改札を抜け、デパートの入口をくぐる。途端に空調の効いた涼しい空気が肌を包んだ。外の春のやわらかさとは違う、きちんと管理された冷たさだった。そこへ化粧品売り場から流れてくる甘い匂いが混ざって館内特有の少しよそいきの空気ができあがっている。
 土曜の午前中。まだ人出はピーク前で、思ったよりも、歩きやすい。通路の向こうまで見通せる程度には余裕があった。エスカレーターで地下へ降りると色とりどりの食品がショーケースに並ぶいかにもデパ地下らしい景色が広がった。照明を受けて艶めくフルーツ、きれいに整列した、焼き菓子。リボンをかけられた箱たち。見慣れているはずの場所なのに、隣にホークスがいるだけで、どこか、別の空間に来たみたいな気分になる。
 ホークスは、きょろきょろと辺りを見回した。その様子が、思っていたよりずっと素直だった。

「うわ、すご。こういうとこ来るの久々かも」

 少し、意外だった。彼の飄々とした雰囲気からすると、高級店にも、こういう華やかな場所にも慣れていそうな気がしていたからだ。けれどよく考えれば慣れていることと楽しそうに歩くことは別なのかもしれない。一人で来る場所ではないと彼が思っているのかどうかはわからない。ただ、少なくとも今の彼は、思いのほか無邪気に、この空間を眺めていた。
 やがて、洋菓子のコーナーの前で足を止める。ショーケースの中を覗き込む姿勢が妙に真剣で、つい笑いそうになる。

「ね、これこれ。見て」

 指紋がつきそうな勢いで、ガラス越しに示した指の先にはきれいに絞られたモンブランが並んでいた。

「美味しそっ。モンブラン。なんか栗ってさぁ、秋っぽい感じするよね」

 まだ春だが、と喉元まで出かかった言葉を私はなんとか飲み込んだ。ショーケースの前ではしゃぐその姿は翼を広げて獲物を見定める猛禽というより、お菓子売り場に連れて来られた、子どもに近かった。周囲のお客さんがちらちらとこちらを見るのも無理はない。元々の華やかさに加えて、スタイル抜群の金髪の男性が隠れているつもりでまったく隠れきれていないのだから、目立たないほうが難しい。ホークスが振り返る。その目が、妙に、きらきらしていた。

「ママ、これ買っていい?」

 危うくそのまま頷きかけて、私は慌てて小声になる。

「だから、ここでそういう呼び方しないでっ」

 呼ばれて一瞬だけぎょっとしたが周りの人には聞こえていなかったようで、胸を撫で下ろす。
 それから改めて彼が指したモンブランを見る。確かに美味しそうではある。繊細な栗のクリームに、つやのあるトッピング。いかにも、デパ地下らしい、きちんとした見た目だった。

「……ひとつ、だけね」

 そう言うとホークスの顔がぱっと明るくなる。人気のナンバースリーヒーロー。その笑顔だけでたぶん、かなりの人を、黙らせられるのだろうと思う。ずるいな。

「やった。ひとつだけね、了解でーす」

 そう言ったくせに、店員さんへ向き直った彼はなんの迷いもなく口を開いた。

「すみません。モンブラン二つお願いしまーす」

 ずいぶんと手慣れた調子だった。カードを出す動作も滑らかで、こういう買い物に不慣れなわけではないらしい。
 紙箱を受け取ると、彼はそれを大事そうに抱え込んだ。リュックの脇から覗いた翼の先がほんの少しだけぴくりと動く。本人が気づいているのかどうかはわからないけれど、あれはきっと機嫌がいいのだろう。鳥らしい身体の一部が感情を隠しきれずに動いてしまうのだとしたら、少し可愛い気もした。歩きながら、ホークスは紙箱の中を、ちらちら覗く。

