それから、数ヶ月が過ぎた。忙しいのだろうと思う。思うしかないくらい、ホークスは一度も、このマンションへは、帰ってこなかった。
 ベランダの向こうは夜ごと静かで窓の開く音もしなければ、防火扉の隙間から金髪が覗くこともない。隣の部屋が本当に、人の暮らす場所だったのか疑いたくなるほど、きれいに気配だけが抜け落ちていた。
 最初のうちは、たまたまタイミングが合わないだけだと考えていた。次は会えるかもしれない、今週こそ帰ってくるかもしれない。そんなふうに思いながら、夜ごとカーテンの向こうを気にしてしまう自分がいた。けれどそういう期待は裏切られるたびに少しずつ、形を変えていく。期待しているのだと認めるのが悔しくなって、今度は逆に何も待っていないふりを覚える。人は案外、そういう小手先の誤魔化しだけはうまいものだ。

 気づけば、ヒーロービルボードチャートJPの時期に差し掛かっていた。
 今年の下半期のランキングで彼はついに二位になった。生中継されていたそれを、私は、職場の同僚たちと、一緒に見た。社内の休憩スペースのテレビに映る彼は、私の知っている��隣人�≠ナはなかった。愛嬌とふてぶてしさをうまく混ぜた、��生意気なヒーロー像�≠ェそこにあった。軽口を叩きながら、カメラの向こうの期待を寸分違わず受け止める顔。それはそれで、たぶん、本当の彼なのだろうと思う。でも、ベランダで缶ビールを傾けていた人や、朝の廊下でマスクの下へ照れを隠していた人とは、やっぱり少し違って見えた。私を含めた世間は、その��見せるための彼�≠ノ、拍手を送る。そういう構図の外側に、自分だけが少し取り残されている気がした。
 そんな最中、突然ホークスの熱愛報道が出た。季節は十二月の上旬。街がようやくクリスマスのイルミネーションに、浮かれ始めた頃。朝の情報番組が、そのニュースを嬉々として流す。画面に映し出されたのは、週刊誌の表紙だった。

【��速すぎる男�≠フ素顔。ホークス、人気女優のマンションに深夜通い——!?】

 モザイクのかかった、高級タワーマンションの写真。撮影日は二週間前と書かれていてネットは当たり前に、即座に荒れた。「お似合い」「ショック」「やっぱり芸能人か」——。祝福と落胆と野次馬根性が一斉に、タイムラインへ流れ込んでくる。コメント欄には住所の特定を試みる者まで現れたが、さすがにプロの斥候。そんなところで足を取られるほど間抜けではないらしい。記事に載っているのは遠景のシルエットだけで翼の形や色すらも、はっきりとしない。それでも世論は、十分に沸騰した。証拠が曖昧であることと、人が勝手に盛り上がることは、まるで別の話なのだと改めて思う。

 ある日の昼休み——。社食のテレビでは、まだ同じニュースが繰り返し、流されていた。同僚の一人が自身のスマホの画面を見ながら、いかにも気軽そうに言う。

「ねえ〜ホークスの熱愛、ショックじゃない?」

 その��ショック�≠フ意味を、わざわざ確認する者はいなかった。一般人が、プロヒーローの恋愛事情に何を思うというのかという前提で、みんな面白半分にその話をしているだけだ。ただ一人、帰れば、隣室が、空っぽであることを知っている人間を除いては——。
 その日、私が帰宅したのは午後七時を過ぎた頃だった。靴を脱ぐ。廊下を進む。そして、慣れたように、リビングの電気をつける。いつもと同じ一連の流れ。静かだった。当たり前に。そう思いながら冷蔵庫を開ける。中にあるものを確認する必要などないのにただ手持ち無沙汰で扉を開けてしまった。
 シンクの脇には、洗って伏せてあるタッパーが置いてある。まだ返せていない。空っぽのそれが不意に目に入って、私はすぐに視線を逸らした。くん、と鼻を鳴らしてみてもあのオイルの匂いはとっくに飛んでいた。また新たに付け直す気すら起きなかった。


 *


 それからさらに一週間が過ぎた。テレビをつければ、未だ、ホークスの名前がちらつく。「あの方とは順調ですか?」という問いに、笑顔でノーコメントを貫く映像が何度も流れた。あの笑顔が仕事の顔であることを、今の私は、知っている。知っているからこそ、余計に胸の奥がざらつくのかもしれない。

