いつのまにか日が落ちて夜の帳が降りていた。空には、丸い月が浮かんでいる。輪郭のはっきりした、少し白すぎるくらいの満月だった。
 私はシャワーを浴びて髪を乾かし、薄手のカーディガンを羽織ってベランダへ出た。夜風がまだ少し湿り気の残る毛先を、さらっていく。六月の風は、もう、春の名残をほとんど手放していて、かわりに夏の匂いをうっすらまとい始めていた。ぬるいような、でも、まだ完全には熱を帯びきらない季節の継ぎ目の風だった。隣のベランダにはもう人影があった。ホークスは手すりへ肘をつきちょうど、缶ビールを開けているところだった。そして、こちらの気配に気づいて顔を上げる。

「お、来た来た」

 その顔はいかにもいつも通りだった。にこにこしていて余裕があって、どこかまだ少年っぽさの残る笑い方をしている。昼間の電話越しに聞いた少し掠れた素の声なんて最初から存在しなかったみたいに見える。そうやって何事もなかった顔を作れてしまうのが、この人のずるいところだと、改めて思う。けれど彼はそのまま少しのあいだ、私を見ていた。視線が上から下へ、ゆっくり落ちる。露骨ではないのにちゃんと確かめるみたいな見方で。そして一瞬だけ、目元がほころぶ。来てくれた、と安堵した気配が、ほんの少しだけ隠しきれなかったように見えた。それでもホークスはすぐに何食わぬ顔へ戻り、足元に置いていた箱を持ち上げる。土曜日の、あの日と同じ、あのデパ地下のケーキ屋さんのロゴが入った、白い箱を。

「じゃーん。約束のモンブラン」
「モンブラン、そんなに好きだったんですね」

 そう言うと彼は一瞬きょとんとした顔をした。その間の抜けた表情が、少しだけおかしい。
 ホークスは、箱を開けながら、まるで最初から決まっていたことみたいに、何の前置きもなく、当たり前だと言わんばかりにさらりと口にした。

「好きなのは俺じゃなくて名前ちゃんでしょ」
「え……?」
「前にコンビニでモンブランプリン見たとき三秒くらい立ち止まってたじゃん。剛翼で、だいたいわかんの」

 それはもう観察というより、半分ストーカーの所業では、と思う。本人は、善意の記録みたいな顔で言っているから、なおさらたちが悪い。

「はい、どうぞ」

 満月の光が、モンブランの栗の艶を、うっすら照らしている。いかにも甘そうなその形が、夜の静けさの中では昼間より少しだけ特別に見えた。皿もフォークも出てこないまま彼は、手に持ったモンブランをそのままこちらへ差し出した。丁寧そうに見せかけてこういうところだけ妙に横着でその雑さに、少しだけ気が抜けてしまう。

「ありがとうございます。いただきます」

 ここまで来たら私も同罪だ。フォークがないのをいいことに指先でマロンクリームを少し掬ってそのまま口へ運ぶ。和栗のクリームは、舌の上でねっとりほどけてあとから洋酒の香りがふわりと広がった。たしかに美味しい。というか、かなり美味しい。口に入れた瞬間思わず眉が少し上がるほどには。ホークスはビールをひと口含みながらそんな私の様子を、じっと見ていた。妙に熱心な視線だった。

「ずいぶん、えっちな食べ方するねぇ」
「……へ?」
「ううん、どう?」

 なんだか変なことを言われた気がした。した、けれど、今はそこへ食いつくのも負けた気がして私はとりあえず流すことにする。
 それにしても、感想を待つ彼の顔はやけに真剣だった。国の命運を左右する判断でも待っているのかと思うくらいこちらの反応だけを見ている。彼は私が二口目を運んだのを確認して、ようやく肩の力を抜いたらしい。「よし」と、ほとんど、独り言みたいに呟く。

「やっぱ正解だった」

 小さくガッツポーズまでしているのが見えて、私は笑いそうになる。その横でさらに一口、二口と食べ進める。たぶん自分でも気づかないうちにずいぶん、満ち足りた顔をしていたのだと思う。

