午後七時——。繁華街の居酒屋は金曜とも土曜ともつかない週末前の熱気に満ちていた。
 元は女性だけの気楽な飲み会のはずだったのにいつのまにか取引先との合同になっていて、店に着く頃にはもう『そういうもの』として受け入れるしかない流れになっていた。職業柄、こういう予定変更は珍しくない。驚くのにも慣れてしまうと段取りが崩れたこと自体よりその崩れ方にいちいち意味を見出さなくなる。
 テーブルの上ではビールのジョッキが次々空になり枝豆の殻が小皿の上に山を作っていく。笑い声は大きく、話題は雑多で、誰かの仕事の愚痴が誰かの恋愛話にすり替わり、そのまま別の誰かの上司批判へ流れていく。そういう賑やかさの中にいると自分の輪郭まで少し曖昧になる気がした。
 そんな宴の最中、酔った顔で取引先の担当者の一人が私の肩を軽く叩いた。営業の三十代後半、既婚者。悪い人ではない。ふだんはむしろ愛想がよくて、気も回るほうだと思う。ただ、こういう酒の席になると、途端に昭和の空気をまだどこか信じているような無邪気で雑な親しさを発揮するタイプの人だった。

「名字さん、最近どうなの?彼氏できた?」

 いまの時代なら、もう、セクハラの入口に片足くらいは突っ込んでいる質問だと思う。けれど、こういう場にいる人たちはたいていその線引きを曖昧なまま笑ってやり過ごすことに慣れている。案の定近くにいた何人かが関係ない顔をしながらさりげなく、耳をそばだてているのがわかった。自分の名前が会話の中心へ引っぱり出される時のあの逃げ場のなさには何度経験しても慣れない。
 とはいえ、こうした返しにも、もうずいぶんと免疫ができていた。私は深く受け取らずに、軽く手をひらひらと振って応える。

「できませんよ」
「えぇ〜、またまたぁ」
「いや、なんでモテないのかむしろ教えてほしいくらいです」

 笑って流す。冗談で薄める。相手にも踏み込みすぎたと思わせないままこちらも深く踏み込ませない。その場を最短距離で抜けるにはそのくらいの軽さがいちばん都合がいい。すると、向かいに座っていた女性社員が、待ってましたとばかりに口を挟んだ。

「モテないんじゃなくて、名字さんが選んでないだけでしょ」

 妙に的を射たひと言だった。テーブルを囲んでいた他の女性陣がそろってうんうんと頷く。その頷き方に、からかいと半分の本気が混じっているのがわかる。こういう場面で女性という生き物は適当に合わせているようで、意外と、人のことを見ているのだ。

「好きなタイプは?」
「やっぱ年上?」
「落ち着いてる感じの人とか?」
「ヒーローならベストジーニスト推しだっけ?」

 矢継ぎ早に質問が飛んでくる。隣席では経理の同期がいかにも面白がっている顔でハイボールをすすっていた。どうやら助け船を出す気はまるでないらしい。私は、苦笑しながら答える。

「あんまり、年齢は気にしてないです」
「そうなんだ?」
「それより、フィーリング重視というか……」

 言った途端、きゃーだのヒュ〜だのと、意味のないわざとらしい黄色い声が上がる。酒の席ではめずらしくもない光景である。

「フィーリングだってぇ、大人〜!」
「じゃあさ、じゃあさ、今気になる人とかいないの? 職場とかで」

 酔っ払いの追及には遠慮がない。質問そのものよりこちらが困るのを少し楽しんでいる空気さえある。悪意とまでは言えない、でも善意とも呼びづらい飲み会特有の雑な親密さだった。私は肩をすくめる。

「わたし、職場恋愛は、しない主義なので……」

 そう言った瞬間なぜか皆にじとっとした視線を向けられた。なぜ。こっちはそれなりに、無難な答えを返したつもりだったのに、逆に何か隠している人みたいな扱いを受けるのだから理不尽だ。

「それ、逆に怪しいなぁ」
「うん、怪しい怪しい」

 全員の視線が、一斉に集まる。逃げ場がない。グラスを持つ手だけが妙に冷静で、それが逆に、私の代わりに場慣れしているみたいだった。

「じゃあ、職場以外は?」
「出会いとかないの?」

 その質問には思わず息を呑んだ。まさか、隣に住んでます、だなんて当たり前に言えなかった。そんなことを言ってしまった暁には多分、今夜の話題は二時間、それで終わってしまう。しかも、根掘り葉掘り聞かれて、面白半分に膨らまされて最後には本人不在のまま勝手な物語まで作られるのが目に見えている。私は視線を落としグラスについた水滴を指で拭いながら小さく息をついた。

