友人たちと店先で手を振って別れ、それぞれが笑い声を残しながら夜の街へと散っていく。ぼんやりとその背中を見送っていると不意に路地裏の暗がりが、揺れた気がした。音もなく舞い降りてきた赤い翼が静かに地面へ触れ、そのまま一人の影になる。
 ホークスは着地すると同時にサングラスを外しこちらへ向かって歩いてきた。薄暗い夜の中でも蜂蜜色の瞳だけは不思議なくらい、よく見える。彼は私の顔を見るなり小さく鼻を鳴らした。

「……あーあ。これはちょっと、やばそ」
「む?」
「お酒の匂いすごいよ。結構飲んだでしょ」
「あー......へへっ」
「かわいいけど。テキーラ飲んだぁ?」
「ん〜、ふふっ……あー、う……ん?」

 思わず肩が縮こまった。すると小さく息を吐く声が聞こえた。けれど、その表情に怒気はない。呆れと心配が半分ずつ混ざったような、そんな、顔だった。

「じゃあ覚えてる範囲で。何杯?」
「五杯、六杯……くらい、だったかなぁ」
「��くらい�≠チて何。それ、もう覚えてないってことじゃん」
「うぅ……ごめんなさぁいぃ」

 自分でも驚くほど、甘えた声だった。彼は目をわずかに見開くと「はぁ……」と力の抜けた溜め息を漏らし額へ手を当て、そのまま夜空を仰ぐ。困ったように笑っているのにその笑みにはどこか諦めと安堵が入り混じっていた。
 次の瞬間、ふわりと赤い翼が、夜空いっぱいに広がる。闇を染める無数の羽は、風を受けるたび柔らかな光をまとい、まるで、夜空にもうひとつ夕焼けが咲いたようだった。それは息を呑むほど美しい光景だった。

「わぁ……きれー」
「はいはい、ありがと。ほら、おいで」
「うぎゃっ」

 返事をするより早く体がふわりと浮いていた。軽々と抱き上げられて、気づけば私は彼の首元へ顔を埋めるような格好になっている。翼が夜風を掴むたび、体はゆっくりと地面を離れ街の灯りが少しずつ、遠ざかっていった。
 彼の腕の中で空へ上がるのはこれで二度目だ。それなのに、前とは何もかも違う。前回とは比べものにならないくらいに近くて腕を回さなくても落ちる気はしないのに、胸元へ寄りかかるほど、安心してしまう自分がいて、アルコールの熱とは違う別の温かさが、胸の奥へとじんわり広がっていく。しばらく飛んでからホークスが静かに口を開いた。

「で。飲み会、問題なかった?」
「あー......あったぁ、かなぁ......」
「え、あったの?」
「だって、ホークスが……あんな目立つことするからさぁ……」

 頭上から笑う気配がした。私は友人たちに散々からかわれて質問攻めにあって冷や汗をかいたというのに、そんな苦労も知らない本人はどこ吹く風らしい。その温度差が少しだけ恨めしくて唇を尖らせたくなる。

「えー、俺?」
「うん……友達に、い〜っぱい聞かれたぁ」
「んん? 何聞かれたの」
「いろいろっ!」
「いろいろかぁ」
「ごまかしたつもりっ!」
「へぇー��つもり�≠ヒぇ」

 少しだけ含みのある声だった。翼は私を抱えるだけじゃなく風や空気の震えまで拾ってしまう。こんなに近くにいたら、激しく脈打っている鼓動なんて、隠せるはずがない。私がどれだけ恥ずかしくなっていたかも、きっとこの人には、全部、伝わっている。

「……まあ、名前ちゃんの友達なら大丈夫だろうけど」
「……おこってるぅ?」

 その問いに、彼は少しだけ、高度を落とした。体がふっと浮き上がるような感覚に、小さく息を呑む。

「怒ってないよ」
「ほんとに?」
「ほんとに。店の前にいたのも、ずっと待ってたのも、俺だから」
「あー、よかったぁ……へへ」

 自然と気の抜けた笑いが漏れる。その声を腕の中で受け止めたホークスは前を向いたまま静かに続けた。

「心配してんの」
「ん?」
「怒ってはない。でも心配はするって話」
「んー? なにをぉ?」
「名前ちゃんが嫌な思いしてないかなとか。変なやつに絡まれてないかな、とかさ」

 眼下には夜景が流れている。街灯も車のライトも、小さな星を地上へ散りばめたみたいで、ぼやけた視界の中ではどれも柔らかく滲んで見えた。

「……やさしぃねぇ」

 思ったままを口にすると抱きかかえている腕がほんの少しだけ固くなった気がした。赤い羽が、夜風を払うように小さく震える。何気なく零した一言なのに、それが照れくさいのか、それとも、困るのか。そんなことを考える余裕もないまま、私はただ、彼の体温に頬を預けていた。

「……名前ちゃん、今日も絶好調だね」
「んー、そう?」

 自分では何が絶好調なのかよく分からなくて、首を傾げる。返事はなく、しばらく風の音だけが二人の間を通り過ぎていった。夜風を切る翼が、ゆっくり速度を落とし、見慣れた建物が近づいてくる。私と彼の住む、マンションだ。自分たちの部屋のベランダが視界に入るや否や、ホークスは音を立てないよう静かに降り立った。私を抱えていた腕は飛ぶときと同じくらい慎重に体を支えたまま、足がベランダに着くまで、力を抜かない。

「はい、到着」
「ありがとぉ。送ってくれてぇ」
「うん」

 少しぶっきらぼうに返事を返したくせに、腰へ回された腕はまだ離れなかった。私の足はもう、ちゃんと地面についている。それなのに今もすぐ目の前にホークスがいて、その距離だけは変わらない。

