沈黙は思ったよりも長く続いた。音がないわけじゃない。遠くの車の走行音も、どこかの部屋で立てられた生活の気配も、ちゃんと世界は動いている。それでもこの場所だけ、時間が一拍遅れて流れているみたいだった。彼は、何も言わない。私も言えない。ただ胸の内側だけが忙しなく落ち着きどころを探している。視線を落としたまま、指先に力を入れて、ほどいて、それを何度か繰り返す。沈黙がこれ以上重たくなる前に何かを言わなければと思うのに、言葉は相変わらず形にならなかった。それでもようやく「えっと、その」と紡いだ声は、自分でも驚くくらいに弱々しいものだった。
「惚れやすいタイプ、とかなんですか。ホークスって」
口にしてから、自分でもずいぶんひどいことを言った気がした。でも、そうでも言わなければ、この現実離れした状況に、足場を作れなかった。目の前の相手は、隣のベランダで缶ビールを飲む男であると同時にテレビの中で何万人からも歓声を浴びているヒーローでもある。その二つがどうしても頭の中で、うまく重ならないのだ。
「惚れやすい?」
反芻するみたいに呟いてから彼は目を細めた。笑ってはいない。かと言って、怒ってもいない。ただ静かで、少しだけ切なそうな顔をしていた。ホークスは小さくため息を吐き出し、首を振る。
「俺ね、人を見る仕事してんの。これでも一応」
その言葉の響きには軽く説明して済ませるには足りない重さがあった。
斥候、情報収集、裏の仕事。表に出ない役目の噂は前から耳にしたことがある。けれど、本人の口からその片鱗だけでも聞かされると噂話として受け取っていたときとは違う質量を持つ。
それ以上を聞きたいとは思わなかった。たぶん彼が今ここで言っているのは、仕事内容の話ではなく、その仕事をしている自分が、何をどう見てきたかの話なのだろうから。
「その俺が——」
そこでいったん言葉を切る。ホークスは、月を見上げた。いつのまにか薄い雲がその周りへ流れ始めている。私はその沈黙に耐えきれなくなってまた慌てて口を開いてしまった。
「いや、だって……」
自分でも情けないくらい、声がしどろもどろになる。声が、さらに小さくなる。
「いつも、たくさんの女の子たちから、黄色い声とか、もらってるし……」
「……」
「その、選び放題、みたいな感じなんじゃ……」
「……」
「か、かっこ……いい、ですし……」
思いきり噛んだ。自覚する間もなく舌が言葉に追いつかなかった。耳の後ろまで熱が這い上がってくるのがはっきりわかる。あれだけ真っ直ぐに気持ちを差し出されたあとで、私が返せたのは、こんな不格好な一言だけだった。恐る恐る横目で窺うと、ホークスの口元がわずかに歪んでいる。笑いきれなかったというより、照れをどう扱えばいいのか判断を誤った顔だ。暗がりでも誤魔化しきれないくらい耳の縁がじわじわと赤く染まっていくのが見えた。
「えっと……今、褒めてくれたと?」
確認するような声が、完全に照れを隠しきれていなかった。ホークスは片手で口元を覆い、そのまま顔を少し背ける。肩がかすかに震えている。照れをうまく片づけられないらしい。そんな彼を見るのは初めてで、私はますますどうしていいかわからなくなる。数秒して指の隙間からようやく声が漏れた。そこで一度、私も、息を整えた。
「選び放題とか、ないから」
「……」
「黄色い声はファン。あれに返すのも俺の仕事」
指の間から覗く目は、少しだけ潤んで見えた。それでも視線だけはまっすぐだった。逃げもせずそらしもせず真正面からこちらを見ている。私は何も言えなかった。口だけがかすかに動いているのに、音にならない。顔も耳も首も全部熱くて、どこからどこまでが赤くなっているのか自分でもよくわからない。ホークスは、そんな私の様子を見て、ふっと力を抜いたように笑った。今度は、ちゃんと、やわらかい笑い方だった。
「また、黙っちゃった」
呟くみたいにそう言う。その声は、心底うれしそうだった。それから手すりへ腕を組み少しだけ身を乗り出してくる。ほんのわずか距離が縮まるだけなのにそれだけで呼吸の置き場がわからなくなる。
「返事は急がないから」