「……ね。それが、ないんですよねえ」

 演技じみた溜め息をひとつ混ぜて返すと、間髪入れずに周囲から「もったいなーい」や「こんな可愛いのに」など、軽く囃すような声がいくつも飛んできた。可愛いという言葉も、こういう場で浴びると褒め言葉というよりも会話の燃料に近い気がする。言われたからって嬉しいわけでもなくかといって、本気で否定するのも面倒で、結局は曖昧に笑うしかない。その曖昧さがまた追及する側にはちょうどいい余白になるのだけれど。
 話題がようやく別の方向へ移るまで結局三十分くらいかかった。合コンを企画してあげようだの今どきはマッチングアプリのほうが効率的だの、最近の若い子はああだの、こうだの。私に関係があるような無いような議論が私を素材にしながら勝手に、転がっていく。人の人生を、酒のつまみみたいにして盛り上がるその手軽さには少し呆れるけれど酒の席というのはだいたいそういうものなのだとも思う。
 相槌を打って笑って適当なところで受け流す。そうしているうちに生ビール三杯がきれいに胃に収まっていた。

 二次会のカラオケは丁重に断って、店を出た。駅に向かう道すがら、外の夜気が火照った頬に、ひやりと触れる。さっきまで、店の中にこもっていた熱気や、アルコールのにおい、笑い声の残響みたいなものが、その一瞬だけで少し遠のいた。
 気づけば季節はもう、秋に差し掛かっていた。昼間はまだ少しだけ夏の名残みたいな暑さが残るのに、夜になると途端に季節だけ先へ進んでしまう。そういう昼と夜のあいだに小さな断絶がある時期。
 酔いで、わずかに足元が心もとない。私は歩きながら無意識に、前髪に触れた。メイクは大丈夫だろうかと、いまさら気にするあたり、自分でもずいぶん中途半端だと思う。誰に見せるわけでもない顔を整えようとしながら駅方面へと向かう。
 そのとき、鞄の中でスマートフォンが震えた。取り出して、画面を見る。通知が一件。送り主の名前を見た瞬間、酔っていたはずの頭のどこかが少しだけ、はっきりする。ホークスだった。



ホークス

今日のパトロール終わり!
帰り遅くなる?気をつけてね









 送信時刻は二十一時半。たぶん、パトロールの合間か、終わったばかりのタイミングで打ったのだろう。その短い文面だけでさっきまでいた飲み会の雑多な熱から意識が急に別の場所へ引き戻される。誰の声が大きかったとか、誰が何を言っていたとか、そういう、どうでもいいことが一度に背景へ退いて画面の中のたった数行だけが不自然なくらい、くっきり見えた。



名前

お疲れ様です
飲み会が終わって
これから帰宅予定です









 事実だけを淡々と送信すると、三秒も経たないうちに既読がついた。そしてさらにその一秒後に返信が返ってくる。あまりにも早い。早すぎる。まるで画面を開いたまま私の返事が届くのを待ち構えていたみたいで、そう考えた瞬間、胸の奥がほんの少しだけ騒がしくなった。



ホークス

けっこう飲んだ?
迎え、行こっか









 軽いけれど、投げやりじゃなくて。様子を探るみたいな間の取り方で。心配してるのを、わざとさらっと隠したような言い回しだった。思わず、小さく息をつく。こういうところがこの人はときどき、やさしいを通り越して心臓に悪い。



名前

今日はそんなに飲んでません
一人で帰れますよ


ホークス

了解。
でも気をつけてね









 そのあとにスタンプがひとつ続く。翼でサムズアップしている鳥のキャラクターだった。ほとんど自画像みたいな顔をしている。本人が作ったのではと疑いたくなるくらい、既視感のある生き物だった。私は無意識に少しだけ笑って、スマホを鞄へとしまった。電車に揺られて二十分。最寄り駅に着いた頃には時刻はもう、十時手前だった。人通りはまばらで、コンビニの灯りだけが歩道を白く照らしている。別に酔っているわけではないつもりだったけれど、こうしてひとりになると、自分の足音が少し頼りなく聞こえる。
 マンションのエントランスを抜けて、エレベーターに乗る。静かに上がっていく箱の中で私は、なんとなく鞄の中のスマートフォンを見下ろしたまま、さきほどのやりとりを、思い返していた。『迎え、行こっか』という提案を断った。なのになぜか、その一文だけが胸に奥に残っている。
 扉が開く。その先、廊下の突き当たり——非常階段の踊り場のあたりに人影があった。紅い翼を背負ったシルエット。夜を背にすると、その赤はかえってよく映える。部屋へ入る前に羽を休めていたのか。それとも、待っていたのか——。その境界だけが曖昧で、だからこそ余計に私の足は、一瞬だけ止まった。彼が、スマホに落としていた視線を持ち上げる。夜の闇の中で蜜金の瞳だけが静かに光った。

「あ、おかえり」

 迎えは断ったはず……。けれど、ここにいる。偶然を装うにはあまりにも不自然な場所だった。自室からいちばん遠い非常階段の前で、たまたま立っていました、は、さすがに苦しい。私は少しだけ喉を乾かして返す。

「たっ……ただ、いま……?」

 思わず語尾が、頼りなく揺れた。そのわずかな変化を見逃さなかったのかホークスは壁に預けていた背を離し、音も立てずにこちらへ歩み寄ってくる。距離が縮まるにつれて、廊下を抜けてきた外気がふわりと揺れて、その流れに乗って、あの羽の匂いが、ほんのりと混ざった。夜の冷たさに溶けきらない、体温を含んだ気配が気づけばすぐ近くまで来ていた。

