夕方。支度を済ませて駅へ向かった。友人との待ち合わせは十七時。プロヒーローのファンミーティングは、都内のホールで開催されるらしい。電車に揺られながら私はぼんやり窓へ映る自分の顔を眺めていた。何か考えようとしても気づけば同じところへ戻ってしまう。
ふと、手持ち無沙汰に、鞄の中へ手を入れる。指先に触れた冷たい金属を取り出しかけて小さく息を呑んだ。
(——しまった。)
持ってきてしまった……ホークスから預かった合鍵を、そのまま、持ってきてしまったらしい。慌ててまた、鞄の底へ戻す。別に悪いことをしているわけではない。そう思うのに、誰かに見られたら困るものを隠すみたいな動きをしてしまった自分がなんだか可笑しくてつい笑ってしまった。たった一枚の鍵なのに、不思議なくらい存在感があった。
その重さは金属の重さではなく、今日の朝から少しだけ変わってしまった関係の、重さなのかもしれない。
会場へ着くと、友人はすでに到着していて開演まで、他愛もない話をした。ステージにヒーローたちが現れると、客席は歓声に包まれる。さすが人気の職業だなと思う。トークも軽快で気配りも細やかで、客席との距離の詰め方もうまい。
友人は何度も歓声を上げていた。私はその隣で拍手をしながら、ぼんやりと、別のことを考えてしまう。ホークスなら、こういう場でも、もっと好き勝手に喋るんだろうな、とか。きっと途中で司会まで振り回して最後には全員笑わせて帰るんだろう、とか。
比較するつもりなんてなかったのに、頭の中へ勝手にあの金髪が現れてしまう。困ったものだ。ほんの数ヶ月まで、ヒーローなんて、ニュースの向こう側の存在だったはずなのに。
ファンミーティングが終わって、友人と駅前で軽く食事を済ませ、帰宅した頃には、二十二時を回っていた。ふと、マンションを見上げる。隣の部屋には灯りがついていなかった。当たり前だ。午後からパトロールだと言っていた。そのまま、休む間もなく、まだ街のどこかを飛び続けているのだろう。私は、自分の部屋へ入り、静かに鍵を閉めた。コートを脱ぎ、鞄を壁の隅に置く。その拍子に中の鍵が小さく触れ合って、ちりと乾いた音を立てた。私は何気なく、鞄の中を覗き込む。自分の鍵。そしてその隣に——もうひとつ。彼の部屋の合鍵。
「なんか私……とんでもないことしてるよなぁ」
思わずひとりごちる。コートをハンガーへ掛けながら、苦笑した。とんでもないこと。それは、合鍵を受け取って、持ち歩いていることなのか。それとも、酔った勢いでナンバーツーヒーローにキスをしてしまったことなのか。あるいは、その全部なのか。答えは出ない。
シャワーを浴びて、髪を乾かし、ベッドへ倒れ込む。天井を見上げると静かな白さの向こうに、今日一日の出来事が、ゆっくり浮かんでは消えていった。彼の言葉が、ぐるぐると回っている。
『 俺に何か、言うことない? 』
——あの、目。怒りでも、呆れでもなかった。もっと静かで、もっと切実な何か。その熱だけが今も胸の奥に残っている。癖のある彼の声もまた耳の奥から、離れてはくれなかった。私はふと、スマートフォンを開く。彼とのトーク画面。
『 俺も美味しかった 』
その意味深な一文へは結局まだ『はい』としか返事をしていない。何が「はい」なのか自分でもよくわからない。
時刻は、二十三時半。まだ任務中かもしれない相手へ連絡するのは、なんとなく、気が引けた。画面を閉じようとした、その時だった。窓の外を風が裂ける音がして思わず息を潜める。ベランダの向こう、夜空を一筋の赤が駆け抜けた。速い。ほんの一瞬。流れ星みたいに夜を横切って、そのまま闇へ溶けていくと、すぐに見えなくなった。
心臓が、どくどくと脈打っている。自分が息を止めていたことに、そのあとでようやく気づく。怖かったわけではない。ただ見惚れていたのだ。誰かをあんなふうに目で追う日が来るなんて少し前の私は、想像もしなかった。
「もう……落ち着けってば」
反射的に電気を消して、枕へ顔を埋める。落ち着けと言い聞かせるほど、頭だけが冴えていく。
それから、十分ほど経った頃だった。控えめな音がして、私は顔を上げる。
コン、コン。壁を叩く音。このマンションで、隣室と接しているのは、玄関側だけだ。つまり、壁越しに、合図を送っているらしい。私は思わず笑ってしまう。こんな時間に、インターホンではなく壁を叩く人なんて、いったいこの世に、何人いるのだろう。声を出すのは少し照れくさくて、代わりに指の関節で壁を二度、軽く叩き返した。コン、コン。少し間があって壁越しにくぐもった声が届く。
「起きとー?」
どうやら、今帰ってきたらしい。翼で飛び回る人は、玄関ではなくベランダから帰宅することもあると知ったのはつい最近のこと。考えてみればヒーローらしい帰宅方法なのだけれど、一般人の感覚からするとやっぱり少しだけ非常識だった。
私は返事の代わりに、もう一度、コン、コンと壁を軽く叩く。
「今日のファンミ、どうだった?」
壁越しの会話。客観的に考えたら、ずいぶんと妙な光景だった。隣り合う部屋で大人二人が壁を叩いて会話をしている。
私は、「ふつう」という意味を込めて、三回、等間隔で壁を叩く。コン、コン、コン——。間髪入れず、向こうからも二回。コン、コン。どこか、「ふーん」とでも言いたげな妙にホークスらしい返事だった。思わず口元が緩む。少し間が空く。向こうがまた何か伝えようとしている気配だけが壁越しに伝わってきた。けれどその音は最後まで鳴らなかった。その代わりにベッドへ放っていたスマートフォンが、小さく震えた。

声、聞きたいんだけど
画面に並んだその一文を見つめたまま、胸が、どくん、と、大きく鳴る。たったそれだけの言葉なのに、不思議なくらい破壊力があった。私は、少しだけ迷う。文字で返そうか、それとも——。
結局、自分でも驚くほど自然と、発信ボタンを押していた。呼び出し音は一度だけ。『おっ』と言う声とともに、すぐに繋がった。
「——あ、お疲れさまです……」
受話口の向こうから、剛翼を畳む羽音が微かに聞こえた。本当に今帰ってきたばかりなんだ、とそれだけで、情景が浮かぶ。
『お疲れさま。ただいま』
「……おかえり、なさい」
