カーテンの隙間から差し込んだ光が、キッチンテーブルの上に、細い一本の線を、引いていた。白くて音のない静かな朝。空気はまだ夜の名残を少しだけ含んでいて、部屋の中を歩くたびに床の冷たさが素足にじんわり沁みる。
午前七時。今日は、マンションのゴミ出しの日だ。部屋を出てエレベーターホールへ向かう廊下を曲がったところで、見覚えのある金髪が視界に入った。隣人さんはゴミ袋を片手に提げて、もう片方の手でスマホを操作している。完全に部屋着で、グレーのTシャツに、下は少し緩めのスウェット。テレビの中での見慣れたヒーローの輪郭はそこになくて代わりにちゃんとこのマンションの一室で生活している男の人の朝があった。左腕には室内でもつけているらしい少し太めのシルバーチェーンのブレスレットがひとつ。何気ない格好なのにその何気なさまで妙に似合ってしまうのが悔しい。
私に気づいた隣人さん——ホークスがスマホの画面から顔を上げた。ぱっと浮かべた笑顔はベランダで向けられるものとは少し違う。もっと外向きで、もっと整っている。いわば『ホークス』の顔。ただし、完璧ではなくて、せいぜい八割、といったところだ。
「あ、おはようございまーす。……奇遇ですね」
やけによそ行きの声だった。どう考えても偶然を装っている言い方であまりにもそれらしいからかえって白々しい。
「おはようございます。奇遇ですね」
思わず、こちらまでよそ行きが伝染する。彼の目が一瞬だけ宙を泳ぎ、それから、堪えきれなくなったみたいに、ぷっと吹き出した。
「ちょ、やめて。真似せんで」
その言い方でようやく少しだけいつもの調子に戻る。私もつられて小さく笑った。自然と並んでゴミステーションへ向かいそれぞれ袋を放り込む。ホークスのほうはきれいに分別されていた。生活が雑そうに見える瞬間は確かにあるのに実際は妙なところで几帳面だ。彼は「んー」と小さく唸るみたいに伸びをしながら横目でちらりと私を見る。
「今日の予定は? なんかあります?」
あまりに自然な聞き方で、一瞬だけ返事が遅れた。この人はときどきこうやって他人の生活圏にするりと入り込んでくる。
「仕事ですよ。普通に」
「そっか」
「——夜は……軽く、同僚と食事に……」
彼が短く頷いた、そのあとで。なぜか私のほうから、余計な情報を足してしまう。間が空いた。自分でも変な間だとわかるくらいに。その瞬間、横目でもわかるほどホークスの耳がぴくっと動いた。本人より先に、翼や耳のほうが感情を喋るのだから、この人は本当にずるい。それから、声の調子が、ほんの少しだけ変わる。
「へえ。同僚さんと、食事」
「はい」
「……お酒、出る感じで?」
一語ずつ間を置きながら確認するみたいな言い方だった。冗談めかしているふうを装ってはいるけれど声の奥はちゃんと本気だ。知りたいという欲がそのまま滲んでいる。言葉の運びは軽いのに視線だけがやけに真剣で、そこに含まれる探りの色を隠そうともしていなかった。
「……どう、でしょうね」
わざと曖昧に返すと、ホークスは一瞬だけ私を見る。その視線が値踏みするというより、反応を待っているみたいで妙に落ち着かない。それから間を詰めるみたいに、次の質問を重ねてきた。
「仕事、何時に終わるの?」
「定時で上がれれば、六時半ですね」
「なるほど? そのあとに食事会?」
「ええ、まあ……はい」
その返事を聞くと同時に彼はポケットからスマホを取り出す。親指が画面を滑る音が朝の静けさの中で、やけに響いた。画面を覗くつもりなんてなかったのに、視線が勝手に、その手元へと吸い寄せられてしまう。
「了解」
彼は短く言って、そのまま操作を続ける。その様子があまりにも自然で思わず口が先に動いた。
「もしかして……私の予定、把握したいタイプのヒーローですか?……なんちゃって」
少しだけ笑ってそう付け足すと、ホークスは、スマホから視線を上げないままで、口角だけを、わずかに持ち上げる。そうして、ほんの一拍ほど遅れて、ちらりと目だけでこちらを見た。
「なんちゃって、って何」
「……」
「かわい」
息をするみたいにさらっと言うから質が悪い。心臓のほうが勝手に反応してしまうのを顔に出さないようにするのが精一杯だった。彼は打ち終えたらしいスマホをポケットへ戻す。その一瞬だけ見えた画面は、たぶん、カレンダーだった。そうして彼はゴミステーション脇の壁にもたれかかりわざとらしいほどに、関係ない方向を眺めながら続ける。