言葉はそうなのに、目だけはまるで逆のことを言っていた。今すぐほしい。今ここで何か返してほしい。そんなふうに叫んでいるみたいな目だった。言っていることと、見ている顔が噛み合っていない。矛盾の塊みたいな人だなと思った。
「へ、へんじ……?」
「うん、返事」
「返事って、何の……?」
私は自分の声が上ずるのを止められない。その瞬間ホークスの肩が、がくりと落ちた。大げさなくらいわかりやすく膝から崩れ落ちそうな勢いで項垂れる。それから恨めしそうにして、こちらを見上げた。
「……好きって言ったじゃん、俺」
「……、」
「告白。ラブコール。愛のお告げ」
「は、はぁ……」
言い換えるたびに、なぜか切実さだけが増していく。ホークスはとうとうその場にしゃがみ込みベランダの床へ手をついた。重力に従って金髪が額へ落ちて、背中に生えた翼までもが目に見えてしおれていた。ホークスは情けないような、でも本気で困っているような声を出した。
「うそぉ、ここまで言ってまだ伝わってない?」
その姿があまりにも気の毒で、でも、少しだけ可笑しくて、私は余計に混乱する。
「いや、だって……相手はホークスですよ!?」
「ホークスだね、たしかに」
「そんな有名プロヒーローがなんで、私なんかのこと……」
自分でも何を言っているのかわからないまま、必死で言葉をつないだ。しかしその瞬間、彼が、顔を上げた。勢いがよすぎて乱れた前髪がふっと揺れる。両耳の赤いピアスが、月光を弾いた。
「��私なんか�≠チて言うの禁止」
強い口調だった。そこに、ふざけた響きは一切ない。ホークスは立ち上がる。乱れた髪を直そうともせずそのまま真正面から私と目を合わせた。
防火扉を挟んでいなければ、手が届いてしまいそうな距離だった。
「有名ヒーローだから何?有名人の��好き�≠ヘ、なんか特別じゃないといけないの?」
問いかけの形をしていたけれど、答えを求めているわけではなかった。それはむしろ、私の思い込みをその場で、切り捨てるための言葉だった。私は、言葉に詰まる。それでも目を伏せたまま、どうにか続ける。
「そういうわけじゃ……ないですけど……」
「じゃあ、なに?」
「いや、ほんと……信じられなくて……」
ホークスが長く息を吐いた。苛立ちではない。覚悟を決め直すみたいな呼吸だった。次の瞬間、彼は手すりへ手をかけた。ひらり、という言葉がいちばん近かった。実際には翼が一度だけ小さく羽ばたいて、その身体をあっさり持ち上げたのだけれど、見ている側の感覚としてはもっと軽い。風に乗るというより、最初から重力と折り合いがついている人の動きだった。
ホークスは、防火扉の向こう側から、こちらのベランダへ降り立つ。裸足のまま、ぺたん、と、少し間の抜けた音がした。その着地音だけが妙に生活感があって、かえって心臓に悪い。
彼が一歩こちらへ近づく。見下ろす形になる。改めて、身長差がひどく現実的だった。空を飛ぶヒーローだとか人気者だとか、そういう属性より先に、ひとりの大きな男の人が、まっすぐ自分へ向かってくる。その事実だけで、足元が少し頼りなくなる。逃げたいわけではない。ただこれ以上近づかれたら、たぶんもう何も軽くは返せないと思った。
「信じられないなら、信じなくていいよ」
そう言って、彼の大きな手が私の頭にぽすんと乗った。撫でるでもなく押さえつけるでもなく、ただそこに置かれた手だった。けれど、その何気ない重みが思いのほかあたたかくて、私は一瞬、何も言えなくなる。指先ではなく手のひら全体の熱が、じわりと伝わってくる。そういう触れ方をされると、甘やかされているみたいで困るのに。
「これから証明するから」
言い方は軽いのに、その言葉だけは少しも軽くなかった。私はようやく遅れて、自分の置かれている状況に追いつく。
「わ、びっくりした……! 不法侵入……!」
あまりにも遅すぎる反応だった。ホークスは、私の頭に手を置いたまま、にやっと笑う。
「ヒーロー特権」
そんな特権、あるわけがない。ないのに、この人が言うとこちらの反論だけが妙に勢いを失う。ホークスは頭の上の手をゆっくり滑らせるようにして、ぽん、ぽん、と二度軽く叩いた。それは、子供をなだめるみたいな仕草だった。ホークスはそこで、少しだけ肩をすくめる。