 十二月の夜は冷える。駅前に向かう通りには、早くもクリスマスソングが流れていて、浮かれた旋律だけが先に、季節を謳っているのに、残業を終えた身体には、その明るさが少し眩しかった。
 改札へ急ぐ私を迎えたのは、甘さの欠片もない乾いた風で、コートの隙間から容赦なく、体温を奪っていく。そのとき不意に、ポケットの中で、スマートフォンが震えた。足を緩めて画面を確かめる。表示された名前は『ホークス』。時刻は、夜の九時きっかりだった。
 こんな時間に、どうしたんだろう——。そんな考えが浮かんで私は一瞬だけ指を止める。理由のないためらい。けれど結局そのまま放っておけるほど無関心でもなくて私は小さく息を吸ってから通話ボタンに触れた。

『——あ、久しぶり。ごめんね、急に』

 その一言だけで胸のどこかが勝手に緩みそうになるのを私は慌てて押し留める。電話の向こうは妙に騒がしかった。風の音がある。どうやら彼も今、外にいるらしい。

「……いえ。お疲れさまです」

 少し間があった。その沈黙の長さに、相手も、何をどう切り出すか迷っているのかもしれないと思う。しかし思うだけで、口にはしない。

『今、外?』
「あ、はい……。残業で」
『遅くまで大変だね』
「……まあ、仕事してると気がまぎれるので」

 言った瞬間に、声のトーンが変わったのが自分でもわかった。きっと相手にも電話越しに、その微かな変化だけはちゃんと伝わるだろうと思う。だからなのか、相手の声も少しだけ低くなった。

『気がまぎれる、って……何の?』
「……いや、その。深い意味は……」

 言いながら、深い意味はないと言い切れるほど軽い気持ちでもなかった。電波の向こうで剛翼が振動するみたいな、沈黙が落ちる。探っている。こちら側の本音の輪郭をなるべく取りこぼさないように。そして彼がようやく、本題へと触れた。

『……あのさ。俺の報道、見たよね』
「ヒーロービルボードですか?二位、おめでとうございます」

 わざと、含みを持たせず間も取らず、ずらして言葉を返す。自分でも幼稚だと思う。思うけれどそうでもしなければ、まともに向き合えない気がしたから。

『や、違うくてさぁ……』
「……はい。お似合いでしたよ。大変ですよね、有名人は」

 歩きながら私は小さく息を吐く。その返しが、どれだけ棘を含んでいるかくらい自分でも十分、わかっていた。もう一度、短く息を吐くと、彼も同時に小さく息を漏らす音が、耳をかすめた。

『あれ、ほんとのことじゃないからね』
「そうですか」

 それだけを返すと通話口の向こうも、こちらもふっと言葉を手放したままになる。少しのあいだどちらからも、何も続かなかった。駅前を抜ける風がびゅうと鳴り、マフラーの隙間に冷気が滑り込む。十二月の夜風は電話の向こう側でもきっと同じ顔をしているのだろう。距離なんて関係ないと言わんばかりに、容赦なく冷たい。
 そんな沈黙の端で不意に、彼が息をつく気配がした。ため息というほど重くはなく、かといって笑うには少しだけ困ったような短い息の抜け方。声にはならないその音だけで、今の彼の表情が、なぜだか、はっきり想像できてしまった。

『信じてない?』
「疑う仲でも、信用し合う仲でもないですから」

 ずいぶんと、意地の悪い返しをしてしまったと思う。そう言ってしまってから自分でもよくないとは思った。しかし、あの報道を見て「私は何も感じませんでした」みたいな顔をすることの方が私にはよほど、難しかった。案の定、その言葉に向こうの声が詰まった。ほんの、一瞬だけ。駅の改札前。人波が左右へ流れていく。電話口の彼もまた、どこかの屋上にでも立っているのだろう。どちらも今は、寒い場所にいる。寒い場所にいるからこそ、余計な意地まで冷えて尖るのかもしれない。

『今日、会える?』
「……」
『ベランダで、いいから』
「……」
『……名前ちゃん?』
「……、会えません」

 静かに言った。きっぱり言ったつもりだった。でもその実、言い切ったあとでいちばん傷ついたのは、たぶん、自分のほうだった。

『そう……』

 そこで通話が切れてもよかったのに。なぜか、どちらも切らなかった。駅前の雑踏だけが、ざわざわと遠くで続いている。信号が赤へ変わり人の流れが止まる。電話口の向こうには風の音がまだある。彼がそこにいることだけは確かなのに距離だけが、どうしようもなく遠かった。

『理由、聞いていい?』
「……このあと、用事があって……」

 そう言いながら自分の言葉が薄っぺらいことは自覚していた。電話の向こうで小さく笑う気配がして、それが、耳に痛かった。

『こんな時間に?』
「あ、はい……えっと、友人から、誘われてて」
『へえ』
「明日休みだから、このまま顔出そうかなって」
『……そっか、友人ね』

 嘘だ。ぜんぶ、嘘。言いながら、胸の奥が少し冷たくなる。それでも彼の声は、やさしかった。優しすぎて痛いほど。疑っているのに責めない。責めないことで、こちらの嘘だけが、浮き彫りになる。そういう話し方をこの人はできてしまう。私は居た堪れなくなって、無理やりに別の方向へ話を逸らす。

