相手を黙らせて主導権を握る方法というものがあるらしい。正面から言い返して言葉をぶつけるのではなく問いを返すことで相手の足場を静かに崩していくやり方だ。
「それってどういう意味ですか?」
「具体的には?」
 と、ただ穏やかに尋ねるだけでいい。そうすると相手は、自分が何を言ったのかを、自分で言い直さなければならなくなって途端に勢いを失う。
 言葉というのは投げるときより拾い直すときの方がよほど重たいのだと思う。誰かを追い詰めるためではなく、自分の位置を守るための技術。
 冷静で知的で、決して感情的には見えないその振る舞いは対人関係の場で案外よく効くらしい。そんな話をついさっきまでスマホで読んでいた。
 世の中には嫌になるほど、人と向き合うための手引きが溢れている。しかも、その手の文章は、まるで人生の本質でも解説するみたいな顔をして最後にさりげなく、物騒な一言を添えたりする。ちなみに今回は文章の最後に『この手法はヤクザも使う』なんて書かれていて、私は思わず小さく息を吐いた。

 知りたくもない知識ばかりが、妙に頭の片隅に残ってしまうような夜更けだ。
 そのとき、カラカラ……と、乾いた音がした。室内とベランダを隔てる窓枠が隣でゆっくり滑る音だった。顔を上げると、向こうの家と私の家の境目みたいな隔て板のところから、ひょいと人の気配が覗いた。板そのものは動かないのに、あの狭い隙間だけで隣人というものは、案外あっさりこちらの生活圏へと入り込んでくる。

「お、名前ちゃん。こんばんは〜」
「どうも、ホークスさん。こんばんは」

 今夜もそんなふうに始まる。仰々しい会話はない。せいぜい小さな会釈と短い挨拶が交わされるだけだ。それなのに私はこのやりとりが、いつのまにか自分の夜の一部になってしまっていることを、うすうす認めている。認めたくない気持ちともう遅いという気持ちは、たいてい同じ顔をして胸のあたりに居座るものだ。
 数ヶ月前——私はこのマンションに引っ越してきた。高い建物が遠慮がちに並ぶこの辺りでは、珍しく視界が開けていて、ベランダも広かった。朝の光もよく入るし、夕方には空がきれいに見える。洗濯物を干すだけでは、もったいないような気がして、いつか小さな鉢を並べて、トマトとかハーブとかそういう手のかからないものを育ててみたいと考えていた。生活を自分の手で少しだけ整えていく感じが今の私には必要な気がしていたのだと思う。
 そんな話をある夜なんとなく隔て板の向こうに立つ隣人へ口にしたことがあった。

「おー、良いんじゃないっすかぁ〜?収穫したら教えてね」

 気軽で軽快で、まるで昔からの知り合いにでも向けるみたいな調子だった。その対応の仕方が、嫌だったわけじゃない。ただ、あまりにも身軽に私の警戒心を飛び越えてくるから、どこに、線を引けばいいのかがわからなくなる。相手が気安いぶん、こちらだけが戸惑っているみたいで、少しだけ、悔しい気持ちになる。 
 隣人はまさかのプロヒーロー、あの、ウイングヒーロー・ホークスだった。テレビの向こう側で見るときと同じ金色の髪の毛、気の抜けたような笑い方をしているくせに実際に隔て板一枚ぶんの距離に立たれると、その現実味のなさがかえって妙だった。有名人に会ったという驚きはもちろん最初こそあったけれど、それよりも困るのは彼があまりにも自然に、そこにいることだった。雲の上の人みたいな顔をしておきながら帰宅のついでみたいな気軽さで、ベランダに現れる。そういうちぐはぐさが、彼を余計に、つかみどころのないものに見せていた。

