——翌朝。カーテンの隙間から差し込む朝日でゆっくりと意識が浮かび上がった。最初に感じたのは、妙なあたたかさだった。暖房にしては生々しく、布団にしては少し重たい。眠気の底でぼんやりとその違和感を抱えたまま私はゆっくり目を開ける。自分が横たわっている。ベッドに。そこまでは理解した。そして次に自分の身体が赤くてふわふわした何かに包まれていることに気づく。
 寝返りを打つみたいに、ほんの少しだけ、顔を動かしてみた。すぐ隣に金髪。片耳のピアスが、朝日を受けて、小さく光を返している。どうやら先に目を覚ましたのは、私だったらしい。
 頭が割れそうに痛い。完全に二日酔いだ。その鈍い痛みのせいで状況を理解するのが、わずかに遅れた。ホークスが私を後ろから抱き込むように眠っていたのだ。腰にしっかり回された腕。顔は私のうなじのあたりへ埋まっていた。

(……なに、これ。)

 どういう状況……。理解した瞬間まだ半分ほど眠っていた心臓だけが、一気に目を覚ました。
 昨夜の記憶を、必死に手繰り寄せる。何か思い出せるはずだと、頭の奥へ手を突っ込むみたいに探る。けれど、本当に何も出てこなかった。断片すら浮かばない。頭痛なんて一瞬で吹き飛んで、その代わり、鼓動だけがどんどん速くなる。翼に包まれたまま、そろりと身じろぎした、そのときだった。背後の金髪が、もぞりと動く。

「……んん」

 小さく唸る声。次の瞬間、腰に回っていた腕にぐっと力がこもった。逃げ道がなくなる。思わず「ぎゃ!」と、掠れたような声が漏れた。すると寝ぼけたままの声で「うるさ」とだけ返されて、さらにぎゅう、と、抱き寄せられた。どうやら、起きたわけではないらしい。耳を澄ませば、すうすうと規則正しい寝息が聞こえる。完全に眠ったままだった。

(わ、わ、わ、わ……。)

 私は声にならない悲鳴を、心の中だけで何度も上げて慌てた。とにかく相手を起こさないようにそう自分へ言い聞かせながら、腕の隙間から少しずつ抜け出す。そして、ようやく解放されると、そのまま逃げるように寝室を飛び出しベランダへ出た。冷たい朝の空気を肺いっぱいに吸い込む。胸の奥まで刺さる冷たさに、ようやく少しだけ、思考が動き始めた。そこで改めて、ここが自分の部屋ではないことに気づく。ホークスの部屋だ。あまりにも、今さらな事実だった。
 朝の冷気に当たれば酔いも混乱も少しは引くと思っていた。けれど醒めたのは身体だけで頭の中はまるで追いついてこない。鼓動だけがひとりで騒ぎ続けている。私は、ベランダの手すりへ軽く手を置いたまま、必死に考える。——どうして、ホークスの家にいるのか。どうしてあんなふうに抱きかかえられて眠っていたのか。けれど記憶は見事なくらい何も返してこなかった。
 最後に覚えているのは駅前でスマートフォンを握っていたところまで。そこから先だけがまるで誰かに切り取られたみたいに消えている。
 私は、ふと振り返った。リビングのテーブルが目に入る。そこには、水の入ったペットボトルと小さな箱。おそらく頭痛薬だ。それから、一枚のメモ。私は部屋の中へ戻って、それを手に取る。見慣れた、少し癖のある字だった。

 【起きたら水飲んで。二日酔いに効くから
  あと昨日のこと覚えてなかったら
  俺たぶん泣くので覚悟してください】

 ——嘘でしょ。思わず心の中で呟いた。また、やらかした。��また�≠ニいう言葉が、あまりにも自然に浮かんできたあたり自分も相当どうかしていると思う。どうすることもできなくて私はもう一度ベランダへ逃げた。今度はガラス戸を閉め、手すりにもたれて、空を見上げる。雲ひとつない青空だった。世界は驚くほど平和なのに私の内側だけが台風みたいに荒れている。すうと吸って、はあ、と吐く。何度繰り返しても少しも落ち着かない。意味があるのかないのかも、わからない。
 そのときだった。背後でガラリと、大きな音を立てて、ガラス戸が勢いよく開いた。

「ひぃっ、」

 思わず情けない声が漏れて、私は、飛び上がるみたいに振り返った。そこには、この部屋の主が立っていた。髪は寝癖で好き放題に跳ねていて、いつものオールバックは見る影もない。鋭いはずの蜜色の瞳も半分しか開いておらず、いかにも、起きたばかりという顔をしていた。
 それなのに——。そんな隙だらけの姿ですら、やっぱり、この人は��ホークス�≠セった。

「……おは。」
「おっ……おはよう、ございます……」

 つられるように、こちらまで変な挨拶になってしまう。ホークスは、笑いもしなかった。ただ、じっと私の顔を見ている。観察するように。何かを確かめるように。その視線が思った以上に真っ直ぐで、私は意味もなく、背筋を伸ばした。沈黙だけが、朝の空気の中で、じわじわと長くなる。冷たい風が頬を撫でても、その視線だけは少しも逸れない。それに耐えきれなくなったのは、私のほうだった。

「な、なんですか……」

 聞いても、すぐには返事がない。一秒。二秒。もっと、長かった気もする。やがてホークスは、小さく瞬きをして、ようやく口を開いた。

「逃げたと?」

 低い声だった。責めるというより拍子抜けしたような、それでいて、少しだけ不安を隠しているような声音。目元を軽くこすりながら欠伸を一つする。その様子があまりにも自然で昨夜の出来事を思い返そうとしている気配なんて欠片もない。そもそも思い出す必要がないのだ。全部、覚えている人の顔だったから。私は、慌てて首を振る。