「把握したいタイプ、っていうか……」
そこで、言葉を選ぶように間が落ちる。無意識なのか、背中の羽根の先が、そわそわと落ち着きなく動いていた。
「夜の食事、男の人?」
あまりにも直球でこちらの思考が一瞬止まる。心の準備も何もないところへ投げ込まれた問いだった。「いえ、女性です」と、自分でも妙に律儀だと思いながら答えると、彼は、「ふうん?」と小さく鼻を鳴らした。
「まあ、食事というより……飲み会、ですかね」
二人そろって同時に「あ」と言いかけたような空気が流れる。視線が一瞬ぶつかってどちらともなく慌てて取り繕った。ホークスが小さく咳払いを一つする。それから声のトーンが、ほんの少しだけ軽くなる。
「やっぱ飲むんだぁ」
「あはは……」
「食事込みの、飲み会ね」
「ですね……」
その確認が、なぜか何度も重なる。ホークスは少しだけこちらに顔を向けて、今度は、逃げ場を与えない距離感で言った。
「名前ちゃんさ、案外お酒弱い感じだし。ほんと気ぃつけてくださいよぉ?」
隠す気がないのか隠せていないのか、その両方なのか。少なくとも前みたいなことはもう二度と繰り返してほしくないのだろう。それが、純粋な保護欲なのか、独占欲に近いものなのか——自分でも、まだうまく名前がつけられないのかもしれない。ただ、その声が思った以上に優しくて胸の奥が静かにざわついた。
「はい。飲みすぎないように……気をつけます」
そう答えた途端じろりと見下ろされる。改めて並ぶと彼との身長差がはっきりしていた。距離は変わっていないはずなのに、視線だけで囲われる感じがする。
「また潰れたら次は、本気で迎えに行きますからねー?俺」
あまりにも自然な言い方だった。前提として、もう迎えに来る気でいるような声音。
「……え、今度こそ連行されちゃう未来ですか」
「連行て、人聞き悪いなあ」
私が半分冗談、半分本気で言うとホークスは、にっこり笑って、そう返した。そして、そのまま少しだけ肩をすくめて。
「どっちかっていうと、保護、でお願いします」
言い換えただけで、中身はほとんど、変わっていない。それでもその言葉の選び方がこの人らしくて、私は思わず笑ってしまう。ホークスはその反応を見て満足したみたいにふっと息を抜いた。それから何かを思い出したように「あ、そうだ」と小さく声を上げ、ポケットから小ぶりの紙袋を取り出して、こちらへ差し出してくる。
「はい」
反射的に受け取って中を覗くと入っていたのはハンドクリームだった。無難だけれど、無難すぎない。コンビニでついでに取ったという感じではなくて、ちゃんと棚の前で少し悩んだ形跡のある選び方の物。
「昨日もらったサラダのお礼」
さらりと言ったあと彼は少しだけ目を細める。
「ハンドクリーム探してるって言ってたでしょ」
「え、こんないい物……サラダなんて、残り物で作ったのに」
私は思わず紙袋を見下ろす。ホークスは壁からようやく背を離し、そのまま私に背中を向けた。ひらひらと、片手だけを軽く振る。
「残り物だろうが何だろうが、美味かったんで」
本当に、さらっと言う。きっとどんな女の人が聞いても少しくらいは胸を揺らしてしまうような台詞だと思う。たぶん特別な意味を持たせる気はない。ただの感想。ただの事実。けれどこういう一言が胸の奥にじわっと残ってしまうのを、この人は、どこまで自覚しているのだろう。
去り際の背中を見つめる。剛翼の隙間から蜂蜜色がちらりと覗いた。振り返らないのにこちらがまだ立ち尽くしていることを、なぜか、ちゃんとわかっている背中だった。
「使ってみて合わなかったら言ってくださーい。別の探すから」
「いやいや……きっと合いますよ。だって、ほら成分。私が探してたのと、ドンピシャで」
慌てて彼の背中を追い、紙袋から箱を少し持ち上げて見せると思った以上に自分の動きが大きくなってしまって声まで弾みそうになる。その様子を横目で捉えたホークスが、ふっと目を細めた。照れ隠しとも違う、でも完全に無関心でもない、そんな、中途半端な間を含んだ視線だった。その表情はほんの一瞬だけ、得意げだった気がする。わざと誇るほどではないけれど「ほらね」と胸の内で小さく頷いているような、静かな満足感が、滲んでいる。
「ドンピシャ、って。……まあ、でしょ?」
彼は視線を逸らし口元だけをゆるめて、抑えた声で言った。その言い方がなんだか可笑しくて、私は思わず息を漏らす。
