——午後七時。駅前のイタリアンは週末らしい賑わいにやわらかく膨らんでいた。ガラス越しに見える店内は灯りがあたたかくグラスの触れ合う音や、テーブルごとの笑い声が、薄い膜みたいに重なっている。予約席のプレートが置かれた二人掛けのテーブルに、私は五分前に着いた。少し、早かったかもしれないとスマホの時計を見ようと持ち直したときだった。

「名前ー!ごめんごめん!」

 声のほうを見ると高校時代からの友人が大きく手を振っていた。ショートカットに赤いリップ、すっきりとしたパンツスーツ姿。休日出勤の仕事帰りとは思えないほど顔色がよく席に着きながらもうすでに、ワインリストを広げているあたりがなんとも彼女らしい。会うたびに、生活の速度が私よりも半歩ぶん早い気がする。

「遅刻しないとか珍しい。なに〜?最近ちゃんとしてんね」

 急にそんなことを言われ、私は曖昧に笑った。ちゃんとしている。そう言われて、マンションのエントランスで彼から言われた同じような言葉を思い出したくもないのに思い出してしまう。自分でも嫌になるくらい、今日はちょっとした言葉がいちいち胸の内に残っていた。メニューを開くと『本日の鮮魚のアクアパッツァ』という文字が、目に入る。友人がグラスワインを注文し終えて、すぐに身を乗り出してきた。観察するような目でまっすぐ私の顔を見る。

「で、最近どうなの」
「え? 最近って?」
「なんか顔色よくない?前は、もっとこう、幽霊みたいだったのに」

 気心の知れた相手の目は、昔から、変なところばかりよく見ているな、と感心する。私は思わず苦笑する。顔色がいい理由なんてうまく説明できる気がしなかった。朝からメッセージを交わして昼間に一緒にデパ地下へ行って、空まで飛ばれて告白みたいなことを言われて……。それでも結局まともな返事ひとつできなかったそんな一日を、どう要約すればいいのだろう。『ママ業』が板についてきたから、なんて冗談で済ませられるほど今日の私は単純ではない。けれど正直に言うにはあまりにもまだ、輪郭が定まっていなかった。


 *


 何がどうして、こうなったのか——。最初は、食事だけのつもりだった。けれど友人に引っぱられるまま店を移り二次会、三次会とバーをはしごしているうちに、気づけば日付けを越えていた。ワインのあとに、カクテルとか。そのあとは何を飲んだのかも曖昧で、たぶんかなり飲みすぎたのだと思う。呂律が怪しい自覚まであるのだから、相当だった。

 なんとかマンションまで辿り着いたころには、スマホのデジタル時計はすでに深夜一時を回っていた。人の気配の消えた廊下は静まり返っていてその静けさが、やけに、耳に残る。鍵を取り出すところまではできたのに酔いのせいで指先に力が入らず、鍵穴にうまく差さらない。
 かちゃ、かちゃ、と、金属の擦れる音だけが、白く静かな廊下へ情けなく響く。
 九時過ぎには帰ると言ったのに。その約束とも言えない報告から、もう四時間近く過ぎている。でも、だから何だという気もする。彼はただ何時くらいに帰るのか聞いただけだ。そこへ、勝手に意味を足していたのは、私のほうかもしれない。いまさらそれを気にしている自分が滑稽で、少しだけ惨めだった。何を期待しているのだろう、と酔った頭で思う。そんなもの、期待したところで自分がいちばん、困るくせに。

 ため息と一緒に、もう一度、鍵を差そうと試みたが、やはり手首がうまく定まらない。もしも、ここがバイオハザードの世界ならば、私は一瞬でゾンビに、食い殺されていたことだろうと思う。
 そして何度目かわからない失敗のあと、背後でエレベーターの到着音が鳴った。私は、薄く目を細めて振り返る。そこで、思考が一度止まった。現れたのは、隣人だった。スウェット姿で、髪はおろしたまま片耳のピアスだけが、蛍光灯の白い光を拾って小さく光っている。手にはコンビニのビニール袋。いかにも、少しそこまで出た帰り、という格好なのに、その気の抜けた私服姿まで、きちんと絵になってしまうのが腹立たしかった。不覚にも、かっこいいなと思ってしまう。こんな状態で、こんな時間に、こんな姿や顔を見せたくなかった、いちばんの相手なのに。
 酔っ払いの気配を剛翼が拾ったのか、それともただの偶然か。どちらにせよ、できすぎたタイミングだった。ホークスは、私を見た瞬間、ほんの一瞬だけ動きを止めた。それから、こちらの顔を確かめるみたいに目を細める。