「あ、あの……」
「ん?」
「……手、どけてくんないと……」

 そう言っても彼は動かなかった。それどころかほんの少しだけ私を引き寄せる。距離が縮まって彼の体温が触れる。そして、少し低くなった声が耳許へ落ちた。

「俺、まだもらってないんだけど」
「え……?」
「ちゃんとしたやつ」

 何のことだろうと考えて、それから数時間前にした友人たちとの会話が、頭の中でゆっくりと、繋がっていく。胸の奥が、じわっと熱くなった。

「で……でも、今日も……酔ってるし」

 そう答えた瞬間、腰へ添えられていた親指が、ゆっくりと動いた。服の上からそっと撫でられただけなのに、背筋がぞくりと震える。ホークスは少し笑いながら覗き込んでくる。

「テキーラ、六杯飲んだんでしょ」
「……、」
「もしかして、俺よりお酒強い?」
「……かも、ねぇ……」

 顔が近づく。重なりそうなくらい近い距離で、蜂蜜色の瞳が真っ直ぐ、私を見つめていた。その視線から私はまた、目を逸らすことができない。

「……だめ?」
「……」
「名前ちゃん」

 その声はどこか甘えているみたいでずるいなと思った。普段は人を揶揄ってばかりなのにこんなふうに素直な声を出されると、私ばかりが簡単に揺さぶられてしまう。それでも相手はそれを知らないような顔で、今も私を見つめ続けている。

「……しらふのとき、じゃないの……?」

 勇気を振り絞るようにそう言うと、ホークスは小さく目を細めた。それから、ふっ、と肩の力を抜いて笑った。

「……それもそっか」

 無理やりではなくあっさり引いてくれたことに嬉しくなって、思わず笑い返した。何も考えずに向けた笑顔だったのに、ホークスは、なぜかその場で、ぴたりと動きを止める。よく見ると、耳が少し赤い気がする。彼は、目を逸らしたまま軽く咳払いするとようやく腰から手を離した。そして一歩だけ距離を空け、照れ隠しみたいに顎へ手を添える。夜風が金色の髪をさらりと揺らしそこで改めて視線だけこちらへ戻す。

「じゃ、しらふの日。約束ね」
「うん」

 私が満足げに頷くと、ホークスは背中の剛翼を大きく広げた。そのまま、飛び立とうとした姿を見て私は思わず吹き出してしまう。その笑い声に気づいたらしい彼が、翼を動かしかけたところで振り返る。

「……なに?」
「え? だって……」
「……?」
「隣なのに、そんな本気で飛ぼうとしてるから」

 私は口許に手を当てて、くすくすと笑いを堪えながら隣の部屋のベランダを指さした。その瞬間赤い羽根がぴたりと静止した。パトロールへ戻るなら、何もおかしくない動きなのに、今から帰るのは自分の部屋。つまりは隣のベランダだったと思い出したらしい。彼は気まずそうに頭を掻いて笑う。

「あー、そうでした」
「ふふ」
「……クセです、ね」

 ホークスは、視線を逸らしながら剛翼を静かに畳んで、いつもの軽い調子でそう言うと、小さく笑った。照れたように目尻を下げて笑うその顔がやっぱりおかしくて私もつられて笑ってしまう。笑い声が止むと、夜気だけが二人のあいだをすり抜けていった。

「……じゃあ、ちゃんと送り届けたんで」
「……」
「おやすみ、名前ちゃん」

 それだけ言い残すと、自分の部屋へ戻るため、羽を最小限だけ広げて、ベランダの柵へ軽く足を掛ける。飛び移るだけなら一瞬なのにその背中がほんの少しだけ名残惜しげに止まった気がした。だから私は、思わず声を張る。

「——おやすみっ」

 彼は振り返らなかった。きっと今、振り返ってしまったら互いに帰れなくなる——離れられなくなる。そんな気がしていたのだろう。代わりに、小さな声だけが、夜風に乗った。

「……鍵、ちゃんと閉めて」

 ひゅっと軽い羽音。赤い羽が夜へ溶けていき、姿が見えなくなった頃には、隣のベランダの窓が閉まる音が聞こえた。
 本当に数秒。この距離を飛ぶことさえ、彼には歩くより簡単なのだろう。そのあと壁一枚向こうからは浴室のドアが開閉する音が小さく響いた。生活音はそこで途切れる。さすがにベランダではシャワーの音までは聞こえない。私も部屋へ入り冷えた指先を温めるように浴室へ向かった。熱いお湯を浴びると、アルコールでぼんやりしていた頭が少しだけ軽くなった気がした。
 髪を乾かし終え、ベッドに腰をかけた頃には、時計の針は、二十三時を回っていた。そのとき、枕元のスマートフォンが、小さく震える。画面を見る。送信者は、ホークスだった。


ホークス

無事お風呂入った?








 思わず、口元が緩む。短く『うん』とだけ送り返すとすぐ既読はついた。数分待ってから届いた返事は彼にしてはずいぶん短くて少しだけ素っ気なかった。



ホークス

無事お風呂入った?