「……ホークスも、ここ最近帰ってこられてないですよね」
『……』
「ゆっくり、休んでくださいね」

 返事がなかった。数秒、あるいはもっと。羽が擦れ合うみたいなかすかな音だけが電波に乗る。しばらくして、風に紛れるように彼の声が返ってきた。

『……帰りたいんだけどさ』

 そこで一度、言葉が途切れた。電話の向こう、背後でサイレンみたいな音がする。いや、違う。誰かが、彼を呼ぶ声だった。

『——ホークス! こっちです!』

 それは、はっきりと聞こえた。無意識か、彼の小さな舌打ちが漏れる。仕事の呼び出しだろう。プライベートの電話の途中だろうが関係なく中断される。それが、トップヒーローの現実だった。次の瞬間、彼の声が切り替わった。あの爽やかな外向きの——��ヒーロー�≠フ、調子へ。

『ごめん、行かなきゃ。——じゃあ、また』

 躊躇っていたはずの通話は、拍子抜けするほどあっけなく終わった。画面が暗くなる。心の中で何度も確かめていた言葉は結局どれも使われないまま置き去りにされて、耳に残ったのは切断音と『また』という言葉の余韻だけだった。
 スマートフォンを握ったまま私はしばらくその静けさを、どう扱えばいいのかわからずに、立ち尽くしていた。目の前の信号が青に変わる。人の流れがまた動き出す。私も、それに紛れるようにして、ようやく歩き出した。歩きながら、たった今途切れた声の続きをどうしようもなく想像してしまう。そんな自分が、嫌だった。


 *


 友人からの誘いなんて、当然なかった。ほかに用事が、あったわけでもない。ただ、帰るだけのつもりだった。それでもあそこに帰ってしまってもしも彼がいたら——。だから逃げた。あの声を真正面から聞く勇気がなかっただけだ。テレビの向こうで流れる報道ならば「見ましたよ」だけで済ませられた。世間の噂話のひとつとして、少しだけ苦い顔をしながらも、どうにか外側に置いておけた。けれど、本人の声で「ほんとのことじゃない」と言われた瞬間、胸の底がぐらりと揺れてしまった。その揺れを、今はどうしても、認めるわけにはいかなかった。
 だって私は、ただの、隣人だから。オイルと、卵焼きをくれてベランダ越しに会話をして、時々やさしすぎることをしてくるだけの、ちょっと、距離感のおかしい隣人のプロヒーロー。そういうことにしておかなければ、いろいろなものが釣り合わなくなる気がした。

 結局そのまま、私は一人で、飲みに行くことにした。どこへ行っても、耳に入ってくる話題は、ホークスの熱愛ネタばかりだった。駅前の居酒屋でも隣の席の会話でもテレビでも、みんな勝手な調子で彼のことを話している。私はそのたびに、知らないふりをして、グラスを持ち上げた。
 悪酔い、深酒。こういうふうに拗ねたみたいな飲み方をする自分が、好きになれない。好きではないのに、やめられなかった。
 帰宅したのは、日付をまたいだ、深夜一時過ぎだった。足元はおぼつかず、吐く息は白い。急に降り始めた雪がコートの肩に、うっすら積もっている。寒いはずなのに、アルコールの熱で身体の芯は妙に、火照っていた。鍵を出して、どうにか穴へ差し込もうとする。けれどうまく入らない。何度やっても噛み合わない。かちゃ、かちゃ、と情けない音だけが夜の廊下に響く。その光景が、いつかの夜とぼんやり重なった。あの時みたいにまた助けに来てくれる、無い未来。そんなことを想像しただけで、なぜだか少し、泣きたくなる。
 しかし、自分が間違えて隣の部屋の鍵穴へ鍵を差し込み四苦八苦していたのだと気づいたのは、その部屋の主が内側から鍵を外し、ドアを開けた瞬間だった。開いたドアの向こうに人影がある。私は思わずその場で固まって、目を見開く。

「——名前、ちゃん?」

 ひどい有様だったと思う。顔は赤いし、髪は、乱れていて足元はふらついているし、千鳥足だしコートには、雪まで積もっている。こんな姿は、絶対に見せたくなかった相手にいちばん見せてはいけない状態で、鉢合わせてしまった。なのに、口から出たのはそんなこととはまるで関係のない声だった。いつの時代だって、アルコールは人の判断を、都合よく曇らせる。