「帰ったら食べましょ。名前ちゃんの分も買ったんで」

 さらりと言って、それからこちらを見る。その言い方があまりにも自然すぎて、思わず拍子抜けしてしまう。まるで最初から私と食べるつもりで二つ頼んだみたいに。いや、たぶん実際そうなのだろうけれど、そういう当然さを、声に滲ませるのが、この人はうまい。
 職業柄、食事管理や体型維持には、それなりに厳しそうな印象があったのに、どうやらホークスにはカロリー計算という概念がそれほど強く存在していないらしい。少なくともモンブランを前にしたときには。私の頭の中で『健康管理』という項目に太い赤線が引かれる。たぶん、呆れた顔をしていたのだと思う。ホークスは、それを横目で拾って、少しだけ首を傾げた。

「……え、だめ?」

 上目遣い。そんな聞き方をされて、冷静でいられる人がどれだけいるのだろう。眉尻を少し下げて、困ったようにこちらを見る顔が、あまりにも反則すぎる。実際、通りすがりの若い女性が二人ほど振り返っていた。無理もないと思う。あんな顔を街中で無造作に使われては、視線のひとつも向けたくなる。
 そのときだった。前方から歩いてきた男性と、ホークスが正面からぶつかりそうになる。三十代くらいのサラリーマン風の人だった。手に持っていたコーヒーカップが、大きく揺れる。危ない、と思ったほんの一瞬前に、リュックの内側から、ばさりと、小さな羽音がした。剛翼だ。音だけでわかるくらい、素早い動きだった。まるで意思を持ったものみたいに彼の背中のあたりがわずかに反応する。その次の瞬間には男性のこぼれかけたカップをホークスがふわりと支えていた。動作は驚くほどなめらかで、力みがない。何かを助けることがこの人にとっては、呼吸に近いのかもしれないと、一瞬だけ思った。

「おっと、危ないっすよ」

 声音まで、営業用みたいにやわらかい。男性は目を丸くして固まった。カップの中身は、一滴もこぼれていない。ホークスと目が合った瞬間その男性の顔色が「まさか!」というふうに変わる。気づいたのだろう。ホークスは、何事もなかったようにすっと身を引きながら、マスクをもう少しだけ上げた。

「じゃ、お気をつけて」

 男性は、ぺこぺこと何度も頭を下げ、そのまま去っていった。
 大きな騒ぎにはならなかった。ならなかった、けれど、こちらの心臓には十分すぎる出来事だった。私はしばらく、言葉を失う。さっき目の前で起きた一連の動きが、まだうまく、頭の中で整理できない。
 すごく、きれいだった。あまりにもきれいで、息を呑む暇すらなかった。あれで、剛翼をもっと大きく展開していたら、たぶん見惚れるどころの話では済まなかっただろう。しかも本人はそれを大事にするでも誇るでもなく、靴紐を踏みそうになった人を避けた程度の顔しかしていない。そういう無頓着さまで含めて、ひどく格好よかった。

「あーあ。バレちゃったかもねー」

 ホークスが後頭部を掻く。しかし悪びれた様子は、あまりない。むしろ少しだけ面白がっているようにすら見える。私は私でひやりとした気持ちがまだ喉のあたりに残っているのに、当の本人はどこまでも軽い。その落差に、なんだか目眩がしそうだった。彼の事務所のサイドキックたちが、後処理に追われる理由が、少しだけわかった気がする。たぶん本人に悪気はないのだ。ただ、身軽すぎるだけで。
 ホークスはモンブランの入った紙箱を抱え直しまた何事もなかったみたいに歩き出す。私は数歩遅れてその背中を追いながら、さっきの救い方を頭の中で何度も反芻してしまう。かっこよかったと思う。悔しいけれど心の中ではもう、その感想以外の言葉が、なかなか見つからなかった。

「ん? どしたの?」

 私の顔を見下ろしたホークスはきょとんとした目をしていた。本気で「何かあった?」と思っていそうな顔だった。たぶん彼にとってはさっきの一連の動きも特別に格好をつけたつもりのない、ごく自然な反応だったのだろう。助けるべきものがあれば手が先に出る。ただそれだけ。そういう人なのだと頭ではわかっているのに目の前で見せられるとやっぱり少し困る。困るほど鮮やかで、困るほど本人が無自覚でその無自覚さごと含めて胸の奥へじわじわ効いてくる。でも、だからこそあえてそこへは、触れないでおこうと思った。
 今ここで「かっこよかったです」なんて言ってしまったら彼はきっと軽く笑って受け流すだろうし、そうされたらされたで私はたぶんまた勝手に落ち着かなくなる。