 このマンションに越してきた初日、私は一応、隣人に挨拶に行った。けれどその日は不在で日を改めて何度かチャイムを鳴らしてみても、やはり会えなかった。生活の時間が合わないのだろうと思ったし、それならそれでこちらとしても気楽だった。隣人付き合いというものに私はそれほど、熱心ではない。会えば礼儀正しく、でも深入りはしない。そのくらいがちょうどいい。生活の輪郭というのは他人が踏み込みすぎるとたちまち曖昧になるから。だから、もうこのまま顔も知らずに暮らしていくのかもしれないと少し肩の力を抜きかけていた矢先だった。
 平日の深夜。私用で遅くに帰宅してベランダで洗濯物を取り込んでいた私は、隣からふいに声をかけられた。その夜のことを、私はわりと鮮明に覚えている。夜気は少しぬるくて、遠くの道路を走る車の音が波みたいに途切れず聞こえていた。ふとした拍子に隣の方を見たら、隔て板の隙間の向こうに人影があって、金色の髪が街灯の橙色を受けて、やわらかく光っていた。

(こんな時間に、こんな場所で、あのホークスがいる……)

 その非現実感に一瞬だけ思考が止まって、それからようやく、ああ、隣人だったのか、と冷静になった。
 夜でも、その声音は軽かった。こちらの構えを見透かしてわざと力を抜いているのではないかと思うくらい肩のこらない挨拶だった。あの独特の人懐こいようでいて、どこか本心の見えない話し方を、私は最初から、少し持て余していたのだと思う。親しげなのに踏み込ませすぎない。距離を縮めているようで、肝心なところはあっさり空へ逃がしてしまう鳥みたいな人だと、そのときぼんやり思った。
 けれど人は不思議なもので居心地の悪さにすら慣れてしまう。今では、この距離感にも、深夜のベランダで顔を合わせるという奇妙な習慣にも、私はだいぶ、馴染んでしまった。慣れた、というより、体が先に覚えてしまったのかもしれない。窓の開く音がすればつい隣を意識してしまうし、あの金髪が視界の端に現れれば今日も帰ってきたのだなと無意識に夜の景色へ組み込んでしまう。それが安心なのか、ただの習慣なのか、自分でもまだよくわからない。ただひとつ言えるのは隣のベランダにホークスが立っている夜を私はもう、以前みたいに��非日常�≠セとは、思えなくなっている、ということだった。

 今日もホークスは隔て板の近くに片腕を預けるようにして立っていた。寄りかかる、というほどだらしなくはなくて、けれどいかにも気を抜いた体勢でこちらが身構えるのを先回りして無意味にしてしまうような立ち方だった。にへら、という言葉がいちばん近い気もするが実際にはそこまで無邪気でもない。口元だけが先に笑って、目元は少し細まる。その顔つきには相手を警戒させない事に慣れている人特有のなめらかな余裕がある。ああ、この人はこうやって、たいていの境界線を軽やかにまたいでくるのだろうな、と今では半ば感心するような気持ちすらある。

「今日、ちょっと肌寒いよねぇ?」

 言いながら彼は缶ビールを持った手をひらりと上げた。ベランダの柵越し、銀色の缶が夜の薄明かりを受けて鈍く光る。
 最初の頃は、もっとよそゆきの敬語だった気がする。こちらの様子をうかがうような距離を測るための柔らかさがそこにはあった。けれど何度か夜更けのベランダで言葉を交わすうち彼の口調は少しずつ崩れていった。崩れるといっても乱暴になるわけではない。ただ多分、彼にとって心地のいい温度へと落ち着いていったのだ。親しげで、軽くて、けれど、馴れ馴れしさだけでは片づけにくい、妙に人の懐へ残る話し方。

「せっかくですし、一杯どうです?……あ、って言っても」

 そこで彼は何か思い出したみたいに視線を外しベランダの隅に置いてあるらしい小さな冷蔵庫を開けた。扉の開く音がして少ししてから、あー、という、間の抜けた声が聞こえてきた。