「ホークス、ありがとうございます」
数日前のベランダでの��告白�≠�境に、距離がリセットされたわけではないし、すべてが塗り替わったわけでも急に関係に名前がついたわけでもない。それでも朝のゴミ捨て場で普通に顔を合わせて、こうして言葉を交わせるくらいの場所には戻っていたかった。
昨夜サラダをお裾分けしたのもその延長だったのだと思う。大げさな関係の構築じゃなくても、生活の中にもう一度相手を置き直すための小さなきっかけ。ホークスは、そこに特別な意味づけをするでもなく一度だけ振り返って、にこっと笑った。その笑顔があまりにもいつも通りで、だからこそ胸の奥が静かに、あたたかく揺れた。
「どういたしまして」
「ヒーロー活動、今日も頑張ってくださいね」
そう声をかけるとホークスは一度足を止めて、小さく「んー」と伸びをした。肩が動く拍子に、背中の剛翼が、わずかに持ち上がる。その動きが妙に生活の延長みたいで胸の奥がひとつ、静かにほどける。
「今日は午後からなんよね、パトロール」
何でもない予定の話なのにちゃんと報告として聞かせる声。それから、ちらりとこちらを見る。
「名前ちゃんは? 出勤まで、何する感じ?」
「今日は午前休取ってるので昼過ぎに出ますよ」
答えた瞬間に、ホークスの表情が「お」と言いたげに変わった。ほんのわずかだけ目元が明るくなる。
「じゃあ、午前はゆっくりなんだ」
その声に、ほんの少しだけ別の温度が混じる。口元がほんのり緩んでいる。何かを企んでいる、というほど露骨ではないけれど、少なくとも何も考えていない顔ではなかった。私は、その空気を察して、笑いながら返す。
「ですね。お互い、ゆっくり過ごしましょうね」
するとホークスが一歩だけこちらへ近づいた。距離はほんのわずか。でもその一歩分だけ空気が変わる。「ねえ」と、声のトーンが少しだけ低くなる。蜜色の目が、まっすぐにこちらを捉えた。大事な話を切り出すみたいな顔なのに、たぶん、そこまで大げさなことではない。むしろどうでもいいようで、どうでもよくないこと。この人は、そういう期待を含んだ間の作り方が妙にうまい。そんな彼が、少し首を傾けて言った。
「午前休ってことは……朝ごはん、まだでしょ」
「あ、まだですね」
そう答えた瞬間、彼のポケットの中で手がもぞりと動くのが見えた。言うか、言わないか。一瞬だけ迷ったそのあとの顔。そして結局、言う方を選んだらしい。
「うち来る?トーストくらいしか出せないけど」
「え、いや……悪いですよ」
反射みたいにそう言うと、ホークスが首を傾げる。その仕草が鳥ではなく、やけに犬っぽくて、胸の奥がまた、くすぐられる。
「同じ間取りなのに?」
「え、関係あります? それ……」
思わずそう返してしまってから、自分でも少し可笑しくなる。悪い、というのはたぶん、部屋の広さや設備の話じゃない。朝の流れのまま、隣の部屋へ上がり込んでしまうその親しさへの照れ。それをわかったうえで彼はきっとわざとずらしてくる。私は小さく息をついた。その息の中に困惑と、ほんの少しの期待がきれいに混ざっていた。
「……じゃあ、まあ。おじゃま、しようかな」
「決まりっ」
声がぱっと弾んだ。その反応があまりにも正直で私は思わずまた少し笑ってしまう。喜びを隠すという発想が、この人にはたぶん最初からない。
「あ、じゃあ……取引先からもらった、オレンジジュース、持っていきますね」
そう言った瞬間ホークスの顔が文字通りぱっと明るくなった。「オレンジジュース最高!」と、語尾が跳ねる。子どもみたいに素直で、朝のテンションのまま、口から零れた感じだった。そんなところまで可愛がらせにくるのはずるいと思う。
二人でエレベーターへ乗り込む。ホークスが、最上階のボタンを押す。同じ階に住んでいるのだから、行き先が同じなのは当たり前なのに、その指の動きを目で追ってしまう自分が少しだけ可笑しい。狭い箱の中に、朝の静けさがそのまま持ち込まれる。数秒の沈黙。階数表示だけが、静かに数字を更新していく。
何か言葉を交わしてもよさそうなのに、あえて何も言わずに並んでいる、その沈黙が不思議と、居心地よく感じられた。気まずさがない、というただそれだけの事実が今の私の生活にはまだ少しだけ目新しくて、噛みしめるみたいに、意識してしまう。言葉がなくても成立する時間があるのだと、ようやく身体が覚え始めた——そんな静かな手応えが、胸の奥にゆっくりと残っていた。
