翌朝、スマホが震えたのは目が覚めてから少し経った頃だった。まだ布団の温度が身体の輪郭に残っていて休日の朝特有の起きているのか眠っているのか判然としない時間の、ただなかにいた。
 枕元からスマホを手探りで引き寄せて、画面を見る。差出人の名前を認識した瞬間に、眠気より先に、胸の奥のどこかが、小さく明るくなるのがわかった。
 送られてきたのは画像だった。開いてみると、ソファらしき場所にホークスが仰向けで転がっている。翼を広げたまま寝落ちしたのか赤い羽根が顔の上にばさりとかかっていて、表情はよく見えない。ただ、羽根の隙間から金髪だけが無造作にはみ出していて、それが妙に可笑しかった。いかにも無防備で、いかにも本人らしい雑さでもありテレビで見る��完璧に整ったヒーロー像�≠ニは、ずいぶん違う。その写真の下に、ひと言だけ添えられていた。



ホークス

おはよーママ🐥







 朝からなんともゆるすぎる挨拶で、私は思わず頬を緩めた。昨夜のあのやりとりを本当に朝まで持ち越してくる人なのだこのヒーローは。しかもこういうところだけ、妙に律儀。その写真の気の抜けた感じにくすりとしながら私は返信の小窓に文字を打ち込む。



名前

おはようございます
よく眠れましたか?







 打ち込みながらふと、部屋の時計へ目をやると午前六時を少し回ったところだった。休日にしてはずいぶん健康的な時間だ。自分でも意外だったけれど、彼からの通知で目が冴えたのだと思えばなんだかそれも変な話だった。
 送信してから、ほんの三秒ほどで既読がつく。早い。と思った次の二秒後には、もう返事が来ていた。まず、送られてきたのは、スタンプひとつ。親指を立てた鳥らしきのキャラクターがいかにも得意げに、「ぐっ!」と言っていそうな顔をしている。その直後に、テキストが続いた。



ホークス

剛翼が枕になって
意外と快適なんす


ホークス

これも個性の
活用法ってことで😏







 さらに間を置かずもう一通。気がつけば、朝の光がカーテンの端から細く差し込み、床の上に、白い線をつくっていた。



ホークス

剛翼が枕になって
意外と快適なんす


ホークス

これも個性の
活用法ってことで😏


ホークス

名前ちゃん早起き😳
えらいね







 土曜日の朝——。平日のような通勤ラッシュの気配はまだ遠く部屋のなかでは冷蔵庫のモーター音だけが、低く唸っている。そんな静けさの中で画面の向こうから次々と届く、彼の言葉だけが、不思議なくらい、生き物じみていた。
 相手のアイコンが目に入るだけで口元が勝手に持ち上がってしまう。そういう気持ちは久しぶりだった。
 大人になると感情はもう少し複雑に、もう少し慎重に立ち上がるものだと思っていたのに、案外そうでもないらしい。単純なきっかけで、単純に嬉しくなってしまう朝もある。
 すると、さらにもう一件通知が増えた。今度も写真付きだった。開けば、コンビニのおにぎりが二個とペットボトルの水。どう見ても自宅らしいキッチンカウンターの上で撮ったものだ。構図に凝るでもなく、とりあえず、証拠として、押さえておきました、みたいな気安い写真だった。



ホークス

朝飯でーす
ママ的に合格?







 思わず笑ってしまう。今買ってきたのだろうかと考えるより先に、朝ごはんの報告を、わざわざこちらへ送ってきたことが、妙に嬉しかった。
 こんなふうに、一日の早い時間から誰かとやりとりを交わすことそのものが、最近の私にはほとんどなかった。だから余計に、指が、するすると動く。



名前

まずまずですかね
プロテインも摂って


名前

栄養バランスを意識して
食べてくださいね







 返してから、私も、朝食の支度をしようと立ち上がる。カーテンの隙間から入る朝日が、部屋の空気を少しだけ白っぽくしていた。
 ベーコンエッグを焼いて、トーストにのせて、インスタントのコーンスープを添える。一人暮らしの朝食としては十分上出来だと、わりと本気で思っている。もっとも、「ママ」として採点するなら、まだ改善の余地はありそうだったけれど。そんなふうに考えている自分が、少し可笑しい。そして返事は、やっぱりすぐに来た。



ホークス

プロテイン切れてた😇


ホークス

ママ厳しい


ホークス

てか今日の予定は?