言葉にした瞬間、自分でも少し照れくさくなった。たった一言なのに、どこか、くすぐったい。受話口の向こうは静かだった。互いの息遣いだけが、細い糸みたいに電話を繋いでいる。少しして『やば……』と、ぽつり。笑うような声が届く。
『今、ちょっと泣きそう』
「え……どうして」
問い返すと、小さく笑う気配がした。そして、少しだけ間を置いてから、優しげな声音が返ってくる。
『��おかえり�≠チてさ、帰る場所あるんだなって思って』
その声は、いつもの軽口とは少し違っていた。笑っているのに、その奥だけが静かで。私は窓の外へと目を向ける。カーテンの隙間からは、夜の闇が広がっている。彼はそのどこかをさっきまで飛んでいたのだろうと思うと、不思議と守られているような気がした。
「ここは……紛れもなく、ホークスの、帰る場所ですよ」
自然と言葉が出た。すると電話の向こうがまた静かになる。あまりにも静かすぎて一瞬、通話が切れてしまったのかと思うくらいだった。改めて耳を澄ますと微かに風の音だけが聞こえてくる。きっと今は、ベランダにいるのだろうと思った。
『……ずるいなぁ、名前ちゃん』
笑っているような、そしてどこか、困っているような声だった。私はやっぱり照れ臭くなって、咄嗟に話を戻す。
「えっと……いま、ベランダですか?」
『うん』
「……そっか。風邪、ひかないでくださいね」
気づけば自然と声が柔らかくなっていた。私が小さく笑うと電話の向こうでも喉の奥でくつりと短く笑う気配がした。
『優しいね』
「普通です」
『普通が一番、効くっちゃん。ヒーローにはね』
照れ隠しみたいに笑って言うその声はいつもの軽口と、ほとんど変わらない。それなのに、その軽さの奥には冗談では片づけられない本音だけが静かに滲んでいた。
誰かに「おかえり」と迎えられること。「風邪ひかないで」とごく当たり前みたいに心配されること。誰かに心配されるということが、どれだけ稀なことか。そんな何気ない言葉を自分へ向けてもらう機会は、この人には案外少なかったのかもしれない。誰よりも空を飛び回り誰よりも多くの人を守る��速すぎる男�≠セからこそ、心配される側になることはきっと滅多になかったのだろう。
私は、何か返そうと口を開きかける。けれど、気の利いた言葉は何ひとつ浮かばなかった。その沈黙さえ、電話の向こうの彼は、急かさずに受け止めてくれる。その静けさが、不思議なくらい、心地よかった。
『……ねえ』
「はい?」
『そっち、行っていい?』
「え……い、今、ですか?」
『今』
心臓がどくん、とまた大きく鳴る。あまりにも迷いのない即答だった。考える隙なんて最初から与えるつもりはなかったみたいに、それが当たり前であるかのような声。
つい数秒前まで急かさない人だと思っていた。私の歩幅に合わせて、いつだって少しだけ待ってくれる人だと。けれど、待つことと、譲ることは違うのだとその一言だけで思い知らされる。彼はきっと、ここだけはもう待たないと決めたのだ。
「ちょ、ちょっと待ってくださいね……!」
慌てて、通話を切る。深呼吸をする。部屋着のままというわけにはいかない。急いで適当な私服に着替えて、鏡を見る。当然お風呂上がりなので化粧は落としていた。迷った末、近くにあった、大きめの黒縁眼鏡を掛ける。隠せるものではないけれど、何もしないよりは少しだけましだろう。
そんなことをしているうちに、コン、コンと、今度は壁ではなく、窓ガラスを叩く控えめな音が聞こえた。カーテンを少しだけ開くと、夜の闇の向こうに人影が。窓の鍵を外す。がらりと開けた瞬間、冷たい空気が一気に流れ込んできた。その夜気の中に、しゃがみ込むようにしていた金髪がゆっくりと顔を上げる。赤い翼を小さく畳んで、ベランダの手すりへ片手を添えたままホークスがこちらを見上げた。そして私の顔を見るなり目を丸くする。
「すっぴん眼鏡」
「……」
「いいね」
「……わざわざ、言わないでください」
恥ずかしくて思わず睨むが、彼は可笑しそうに肩を揺らしただけだった。そのまま立ち上がり、窓枠へと軽く手を掛ける。ひょい、と。まるで、猫みたいに音も立てず、部屋の中へ降り立った。羽音さえ、ほとんどしない。
「おじゃましまーす」
「ど、どうぞ……」
部屋へ入ったホークスは夜気をそのまま連れてきた。冷たい風。それから、翼用オイルの、あの少し甘くて落ち着く香り。その全部が混ざって、部屋の空気が一瞬だけ彼の色へ塗り替わる。彼は部屋をぐるりと見回した。そういえばこの部屋へ来るのは二度目だった。考えてみれば、当然だ。これまではお互い『隣人』という距離を崩さないようにしてきたのだから。
「意外と片付いとーね」
そう言いながら、勝手知ったる様子でソファへ腰を下ろす。——『意外と』。その一言だけが、少し余計だった。
「……どういう、意味ですか」
大人気なくも、口を尖らせながら返す。けれどそれ以上強くは言えない。お風呂上がりに意味もなく慌ててコートや読みかけの本をクローゼットへと押し込んだのは、紛れもない事実だったし、こうなることを期待していたと知られたら多分、またしばらく、笑われるから。
「一応、女子なので……」
照れ隠しみたいに肩をすくめて言うと、彼は、すぐに首を横へ振った。
「一応じゃなくて、ちゃんと女子でしょ」
その言い方は、妙にあっさりしていて、だからこそ毎回、照れてしまうのに。そんな事を真顔で言える人なのだ、この人は。ホークスは、ぽん、ぽん、と隣のクッションを軽く叩く。
「座んないの?」
「え、あ……じゃあ、」
おずおずと遠慮がちに腰を下ろす。——近い。二人用のソファではあるけれど、当然ながら隣へ座った途端、肩越しに、彼の体温が伝わってくる気がした。柔軟剤と、外気を飛び続けてきた冬の匂い。その奥に、私が好きだと言ってしまった、あの羽根の香りが、ほのかに混じっている。意識しないほうが難しかった。
ホークスは少しだけ前かがみになり、膝へ肘を乗せると「今日さ——」と、そのまま横目だけをこちらへ向けた。
「帰ってきたら、電気ついてなかったから」
「……あ、はい。早めにお風呂入って、ベッドでごろごろしてました」
彼は「ふうん」と、鼻から小さく息を抜いた。興味があるのかないのか、その音だけでは判別がつかなかった。
「寂しくなかった?」
「えっ……? あ、まあ……」
「……」
「帰ってきたとき、隣の部屋が真っ暗だったからいないんだなぁ、とは思いましたけど……」