いったん私は自分の部屋へ戻り冷蔵庫からオレンジジュースを取り出す。ドアを閉めて、数歩で隣の玄関へ。インターホンを押す。
ピンポーンという音が廊下に響いた直後、勢いよくドアが開き、その途中でぴたりと止まった。チェーンがかかったまま、細く開いた隙間から、顔半分だけが覗いている。その目がきらきらしていた。もしも本当に尻尾というものがあったら、たぶん今ごろ、ちぎれそうな勢いで振れている、そんな顔だった。しかも、スリッパに履き替える余裕もなかったらしい。裸足のまま迎えに出ようとして、途中でチェーンを思い出したのだろうと思うと、少しだけ滑稽でもあった。
「はいはい、いらっしゃーい」
「……」
「ちょっと待ってね、チェーン——」
内側からがちゃがちゃと金属の鳴る音がする。少しもたついてからようやく外れ、ドアが大きく開いた。
「ホークスも、チェーンかける派なんですね」
「誰かさんの影響でね。真似してみたと」
私が軽く言うとホークスはそう返してへらっと笑った。その笑顔を私は、じとっとした目で流し見しながら玄関へ入る。
部屋の中は、思っていた以上に片づいていた。整っているというより余計なものがない。生活感が薄い。男性っぽくシンプルなソファとローテーブル、大きめのテレビ。キッチンカウンターには黒いコーヒーメーカーが一つだけ置かれている。冷蔵庫の脇に、なぜか、焼き鳥のタレらしき瓶が三本並んでいるのを見つけて、そこでようやく、この人もちゃんと人間なんだ、と思ってしまう。妙にそこだけが生活の匂いをしていた。部屋全体には、清潔な香りが漂っている。柔軟剤とも石鹸とも少し違う、でも確かにこの人の部屋だとわかる匂い。羽毛みたいに軽くてどこかあたたかい。
ホークスが、先導するみたいに私の前を歩く。スリッパを引っかけた足音がぱたぱたと間の抜けた音を立てる。その後ろ姿を見ながら私は小さく息を吐いた。
朝のゴミ捨ての延長でここまで来てしまった。その事実が少しだけ、現実感を失わせる。けれど不思議と不安はなかった。今はただ、この静かな朝の続きに身を預けているだけだった。
「散らかっててごめんねー」
そう言われて、思わず部屋を見回す。けれど、見ている限り、散らかっているとはとても言えなかった。ただ暮らしの痕跡が少ないだけだ。ここで長く生活しているというより必要なものだけを置いて、ときどき戻ってくるための場所。そんな印象が強い。ホークスは、トースターに食パンを差し込みながら、肩越しにこちらを振り返る。
「適当に座ってて〜。ソファでも床でも、好きなとこ」
「ありがとうございます」
そう言いながら、私は改めて部屋を見回した。
「いや、全然……片づいてますよ。綺麗だと思います。……男性にしては」
余計な一言だったかもしれない、と思ったのは口に出したあとだったけれど、ホークスはトースターのつまみを回しながら苦笑するだけだった。
「物がないだけ」
たしかに、その通りだった。趣味らしいものがほとんど見当たらない。写真もないし雑誌も積まれていない。ゲーム機が、出しっぱなしになっているわけでもない。唯一それらしいのはソファの上に無造作に立てかけられた、赤いブラシくらいだった。たぶん、翼の手入れ用だろう。そういうものだけが辛うじてこの部屋の主の輪郭を教えてくれる。
ホークスは、棚からグラスを二つ取り出して、そこへオレンジジュースを注いだ。動きに迷いがない。生活の気配は薄いのにこういうところだけ妙に手慣れている。
「はい、どうぞ」
受け取って覗くとグラスの中には氷まで入っていた。いつ用意したのだろう。氷の音は聞こえなかった気がしたのに。それでも、そういう細かいところだけ、やけに周到なのも、この人らしい。ちょうどそのときトースターがちん、と鳴った。こんがり焼けたトーストが二枚皿にのせられる。バターとジャムが添えられただけのごく最低限の朝食セット。けれどこのくらいの気負いのなさが今の私には、ちょうどよかった。もし何か特別なものを出されたら多分もっと落ち着かなかったと思う。
ホークスは私の向かいに腰を下ろし、オレンジジュースをひとくち飲んだ。二人で黙ったまま、トーストを齧る朝。静かだった。テレビもついていない。誰かの部屋で朝ごはんを食べているのに不思議なくらい、気まずさがない。そのかわり、くすぐったいような、少しだけ所在の定まらない落ち着かなさが、部屋の隅に薄く、残っている。やがて、ホークスがふと口を開いた。