「わあ〜! ホークスだぁ〜!」

 次の瞬間には、思いきり抱きついていた。反射みたいに彼が受け止めてくれたことまで、どこか夢みたいに感じる。そうだ、きっとこれは夢なのだろう。私の都合のいい願望が投影された惨めなくらい、正直な夢——。
 ばさり、と、赤い翼が、大きく開いた。雪気を含んだ夜気ごと、私を包み込むみたいに広がる。さっきまでの飲み屋街の周囲の人の煙草の匂いも甘いカクテルの残り香も、全部まとめてその中へ押し込まれる。その状況に何故か笑みが溢れた。そう——私は完全に、できあがっていたのだ。

「おいおい……ちょっと、」

 困ったように笑いながらも、ホークスは、突き放さなかった。片腕で酔っ払いの体重を受け止め空いた手で器用に玄関の扉をさらに開ける。その手際のよさが逆に少し悲しくなる。こういう事に慣れているのかもしれない、と余計な想像をしてしまうからだ。
 彼はそのまま私を自室へ引き入れ、とりあえずソファへ座らせようとした。けれど、私がしがみついたまま離れないので、うまく、座らせることすらできない。

「名前ちゃーん。水飲も。ね?」
「ん〜......」

 私は彼の胸元に頬を寄せたままそっと、けれど遠慮なく、息を吸いこんだ。
 どうせこんなの夢かもしれないのだから、今のうちに確かめておこう——そんな投げやりな言い訳を胸の奥で転がしながら。しかし、次の瞬間、目の前の彼が音を立てずに硬直したのがわかる。空気ごと時間が止まったみたいに彼の体温だけが妙に、はっきりと伝わってきた。

「あぁ〜、いい匂い……はぁ……」

 この、どうしようもない酔っ払い。剛翼に顔を埋めて、深呼吸している。そんな自分を、どこか客観的に見ている自分もいる。もはや個性犯罪の被害者ですらなく、ただの中毒者だった。嗅覚の暴走。ホークスの喉仏が、上下する。それから、天井を仰ぐ気配がした。続けて低い声が落ちる。

「……あのさぁ」
「う〜ん……」
「今の状態で、そのテンションで来られると俺、わりと本気で困るんすけど……」

 それでも私は構わず、また、くんくんと匂いを嗅いだ。距離感なんていうものは、もうとっくに壊れている。私は、なおも、ふにゃふにゃとした声で呟いた。

「わぁ、あったかぁ〜い……」
「……」
「あぁ、落ち着くぅ……」

 ホークスがぎゅっと目を閉じたのがなんとなくわかった。理性と本能が、たぶんいま、翼の付け根あたりで綱引きをしている。抱きしめ返したい腕を理性がどうにか押さえ込んでいる。そして、彼の低く少しかすれた声が、耳元へ落ちる。

「……水。水持ってくるから。離して」
「やだ」

 その一言で、彼の首ががくりと落ちた。ただの男が全力で耐えている。『やだ』の二文字が腹の底に刺さったのだと、そのくらいは酔っていてもわかる。私だって彼にとっては一応異性なのだ。多分その事実だけはまだどこかで理解している。

「……俺のこと、殺す気?」

 半分は冗談みたいな言い方だった。でも半分はぜんぜん、冗談ではなかった。私は彼の翼の中でくぐもった声で言う。

「ずぅ〜っと、帰ってこなかったぁ、さいきん」

 拗ねているのか、寂しがっているのか、酔いに溶けて、自分でもよくわからない。けれど、その一言がたしかに彼を貫いたのはわかった。動きが止まったから。息を止めた気配が、あったから。ホークスが、ゆっくりと顔を下ろして私を見る。
 私は泣いてはいない。ただ、目が潤んでいて、唇が少し尖っていて、酒で赤くなった頬が、間接照明の中で、余計に熱っぽく見えていただろう。彼は諦めたように小さく息をつくと、そのまま、ソファごと私を翼で包み込んだ。

「ごめん。忙しくてさ」

 短く、それから声の温度が少しだけやわらぐ。大きな手が私の頭にぽんと乗る。撫でるでもなくただそこへ置かれた。その重みが妙にやさしくて胸の奥が少しだけ、痛くなる。

「ホークス……」

 頭の上の手が、ぴくりと動いた。名前を呼んだだけで、指先へ少し力がこもる。

「なに」
「……ホークスっ」

 また、ぎゅうっと抱きつく。ぐ、と言葉にならない音が耳元で鳴った。酔っ払いは容赦がない。素面なら絶対にしないような甘え方を酒の勢いがいとも簡単に越えさせてしまう。ホークスは天を仰いだまま半分呆れたみたいに、さらに低い声で呟いた。