「……名前ちゃん?」

 声が低かった。いつものへらりとした軽さではなく、抑えた声音だった。そのまま、足音ひとつ立てずに近づいてきて、私の指の間でもたついていた鍵を、そっと取り上げる。力任せではなく、ただ当然みたいな手つきだった。次の瞬間には、鍵は何の抵抗もなく回っていた。あっさり開いた玄関を前にして自分だけがずっと無駄に手こずっていたことが急に恥ずかしくなる。彼に導かれるまま室内へ入り、肩へ手を置かれる。掴まれた、と言うより支えられた、のほうが近い。しっかりしているのに乱暴さはなく、ただ、こちらが転ばないように、壊れないように扱われている感じがあった。見上げるとそこにあるのは心配と少しの苛立ちがないまぜになった、琥珀色の瞳だった。そして、その低い声のまま、彼は言う。

「心配してたよ。電話しても出ないから」

 その言葉で、胸の奥が変に縮んだ。心配した。そう口にされると、遅れたことや飲みすぎたこととは別のところで、急に申し訳なさが込み上げてくる。ふと、彼の手に提げられたコンビニの袋が目に入る。中に見えるのは酒でもつまみでもなかった。入っている食べ物は一つだけ。モンブランだった。
 彼の指に導かれるまま、私はソファへ腰を下ろした。アルコールのせいで身体の芯がまだ、ぽかぽかしていて頭の中はどこか綿を詰めたみたいにぼんやりしている。普通ならこんな近くにいたらそれだけで緊張してしまうはずなのに今は酔いの膜がそのへんの感覚を鈍くしていた。それでも、彼の空気だけは不思議なくらいはっきりわかる。怒ってはいない。けれど呆れているし、安堵しているし、そのどちらの感情も隠しきれていない。

「ごめんなさい……ちょっと、飲みすぎちゃって」

 自分の声が少し、甘く崩れているのがわかる。ホークスは、隣へ腰を下ろして、こちらを見た。怒鳴りもしないし、説教めいた顔もしない。でもその表情には放っておけなかった人特有の疲れが少しだけ滲んでいた。探していたのか待っていたのか、その両方なのかもしれないと思うと余計に胸が痛む。

「いやいや。ちょっとのレベルじゃないでしょ、これ」

 呆れたように言いながらホークスの指先が私の頬へ触れた。体温を確かめるような静かな触れ方だった。酒で火照った肌は、自分でも驚くほどに熱い。彼はそのまま手のひらを私の額へ移し熱を測るみたいにそっと当てる。その手は少し、ひんやりしていて、気持ちよかった。気持ちいい、と感じてしまうこと自体が今の私を余計に無防備にしている気がして、私は小さく息を呑んだ。

「熱っ。……水、持ってくるから待ってて」

 そう言って立ち上がりかけた彼の袖を私は反射みたいに掴んでいた。自分で掴んだくせに、どうしてそんなことをしたのかうまく説明できない。ただ離れていこうとする気配に身体のほうが先に反応してしまったのだと思う。
 ホークスが立ったまま振り返る。座ったままの私と視線が合った。普段ならこんなふうに真正面から見つめ返すことなんてできないはずなのに、アルコールがそのあたりの壁を雑に壊している。私のほうもまともではないし、たぶん彼のほうもいまこの状況をどう処理すればいいのか一瞬だけわからなくなっていた。水を取りに行く。ただ、それだけのことが、急に、難しくなってしまったみたいに。
 沈黙が落ちる。時計の秒針だけがやけに大きな音で進んでいく。私は彼の袖を掴んだまま自分が何をしたいのかも定まらず、ただ指先に少しだけ力を入れていた。頭の中は相変わらず、ふわふわしていて考えようとしても、思考が同じところを空回りする。まともな判断なんて、最初から期待できる状態ではなかった。彼がゆっくりと、腰を戻す。ソファが小さく軋んだ。

「……行かんほうが、いい?」

 低く、静かな声だった。いつもの、冗談めいた軽さもわざとらしい気安さもない。柔らかいのに妙にまっすぐで、たぶんこれがいちばん素に近い声なのだろうと思う。ヒーローの顔を少しだけ、脇へ置いたときの声だ。その響きが酔った頭にもはっきり残る。