「名前ちゃん、休みの日って普段なにしてんの」
「休みの日……? えっと、何してたっけ……」
「んー? 何してたっけ?」
「んー、買い物があれば出ますけど、基本は引きこもりですね」
少し考えてからそう答えると、ホークスはトーストの耳をちぎりながら、すぐに「わかる〜」と頷いた。
意外な共感だった。ヒーロー活動や、ファンに囲まれた生活をしている人の言葉とは思えなくて私は多分そのまま、顔に出てしまったのだろう。ホークスはそれに気づいてグラスを指でくるりと回しながら少し笑った。
「俺も、何もない日はずっと家いるよ。ベッドの上で、天井見てます」
「あ、わかる!ぼーっとしたい派です私も。読書とか、絶対しない」
思わず、前のめりで返してしまった私を見て、ホークスがグラスを置き、「ほんとに?」と少し目を見開く。純粋に、面白がっている声だった。
「じゃあ何して、ぼーっとしてんの」
質問の裏にたぶん変な意味はない。ないのだろうけれど、この人はこうやって無邪気な顔で妙なところを突いてくる。私は一度グラスを口元まで持ち上げてから、少し考えるふりをした。
「……瞑想? いや、妄想?」
わざとらしく、それでも淡々と付け足した瞬間ホークスが固まって、次の瞬間、ごふ、と小さく咽せた。
「うそです、うそ」
慌ててそう言うと彼はまだ少し咳き込みながら目だけで「いや、それ、ちょっと本当でしょ」と言っていた。私はわざと平然とした顔でトーストを齧る。
「何もしません。ただ、ほんとにぼーっとしてるだけです」
「一緒だ」
ホークスは口元を拭ってから短く返して、ようやく息を整えた。妄想の件をそれ以上、追及してこなかったのは優しさなのか、それとも、あとで使うために取っておいているのか。たぶん、後者だろう。ホークスは最後のひと口を食べ終えるとソファの足を背もたれにして身体を預けた。そのまま視線をふっと天井へ向ける。数秒。私も同じように視線を上げる。天井そのものというより、そのあたりの空間を、二人してぼんやりと眺めていた。何も話していないのに会話が途切れた感じがしない。こういう沈黙に、無理をしなくていい相手だと気づく瞬間がいちばん危ないのかもしれない。私は、天井の白さを見つめながら、そんなことを、ぼんやり考えていた。
「……いいよね、これ」
「いいですね。平和って感じで」
そう返すとホークスは目を閉じたまま、ふっと短く息を吐いた。その吐息は、深呼吸というほど大げさではなく、でも、意識して力を抜いた人のそれで、肩の線がほんの少し緩むのがわかった。
「なんかこういうの、久しぶりでさ」
独り言みたいな声音だった。誰かと向き合っていても無理に言葉を探さなくていい時間。沈黙が沈黙のまま気まずさに変質しないこと。その静けさを「いいな」と思える相手が目の前にいる事。たぶん、そういう意味合いが、今の短い一言にはいくつも折り重なって含まれていたのだと思う。
それでも彼は、それ以上を言葉にするつもりはなさそうで、あえて説明の扉を閉めたままにしていた。冷蔵庫の低いモーターの音。時計の秒針が刻む規則正しい間。遠くの通りから滲んでくる、街のざわめき。二人分の呼吸が同じリズムで部屋に漂う。それだけでこの空間は不思議と満ち足りていた。
やがてホークスがゆっくりと目を開ける。そのまま私を見る。考え事をしているわけでもどこか遠くを見ているわけでもなくただ、こちらを見ていた。その視線のまっすぐさに、理由もなく胸の奥が、むず痒くなって、私は耐えきれずに視線を落とす。
「……ヒーロー、忙しいですもんね」
口に出した瞬間、なぜか少し気まずくなった。「忙しい」という一言の中にこの人の生活の大半を雑に押し込めてしまった気がしたからかもしれない。人に見られ人を助け人より先に動き続ける日々を、その一語で片づけてしまうのはどうにも乱暴な気がした。ホークスはそんな私の居心地の悪さまで拾い上げたみたいに、ほんの一拍置いてから、肩をすくめる。
「まあ、ね。忙しいっちゃ忙しいです」
それだけだった。けれど、その言い切らなさの中に、これ以上は踏み込ませない、という選択がはっきり滲んでいた。たぶん彼にとっても、その話題は、軽く触れるには少し重いのだろう。