「い、いや……」
「……」
「ちょっと、その……外の空気吸おうかなって」
「ふぅん?」

 まだ半分くらいしか信じていない返事だった。語尾だけが少し上がる。『ほんとに?』と、そのまま声にしたような響きだった。その曖昧さに、ますます落ち着かなくなって私はとうとう、一番聞かなければならないことを口にする。

「あ、あの……私、どうしてホークスの部屋に」

 彼は、一瞬だけ首を傾げた。何を聞かれているのかわからないというより、そんなことを今さら聞くのか、という顔だった。それから、口元だけ緩めて「なんで、って……」と、少し笑う気配を混ぜると——。

「泊まったからでしょ」
「……え?」
「ん?」
「いや……いやいやいやいやいや」

 反射で、全力否定していた。何を否定しているのか、自分でもよくわからない。泊まったという事実なのか。その理由なのか。あるいは、昨夜の自分自身なのか。
 ホークスは肩を揺らして小さく笑うとそのまま私の隣まで歩いてきた。朝の冷たい風が、金色の髪をさらりと揺らす。寝癖の残った前髪まで風に遊ばれていて、つい数分前まで寝ていた人らしい無防備さが、妙に新鮮だった。

「ぎゃ! 近いですって!」

 思わず、半歩身を引く。すると彼は、ようやく見慣れた笑い方をした。余裕があって少し意地が悪くて、でもたぶん本気で私をからかう気はないあの笑い方だった。そのまま彼は目尻を少しだけ下げて、悪戯が成功した子どもみたいに、口角を上げる。

「昨日は、あんなにくっついてきとったとに?」

 そう言って柵に肘をつき自分の首筋のあたりを指先でとん、と叩く。前言撤回だ。その言い方があまりにも楽しそうでこちらの反応を面白がっているのが、丸わかりだったから。

「ここらへん。首んとこ、くんくんって」

 言いながら自分で思い出して少し笑っている。やはり完全に楽しんでいる。朝日の中で見る彼は信じられないくらいに機嫌がいい。対して私は、たぶん、朝日より、よほど顔が赤かったと思う。

「——し、してませんっ!」

 勢いよく否定してから自分の記憶がないことを改めて思い出して「……たぶん!」と慌てて付け足した。そんな私を見て彼は、目を細める。

「たぶん?」
「ゆ、夢です! 夢!」
「夢なんだ」

 くす、と笑われる。その笑い方だけで、彼が、昨夜の全てを覚えているのが伝わってきた。私は両手を胸の前で、ばたばたと振る。

「と、とりあえず……!」
「はいはい?」
「今は、頭の整理をさせてください……!」

 彼はとうとう吹き出した。しばらく腹を抱えて笑っていたが、笑いすぎたとでも言うみたいに、小さく息を吐いてから、一歩だけ距離を取る。

「どうぞ? じゃ、俺キッチンいるけん」
「……っ、」
「落ち着いたらおいで」

 それだけ言ってひらりと片手を振る。そのまま部屋の中へ戻っていく背中は、翼まで少し機嫌がよさそうに揺れていた。ガラス戸を開けたまま、戻っていったのは、彼なりの気遣いだったのか、それとも、わざと逃げ場を残さないための悪戯心だったのか。私には、最後までわからなかった。昨夜のことを思い出しているのか、それとも私の反応がそんなに面白かったのか。たぶんその両方なのだろう。私はベランダに一人取り残される。冷たい風が火照った頬を撫でても熱だけは少しも引いてくれなかった。
 頭の整理。そう、いま必要なのはそれだった。昨日の夜を、ひとつずつ順番に思い返してみる。酒を飲んだ。帰ろうとした。寒かった。駅前で、スマートフォンを握っていた。ホークスに電話をかけた——いや、かけようとしていたのか。そこまではなんとなくぼんやりと輪郭がある。けれどその先だけが見事なくらい霧の中だった。
 私はその場にしゃがみ込んで両手で顔を覆う。指の隙間から、朝日が容赦なく差し込んでくる。冷たい空気を何度吸い込んでも火照った頬だけはちっとも冷えてくれない。むしろ、思い出せない焦りだけが、じわじわと熱になって、身体の中へ広がっていく。部屋の中からは、冷蔵庫を開ける音がした。何かを取り出して、ごとりと置く音。そのあとで聞こえてきたのは、あまりにも呑気な声だった。

「お、卵あるじゃん♪」

 弾んだその一言が今の私の心境とはあまりにも温度差がありすぎて、思わず脱力する。
 五分。十分。十五分——。何かが解決するわけでもないまま無駄に時間だけがするすると流れていく。このままベランダで現実逃避を続けても、仕方がない。私は深く息を吸い込んで、ようやく腹を括った。室内に戻って、ガラス戸を閉める。

「あ、あの……」
「……」
「昨日は、本当に申し訳ございませんでしたっ」

 フライパンを握っていたホークスが、その声でようやくこちらを見た。卵が焼ける香ばしい匂いが部屋いっぱいへ広がっている。私はというと、勢いよく頭を下げたまま、顔を上げられない。

「デジャブ」
「え?」
「『申し訳ございませんでした』って」

 思わず頭を上げると、そこには、少しだけ残念そうに眉を上げて、肩を揺らす彼がいた。

「敬語、戻っちゃってるしねぇ」
「……」
「何? 取引先の人?」

 冗談みたいな口調だった。その軽さに救われた気がして、少しだけ肩の力が抜ける。責めているわけではない。でも——だからといって、笑って全部を流そうとしているわけでもない。心配したことだけは、ちゃんと忘れずに持ったまま、空気だけを、軽くしてくれている。そういう、絶妙なところにいる声だった。ホークスは器用にフライ返しを返しながら顎でテーブルのほうを示した。