「……これ、すごく美味しいです」

 そう言うと、ホークスは満足げに「でしょ」と頷いた。そしてビール缶を揺らしながらさらっと続ける。

「並んだ甲斐あった。まあまあ混んでたし」

 並んだのはたぶん本人ではないのだろうな、と思う。変装したホークスが律儀に列へ並んでいる姿も想像できなくはないけれど、おそらく実際はサイドキックの誰かだろう。そう考えると見知らぬ誰かの労力のうえに、この甘い時間は成立していることになる。私は心の中で顔も知らないその誰かにそっと手を合わせた。ホークスは、ビール缶を傾けながら、手すりへと背を預ける。視線を上げた先には、丸い月があった。

「ねえ、名前ちゃん」
「はい」
「昨日、目の色きれいって言ってくれたじゃん」

 月を見たまま、彼が言う。少しだけ間を置いて「覚えてないだろうけど」と唐突に蒸し返されて私は、手の中のモンブランを落としそうになり、慌てて持ち直す。彼は、ゆっくり視線を下ろし、今度は正面から私を見た。満月の逆光で、表情の半分は影に沈んでいるのに金色の瞳だけがやけにはっきり光って見える。
 ホークスは「これ?」と言って少し顎を上げ、猫みたいに目を細めた。その仕草が、あまりにもわかりやすくて私はたまらず目を逸らした。見ていられないと思うのに、視界の端ではちゃんと、意識してしまう。それでも、小さく呟く。

「……綺麗、ですね」

 素直に口にすると、たったそれだけの言葉が、ひどく気恥ずかしい。けれど嘘ではない。嘘ではないどころか、昨日酔った勢いで口にしていたのだとしたら自分はよほど無防備だったのだろうと思った。逸らした視線の先を追うみたいにして、ホークスが、ひょいと顔を覗き込んできた。

「素面でも言ってくれた」

 その言い方が驚くほど嬉しそうだった。国民的人気ヒーローが「綺麗」というたった三文字だけでこんなふうに無防備に笑うのかと、少し呆れるほどに。私は思わず息をつく。きっとこの人は、こういうとき自分がどれだけずるい顔をしているのかを、知らないのだと思う。知っていてやっているならもっとたちが悪いけれど、たぶん、知らないまま笑っているから、余計に困るのだ。

「あの……もう、こうやってベランダで話すの、できないかもしれないって、思ってて」

 口にしてしまってから、自分でも少し、遅いと思った。昼間の電話のあと、もういったん、やり直せた気になっていたくせに、胸の奥のほうではまだ、その不安をちゃんと、手放せていなかったらしい。何でもなかったみたいに、モンブランを食べて月を見て、笑って、それでも消えきらないものが残っていた。そういう感情は、たいてい、黙っていれば勝手に薄まることはなくて、むしろ沈黙の底でじわじわ育っていく。だからたぶん、今ここで言うしかなかったのだと思う。

「なんで?」

 ホークスの笑顔が消えた。今度は一瞬だけではない。はっきりと。月明かりの下で、蜂蜜色の目だけが静かに光る。表情が消えたというよりも、そこだけ余計なものが落ちたみたいだった。声は平坦だった。けれど、ビール缶を握る指だけが、ぎゅっと力を呑み込んだみたいに固まっていた。そういうところをこの人は案外、隠しきれない。

「今朝の、ホークスの態度見たら」
「……」
「もう、嫌われたのかと思って……」

 自分でも少し情けないと思いながら私は言葉を継ぐ。ホークスは、缶を手すりの上へ、ことんと置いた。その小さな音がやけに大きく響く。彼はそのまま片手で顔を覆い指の間から深いため息をひとつ漏らした。それから少し顔を上げて困ったように言った。

「あー......うそ。そんなふうに見えてた?」

 そのまま彼は空を仰いだ。翼が心なしか、少しだけ垂れて見えるのが妙に本人の気分と連動しているようで反省しているのか落ち込んでいるのかそのへんの感情が、個性の剛翼にまで出るのは、ずるいくらいわかりやすいと思った。ホークスは指を顔から離し、今度はまっすぐこちらを見た。

「嫌うわけないでしょ」

 考える間すら挟まらない、ほとんど反射みたいな速さだった。蜂蜜色の目には呆れと、それから遅れてきた後悔みたいなものが半分ずつ浮かんでいる。彼は照れ隠しみたいに、後頭部をがしがし掻いた。整っていた金髪が少し乱れるその仕草がやけに人間くさくて私は一瞬息を止めてしまう。そして、視線をわずかに外したまま、ホークスは言葉を続けた。