「酔ってない?」

 顔を覗き込まれる。近い。夜目の利く鷹の目は暗がりでも、ちゃんと機能しているらしい。冗談半分みたいな顔をしているくせに、瞳孔の開き方から呼吸の乱れまで見られていそうな目だった。彼の鼻先が、すん、と小さく動く。匂いまで確認しているのだと気づいて、少しだけ居心地が悪くなる。

「今日は、お酒……抑えました。ちゃんと」

 そう言うとホークスは、にっと口角を上げた。いつもの、軽口寄りの笑い方。それなのに続いた「えらいじゃん」というひと言だけがほんの少しだけ甘やかすような温度を帯びていて、胸の奥がむずがゆくなる。
 褒められるようなことをした覚えはない。ただ約束を守って帰ってきただけだ。それなのに彼の声でそう言われると、なぜか私はちゃんと正しい分岐を選んで戻ってきた、みたいな気分になる。不思議なくらい、簡単に。

「あ、でも……。嘘は、ついたかも」

 自分から言い出しておいて、語尾が弱くなる。ホークスの片眉だけが、わざとらしく、わずかに上がった。

「うそ?」
「男性がいました、数名。急に……参加になってしまって」
「へえ」
「はい……」

 それ以上、追及はない。ただの相槌なのに受け止める余白だけが、きれいに残されている感じがした。夜風が廊下を、すうっと抜けていく。その冷たさに私は無意識のうちに肩をすくめた。秋の入口——やけに空気がひんやりしている。昼間に残っていた熱は嘘みたいに引いて、代わりに音の少ない静けさだけが漂っている。気温のせいなのか、それとも別の理由なのか自分でも判然としない。変な夜だな、と思った、その瞬間だった。

「寒い?」

 やはり彼はそれを見逃さなかったらしい。声がすっとやわらぐ。さっきまでの軽さが、一段だけ落ちて柔らかい布を重ねたみたいなトーンになり問いかけというより状態確認に近い声音だった。それから、当然みたいに続ける。

「無理してない? 送るけど」

 あまりにも自然で、思わず笑ってしまいそうになった。互いの部屋まで数歩の距離だ。それでも彼は「送る」と言う。その中にヒーローだからという理由を持ち出すには、あまりにも個人的で、あまりにさりげない。私の生活圏にするりと入り込んでくるみたいな優しさだった。

「だ、大丈夫です。すぐ、そこですし……」

 そう答えながら私はまた肩をすくめた。寒さというよりも真っ直ぐに視線を向けられたことへの照れを誤魔化すみたいにして。

「あー、そうでしたっ」

 残念そうでも押しつけがましくもない声。それでもほんの一瞬だけ視線が私の肩口に落ちたのを私は見逃さなかった。何かを言いかけて、結局、飲み込んだみたいな間。夜風がもう一度、廊下を通り抜ける。肌寒くても、嫌じゃない夜だった。

「じゃあ、早く入ろっか」

 彼の言葉に小さく頷いて、並んで、歩き出す。ほんの数メートルの帰り道だった。それなのに、誰かと一緒に歩いているだけでその短さに、妙な意味が生まれてしまう。廊下の静けさも鍵を取り出す手元も、全部が少しだけ、意識の上に乗る。
 同時に互いの手が鍵穴へ伸びて、差し込まれた金属が回る。無機質なドアの開閉音が、まるで、示し合わせたみたいに、ぴたりと重なった。その響きに一瞬だけ足が揃い、時間が噛み合う。彼は自分の扉を開けたまま、ふいに動きを止めた。

「今日さ」

 そう言いかけて、途中でやめた。後頭部をぽりぽりと掻く。私が返事をする前に彼は小さく首を振った。なんでもない、という仕草。けれどそのなんでもなさが、少しだけ悲しそうにも見えた。あるいは、言いたかったことを飲み込んだ人の顔だった。私はドアノブを握ったまま、その横顔を見つめる。聞いてもいいのか、聞かない方がいいのか。その判断がつかないくらいの、短い沈黙のあとで、ホークスがようやく、こちらを見た。

「おやすみ、名前ちゃん」

 羽毛を撫でるみたいに、角の取れた声だった。夜気に溶ける直前のいちばん柔らかい温度。そのまま彼は視線は伏せたまま冗談と気遣いの境目を測るみたいに、ほんの少しだけ間を置いてから、付け足すように言った。

「鍵、ちゃんと閉めてね」
「……? はい、」

 間の抜けた返事になったのは、なぜ、改まってそんなことを言ったのか、理由がわからなかったからだ。すると彼は、伏せていた視線を上げて、ついでに口の端も、わずかに持ち上げてみせた。

「素行の悪い鳥が、入ってくるかも?」

 一瞬、意味を測りかねて私は目を見開く。その拍子に、視線が絡む。彼の瞳が、悪戯を仕掛けたあとの静けさみたいに澄んでいて逃げ場がない。
 ホークスは、ふ、と音にもならない笑みだけを残し軽く片手を上げた。それだけで十分、余韻が残るのに——。