「……なんでもないです」

 そう言って私は少し先を歩いていたホークスへ小走りに追いついて素知らぬ顔で話題を戻した。

「他のお買い物も、済ませちゃいましょうか」

 駆け寄ってきた私をホークスは横目でちらりと見る。そして何も言わないまま、歩調だけを少し緩めた。それから半歩ぶん、こちら側へと寄る。私が追いつきやすいように、さりげなく、速度を合わせてくるその気遣いが、あまりにも自然で、言葉にされるより厄介だった。こういうことを、恩着せがましくしない人はずるいと、私は思う。思いながら、何も言えない。

 次に入ったのは、調味料の専門店だった。ここからは、いわば『ママ』としての、本番である。
 醤油、みりん、料理酒。棚の前へ立った瞬間、私の意識はかなり本気になっていた。どうせ選ぶなら、少しでも身体によくて使いやすくて、続けやすいものがいい。減塩タイプの醤油を手に取り裏面の栄養成分表示を見る。続いてみりんを三本並べ、原材料の違いと使い勝手を頭の中で比べていく。どれも似ているように見えて細かく見ると案外違う。
 こういう時間は嫌いではなかった。誰かに頼まれたわけでもなく自分で選んで、自分で暮らしを整えていく作業には、少しだけ救われるところがある。ことさら大きな意味はなくても生活は案外そういう、小さな選択の積み重ねでできているのだと感じられるから。ホークスはその少し後ろをモンブランの箱を提げたままついてくる。最初のうちは何も言わずに眺めていたが、しばらくしてぽつりと呟いた。

「そんな見てたら、穴、開いちゃうんやなか?」

 独り言みたいな声だった。ラベルを見つめすぎて、という意味なのだろう。からかっているようでもありただ感心しているだけのようでもある。誰かが自分のために、こんなふうに真剣に食品を選んでいる——。その光景を彼がどんな顔で見ていたのかは、キャップとマスクに隠れていてよくわからない。ただ、その声音に馬鹿にした響きが少しもなかったことだけは、はっきりわかった。
 私は返事の代わりに、みりんを一本持ち上げたまま「こっちのほうが良さそうですね」と小さく言う。するとホークスは、ふいに棚から、一本のポン酢を取って、私の持っていたカゴへ、ぽんと入れた。

「これ好き。覚えておいて」

 好き——そのひと言の気軽さが妙に可笑しくて私は思わず、そちらを見た。誰かの好物を知るというのは、思った以上に親密なことなのかもしれない。
 気づけばカゴはだいぶいっぱいになっていた。味噌、出汁パック、鰹節、豆腐の水切りネット。もはや、ちょっとした新生活の買い出しみたいな量だ。こんなにも選ぶつもりではなかったのに、ひとつ、「これもあったほうがいいかも」と思い始めると、生活用品は際限なく増えていく。私は少し苦笑してカゴを持ち直そうとした。その手元からホークスが、すっとカゴを奪う。

「重いでしょ、持つよ」

 あまりにも当たり前のように言うので、一瞬、断る間がなかった。聞くより先に、もう、持っている。文句を差し挟む隙すらない手際のよさは、さすがというべきかもしれない。彼にとっては、人の手から荷物を受け取ることもぶつかりそうなコーヒーを救うことも、たぶん、同じ種類の反射なのだろう。そういう無駄のないやさしさを前にすると、こちらは、礼を言うタイミングすら少し迷ってしまう。
 レジに並ぶと、前には三組ほど。ホークスは、カゴの中身を眺めながら、指先で縁をとんとんと軽く叩いていた。落ち着きがないというほどではないけれど、じっと待つのがあまり得意ではない人の手遊びだった。そうして、その指がふいに、止まった。