突然すぎる問いに思考が止まりかけたが嘘でもないし、変な意味合いには取られないだろうと。けれど、ホークスは、くすっと喉の奥で笑った。
「それを、寂しいって言うんだよ」
……ああ、そういうことなのか、と少し遅れて気づく。私は「そっか……」と小さく笑ってから素直に言い直した。
「じゃあ……寂しかった、です」
その瞬間、ぴくり、と彼の肩が揺れた。自分で言わせたくせに、真正面から返されるとは思っていなかったらしい。彼は、片手で口元を覆って、困ったように視線を泳がせる。
「……言わせ、ちゃったね」
「す、すみません……」
「なんで? 謝んないで」
反射みたいに私が謝ると、彼はすぐ首を振って低い声でそう返した。さっきまでの軽さが静かに剥がれ落ちていく。部屋は暖かいはずなのに胸の奥だけが妙に張り詰める。ホークスはゆっくりと口元の手を下ろした。蜂蜜色の瞳がまっすぐ私を見つめる。その視線から逃げられなくてこちらの息だけが浅くなる。
「……え、」
気づけば、彼の顔が、少しずつ近づいていた。逃げる理由も、止める言葉も思いつかない。顎へそっと指先が添えられる。熱を確かめるように、やさしく。
次の瞬間、唇が重なった。昨夜みたいな勢いも酔いの曖昧さもない。確かめるような静かなキスだった。夜気に冷えた頬とは対照的に触れ合った場所だけが驚くほど温かい。触れた時間なんて、数秒だったはずなのに、その数秒だけ世界が止まってしまったみたいだった。やがて唇が離れる。ゆっくり目を開けると、すぐ近くで、ホークスの睫毛が、かすかに震えていた。
「……なん、で」
自分でも驚くほど掠れた声だった。ホークスは至近距離のまま、少しだけ眉を上げる。
「なんでって、聞く?」
「だって……」
「うん?」
「わたしたち、そういう関係じゃ……、」
言い終わる前に彼の人差し指がそっと私の唇へ触れた。今度は指で唇に触れるだけ。鼓動がうるさい。相手にまで聞こえてしまいそうなほど——
「じゃあ、何?」
「……、」
「どういう関係?」
完全に逃げ道を塞ぐような問いと距離だった。私は答えられなくて、苦し紛れに笑うしかない。
「……お手軽な、隣人、とか」
しまった、と思った瞬間、ホークスは、少しも笑わなかった。代わりに指先だけが静かに唇から離れていく。部屋の空気が、目に見えないほど、温度を失っていく気がした。怒っているわけではない。もっと、深いところを刺された顔だった。そのほうが、ずっと苦しかった。
「……本気で言ってる?」
「……どう、かな」
責める響きではない静かな声。ただ、傷ついた人の声だった。苦しい冗談で逃げようとした自分が情けない。ホークスは何も言わず立ち上がる。見上げる格好になった。私との身長差が急に大きく感じられた。彼は、ポケットへ手を入れたまま少しだけ視線を落とす。その横顔には、いつもの飄々とした笑みが、どこにも残っていなかった。そうして、一呼吸分置いてから、静かに続ける。
「俺さ、合鍵渡したよね」
「……」
「好きだって言った。キスもした」
「……」
「それで、『お手軽な隣人』って返ってくるのはさ……」
言葉をひとつずつ置くように、蜜色の瞳がまっすぐ私を射抜く。彼は小さく笑った。笑ったはずなのに、その笑みは、少しも楽しそうではない。
「……結構、きついよ」
胸が締めつけられる。自分を守るために言った一言が、この人を、こんな顔にさせてしまった。私は視線を落として俯くことしかできなかった。
「……ごめんなさい」
「また謝る……」
返ってきたのは呆れたようでいて、どこか困りきった声だった。ようやく絞り出した声は、自分でも情けないくらい小さくて、謝罪というより、ほとんど、泣き声に近かったと思う。近くで短く息を吐く音がする。そして、少しだけ間を置いて静かに続く。
「謝るってことはさ。自分でも、それは違うって思ってるんでしょ」
その言葉に胸の奥をそっと指で押されたみたいな感覚になる。違う。本当は、違う。隣人なんて思っていない。お手軽なんて、なおさらだ。
なのに、その先を口にする勇気だけがどこにも見つからない。
「……うん」
ようやく返した返事はやっぱり情けないくらい頼りなかった。ホークスはそれ以上すぐには何も言わなかった。代わりに、ゆっくりとベランダの方へ向かう。その動きにはさっきまでの軽快さがなくて私は思わず顔を俯かせた。そのまま今度は私の前まで歩いてくる。
見下ろされるのかと思った。けれど、違った。彼はすっと膝を折り、私と同じ高さまでしゃがみ込む。視線がまっすぐ重なる。蜂蜜色の瞳には、責める色はない。ただ、どこまでも真剣で、もう逃がさないという静かな意志だけが宿っていた。
「名前ちゃん、俺さ」
名前を呼ぶ声まで、ひどく穏やかだった。私は思わず肩が、ぴくりと震えた。彼は、小さく首を傾げる。それから少しだけ困ったように笑った。
「好きでもない人に、合鍵なんか渡さないよ」
「……」
「キスだってそう」
「……」
「そんな軽いもんにした覚え、ないんだけどな」
照れ隠しみたいに笑ってみせるくせに、その目だけは少しも逸れない。胸の奥が、じわりと熱を帯びる。私は何も言えなかった。言えないというより、言葉が追いつかなかった。
この人はいつもそうだ。軽口を叩いて、笑って飄々としているくせに。本当に大事なことだけは絶対に逃げ道を作らない。だからこそ私ばかりが臆病なのが、ひどく目立ってしまう。ホークスは私の表情をしばらく見つめて、それから、また、小さく笑った。
「……俺ばっか言ってるね」
どこか自嘲したような声だった。けれど、その微笑の奥には、ほんの少しだけ不安が残っているようにも見える。
「顔、上げて」
次に聞こえたその声は、驚くほど優しかった。明らかに怒っている人の声ではない。だからこそ胸が痛かった。私は、恐る恐る顔を上げる。その瞬間、視線が重なる。
「逃げないでよ」
その一言に、胸の奥がきゅっと縮こまる。私は声を出そうとして、言葉が途中で細くなる。自分でも救いようのないくらいには弱い呼吸だった。きっと逃げ場なんて最初から、どこにもなかったのだ。
「……逃げないと」
「うん?」
「これが、夢だったとき……怖い」