「今ウーロン茶しかなかった。いや、逆に健全で良いのかな。ごめんごめん」

 そう言って笑う。どこまで本当で、どこからが冗談なのかわからない。たぶん本人も、そこを、きっちり分ける気はないのだと思う。ホークスという人は、そういう曖昧さをとても自然に扱う。あえて答えを濁しているという作為すら感じさせないままするりと輪郭をぼかしてしまう。誘っているのか、からかっているのか。それとも、単に会話を途切れさせたくないだけなのか。どれにも見えるしどれでもない気もする。そういう曖昧な言葉の置き方が、いかにも、この人らしかった。
 プロヒーローが隣に住んでいる。その事実を、私はまだ、誰にも話していない。隠している、というほどの大層なものではなく、ただ話す理由がなかった。いや、理由がないというのも少し違う気がする。話してしまった途端に、この、奇妙な生活の手触りが急に他人事になってしまいそうでなんとなく口にしたくなかったのだ。たとえば、友人に言えば、きっと驚かれて羨ましがられて、面白がられて、それで終わる。でも私の中では、これは、そんなふうにきれいに整理できる出来事ではなかった。テレビの向こう側の人物が、隣のベランダで「ウーロン茶しかなかった」と笑っている。そういう現実の妙な歪みを私はまだうまく言葉にできないでいる。

 春の夜風がひとつ、マンションの上層を撫でていった。薄い部屋着の袖口から入りこんだ冷たさに、思わず腕をさする。遠くのほうでパトカーのサイレンが、細く鳴っていた。切迫しているほど大きくはなく、けれど、確かにこの街のどこかで誰かの夜が少しだけ、騒がしくなっているのだとわかる音だった。
 ホークスはその音に、いちおう、耳を向ける。職業柄なのかそれとももう癖みたいなものなのか私には、わからない。ただ、ほんの一瞬だけ目を細めたあと、彼は、何事もなかったように、またいつもの顔へ戻った。
 このヒーローが、わざわざ飛び立たなくていい程度には平和な夜だった。そういう夜に限って、私は少しだけ息がしやすい。彼がここにいる事を誰かの危機の不在と引き換えにしているみたいで後ろめたいと思うこともあるのにそれでも今夜は出ていかないでほしいと、胸の奥のほうでひどく身勝手なことを考えてしまう。

「ありがとうございます。ウーロン茶でも全然、嬉しいです」

 そう言って私は柵越しに差し出された缶へ手を伸ばした。
 夜気に触れていたアルミの表面は、思ったより冷たくその冷えが指先からじわりと移ってくる。受け取るだけの、ほんの短い動作のはずなのに、缶が私の手へ渡るその瞬間、彼の指先がかすかに触れた。避けようと思えば避けられた程度の接触だったから偶然とも言えたし、偶然ではないとも言えた。その曖昧さごと見透かすみたいに、板の向こうでホークスの口元が、ゆるく持ち上がる。たぶん今のはわざとだ。断言するには小さすぎるのに、否定するには表情が雄弁すぎたから。

「お、素直。そういうとこ、良いすねぇ」

 ひどく、自然な調子だった。褒めているのか、からかっているのか、その境目をまた器用に濁す言い方で、彼は自分の缶ビールへ指をかけた。
 プシュ、と小気味のいい音がして、私は思わずそちらを見る。まだ開けていなかったのかと妙にどうでもいいことを考えていた。彼は、一口だけ喉を潤してから、息をつくでも見せびらかすでもなく、くるくると缶を指のあいだで弄んでいた。手癖みたいな仕草だった。蜂蜜を溶かしたような色の瞳が、夜の薄い光を集めて、妙に楽しそうにこちらを見ている。

「最近どうなの? 仕事、忙しい?」

 少し首を傾けて、それから、思い出したように続ける。

「っていうか名前ちゃんって、何の仕事してるんだっけ。俺、まだそこ聞いてなかったよね」

 ふわふわとした金の髪の隙間から——ひし形の赤いピアスがちらりと揺れた。
 こうして見るとテレビや雑誌で見慣れた顔立ちのはずなのに近くで話す彼は少し違って見える。画面の向こうでは作られたように整っていた表情が今はもっと曖昧で、もっと生身に近い。気だるそうに笑う口元も、相手の返事を待つときにわずかに目を細める癖も知らなくても困らないはずの細部なのに一度気づいてしまうとなかなか視線が離れなかった。