ホークス

休み?







 質問が矢継ぎ早に飛んでくる。ベランダ越しに会話をしているときのホークスからは、あまり、想像しなかったテンポだった。いやよく考えれば『速すぎる男』が文章だけゆっくりなはずもないのかもしれない。
 メッセージの送信時刻をぼんやりと眺めると、たぶん彼はもう朝食を食べ終えたか、少なくとも食べながらこちらへ送ってきている。その生活の断片が文字から透けて見えるのが、少しだけ新鮮だった。
 私はトーストをひとかじりして、それからふと気づく。昨夜の会話を思い返せばこうして朝からメッセージを交わすこと自体がもうすでに約束の続きなのだ。おはようの一言と、ちゃんと食べたかの確認。冗談の顔をしていたはずのやりとりを彼はこうして、あっさり現実にしてしまう。
 『ママ』も案外、向いているのかもしれない。そんなことを思ってしまった自分に、少し笑いながら、私は今日の予定を送った。



名前

今日はデパ地下に
買い物に行きます


名前

夜は友人とご飯の予定です







 いつも通りの週末の予定だった。けれど、その「いつも通り」の中に、今朝は彼とのやりとりが自然に混ざっている。そのことが思っていたよりずっと嬉しい。予定そのものは、何も変わらないのに、朝の輪郭だけが少し違って見えた。
 返事は珍しく少しだけ間を置いて届いた。十秒ほど。彼にしては、考えているほうなのかもしれない。やがて、画面に現れたのは——



ホークス

デパ地下いいな
お土産よろしく!


ホークス

夜ごはん
何食べに行くの?







 まず一通。それからすぐに飛んでくる何気ない文面。けれど『夜』にだけ妙に反応している気がしないでもない。職業柄なのか、単に会話を続けたいだけなのか、そのへんは、よくわからない。ただ深夜を自分の生活時間として持っている人にとって夕食の予定というものが少し気になるのはたしかに、自然なのかもしれなかった。そうして数分後。さらにもう一通届く。今度は少しだけ、空気が変わった気がした。



ホークス

俺は今日、午後から任務
だから午前中はわりとヒマで







 そこまで読んだところで、胸の内側がわずかにざわつく。次の行は、もっとあっさりしていた。



ホークス

俺は今日、午後から任務
だから午前中はわりとヒマで


ホークス

買い物、付き合おうか?







 送ってから取り消す気配も気を持たせるような前置きもない。いかにも彼らしい、さらりとした誘い方だった。まるで、本当に『軽い提案です、断っても別に平気です』みたいな顔をしながら、実際には、こちらの心拍数だけをちゃんと上げてくる。
 ナンバースリーヒーローと、デパ地下を並んで歩く。文字にすると、とんでもない。変装をするのか、それとも堂々と現れるつもりなのか……。どちらにしても、心臓にはあまり、よくなさそうだった。それでもきっと彼と行けば楽しいだろうと思ってしまう自分がいる。こういうところで、好奇心が理性に勝つあたり、私も思っているよりずっとミーハーなのかもしれない。



名前

え、いいんですか?
じゃあ一緒に行きましょうか


名前

変装は?


名前

しなくても大丈夫なんですか?
人だかりとかすごいんじゃ……




 



 送信してから私は少しだけ後悔した。なんだか前のめりに見えただろうか。必死っぽかったかもしれない。画面に並んだ自分の文面を見返して、急に落ち着かなくなる。けれどその不安を抱える暇もないくらい早く、彼から返事は戻ってきた。



ホークス

あー、大丈夫大丈夫


ホークス

帽子とマスクで
なんとかなるでしょ


ホークス

バレたらバレたで面白いし🤣







 あまりにも楽観的で私は思わず息を吐く。でもたぶんこれでこそホークスなのだ。危ういところまで含めて軽く笑ってみせるその身軽さが、この人の魅力であり同時にこちらを困らせる原因でもある。
 画面の文字を見つめながら、私はもう一度だけ口元を緩めた。困る——困るけれど、楽しみだ。そういう感情が両方、いっぺんに胸へやってくるあたり、今日の買い物はきっと、思っていたよりずっと、落ち着かないものになるのだろうと思った。



ホークス

11時にエントランス
集合でいい?