ホークスが目を見開く。一瞬だけ本当に呼吸を忘れたみたいな間が落ちた。それから彼は、ゆっくりと両手を伸ばした。私の頬を包み込むようにそっと。ひやり、とした温度が肌へ触れる。外を飛んできたばかりだからなのか、その手は、冬の空気をまとったまま、まだ少し冷えていた。
「夢じゃないよ」
低く柔らかい声音。彼の親指が頬骨のあたりをゆっくりとなぞる。確かめさせるように。ここにいると伝えるように「ほら」と、少しだけ笑う。その笑みは、いつもの軽さを纏っているようで、どこか、ぎこちなかった。
「冷たいでしょ」
「……」
「俺、ちゃんとここにいる」
「……今は、いるけど、」
言い終わるより先に彼が少しだけ身を寄せる。こつりと額が触れた瞬間、ほんの小さな音がした気がした。その近すぎる距離で彼は目を細める。
「じゃあさ」
「……」
「夢じゃない方法、教えてあげよっか」
囁くみたいな声だった。吐息が頬をかすめる。心臓は相変わらず、どくどくしていてうるさい。
「俺が帰る場所」
「……」
「ここにしていい?」
問いかけの形をしているのに、その声は答えをもう知っている響きだった。それでも、やっぱり彼は急かさない。ただ私が受け止めてくれるのを黙って待っている。
「……え?」
それでも思考は追いつかない。ホークスは少しだけ額を離す。笑った。けれどそれは、いつものへらっとした笑顔ではなくて、照れくさそうで、少しだけ怖がっていて。断られる未来まで、想像してしまっている人の笑い方だった。
「引っ越そうかなって」
さらりと落とされた一言に、頭の中が真っ白になる。言い方だけは軽い。なのにその意味だけが途方もなく、重かった。彼は、肩をすくめながら続ける。
「公安には、怒られるだろうけど」
「……」
「サイドキックたちも、たぶん過労で倒れるね」
話がどんどん進んでいく。冗談めかしている。なのに、私の頬へ添えられた手だけは、小さく、震えていた。
飛び疲れたからではない。緊張しているのだ。この人が。あの、ヒーロー・ホークスが——。
「……なんで、過労死?」
ようやく声を出すとホークスは口角をにやりと持ち上げた。少しだけ、いつもの余裕ぶった彼が戻ってくる。それから、わざとらしく肩を竦めたまま、笑いながら、少しだけ考えるふりをして。
「だってさぁ。ここに住んだら俺、すぐ帰りたくなっちゃうじゃん」
「……」
「緊急要請が入っても、『あと五分だけ』とか、言い出しそう」
「……絶対、うそ」
「え」
「仕事人間のくせに」
思わず笑ってしまう。逆に、ホークスの笑みがぴたりと止まって、ぐっと言葉に詰まっていた。図星だったのだろう。ニュースで見る彼は、いつだって誰より早く飛び、誰より遅く帰る。
『ヒーローが暇を持て余す世の中にしたい』
あの言葉を本気で実現しようとしている人だ。だからこそ自分のために立ち止まるなんてきっと誰より苦手なのだろう。その沈黙が、何より雄弁だった。
「……隣なのに引っ越す意味、あまりないと思うんですけど」
あまりにも大きな話だったから真正面から受け止める勇気がなくて、私はわざと、少しだけ話の角度をずらした。するとホークスは、ぱちり、と目を瞬かせる。それから、少しだけ間を置いて、小さく肩を落とすと、困ったように笑った。
「名前ちゃんさぁ……そういうとこ、ほんと鈍いよね」
「え」
「もっと一緒にいたいってことだよ」
あっさりと言われて言葉を失う。まるで特別なことではないとでもいうような口調だった。その自然さが、かえって胸の奥へ静かに落ちてくる。
「……ホークスの部屋のほうが、少し、広いですけどね」
相変わらず可愛くないな、と、自分でも思う。案の定、彼は、呆れたように少しだけ肩をすくめながら苦笑する。
「そういう問題じゃないの」
「じゃあ……狭い部屋のほうに来るんですか?」
「うん。狭い方がいい。くっつけるから」
彼は迷いなく頷いた。あまりにも真顔だった。冗談を言っている顔ではない。私も思わず呆気にとられてしまい「なるほど……」と、それしか、言い返せなかった。
ホークスは、しばらく黙ったまま、じっと私を見つめる。その蜜色の瞳は、冗談の続きを待っているのではなく私の返事だけを待っていた。その証拠に、彼は少しだけ首を傾げて問う。
「……で、返事は?」
「……ヒーローのお願いごとなら、仕方ないですよね」
その一言で、逃げ道が完全になくなった私は、小さく息を吸った。それから、少し笑って返した私に、ホークスも堪えきれなくなったように吹き出した。
「ふはっ……まだ言う、それ」
笑っている。笑っているのに。目尻だけが少し赤かった。それは、嬉しさを隠しきれなくなった人の顔だった。次の瞬間、不意に、腕をぐいっと私を引かれて「うぉっ」と可愛げもない情けない声が漏れる。気づけば、私は彼の胸へ、ぶつかるように抱き寄せられていた。翼がふわりと背中を包む。冬の冷えた空気が、一瞬で遠ざかる。抱きしめられた腕の中で、彼が小さく笑う。
「ヒーローじゃなくて。一人の男として、お願いしてる」
その声にはさっきまでの飄々とした軽さがほとんどなかった。ただ真っ直ぐで、不器用なくらい誠実だった。
「……わ、わかった」
返事をした途端、抱きしめる腕にぎゅっと力がこもる。それは決して苦しくない程度の力だったけれど、嬉しさを隠しきれない人の、抱き締め方だった。しばらく、そのまま、どちらも喋らなかった。部屋には時計の秒針だけが規則正しく時を刻んでいる。耳を預けた胸の向こうから、心音が伝わってくる。速かった。��速すぎる男�≠ネんて呼ばれている人の鼓動は、案外、私たちと同じで��普通�≠ネのだと思った。……いや。私よりも、少しだけ、速いのかもしれない。それが妙に嬉しくて思わず口元が緩んだ。そんな中でホークスがぼそりと呟く。
「……よかった」
それは誰に聞かせるでもない、小さな独り言のようだった。私も「うん」と、同じくらい小さく返す。今はそれだけで十分だった。腕はまだ離れない。彼は頬を少しだけ擦り寄せるようにして、低く笑った。そして、優しく問いかける。
「ね?……夢じゃないでしょ」
私は、目を閉じる。冷え切っていたはずの彼の身体が、少しずつ、温まっていく。冬の夜——。隣り合わせの、小さな部屋。その狭ささえ今は、安心できる理由になっていた。
「……夢じゃ、ない」