「……まあでも、うん。不法侵入はまずいか」
そう言うわりに、帰る気配はまるでない。私が何か言い返そうとして口を開きかけた、その前にホークスはすとんとしゃがみこんだ。急に視線の高さが揃う。近い。狭いベランダの中で、向かい合ってしゃがむとそれだけで息の行き場に迷う。吐いた空気がそのまま相手へ届いてしまいそうな距離だった。琥珀色の目が、まっすぐに私だけを映している。ホークスが人差し指を持ち上げて、私の額をとん、と、軽くつついた。痛みはない。羽根の先が触れたみたいな、ほんのわずかな感触だけが残る。
「ひとつだけ、約束して」
声が少し低くなる。それだけで、空気がすっと静まるのがわかった。
「��私なんか�≠ヘ、二度と言わないこと」
私は思わず目を伏せる。さっき叱られたばかりの言葉なのにあらためてこうして約束にされるとただの注意ではなくて、もっと大事なこととして受け取られているのだと、わかってしまう。胸の奥が、妙にやわらかくなる。
「……わ、わかった……」
勢いに押されるみたいにしてそう答えると彼は「よし」と息だけで小さく笑った。短く、それでいて満足そうな声だった。額をつついていた指がそのままするりと下りてきて、今度は私の鼻先で止まる。ちょん、と軽く触れる。いたずらなのか確かめているのか、その境目が曖昧な接触。でもそれ以上はしない。指先は、すぐに離れていく。
ホークスはしゃがんだまま、ふっと背筋を伸ばして、小さく息を吐いた。そこでようやく今まで張り詰めていたものが少しだけ、ほどけたみたいだった。
「あー......緊張した。」
それは、全国にファンを抱えるナンバースリーヒーローの台詞とは思えなかった。声は、ほんの少しだけ上ずっていて、夜風にさらされた耳は、まだ赤いままだ。さっきからずっと、彼の身体の方が先に本音を喋っている。私は思わずじとっとした目を向ける。
「……ど、どこが? 慣れてる、でしょ……」
それは、私なりの防衛線だった。そうでも思わなければ、自分ばかりが取り乱しているみたいで心臓がもたない。ホークスはすぐに眉を寄せる。
「まだ言う?」
そう返してから、自分の胸のあたりを指先で、とんとん、と叩いた。そして、少しだけ真面目な顔で続ける。
「ここ、ばっくばくなんだけど」
「……」
「羽にもたぶん出てるよ。びりびりしてるし」
見ると、確かに周囲へ散った羽根が、ごくわずかに震えていた。知識としては知っていたはずのその現象が今ははっきりと彼の動揺を裏切る証拠みたいに目の前にある。思わず「あ」と息に近い声が漏れた。嘘じゃない。その一瞬の変化をこのヒーローが見逃すはずもなくて。にっ、と片方の口角が上がり「ね?」と、いたずらっぽいのに、どこか勝ち誇ったような顔で、彼は短く言った。
「慣れてないでしょ」
「……みたい、ですね」
私がそう口にすると、ホークスは満足そうに、一度だけ頷いた。次の瞬間、何の前触れもなく、後ろへごろんと寝転がる。ためらいもなく、ベランダのコンクリートの上へ、直に。翼を持つ男がそこで大の字になろうとすれば当然、場所は足りない。剛翼が邪魔をしているのか、身体は、少し丸まり気味になって、その姿勢がかえって、のんびりと羽を休める大型の鳥みたいに見えた。
彼はそのまま寝転がった姿勢で、下から、私を見上げる。逆さまになった蜜色の瞳が月明かりを受けて、やわらかく光っていた。
「わー。月、きれー」
そう言いながら、見ているのはどう考えても、月ではなかった。私はその視線に耐えきれず少しだけ首をすくめる。
「……��愛してる�≠ナすか……?」
言った瞬間、自分でも何を口走っているのかと思った。ホークスはぶふっと吹き出す。腹が揺れ翼が、ばさばさと動く。その拍子に羽根が一枚、ふわりと浮いた。笑いが止まらないらしく、彼はしばらくコンクリートの上で体を丸めながら肩を震わせていた。そして目尻を擦りながらようやく言葉になる。
「月が綺麗ですね、は夏目漱石でしょ」
「……、」
「それはさすがに、ちょっと重いって……」