「ほら、座っとって」
「……」
「もうすぐできるから」

 リビングのテーブルにはすでに味噌汁と白米が並んでいた。さっき、私がベランダで頭を抱えていた間に準備したのだろう。剛翼で運んだのか、それとも、単純に手際がいいだけなのか。たぶんこれもその両方だ。こういうところだけは不思議なくらい生活力が高い。
 人気ヒーローが、朝から卵を焼いている。もしこの光景を彼の雛鳥ちゃんたちが見たらどうなるだろう。きっと「料理まで出来ちゃうホークス、最高!」と、人気がさらに上がるだけか。そんなことを考えてしまう自分に、少しだけ苦笑した。

「ほんとさぁ、お酒弱いのに無茶するよねー」

 フライパンから視線を外さないままホークスがぽつりと言う。やはり、責める声音ではないが、どちらかといえば、何度も同じことを繰り返してしまう相手への、小さな呆れに近かった。

「……いや、昨日は……セーブしてたつもりで」
「セーブしてたのに、飲みすぎたんだ?」

 穏やかな声。穏やかなのに、うまく逃がしてはくれない。責める言葉は一つも使っていないのにその声音だけで「……で?」と、続きを待たれている気がする。私はラグの上へ腰を下ろしながら小さく肩をすくめた。

「……で、ですね」
「何杯くらい飲んだと?」
「えっと……ビールを数杯と、そのあと日本酒を少々……」
「日本酒ゥ? 渋。」
「で、たぶん、その日本酒がいけなかったんじゃないかな、と……」

 自分でも、だんだん語尾が小さくなっていく。言い訳をしている自覚があるからだ。ホークスは卵に塩胡椒を振りながら、小さく頷いた。

「結果、覚えてないくらい飲んだんだ」

 その一言だけだった。声は相変わらず優しい。優しいのに、ちゃんと圧がある。そのやさしさが逃げ道になってくれない。「大丈夫」と、慰めるでもなく「もういい」と、終わらせるでもない。ただ、事実だけを静かに置かれる。それだけで、「それで済ませる気?」と、問われているような気がして、私は思わず視線を落とした。

「どこまで覚えてる?」
「えっと……なんとなく、マンションまで帰ってきた、ところまでは……」

 そう答えながら自分でも嫌になるくらい曖昧で情けなくなる。覚えていると言えるほど鮮明でもなければ、何も覚えていないと言い切れるほど、綺麗に、抜け落ちてもいない。一夜明けてみて、ところどころ輪郭だけが残っていてその先へ手を伸ばそうとすると霧の中へ沈んでしまう。部分的に覚えているぶん、全部をなかったことにはできない。だからこそ、確かめるのが怖かった。思い出したいような思い出したくないような、そんな中途半端な場所に立たされている気がした。

「そっか」

 しかしホークスは、小さく頷いただけだった。声は平坦で短い相槌のようであり、落胆しているようでもあった。ただ、事実だけを、静かに受け止めたみたいな響きにも聞こえたがそれも結局は私の想像に過ぎないので、その声からは何も読み取れないのが事実だった。

「ごめんなさい」

 自然と、そんな言葉が口をついて出る。視線を落としたままいると、少し間を置いてホークスが聞いた。

「それ、何に対してのごめんなの?」
「酒癖が……よろしくないこと、ですかね」

 口にした途端、自分でも違う、と思った。苦し紛れの答えだった。彼の声は、どこまでも穏やかなのに、その穏やかさがかえって逃げ道を塞いでくる。何を返せば正解なのか分からない。たぶん彼が聞きたかったのはそこじゃない。その証拠にホークスの肩が、ほんのわずかに強張ったように見えた。

「そっちかぁ」

 ゆるく息を吐く。苦笑とも違う、呆れとも違う声音だった。その短いひと言だけで聞きたいのはそこじゃないよ、という空気が、ちゃんと滲んでいた。それでも彼はそれ以上、追及しなかった。問い詰める代わりに静かにこちらへ歩いてくる。フローリングに落ちる足音まで穏やかで、それがかえって胸に刺さった。

「はい、とりあえず水」
「……」
「置いてたペットボトル、手ェつけてなかったでしょ」
「あ、はい……」

 不意に差し出されたグラスを受け取ろうとしたところで、彼が手を少しだけ引き、グラスを高く持ち上げ、口角を上げる。

「惚れ薬が入ってるかも?」
「えっ」
「うそ」

 あまりにもさらりと言うものだから私は思わず言葉を失った。笑っているくせに、この人なら、冗談ではなく、本当に入れてきそうで、その想像だけが、妙に現実味を帯びてしまう。

「や、やめてください……い、いただきます」

 情けない声になりながら水を一気に飲み干す。ただの水が、五臓六腑へしみ渡るみたいだった。二日酔いで熱を持った頭には、ありがたかった。それでも頭痛はまだ鈍く残っているし、胸の奥を占める落ち着かなさは少しも薄くならない。二日酔いと記憶の空白と目の前のホークスの落ち着き払いすぎた態度とその全部が一度に襲ってくる。
 昨夜の空白。メモに書かれていた一文。そして目の前で普段通りに振る舞うホークス。その三つだけがどうしても噛み合わなかった。彼は向かい側へ腰を下ろして頬杖をついた。いつもの飄々とした笑顔で軽口を叩いて、人の懐へするりと入り込む、私の知っているホークス。彼は、こちらを見たまま、軽く首を傾げる。