「明日の朝、また覚えてなかったら」
「んー......」
「マジでさ、今度こそ俺ほんとに泣くからね?」

 その一言を受けて私はついへらっと力の抜けた笑いを零す。ごまかすつもりだったのに、うまく隠しきれないまま答え合わせをするみたいに胸の奥に溜めていた本音が、ぽろりと転がり落ちた。

「すきって言ってもらったの、うれしかったぁ」

 その瞬間、それまで私の頭に触れていた手が、名残を断ち切るみたいに離れた。代わりに、肩に置かれた手が逃がさない程度の力で、私の身体をそっと引き戻して顔を真正面から覗き込まれる。そこにある熱は衝動的なものでも、騒がしく主張する熱でもなく、奥に沈んで、温度だけを残したまま動かない、そんな静けさだった。彼の視線の奥にあるものがふざけでも軽口でもないと言葉にされる前からわかってしまう。それはさっきまでよりも、ずっと怖くて、ずっと本気だった。

「流されたと、思っとったとに」
「……あぁ、ん……いい匂ぃ……」
「もう、聞いとらんね……」

 目が合ったかと思えば次の瞬間には、また翼へ顔を寄せて、すん、と小さく鼻を鳴らしていた。さっき確かに唇が触れ合いそうな気がしたけれどアルコールに浸された頭には、その切実さまで、きちんと届かなかった。ホークスが、ふと笑う。それは、力の抜けた、やわらかい笑い方だった。

「わたしのこと、すきぃ?」
「はいはい。好きだよー」

 翼越しの、少しくぐもった声。やさしいのに、どこか、諦めた響きが混じっていた気がした。

「どーせさぁ……み〜んなに、言うんでしょー」
「なに?」
「——あの日みたいに、アイラブユーって……」

 ホークスの眉がわずかに下がる。困ったようなでも少し、傷ついたような顔だった。

「あの日って、ベランダのとき?」
「んん……べらんだぁ」

 私は彼の服に顔を埋めるように押しつけたまま息の行き場を探すみたいに、ぼんやりと呟いた。声は自分でも驚くほど曖昧で、言葉になる手前でほどけていく。窓の外では、雲の切れ間から月がのぞいている。薄く滲んだ光が部屋の輪郭だけをやさしく浮かび上がらせていた。
 ——月が綺麗ですね。夏目漱石の、あの有名な訳文が、意味よりも先に音だけを伴って頭の中を巡る。アルコールに攪拌された思考の底でそれは回転木馬みたいにぐるぐる回り続けて、掴もうとするとすり抜ける。

「……I love you のほうがストレートだと思ったんだけどな」

 そう呟いたらしい声は夜気にほどけて、意味を残さないまま、溶けていった。ただ、その余韻をなぞるように、翼だけが、ぱさりと一度、小さく羽ばたく。
 私は彼の服の皺と皺のあいだからこぼれ落ちる月光を、わざと探しているふりをした。見上げてしまえば、きっと、全部を見てしまう気がして。頭上で彼がそのまま片手を持ち上げ、顔を覆う。指の隙間から覗く赤が夜の色とまったく馴染んでいない。耳まできれいに赤く染まっていてこんなふうに、弱いところを隠そうとして、結局なにも隠せていないヒーローだからこそ、見ないふりを選んだまま黙ってそこにいた。そして彼の体温と夜の静けさと、その赤さごとぜんぶを、胸の奥に落とし込むみたいに、私は声を落とした。

「……ねえ、ぎゅってして」

 自分でも案外大胆なことを言うものだと思う。酔っていると人は普段なら越えない線をずいぶん簡単にまたいでしまう。たぶんホークスも、もう抗うことを半分くらい諦めていたのだろう。太く逞しい腕が躊躇いなく私を抱え込んだ。翼ごと。赤い布に包まれたみたいに体温と羽毛のあたたかさが二重に押し寄せる。それはぎゅっというより大事なものを取り落とすまいとするような抱き方だった。そして、少し苦しいくらいの力で彼が、やや語気を強めて、耳元で囁く。

「みんなに言うわけないでしょ」
「………くっ、苦しっ」

 私の声に慌てて、腕の力が少しだけ緩む。でも離しはしない。そのまましばらくは、二人の呼吸だけが部屋に残った。私はそっと彼の腕の中から顔を上げる。そして今度はホークスの頬を両手で包み込んだ。相手の息が止まる。酒の余韻で熱を持った手のひらが、ナンバーツーヒーローの顔を容赦なく挟んでいた。琥珀色の瞳が見開かれて、それから、すうっと細くなる。