まだ笑いの名残を引きずったような声で、そこまで言って彼はふっと笑いを薄くする。横向きになったままで、下から、私を見上げ続けている。ふわっとした金髪に砂埃が少しだけついていた。そして、そのまま少しだけ間を置いて「いや」と続けた。
「重くていいけどね」
その一言で、また心臓が、変な跳ね方をした。ホークスは私の顔色が変わるのを楽しむみたいに目を細める。
「俺はどっちかっていうと、アイラブユーのほうかなぁ」
もう言葉が出なかった。耳どころか首のあたりまで熱くなって、たぶん今の私は、見事なくらい真っ赤だ。唇が何かの形を作ろうとしては失敗し結局、ただ、ぱくぱくと空気を食むだけになる。自分でも、ひどいと思う。水のないところへ放り出された金魚みたいだったと思う。ややあって、私は「あ、あの」と、ようやく声を絞り出す。
「寝転がるなら、ぜひ……ご自身のベランダで、どうぞ……」
彼は、きょとんとした。それから不満そうに、「えー」とだけ言う。まったく動く気配がない。どころか、翼をふわりと広げて自分なりの快適な位置を探し始めている。もはや、野鳥だった。
「ここ、あったかいし」
「気温は隣でも、同じですよ……」
「体感の話」
そう言って彼は翼を器用に丸め枕代わりみたいに頭の下へ差し込んだ。完全に、くつろぐ体勢に入っている。仕方なく、私はホークスの足元へ、三角座りをする。その位置に座った私を彼は横目でちらりと見た。
「足元……」
何か、言いたそうな声だった。でも、その先は飲み込んだらしい。たぶん「隣に来てほしい」とでも言いたかったのだろう。でもさすがにそれは図々しいと思ったのかもしれない。その代わり、みたいに彼は剛翼の端を、ふわりと持ち上げた。赤い羽根の束が、そっと私の肩へかかる。
「風、出てきたから」
その言い方があまりにも自然で、私は一瞬だけ返事に詰まる。
やさしさをやさしさとして差し出すとき、このヒーローはいつも少しだけぶっきらぼうになる。照れ隠しなのか単なる癖なのか今の私には、まだよくわからない。
「ありがとう、ございます……」
そう答えると、肩へかけられた翼がほんの少しだけ機嫌をよくしたみたいに揺れた。その小さな反応が、本人より先に感情を喋ってしまっているみたいで、私は少しだけ可笑しくなる。けれど、いま笑ってしまったら、さっきまでの空気のやわらかさまで壊してしまいそうで、口元だけそっと引き結んだ。
「……このマンション、ベランダ広いですよね」
話題を変えようとしただけなのに、なぜだか、ふは、と、息だけで笑われた。ずいぶんと唐突な話題転換だったかもしれないと自分でもわかっている。告白の余韻をどうにか散らしたくて、いちばん無難そうなところへ逃げたのだ。
「だね」
短い返事だった。それ以上茶化すこともなく、ただ、自然に受け取る声音だったのが、かえってありがたかった。ホークスもたぶん、私の意図をちゃんとわかっている。わかったうえで、あえて乗ってくれたのだろうと思う。
「でもセキュリティはちょっと甘いし、壁も薄いですよね」
言いながら、肩へかかった羽根の感触をそっと確かめる。軽いのに、思ったより温かい。二人のあいだを、翼がゆるやかにつないでいた。言葉で埋めなくてもいい隙間をその赤い羽根が代わりに埋めてくれているような気がする。
「私は会社から手当てが出てたのでもう少しハイグレードなところにしようか迷ったんですけど」
するとホークスが、ごろん、と小さく寝返りを打った。今度は私の背中を眺めるみたいな向きになる。そこから視線を感じる。露骨ではないのにちゃんとわかる視線だった。見られていると思うだけで、背筋のあたりが少し落ち着かなくなる。
「手当て、いいなあ〜。俺は自腹だよ。ここは」
��ここは�≠ニいう言い方に、いろいろな含みがあった。ナンバースリーヒーローの収入で自腹、ここは、なんて言われると他にもいくつか拠点があるのだろうと、自然に思ってしまう。私は何となくその先まで口にしないほうがいい気がした。気がしたのに、結局、好奇心のほうが少しだけ、勝ってしまった。
「すごいところ借りてる人も多いんですか?プロヒーローって」