名前

うん


ホークス

よかった。
はやく寝なよ








 それだけだった。いつもなら、絵文字のひとつくらい添えてくるのに、今日は妙にあっさりしている。暗い部屋で、スマホの光だけが指先を白く照らしていた。私は画面を見つめたまま、布団に潜り込んだ。
 隣の壁の向こう。同じ時間に同じように天井を見ている人がいることを、私は知らない。壁一枚向こうには、ホークスがいる。すぐ隣なのに今は『はやく寝なよ』の続きさえ交わせない距離が、少しだけ、もどかしかった。
 耳を澄ませば、暖房の低い運転音だけが部屋を満たしている。眠気はあるはずなのに、頬へ残る体温や、腕の感触ばかりを思い出してしまう。

 私は、スマホを胸の上へ置いたまま、しばらく天井を見つめる。気づけば日付はもう、変わっていた。時計は深夜一時を指している。窓の外ではいつの間にか雨が降り始めていた。細かな雨音が静かな夜へ溶け込み、その音に耳を預けてみる。——今、電話をかけたら……迷惑かな。

「……寝てるよね」

 小さく零れた独り言は返事を求めることもなく夜の闇へと溶けていく。
 眠ろうとしても、きっと、簡単には眠れない。そんな予感だけが静かに胸へ残ったまま、私は、ゆっくりと目を閉じた。今日も長い夜になりそうだった。


 *


 翌朝、目が覚めても、私はしばらく起き上がれなかった。頭の奥がずきずきと痛んで枕から頭を離すだけでも気が遠くなりそうになる。まぶたを開けるだけで鈍い痛みがこめかみの奥へ響いて、思わず顔をしかめる。喉はからからで口の中にはアルコールの名残が張り付いているようだった。
 完全な二日酔いだ。改めて空腹に間髪入れずのテキーラ六杯は無謀だったと反省する。それでもなんとかベッドから降りてふらつく足取りでリビングへ出ると、朝の静かな空気が部屋いっぱいに広がっていた。その静けさが余計に、二日酔いの頭に響く。とりあえず、意味もなくため息を吐きながら冷蔵庫を開けてみた。

「……あ」

 何もない。飲み物さえほとんど残っていなくて仕方なくコンビニへ行こうと財布だけ掴んで玄関へと向かった。しかし、ドアを開けた瞬間、目に入ったものに足が止まる。ドアノブに小さなビニール袋が掛けられていた。中にはペットボトルの水と頭痛薬らしき小さな箱。それから折り畳まれたメモが一枚。少し癖のある見慣れた字だった。

『冷凍庫にうどん入ってるから合鍵で入ってチンして食べて。あと、水いっぱい飲むこと。ホ』

 最後の一文字だけが途中で潰れている。きっと『ークス』まで書く前に慌てて仕事へ向かったのだろう。そんな様子が目に浮かんで思わず笑ってしまう。視線を落とすと廊下には赤い羽が一枚、残っていた。風へ乗りきれなかったのか朝の光を受けながら、静かに床へ横たわっている。そっと拾い上げてみると、その赤は指先へ触れるだけで柔らかく揺れた。

 気づけば昼を過ぎていてその頃には頭痛もようやく少しだけ、落ち着きを取り戻し始めていた。
 今日が休みで、本当によかったと心から思う。テレビも付けずにソファに寄りかかったままふとスマートフォンを開くと、昨夜テキーラを煽った例の友人三人とのグループトークがとんでもない勢いで更新されていた。



昨日の名前、まじでかわいかった!

てかさ、ホークスにしがみついてた写真上がってるよね?

私も今みた!これ誰かに撮られてたってこと?

今朝、ヒーロー公安委員が、公式声明出したのって見た?

見たー!あれって、フェイク?







 リンクが貼られている。驚いて恐る恐る開くとそこには、なんとも事務的な文章が並んでいた。

『昨晩のホークスによる個性濫用について、当該行為はプライベートにおけるものであり、本人の安全を考慮した措置です。』

 あまりにもお役所仕事らしい感情の欠片もない定型文で、まるで行政から届くお知らせのような文章だった。感情を一切排したその文面が、逆に不思議と私の不安を少しだけ鎮めてくれる。
 どうやら同じことを思った人は多かったらしく友人たちからも、安堵したような反応が、次々と返ってきた。



とりあえず、お咎めなし?笑

安全を考慮とは?(意味深)

公式が匂わせてくるの草すぎ!笑

これホークス知ってるの?







 私は返事をするよりも先に、さらに関連記事を慌てて開いて確認した。

【ホークス一般女性を翼で運搬!お姫様抱っこの相手とは——】
【No.2ヒーローの��彼女�≠ヘ誰だ!?】

 案の定、ゴシップ系の記事まで一斉に上がっていた。コメント欄も大騒ぎだ。

【さすがファンサの神!】
【彼女いるのショック…】
【お姫様抱っこの空中バージョン笑】
【あの剛翼で運ばれたい♡】

 しかし、そんな声が並ぶ一方で——【これは、個性の私的利用では?】という真面目な意見も、ちらほらと混ざっている。画面をスクロールしているうちに、友人たちとのグループトークには、次々と通知が届いた。


あ!既読増えた!

おはよ、ヒーローの彼女さん♡

顔は映ってないけど時間帯と場所で特定されるかもよ?

暗かったし大丈夫じゃない?

それより名前、体調どう?

私たちが守るから!
よし、作戦会議しよ!







 三人が、同時にオンラインになった瞬間、この連携である。本当に恐ろしい友情だった。ありがたいのか、おせっかいなのか、ここまでくれば、もうよく分からない。スマホを持つ手にじんわり汗が滲む。
 昨夜のことが、急に鮮明によみがえってきた。ベランダで彼に抱き寄せられて「だめ?」なんて聞かれて私は『しらふのときじゃないの?』と、そう、返した。その場では酔った勢いで口にしただけのつもりだった。でも、今になって思えば、あの言葉は、次があることを当たり前みたいに、受け入れている返事だった。
 ……吐きそうだ。これが、二日酔いのせいだけじゃないことくらい自分でもよく分かっていた。



おーい、既読つけて黙るな〜

ここまで来たら堂々としちゃいな!

で、作戦会議兼、飲み会いつ?