「お、……おやすみ、なさい」

 私が少し噛みながらそう返すと、彼はくすっと小さく笑っただけで、それ以上は踏み込まなかった。言葉を増やさない選択が、かえって、親切に思える夜。
 ドアが閉まる。静かに、こちらの気配を起こさないように。金属の音さえ、抑え込むみたいに、そっと。言いかけた何かは、胸の内側に留まり、行き場を失って夜へと滲んでいく。残ったのは、鍵を回す前に深く吸い込んだ空気と彼の声の名残だけだった。


 *


 週明けの月曜日——朝、六時半。アラームは、三回目でようやく役目を果たし、私は布団の縁にしがみつくようにして身体を起こした。頭の奥に薄く、靄がかかったままの感覚がある。
 昨夜は珍しく、一人で、グラスを重ねていた。きっとそのせいだろう。酔いは残っていないはずなのに、酒気の名残だけが、しつこく思考の端に居座っている。洗面所で顔を洗い鏡を覗き込む。目の下に、うっすらと影がある。睡眠不足というより生活の乱れが正直に刻まれたみたいで、少し情けない。今日はコンシーラーを多めにしようとそういう現実的な判断だけは妙に冷静にできる。思考が日常へ戻ってくる、合図みたいなものだ。
 そういえば、今日はゴミの日だった。袋を手に玄関を開けるとほとんど同時に隣の部屋のドアも開いた。

「——あ。おはようございまーす」

 ゴミ袋片手にいつもの軽い調子。けれど今日はマスクをしている。白い不織布が、朝の薄い光の中でやけに目についた。顔の下半分が隠れているだけなのに、印象がいつもと少し違う気がした。

「おはようございます……風邪、ですか?」

 自然に出た言葉だった。すると、マスクの上に覗く琥珀色の目が、ぱちくりと瞬く。

「ん、違う違う」

 即答。迷いのない否定だったけれどそのわりに耳の先が赤い気がする。風邪じゃない。たぶん、別のものを隠している。その理由に思い当たるのが、なんとなく嫌でもわかってしまうのが困る。
 数日前の夜、飲み込んだまま終わらせた言葉。その残り火みたいなものが、まだ彼の顔に、あるいは、私の中に、燻っているのかもしれない。
 ホークスはそのまま少しだけ早足でゴミ置き場へと向かう。逃げるほど露骨じゃないけれど落ち着かない人特有の歩幅だった。
 その背中を見ながら私は取り留めもないことを思う。マスクなんかしていたら、せっかくの顔が台無しだな、と。心の中で言った、はずだった。

「……かっこいいお顔が、台無し……」

 口に出ていたと気づいたときには、もう遅い。ホークスの足が、ほんの一瞬、もつれた。わざとなのか、本気なのか。その境目が、やけに曖昧な反応だった。けれど本人はまるで何事もなかったみたいに、こちらを振り返りもせずに、手だけをひらりと振ってみせる。その代わりに、歩く速度だけがまた、ほんの少し上がった。何をするにも��速すぎる男�≠轤オい。

「……ホークスって、意外と照れ屋ですよね」

 ゴミ袋をネットの奥へ押し込みながら私はその背中に向かって言った。独り言の延長みたいな、けれど、相手に届く前提の、半分だけ冗談の声。朝の空気は相変わらず冷たいのに、その一角だけなぜか、温度がずれている気がした。日の当たり方のせいか、それとも、私側の気の持ちようか。返事が返ってこない沈黙さえ、どこか彼らしくて少し可笑しい。だからつい言葉を足してしまう。

「ある程度のことは……なんていうか、慣れてるのかと思ってました」

 ヒーローだし。人の視線にも、軽口にも、踏み込みにも。そう続けそうになったのを、胸の奥で引っ込める。その場で、ホークスが足を止めた。完全に振り向きはしない。ただ肩越しにこちらを見て、マスクの奥で息をひとつ吐く気配がした。

「……慣れてないよ、別に」

 ぶっきらぼうなのに投げやりではない言い方。いつもの軽さを、あえて、削ったみたいなトーンだった。照れ隠しだと指摘するには、少しだけ、生身すぎる、嘘だと思いたくなる言い方だった。ファンサービスで何万人に笑顔を振りまく男が、ある程度のことで照れるはずがないと思う。思うのに、その背中だけは、むしろ逆のことを語っていた。広い肩が心なしか強張っている。ネットの紐を結ぶ指先にも少しだけ余裕がない。きゅっ、と力を入れすぎたのか一度うまくいかなくて結び直していた。普段の、ヒーローの彼しか知らない人がこの光景を見たら、きっと卒倒するだろう。彼はそれ以上、何も言わずに歩き出す。残された言葉の余韻だけが朝の冷気に取り残されて、ゆっくりと私の中に沈んでいった。

「あの、」

 ゴミを捨てを終えて、エレベーターで上がり、同じ階の廊下を並んで歩いていたところで、私は少しだけ唇を噛み笑いを堪えたまま声をかけた。たったそれだけのことでホークスの肩がびくっとわかりやすく跳ねる。あ、と思う間もなく、彼はゆっくりと振り返った。まだ、マスク姿のまま。目だけが、こちらを探るみたいに動く。