「ねえ」

 声の調子が少し変わっていた。いつもの軽さを保ちながら、そこだけ、ほんの少し低い感じの。視線は前を向けたまま、彼は続ける。

「ちょっと前に、ベランダで話してたときさ」
「……?」
「俺が隣じゃないほうが良かった、みたいなこと言ってたでしょ」

 ずいぶん前の話だった。たしか彼の雛鳥たちに申し訳ない、というようなことを私が口にしたのだと思う。
 あのときは笑って流された気がしていた。でもこの人は案外、そういう言葉を、きちんと拾って覚えているらしい。軽そうに見えて必要なところではちゃんと残している。そのことに少し驚く。
 ホークスはそのまま前を向いていた。こちらの顔色を覗き込むこともしない。ただ、淡々とした口調で言う。

「申し訳ないとか思う必要ないよ。俺があそこにいたいからいるんだし」

 列がひとつ進んだ。私たちも、一歩前へ出る。けれど、頭の中は、その言葉に足を取られたままだった。
 『あそこにいたいからいる』それは、どういう意味なのか聞こうと思えば、聞けたはずだった。ベランダが広くて好きだからなのか、あの時間が好きだからなのか、それとも——。そこから先を考えるのが怖くて私は黙る。聞いてしまったら、何かが決定的に変わってしまう気がした。まだ、曖昧でいられるものが、言葉を与えられた瞬間にもう、曖昧ではいられなくなる気がした。だから私はいつものように、視線を落とすことしかできない。
 前にいる家族連れの子どもが持った風船がふわふわ揺れているのをぼんやり目で追う。ホークスは、返事がないことを気にした様子もなく、あるいは気にしていないふりをしたまま、カゴを持つ腕を左右で入れ替えた。
 やがて順番が来る。私が財布を取り出しかけたところでホークスが先にカードを出そうとする。慌てて「いや、これは私が」と言いかけたけれど彼はそれより早かった。

「これは、俺の食費なので」

 目敏い……バレていた。有無を言わせない声音だった。強いのに、押しつけがましくない。ただそこは、譲らないと決めた人の言い方だ。私は、財布を半端に開いたままどうすることもできずに立ち尽くす。店員さんへカードを渡す手つきは、滑らかで、こういう場面で迷いがない。
 レシートを受け取ると、彼はそれを、きれいに折りたたんでポケットへしまった。その動作だけ妙に几帳面で私は少しだけ可笑しくなる。大雑把そうに見えるくせに、ところどころ変なところで整っているのが、この人らしかった。
 ホークスは袋詰めまで手際よく済ませ、二つに分けられた荷物を、当然のように両手に持った。

「はい。次、どこ行く?」

 午後の光が差し込むデパートの通路に、荷物を抱えた変装中のヒーローと、たぶん耳を赤くしている女が並んで立っている。傍から見ればきっとただの——。そこまで考えて私はその先を、心の中で言い切れなかった。ただの何だろう。友人?知り合い?隣人。買い物帰りの、男女。どれも、間違いではない気がするのに、どれも、少しずつ足りない。足りないくせに、だからといって別の名前をつける勇気もない。私は、彼の持つ荷物を見て、それから、顔を上げた。自分の声が思ったよりも、やわらかく出る。

「もう、大丈夫です」
「あら。そーなの?」
「そろそろ帰りましょうか。今日は、ありがとうございました」

 帰る、と決めた途端、さっきまで賑やかだったデパ地下の景色が、少し遠のいた気がした。
 買い物は十分に済んでいるし、荷物も増えた。頭ではごく妥当な区切りだとわかっているのに、胸の奥にはまだ、この時間をもう少しだけ、引き延ばしたいような気持ちが残っている。
 ホークスはそんな私の未練に気づいているのかいないのか荷物を持ち直して、いつも通りの軽い足取りで隣へ並んだ。並んで歩くだけで落ち着かなくなるくせに、その並びがもう自然になりつつあることがいちばん、始末に負えなかった。