ホークス

あ、ママのコーディネート
楽しみにしてる







 最後にちゃっかり「ママ」を、ぶち込んでくるあたりが抜かりない。私は思わず眉をひそめた。用件だけを送れば済むはずなのに、こちらの心をわずかにかき回してくる。たぶん本人にとってはその程度の悪戯は、呼吸と同じくらい自然なのだろう。
 時計を見る。午前八時半。身支度に一時間半。いや、そんな悠長な計算はだめだ、と思い直す。相手は、プロヒーローだ。待たせていい相手ではないし、そもそも、待たせる待たせない以前に、今日という予定そのものが、すでに少し現実離れしている。余裕は多めに見積もったほうがいい。
 私は朝食の皿をシンクへ置くと、すぐにクローゼットを開けた。


 *


 春のデパ地下。新作の焼き菓子や、季節限定のパッケージが並ぶ時季。そこへ、変装した、プロヒーローと一緒に行く。改めて言葉にしてみるとどう考えても、妙だった。鏡の前で服を当てては首を傾げ、合わせては、また戻す。その繰り返しのたびに今日は、ただ買い物へ行くだけなのに、どうしてこんなに落ち着かないのだろうと思う。待ち合わせをする相手がただの友人でも、会社の同僚でもないからだ。隣のベランダで缶ビールを傾けていたはずの男が今日は外で私と待ち合わせすることになっている。その事実だけで、普段の服選びまで少し、意味深に思えてしまうのだから困る。
 スマホのアラームが鳴る。十時十五分。残り、四十五分。もう迷っている時間はない、と自分に言い聞かせて私はいちばん無難で、でも少しだけ気に入っている服を選んだ。

 十一時、少し前。エレベーターの扉が開くと、春の乾いた空気が頬を撫でた。暖かいのにどこかまだ朝の名残を引きずっているような風だった。
 私は、五分前に一階に着いた。休日のロビーは思ったよりも静かで、外を行き交う人影もまだ、まばらだ。そこに、ソファに座ってスマホを見ている男性がひとり。黒いキャップを深めに被り、マスクは、顎の下まで落としている。キャップの影から覗く金に近い髪と伏せられていても印象の強い目元。そのラフなジャケットとデニム姿は、いかにも、力の抜けた休日の服装なのに、全体としてはきれいにまとまりすぎていて、結局、街に紛れているというより、ファッション誌から抜け出してきた、モデルのようでもあった。
 それでも、背中の羽をできるだけ小さくして、リュックで目立たないように隠しているあたり、警戒心が、ないわけではないらしい。そのくせ、変装としてはやや大胆でもある。どこまで本気で隠す気があるのか、あい変わらず判別しづらい。ホークスは私に気づくと顔を上げた。それだけで表情が、ぱっと明るくなったので、少し驚いた。

「わ、早いね」

 立ち上がりながら、キャップのつばを軽く持ち上げる。マスクの下の口元が、にっと笑った形に動くのがわかった。
 あなたのほうが先に来ていましたよね、と言い返す暇もないまま彼は「へえ」と感心したように声を漏らし私を上から下まで一往復、わりと遠慮なく見た。視線の動きがあまりに堂々としていてかえって取り繕う余地がない。

「いいね。ちゃんとしてる」

 あっさりとした褒め方だった。けれどもその、��ちゃんとしてる�≠フ中には服そのものだけではなく今日のために身支度を整えてきた私の気持ちまで見抜かれているような気配があって、思った以上に効いた。
 耳の先がじわりと熱くなる。たったそれだけの言葉なのに、どうしてこんなにも困るのだろう。
 ホークスはもう歩き出しながら、「俺なんか、だいぶ適当で来ちゃったけど」と言い少し笑ってちらりと振り返る。

「ママ的には、減点?」

 その背中を追いながら一瞬、返事に詰まった。さっきの一言がまだ胸の内側に残っていてうまく口が回らない。それでも、ここで黙るのも癪で、彼の服装を改めて見た。ラフなのにだらしなくはない。むしろ、肩の力を抜いたまま格好がついてしまうあたりが、余計にずるいと思う。私は少しだけ早足になりながら、前を向いたまま言う。

「減点じゃないです……むしろ、加点です」

 言った瞬間に自分で気恥ずかしくなる。採点だなんて、まるで本当にそういう役目を引き受けたみたいで、昨夜からの冗談を自分で補強してしまった気がした。ごまかすように歩幅を速めると、後ろでホークスが、くっと笑う気配がした。彼は慌てる様子もなく、むしろ、悠々とした足取りであっさり追いついてくる。意外と、歩幅が広い。普段は、ベランダ越しにしか見ていないせいで、こうして並んで歩くとあらためて身体のつくりの大きさに気づかされる。すると、笑いを噛み殺すみたいな声が追ってきた。