 畳みかけるように、通知が増えていく。返事を考える時間なんて一秒も与えてくれない。画面を見つめたまま固まっていると、今度は、グループ通話の軽快な着信音が鳴り響いた。

「うそ……」

 思わず溜め息が漏れる。慌てて拒否マークへと指を伸ばす。——けれど、その一瞬が遅かった。画面は無情にも通話中へ切り替わる。友人たちの行動力は昔から変わることなく、光の速度よりも速い。返事を待つくらいなら直接聞く。その方が早いと本気で思っている人たちだ。私の周りにはどうしてこうも速い人ばかりが集まるのだろう。

『もしもーし? 生きてる〜?』
『もう〜、公安公認カップル?』
『昨日より顔赤いでしょ、今!』
「……逆、なんですけど」

 私はそう、小さく呟いた。たぶん赤いどころか真っ青だろうと思う。今は、ソファに座っているだけなのに、血の気が引いていくような、そんな感覚がある。顔色を確かめるために鏡を見る勇気なんて、とてもなかった。

『ねぇねぇ、昨日帰ったあとに、何かあったでしょー?』
『正直に吐きなさい』
『ていうかさ、お迎え来てたなら私たちにも挨拶くらいさせてよ〜』

 沈黙は金、という諺は、この場においては通用しなかった。相変わらず質問が次から次へ飛んでくる。口を開こうとしても、その隙にまた誰かが話し始める。黙っていれば、そのうち終わるかもしれない——そんな淡い期待は、一瞬で打ち砕かれた。

『その無言が答えなんだって!』
『絶対なんかあったじゃん!』
『白状しろー!』
『で? 好きって囁いた?』
「——! ち、違……」

 否定しようとしても私の声は誰にも届かない。三人が三人とも、好き勝手に盛り上がっていて、もはや会話というよりも、言葉の嵐だった。そのとき、不意に耳元で電子音が鳴る。キャッチだ。画面に視線を落とす。——ホークス。なんということだろう。本当に、最悪のタイミングだった。

「……ご、ごめん、みんな。またあとで!」
『あっ、待っ——』
『切るなーー!』
『名前ーー!!』

 三人分の、悲鳴みたいな声を最後まで聞かないまま、私は通話を切った。それから、小さく息を吐いて呼吸を整え鳴り続けているホークスからの着信へ指先を滑らせた。
 耳へ当てた途端、向こうからは少し荒い呼吸が聞こえた。今まさに、急いでどこかを飛びながら移動しているのだろうか。

「……もし、もし」
『おはよ。今、大丈夫?』

 声にはいつもの軽さは残っている。でも、その奥に、わずかな焦りが滲んでいた。無意識に胸がざわついた。

『あのさ〜。ちょっと、まずいかも』
「……ですよね」

 思わず遠慮もなく、ため息が漏れてしまった。しかし相手もそれにつられるようにして息を吐き少しだけ声を落とした。

『ニュース、見れる?』
「……ネットニュースなら、見ました」
『そっか』
「あ、あの……」
『ん?』
「事務所のほうで、なんとか対応、とか……」

 言葉を探しながら唇を湿らせる。そう言えば、きっと、彼ならば『任せて』と一言で、終わると思っていた。けれど返ってきたのは、どこか自嘲したような、小さな笑い声だった。

『……なんとか、ね』
「……」
『名前ちゃんも、そういう言い方するんだ』

 笑っているのに少しも明るくない。しかし私は嘘でも笑えなかった。ネットニュースのコメント欄は、今も更新され続けている。

【相手の女性を探せ!】

 まるで、「ウォーリーをさがせ!」とでも言うような悪趣味なスレッドまで立っていて、画面をスクロールするたびに胸の奥が沈んでいく。
 見なければよかったと思っても気になって指は止まらない。そんな私の沈黙を察したのか、少し間を置いてから、ホークスが静かに口を開いた。

『事務所にはもう動いてもらってる』
「……」
『——ただ、一枚だけ写真が出回ってて』

 その声は、落ち着いていた。それでも私は胸がぎゅっと締めつけられる。やっぱり、あの近くにいた誰かが撮っていた。あの、ほんの一瞬を。

「……なんとか、なりませんかね」
『なるよ』

 迷いのない声だった。いつもの飄々とした調子は消えている。ヒーローとして、状況を整理しているような声音。

『今日中に該当の投稿は全部、削除申請かける』
「……」
『顔は映ってないし、場所も特定できないように処理するから』

 その口調には焦りも感情もない。淡々と手順を確認していくその冷静さが、かえって頼もしかった。サボり魔みたいな顔をしているくせに、こういうときだけ誰より仕事が早い。やっぱり、この人は、根っからのプロヒーローなんだと思う。

『怖い思いさせて、ごめんね』
「……」
『名前ちゃん?』

 優しい声で名前を呼ばれても、すぐには返事ができなかった。胸の奥が痛む。謝るべきなのは、どう考えても私の方だ。酔っていたなんて言い訳にもならない。判断が鈍っていて、流されるまま距離感を見失っていた。あのとききちんと断って一人で帰ればよかったのに。私がちゃんと理由を話して断っていたら、彼だって無理に引き留めたりは、しなかったはずだ。
 ——潮時だ。そんな言葉が、胸の奥に沈んだ。きっとこれは私が言わなければならない。彼には言えない。言えるはずがない。彼は最後まで私に選ばせようとする人だから。答えを、押しつけることも、背中を無理に押すこともせず、ただ私が決めるのを待っている。だから終わらせるのなら私から……。喉の奥がきつく締まり、口の中は、からからに乾いていた。何度も息を飲み込んでもこの震えを飲み込むことはできない。それでも、私は意を決して、口を開いた。

「やっぱり……私たち、無理だと思います」

 スマートフォンの向こう側が急に静かになる。それでも私は、続けた。

「外で会ったりするのも、プライベートで関わるのも……もう、やめましょう」
『……』
「ベランダでも……やめた方が良さそうですね」
『……』
「そのほうが、安全だと思うので……」
『……は?』