「まあ、俺も不規則だしね。すれ違いばっかではあるけど」
「……」
「こうやって、顔合わせてるうちにさ、ちょっとずつ知ってけたらいっかー、ってね」

 そこで彼は肩をすくめるみたいに笑った。手の中で缶の表面に浮いた結露がすべって中指の節を伝い手首のほうへ落ちていく。冷たい感触に意識が引かれたあとで、今言われた言葉の意味が少し遅れて胸に沈んだ。ちょっとずつ。その響きは、妙に無防備だった。深夜のベランダ、という昼間ならたぶん、成立しない距離の近さと重なるせいかもしれない。
 何度も顔を合わせて短い会話を積み重ねているのに私たちはまだ互いの事をほとんど知らない。そのくせこの時間だけはもう生活の一部みたいに馴染み始めている。そういう宙ぶらりんな関係に『ちょっとずつ』という言葉はひどくよく似合っていて、似合いすぎることが少しだけ落ち着かなかった。
 初対面が深夜のベランダだった相手との関係にどんな名前をつければいいのか、私はまだ、知らない。隣人、というには会話がやわらかすぎて、友人、と呼ぶには互いのことを知らなさすぎる。そのあわいに立ったまま曖昧さだけが先に育っていく。

「……あれ? 聞いてますー?」

 板の向こう、軽い調子で聞き返されて、私は、はっと顔を上げた。考えごとをしていたのが多分そのまま、出ていたのだろう。少しだけ気まずくなってウーロン茶の缶を持ち直しながら答える。

「えっと、広告代理店でデザイナーやってます。担当するブランドやクライアントは結構変わるんですけど、今はお菓子の会社さんが多いかも」

 口にした途端、自分でもわかるくらい頬がゆるんだ。仕事の話をしているのに、そうなる理由は別のところにある。この一日の終わりにベランダ越しに言葉を交わして片方の手にはウーロン茶、向こうにはビール缶があって街の夜の音を遠くに聞きながら立っている、そのたわいなさが思っていた以上に私は好きなのだ。誰にも説明しづらい程度に、でも確かに、好きだった。

「お菓子?」

 その瞬間、ホークスの目がふっと明るくなる。あまりに率直な反応で私は少し驚いてしまった。さっきまでの相手を観察しているような、余裕のある顔が、急に子どもっぽく見える。

「え、いいなあ〜。じゃあ今度、なんかおすすめ教えて?差し入れでも大歓迎」
「……」
「俺さ、甘いもん好きなんだよね。こう見えて、わりとちゃんと喜びます」

 自分で言ってから、彼は、悪びれもせず笑う。ナンバースリーのヒーローが深夜のベランダで、柵に肘をかけながら、そんなふうに、甘いものをねだっている。客観的に見れば、たぶん現実味の薄い光景だった。もしこれが誰かに撮られて切り取られて勝手な見出しでも添えられたらそれだけで十分に面白い一枚になるのだろう。でも幸い、この時間この高さ、この静けさの中にはこちらを覗くカメラの気配は、どこにもなかった。だからこそ私は彼のこういう顔をただの隣人として見てしまう。雑誌の紙面にも、ニュース映像にも載らない、くだけた輪郭のまま。

「あ、そういえば……」

 と、突然ホークスがふいにポケットから自身のスマホを取り出した。指先で画面を慣れた手つきで操作して、それからこちらへ向ける。そして、へらりと笑って、彼は続けた。

「連絡先、交換してなかったよね。ほらぁ、こういうのってさ、タイミング逃しちゃうとずるずるいかん?」

 画面には、QRコードが表示されている。
 そのとき、背中の剛翼から離れた一枚の羽根が風にあおられて、ひらりと流れ、こちら側の柵へ軽く引っかかった。夜のなかでもわかる鮮やかな赤だった。つくりものみたいにきれいで、それなのに、引っかかった先で微かに揺れている様子は妙に、生き物じみている。ホークスがそれに気づいているのかどうか私にはわからなかった。彼はただ、いつもの力の抜けた笑顔のままでスマホを持つ手を引っ込めずにいる。