ホークスはふっと息を吐いて立ち上がり、キッチンへ向かう。新しいグラスに水を注ぎ、それを手に戻ってくると、何でもない仕草で、私に差し出した。
「はい。口直し。空気、ちょっと乾いてるし」
さりげない気遣いだった。会話の切れ目が重く沈み込む前にさらりと掬い上げて水一杯で流してしまう。その手際は、場数を踏んできた人のものだ。まだ若いのに、と変に感心してしまう自分がいる。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。どうぞ、ごゆっくり」
そのあと、ホークスはそのまま食器まで洗ってくれた。「そのまま座ってていいですよ」と軽く言われて私は素直にソファへ移動する。こうしてこの部屋にいて、この時間を、当たり前みたいに受け取っている自分に途中で気づいてほんの少しだけ恥ずかしくなった。
しばらくして洗い物を終えたホークスが戻ってきて、ごく自然に私の隣へ腰を下ろす。そこに、理由を探す必要がないみたいな、ためらいのない座り方だった。その距離感が、なぜだか胸の奥に静かな余韻を残したまましばらく消えなかった。
「あ……あの」
「んー?」
気の抜けた相槌だった。返事を待つというより呼ばれたから反射的に振り向いた、みたいな声。その軽さに少し救われて、私は続きを口にする。
「ルームフレグランスとか、使ってます?」
「ん?」
「えっと……すごく、いい匂いだなって」
言い切るまでにほんの一瞬だけ迷った。余計なことを言っていないだろうか、という逡巡。でももう遅い。ホークスは一瞬だけきょとんとして、それから自分の腕を持ち上げくんくんと嗅いだ。
「……え、俺?」
どうやら、本気で、心当たりがなさそうな反応だった。その無自覚さが、少しおかしくもあり、やっぱり、ずるいなと思う。
「ルームフレグランスは特に、使ってないけど」
そこで、剛翼がふわりと揺れた。空気を含んだ羽根が、微かに音を立てる。ホークスは、はっとしたように眉を上げて、小さく声を漏らした。
「あー......羽かも。さっき洗ったばっかなんで」
「えっ!羽の手入れで、こんなにいい香りするんですか? そりゃあ、モテるのも納得……」
「はは。いや、そこは関係ないでしょ」
思わず身を乗り出して言った私に即座に返ってくる否定。けれど否定のポイントが微妙にずれている気がして、余計に面白い。ホークスは一度、翼を広げかけて、途中で少しだけ動きを止めた。照れているのだと思う。けれど次の瞬間、何かを振り切ったみたいに、ほんの少しだけ翼を開いてみせた。赤い羽根が朝の光を受けて淡く透ける。生き物特有のやわらかな存在感がそこにあった。
「……触ってみる? 今、だいぶさらさらだよ」
あまりにも軽い調子で言うものだから、反応が遅れる。私は「え……」と剛翼と彼の顔を交互に見た。
「そんな、なんか……贅沢な気がして……」
「そんな大したもんじゃないですよ?」
「……お金とか、取りませんよね?」
一瞬の沈黙。それから、ホークスはきょとんとした顔のまま次の瞬間、けらけらと笑い出した。
「取るわけないでしょ。何の料金、それ」
そう言う間にも彼はまだ笑っている。ひどい。かなり、本気で言ったつもりだったのに……。
「はいはい。じゃあ、今だけの特別サービスってことで」
「じゃ、じゃあ……失礼して……」
遠慮がちにおそるおそる指先を伸ばす。触れた瞬間、思わず「……わあ」と、声が漏れた。想像していたより、ずっと繊細だった。ただ柔らかいだけじゃない。芯があって指先を押し返す確かな感触がある。羽毛みたいに軽いのに、ちゃんと、��生きている�≠烽フだと、触れた一瞬でわかってしまう。
ホークスは、目を伏せていた。長い睫毛が影を落とす。触れられているあいだ彼はほとんど動かない。呼吸も、ほんの少し浅くなっているように見える。翼は、彼にとって敏感な器官だ。感覚の集まる場所に他人の指先が触れている。その感触がどんなふうに届いているのかはたぶん、本人にしかわからない。私は羽根の感触を確かめながらなぜだか胸の奥が静かにざわつくのをどう扱えばいいのか、わからずにいた。
「……名前ちゃん」
低い声だった。いつもの軽やかさが、そこだけすっと引いている。ふざけた調子も、冗談めいた余白もない。呼ばれた名前が、思いのほか静かに胸へ落ちてきて、私は指先を止めた。
「そこ、ちょっと……くすぐったい」