「加点て。採点、思ったより厳しめっすねー」

 マンションから駅までは徒歩数分。休日の街は平日よりいくらかやわらかく見えた。急いでいる人の数が少ないだけで景色というのはこんなにも親切な顔をするのかと思う。その中を、私たちは並んで歩いた。ホークスは自然に車道側へ立ってくれていた。意識してやっているのか、それとももう身体に染みついた気遣いなのか。たぶん前者で、でもそれを意識させないところまで含めて、彼らしいなと思った。そういうことを、いちいち指摘しないほうがいい気もして、私は、何も言わない。言わないまま、少しだけ嬉しく思っている自分がいた。
 駅へ着くと、ちょうど、電車が滑り込んできたところだった。車内はそこそこ混んでいて、二人並んで座れるような空席は見当たらない。
 流れるように乗り込んだ途端、ホークスはごく自然な手つきで、私をドア横のスペースへと誘導した。押し込む、というほど強引ではない。ただ迷っている暇を与えないくらいにはさりげない。自分がその前へ立って、壁になるみたいに位置を取る。片手で吊り革を掴んでいるがその姿勢にはまるで、無理がなかった。

「はい、潰されないようにねー。このへんいま、安全地帯なんで」

 軽く言う。次の揺れで乗客がぐっと寄ってきて私は思わず息を止めた。彼との距離が一気に縮まる。キャップから覗いた金色の髪がすぐ目の前にあってマスク越しでもわかるくらい近くに相手の呼吸がある。石鹸とも違う、もう少し乾いた清涼感のある香りが微かにしてその近さを余計に意識させた。そして至近距離で彼が少しだけ身をかがめる。声音は小さいのに、不思議なくらい、耳に残る。

「……近いな、とか思ってる?」

 この男は、目だけで笑っていた。思っている。近いし心臓に悪いし、こんなふうに囲われるみたいな立ち方をされて平気でいられるほど私は落ち着いた人間ではない。潰される心配よりも、彼の服に触れてしまいそうな距離のほうがよほど気になる。けれど、そんなことを正直に言えるはずもなかった。次に出た声は、思ったよりも上擦っていた。

「……お、思ってません」
「そう?」
「心配してくださって、ありがとうございます」

 最後だけ妙に丁寧になってしまって、自分でも少し情けなくなる。緊張しているのがバレないかハラハラした。が、しかし伝わっていないわけがない。むしろこういう変化を拾うことにかけては彼は人一倍、敏いはずだ。それでもホークスは、それ以上、そこを突かなかった。マスクの奥で、小さく息だけで笑う気配がしただけだった。
 揶揄おうと思えばいくらでもできる場面なのにそこでやめてくれるあたりが、この人の、ずるいところだと思う。優しいというより相手がどこまでなら耐えられるかを見極めるのが上手いのだ。たぶんそれはヒーローとして身についた技術でもあるのだろうし、だからこそなおさらこちらには厄介だった。
 電車が次の駅に停まる。乗客が入れ替わって、車内に少しだけ空間ができた。けれどホークスは位置を変えない。吊り革から手を離し、窓の外を流れていく景色へと視線を向ける。その横顔は、さっきまでの軽口が嘘みたいに静かでほんの数秒だけヒーローのときの彼の輪郭を思わせた。それから彼は、少しだけ声の調子を落とした。

「……名前ちゃんってさ、彼氏いるの?」

 唐突だった。けれど、その唐突さが、かえって厄介だった。あまりにも自然な間合いで差し込まれた問いは、世間話の延長みたいな顔をしているくせに多分、世間話では済まない。車内の揺れにまぎれてさりげなく投げられたようでいて、まっすぐ、こちらへ届いてしまう声だった。
 私は一瞬、息の吸い方を忘れる。目の前には、吊り革に手をかけたまま、こちらを見下ろす人気ヒーローがいる。窓ガラスには並んで立つ二人の姿が、ぼんやり映っていた。キャップとマスクで輪郭を隠していても、知らない人が見れば、ただ親しげに寄り添っている男女に見えるのかもしれない。そう思った途端に、視線の置き場が、なくなる。
 そのときだった。頭上のトレインビジョンが、次の停車駅を告げた。あと二駅。こんな短い時間のなかで、どうしてこんな質問をするのだろう。落ち着いて。自然に答えればいい。そう、自分へ言い聞かせる。