「酔うとーくせに……」
「……きれいな、目」
「ほんっと、人ん話聞かんね」

 それでも彼は、逃げなかった。私が顔を近づけても身を引かない。ただ見下ろしたまま、じっと受け止めている。距離が近い。互いの睫毛の本数まで、数えられそうなくらいに。酒と翼の香りが混ざった空気の中でホークスが静かに唇を開く。

「……それ、素面で言って」

 私はゆっくり、何度か瞬きをした。視界の中でヒーローの顔が、どんどん近づいていく。

「その瞳に、飲み込まれそう……」

 私は言葉と共に、少しだけ首を傾けた。彼は、拒まなかった。目を閉じもしない。ただ、静かに待っている。そのくせ、喉仏だけが一度、大きく上下していた。

「ホークス……」
「ん」
「わたしだけを、見て——」

 かちり、と何かが噛み合った音がしたわけではない。それでもその瞬間彼の中で何かが決まったのだとわかった。ホークスの両手が私へ伸びる。頬を包む私の手に重ねるのではなく、そのまま、後頭部へ回る。指先が、髪に絡んだ。

「最初から、ずっと」

 唇が触れた。深くはない。ただ押し当てるだけの確かめるみたいなキス。けれど、そのくせ彼の指は、私を離す気配がない。後頭部に添えられた手が、かすかに震えている。
 先に離れたのは、ホークスのほうだった。額と額がくっついたまま、吐息がそのまま唇へかかる距離。目の前にある彼の瞳から、いつもの余裕はきれいに消えていた。目尻が少しだけ赤い。

「……どうせ、また覚えてないんでしょ」

 少し拗ねて、どこか諦めの混じった声だった。私は瞬きもせず、その瞳から目を逸らさないままぼんやりと返す。

「……この匂いと、その瞳は、忘れないよ……」

 そのとき、彼の目が少し潤んだように見えた。間接照明のせいかもしれない。あるいは、そう、見えてほしかっただけかもしれない。
 返事の代わりに、彼はもう一度、唇を重ねる。今度はさっきより深く、角度を変えて逃がさないように。酒で熱を帯びた私とは対照的に彼の唇は少し冷たかった。冬の夜を飛んできた翼と、同じ温度。やがて、彼の方から先に距離を取り、顎を私の肩へと預けた。

「……だめでしょ、それは」

 何に対して言ったのか、すぐにはわからなかった。忘れないという言葉に対してなのか。こんな状態でそんなことを言う私に対してなのか。私は何も言わなかった。言えなかったのかもしれないし、言う必要がなかったのかもしれない。
 ホークスが顔を上げるころには、彼の腕の中の重みは少し増していた。私の身体が半分くらい、彼へ預かってしまっている。

「返事、ちょうだい」
「……なんの」
「アイラブユーの」

 ずいぶん真正面から来るなあ、と、酔った頭のどこかで、のんきに思う。私は少しだけ考えて、それから、ぽつりと答えた。

「……ありがと。」

 ホークスが目に見えてむっと頬を膨らませる。ほんの少しだけ、眉間に皺も寄った。どうやら、それは彼が求めていた返答ではなかったらしい。

「ありがと、じゃなくて」
「ん?」

 私がぼんやり首を傾げると、ホークスはほんの一瞬だけ天井を仰いだ。呆れているというより、どう言えばこの酔っ払い女に届くのかを、必死で探している顔だった。彼は、小さく息を吐く。
 冷たい空気の名残がまだ声の端に残っている。それから改めて私を見る。近い。近いのに、その目はもう、さっきみたいには揺れていなかった。揺れていないかわりに今度は逃がす気がない目をしていた。酔いでぼやけた視界でもわかるくらいはっきりと。

「俺、感謝されたいんじゃなくてさぁ」

 低い声。やわらかいけれど、甘やかしてはくれない響き。私はまだ彼の腕の中にいて、翼の先が背中のあたりをあたためている。そのぬくもりに包まれたまま、彼の言葉だけが、妙に鮮明に耳へ落ちてくる。

「好きって言ってくれてありがとうじゃなくて」

 彼はそこで一度、言葉を切って少しだけ口元を歪める。困ったような、拗ねたような顔。そしてゆっくりと、言葉を選び直すみたいにして、言い切った。

「俺は名前ちゃんにも同じもの返してほしいの」

 その言葉は驚くほど子どもっぽくて、驚くほどまっすぐだった。交換条件みたいに聞こえるのに実際にはそうではない。見返りを要求しているというより、もう一方通行では保てないところまで来てしまった人の声。

「おなじ……もの……」
「そう」

 ホークスが目を細める。私は逆に瞬きをする。ゆっくりと、何度か。まぶたが重い。頭はまだ、ちゃんと回っていない。なのに、彼の言葉だけは妙にはっきり聞こえるから不思議だ。