そう答えると彼は、ようやく長く息を吐いた。肩の力まで抜けていくのが伝わってくる。そして少しだけ身体を離す。それでも肩へ添えた手だけは離さない。まだ現実かどうか自分でも確かめているみたいだった。不意に彼が、にやり、と口元だけを、悪戯っぽく緩ませる。
「……じゃあ、今日から住んでいい?」
「えっ?」
「んっ?」
「来月からに、しましょうよ……。いろいろ心の準備が、ありますので……」
あまりにも自然に言われてしまったものだから思わず笑いながらそう言い返すと、ホークスは、途端に口を尖らせた。「来月ゥ?」と抑揚つけて言い、心底不満そうな顔になる。
「長くない?」
「すぐですよ。すぐ」
「すぐなの?」
「……うん。すぐです」
苦笑しながら頷くと彼はぶつぶつと何か文句を言うように口を動かしていたが、やがて観念したように肩をすくめて、少しだけ笑った。
「……わかった。待つよ」
「うん」
また静かな時間が流れる。けれどさっきまでの沈黙とは違った。何も言わなくても隣にいられることが、もう当たり前になり始めている沈黙だった。彼の手の温もりがその全部を物語っている。ふとホークスが、壁の時計を見上げる。そして、少し目を細めて「あらぁ……」と、口にした。
「もう、こんな時間」
「あ、ほんとですね」
つられて私も時計を見ると、もうすでに、深夜一時を回っている。思ったよりずっと長い時間、こうしていたらしい。
「……寝ていきます?」
口にしてから自分でも少し驚いた。ホークスはゆっくりとこちらを見る。それから、口元だけで笑った。
「いいの?」
「……はい、狭いですけど」
私が小さく頷くと、彼の背中の剛翼がふわりと半分ほど開く。嬉しいときの癖なのだろう。どうやら本人は、気づいていないらしい。それでも、すぐに畳み直しながら笑う。
「むしろ最高」
「変なことしないって約束してくださいね」
そう釘をさすと彼は「んー」と人差し指を唇へ当てて、斜め上へ視線を向けた。少し間を置いてみせる芝居がかったその仕草は真剣に考えているというより、答えをわざと焦らして楽しんでいるようでもあった。
「善処しましょう」
やけに真面目ぶって返ってきたその答えに私は思わず吹き出す。この状況下では誰がどう見ても信用してはいけない類の模範回答すぎて。
「政治家みたいな返事しないでください」
「え、ちゃんと前向きに検討してるよ?」
「だから信用できないんですよ」
「わー、ひどか」
そんなやりとりに笑いながら自然と二人で立ち上がって寝室へと向かう。そこにあるのは、シングルベッドが一つだけ。ホークスはそれを見下ろしてふむ、と小さく頷いた。それから、ちらりと私を見やる。
「入れなくはないけどぉ……」
「はい」
「密着は、避けられないね」
その言い方があまりにも真面目で余計に恥ずかしくなってしまう。私が熱をごまかすように顔を背けるとお構いなしにホークスは布団をするりとめくって、当たり前みたいな顔で、先にベッドへ潜り込んだ。
「……わたし、横向いて寝ます」
「だめ」
「ええ?」
彼は、何の迷いもなく隣の空いた場所をぽん、ぽん、と叩いた。そして「……ほら、おいで」と甘く囁くようなその言葉だけで、抵抗する理由がひとつずつ、溶かされてしまう気がした。あやすようでも誘うようでもある響き。断られるなんて少しも思っていない声音に、胸の奥がまた静かに熱を帯びていく。
「こっち向いて寝て」
さっきの「おいで」が、まだ、胸の奥で小さく反響している。その一言だけで、十分に心臓は、忙しかった。なのにその余韻に追いつく間もなく今度は布団の中から、ごく当たり前みたいな声が降ってきた。私はベッドの前で立ち尽くしたまま固まっているというのに、当たり前のように隣で眠る未来を前提にしたその口ぶりがどうしようもなく、ずるかった。
「……なんか、どうしたんですか」
「なにが?」
「急に、その……。積極的で……」
思ったままそう言うとホークスは小さく笑って少しだけ照れくさそうに目元を細めて、それからおどけるように続けた。
「俺、決めたと」
「……決めた?」
「もう、足踏みするのやめよー、って」
「……」
「だって俺……��速すぎる男�≠ネんで」
その言葉に、思わず笑ってしまう。この人は、いちばん大切なことほど冗談めかして口にする。照れ隠しなのか、それとも私を怖がらせないためなのかは、わからない。でも、その奥にある本気だけは、いつだって隠しきれていなかった。
「……ほら。」
まだベッドの前で立ち尽くしたままの私へ彼はもう一度、隣を示すように、ぽん、と布団を軽く叩く。その仕草まで、どこか甘くて急かしているわけではないのに、蜜色の瞳だけで「おいで」と改めて言われている気がして胸の奥がまた小さく騒いだ。
「わ、わかりましたよぉ……」
ついに観念してベッドに潜り込み、仰向けで、身体を横にする。近いなんてものじゃなかった。
シングルベッドは、大人二人にはやっぱり少し狭い。彼は一応、羽は最小限に小さくしていたが腕一本分の隙間さえなくて寝返りを打けば触れてしまいそうな距離だ。暗闇に目が慣れてくると、すぐ近くに彼の蜜色の瞳だけがぼんやり浮かぶ。ホークスは横向きのまま頬杖をついて楽しそうに私を眺めていた。
「緊張してる?」
「……かなり」
「ほんと?」
「心臓が口から出ちゃうかも」
その返事がおかしかったのか、彼は喉の奥で、くくっと笑う。それからゆっくり手を伸ばした。髪へ触れる。指の腹が前髪をそっと梳きそのまま頭を撫でて髪の間を滑らせていく。急かすような動きではない。安心させるような、ゆっくりしたリズムだった。そしてすぐに穏やかな声が落ちてきた。
「大丈夫」
「……」
「何もしないから。——今日は」
その言い方がおかしくて私は少しだけ笑って、それでも「うん」と、頷く。
「信じてます」
その瞬間、撫でていた手がぴたりと止まった。ホークスは数秒黙って、それから、困ったように笑って、苦笑混じりに息を吐く。
「そこはさ、信じちゃだめでしょ」
「え?」
「もうちょい疑って。俺も一応、男なんだから」
冗談めいた口調なのに、耳が少し赤い。暗闇の中で、堪えきれずに笑ってしまう。ホークスは、そんな私の様子に布団の中で肩をすくめて、もう一度、ため息をつく。
「純粋すぎるばい。心配になる」
「私はずっと、純粋ですよ」
言い返すと、彼は、じっとこちらを見つめる。その視線が少しだけ悪戯っぽく細くなった。