「今度いつ空いてるか、とか。そういうの気軽に聞けたほうが便利ですし、ね?」

 便利……。そう言われると、それはまるでごく実務的な提案みたいに聞こえる。けれどそのくせ声はやわらかくて、断られる可能性を最初から、あまり考えていない人の響きを持っていた。押しつけがましくはないのにするりとこちらの迷いをまたいでくる。
 きっとこの人はこうやって人との距離を縮めるのが上手いのだろうし、その上手さにいちいち、意味を探すほうが、たぶん野暮なのだろう。それでも私は画面に映る白黒の四角を見つめながら、自分の胸の内側が思いのほか静かではないことを知る。連絡先を交換する、それだけのことなのにベランダ越しの関係が輪郭を持ちはじめるような気がした。今までは夜更けに偶然会えば話すだけだったものがそこから少しだけ外へ伸びていく。その変化を歓迎している自分と、ほんの少しだけためらっている自分が同じ場所で息をしている。私は小さく笑った。それから改めて顔を上げる。隔て板の隙間越しに覗く彼の顔は相変わらず気楽そうで親しげで、こちらの躊躇を責める気配など少しもなかった。そういう無理のなさに知らないうちに、私はずいぶん、救われていたのかもしれない。軽くて、やさしい声の調子。深夜だけ共有しているこの奇妙な近さ。名前のつかない関係のままでも居心地が悪くなかったのは、たぶんそのせいだ。だから私は、もう少しだけ、この隣人のいる夜に、近づいてみたくなった。

「はい、良いですよ。今度、試作品とか差し入れできそうなものがあったら連絡しますね」

 そう言いながら私は柵に引っかかった赤い羽根を拾い上げた。指先に触れたそれは、思っていたよりずっと軽く、けれど羽毛のやわらかさの奥に芯のようなものがあって、ただ綺麗なだけの飾りではないのだとわかる。生き物の一部だったものに触れている、という当たり前の事実が、なぜか少しだけ胸を騒がせた。
 ひょい、と、柵越しに返そうと手を伸ばす。彼も当然受け取るものと思っていたのに差し出された私の手元を見て、ホークスは受け取る代わりに、自分の手をすっと引っ込めた。

「あー、それ、名前ちゃんにあげる」

 あまりにも気軽な言い方だったので一瞬、聞き違えたのかと思った。私が目を上げると彼は少しだけ笑って続ける。

「お守り、みたいな感じかな。俺の羽根さ、振動拾えるから、なんかあったら握ってみて」

 そこで彼は、わずかに首を傾け、いかにも冗談めかした顔をする。

「もしかしたら、ヒーローホークスが飛んでくるかもしれんよ?」

 冗談なのか、本気なのか、その境目がやっぱりよくわからない。
 この人はそういう台詞を、妙に、さらりと口にする。芝居がかっていないぶん、かえって扱いに困るのだ。本当にただの軽口なら、もっと笑って流せたかもしれない。でもホークスの場合、軽く見せた言葉の底にほんの少しだけ現実味がある。実際、彼の羽根は個性の一部で、ただの羽根ではないのだし「何かあったら来る」というのだって荒唐無稽な甘い文句として切り捨てきれないところがある。そういう、現実と冗談のあわいに人を立たせるのが、この人はうまい。
 彼はそれ以上その話を引っ張らず、するりと、視線をスマホのほうへ戻した。私も慌てて自分のスマホを取り出しカメラを起動して、彼の画面に表示されたQRコードへ向ける。
 読み取りの枠が合うまでの、ほんの数秒が妙に長い。隣では彼がまたビールを口にしていて缶を傾けたときに喉仏が静かに上下するのが見えた。そういうところに目がいく自分が少し嫌だったし少し、可笑しくもあった。
 ぽこん、と、登録完了の通知音が鳴る。たったそれだけの電子音なのに何かがひとつ先へ進んだみたいに聞こえてしまうのだから不思議だった。彼はその音を聞いて、満足そうに小さく頷いた。