「行かないで……って、言ったら、困りますか」

 自分でも驚くくらい素直な言葉だった。掴んだ袖へ、もう少しだけ、力が入る。困ってほしいと思った。少しくらい、私の一言で迷ってくれたらいいのにと。けれど同時にこの人が本当に困るとしたらそれはたぶん私のためにならない方向なのだろうとも、どこかでわかっていた。
 その一瞬ホークスは息を止めたみたいに静かになった。瞬き一つ分くらいの短い沈黙だったのにそこだけ、時間が少し遅くなったように感じる。人気ヒーローが文字通り、何もできずに固まっている。そのことが、妙に胸をざわつかせた。
 やがて彼は、掴まれた袖ごと私のほうへ身体を寄せる。空いていた手が、そっと、私の後頭部へ添えられた。触れるというより、そこに置かれるみたいな、静かな手つきだった。

「困んない」

 短く、低く。それだけ言って、彼は私を自分の肩へ凭れさせた。肩口に顔を預けると、布越しの体温が思ったより近くて、急に、力が抜けそうになる。こんなふうに、誰かへ重さを預けるのは、いつぶりだろうと思う。酔っているせいで境目が曖昧になっているのか、それとも、この人だからなのか、自分でもよくわからなかった。

「ありがとうございます、ホークスさん……」

 息に混じるような声でそう言うと、彼は小さく笑った気配を滲ませた。呆れているようで、それでもどこか、やわらかい、ほんの少しだけ甘さを含んだ声で「その呼び方さぁ」と私と同じように吐息を落とすみたいに言う。

「もう卒業しない?どうせ外では、呼び捨てなんでしょ」
「……、」
「呼んでよ、名前」

 それは、命令というより、お願いに近かった。軽く言っているようで、あまり軽くない。そんな声。私は返事の代わりに、目を閉じる。眠気が波みたいに押し寄せてきて意識の輪郭が曖昧になる。

「……ホー、クス……」

 その名を口にした途端に、眠気が襲ってきて、うつらうつらとし始める。舌がうまく回らない。それでも、なんとか呼んだ名前は、自分の口から出たものではないみたいに頼りなかった。
 こんなに酔ったのは久しぶりで身体の芯が熱く頭はぼんやりしていて心のほうだけが変に無防備だった。気を許してしまっているのだと自分でもわかる。だから余計に彼の肩へ寄りかかったまま動けない。

「わたし、なんか……暑い……」

 喉がひりつく。アルコールのせいで体はずっと火照っていて、呼吸も少し熱っぽい。ホークスはすぐに返す。

「そりゃ、飲みすぎだもん」

 口調は呆れているのに手つきはやさしかった。後頭部を支えていた指先が、私の髪を、ゆっくり梳いていく。慰めるみたいに、はたまた落ち着かせるみたいに、一定の速度で。
 だめだ、と思う。心地よすぎる。気持ちよくてそのまま目を閉じていたくなる。
 そのとき、彼の喉が、小さく動いた気がした。こんな状況で暑いなんて言葉がどれだけ危ういか私はちゃんとわかっていたのだろうか。わかっていなかったから口にしたのか、わかっていても、止められなかったのか自分でも判別がつかない。どちらにしてもまともな人間の言葉ではなかった気がする。ホークスが、天井を仰ぐ気配がした。深く息を吸って長く吐く。自分を整えようとするみたいな静かな呼吸だった。

「名前ちゃーん」

 少し間延びした呼びかけ方なのに、声の底は、真面目だった。

「今の発言さあ、だいぶ危ないよ」

 私に聞かせるために言ったのか自分に言い聞かせるためだったのかはわからない。たぶん、その両方だったのだろうと思う。酔っている私にどこまで届いているのかも彼自身わかっていなかったかもしれない。でも、その言葉の慎重さだけは、伝わった。この人はいま、冗談のふりをしながらぎりぎりのところで踏みとどまっている。

「ホークス……こっち、見て……」

 彼が、視線を落とす。そこに映っているのは、たぶん、ひどくだらしない顔の私だった。焦点の甘い目。熱で赤くなった頬。酔いのせいで輪郭のゆるんだ表情。自分で想像するだけでも情けないのに、いまの私はその情けなさを、うまく恥じることすらできない。
 ホークスが息を呑んだ。頭を支えていた手に、ほんの少しだけ力が入る。指先が、微かに震えていた。この人にしては、珍しいことだと思った。いつもはもっと器用にもっと余裕のある顔で人をあしらうくせに、今はその余裕が見当たらない。それが妙にうれしくて私はふっと笑ってしまう。ぼんやりしたまま、それでも言葉だけは落ちる。