「……なに?」

 声は少し硬い。警戒という言葉がそのまま音になったような響きだった。数日前のことが、頭をよぎっているのか、それとも、ヒーローとしての癖なのか。果たして今度は何を言われるのだろうと、身構えているのが、目の奥で透けて見える。一瞬、言葉を引っ込めたくなる。けれど、ここで黙ったら、たぶんずっと言えなくなる気がした。

「今度……何の香り、使ってるのか。教えてもらっても、いいですか?」

 言い切った瞬間に、胸の奥で『しまった』と、小さく警報が鳴った。今のは、まずかったかも。静かな廊下にその一文だけが取り残されて、音もなく浮かんでいる気がする。足元の感覚が遅れてぐらつき私は意味もなく履いていたクロックスの先のほうを見つめた。

「え?」

 ホークスの目が驚いたみたいに丸くなる。その反応を見た途端ようやく現実感が追いついてきて今さらのように羞恥が、波のように押し寄せた。頬の内側がじんわり熱くて、舌の置き場がわからない。

「ご、ごめんなさいっ!急に……なんか、気持ち悪いこと、言いましたよね」

 勢いで、言葉を重ねる。取り消せるものなら、今すぐ取り消したいのに音にしてしまった言葉は戻らない。そう思った、その瞬間だった。
 ホークスがためらいもなくこちらへ歩み寄ってくる。距離が一気に詰まって、思考より先に体が反応する。息を呑む間もなく彼は、マスクを顎のあたりまで下げた。近い。近すぎる。羽の匂いがさっきよりもはっきりとわかる距離で、ふわりと揺れた。

「気持ち悪くなか」

 食い気味だった。低くて即答で、迷いがない。今朝はじめて、ちゃんと目が合う。逃げ場のない距離で蜜色の瞳がまっすぐこちらを捉えている。近すぎると、さすがに彼自身も気づいたのか彼は一歩だけ引いた。ほんの半歩分の距離。それでもまだ、声は届きすぎるくらいに近い。ホークスは「えっとね」と、少し考えるふうを装って視線を上の方へと泳がせる。

「香水、じゃなくて。剛翼用のオイル」

 そう言いながら、首をわずかに傾けてみせた。その仕草がどこか照れ隠しみたいで、余計に胸がざわついた。

「専用のやつが、あるんだけど……手入れ用の。今度、持ってこよっか」
「え、いいんですか?」

 思わず声が跳ねる。そんなつもりで聞いたわけじゃなかったのに、話が一気に、現実味を帯びてしまった。

「私、実は匂いフェチで……。いつも、いい匂いだなって思ってて」

 言い出すと止まらなくなる。しかしその瞬間、ホークスが固まった。本当に三秒くらい。瞬きもしない。まるで呼吸すら止まったみたいな静止の仕方だった。しまった、と今度こそ本気で思う。

「……いつも?」
「あ、……はい」
「この間も、言ってたよね」
「え、あ……です、ね」

 ようやく出てきた声は、ほんの少しだけ裏返りかけている。もう引き返せない。私は意味もなく小さく頷いた。

「その……会う、たびに」

 ホークスは斜め上を見て、口元を手で覆った。耳だけじゃない。首のあたりまではっきりわかるほど赤く朝の光が容赦なくそれを照らしている。数日前の夜より、よほど体調が悪そうに見える。沈黙が落ちる。どこかの部屋の室外機が低く唸り廊下の手すりには鳥が一羽とまってこちらを覗き込むみたいにして首を傾げていた。やけに平和な光景なのに、私の心臓だけが忙しなく音を立てている。ホークスが深呼吸をひとつする。それからようやく口元を覆っていた手を、下におろした。

「……今度、持ってくね」

 それだけ言って、自分の部屋へ逃げるみたいに戻っていった。ばたん、と、ドアの閉まる音。
 残された廊下は急に静かになる。その静けさの中で、ドアの向こうから何かが倒れるような鈍い音がした。たぶん壁か何かに寄りかかって体勢を崩したのだろう。朝から何をしているのだろう、あの人は、と思う。でもその情けなさが少しだけ愛おしいのだから困ってしまう。

 ——午前八時。世間の人たちはちょうど出勤の時間帯で私も自分の部屋へ戻って身支度を整え、鍵を手に取った。ドアノブを回す。隣室はもう、静かだった。先に出たらしい。パトロールの日の朝は早いのだろう。ドアポストに、何か挟まっていることに気づいたのは、外に一歩踏み出した、そのときだった。警戒しながら抜き取ってみると何かのレシートだった。裏に油性ペンらしき物で殴り書きみたいに文字が走っている。

 【 いってらっしゃい
   夜、一緒に食べよ。ホ 】

 最後の一字だけ、途中で止まっている。名前を最後まで書く余裕もなかったのか、あるいはそこまで書いたら、急に自分で照れてしまったのか。よくわからない。
 使われていたレシートは駅前の焼き鳥屋のものだった。日付は昨日。ねぎま塩:3と印字されている。日常の痕跡ごと、そのまま差し出してくるあたりが、いかにも彼らしい。朝の風が、廊下を抜ける。その冷たさのなかで、レシートを握った手だけが、ほんの少しあたたかかった。