「朝ごはん食べる? おかずは、目玉焼きくらいしかないけど」

 そう言って立ち上がるとまたキッチンへ戻っていく。あまりにもいつも通りだ。昨夜のことなど最初から存在しなかったみたいに、皿を取り出す手つきまで普段通りで、どれも昨日までと変わらない生活の音だった。なのに——。その自然さがどこか、少しだけ不自然に思えた。むしろ、怖いくらいだ。何事もなかったように笑っているからこそ本当は何かを飲み込んでいるのではないかと思ってしまう。きっと彼は変わらないようにしてくれているのだろう。そんな気がしてしまうと、胸の奥がまた少しだけ痛んだ。
 メモには、あんなことが書いてあったのに……あれを書いた人と、今こうして平然と卵を焼いている人がどうしても同じ人に思えない。どうにも噛み合わない。

「あ、あの……わたし、帰りますね」
「……」
「朝ごはんは、自分で適当に用意しますので」

 私はそっと立ち上がって、そう小さく呟いた。思ったよりも頼りない声になってしまった。彼はレタスを皿へ盛りつける手を止めないまま聞く。

「鍵、あるの?」
「え?」
「鍵。うちのドアに刺さったままだったけど」
「え!?」

 ホークスは人差し指へ鍵を引っ掛けてくるりと回す。見覚えのある、小さなストラップ。間違いなく私の鍵だった。もっとかわいいストラップをつけておけばよかった、なんて後悔する。同時に頭の中で、昨夜の自分が、ぼんやり再生された。
 そうだ。そうだった。昨夜、私は、自分の部屋ではなく、ホークスの部屋の鍵穴へ、自分の鍵を差そうとしていた。思い出した瞬間、顔から火を吹きそうになり、穴があったら入りたくなった。

「相当酔ってたね、昨日」

 確信に迫る。責めるでもなく、笑うでもなく、ただ、事実だけを言われるほうがずっと堪えた。「ほんと、すみません……」と、声が、どんどん萎んでいく。彼は、焼き上がった目玉焼きを皿に滑らせて、もう一度こちらへ顔を向けた。

「ねえ」
「……はい」

 笑っている。口元だけ見ればいつもの柔らかい笑みだった。けれど、蜜色の瞳だけは少し違っていた。穏やかに笑ったまま、まだ、胸の奥へしまえずにいる何かを、そのまま、抱えているような目だった。

「俺に何か、言うことない?」
「……ごめんなさい以外に、思いつく言葉がないです」

 ただ静かに、問いかけられるだけなのに、その一言が思った以上に胸へ重く落ちて言葉を返した瞬間、自分でもひどい答えだと思った。
 逃げているつもりはない。けれど、記憶がない以上、それ以上の言葉を、持っていないのも事実だった。
 ホークスは少しだけ片眉を動かし「ふぅん」とそれだけ返す。そのまま皿を二枚持ってきて私が立ち尽くしたままのテーブルへ、ことりと静かに置いた。そして何も言わず目だけで「座って」と促す。その無言の圧に負けて、逆らえる空気でもなく、私は観念したように、もう一度、腰を下ろした。

「じゃあ、思い出すまで帰さない」
「ええ……そんな、無茶な……」

 口にしてから、自分でも驚くほど弱々しい抗議だった。ホークスはさきほどと同じように向かい側へ腰を下ろす。あぐらをかくまでの一つひとつの動作がやけに落ち着いていて、その余裕がかえって怖い。私だけが慌てている。そんな構図が、ますます鮮明になってしまう。

「無茶なのは、どっちだと思う?」

 頬杖もつかず、まっすぐこちらを見る。その、蜜色の瞳にはいつもの柔らかさがちゃんと残っている。なのに、少しも逸らしてくれない。もし、私がヴィランだったら戦う前に白旗を上げていたかもしれない。

「酔って、人ん家に転がり込んできてさ」
「……」
「抱きついて、煽って……」
「……、」
「——キスしてきたの、誰?」
「…………えぇっ!?」

 身体が勝手にのけ反る。勢い余って、そのまま後ろのソファへ転がりそうになった。心臓だけが飛び跳ねる。ホークスは腕を組み直し、少しだけ顎を上げて、わざと見下ろすように私を見る。

「ほら」
「……」
「なんか思い出した?」
「いいえ、まったく!」

 首をぶんぶん振る。ここまで勢いよく否定したのは人生で、初めてかもしれない。ホークスは、大きく肩を落とした。「はぁ……」と、その落ち込み方があまりにも露骨で一瞬、本当に悪い事をした気持ちになる。……いや。もしかすると演技かもしれない。でも、演技だったとしても、上手すぎた。私はしばらく黙ってテーブルの縁だけを見つめていた。顔を上げる勇気が出ない。昨夜の自分が知らないところで、何をしたのか。それを知るのが怖かった。
 ようやく意を決して顔を上げる。すると彼は、さきほどまでとは少しだけ違う表情をしていた。どこか、吹っ切れたような。諦めたような。開き直った人の顔だった。それが私にとっていい方向なのか悪い方向なのかは、まだわからない。

「……じゃあ、もう一回やる?」
「はい!?」
「ん?」

 あまりにも自然に言うものだから、一瞬、何の話なのか分からなかった。しかし理解した瞬間、耳まで急激に熱くなった。ホークスはそんな私の様子を見て、喉の奥で、くくっと笑う。

「い、いえっ! 遠慮しておきますっ!」
「遠慮すんの?」
「します」
「あそ。残念」

 彼は肩をすくめて小さく息を吐いた。それでもその一言だけ妙に本気っぽく聞こえてしまって、ますます顔が熱くなる。もう、何をごまかしたらいいのかわからなくなって、私は、慌てるように視線を落としたまま、言葉を重ねた。

「ほんと、何から何まですみません」
「……」
「人気トップヒーローの隣人が、こんな、だらしない凡人で……」

 そこまで口にしたところで、ホークスの目が、すっと細くなった。部屋の空気がほんの少しだけ張り詰める。さっきまで肩を揺らして笑っていた人と同じとは思えないくらい、その眼差しは静かだった。