「あっ、ごめんなさい……つい」
慌てて指を引こうとしたその瞬間だった。ホークスの喉の奥から、ふっと、息が零れる。音とも吐息ともつかない、短い呼吸。私は反射的に顔を上げる。彼は、目を開けていた。少しだけ潤んで見えたのは眠気のせいではない。たぶん、もっと別の理由だ。
「……いや、いい」
「……」
「やめなくて、いい」
言い直すみたいに語尾を整える。その慎重さがかえって本気を感じさせた。一瞬、迷った。このまま触れていていいのかという遠慮と、もっと、知りたいという好奇心が胸の中で拮抗する。
結局、勝ったのは後者だった。私はもう一度、おずおずと指先を伸ばす。そのまま声を落として息をひそめるみたいに言う。
「すごい。先端って、こんな感じなんですね」
「……」
「繊細だなぁ……」
翼の先をなぞるたび、赤い羽根がごくわずかに震えた。鳥の羽とはやっぱり違う。ただ軽いだけじゃない。しなやかで温度があって、どこか生き物の肌に近い。触れるたび、そこに確かに神経が通っているのが指先から伝わってくる。
ふと彼の喉仏が上下する。黙っている。それが妙に印象的だった。いつも言葉を切らさない人が今は何も言わない。耳は赤くならない代わりに、首筋がうっすらと染まっている。まるで、声より先に、身体のほうが反応してしまっているみたいだった。
「……根元のほうは、もうちょい敏感なんで」
わざわざそんな申告をしてくるところが、この人らしいのか、そうでないのか。親切なのか不親切なのか判断に困る言い方だった。やめてほしいのか。それとも、触るなら覚悟して、ということなのか。そのどれとも取れる、曖昧さ。
「根元……触ってみても、いいですか?」
「……」
「どう生えてるのか、純粋に気になって」
そう言うとホークスは一瞬だけ天井を仰いだ。それから、ふう、と長く息を吐く。諦めたみたいでもあり腹を括ったみたいでもある少し大げさな呼吸だった。
「……どうぞ」
最後のそれは覚悟を決めたような声色だった。大袈裟なくらいなのに本人は本気らしい。戦場に出る前のヒーローみたいな顔でそんなことを言うものだから私は思わず笑いそうになるのをぐっと堪えた。おそるおそる翼の付け根へ指を伸ばす。先端とは、まるで違う感触だった。やわらかさの奥にもっと生身に触れていると実感させる手応えみたいなものがある。
「……わ、」
「……」
「すごい。本当に、肉体と同化してるんですね」
羽毛の軽さというより皮膚と筋肉の延長みたいな熱と弾力。思わず、息を呑んだ。感心したまま視線が少し逸れる。
「ていうか、ホークス……」
「……はい?」
「背筋、すごい。服の上からでもわかる」
その瞬間、彼の身体が、びくりと跳ねた。翼の付け根に向けていたはずの意識が、制御を失ったみたいに剛翼全体へ一気に駆け抜けていったのがわかる。
「——そっち?」
完全な不意打ちだったのだろう。脊柱起立筋を褒められる展開は、想定外だった顔をしている。ホークスは無意識みたいに、Tシャツの裾を少し引っぱった。腹のあたりまで持ち上がりかけて、慌てて戻す。それから軽く咳払いを一つ。照れと戸惑いとどう扱えばいいかわからない感情がその小さな動作に全部、詰まっているように見えた。
「仕事柄、ね。飛ぶの、けっこう筋力いるから」
そう説明されると、たしかに、納得はできた。理屈としてはとてもわかりやすい。でも同時に、いい意味でも悪い意味でもあまり深く意識しないほうがいい種類の情報な気がして私は努めて何でもない顔を作る。そして話題を、そっと背中から翼へと戻した。
「根元を撫でると……先端とは、全然違う手触りですね」
「……そう、すね」
返ってきた声が、さっきよりほんの少し弱い。私は、その変化に気づかないふりをして、指先で感触を確かめながら、思わず零していた。
「きれい……」
その一言で、部屋の空気が変わった気がした。彼の動きが止まる。蜜色の瞳が、驚いたみたいに丸く見開かれている。唇が少し開いたまま、そこから言葉が落ちてこない。
きれい——翼に向けて、そう言ってしまった。思った以上に、その言葉は深いところへ刺さったらしい。誰もが「すごい」「便利」「速い」と、評価するものを私はただ、きれいだと思っただけなのに。返事がないことにむしろ私のほうが少し遅れて気づく。私は翼の付け根を撫でていた手を止めて、ホークスの顔を見上げた。
「……あ、ごめんなさい。もう、離しますね」