「よし。じゃあ今のうちにスタンプ送っとくね」

 そう言ってから彼は隔て板の縁に手をかけて、ぐっと身を屈めるようにして、私と目線の高さを合わせた。高低差を埋めるためのただそれだけの動作なのに急に距離が縮まった気がしてしまう。
 ふわりと何かの香りが流れてきた。香水なのか柔軟剤なのか、それともその両方なのか、判然としないくらい淡い匂いで、けれど夜気のなかではかえって印象に残った。清潔で、少しだけ甘くて近づかなければ気づかない種類の匂いだった。
 すると突然、彼が「あ、そうだ」と思いついたように言う。

「デザイナーってことは絵とか描くんでしょ?」

 笑いを含んだ声で、さらに続ける。

「今度さ俺のこと描いてよ〜。ちゃんとヒーローっぽくかっこよく。翼はこう、ばさーって広げた感じで」

 そう言って笑う彼の背後を、飛行機のライトがひと筋夜空の端から端へ静かに横切っていった。白い線みたいに見えたその光はすぐに闇へ溶けてあとには何も残さない。時刻はもう深夜、一時に近い。明日というより、もう今日の朝には、私はまたいつも通りデスクに向かって座っているはずだった。メールを返して修正を受けて締切を気にして色や文字の位置を何度も見直す。そういう、昼間の現実が数時間後には待っているのに、手の中のウーロン茶はまだ半分以上残っていた。ずいぶん律儀に飲んでいるな、と、自分でも少し可笑しくなる。部屋に戻る理由はいくらでもあるのに私はまだここにいて、彼の言葉に笑ってしまっている。

「ふふ……了解です。構図はお任せにします?」

 私がそう返すとホークスはすぐに乗ってきた。わざとらしく、胸を張るふりをしてみせる。

「お任せします。そこはもう、プロの見せどころでしょ。カッコよく仕上げてね」
「……」
「だいぶ盛ってもらって、大丈夫ですからね〜」

 ベランダの柵に片腕を預けたまま、彼はそんなことを言う。隔て板の隙間から見えるその横顔は相変わらず気楽そうで、何も背負っていない人の夜みたいに見えた。けれどそれがたぶん錯覚なのだということも、私はなんとなくわかっている。余裕があるように見える人ほどその余裕を人前で崩さないために、色々なものを引き受けている。まして彼は、ヒーローだ。ナンバースリーという肩書の重さを私は正確には想像できないけれど、昼間のパトロールや事件対応。任務に取材。それから撮影。そのどれもが彼の生活の一部なのだと思えば、深夜のベランダで缶ビールを片手にしている今だけが、ようやく、人間らしく息をつける時間なのかもしれなかった。
 そう考えると、さっきまでただ軽く見えていた彼の笑顔が、少し違って見えてくる。これは余裕なのだろうか。それとも余裕があるように見せる技術なのだろうか。私はその違いをまだ、見分けられない。
 どうやら黙りこんでしまっていたらしい。彼は私のそんな気配の変化をすぐに拾ってふと片眉を上げた。