「それ、やめて」

 怒っているわけではない。ただ、そこだけは、聞き流せないとでも言うみたいに、低く、短い声だった。彼がテーブル越しに少しだけ、身を乗り出す。軽口も、からかうような笑みも、その一瞬だけ、きれいに消えていた。その真剣さに私は、うまく言い返せないまま、言葉を探す。

「隣人とか凡人ってやつ。それ、やめてって俺に何回言わせる気?」
「いや、でも……」
「……」
「ヒーローから見たら、私なんてほんと平凡な、ただの——」
「ヒーローとか関係ないじゃん」

 最後まで言わせてもらえなかった。あまりにも迷いのない声で遮られ喉まで出かけていた言葉がそのまま、胸の奥へ落ちていく。その間も彼は、一度も視線を逸らさなかった。

「俺が好きになったのはさ」
「……」
「ホークスのファンじゃない人なんだけど」

 さらりと言った。あまりにも自然で、飾り気がなくて、だからこそ、胸の奥まで真っ直ぐ届いてしまう。けれど、その自然さこそがいちばん効いた。私はまた何も言えなくなる。声は落ち着いているのに、そこだけ妙に熱を持っていた。
 人気ヒーローだとか、凡人だとか。私はそんな肩書きを並べて自分から少し距離を置こうとしていたのかもしれない。自分で自分を安全な位置へ下げようとしていたのをこの人はたぶん最初から見抜いていたのだろう。傷つかないように。期待しすぎないように。でも、このヒーローはたぶんとっくに気づいていた。気づいたうえで、見抜いたうえで、その逃げ道だけは認める気も許す気もないのだ。

「……ほんと、ごめんなさい」

 口をついて出た数分前と同じその一言に、彼はとうとう額へ手を当てた。深く息を吸って、ゆっくり吐く。その仕草だけで今の謝罪は彼が聞きたかった言葉ではないのだと、わかってしまう。

「……謝ってほしいわけじゃなくてさぁ」

 指の隙間から蜜色の瞳がこちらを見た。いつもの軽い口調へ寄せようとしているのに声の底だけがどうしても隠しきれない。そんな静かな熱が、そこには残っていた。
 沈黙が落ちる。換気扇の低い音だけが、部屋を満たし、テーブルの上では目玉焼きと、味噌汁の湯気が少しずつ細くなっていく。時計の秒針だけが何事もない顔で時間を刻み続けていた。やがてホークスは、そっと手を下ろした。

「この匂いと瞳は、忘れないって、言ってくれたよね」
「……」
「あれも、お酒のせい?」

 静かな声だった。責めているわけでも、試しているわけでもない。ただ、昨夜の言葉だけは本当だったのか、それだけを知りたい、という声音。
 私は乾いた唇をそっと舐める。ごまかしたい。笑って流してしまいたい。そう思うのに、ごまかしたところで、この人はきっと笑ってはくれても納得だけはしないのだと、もうわかっていた。

「あの……」

 喉の奥で言葉が小さく引っかかる。何度か息を整えても、うまく、前へ進んでくれない。視線を落としたまま、膝の上で指先を絡める。

「その……ホークスの、熱愛報道が出て……」
「……」
「なんか、モヤモヤしてて……」
「……」
「ひとりで、そのまま飲みに行って……」

 そこまで言ったところで、部屋の空気がふっと止まった気がした。恐る恐る顔を上げる。彼が、目を見開いていた。驚いているらしい。それは、私にも、すぐにわかった。
 けれど、その驚きの奥にある感情は、私には、名前がつけられなかった。嬉しそうにも見える。信じられないという顔にも見える。どちらも隠し忘れたまま、そのまま表情へと浮かんでしまったような顔だった。彼は「待って」と小さく言って息をひとつ吸う。

「それって、さ」
「……」
「……嫉妬?」

 あまりにも真っ直ぐだった。直球すぎる。回りくどさも探るような言い方もない。だから余計に逃げられなくなった。私は思わず、眉を寄せる。

「嫉妬と、いいますか……」
「うん」
「……なんなんでしょうね」

 自分でもまだうまく名前をつけられない。胸の奥がざわざわして、苦しくて、落ち着かなくて。昨夜、感じていたものを、一言で説明できるほど器用ではなかった。
 しかし、次の瞬間。音もなくホークスはもう、立ち上がっていた。テーブルを回り込んでくる。迷いのない速さで。こういうところだけは本当にヒーローらしいと思う。気持ちが身体より遅い人ではないのだ。気づけば彼は私の目の前に立っていた。自然と、見上げる形になる。金色の前髪がさらりと揺れてその影が私の膝へ落ちる。片耳の赤いピアスだけが、朝の光を小さく弾いていた。

「……なんなんでしょうね、じゃないでしょ」

 声はやさしいのに、笑ってはいない。けれど、責めてもいない。それなのに不思議なくらい逃げ場だけがない。背中では赤い翼が、ごくわずかに開いていた。本人より先に感情が滲んでしまうのは、たぶん、あの翼の正直なところなのだろう。
 ホークスは、そのままゆっくりしゃがみ込み、私と目線を揃える。蜜色の瞳が真っ直ぐこちらを映していた。どこまでも静かで、どこまでも本気だった。

「もう一回、言ってもらえる?」
「……なに、を」

 そう聞き返しながらも逃がしてもらえないことくらいは、わかっていた。彼は瞬きひとつせずに淡々と続ける。

「モヤモヤの理由」

 私は膝の上で組んだ指先へ、力を込める。ここまで来たら、もう、曖昧なままでは終われない。言葉にしたくないのは、言葉にした瞬間、本当になってしまう気がするからだ。だから怖い。でも多分、もうとっくに本当だったのかもしれない。