「いるいる、ペントハウス仕様とかね。だいぶ、贅沢」
ホークスは、肩越しに笑う気配を見せる。その言い方には、羨ましさより、どこか他人事めいた響きがあった。彼くらいならそういう場所だっていくらでも借りられそうなのに、と思う。けれどそのことはあえて言わないでおくつもりだった。つもり、だったのに……。
「ベランダの広さ重視で選んだらさ、ここしか、なかったんだけどさぁ?」
「でも……ホークスくらいのヒーローになると、マンション、何個か借りてたりするものなんじゃないですか?」
言わないと決めたことほど、どうしてあっさり口からこぼれてしまうのだろう。自分でも自分に呆れる。ホークスは、少しのあいだ黙っていた。
「……まあ、拠点は他にもあるけど」
歯切れの悪い返事だった。いつもの滑らかさがそこだけ少し途切れる。彼は翼を持ち上げて目元まで隠した。顔は見えなくなったのに、声だけが夜の中へ残る。
「ここは——普通の家が欲しくて借りたからね」
普通の家。その言葉は、思っていたよりずっと静かに胸へ落ちてきた。羽根を休められる場所。カメラのフラッシュも歓声もなくて誰かの理想像としてではなく、ただの��ホークス�≠ニして呼吸できる場所。たぶん、そういう意味なのだろう。たしかに、このマンションみたいな、ごく普通の人たちが当たり前に出入りしている場所に、あのウイングヒーローが住んでいるなんて、誰も思わない。そして、その隣に私が引っ越してきたのはおそらく偶然だ。少なくとも彼の計算ではない。
……たぶん。
「そう、なんですね……」
自分でも驚くほど静かな相槌だった。詮索も、同情も、そこへ余計な意味を足そうとする気配もないただ受け取っただけの声。そういう返し方がかえってホークスの胸へ沁みたのかもしれない。翼の下から、ふ、と小さく笑う気配がした。
しばらく二人とも黙っていた。虫の声と遠くの道路を走る車の音だけが、夜を埋めていく。翼に包まれたこの小さな空間は狭いのに、不思議と、息苦しくなかった。むしろ外の世界から少しだけ切り離されているみたいで、思っていたより落ち着く。するとホークスが剛翼を少しだけ下げて、片目だけを覗かせた。そうして、猫みたいな目でこちらを見る。
「ねえ、三角座り、足痺れない?」
「いえ。意外と楽ですよ」
「ふうん?」
「こう、膝を抱えてると落ち着くというか」
私は膝を少し抱え直す。ホークスはその姿勢のまま、じーっと私を見る。まるで、珍しい生き物でも観察しているみたいな目つきだった。
「胎児みたい」
まさかの感想が、それだった。ロマンチックの欠片もない。でも、声だけは妙にやわらかいから困る。からかっているのか、ただ、思ったことをそのまま言っただけなのか、その境界がまた曖昧だった。彼は、少し考えるように間を置いてから声を落とした。
「まあ、わからんでもないけど」
「……」
「俺もたまにやるよ、それ」
赤い羽根に包まれてベランダで三角座りと寝転がる男。我ながらずいぶんと、妙な光景だった。端から見たら、かなり珍妙だろう。時間帯がもう少し早ければ、誰かに通報されてもおかしくなかったかもしれない。それなのに私はその可笑しさごと、この時間を妙に愛おしいと思い始めている自分に気づいてしまう。隣人と呼ぶにはもう少し近い。恋人と呼ぶには、まだ少し早い。その中途半端な場所に今の私たちはたしかに一緒にいて、しかもそれが思いのほか、心地よかった。
「え、ホークスの三角座り? なんか、可愛い。想像したら」
言った途端、ホークスが、がばっと身を起こした。目を見開いて、まるで信じられない言葉でも聞いたみたいな顔をしている。
「可愛い!?」
たぶん、今日いちばん大きな反応だった。好きだと告げたときより、よほど動揺しているように見えるのが、なんだか可笑しい。ホークスはそのまま身体を起こし直し、私の前にしゃがみ込んで目線の高さをきっちり揃えた。月明かりの下でもはっきりわかるくらい、頬がじんわり熱を帯びている。
「今の、もう一回言ってみて」
真顔だった。冗談で返しているのではなく多分本気で、聞き返している。私は少し怯みながら、でも言わないほうが変に思えて小さく繰り返す。