 *


 外へ出ると、思っていたよりも人通りが多かった。休日らしく家族連れやカップルが、途切れることなく歩道を行き交っている。デパートの出入口のあたりには館内から流れ出てくる人と、これから入っていく人の流れがゆるくぶつかり合っていて見慣れた街のはずなのにどこか落ち着かない密度があった。
 ——こんな場所で!?と、思う間もなかった。ホークスは、数歩先まで歩いたところで、ふいに立ち止まり背負っていたリュックをこちらへ差し出した。あまりにも手際がよくてそれが「持ってて」という意味だと、頭で理解するよりも先に、体の方が反応していた。私は半ば反射的にそれを受け取る。次の瞬間——風を裂く鋭い音がした。ばさり、と、視界いっぱいに赤が広がる。見事な剛翼だった。陽の下で惜しげもなく広がった羽根は、さきほどまでリュックの下へ器用に隠されていたものと同じとは思えないほど大きく暴力的なくらい、美しかった。
 周囲の空気が、一気にざわめき立つ。人が足を止め息を呑み、囁き声があちこちで弾ける。その中心にいる本人だけが、そんな反応など最初から織り込み済みみたいな顔をしていた。

「さ、乗って」

 あまりにも気軽な言い方だった。まるで、少し先まで車で送るよ、とでも言うみたいに。けれど彼の背中には、真昼の光を受けて輝く赤い翼が、大きくひらいていて、その言葉の軽さと、光景の派手さがまるで、釣り合っていない。その不釣り合いさが、いかにも彼らしくて、私はリュックを抱えたまま言葉を失った。
 人通りの多い歩道でナンバースリーヒーローが翼を広げる。そんなもの、目立たないはずがなかった。案の定、何人もの人が足を止めてこちらを見た。買い物帰りらしい女性たちが息を呑み学生らしい男の子たちは、顔を見合わせる。そして、小さな子どもがこちらを指さして「とりさん!」と甲高い声をあげた。それでもホークスは周囲の視線なんて最初から存在しないみたいな顔でその子の前へしゃがみ込んだ。大きな翼を背中にたたえたまま、やることだけが妙に気安い。

「とりさん、じゃなくて?」
「ホークスっ!」
「正解。はいはーい、内緒ね。ママには言わないでね?」

 そう言って人差し指を唇に当ていたずらっぽく目を細めて、ウインクをしてから、立ち上がる。そうして、買い物袋を腕へと器用に引っ掛けて、空いたほうの手を、私のほうへ差し出した。

「ほら、おいで」

 赤い翼は、真昼の光を受けてひどく鮮やかだった。羽根の一枚一枚が風を拾ってかすかに揺れ、そのたびに、生き物の呼吸みたいな気配がある。
 綺麗、という言葉だけでは足りない気がした。ただ鮮やかなだけではなくあれはもっと能動的な美しさだった。空気の流れを読んで、熱を感じ、わずかな振動まで拾い上げながら彼の身体の一部として、そこにある。触れれば柔らかいのに多分刃物よりも鋭く、しなやかなのに、ひどく強い。そんな相反するものを同時に抱えた翼が今、私のすぐ目の前で、陽の下に惜しげもなくさらされている。

「ぅわ、ちょっと、待っ——」

 ためらう間もなく、彼の腕が私の腰を抱いた。ぐっと身体が引き寄せられて次の瞬間には視界が傾ぐ。ホークスが地面を蹴る。飛び立つ、という言葉はもっと荒々しいものだと思っていた。勢い任せに空へ突っ込んでいくようなそういう力づくの離陸を想像していたのに実際のそれは驚くほどなめらかだった。まるで最初から、重力のほうが彼を手放す準備をしていたみたいに地面との距離が静かに、けれど確実に離れていく。翼が大きくひと打ちされるたび、空気そのものが形を持って押し返してくるのがわかる。ふわりと一度身体が持ち上がり、それから次の瞬間には、もう地上の音が足元へ沈んでいた。
 街路樹の梢が下へ流れ、ビルの窓が光を返し、道路を走る車は急に玩具みたいな大きさになる。春の風は地上で感じるそれよりもずっと冷たく、けれど澄んでいて、頬を打つたび頭の中まで洗い流されるようだった。
 抱えられたまま見上げた空は、近いというより深い。青く明るいはずなのに、どこまでも続いているせいで少しだけ恐ろしい。ホークスはそんな場所を、自分の庭でも歩くみたいな顔で、飛んでいく。