「……ホークスの、熱愛報道」
「うん?」
「別に……仕方ないことなんだろうなって思ってました」

 人気ヒーローなのだから。恋人がいても好きな人がいても、何もおかしくない。そう自分へ言い聞かせようとしていた。していた、けれど——。

「でも……直接、電話くれて」
「……」
「ちゃんと違うって、弁解までしてくれて……」

 そこまで言って何かがわからなくなった。胸の奥が、きゅっと縮む。嬉しかった。安心もした。なのに、その安心がどういう種類のものなのか、自分で説明できなくなった。それでも私は自分の声が少しずつ小さくなるのを感じながら続けた。

「それで……よく、わからなくなって……」

 そのまま素直に伝えた。息をひとつ飲み込む。ホークスは何も言わない。相槌も打たない。ただ私だけを見ていた。それは、言葉をひとつも聞き漏らすまいとするような、静かな眼差しだった。

「……やけ酒、しちゃって……」

 最後はほとんど呟きに近かったと思う。語尾が少し消える。恥ずかしくて顔が熱い。二日酔いのせいではない。きっともう、その理由くらいは、自分でも、わかっていた。
 しばらく沈黙だけが落ちて、その静けさを破るようにホークスがふっと息を吐いた。笑ったのか安心したのか、それとも、張りつめていたものがほどけたのか。そのどれとも違うような、小さな吐息だった。そして彼は、ごく自然な手つきで、私の両手を、そっと包み込んだ。

「仕方なくなかよ」

 そう言って、ホークスは私の両手を包んだまま少しだけ指先へ、力を込める。ひんやりとした手だった。空を飛び回っている人の体温。冷たいのにその奥には確かな熱が眠っていて��生きた手�≠ネんだと、触れた瞬間にわかる。

「あのネタ、全部潰したから」

 あまりにもあっさりした口調だった。まるで、今日の仕事をひとつ片づけましたよ、とでも言うみたいにして。私は、思わず瞬きを繰り返す。

「相手の事務所にも話つけた」
「……そう、ですか」

 それしか返せなかった。頭の中で、その言葉の重さがうまく、形にならない。人気ヒーローが、自分のためにそこまで動いた。その事実だけが、胸の奥へと静かに沈んでいく。すると、私の手を包む指先にさらに少しだけ力が加わった。そして困ったように笑って言う。

「もぉ〜。『そうですか』じゃなくてさぁ」

 そのまま少しだけ身を乗り出してくるから額が触れそうなくらい近くなった。私は思わず、息を止めた。

「俺、言ったよね」
「……」
「好きって。アイラブユーって」

 蜜色の瞳は、まっすぐ私を見たまま一度も逸れない。声音は、落ち着いていた。落ち着いているからこそ、冗談では済まない本気だけが真っ直ぐ伝わってくる。

「あれファンに言う台詞じゃないでしょ。普通に考えて」

 その通りだった。その通りなのに——。私は、恥ずかしさをごまかしたくて、また余計なことを口にしてしまう。

「いやぁ……ホークスくらいファンサの多いヒーローなら、演技でそれくらい……」

 また最後まで、言わせてもらえなかった。言い終わる前にホークスが堪えきれずに「ぶはっ」と吹き出したから。肩を揺らして笑いながらも私の手だけは離さない。

「演技て」

 可笑しそうに繰り返す。笑っている。なのに、その目の奥には別の色も滲んでいた。呆れているような。愛しいものを見て、困っているような。そんな、複雑な光だった。

「ファンサで律儀にベッドまで連れてくヒーローおったら、大問題でしょ」
「えっ」

 その一言で、頭の中が真っ白になる。思考が、途中で止まった。止まったまま、口だけが勝手に「うそ……」と、動く。変な沈黙が落ちる。鼓動だけがやけに大きく聞こえた。私は恐る恐る顔を上げた。

「わたしたち……もしかして……昨日……」
「……」
「しちゃったんですかぁ!?」

 その瞬間、ホークスの表情から、笑みがすっと消えた。あまりにも一瞬で切り替わったものだから、私のほうが遅れて自分が何を言ってしまったのか理解した。
 しまった。たぶん、今のは違う。そう気づいた頃にはもう遅かった。ホークスは何も言わない。ただ黙って、私を見つめている。さっきまで額が触れそうなくらい近かったはずなのに、その沈黙だけが、急に二人の間へ距離をつくった。
 私は小さく、唾を飲み込む。やってしまった。どうして私は、こういうときだけ余計な想像力を発揮してしまうのだろう。何を、どこまで、どう勘違いしたら、そこへ飛躍するのか自分でもよくわからない。わからないまま次に返ってくる彼の一言だけが、どうしようもなく怖かった。

「してない」

 しかしそれはほとんど反射だった。食い気味なほどに。そこだけは、一秒たりとも間を置きたくなかったのだろう。否定だけは真っ先に届かせたかった、そんな勢いだった。
 ホークスは心外そうに、眉を寄せる。少しだけ拗ねたようにも少しだけ傷ついたようにも見える顔だった。

「……なんならさ。『した』って嘘ついちゃおうかなー、とか一瞬思ったけど」

 彼は肩を落とすように息を吐いてから、わざとらしくそう言って小さく笑う。

「抱きつかれてキスされてさ。そのまま、寝落ちされたの、俺のほうなんですけどねぇ……」
「……す、すみません」

 反射的に謝る。謝るしかなかった。ホークスはわかりやすくため息をついて、額を軽く掻いた。

「……何もしてません。そこは誓うよ」

 真っ直ぐな声だった。だからこそ、そのあとに続いた言葉で、また心臓がおかしくなる。彼は、ほんの少し視線を逸らして付け足した。

「まあ……キスは、俺からしちゃったけど……」

 一行ごとに違う角度から胸を撃ち抜かれるような感覚が走る。私が記憶をなくしているあいだにそんなことが起きていたらしい。頭の中で必死に状況を並べようとしても、途中で全部、崩れてしまう。処理がまるで追いつかない。ホークスは、そんな私を急かさなかった。からかうような顔はしているのに本当に大事なところだけは、じっと返事を待っている。そのやさしさが、余計に落ち着かない。