「あれは、俺の問題」
「……」
「名前ちゃんが、失言とか迷惑とか言うから……ちょっと、へこんだだけ」

 へこんだ、という言い方が妙に彼らしかった。もっと、格好つけることもできただろうに、そうしない。言い訳に聞こえないぎりぎりのところで自分の感情を、そのまま置いてくる。彼の視線は夜空へ向かい、月へ向かい、結局、モンブランの入っていた箱のあたりへ曖昧に着地した。

「あのあと、ちゃんと大人気なかったって電話で伝えられたから俺ちょっと安心してたんだよね」

 その言葉に今度はこちらが少し黙る番だった。そんなふうに思っていたのかと思うと昼間のあの電話の向こう側で、彼がどれだけ自分の言い方や態度を反芻していたのかが、少しだけ見える気がした。彼は、自分の言葉を頭のなかで噛みしめるみたいに数秒黙って、それから慎重に口を開く。

「……電話、怖くなかったと?」

 聞き方が、妙に慎重だった。怒ったあとに自分から電話をかけ直す。そういう行為が相手にどう受け取られるかを、この人はちゃんと、気にしている。普段はへらへらと笑って何でも軽く扱えるみたいな顔をしているのにこういうところにだけ小さな臆病さが出る。その感じが月明かりのせいか、今夜はいつもより、少しはっきり見えた。

「怖い?どうして?」

 私がそう聞き返すと、ホークスは少し黙った。それから手すりを指先でとんとん、と軽く叩く。考えごとをしているときの癖なのかもしれない。彼は視線を落としたまま、少しだけ苦く笑った。

「いや、だって。俺、結構イライラしてたし……電話したとき」

 怒ってはいないと言っていた。でもイライラはしていたらしい。その正直さが少し意外で、少しだけうれしい。取り繕おうと思えば、いくらでもできる人が、ここでは、そうしないでいる。彼はちらりと私を見てすぐにまた月へ視線を戻した。

「ほんとは怖がらせたくなかったんだよね。でも我慢できなかった」

 その言葉は夜の空気へすぐには溶けなかった。軽く受け流されるには少し本音に近すぎたから。私はしばらく黙ったまま、手の中のモンブランの包みの感触を確かめる。月の光、ぬるい風、隣の気配。そういうもの全部が、急に静かになって、彼の声だけが遅れて胸に残る。

「怖く、なかったですよ」

 ようやくそう言うと、ホークスが、ふっと短く息を抜いた。安堵だったのだと思う。肩の力が、少し落ちて、さっきまでしおれ気味だった翼まで気のせいじゃないくらい持ち直して見える。
 わかりやすい人だと思う。ずるいくらい器用なくせに肝心なところだけどうしようもなくわかりやすい。

「……あの。ちょっと、変なこと聞いても?」

 私がそう言うと、ホークスが、片眉を上げた。月明かりの下で見るその仕草は、いつもより少しだけ鋭く見える。けれど返ってきた声は相変わらず軽かった。口元をゆるめて、少し首を傾げる。

「変なこと?名前ちゃんからの変なことは、だいたい歓迎してますけど」

 そういう言い方を、さらりとする。その軽さに少しだけ助けられながら私は続けた。言い始めると、途中でやめられなくなると、わかっていて。

「どうして私のことそんなに気にかけてくれるんですか?」
「……」
「昨夜も、お味噌汁作ってくれて……今朝だって飲み物とか、買ってきてくれて……」

 口にしながら、自分でもなんだか苦い気持ちになった。優しさを受け取るたび、それが嬉しいのと同じくらい怖くもなる。ヒーローである相手にとっては大したことではなくても、自分ひとりが勝手に、意味を足してしまうのではないかという怖さだ。だからこそ私は、つい、逃げるみたいな言葉を選んでしまう。

「責任感じてるんだったら、気にしないでほしいって、いうか……」

 言い終えた瞬間、ホークスの表情が固まった。はっきりと、わかるくらいに。
 沈黙が落ちる。五秒か三秒か、あるいはもっと短かったのかもしれない。けれど、彼にしては、異様に長い間だった。いつもならその空白を何かしらの軽口で埋めてしまう人なのに、今はそれがない。やがて、彼が手すりからゆっくり身を起こした。背筋を伸ばし、ちゃんと正面から私の方を向く。その動きだけで、もう、さっきまでの会話とは別の場所へと来てしまったのだとわかる。