「酔って俺にキスした人が?」
「キスはホークスからしたって言ってたでしょ」
言い返した途端ホークスはすっと目を逸らす。そして、ぼそり、と呟いた。
「……記憶にございません」
「どっちもどっちじゃないですか……」
あまりにも白々しくて、私は吹き出した。彼もくすくす笑いながら、ふわぁとあくびをひとつ。
「……まあ、そうかも。そういうことにしとこ」
二人の笑い声は、夜更けの部屋に小さく溶けていった。
笑ったせいだろうか。張りつめていた緊張が、少しずつほどけていく。私も小さく欠伸をひとつ漏らした。その瞬間、頭を撫でていた手が今度はそっと背中へ回る。ぽん、ぽん、と子どもを寝かしつけるみたいな、ゆっくりした一定のリズム。その手があまりにも優しくて、瞼が重くなる。
「おやすみ、名前ちゃん」
そう囁いてくれた声が、もう半分、眠りに落ちかけていた。今日一日空を飛び続けていた身体は正直なのだろう。安心した途端、緊張の糸が切れたみたいだった。私は、小さく微笑んだ。
「……おやすみなさい、ヒーロー」
返事はなかった。代わりに、ほどなくして規則正しい寝息が聞こえ始める。もう眠ってしまったらしい。私はゆっくり目を閉じる。しかし背中へ添えられた手は、そのままだった。
シングルベッドの窮屈さも。窓の外で鳴る冬の風も。隣から漂う少し冷えた羽根の匂いも。その全部が不思議なくらい心地よくて、この夜だけは眠ることが少しだけ惜しいと思った。
*
翌朝、カーテンの隙間からこぼれた冬の光が、瞼をゆっくりと撫でた。目覚めたとき最初に目に飛び込んできたのは、すぐ隣にある金色だった。思考が追いつくより先に私は、瞬きを繰り返す。
腕の中に、金髪の頭がある。いや、違う。私が抱いているのではなく、抱き込まれているのだ。赤い翼が毛布みたいに幾重にも身体へ巻きつき、隙間なく包み込んでいる。そのぬくもりは、羽毛なのに、ちゃんと、生き物の体温を持っていて、不思議なくらい安心する温度だった。
ホークスは、まだ眠っていた。少しだけ開いた口から静かな寝息が漏れている。テレビや街中で見かける彼は、いつだって余裕そうに笑っていて誰より速く飛んで、誰より先に、状況を見抜いてしまう人なのに。いま目の前にいるのは、そんなトップヒーローではなく、ただの青年だった。
無防備で、少しだけ幼く見える寝顔に、思わず息を呑む。睫毛ってこんなに長かったんだ。鼻筋も閉じられた瞼も寝癖で好き放題に跳ねた金髪も全部が、肩書きを脱ぎ捨てた、一人の男性のものだった。
しばらくその横顔を眺めていた。動けなかったというより、動きたくなかった。この静かな朝が終わってしまうのが惜しくて時間まで息を潜めているような気持ちだった。けれどこのまま寝顔を見続けるのはさすがに心臓に悪いと思い直して、起こさないよう、慎重に身体を抜け出す。すると私の動きに合わせるように翼がするりと解けた。毛布が肩から滑り落ちるみたいに名残惜しそうな動きで、まるで毛布が落ちるようだった。翼は、無意識でも宿主を守るらしい。そう思うと、胸の奥が少しだけ、くすぐったくなる。
私はそっと寝室を出て、キッチンへ向かった。昨日は朝ごはんをご馳走になった。今日は、私が作ろう。冷蔵庫を開くと卵とベーコン、トマト、それから、レタスが入っている。十分だ。
フライパンを火にかける。油がじわりと広がる音。換気扇の低い唸り。静かな朝に、生活の音が少しずつ増えていく。そんな穏やかな音へ混じるように、寝室からもぞもぞと布団の擦れる気配が聞こえた。そして、少し遅れて足音も。
「おはよ……」
振り返るとホークスが立っていた。髪はぐしゃぐしゃで、盛大に寝癖がついていて、その金色のふわふわが鳥の巣のようになっている。羽毛でも爆発したのかと思うくらい自由奔放だ。目も半分ほどしか開いていない。あまりにも眠そうな姿に普段、テレビの向こうで爽やかに笑っている人気ヒーローと、同一人物とは思えなかった。
本人は、そんな視線にも気づかず、ふらふらとリビングへ歩いていき、そのままソファへ身体を預ける。むにゃむにゃと呟く声は、やはりまだ、夢の中を彷徨っているような声だった。
「……いい匂い」
「朝ごはんです。前回は、作ってもらったので」
フライパンを返しながら言うと、ぼんやりしたまま口角だけが少し上がりさっきまで閉じかけていた目が少しだけ開く。思わず私の肩も揺れる。
「嫁じゃん……」
「……まだ、それはだいぶ未来の話ですね」
「……お?��まだ�≠チて言った」
どうやら聞き逃さなかったらしい。寝起きでも観察眼だけは、ちゃんとホークスだった。私は、しまった——と、心の中で頭を抱えながら、皿へ卵を盛りつける。
「……冷める前に、どうぞ。」
逃げるようにソファの前のテーブルへ並べると彼は少しだけまだ眠そうにしてソファから降りて床に座り「……いただきまーす」と、律儀に手を合わせた。
「……てかさ」
「はい」
「否定、しないんだ」
「……さあ?」
二人で向かい合って、朝食を食べる。そんな、ごく当たり前の光景が不思議なくらい自然で昨日まで存在しなかったとは思えなかった。
ホークスは、卵焼きを一口食べると、ゆっくり目を閉じて「うまぁ」と零し、それからすぐに、私を見る。
「——で。��まだ�≠フ話、詳しく聞こっか」
やっぱり逃がしてくれない。私は苦笑しながらベーコンを口へ運ぶ。
「や、です。それより、あの熱愛報道のお相手の方って、結局どういう方だったんですか」
私が話題を変えるように顔を上げて言うと彼の手の中のフォークが、ぴたりと止まって「あー、あれね」と少しだけ溜め息まじりに肩を竦めて、またフォークを動かしてベーコンをつつきながら困ったように笑う。
「仕事で知り合ってさ。収録終わりに、何人かで飯行っただけ」
「……」
「向こうが盛り上がっちゃって、そのまま記事になった感じ」
「有名人は大変ですね」
純粋に、素直な感想だった。けれど、どうやらトップヒーローにとってその返事は、お気に召さなかったらしい。彼は、じっとこちらを見る。
「……他人事みたいに言うね」
「だって、これからもあるでしょうから」
週刊誌も噂も、勝手な憶測も。人気ヒーローでいる限り、それはきっと、終わらない。
「だから、私も慣れないと」
