時代からそうだ。飲み会の席で、この三人に勝てた試しがない。もうここまでくれば私も半ばヤケだった。
「「「かんぱーい!」」」
甲高い声とともに私も観念してグラスを傾けて一気に煽った。喉が焼ける。熱が一直線に胸まで落ちていった。それでも、追及は止まらない。
「でぇ?ホークスって、プライベートでもあんな感じなのぉ?」
「名前、何て呼び合ってるのぉ〜?」
「そもそも、タイプだったぁ?ホークス」
質問は息をつく暇もなく続く。テキーラが回る前に、追及が加速していた。空になったショットグラスへ、いつの間にか二杯目が注がれていた。酔いと勢いと友人の圧力が三つ巴で理性を削っていく。
「はい、二杯目ぇ〜!」
「いや、ペース早いって——」
「細かいことは気にしない!」
煽られてまた一気に流し込む。喉がひりついて思わず首元へ手を当てた。身体がじわじわと熱を帯びていく。視界の輪郭が少しだけ柔らかく滲み始めていた。それでも容赦なく三杯目が目の前に置かれる。
「いい飲みっぷり〜!」
「だから名前との飲みはやめられないのよ〜!」
「ほんと、清々しいよね〜!」
笑い声。グラスがぶつかる音。店内の賑わい。友人たちの勢い。そしてアルコール。その全部がない交ぜになって、少しずつ私の理性を溶かしていく。そうは言っても、昔からこうして自分も、気分よく飲んでいたのも、また事実だった。
三杯目を飲み干した頃には、もう頭の中はふわふわとしていて、自分でも危ないとわかるくらいには、出来上がっていた。
「ほらほら〜、全部話しなさ〜い」
「ねぇ、あの翼ってさ。抱きしめられたら一緒に包まれるの?」
「寝るとき羽根とか邪魔になんない?」
三人とも、もはや完全に、取材モードだった。スマホを片手に、本当にメモでも取り始めそうな勢いで質問が飛んでくる。私はついに、耐えきれなくなってテーブルへ身を乗り出した。少しだけ大きな声が出る。
「だから!まだ何も始まってないからっ!」
その瞬間、さっきまで騒がしかったテーブルへ不自然なくらい静かな時間が落ちた。三人とも、口を閉じたまま私を見つめている。その表情は、驚きというよりも、呆れだった。友人の一人が、やれやれという顔で肩を竦める。
「そうやってムキになる時点で、もう始まってるんだって」
「だよね。名前っていつもそうだもん。ほんと、変な男にばっか捕まるから心配なんだよ私たち」
反論できなかった。言い返そうとしても、喉の奥で言葉が溶けてしまう。代わりに浮かんできたのは、ここ一週間の出来事だった。
毎晩届く『お疲れさま』のメッセージ。一緒に食べる夕飯。眠る前の、少しの電話。部屋に来てくれた夜。腕の中で目覚めた朝。それから、唇に触れた熱——。思い返しただけで、胸の奥がじんわりと熱くなっていく。そして、そんなものは、すぐに、この三人には、見抜かれてしまう。
「ほらぁ、顔が真っ赤」
「……っ」
「絶対なんか思い出したでしょ、今」
「吐け吐け〜!」
笑いながら四杯目のテキーラが私の前へ滑ってくる。もう断るという文化は、この席には、存在しないらしい。目の奥がゆるゆると回り始める。身体も少し浮いているような感覚だった。それなのに三人の追及だけはまったく勢いを失わない。
「いい?冷静に考えてみて?相手はナンバーツーヒーローだよ?」
「毎日あちこち飛び回って、寝る時間だってないような人が、わざわざここまで送ってくれたんでしょ?」
「それってさ、もう愛じゃん」
「でさ、名前は? 好きなんでしょ?」
真正面から、顔を覗き込まれる。最後の、その一言だけが不思議なくらい真っすぐ胸へ落ちた。
——好き。私はちゃんと「うん」と返事をしたらしい。記憶は曖昧なのに、そのとき胸がどんなふうに震えていたのかだけは、身体のどこかが、覚えている。私は俯いたまま小さく頷いた。だがその瞬間だった。「きゃーー!」と三人が同時に歓声を上げた。
「かわいい〜っ!」
「やっと認めた!」
「長かったぁ……」
なぜか全員で、ハイタッチまで始まった。この子たち、こんな体育会系だっただろうかと、ふと考えたが、もう酔っているせいなのか、それとも元からこうだったのか、判断がつかない。その間にも、グラスには五杯目が注がれていく。
「はい、次の議題!」
「今後どうするか!」
「攻める? 待つ?」
「名前から攻めたらさぁ〜、あの余裕そうな顔、崩れると思わない?」
友人たちはにやにや笑ってずいっと顔を寄せてきた。私は苦笑しながら、その勢いよく近づいてくる三つの顔を、そっとかわした。崩れる、か。考えてしまった。いつも、飄々としていて。何を言われても笑っていて余裕ばかり見せるあの人が本当に慌てるところ。見たいか、見たくないかと聞かれたら——。そこまで考えたところで自分の頬がまた、熱くなっていることに気づく。これはきっと、テキーラのせい。そういうことに、しておきたかった。けれどこの三人の観察眼が無駄に鋭いことを思い出してハッとするが、遅かった。
「あー、見たいんだぁ」
「わかるー。ホークスの照れ顔なんて、激レアでしょ」
そうでもないと思う。照れることは思い返せばよくあるような気がする。友人二人が何度も頷く中、残りの一人が「ひらめいた!」とでも言いたげに、人差し指を立てた。
「作戦考えた」
「なになに?」
「耳元でさ、『すきだよ』って囁くの」
「ベタ!」
いたずらっぽく笑って言った友人に対し、別の友人が吹き出す。しかし��作戦�≠ニ言った張本人は「だからいいのよ」と語気を強め、胸を張って言い切った。
「ああいう手慣れた男に一番効くのは、結局そういう真っすぐな言葉だから」
そのとき、店内のBGMが、静かに切り替わる。私は何気なく壁の時計へ目を向けた。時計の針は二十一時を少し回っている。ホークスはきっと、約束どおり、どこか近くで、待っているだろう。そう思うと急に、胸がそわそわし始める。私は、そっとショットグラスをテーブルへ戻し、小さく息を吐いてから、おそるおそる切り出した。
「あの……そろそろ、帰らないと」
その瞬間、「えー!」と、示し合わせたように三人の声が見事に重なった。
「まだ全然、話し足りない!」
「お願い! あと一杯だけ!」
それでも曖昧に笑って帰ろうと、腰を浮かせた途端、両腕をそれぞれ友人たちに、つかまれた。その隙にもう一人が嬉々としてショットグラスへ透明な液体を注いでいる。手際が良すぎる。
「はい、ラスト!」
「ほんとにこれで最後だから!」
その��最後�≠ニいう言葉を、この数時間で何度聞いただろう。もう、数える気力も残っていなかった。目の前へ差し出された六杯目を見つめる。
テキーラ。透明なのに、どうしてこんなに恐ろしい飲み物なのだろう。半ば観念して、グラスを受け取る。もう手足の感覚も、少し曖昧だった。椅子へ座っているだけなのに床がゆっくり揺れているような気さえする。そんなときだった。テーブルへ置いたスマホが、小さく震えた。画面には『ホークス』の名前。胸が少しだけ軽くなる。