「雨降らなくてよかった〜」

 私を抱えて空を飛ぶ彼はベランダで缶ビールを揺らしていた隣人と、たしかに同じ人物だった。なのに昨日までとは少しだけ距離の意味が違ってしまった気がする。同じ人の腕に抱えられているはずなのに地上で交わす言葉より、こうして空へ連れ出されるほうが、ずっと問答無用だった。

「ホークスさんっ、いい加減にしてください!」

 思わず声を張る。けれど、風にさらわれるその声を彼は耳元で拾ったらしい。私が腕の中で身を強ばらせたのを感じたのかホークスは「暴れないで」とでも言うみたいに、抱く腕へ少しだけ力を込めた。正直、落ちないように、しがみつくので精いっぱいで、抗議する余裕なんてほとんどなかった。それでも、言わずにいられなかったのは、怒っていたからというより、このまま何も言わなければ、自分の鼓動のうるささばかりが彼に伝わってしまいそうだったからだ。風を切る声が自分でも少し情けなく揺れる。

「こんなことして……あとで大変になるの、わかってるでしょう!」
「えー?なあに〜? 聞こえなーい」
「現にさっきだって、もういろんな人に見られてたんですから……っ」

 ホークスは速度を緩めない。街が背後へ流れていく。抱えられたままの私は、彼の胸元へ半ば、縋るようにしてしがみつくしかない。その状態のまま、彼がほんの少しだけ首を傾けた。

「大変?」

 声は思いのほか落ち着いていた。蜂蜜色の瞳はまっすぐ、前を見ている。昼の光に洗われたビル群の、その向こうにある、空のほうを——。手を伸ばせば雲にだって触れられそうな高さだった。

「もう、とっくに大変すよ」

 軽口みたいな言い方だった。けれど、その奥に笑いはあまりなかった。剛翼が、ひときわ大きく震える。風を受けたせいだけではないように見えて、私は何も言えなくなる。彼はそこでいったん息を継いだ。

「好きな子に、好きって言えんほうが、よっぽどしんどいでしょ」

 風に紛れてしまいそうなくらい、小さい声だった。でも、これ以上にないほど近くで抱えられている私の耳には、はっきり届いてしまった。
 心臓がうるさい。風圧のせいだと思いたかった。高度のせいだと、怖さのせいだと、そういうことにしてしまいたかった。けれどたぶん違う。違うと認めた途端、胸の内側のどこかが、ひどくやわらかいところから崩れそうになる。

 やがて、マンションの屋上が近づいてくる。
「降りますよ」の合図もないまま、ホークスは、自然に高度を落とした。空を裂いていた速度が、少しずつ落ち着いて代わりに着地のための静かな緊張が身体へ伝わってくる。翼が大きく広がり、空気を掴むみたいに一度、二度と打たれる。そのたびに落下の感覚が薄まり衝撃はやわらかく削がれていった。
 着地の瞬間、赤い羽根が、ふわりとクッションみたいに広がって、私たちの身体を、そっと受け止める。足が地面へ戻ったのに、しばらく世界のほうがまだ揺れている気がした。ホークスは私をゆっくり降ろし、それから何でもない事みたいに翼を畳んだ。表情だけ見ればいつもの気の抜けた顔だった。ベランダでビール缶を掲げている時とそう、変わらない。でも、耳だけが少し赤い気がした。
 あんなことを言っておいて、本人だって平気なわけではないのだとその小さな赤みだけがやけにはっきりと、物語っていた。