 *


 仕事中。デスクの引き出しを開けるたび、あのレシートが、ちらりと目に入った。
 たった二行。それだけの走り書きなのに、その文字列だけが一日中、妙に視界の端に残り続けていた。書類を探すふりをしては、見てしまうし、見てしまえば、そのたびに胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。昼休みに同僚のひとりに「なんかいいことあった?」と聞かれて「別に」と返したのは、ほとんど反射みたいなものだった。本当のことを言えるはずがないし言ったところで多分、自分がいちばん困り果てる結果になるから。

 午後、六時半。今日は珍しく定時で上がれた。スーパーへ寄るか一瞬だけ迷う。迷いながらも、足は自然に、売り場のほうへと向かっていた。
 「作りすぎたら」ではなく、今日は最初から、二人分を買うことになる。その事実を、なるべく言葉にしないようにしていた。言葉にした途端、何かが、決定的になってしまいそうだったから。けれど考えるのをやめたら惣菜コーナーではなく野菜売り場に立っていた。カゴの中に、じゃがいも、にんじん、玉ねぎ。肉は鶏もも——あ、これだとカレー、一択だ。まあ、二人分にはちょうどいいかもしれないと、自分にだけ聞こえるような言い訳を、頭の中でつぶやく。
 帰宅したのは午後八時前だった。エコバッグを提げてエレベーターを降りると、廊下に見覚えのある赤い翼があった。ダンボール箱に腰を掛けている。ソファ代わりにでもしているつもりなのか人気ヒーローがマンションの共用廊下で、そんなものに座っている光景は、どう考えても、絵面がおかしい。

「あっ、おかえ——」

 私を見つけた瞬間ホークスがぱっと立ち上がりそう言いかけて、私の手元へと視線を落とした。ヒーロースーツではなく、ラフな薄手のパーカー姿なのが、余計に生活感を増していた。

「わぁ、買い物してきてくれたの?」

 声が明るい。あまりに素直な反応でこっちまで少し照れてしまう。

「なんだか、張り切って買いすぎちゃいました」

 そう言うと彼はエコバッグの中を覗き込みそうになって、ぎりぎりのところで踏みとどまった。見たい。けれど見ない。その我慢が顔に出ていてなんだかとても、可愛らしかった。

「見ない。……楽しみにしとく」

 自分自身に言い含めるみたいな言い方だった。抑えた声の奥に隠しきれない軽さと余裕があって言葉の端々が、わずかに弾んでいる。覗かないという選択そのものを、もうすでに面白がっているみたいで、その響きは確かに、楽しそうだった。
 ホークスは、パーカーの裾を、ぱたぱた払う。私が自室の鍵を開けると当然のようについてくるわけではなく、一応ちゃんと、ドアの前で待っていた。招かれるまでは、入らない。そのあたりの線引きは、意外と律儀だ。待てのできる犬みたいだなと一瞬思ってしまって、慌てて、その連想を打ち消す。いや、でもかなり近いと思う。
 中へ招き入れ、私は急いで、脱衣所で部屋着に着替えた。キッチンへ立つ頃にはホークスはもうソファへ腰を下ろしている。米を研いで炊飯器の早炊きボタンを押す。玉ねぎの皮を剥く。包丁の音が、コン、コン、とあまり広くない部屋の中に小気味よく響いた。すると、背後から声がした。

「なんか、手伝うことある?」

 気づけば、もう、キッチンのすぐそばにいた。ほんとうにこの人は、何をするにも速すぎるし、距離の詰め方が自然すぎる。

「ヒーローは、ゆっくりくつろいでてください」

 まな板から視線を逸らさずにそう返すと、彼は少しだけ、口の先を尖らせた。そして、そのまま腕を組んでキッチンの壁に軽く、もたれかかる。

「じゃあ、くつろぐ——ここで」

 少しだけ間を置いてそう告げると彼はそれ以上そこから動かなかった。口元にはさっきから崩れないままの柔らかな笑みが貼りついていてまるで最初からそこに立つことが決まっていたみたいにすっぽり収まっている。その距離は、近すぎず、遠すぎず。視線だけが確かにこちらを捉えていて逃げ場を塞ぐほどではないのに気配だけはずっと残る。見張られているようでいて、でも追い立てられる感じはなくて、むしろ、黙って見守られていると言われたほうが、心の輪郭には、しっくりくる。居心地の悪さと安心感が同じ場所で静かに同居していた。

「……なんか、見られてると緊張しちゃうなあ」

 思わず漏らすと、ホークスはそっと壁から背を離した。そのまま離れてくれるのかと思ったら、そうではなかった。次の瞬間、彼の顎が私の肩へちょんと乗る。不意打ちだった。そして耳に近いところで、低く笑う気配。

「いいじゃん」
「……っ、」
「緊張してる名前ちゃん、見たいし」
「……なんか、危ない発言してますよ、それ」

 私が軽く嘲るようにそう言った途端に彼は私の肩口に預けていた顎をすっと離し、すぐに背後で堪えきれなかったみたいに、けらりと笑った。
 その笑い声は短くて乾いているのに妙に近くて耳の奥に残る。距離が離れたはずなのに、さっきまで触れていた気配だけが、まだ、肩のあたりに薄く貼り付いていた。