「��私も好き�≠ェ、ほしいの」

 酔った頭でも、その言葉からはもう、逃げられないとわかる。
 好き——。その二文字を、自分がどういう顔で口にすればいいのか、まだよくわからない。目の前にある彼の瞳は近すぎるせいか、いつもよりも少し色が深く見えた。蜂蜜というよりも、もっと煮詰めた飴みたいな、熱を閉じ込めた色。
 ホークスは、私の髪に指を差し込んだまま逃げ道を塞ぐように、それでいて痛くない力加減で、後頭部を支えている。

「好きって言われたらさぁ、ちゃんと、好きって返してほしいし」

 言いながら彼は少しだけ唇の端を吊り上げて、でも、笑いきれない顔のまま——。

「アイラブユーって言ったらさ。私も、くらいは聞きたいんだけど」

 その��くらい�≠ェ、くらいでは、済んでいないことくらい酔っていてもわかる。私は彼の胸元に手を置いた。服の下にある熱がちゃんと生き物のものとして伝わってくる。

「だから、聞いていい?」
「……」
「名前ちゃんは?」
「……、ホークス……」
「ん?」

 返事は軽いのに、視線はひとつも、軽くない。じっと待っている。待っているくせに今にも自分からまた何か言ってしまいそうなぎりぎりの顔をしている。この人は余裕があるように見せるのがうまい。けれど本当に余裕がないときほど、そのうまさの綻びが目立つのだと、私は最近ようやく知った。

「……わたし」
「うん」
「すき、って……」

 言葉が自分の喉を通るのが遅い。そこで思わず少しだけ、笑ってしまった。情けないくらいに、ちゃんと喋れない自分が滑稽で。

「うまく……伝えるのが、苦手で……」

 ホークスが、かすかに眉を寄せた。せっかちに急かしはしない。けれど、待っている。全身で、待っている。翼の先まで、じっと息を潜めているみたいだった。

「知ってる」

 ぼそりとそう言う。悪びれもしない。私はまた笑った。笑ってしまったせいで張っていた何かが少しだけ、ほどけた気がした。彼のひと言が妙に優しいせいもあるかもしれない。私が、もたもたしていることなんてきっと、とっくに見抜かれているのだろうと思うと少し悔しい。でも不思議と嫌ではなかった。その沈黙ごと受け取るみたいにして彼が、言葉を待つようにそっと促す。

「でも、ほら」
「……」
「いま、がんばって」

 その言い方が、ずるかった。励ましているようでもあり、甘やかしているようでもあって。でも結局は、逃がしていない。私は一度、息を吸う。アルコールの匂いと彼の羽の匂いと、自分の熱い呼吸が、肺の中で混ざる。

「わたし、も……」

 ようやくこぼれ落ちた声は自分でも驚くくらい小さかった。けれど、それを聞き逃すほど、この人の耳は鈍くない。ホークスの瞳が、目に見えて揺れた。私はその素直な反応に、もう少しだけ、勇気を出してみたくなった。

「……おなじ。」

 ホークスはしばらく何も言わなかった。ただ、私を見ていた。まるで、そのひと言をどこにしまおうか考えているみたいに。やがてようやく息を吐く。

「……まあ、いいよ」
「いいよ、って……なに」
「今日はこれで、勘弁しとくねって意味」
「勘弁、って……言わせ、といて?」
「はは。言わせたけどさ」

 彼の口元には、まだ笑みの余韻が残っていた。そのまま確かめるみたいにまた、額を私の額へと軽く押し当ててくる。近すぎる距離に、私はもう言葉を探すのをやめて、ただ黙った。
 次の瞬間、ホークスの指が後頭部に触れ、髪をゆっくりと梳く。さっきと同じその仕草はひどく穏やかなのに、触れられたところから感覚が走り細い電流みたいな名残が、いつまでも消えずに、そこに残った。

「同じ、ね」

 彼はそのままもう一度だけ唇を寄せる。今度は確かめるためではなく、受け取った返事への返礼みたいなキスだった。ゆっくりでやわらかくて、でも逃がさない。離れたあとも、距離はほとんどそのままだった。

「これで、さぁ……?」
「うん?」
「ありがとだけじゃないってことで……いい?」

 少し意地悪く言うとホークスが喉の奥で笑う。それから目を細めて、耳元で囁いた。

「それは、どうかなぁ」
「え……」
「まだ、足りないかも」
「えぇ……」
「でも、今日はここまで。また改めて聞くね」

 その台詞に私はまともに返せなくなった。顔が熱い。熱すぎる。さっきから、ずっと熱いのに、そこに更に火がついたみたいだった。ホークスはそんな私を見て満足そうに、でもどこか、困ったように軽く笑った。