 短い声だった。聞き返したというより、言葉の意味を受け止めきれなかったような響きだった。
 しかし、それから先の返事がない。呼吸音すら聞こえないほどの沈黙が流れる。耳へ当てたままのスマートフォンが急に重たく感じた。そして、ようやく聞こえてきた声は、驚くほど淡々としていて、冷静だった。

『そうだね』

 否定しない。やっぱり、彼も終わらせるつもりだった。馬鹿みたいだ。引き止めてもらえるかもしれないなんて、どこかで、期待していた。彼にとってはただの遊び。暇つぶし。そうでなければあんなふうにして、人目につく場所で私を抱えて飛んだりはしない。
 本気だったのは、最初から私だけだったのだ。そう結論づけた瞬間、不思議なくらい胸の奥が、静かになった。痛みが消えたわけじゃない。ただ暴れていた感情だけが、ゆっくりと、熱を失っていく感覚。涙さえも引いていくような、そんな、冷え方だった。

「はい。本当にすみませんでした」
『……なんで名前ちゃんが謝ると』

 そこで、言葉が一度だけ途切れる。ほんの短い沈黙を挟んでから、彼はもう一度、口を開いた。

『謝んなくていい』
「……」
『謝らんで』

 平坦な声だった。感情を押し殺したというより自分の中へ全部をしまい込んでしまったような。それは誰に対しても崩れない仕事中のヒーロー、ホークスの声だった。

『じゃあ切るね。……戸締まりしっかりしてね』

 通話が切れた。耳に残るのは『ツー、ツー』という一定の間隔で繰り返される電子音だけ。私はスマホを膝の上へ落とした。力が抜けたみたいに指先が開いて、暗くなった画面が、静かに天井を映している。
 これでいい。正しい判断だったと思う。人気で有名なヒーローの恋人になるということはきっとこういうことなのだ。
 名前を知られなくても、顔を探される。生活を覗かれる。そして最後には——晒される。少しの出来事が誰かの娯楽になって、彼にも周りにも、迷惑をかける。それくらい、最初から私だって、分かっていた。だから言った。自分の口から無理だと思う、と。それなのに……。

「……なん、で……」

 胸の奥だけが、こんなにも、苦しいんだろう。ふと視線を落とす。テーブルの上には水の入ったペットボトル。頭痛薬。急いで書いたのが分かる少し乱れた文字のメモ。そして廊下で拾ってきた赤い羽が一枚。どれも、ついさっきまでは当たり前みたいにそこにあったものなのに、急に、違う意味を持ちはじめた気がした。
 部屋の中は、何ひとつ変わっていない。暖房もついたまま。窓も、閉まっている。それなのに、さっきまで確かに残っていた温もりだけが、音もなく部屋から消えてしまったような気がした。


 *


 休日の午後は、驚くほど淡々と過ぎていった。何かをする気にもなれないまま夕方になり、気を紛らわせようとテレビをつける。けれど映し出されたのは今日もヒーローたちのニュースだった。その中には、もちろんあのヒーローもいる。
 反射的にリモコンへと手が伸びる。画面が暗くなると、部屋は急に静かになった。
 夜になる。無意識のうちに壁一枚向こうの気配を探している自分がいた。最近は翼がぱたぱたと揺れる音や浴室からかすかに聞こえてくる水音がこの静かな部屋まで届いていた。けれど今日は、何も聞こえない。静かすぎる夜だった。その静けさのまま、一日が終わっていく。

 翌朝——月曜日。出勤のために玄関を開ける。廊下には誰もいない。もう任務へ向かったのか、それとも昨夜は帰ってこなかったのか。
 昨日拾った以外の赤い羽も今日は一枚も落ちていない。掃除をしたのか。あるいは本当に帰ってきていないのか。
 鍵を閉める。がちゃん、と響いた金属音だけが妙に大きく耳へ残った。エレベーターで一階まで降りる。ガラス張りの自動ドアの向こうでは朝の通勤ラッシュが、もう始まっていた。ふと、空を見上げた。誰かの翼が横切った気がした。でも、それは赤ではない。ただの、鳥だったのかもしれない。
 駅までの道を歩く。イヤホンを耳へ差し込み、いつものプレイリストを流す。音楽は流れているはずなのに、何一つ頭へ入ってこなかった。耳に残っているのは、昨日の電話の最後の声だけ。

『——じゃあ、切るね』

 あの静かな声が何度も頭の奥で繰り返される。
 会社へ着く。デスクへ座る。パソコンを、立ち上げる。メールを確認する。仕事は、いつも通り始まっている。なのに私だけが、昨日から、取り残されたままだった。
 昼休み。社食で頼んだうどんを口へ運ぶ。温かいはずなのに味がほとんど分からない。ぼんやり顔を上げた、そのときだった。テレビモニターへ速報の赤い帯が流れる。

『速報 ホークス、ヴィランと交戦。単独で鎮圧するも負傷か』

 箸が止まった。映し出されたのは現場上空からのヘリ映像。瓦礫の中から立ち上がる、赤い翼。けれど左腕だけが不自然なほど、力なく垂れ下がっている。胸が、ひやりと冷えた。うどんの湯気だけが静かに立ち上り汁は少しずつ冷めていく。
 画面の中のホークスは、それでもいつもと変わらない笑顔を浮かべていた。記者へ向かって右手を軽く上げる。でも、その左腕だけは、一度も、動かなかった。

『ホークスは負傷についてコメントしておらず、現在、病院へ搬送される模様です』

 周囲の社員が突然、ざわつき始めた。「うそ、ホークスが?」「え、大丈夫なの?」「負傷って結構まずくない?」そんな声が、遠く聞こえる。私はスマートフォンを取り出して無意識のうちに連絡先を開いた。
 『ホークス』——その名前を見ただけで指先が震えた。そのまま発信ボタンを押す。コール音が一回。二回。三回……出ない。それでも切る事が出来ずに、続けて、四回。五回。