「えー? どこが?」
「……ぜんぶ。なにもかも、ぜんぶ!」

 そう早口で返した瞬間、彼が、目を丸くする。それからまたくしゃっと顔を歪めた。ほんとうにうれしそうな顔だった。

「ぜんぶかあ」

 鍋の中で野菜が煮える音。沸々と鳴る炊飯器。そこへ、ホークスの低い笑い声が混じる。妙な、空間だった。独身女性の台所を人気ヒーローが、当然みたいな顔で、眺めている。こんなシーン、週刊誌に撮られたら、一面どころか特集が組まれそうだと、頭の片隅でどうでもいいことを思う。すると彼がふと何か思い出したみたいに言った。

「あ、そうだ。これ」

 パーカーのポケットから取り出したのは透明なガラス瓶。中には少し赤みがかった液体。蓋には小さな翼の刻印が入っていた。私は思わず包丁を置く。

「約束のオイル」
「わ……!どうしよう、いいんですか?」
「いいですよぉ〜?」
「え、何に使おうかなぁ。嬉しい……ありがとうございます!」

 声が弾むのが、自分でもわかった。その、食いつきのよさにホークスが一瞬だけ目を瞬かせる。それから、ふっと、やわらかく笑った。

「そんな喜ぶ?」

 喜びますとも。匂いフェチとしての本領がここぞとばかりに顔を出していた。私は小瓶を両手で持ったまま、しばらく眺めてしまう。ホークスはそんな私を見て、少しだけ照れたように翼の先をいじった。自分の翼を手入れするためのオイルを私がこんなふうに喜んで受け取っていることを、今さらちゃんと、噛み締めているらしい。

「だって、ほんと嬉しい……」

 思わずそう呟くと彼はさらに黙ってしまった。何か言おうとして、やめたみたいな沈黙だった。その空気を、鍋の煮立つ音が日常へと引き戻す。ぐつぐつとカレーが煮える音が沈みかけたものをほどよく散らしてくれる。

「お、いい匂いしてきたね」

 露骨な話題転換だった。でも私もちょうど鍋を見なければならなかったので、むしろ助かった。ルーを割り入れて、ゆっくり溶かす。色が変わりとろみがつき始める。しばらくして米が炊けた。皿を二枚、並べる。スプーンもテーブルの上に、二人分。向かい合わせで座って、湯気が立ち上るその光景を見た瞬間、ようやく今日は、最初から二人で食べるつもりで、ここまで来たのだという事実が、静かに胸に落ちてきた。

「いただきまーす」
「いただきます」

 ほとんど同時に、声が重なる。それだけのことなのに二人分の食卓というものはどうしてこうも輪郭がはっきりするのだろうと思う。ホークスがひと口カレーを口へ運ぶ。咀嚼して飲み込んで、それから、短く言った。

「……うまぁ」

 たった、それだけだった。言葉としてはそれで終わりなのに、そのあとスプーンを運ぶ手つきが遅くも早くもならず妙に迷いのない速度になっていて、それが、続きを代わりに語っているみたいだった。私はそれに気づいてつい、声を立てないように小さく笑ってしまう。

「よかった」
「あえて、チキンカレーにしてくれた感じ?」
「え?」
「あ、ううん。なんでもないでーす」

 そう言えば、二人で食卓を囲むのは、これで、二度目だった。一度目は朝のトースト。二度目は今夜のカレー。どちらも、特別な献立ではない。ただ、家にあるもので整えた程度のなんでもない食事だ。それなのに不思議と空気だけはあたたかかった。たとえ、気負った会話をしなくてもそのなんでもなさ自体が、もう特別に思えてしまう。するとホークスが頬杖をついて、食べながら私を見た。

「なんか、いいね。こういうの」
「二回目ですね。でも、はい……そうですね」
「うん」
「人気ヒーローとお友達になれて、光栄です」

 その言葉のあとホークスのスプーンを持つ手が止まった。綺麗に、ぴたりと。その静止の仕方が思っていた以上に露骨で私は言ったそばから少し後悔する。

「お友達」

 あえて、そう繰り返された声は、低くも高くもなかった。ただその言葉だけが妙に平たく響く。私は、慌てて言い足した。

「……あ、ごめんなさい。調子に、乗りました」「……」
「隣人さん、……でした」

 これ以上、気まずくならないように私は食べることに意識を集中させた。ホークスはしばらく、私の顔を見ていた。気配で気づいた。それから、すっと目を細める。

「どっちも違う」

 短かった。短いのに、そのひと言だけで冗談の顔をしていた場の空気が少しだけ、静かになる。ちらっと窺うと一瞬だけ彼はぷくっと頬を膨らませるみたいな顔をして、それから、何もなかったふうにカレーをもう一口掬って口へと運ぶ。それ以上は言わない。でも言わなかったことのほうがかえって長く残ることがある。
 食事はそのまま、何事もなく進んだ。皿が空になり、福神漬けの容器だけがぽつんと残る。先に彼が立ち上がって、私の分と、自分のぶんの皿を重ねた。