「ん? どうしたんですー?急に静か」

 赤い翼が、わずかに揺れた。風にあおられたというより彼自身の意識とは別に反応したみたいな動きだった。人の様子の変化を読むのがこの人は驚くほど早い。個性の影響なのか、生まれつきの勘の鋭さなのか、そこまではわからない。ただ、こちらが気持ちを言葉にする前から何かを察してしまう人なのだということだけは短いやりとりの中でも、もう十分に伝わっていた。
 ホークスは、缶を柵の上に、いったん置くと、んー!と、軽く伸びをした。腕が上がる拍子に、グレーっぽいロンTの裾が少しめくれて引き締まった腹筋の線が夜の薄明かりにちらりと浮かぶ。本人はそんなことにまるで頓着していない様子でただ身体の強ばりをほどくみたいに肩を回した。
 目のやり場に困るほど露骨ではないのに視界に入ったものをなかったことにもできなくて、私は缶の表面についた水滴へわざと視線を落とした。こういう無防備さすら、計算なのではないか、と疑いたくなるのに、その一方で、彼は本当に気にしていないだけにも見える。そういう判別のつかなさに、私はまた少しだけ調子を乱される。
 テレビの向こうで笑っているヒーローよりも、こうして、深夜に隣で気の抜けた伸びをしている男のほうが、よほど厄介だと思った。

「あー......もしかして、俺のこと、心配してくれてる?」

 そう言ってホークスは、にっと笑った。指先でこちらを指す仕草までいかにも楽しそうで相手の反応を面白がっている人の顔をしている。

「ヒーローが深夜まで飲んでて大丈夫ですかー、みたいな?」
「……、」
「やさしいですね、お隣さん」

 彼は少し肩を揺らして、さらに笑う。その言い方はいつもの軽口とよく似ていた。似ているのにほんのわずかだけ、違って聞こえる。揶揄われているのだという自覚はもちろんある。けれどただ面白がっているだけではないような気配もそこには確かに混じっていた。言葉の表面はいつも通り軽いのにその奥だけ少し柔らかい。そういう小さな違いに気づいてしまうくらいには私はもう彼の声の調子を覚えてしまっていたのだと思う。
 それに私のほうだって、ただ受け流して終わるつもりはなかった。もう少しだけ、彼に近づいてみたい——。その気持ちは胸の奥で妙に静かに、けれど、はっきりと居座っている。だったら少しだけ、こちらも踏み込んでみてもいいのかもしれない、って。

「それは、もちろん心配しますよ」

 自分でも少し、意地の悪い口調になったと思いながら、私は缶を持ったまま言った。

「プロのヒーローだっていうのに、いつもこんな時間に缶ビールなんて、体に悪いですし」

 小言を言うみたいに唇を尖らせるとホークスは一度、目を丸くした。ほんとうに一瞬だけ意表を突かれたみたいな顔になる。それから、ふっと、力の抜けた笑みがこぼれた。

「……あはは。なにそれ。マジで言ってる?」

 笑ってはいる。けれどその声はさっきまでより少しだけ、温度が低い。冷たくなったという意味ではなくて、むしろその逆で、表面を飾る軽さが薄れて、素の声に近づいたような響きだった。
 たぶん彼はそういう言葉をあまり向けられないのだろうと思う。無理しないでください、とか、頑張ってください、とか、応援してます、とか。
 そういうヒーローへ向けたきれいな言葉はいくらでも受け取ってきたはずだ。でも夜更けの隣人として、ただ、生活者の目線で「それは身体によくない」と言われることは案外少ないのかもしれなかった。
 ホークスは後頭部をがりがりと掻いて少しだけ視線を逸らす。夜景の方を見る横顔が、さっきよりわずかに無防備に見えた。

「んー......まあ、確かに。不摂生ではあるよね」

 ひとり言みたいにそう呟いてから、彼はまた、こちらを見た。

「朝、何時に起きるかもわかんない生活だし」

 今度は目尻が少し下がっている。なのに口元はいたずらを思いついた子どもみたいに緩んでいてその両方が同時にある顔を私はまだうまく見慣れない。

「じゃあさ、名前ちゃんが俺のこと管理してよ」
「……え?」
「食生活とか、睡眠時間とかさ。毎朝『ちゃんと食べましたか?』って送ってきて。そういうの、たぶん俺には必要なんで」