言いながら自分でも少しだけ胸が痛む。慣れるなんて、本当はしたくない。でも、そうしないと苦しくなるのは、自分だから。
ホークスは静かにフォークをもう一度置いて、短く息を吐く。それと同時に食器が小さく鳴る。
「……慣れないでほしいんだけど」
ちらりと目を向けるとさっきまでの眠たそうな空気が嘘みたいに消えていた。朝日を受けた蜜色の瞳が、今は、まっすぐこちらを見ている。
「やきもちくらい焼いてよ」
「……」
「そっちのほうが、俺は嬉しい」
「……」
「あと、やきもち焼いてくれないと寂しい」
彼は、少し照れくさそうに笑っていたが、その言葉に私は、胸が少しだけ苦しくなる。
「……やですよ。苦しいんですもん」
笑って返す。彼は数秒だけ私を見つめて、それから、ふっと目元を緩めた。それは、つい数秒前までぷくっと頬を膨らませて拗ねていた子どもが安心したみたいな、やわらかい笑顔だった。
「じゃあ、その苦しさは俺が減らす」
「……」
「苦しくさせないようにするから。まあ、週刊誌までは、さすがに止められんけど」
「でしょう?」
「……」
「……だから、慣れる努力くらいはします」
私は立ち上がって食べかけの食器を重ねながらそう言ってキッチンに向かう。すると背中から、小さな溜め息が聞こえた。
「努力されるのも、なんか複雑なんだけどなぁ」
ぼやく声がおかしくて、思わず笑ってしまう。朝の光が、テーブルを照らしていた。
昨夜まで胸を締めつけていた不安は、まだ完全には消えていない。それでも、その隣で同じ朝を迎えられるだけで、昨日までとは少し違う世界に立っている気がした。
「大人だね、名前ちゃんは」
ぽつりと感心したような声が背中越しに落ちてくる。気づけばホークスは、いつの間にか、私のすぐ後ろまで歩み寄っていた。私は、彼から皿を受け取りながら、小さく笑う。
「……大人のふり、したいだけです」
そう答えた瞬間だった。水を流していた音が、不意に止む。蛇口へ伸ばしたホークスの手がそのまま空中で、ぴたりと止まった。振り返って彼の顔を見たとき、胸が少しだけ痛くなる。笑ってはいなかった。逆に怒っているわけでも困っているわけでもない。ただ、その言葉を聞くのが、少しだけ苦しかったという、そんな顔だった。
「……ふり、しなくていいよ」
「……」
「少なくとも、ここでは」
静かな声。本当に、相手を安心させるような、穏やかな音。彼の言う��ここ�≠ェこの部屋なのか彼の隣なのか。その両方なのかは、聞かなくてもわかった。私は、少しだけ目を伏せる。
「……迷惑、かけたくないから」
前回のことが頭をよぎる。酔って、記憶をなくして、抱きついて、キスをして——。朝から何度謝ったかわからない。あんなふうに誰かへ甘えてしまった自分を思い出すたび、恥ずかしさと申し訳なさがないまぜになって胸の奥を掻き回した。
「迷惑って、誰の?」
「……ホークスの」
迷いなく答えると、彼は、小さく息を吐いた。その吐息は安堵とも照れともつかない、行き場を失った空気みたいだった。それ以上は、何も言わない。私は視線を逸らし、逃げるみたいにして、キッチンを出ようとした。その瞬間だった。腕をすっと掴まれる。強く引き止めるわけではない。かといって、逃がすつもりもない、そんな絶妙な力加減だった。
ホークスはシンクの縁へ片手をつきゆっくりと身を屈める。急かさない。追い詰めない。ただ、自然と、私と同じ高さまで目線を下ろしてくる。蜜色の瞳がまっすぐこちらを捉えたあと彼は少しだけ眉を下げた。
「俺への��迷惑�≠フ定義さ、変えてくんない?」
「……え?」
意味が飲み込めずに見返すと、彼はそのまま、体重をシンクへ預けた。蜜色の瞳が、相変わらずまっすぐ私だけを映している。
「やきもちも、わがままも」
「……」
「拗ねるのも、甘えるのも」
「……」
「全部ちょうだい」
その言葉があまりにも真っ直ぐで、私は一瞬、息の仕方を忘れる。対する彼は、少しだけ笑って首を傾げた。
「それを迷惑だって思ってるなら、名前ちゃん、俺のこと」
「……」
「まだ、全然わかってない」
軽く言ったつもりなのだろう。けれどその声の奥には、冗談では済ませたくない本音がちゃんとあった。私は、苦笑するしかない。
「……強い、ですね」
「強いんじゃないって」
「……」
「名前ちゃん相手だから、こうなるの」
彼は少し困ったように笑って、肩をすくめる。その言い方があまりにも自然で、照れ隠しも格好つけもなく、口にするものだから、やっぱりこのヒーローは、ずるいと思った。
「……ずるいヒーロー」
「知ってる」
私が思わず零すと彼は、にかっと笑って、そう返した。その笑顔に朝日が差し込んで金髪の先がやわらかく光った。リビングのテーブルの上では置いたままのがマグが白く反射している。洗い物の終わった流し。湯気の消えたマグカップ。何気ない朝の景色なのに、そのどれもが昨日までより少しだけ愛おしく見えた。昨夜の出来事がまるで夢だったみたいに穏やかな朝だった。でも夢じゃない。証拠なら目の前にある。寝癖を好き放題に跳ねさせたまま笑っている、この、ヒーローだ。
「あ、そうだ。来週、引っ越すとしてさ?」
彼は急に何か思い出したように声を上げて指をぱちんと鳴らした。もう来週で決定なんだ、と、思うより先にホークスは、楽しそうに続ける。
「なんか、必要なものある?」
「ベッドは、ホークスのを持ってきてください。大きいし……」
「うん、たしかにね。冷蔵庫と洗濯機もこの際、二台置いちゃおっか」
「はい」
「シーツ、歯ブラシ——あと、何がいる?」
「好きなもの、選んでください」
彼はあえて指を一本ずつ折り、あれこれと必要そうなものを挙げていたが、私がそう答えると、不意に折っていた指を止めた。そして、ちらりとこちらを見やる。その視線が、どこか少しだけ、いたずらっぽい。
「好きなもの?」
「ええ」
「ここにあるじゃん」
「……ん?」
「好きなもの」
「……」
「名前ちゃんんがいれば、それで十分なんだけど」
彼はほんの少し微笑んでそう言い切った。私は反射的に笑いそうになって、それでも胸の奥が、熱くなってしまう。
「……また、そうやって」
「ううん。本音」
即答だった。少しも照れずに言われると、もう誤魔化しようがない。私は視線を落とした。落としたまま小さく息を吸う。言うなら今しかない。