「目が、きれい」
「……」
「ホークスの目、きれい……」

 ホークスは私の顎に指を添えて、そっと、顔を上向かせた。蜜みたいな色の目が至近距離で私を映している。そこにはいつもの笑みがなかった。余裕も逃がしの軽口も、今はきれいになくなっている。その顔を見た瞬間ようやく少しだけ自分が何をしているのかが、わかった気がした。酔っているからでは済まないところへ私はたぶん、足を踏み入れかけている。

「……そういうこと言うの、ほんと、やめてくんないかなぁ」

 声は、掠れていた。怒っているわけではない。もっと切実な、追いつめられた種類の声だった。彼の親指が、私の下唇をかすめるようになぞる。無意識だったのか、意図してやったのか、たぶん本人にもはっきりはわからなかっただろう。ただその指先の熱だけはやけに鮮明で私は小さく息を呑む。

「明日、覚えてなかったら……俺、ほんとに泣くよ?」

 冗談みたいな文句だった。でも冗談としてだけ聞き流せる声じゃなかった。私は、ぼんやりした頭のまま彼の顔を見上げる。言葉が少し溶ける。

「ここまで酔うの……珍しい、ほう……なんですけど、ねぇ……」

 彼が、ふ、と小さく笑った。それは愉快だから笑ったというより、どこか諦めたような、けれど同時に少しだけ救われたような妙に静かな笑い方だった。
 酔っていなければ、私はきっと、こんなふうに大胆なことは言わなかっただろう。彼だってそれくらいわかっているはずだ。わかったうえでなおその言葉をただの酔いの戯言として片づけないでいてくれる気がした。そう解釈してほしいという卑怯な願いまで込みで、私は彼の目を見ていたのだと思う。
 ホークスの中で何かが静かにせめぎ合っている気配があった。理性と衝動、天使と悪魔、みたいな、そんな単純な言い方で片づけてしまっていいのかわからない。ただこの人がいま、自分の中のいくつもの声を聞き分けながら、そのどれを選ぶべきかを一瞬だけ迷っているのは、酔った頭でもなんとなくわかった。そして結局、彼は、ほんの少しだけ、こちらへ寄ることを選んだらしい。
 こつん、と、額が触れ合う。硬くはないのに、思った以上に、生身の感触だった。金色の前髪が頬へさらりとかかる。こんな近さで触れられると視界の中にあるものが急に少なくなる。彼の目とまつ毛の影と、呼吸の気配だけで、世界ができてしまいそうだった。

「じゃあ、覚えといて」

 囁くような声だった。やさしいのに逃がしてはくれない響き。私に、言い聞かせるようでいて、たぶん半分は自分自身にも言っているのだろうと思う。この瞬間を、なかったことには、しないでほしい、と——。

「このままここにいるのは、ちょっとまずい」

 吐息がかかる。その距離の近さに、いまさらになって胸が遅れてざわめく。まずい、というのが何に対してなのか私にはもう十分すぎるほどわかっていた。わかっているのに、離れてほしいとは少しも思えない。むしろ逆で、このまま、時間が止まってしまえばいいのにと酔った頭のどこかで子どもじみたことを考えてしまう。
 ああ、どうしよう。離れたくない。その気持ちだけが、熱に浮かされたみたいに、やけに、素直だった。

「俺、ずっと我慢してんの」

 その言葉は瞼が重くなっていく最中でも、妙にはっきり耳へ届いた。冗談みたいに軽く言おうと思えば、たぶんこの人は、いくらでもそうできたはずだ。けれど今の声には、軽口へ逃がすための余白がほとんどなかった。ただ静かで、少しだけ掠れていて、そして、正直だった。
 我慢——。その三文字が胸の内側へ落ちてきた瞬間、自分がどれほど彼を揺らしてしまっているのかを遅れて思い知る。酔っている私が無防備に零した言葉や視線や体温が、この人の理性を少しずつ削っていたのだと、今さらのようにわかってしまう。わかってしまうのに申し訳ないより先にうれしいが来てしまう自分がいた。

 彼の唇がそっと私のこめかみに触れた。それは口づけというには、あまりにも慎重で、熱の確認みたいでもあり、これ以上は踏み越えないという最後の線引きみたいでもあった。
 それ以上は何もしなかった。何もされなかったことに安堵したのか惜しいと思ったのか自分でもよくわからない。ただ、その触れ方があまりにもやさしくて、そこにある理性ごと、抱きしめたくなるような気持ちだけが、ぼんやり胸に残る。
 そこで、私の意識は途切れた。『我慢』という言葉だけが耳の奥で鈍く反響している。けれど、その響きさえも、アルコールという名の深い沼がゆっくりと飲み込んでいったのだった。


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