 言いながら、彼は、冗談めかして首を傾げる。茶化しているようでいて、その言葉の置き方は、どこか妙に、くすぐったかった。まるで『ママ』みたいな役割を押しつけて、笑っているようにも見えるのに、ほんの少しだけ本気が混じっている気もする。そういう曖昧さにまた、調子を乱されそうになって、私は缶を持つ指先に少し力を入れた。春の風が、もう一度吹き抜けて、ぬるくなりかけた夜気のなかで、彼のビールの残りもきっとちょうど、飲み頃を過ぎているのだろうと思う。
 連絡先を交換したことも、深夜のベランダで、言葉を交わすことも、いつのまにか、私の生活へすっかり入り込んでいた。おかしな習慣だと思いながらそれでも今さら手放したいとは思えない。そのことを、認めるのは少し悔しいけれど。私は笑って言った。

「ママ扱いは、嫌ですけどね。それくらいの健康管理なら、してあげてもいいですよ」

 そう返すと、ホークスはすぐさま眉を上げた。半信半疑みたいな顔をして、でも口元はもう楽しそうだ。

「うそ、本気で?」
「はい。本気です」

 私もわざと、真面目な顔を作る。本気ですよ、みたいな顔を。

「毎朝起きたら『おはよう』って送って下さい。そしたらママが、ちゃんと返事しますから」

 言い終えてから、自分で少し可笑しくなった。こんな冗談に、こんなふうに乗ってしまうくらいには私は彼とのやりとりに慣れてしまっている。あるいは慣れたふりをしているだけで、実際には毎回ちゃんと、振り回されているのかもしれないけれど、どちらにしても今の私はそれを不快だとは思っていなかった。ホークスは一瞬きょとんとした。それから、くくっと肩を揺らして笑う。

「いや、認めとーよね、それ。ママの位置」
「む……」
「嫌って言いながら、だいぶノリ良いやつ」

 零時をとうに過ぎたマンションのベランダで、プロヒーローと一般人が健康管理の約束みたいなものをしている。誰かに、その一場面だけを切り取られたら多分ずいぶん妙な絵に見えるだろう。少なくとも、そういう匂いを嗅ぎつける週刊誌の編集部なら、喜んで飛びつきそうだ。けれどここには、カメラも観客もいない。ただ、少し冷えた夜気と飲みかけの缶と言葉の行き来だけがある。その閉じた感じが私は意外なくらい好きだった。
 ホークスは、空になったビール缶を片手で軽く握りつぶした。ぐしゃり、と、金属のへこむ音が静かな夜に小さく響く。そうしてから、柵にもたれていた身体を起こしこちらを見た。すぐにまた悪戯っぽい顔になる。

「おっけ。んじゃ明日の朝、おはよって送るね」
「……」
「スタンプ何個つければいいです?百個くらいがちょうど良い?」

 そう言いながら柵に両手をかける。ぐっと押し返すような動作さえも、どこか羽ばたく前の仕草みたいに見えるのが、この人のずるいところだと思う。
 部屋の中へ戻りかけたところで、彼はふと振り返った。逆光で輪郭だけが少し濃く見えて、その姿はやはりどこか人より先に空へ行ける生き物のように見える。

「じゃ、そろそろ寝なね〜」

 声はやわらかく、思っていたよりもずっと素直だった。

「遅くまで付き合わせてごめんね」

 ひらひらと手を振る。その、何気ない仕草に、今日の会話は、もうおしまいなのだという気配がにじんでいてほんの少しだけ名残惜しいと思ってしまう自分に、私は気づかないふりをした。

「おやすみ、名前ママ」

 最後にもう一度だけ揶揄うようにそう言って、ホークスは窓の向こうへ消えていく。でも、その呼び方の語尾だけが妙にやさしく聞こえたのは、たぶん、気のせいではなかったと思う。
 ただ逆に——気のせいであってほしいような、そうでもないような。そんな曖昧な思いだけが、彼の姿が消えたあともしばらく夜風の中に残っていたのだった。


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