「責任?」

 声がわずかに沈んだ。ホークスは何か言おうとして唇を開きかけ、そこでまた一度、思い直したみたいに口を閉じる。ほんの短い沈黙。それからもう一度だけ、口を開いた。

「……あのさ。」

 金色の瞳がわずかに揺れていた。言葉を選んでいるというより、どれを選んでも足りないとわかっている人の顔だった。後頭部をがりっと掻き、いったん空を見上げる。その仕草が妙に人間くさい。いつもはもっと器用に着地してしまう人が、珍しくちゃんと躓いている。そして覚悟を決めたみたいに、もう一度、私へと視線を落とした。

「責任感で味噌汁作るやつが、どこにいんの」

 呆れたような困ったような、でも少し泣きそうにも見える顔だった。笑っているようで、笑っていない、いろんな感情が一度に押し寄せたあとの表情。ホークスが、すっと手を伸ばす。私の頬へ触れそうになって、寸前で止まる。指先がほんの数ミリの距離で揺れていた。触れたいのを堪えている手。そのまま空中で拳を作り彼は、ゆっくり手を下ろす。一歩ぶんだけ身を引き今度は手すりへと、もたれ直す。逃げたわけではない。むしろこれ以上近づいたらまずいと判断した人の引き方だった。

「好きだからだよ。それ以外に、理由いる?」

 あっさり言った。まるで世間話でもするみたいな調子で。けれどその喉仏だけが、ひとつ大きく上下している。軽く言おうとしても、身体のほうまでは誤魔化せないらしい。横顔が月の光に白く浮かんでいた。耳の先だけが少し赤い。ピアスと同じ色だと、どうでもいい事を思う。思うことでしか、この衝撃に追いつけなかった。

「す、……え?」

 私は、なんとか口を開いた。けれど、まともな言葉が、ひとつも出てこない。自分でも情けないくらい間の抜けた声だった。ホークスが横目で、ちらりとこちらを見る。そのままくっと喉の奥で笑った。

「その反応、予想通りすぎて逆におもしろい」

 そう言うくせに目は少し泳いでいた。どうやら告白した側だって別に余裕ではないらしい。彼はビール缶へ手を伸ばして、それがもう空だと気づく。中身はとっくに、飲み干していたのだろう。誤魔化しの小道具を失った手が所在なさげに膝を軽く叩いた。それから咳払いを一つ。開き直ったみたいに体ごとこちらへ向き直る。逃がさないというより、逃げるのをやめた人の向き方だった。背中の翼がぴんと張っているのが今の彼の緊張をそのまま語っている。その様子を観察していて、「あの……えっと」と、ようやく絞り出した私の声は自分でも笑ってしまうくらい頼りなかった。

「ホークスって、その……隣人に毎回そんなこと言っちゃうタイプの、人なんですか」

 一瞬「へ?」と声に出して固まったかと思えば次の瞬間にはもう限界だったみたいに噴き出していた。そうして「いやいや」と言いながら、腹を抱える勢いで笑う。

「隣人全員に好き好き言って回る男だと思われてんの、俺?」

 鉄の手すりが小さく揺れるくらい笑っている。さすがにそこまでかと思うのに当の本人は目尻を指で拭いながら、「ひっど」と、肩を震わせる。そして、そのまま笑いを含んだ声で続けた。

「あー、傷ついたぁ。今週の傷ついたランキングぶっちぎり一位」

 その言い方がおかしくて、私は少しだけ、息をつけた。笑われたことで逆にこちらの緊張も少しほどける。ホークスは、ひとしきり笑ってから、すっとその笑いを引いた。あとに残ったのは真顔だった。冗談の余白だけをきれいに削ぎ落としたみたいな、むき出しの顔。月明かりの下で、その表情だけがひどく、静かだった。

「言わないよ。誰にでもなんて」

 低い声が夜気の中へ静かに落ちる。さっきまで笑い混じりだった空気がその一言で少しだけ張りつめたものに変わった。月の白い光が彼の横顔の輪郭だけを淡く縁取っている。

「名前ちゃんだけ」

 その言い方には飾りがなかった。軽く聞こえるように整える余地はいくらでもあったはずなのに彼はそうしなかった。ただ、余分なものを削ったあとに残る、いちばん短くていちばん誤魔化しのきかない言葉だけを、そのまま置いていった。
 それがかえって私を落ち着かなくさせる。何か言わなければと思うほど、舌がもつれてしまう。結局、私はその沈黙を選んだ。そこで時間が一度静かに区切られた気がした。


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