「あの……」
「ん?」
「信じて、ほしいことがあって」

 ホークスの眉が、わずかに上がる。私は私で、喉が少し渇いて仕方がなかった。

「酔っ払ったからって……誰にでもあんなふうに甘えたりしてるわけじゃ、ないので……」

 最後まで言い切るころには自分でも耳まで熱くなっているのがわかった。『あんなふうに』と、言っても私はその中身をほとんど覚えていない。それでも聞かされた断片だけで十分すぎるくらい恥ずかしかった。ホークスは一度その言葉を胸の中で転がすように黙ってから、片眉だけを、少し上げた。その口元だけが緩む。

「——って、ことは」
「……」
「つまりは、俺だけ特別ってこと?」

 その聞き方は、ずるいと思う。冗談っぽい顔をしているくせに、その瞳だけは少しも笑っていなくて、答えだけはひどく本気で待っている。私は視線を逸らしかけて、でも最後まで逸らしきれなかった。

「……今のところ、は?」

 消え入りそうな声で言った。その瞬間だった。ホークスの瞳が、ふっと明るくなる。本当に一瞬だけだったのに、部屋の空気まで少し軽くなった気がした。

「今のところ、ね」

 噛み締めるように繰り返す。その声は妙に満足そうで、どこか、獲物を見つけた猛禽みたいでもあった。きっと彼の中ではその一言だけでも十分だったのだろう。ホークスは、にっこり笑った。今度は照れ隠しでも、軽口でもない。今度こそ、心の底から嬉しそうな笑顔で。

「十分」

 たったそれだけなのに、その声には、不思議なくらい満足感が滲んでいた。私はそれ以上、その笑顔を見ていられなくなって逃げる口実みたいに立ち上がる。

「あの……ほんと、帰りますね」

 その言葉で握られていた手がようやく離れた。名残を惜しむように指先だけが一瞬だけ触れて、それもすぐに離れる。いや、離れたはずだった。

「朝ごはん、食べてからにして」

 ホークスが、冷めかけた目玉焼きを顎で示してにこり、と笑う。有無を言わせない笑顔だった。柔らかい笑顔なのに、不思議なくらい、断る隙がない。たぶん、今ここで「帰ります」ともう一度言ってもこの人は笑ったまま首を縦には振らないのだろう。結局、私は観念して、もう一度ラグへ腰を下ろした。少し冷めた目玉焼きは思っていたよりずっと味が濃かった。味噌汁をひと口飲み、水をもう一杯、ゆっくり流し込む。騒がしかった頭が少しずつ静まっていくころには、壁の時計の針は、いつの間にか、十一時を回っていた。

「……今日は、任務とかは」

 そう尋ねると、ホークスは背中の翼を一度だけ軽くほぐすように動かした。赤い羽が、さらりと擦れ合って、小さな衣擦れにも似た音が、部屋へ落ちる。

「午後からパトロール」

 気負いのない返事。相手の休日の朝と、自分の仕事の日の境目を、あまり意識していないような人の声だった。

「そうなんですね……私は今日、お休みで」

 私がそう返すと彼は壁の時計へちらりと視線を向ける。まだ時間はある。そんなことを確認しただけの何気ない仕草なのにどこか羨ましそうにも見えた。そして、少し肩を竦める。

「いいねぇ、休み」
「有休消化ですね」
「なるほどね」
「夕方からは、友人が好きなヒーローの、ファンミーティングに出かけますけど」

 その瞬間だった。ホークスの目が、ほんの一瞬だけ細くなる。鋭い。けれど、それも本当に一瞬だけだった。次にはもういつもの穏やかな表情へ戻っている。そして何でもないように聞き返してきた。

「へえ〜。誰のファンミ?」
「エッジショット、だったかな……」
「あー、エッジショットね」
「本当は、ベストジーニストも一緒だったんですけど……急遽、変更になって」

 彼は、ふーん、と鼻で小さく息を鳴らす。妙に素っ気ない。言葉だけなら何でもないのに、声の温度だけが少し低かった。ナンバーツーとしての意地なのか。それとも、もっと子どもっぽい理由なのか。そのどちらなのかはわからないけれど。
 ホークスは翼の先で自分の肩を、とん、と軽くつつきながら言う。

「かっこいいもんねー」
「いえ、私は付き添いで……」
「付き添い?」
「そもそも私、ヒーローにそこまで興味があったわけじゃなくて——」

 そこまで言って「あっ」と、自分で自分の口を押さえた。しまった——今のは、あまり良くない言い方だった気がする。地雷を踏んだ音がした。気のせいかもしれない。でも、たぶん違う。その証拠にホークスが、にっこり笑った。

「今、『あ』って言ったよね?」
「い、いや、ほんとなんです!」
「なにが?」
「ほんとに前は……!隣にヒーローがいるなんて知るまでは、興味なかったんですよ!」
「前は、ね」

 さらりと返される。その言葉で自分が過去形を使ったことに気づく。つまり。今は違うと自分で認めたようなものだった。
 ホークスの翼が、ふわりと小さく揺れる。最近わかるようになってきた。彼は、感情を隠すのが上手なのに翼だけは案外正直だ。機嫌がいい時は羽先がどこか軽くなる。本人はきっと無意識なのだろうけれど。