「お願い……」

 祈りも虚しく、留守番電話へ切り替わる。私は一度、切ってから、誰に向けたのかも分からないままもう一度だけ発信する。しかし、結果は同じだった。今度は、ラインの画面を開く。


名前

ニュース見ました
大丈夫ですか








 ——送信。なんて未練がましいのだろうかと、情けなくなった。既読は、つかない。私は画面を見つめたまま、指先からゆっくり血の気が引いていくのが分かった。社食のテレビでは、間を置くことなく、続報が読み上げられていた。

『——病院側は、搬送後に会見を予定しており、詳しい容体については現在確認中です』

 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。さきほどまで騒いでいたはずの、周りの社員たちは、何事もなかったように「午後も頑張ろう」と言い合いながら席を立っていく。
 私だけがその場から動けなかった。半分残ったうどんはすっかり伸びて湯気すらも、もう立っていなかった。

 午後の業務がひと段落したところで、自販機へ向かうついでに化粧室へ立ち寄った。個室へ入り扉に背を預けながら、もう一度だけ発信ボタンを押す。コール音は二回。これで繋がらなければ、連絡先はブロックして、そのまま消そう。そんなことを、どこか他人事みたいに決めていた。
 けれど。三度目の呼び出し音が鳴る前に通話が繋がった。胸の奥が、どくりと大きく跳ねた。

『あっ……もしもーし?』

 聞こえてきたのは、ホークスではない男性の声だった。慌ただしい空気が、その向こうから伝わってくる。背後では、誰かが走る音がしていた。

『あのぉ、名前さん、ですか?』
「は、はい……」
『良かったぁ。ホークスから聞いてます。すみませんねぇ、本人、今ちょっと出られんで』

 扉の開閉音。医療スタッフらしき声。何かが、ぶつかる乾いた音。病院の慌ただしさがそのまま電話越しに流れ込んでくる。

『……実は左腕ば骨折してまして、命に別状は、なかとですが』
「……」
『……あの、心配せんでください。うちの所長、毎回こげん感じなんで』
「……そう、ですか」

 ようやく胸の奥に詰まっていた息を吐き出せた気がした。張りつめていた気持ちが、ほんの少しだけほどけていく。スマホを握り締めていた手も時間をかけてゆっくりと震えを手放していった。

「……あの。お大事にと、お伝えください」
『あ、はい。もちろんです』
「……では、」

 こちらから先に通話を切ろうとした、その瞬間だった。『あっ!』と向こうの男性が何かを思い出したように声を上げる。思わず��終話�≠�押す指が止まった。

『あと、伝言です』
「……はい?」
『なんか……��ベランダで�≠チて、所長が』
「……ベランダ、ですか」
『ええ』

 思わず息を呑んだ。だが、その一言だけで十分だった。彼が切迫した状況にいることには変わりないはずなのに、それでも張りつめていた心が、ふっとほどけて、気づけば笑みがこぼれていた。そのとき不意にまた受話口の向こうが慌ただしくなる。

『あっ、すみません、呼ばれたんで行かんと』
「あ、はい……わかりました」
『じゃあ——』
「——あの! 私からも、伝言を」
『……はい? なんでしょう』

 言葉が喉につかえた。呼び止めておきながら、肝心なことが、出てこない。本当は『ベランダで待ってます』と伝えたかった。けれど、それではまた、ずるずると、この曖昧な関係を終わらせることができなくなる。あの蜂蜜色の瞳にもう一度見つめられたら私はきっと、逃げられなくなる。苦しいのは、慣れっこだった。だから——。

『……これで、連絡先は消しますので。安心してください、と』

 言い終えたあと、一瞬だけ沈黙が落ちた。それから、受話口の向こうで相手が小さく、けれど、長く重苦しい溜め息をつく気配がした。

『……了解です。ちゃんと、本人に伝えます』

 それだけ告げられて、通話は切れた。しかし、途切れるほんの一瞬だけ——『あー!勝手に俺のスマホ使わんでくださいって』という聞き慣れた声が、電話の向こうで響いた気がした。けれど、その続きを聞く前に、通話はもう完全に途切れてしまっていた。私はしばらく暗くなったスマートフォンの画面を見つめたまま動けなかった。
 ほんの一瞬。それでもちゃんと元気そうな声が聞けた。それだけで十分だと思おうと小さく息をつく。これでよかった。そう自分に言い聞かせるように、そっとスマートフォンを伏せた。


 *


 午後四時十五分。パソコンの画面をぼんやりと見つめたまま私はいつの間にか同じキーを何度も押してしまっていたらしい。画面には、『表計算ソフトが応答していません』と、無機質な文字が浮かんでいる。

「……あ。」

 小さく息を吐いて指を止める。それから、何気なく時計へと目を向けた。秒針だけが、妙にゆっくりと、時を刻んでいるように見えた。ほどなくして、定時を告げるチャイムが、社内に響いた。今日はワックスがけがあるらしく全員五時で退社することになっていた。気づけば私は、ほとんど反射のように席を立っていた。

「名字さん、今日飲みに行かなーい?」
「あ……、すみません、今日はちょっと」

 振り返る余裕もなく、会社を飛び出す。駅まで走って改札を抜ける。そのまま電車へ飛び乗る。
 車内では落ち着かなくて何度もスマホを見てはまた画面を閉じるという動作を繰り返していた。電車はいつも通り走っているのに、私だけ時間に置いていかれているようだった。
 マンションへ着く。エレベーターに乗り廊下を歩いて、鍵を開ける。靴を揃えることもせずに、そのまま真っ直ぐベランダへ出た。夕暮れの空が広がっている。橙色から、薄紫へ。ゆっくり色を変えていく空をただ眺めているだけ。風は昼間の熱を少しだけ残していて生ぬるかった。
 何も飛んでいない。赤い翼も、どこにもない。五分。十分——。待っても隣のベランダは静かなままだった。