「洗い物、俺やるよ。作ってもらったし」
「……あ、すみません」

 狭い台所へホークスが立つと途端に天井が近く見えた。こうして家の中の明るい照明の下にいると改めて個性も相まって背が高いのだとわかる。
 シンクへ流れる水の音、皿同士の触れ合う音。食後のそれらしい音が部屋に増えるとそれだけで急に暮らしっぽくなる。ホークスの手際は思っていたよりよかった。一人暮らしが長いのだろうと思わせる、余計な動きがない。スポンジの泡が、きれいに流され水切りカゴへ食器が並んでいく。ホークスは最後の一枚を洗い終えると、こちらを振り返った。

「ごちそうさまでした」

 律儀に少し頭を下げる。ふわっと金髪が揺れて片耳の赤いピアスが、蛍光灯の白い光を受けて、ちらりと光った。

「うん、お粗末さまでした」

 私が静かにそう言い返すとホークスはタオルで手を拭きながら、何気ない顔で続けた。

「名前ちゃんがね」

 さらっと言われたその言葉がカレーの話なのかそれともまったく別のことなのか、その蜂蜜色の目からは読み取れなかった。読ませないのがこの男の厄介なところで、いまの時代なら、こういう台詞もあの取引先の人同様にセクハラ判定になるのだろうか、などと、くだらないことを考える。そうでもしなければ真正面から受け取るには少し破壊力がありすぎた。
 気づけば時計は十時を回っていた。ホークスがリビングへ戻り、視線を部屋の中へ流す。

「……さて、そろそろ帰ろうかな」

 口ではそう言うのに、足はすぐには動かない。玄関へ続く廊下を見ているようで、ちゃんと見ていない。帰らなければならないことは、わかっているけれど、だからといって今この空気からあっさり離れる気にもなれない。そんな逡巡が、その場に少しだけ残っていた。代わりに翼がわずかに開いて、また閉じる。たぶん本人より先に感情が出てしまっている。

「はい。また機会があればご一緒しましょうね」

 助け舟を出すつもりでそう告げるとホークスはそれまでの定位置からようやく身体を引きはがすみたいに動いた。

「ん。じゃあ、また」

 短くて、でも、切り上げるには少しだけ名残を含んだような声音だった。私は、玄関先まで彼を見送る。スニーカーに足を滑り込ませ、踵を軽く踏み鳴らしてから、彼はふと、思い出したように振り返った。

「あのオイルさ」

 言いながら指先で自分の腰のあたりを控えめに示す。私の視線は自然と、その部分へと流れる。

「ここ。腰のあたりにつけるといいよ。体温で、ゆっくり香るから」

 助言というより使い方だけをそっと置いていくみたいな言い方で、それ以上は何も付け足さず、ひらりと軽く手を振ってドアの外へ出ていく。
 隣室までほんの数メートル。ばたん、と静かにドアが閉まる音がして部屋は急に私一人のものになった。残ったのは、カレーの淡い香りと、ついさっきまで二人で過ごしていた空気の名残だけ。水切りカゴに並んだ二人分の食器が妙に馴染んだ顔をしてそこにあるのが、少しだけ可笑しくて、少しだけ胸に引っかかる。私はそのままソファに腰を下ろした。手の中には、赤い小瓶。
 蓋を開けると、柑橘ともウッディとも言い切れない、けれど、確かにあたたかみのある香りが、ふわりと立ちのぼる。翼そのものの匂いだった。あの大きな赤い翼。触れたときの羽毛の柔らかさと、その奥にある芯の強さ。微かに伝わってきた振動まで、妙に鮮明に思い出してしまう。
 ——腰のあたりに。言われた通り、一滴だけ。肌に落とすとじんわりと体温に溶け込むみたいに馴染んでいく。しばらくして手首を顔に近づけると、そこには確かに、あの匂いがあった。心臓がほんの少しだけ早く打つ。

 翌朝。アラームは二回目で止まった。珍しく、頭が冴えている。香りが枕元にあるわけでもないのに、昨夜のオイルの余韻がどこかに残っている気がしてそのこと自体が落ち着かない。身支度を整えて外へ出る。今日は、隣のドアが同時に開くことはなかった。
 代わりにドアノブにビニール袋がひとつ、ぶら下がっている。小さな付箋に、走り書きで『名前ちゃんへ』と、書かれていた。
 中を覗くとタッパーが、ひとつ。蓋にはなぜかベストジーニストの公式グッズらしきマスキングテープで、さらに、短いメモが貼られている。

『朝飯。卵焼き。しょっぱい派だったよね?』

 ——なぜ、知っているのか。
 そんな話をした覚えは、たぶん、ない。ということはどこかで見ていたのか、それとも何気ない一瞬を、覚えていただけなのか。どちらにせよ、タッパーの中の卵焼きは、きれいな黄金色をしていた。端が少しだけ焦げていて均一じゃない形がいかにも、手作りらしい。
 冷めているのに、醤油の香ばしさが、ちゃんと立っている。それだけで、朝の空気がほんの少しだけ、あたたかくなった気がした。


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