「どうしよっか。夜、友達とごはんなんだっけ」

 私はその場に立ったまま、すぐには動けなかった。好きな子——確かに彼は、そう言った。聞き間違いではない。風にさらわれて、輪郭を失った言葉でもなかった。だって、いまもまだ耳の奥に残っているから。残っているどころか、そこだけ妙にはっきりしていてほかの音をうまく受けつけない。けれど現実には、このあと友人との約束がある。前から決まっていた予定で軽く反故にしていいものではない。しないほうがいいと思う理性は、ちゃんと働いているのに、その一方でさっき空の上で聞いてしまった言葉のほうが、ずっと、大きな顔をして、胸の内側に座っている。
 どうしたらいいのかわからない。何を先に考えるべきなのかも、うまく、並べられない。返事のない私をホークスが、少しだけ身を屈めて、覗き込んだ。近い——吐息が触れそうな距離だった。屋上には夕方へ向かう光がまだ残っていて、低く傾きはじめた日差しが二人の影を、長く引き伸ばしている。さっきまで空を切っていた赤い翼は、もう畳まれているのに彼の存在だけがまだどこか地上に馴染みきっていない。

「あー......聞こえた?」
「……」
「さっき、飛んでたときの」

 その声は、いつもの余裕をぎりぎりのところで繕っているみたいに聞こえた。軽く言おうとして少しだけ軽くなりきれていないような声だった。
 その響きに、胸の奥がまた落ち着かなくなる。冗談にすることもできたはずなのに、彼はいま、そうしないでいる。私は唇をひらく。何か言わなければと思うのに肝心な言葉だけが喉の奥で立ち止まってしまう。

「……先に、食べてていいですよ」

 口をついて出たのは、そんな言葉だった。自分でも、ひどくずれた返事だと思った。「好き」に対する返事ではなく「モンブランをどうするか」にだけ答えている。まるでいま受け取ったものの重さをなかったことにしたいみたいに。あるいはなかったことにしなければ、処理が追いつかないみたいに。ホークスほどの人なら、そのずれに、気づかないはずがない。どころか、どうして私がそこへ逃げたのかまで多分半分くらいは見抜いているのだろう。それでも彼はそこを責めるような顔をしなかった。一瞬だけ、目を瞬かせてから、ゆっくり口元を緩める。

「了解。じゃあ遠慮なく」

 わざと少しだけ軽くして、そのまま買い物袋を私に渡して、自分は屋上の扉に手をかけた。私はまだその場に立ったままだった。追いかけるでもなく呼び止めるでもなく、ただひどく中途半端な形で立ち尽くしている。すると、扉を開きかけたところで、ホークスがふと振り返った。

「何時くらいに帰ってくるの」

 何気ない問いかけみたいな声だった。でもその何気なさの内側に、帰ってきてほしい、がほんの少しだけ滲んでいる気がした。そう感じたのは、たぶん私の願望で、勘違いで、考えすぎなのかもしれない。そう思いたいのに、そう思い切れない程度には、その声はやわらかかった。

「たぶん……九時、過ぎには」

 そう答えると彼は小さく頷き「九時、ね」と。その時刻を口の中で確かめるみたいに繰り返して「了解」と。それだけ言って、扉を開ける。
 私は結局、振り返らなかった。振り返ったら、何か言ってしまいそうだったからかもしれないしほんとうにただ、モンブランのことを考えていただけだったのかもしれない。たぶんそのどちらも少しずつ本当だった。
 扉が閉まる。屋上には私一人だけが残された。風がひゅうと吹き抜けていく。さっきまで、彼に抱えられていた腕のあたりから少し遅れて体温が奪われていくのがわかった。空の上ではあんなに強く感じられた彼の腕の重さも、いまはもう思い出すことでしか確かめられない。
 スマホを開く。午後、三時半だ。友人との待ち合わせまで、まだ少し時間がある。

 ——先に食べてていいですよ。自分で口にした言葉が、頭の中で繰り返される。
 あのときホークスがどんな顔をしていたのか、ちゃんと見る余裕はなかった。見ていたらたぶんもう少しましな返事をしなければならなくなった気がする。あるいは逆に、もっと何も、言えなくなっていたのかもしれない。
 足元に赤い羽根が一枚落ちていた。昨日の夜と同じ色をしているのに、今は少し違って見える。夜のベランダで拾った時はただ綺麗だと思った。けれど今日は、それが彼の一部であり、たしかに私へ触れていたものの残りなのだと妙に生々しく感じられる。
 私はしゃがみこんで、その羽根を拾い上げた。そして逃げるみたいに、祈るみたいに、指の中できゅっと握った。


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