あとどのくらい?
その短い一文が妙に安心してしまった。冷静に考えると、たぶん最終警告だ。私はどうやら相当酔っ払っているらしい。おぼつかない指で画面を叩いた。『もーすぐでます』と送信する。既読がついたのは、本当に一瞬だった。返ってきたのはたった、ひと言だけ。

あとどのくらい?

もーすぐでます

りょ
それだけなのに、思わず頬が緩んだ。たった、二文字だけで、この人が、外で待ってくれていることが、ちゃんと伝わってきたから。
しかし、現実へと引き戻すように、友人が私の手の中へと、ショットグラスを握らせる。
「はいはい!景気づけ!」
「もう、十分景気いいよぉ……」
ちゃんと抗議したつもりだった。でも、もはや誰も聞いていない。「かんぱーい!」と、勢いに押されるまま、六杯目を流し込む。これで完璧に喉が焼けたと思う。いや、もう、焼けているのかどうかさえよくわからない。味も匂いもとっくにどこかへ飛んでしまっている。残っているのは、身体の芯がじんわり熱いという感覚だけだった。
「よし……」
私はグラスをテーブルに置いて、ようやく立ち上がる。その瞬間、世界が揺れた。「うわ」と、足元が思った以上に頼りなくて思わずよろける。すぐ隣の友人が、慌てて肩を支えてくれた。
「ちょっとちょっと!」
「ほらぁ、言わんこっちゃない」
「トイレ寄ってく?」
「お水飲んでから行きなよ」
三人が口々に世話を焼き始める。私はふにゃりと笑って首を横へ振った。
「ううん……だいじょーぶ」
大丈夫、と言った声が、自分でも驚くくらいに頼りなかった。三人が顔を見合わせているのが、ぼんやりと視界に入った。
「ぜんぜん大丈夫じゃない顔してるって」
「ごめん、飲ませ過ぎたよね」
「ほんとそれ!」
私は、その会話を、半分も理解できないまま、ぼんやりと聞き流して笑っていた。そのあとも、会計ひとつ済ませるだけで、ひと騒ぎだったのは言うまでもない。
「割り勘! アプリ開いて!」
「名前、スマホ逆!」
「私のスマホどこいった!?」
「それ、私のっ!」
笑い声ばかりが店内へ響く。ようやく支払いを終えて店の外へ出る頃には、身体はすっかりアルコールに支配されていて夜風だけが火照った頬に心地よかった。
そして私は、ぼんやりと霞む視界の向こうへ、それでも自然と赤い翼を探していたのだった。