「……わたしも、です」
声は自分で思っていたよりずっと小さかった。けれど静かな部屋ではそれで十分届いたらしい。返事はなかった。不思議に思って、顔を上げと、ホークスが、固まっていた。三秒。いや、もっと長かったかもしれない。まるで、時間だけ置いていかれたみたいに瞬きも忘れて、それから、ゆっくりと耳が赤く染まっていく。ついさっきまで、私へ平然と甘い言葉ばかり投げていた人とは思えないくらい、わかりやすい反応だった。私は堪えきれずに、吹き出してしまう。
「……ホークス、」
「なに」
「照れてる」
「照れてない」
食い気味なのに、耳だけはますます赤い。そのアンバランスさがおかしくて、私は笑いが止まらなかった。彼は、照れ隠しみたいに頭を掻いて、小さく咳払いを一つすると観念したように笑う。
「……だめだ」
ぽつり、と力の抜けた声が落ちた。「え?」と首を傾げるとホークスは片手で額を押さえたまま困ったように言った。
「好きな子からそれ言われるの、思ってたより、効く」
「はは」
「……朝からやめてくれる? 帰れなくなる」
「自分から言ったくせに!」
思わず笑いながら突っ込むと、彼は耳まで赤く染めたまま肩を竦めて両耳を手で覆った。本当に熱いらしい。背中の羽根までぱたぱたしている。
「想定外だったから……」
「なんじゃそりゃ」
「……いやぁ。名前ちゃん、最近さ」
「はい?」
「素の顔、だんだん、見せてくれるようになったよね」
彼は嬉しそうに笑うと自分から言っておいて、照れたように頭を掻く。蜜色の目が、細くなる。私は、少しだけ口を結んだ。
「……そう、ですか?」
「うん。いい、すごくいい」
その言葉に、胸の奥がじんわり熱くなる。気づけば、さっきから敬語が崩れている。笑うたび、照れるたび、思ったことを、そのまま返すたび。いつの間にか、ヒーローへ向けていた距離が少しずつほどけているらしい。私は、きっと何ひとつ気づいていなかった。けれど彼だけはその全部を見逃さずに、受け止めていたのだと思う。
「……そういうこと、いちいち言うんだから」
少しだけ拗ねるように言うと、彼はにんまりと笑った。
「いいじゃん、その喋り方」
「じゃあ敬語、徹底しますね」
「だめだめ!そのままでいて」
必死で、食い気味だった。両手までぶんぶんと降っている始末。朝からトップヒーローが全力でお願いしている姿なんて、日本中の誰も想像できないだろう。そんな姿がおかしくて、私はまた、自然と笑ってしまう。その瞬間ホークスの動きがぴたりと止まる。瞬きも忘れているようだ。私が首を傾げると彼は、小さく呟いた。
「……今の、かわいすぎ」
「え……」
「かわいい」
「……あ、ありがとう」
流されるまま素直に返した瞬間、ホークスは、「うわぁ」と大袈裟なくらい、がくっと、膝から崩れ落ちた。私は少しだけ焦って戸惑う。彼は、床にしゃがみ込んだまま私を見上げる。その顔がどこか、本気で悔しそうで。
「ありがとう、じゃないんだよなぁ……」
「え?……じゃあ、なんですか?」
「照れてほしい」
あまりにも真顔だった。私は、吹き出しそうになるのを堪えて「わー、照れるなー」と棒読みで返した。すると案の定じとーっと細い目が返ってくる。
「……棒読み」
「ごめんなさい」
笑って謝ると、彼は、ゆっくり立ち上がった。一歩。また一歩。自然に距離が縮まる。私はそのまま後ずさって気づけば背中が壁へ触れていた。
「じゃあさ——」
彼の片手が壁につく。顔のすぐ横。朝の光が、その腕の影ごと、私へ落ちる。
「照れさせてもいい?」
「えっ」
返事を考える間もなかった。ホークスが、少しだけ身体を屈めると、身長差で影がすっぽり覆いかぶさる。距離が近い。近すぎる。顔を近づけて耳元へ落ちてきた彼の声は寝起きの、まだ少し、掠れたような声だった。
「……好きだよ」
低くて甘い——それは、朝にはあまりにも反則すぎる響きで、その一言だけが、真っ直ぐ胸へと落ちてくる。気づけば熱は、耳まで駆け上がり、頬の奥で、どうしようもなく広がっていた。ついさっきまで彼の反応を笑っていたくせにこれでは立場がまるで逆だ。私は慌てて両手で顔を仰ぎ、少しでも火照りをごまかそうとする。
「わっ……! や、やめてくださいよっ」
絶対に赤くなっている。自分でもわかるくらい顔が熱い。ホークスはその反応を見て満足そうに目を細めた。まるで、狙っていた獲物を見つけたときの、鷹みたいな顔だった。
「それそれ。そういうの」
「……っ」
「ほんと、かわい」
二回目だった。今日だけで、二回目。もう慣れてもいい頃なのに、そのたび心臓は、律儀に跳ね上がるのだから、どうしようもない。
「……最低」
「ええ? 最高、の間違いじゃない?」
睨むように言うと少しも堪えていない顔でそう返された。むしろ、褒め言葉をもらったみたいな顔をしている。私は「もう、ほら」と、彼の肩をやんわりと押し出す。
「早く、自分の部屋戻ってくださいっ」
「えー、やだ」
「えぇ……」
ホークスはそのまま、ふわりと、身体を預けるように近づいてきた。どうやら、離れる気はないらしい。そのまま顎が私の肩へそっと乗る。少し熱を持った体温が、服越しに伝わってくる。
「あと、五分だけ」
甘えるような声だった。昨日までなら、こんなヒーローがいるなんて信じられなかった。テレビの中では誰より自由で誰より掴みどころがなくて風みたいに笑って飛んでいく男が。いまは、私の肩へ体重を預けて「あと五分」と子どもみたいに駄々をこねている。それでも私は、そんなを彼を振り払うことができない。
「……五分だけ、ですよ」
「うん」
観念してそう言うと、返事だけは驚くほど素直だった。それなのに腕は少しも離れてくれない。
窓の外では冬の光がゆっくり街を照らし始めていた。どこかで電車が走る音がして誰かの生活が今日も当たり前に始まっていく。その当たり前の朝の片隅で私だけが知っているホークスがいる。速すぎる男の誰にも見せない寝癖も、照れた耳も甘える声も。その全部を知ってしまった私はもう昨日までの隣人には戻れないのだろう。
肩へ預けられた重みは決して大きくないのに、不思議なくらい心地よかった。このぬくもりが、いつか当たり前になる日が来るのかもしれない。そんな未来を想像しても、今は怖くはなかった。