「え……? か、かわいい……?」
するとホークスは、両手で自分の頬を挟んだ。「やば」と、短く、それだけ。耳どころか、首の後ろまで、赤かった。「かっこいい」ではなく、「かわいい」が急所だったらしい。二十代の男の人に対していちばん効くところを、無自覚に撃ち抜いてしまった感じがある。私はとうとう、堪えきれず、くすっと笑った。
「変なヒーロー......」
その笑いはたぶん今日初めて心から自然に出たものだった。自分でも驚くほど何の引っかかりもなく、するりと外へ出てきた。その瞬間、彼は、私の顔を見たまま、ぴたりと動きを止めた。頬に添えていた手が行き場を失ったみたいにするりと落ちて、口だけが、わずかに開いたままになる。ぽかん、という音がそのまま似合う顔。なんとも間の抜けた顔で『速すぎる男』の面影が、きれいさっぱり消えている。
私が「ん?」と首を傾げると彼はようやく息の仕方を思い出したみたいに、喉を鳴らしてから、小さく呟いた。
「……かわい」
それだけ絞り出して、次の瞬間、がくっと前へ倒れこむ。私の膝へ額がぶつかりそうになって、ぎりぎりのところで止まった。目の前に、金色のつむじがある。鳥の羽毛みたいに、ふわふわした髪が、重力に従って少し乱れていた。ホークスはそのまま顔を伏せて動かない。私から見えている耳だけが見事なくらい真っ赤で、翼もぴくりとも動かない。振動を感じ取る機能まで止まってしまったみたいにベランダ内が、しんと静まり返る。それがあまりにも可笑しくて、でも、可笑しいと同時に愛おしくもあって私はほんの少しだけ声をやわらげた。
「ホークスって顔には出ないのに、すぐ耳が赤くなりますよね」
びくっ、とホークスの肩がおもしろいくらいに跳ねる。そして顔を伏せたまま、くぐもった声が返ってきた。
「……観察すんの、やめてもらっていい?」
自分は散々、人のことを見てくるくせに……。そう言い返したくなったけれど、いまは、やめておいた。多分これ以上つついたら、本当に飛んで逃げるかもしれないと思ったから。私はふう、と息を吐き、そっと立ち上がる。
「そろそろ、中、戻りますね」
その瞬間ホークスがぱっと顔を上げた。ほんの一瞬だけ——本当に一瞬、まるで置いていかれる子犬みたいな目をする。けれど、次の瞬間には、それを何事もなかったみたいにすぐに引っ込めていつもの顔へ戻ってしまう。そういう切り替えの速さまで含めて、この人はやっぱり他の誰よりも早いと思う。
「ん。そだね……冷えるし」
少しだけ咳払いして言った、その取り繕い方がかえって、可笑しい。私は、ガラス戸の前で立ち止まって振り返った。そして「あの……」と少し迷ってから続ける。
「また、ベランダでお話し、してくれますか」
ホークスは一瞬、きょとんとした。それから、すぐにあの見慣れた笑顔へ戻る。ただ目尻だけがいつもよりも少しだけ下がっていた。嬉しいのを隠しきれていない素直な顔だった。
「もちろん。毎日でも」
たぶん本人も毎日はさすがに無理かもしれないことくらい、ちゃんと、わかっている。わかっていて、それでもそう言わずにはいられなかったのだろう。私は思いがけずくすっと笑ってしまう。
「ホークスも、ゆっくり休んでくださいね」
そう言うと彼は地面に座ったまま「はーい」と気の抜けた声で返して、ひらひらと、手を振ってみせた。相変わらず間の抜けた返事のはずなのに今日はそれがやけに優しく耳に残る。
私がガラス戸を閉めかけた、その直前だった。背中に、声が届く。
「おやすみ、名前ちゃん」
ぱたん、とガラス戸が閉まる音。間を置かずに隣のベランダへ戻る気配がして、最後に鍵の回る乾いた音がした。それきり、音は途切れる。
リビングへ戻った私は、その場に立ったまま、しばらく動けなかった。さっきまで、三角座りをしていた名残みたいに膝だけが行き場を失って、どうにも据わりが悪い。足は痺れていないのに、胸の奥だけが落ち着かなくて、脈打つ音がやけに大きい。静まり返った部屋の中で、それだけが、私ひとり分の存在証明みたいに、しつこく鳴っていたのだった。