「酔っ払い相手に本気出したら、俺が、だめな人みたいでしょ」

 十分だめっぽいことをしている気もしたけれどそこはあえて言わない。代わりに、私は彼の肩へ額を預けた。ホークスの腕がさっきより少しだけやさしく私を抱く。

「……ホークス?」
「んー?」
「アイラブユーは、まだちょっと、恥ずかしい」

 そう言うと、彼はしばらく何も言わず、視線を落としたまま黙り込んだ。その沈黙が、妙に長く感じられて胸の奥がざわつく。やがてふっと肩が揺れて、堪えきれなかったみたいに、小さく笑い出した。なんだかひどく心外だったけれどここで何か言い返したら、この空気ごと、壊れてしまいそうで、私は結局、唇を結んだまま黙っていた。

「じゃあ、それは今後の課題で」

 課題——なんて言い方をする。そんなふうに、未来の話みたいにされると胸の奥がくすぐったくなる。それでも『今後』と言ったその言葉の中にちゃんと続きが含まれていることが、何よりも、うれしかった。

「これさぁ……。明日になっても、ちゃんと覚えとってよ?」
「ん……」
「��ん�≠カゃなくて」
「……たぶん。……覚えて、る……」
「たぶん、じゃ困るんですけど?」
「じゃあ……匂いで、思い出す……」

 そう言うと、彼はまた笑った。喉の奥で、抑えきれない楽しさが転がって、そこに隠す気もない愛しさが混じっているのがわかった。

「それ、ほんと名前ちゃんっぽい」

 そう囁くように言って、彼は少しだけ、身体を離した。離したといっても唇が届きそうな距離のままで。そのまま、私を見つめる。あんなに速く空を飛ぶ人がこんなときだけはひどくゆっくりに見える。

「んー、ねむい……」

 その一言に、ホークスがくっと肩を落とした。わざとらしく見えるくらいの落ち込みかただったけれど多分、半分どころかほとんど本気だった。さっきまであれほど甘く張りつめていた空気が、睡魔ひとつにあっさり負ける。そんな事が本当にあるのだとしたら、かなり歴史的な瞬間かもしれないと、どこか、ぼんやりした頭の片隅で思う。

「……まじで?」
「うん……ねる」

 あまりにも素直な返事だったせいか、彼自身が少し気恥ずかしくなったらしい。後頭部を、がりがりと掻く仕草につられて、金色の髪が遠慮なく乱れ、その無防備さがかえって目に焼きついた。

「今のこん俺ば、スルーして寝ると?」

 ホークスは、わざと拗ねたふりをした、呆れも混じるような声をあえて作って出す。私は、彼の腕の中で小さくもぞりと身動ぎをしてから、まだ眠りの底に片足を引っかけたままの曖昧な声音で言った。

「うん……ホークスも、ねる?」

 ホークスは口をぽかんと開けて、それを一度、閉じた。数秒の沈黙。葛藤しているのがわかる。たぶん彼の中で、理性と欲と睡魔と呆れが、ものすごく狭い場所で押し合いをしていた。そうして結局、彼は小さく息を吐き出す。

「……寝る」

 負けたらしい。完全に、負けていた。速すぎる男が、酔っ払いに完敗した夜。ホークスは諦めたみたいに私を抱え直す。その腕の強さだけはまだちゃんと、頼もしい。
 私をベッドまで運んで、布団をめくってそっと寝かせるところまではぼんやりと意識があった。シーツの冷たさと、そのからすぐにやってくる、布団のぬくもり。手際のいい動き。でもそのあと彼がどこへ収まったのかは、もう記憶が曖昧だった。ただ、すぐ近くにまだ彼の気配があったことだけは、確かだった。

「……寝た?」

 夢と現実のあいだみたいなところでそんな声が聞こえた気がする。呆れているようで笑っているようでもある、耳馴染みのいい声音。

「……据え膳で生殺しは、さすがに酷かよな」

 その言葉が半分本気で、半分冗談なのもなんとなくわかる。けれど抱きついたまま眠りへ落ちていく私にはもうそれにちゃんと返事をするだけの意識が残っていない。
 彼の腕がもう一度だけ私を引き寄せる。翼まで巻き込むようにして毛布をもう一枚足すみたいにあたたかさが増した。

 深夜三時——。暖房の低い音。窓の外では雪がまだ、降っている。その腕の中で私は、ほとんど眠りに落ちかけながら遅れてひとつだけ思った。
 たぶん私は今日のことを忘れたくない。忘れたふりも、もうしたくない。そういうふうに思えるくらいには、彼の『好き』は、ちゃんと私の中へ届いてしまっていた。


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