「……来るわけないか、」

 ——ベランダで。サイドキックが伝えてくれた言葉が頭をよぎる。あの腕では飛べるはずがないのに。それでも、心のどこかで期待してしまっている自分が嫌だった。
 このまま待っていても、仕方がない。そう言い聞かせるように踵を返しかけたそのときだった。かす、と小さな音がした。隣のベランダ。仕切り板の向こう側から聞こえた誰かが手すりに触れたような音。

「……いた。」

 聞き慣れた声に胸が大きく跳ねる。思わず息を潜めて振り返るとそこにホークスが立っていた。
 左腕は、包帯で吊られ、その上から、固定具でしっかりと支えられている。白いギプスが、沈みゆく夕陽を受けて淡く光り右手は手すりに体重を預けるように添えられていた。その肩はわずかに上下し、ここへ来るだけでも相当、無理をしたのだと、その荒い息遣いが、何より雄弁に物語っていた。

「来ちゃった」

 笑う。いつもと、同じ笑い方で。なのに、その目だけは少しも、笑っていなかった。

「……大丈夫?」
「ん?……ああ、大丈夫、大丈夫」
「……」
「サイドキックが大げさに言っただけ。見た目が悪かねぇ。折れとらんし。このくらい慣れっこ」

 彼は、右手を軽く振ってみせる。嘘だと思う。たしかに、本人が言うのなら骨折ではないのかもしれない。でも、それで済む怪我でもない。
 額にはうっすら汗が滲み、呼吸も少し、浅い。病院からそのままここまで飛んできたのだろう。無理をして。そこまでして——。
 ホークスは手すりへ背中を預けて、小さく息を吐いた。

「伝言、聞いたよ」
「……うん」

 言葉が続かない。お互いに。しばらく二人とも黙っていた。風だけが二人のあいだを通り抜けていく。金色の髪が、さらりと揺れた。少しして、ようやくホークスから、静かに口を開く。

「昨日さ、外で会ったりするのもプライベートで関わるのもやめようって。あれ、俺のこと考えて言ってくれたんでしょ」

 視線が足元へ落ちる。耳元の赤いピアスだけが小さく光った。私は、肯定も否定もできず、返す言葉を見つけられないでいた。

「わかってるよ、正しい判断なんだろうなって」
「……」
「俺といたら、名前ちゃんの生活めちゃくちゃになる。巻き込むことになる」

 とても、穏やかな声だった。彼は余計な感情を抑え込むようにして、静かな声で続ける。

「……でもさ、一個だけ」
「……」
「あの夜、楽しかった?」
「……え?」

 ホークスが、ゆっくりと顔を上げた。蜂蜜色の瞳が、まっすぐ私を見つめている。また、逸らすことができなくなった。

「……飲み、会?」
「ううん。帰り道」
「あ……えっと。空を……飛んだこと?」
「うん」
「……楽しかった、よ?」

 私は促されるように頷いて答えた。ホークスは一度だけ空を見上げて薄紫へ変わり始めた夕空を眩しそうに見つめながら、小さく笑う。

「『楽しかった』で、いいのに」
「……だって、こんなことになるなんて、思ってなかったから」

 胸の奥が、少しだけ痛む。彼は、吊った左腕へ視線を落としギプスを右手の指先で軽く叩いた。乾いた音がベランダに、小さく響く。

「これは俺のせい」
「……」
「判断ミス。名前ちゃんは関係ない」

 彼が、へらりと笑おうとしたその瞬間だった。ほんのわずかに眉が寄って、口元が歪む。痛みが走ったのだろう。それでも何事もなかったように息を整える姿が、余計に胸を締めつけた。

「その話じゃ、なくて……」
「うん?」
「私が飲みすぎなかったら......一人で帰れたし、ニュースになることも、なかったわけで」

 その言葉を聞いた途端、ホークスの目が大きく開いた。心底、驚いたような顔だった。少しだけ彼の声の温度が下がる。

「……それ、本気で言いよる?」
「うん」

 迷うことなく返事をするとホークスはゆっくり一歩だけ近づいた。手すり越しに、こちらを見つめる。

「じゃあ聞くけど」
「……」
「飲みすぎた名前ちゃんを置いて、俺だけ帰ればよかった?」
「帰れますよ……今までも、そうして生きてきたわけだし」

 その一言で、彼の表情が止まった。風だけが、二人の間を無情にも、吹き抜けていく。怒鳴っているわけではなさそうだった。けれど今の沈黙がかえって胸に刺さって痛い。

「……今までって?」
「飲み会なんて、今までも何回もあったし」
「違うくて」
「……」
「今までと今を、一緒にせんで」

 静かな否定だった。それでも、言葉は真っすぐ私の胸へ届く。彼の右手がゆっくり持ち上がる。手すりを越え、ほんの少しだけこちら側へ伸びた指先。触れられる距離なのに、触れない。指先はそのまま動かない。

「謝るのは俺」
「……」
「迎えに行ったのも俺。飛んだのも俺」
「……」
「全部、俺がやりたくてやったことだから」
「……そうかも、しれないけど」

 思わずそう返すと、彼は、小さく首を傾げた。そして、私を見つめたまま、小さく笑う。

「けど?」
「またニュースになったら……今度こそ、本当に大変なことに、なっちゃうから……」

 その言葉を聞いて、差し出されていた指先が、静かに引いていく。まるで何かを諦めるみたいにゆっくりと。そして彼は、短く息を吐いた。

「……うん。そうだね」

 彼は手すりからゆっくりと背中を離した。その仕草だけで、もうこれ以上、引き止めるつもりはないのだと分かってしまう。ホークスは、ふっと口元だけを緩める。それは、どこか諦めを含んだ少しだけ、自嘲するような笑みだった。