そう言って離しかけたその手首をそっと掴まれた。力は、入っていない。振り払おうと思えば、簡単に外せるくらいの弱さ。けれど、その弱さのほうが、かえって本気に感じられることがある。
「……もうちょっと」
声は小さかった。彼のよく見せる目だけ笑って誤魔化すあの表情でもない。そこにあったのは、もっと剥き出しの、青年の顔だった。ヒーローの仮面も軽口で逃げる余裕も、今はほとんど残っていない。
手首に伝わる体温が思っていたより熱い。彼は掴んでいた指を、ゆっくりと滑らせた。そうして私の手の平を自分から翼の付け根へ押し当てる。
とく、とく、と。かすかな脈動が、指の腹へと伝わってきた。心臓と同じリズムで翼も呼吸している。妙に生々しくて、それでいて、きれいで、少し、怖い。これは間違いなく彼の一部なのだと今さらみたいに思い知らされる。
「あんまそういうこと……言われたことなくて」
視線は逸れていた。窓の外——遠くのビル群のほうを見ている。横顔の輪郭が朝の光を受けて、白く浮かんでいた。けれど距離だけはいつのまにか、少しずつ詰まっている。私は、ようやくそのことに気づく。
「あ、あの……ホークス」
「ん?」
「ちょっと……近い、気が……」
ホークスがはっとしてこちらを向いた。たぶん無意識だったのだと思う。感情が高ぶると制御が少し甘くなるのかもしれない。赤い翼がばさりとひとつ大きく広がる。次の瞬間、彼は慌てたように、ソファから立ち上がった。ばつが悪そうに、後頭部を掻く。金髪が、ぐしゃりと崩れた。その仕草が、さっきまでの空気を少しだけ現実へ引き戻してくれる。けれど、完全には戻りきらない。まだ、指先には翼の温度が残っていたから。
「……ごめんね」
「い、いえ……」
それきり、言葉が途切れた。沈黙が落ちると、さっきまでの距離の近さがかえって際立つ。何か言わなければと思うのに、どんな言葉を選んでも今の空気をうまく包める気がしなかった。黙っているほうが楽なはずなのに、楽じゃない。結局、先に口を開いたのは私のほうだった。
「……え、えっと。そろそろ……失礼しますね。朝食、ごちそうさまでした」
そう言いながら立ち上がるとホークスは広げてしまった翼を思い出したみたいに、ばたばたと、慌てて畳んだ。赤い羽が数枚、ぱらりと床に落ちる。その音がやけに大きく聞こえた気がした。
「あ、うん。こちらこそ、です」
玄関まで送ってくれる足取りが、妙に、ぎこちない。スリッパを引っかけたまま、私より前へは出ず半歩ほど後ろをついてくる。その控えめさがさっきまでの近さを思い出させてしまって、私は余計に落ち着かなくなる。ドアの前でホークスは立ち止まった。また、後頭部をがりがりと掻く。癖みたいな仕草だけれど、今はあきらかに言葉に迷っている動きだった。そして、その中の言葉を探すみたいにして一度「その……」と間を置いてから。
「また、来て」
目は合わなかった。壁際の消火器あたりを見ている。そんなところに突然興味が湧くわけもないのに、そこへ視線を逃がしているのがあまりにも分かりやすい。
「トーストくらいしか、出せないけどさ」
その言い足し方が、なんだか妙にいじらしい。私は思わず、少し笑ってしまう。
「わ、わたしも……。また、何か作りすぎたら、お裾分けに来ますね」
言いながら、自分でもそれが、立派な口実だとわかっている。それでも、言わずにはいられなかった。そこでようやく、目が合った。ホークスはふにゃっと少し不格好に笑う。さっきまでの気まずさがそのまま残っているのに嬉しさだけは隠しきれていない顔だった。
「……待ってる」
隣の部屋なのだから、待っていれば、そのうち会う。それでも彼は「待ってる」と言った。偶然じゃなくて自分のほうからその時間を手繰り寄せたい、という意思表示みたいに思えてしまう——たぶん。自意識過剰かもしれない。でも今はそう受け取っていたかった。
ドアが閉まる。廊下に静けさが落ちる。三軒先で飼われている猫が、にゃあと鳴いた気がした。自分の部屋の鍵を開ける音。がちゃり。靴を脱ぐ衣擦れ。それからまた静けさ。部屋に入った瞬間私は心の中で盛大に叫んだ。ぎゃー!と、声には出さない。でも、たぶん、そのくらいの勢いで。
午前十時。快晴。マンション最上階。ふたつのドアの内と外でそれぞれ一人の人間が同じように悶えていたことを、互いが知るのはもう少し先の話だった。