「いないです……」

 そこで終わればよかったのに口が勝手に余計なほうへと滑ってしまった。

「良い人がいたら、ぜひ紹介してください。……
なんちゃって」

 自分で言ってからこの場から消えたくなった。こんな場面で冗談なんてうまく言えるはずもないのに。照れ隠しにもなっていない中途半端な逃げ方だったと、改めて思う。
 耳が熱い。たぶん、赤くなっている。まともに顔を上げられなくなって、私はそのまま、視線を落とした。車内の音が急に遠く感じる。吊り革の揺れる小さな音も、レールの擦れる音も、全部が妙にくっきりして聞こえるくせに、肝心の自分の鼓動だけが落ち着いてくれない。
 わずかな沈黙のあとで、ふ、と、息がこぼれる気配がした。笑ったというより鼻先で短く空気を抜いたみたいな音だった。

「紹介、ね」

 ホークスは、それだけ言った。それきり続きはない。けれど、その短いひと言の中に思っていたよりもいろいろなものが含まれている気がして、私はますます、顔を上げられなくなる。
 紹介する気なんてないけどね。そう言っているみたいな沈黙だった。俯いたままの私の頭頂部へ彼の視線が静かに、落ちているのがわかる。見られているだけなのに、どこへ逃げればいいのか、わからなくなるような落ち着かなさがあった。
 そのとき、アナウンスが目的の駅名を告げた。『次は——』という声に反応して、車内の空気が少しだけ動く。降りる準備をする人たちが、鞄を持ち直し扉の方へ視線を向ける。そのざわめきに紛れるようにしてホークスがぽつりと何かを落とした。私にだけ届くくらいの、小さな声で。

「目の前にいるんですけどねぇ。イイヒト」

 冗談めかした言い方だった。でも声にはあまり笑いが乗っていなかった。少なくとも全部が冗談という調子ではない。軽く聞こえるように整えているだけで、その奥にある本音までは隠しきれていないような響きだった。私は息を呑む。さっきよりも今度はもっとはっきりと。言葉の意味が、そのまま胸の内側へ落ちてきたからだ。
 受け取ってはいけないような気もするのに聞き流すには近すぎる。ずるいと思った。こんなふうに人混みの中で顔もまともに見せないまま冗談と本音の境目みたいなところに、言葉を置いていくなんて。逃げ道を残しているくせにこちらだけはちゃんと揺さぶられる。
 ドアが開いた。降車する人の流れに押されて、私たちは、ホームへ吐き出される。さっきまでの密閉された距離感がほどけて、急に空気が、広くなる。けれどそのぶん、たった今耳元で囁かれた言葉だけが、かえって鮮明に残った。
 ホークスは何事もなかったみたいな顔で、キャップのつばを軽く直し、マスクを少し引き上げてそれから先に改札のほうへ歩き出した。本当に、何もなかったことにする気なのだろうか。私は、数歩遅れてその背中を追いながらさっきの一言を何度も胸の中で反芻してしまう。

 ——良い人。目の前にいる。
 あれがただの軽口だったなら、どうしてあんな声で言うのだろう。あれが軽口ではなかったなら私はこれから、どんな顔をして隣を歩けばいいのだろう。
 春のやわらかい空気の中なのに胸の内側だけがひどく落ち着かなくて、私は改札の手前で一度、小さく息を吐いた。

「さーて、デパ地下。何買うの?」

 私は、返事をしそびれてしまった。さっき言われた「目の前にいる」という、ひと言の意味を、まだうまく咀嚼できずにいたからだ。聞き間違いだったのかもしれないと一瞬は思う。けれどあの距離であの声で、たしかに耳に落ちてきた言葉を都合よく、聞き違いだったことには、できそうもなかった。
 でも、だからといって、確かめる勇気もない。冗談だったらどうしようとか、本気だったらなおさらどうしよう、とか。そういう、情けない考えばかりが、胸の内側を行ったり来たりしている。
 その間にも、ホームの雑踏は容赦なく、思考を押し流していく。人の足音、アナウンス、改札へ向かう流れ。言葉ひとつの重さなんて駅の中ではあまりにも私的で、あまりにも場違いだった。


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