「ごめん。来ちゃって」
「……」
「迷惑だったね」
「違っ……」

 反射的に声が出る。けれど、その先は続かなかった。ホークスが右手を軽く上げて、私の言葉をそっと制したからだ。そして彼はゆるく首を横に振る。

「大丈夫、分かっとるから」

 相変わらず穏やかな声だった。ちゃんと笑っている。笑っているはずなのに、その笑顔はひどく遠い。それが、私を安心させるためだけにつくられた笑顔なのだと、分かってしまうくらいに。

「ちゃんとする。もう近づかないから」
「……」
「あの夜のことも、なかったことにしよ」
「……、」

 あの夜——きっと飲み会のことを言っているんじゃない。彼と唇を重ねた、あの夜のことだ。
 たったそれだけの返事なのに、喉の奥が焼けるように苦しかった。けれど、それ以上何かを口にしたら、彼を縛り付けてしまいそうだったから。

「……、わかりました」

 彼は小さく頷き、静かに背を向ける。夕暮れの名残りを浴びた赤い剛翼が、ゆっくりと左右へと広がった。
 その翼は、自ら燃えているような、なんとも、鮮やかな赤だった。飛び立つ寸前、彼は振り返ることなく、独り言を零すように呟いた。

「楽しかったって言ってくれたの、嬉しかった」

 次の瞬間には、赤い翼が、夜空へ溶けていく。今日は羽根が一枚も落ちなかった。何も残さないように飛んでいった背中を、私はただ、見上げていた。
 瞬きをする。頬を伝う冷たさに気づいたのは、それから、少し経ってからだった。泣いていた。自分でも気づかないうちに。
 ——近づかない、と言われた。なかったことにしよう、と。でもそれは私が望んだ距離だった。外で会うことも、プライベートで関わることも、やめようと。そう言ったのは私なのだから。それなのに胸の奥だけが、どうしても納得してくれなかった。ベランダから部屋へ戻る気力もなく私は手すりを両手で握ったまま夜空を見上げていた。

「……ほんとに、終わっちゃったんだなぁ」

 改めて声にすると、それは思っていたよりも、現実だった。薄紫だった空はいつの間にか群青へ変わり、星が一つ、また一つと増えていく。

「あの、ひとときの幸せも——」

 誰に届くこともなく言葉だけが夜風にほどけていく。部屋へ戻って照明をつけると、白い光が、やけに眩しかった。思わず目を細めてカーテンを閉める。さっきまで外を見ていた部屋は、あっという間に静かな箱になった。テーブルの上には、水が半分ほど残ったコップ。時間だけが、過ぎていく。着替えもしないまま布団へ潜り込み、枕へ顔を埋める。そのときスマートフォンが震えた。友人たちとの、グループトークだった。



ニュース見た?
ホークス怪我したって

名前、大丈夫?

なんか知ってる?

知らないよ。私は平気

そっか。
無理しないでね







 それ以上誰も踏み込んではこなかった。三人のうち誰かが察したのか。それとも、何も聞かないことが優しさだと思ってくれたのか。
 通知がぱたりと止まり部屋はまた静かになる。その直後、一度だけ着信が鳴ってすぐに切れた。そして今度は一件だけメッセージが届く。差出人はホークス。親指が、画面の上で止まる。開けば読める。あと数ミリ。でも、さきほどの言葉が、耳の奥で繰り返された。

『もう近づかないから』
『あの夜のことも、なかったことにしよ』

 自分で言ったくせに。それなのに、どうして、メッセージなんて送ってくるのだろう。そう思いながらも馬鹿で愚かな私は、画面を開いてしまうのだ。



着信拒否しないでくれてありがとう







 たった一行。絵文字も、スタンプもない。それだけなのに、胸が苦しくなる。まずい——既読がついてしまった。返さなければ……。でも何を。『お大事に』という言葉は人伝てに昼に伝えた。『迷惑じゃなかった』と言えば自分で決めたことまで揺らいでしまう。指先は迷いながらそれでも文字を打ち始めていた。



何かまたご迷惑をおかけすることがあれば教えてください。私にできることがあれば対応します

お隣さんが有名ヒーローで一時でも仲良くなれて嬉しかったです。
これからもヒーロー活動、応援してます







 少し迷ってから、送信した。あえての敬語と、業務的な文章で。全部、自分で選んだ言葉なのに一つ文字を打つたびに、胸の奥が少しずつ冷えていくのがわかった。
 既読はすぐについた。『入力中』の印が出て、その表示が消える。そしてまた現れて、消える。その繰り返しのあと、届いたのは——。



何かまたご迷惑をおかけすることがあれば教えてください。私にできることがあれば対応します

お隣さんが有名ヒーローで一時でも仲良くなれて嬉しかったです。
これからもヒーロー活動、応援してます

うん







 それだけ。いつもなら、どうでもいい話まで、何通も送ってくる人なのに。その二文字だけが、画面の真ん中へ、ぽつんと残っていた。
 私はスマホを裏返して枕元へ置く。部屋には、エアコンの低い音だけが流れていた。元の生活へ戻るだけ。そう思えばいい。人気ヒーローと恋をして、キスまでできた。それだけでも十分、幸せだったじゃないか。何度も、そう言い聞かせる。

 目を閉じる。眠ろうとする。けれど、瞼の裏へ浮かぶのは夕焼けに染まる赤い翼ばかりだった。
 羽根の匂い。笑い声。どうでもいい話をして、笑った夜。思い出すのはそんな小さな時間ばかりで——。頬を伝う涙だけが、静かな部屋で誰にも気づかれないまま、枕へと染み込んでいった。


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