「今は?」
「……。」

 やっぱり聞かれた。少しだけ首を傾げるような何気ない聞き方だった。何気ないふりをしているだけ、とも言えたけれど。私は、少しだけ視線を泳がせてから、小さく答える。

「今は……ホークスを、応援してます……」

 部屋が静かになった。ホークスが、石のように固まっている。本当に、一瞬だけ時間が止まったみたいだった。それから彼の耳が、じわりと赤くなっていく。気づけば首筋までほんのり色づいていた。自分で、聞いたくせに……。
 私は思わず瞬きをする。さっきまでは、平然としていた人が。隠語だって軽口だって、息をするみたいに口にする人が、たった一言。「応援してます」のそれだけで耳まで赤くしている。人って本当にわからない。
 ホークスは、軽く咳払いをひとつして、照れを隠すみたいに立ち上がった。

「そろそろ支度しないと」
「……あ、はい。私も、戻りますね」

 少しだけ早口だった気がしたが、私も合わせて立ち上がる。つい数秒前まで、向かい合っていたテーブルが、急に広く感じた。
 彼は、玄関まで見送ってくれた。靴を履く私の少し後ろに立ち、何も言わずに待っている。その視線を感じるだけで、なぜだか落ち着かなくて、軽くつま先を鳴らす動作まで少しだけぎこちなくなってしまった。

「ねえ」
「はい?」

 私が顔を上げると、ホークスはポケットを探るように手を入れ何かを二つ取り出した。彼の掌の上で、その二つが、かすかに光る。

「これ」

 そう言って差し出された物へと視線を落とし、私は思わず、目を瞬かせた。ひとつは私の部屋の鍵。そして、もうひとつは——彼の、部屋の合鍵だった。

「返さなくていいよ」
「……はい?」

 思わず間の抜けた声が出る。ホークスも今度は素直に、照れくさそうに頬を緩めると、へらっと笑った。

「いつでも来れるように」

 さらっと言う。合理的な理由を装っているが、その言葉とは裏腹に蜜色の瞳だけは落ち着きなく泳いでいた。いかにも思いつきで言いました、という顔をしているくせに、実際は、渡すかどうか何度も迷ったのだろう。そんなことまで伝わってしまう。
 彼は、誤魔化すように、また咳払いをひとつ。そうして、取ってつけたように言い足す。

「防犯的な意味ね。ほら、何かあったときとか」
「あ、ああ……なる、ほど?」

 私は慌てて頷いた。指先に乗った鍵は、思っていたより軽い。それなのに受け取った途端、その小さな金属が、急に現実味を帯びる。

「使う日が来ないくらい、平和な世の中になるといいですね……」

 そう言った瞬間だった。ホークスが、ぽかんと口を開ける。それから少し遅れてくしゃっと顔を崩すと、肩を揺らして笑った。

「それ、なに? 俺へのプロポーズ?」
「なっ、なんでそうなるんですか、もう……」

 思わず溜め息と共に、眉を寄せる。ホークスは律儀に玄関のドアを開けてくれたあと、その枠へ軽く肩を預けた。笑いはまだ、少し残っている。

「ヒーローが暇を持て余す世の中、でしょ?」
「……」
「俺の目標」

 その言葉を、ゆっくり繰り返してから、どこか誇らしそうに笑った。その横顔は、冗談を言っているようでいて、不思議なくらい真面目だった。だからこそ私は、それ以上、何も返せなくなる。

「……、おじゃましました」

 小さく頭を下げる。ホークスは片手をひらりと上げた。

「またね、名前ちゃん」

 その返しが思っていたよりずっと自然だった。まるで、次に会う約束なんて、最初から決まっているみたいにして。
 静かにドアが閉まる。廊下へ出ると、ひんやりした空気が頬を撫でた。私は手の中を見下ろす。銀色の鍵がふたつ。ずしりと重い、とまでは言えない。ただの金属の塊だ。それなのに、不思議なくらい、存在感だけがあった。
 自分の部屋の前まで歩いて、そのうちの一つをポケットにしまう。そこでようやく思う。冷静に考えたら、とんでもない状況だった。隣人から、合鍵を渡されるなんて。少女漫画でも、もう少し段階を踏むものじゃないだろうか、と。

 私は苦笑しながら鍵を差し込み、自室のドアを開けた。部屋に入ると、昨夜のことが、ふと頭をよぎった。記憶は曖昧なままなのに、断片だけが妙に鮮明だ。エレベーターを降りて。隣の部屋の前に明かりが漏れていて。私はあのドアの前で、何を思ったのだろう。ノックしたのか。それとも本気で自分の部屋だと勘違いしていたのか——。結局、その答えだけは、まだ霧の中だった。
 そのとき。ポケットの中のスマートフォンが、小さく震えた。画面には、『ホークス』の文字。私は思わず、笑ってしまった。


ホークス

目玉焼きの感想まだ聞いてない


名前

美味しかったです








 私はすぐに打ち返した。既読がついたのは約、一秒後。返信が返ってきたのは、そのさらに三秒後のことだった。



ホークス

俺も美味しかった








 一瞬、思考が止まった。……何が。そう、問い返そうとして指が止まる。たぶん聞かないほうがいい。そんな予感だけはした。すると間を置かずもう一件。



ホークス

俺も美味しかった


ホークス

ファンミ楽しんでね👋








 私は画面を見つめたまま小さく息を吐く。このヒーローは本当にずるい男だ。送り出してくれるような文面なのに、その絵文字の向こう側に何かが見え隠れしている気がした。『ちゃんと帰ってきてね』とでも書いてある気がしてしまう。それでも私は結局、追及する勇気はなく、「はい」とだけ返して、スマートフォンを伏せた。
 部屋の中は静かだった。ポケットの中には隣の部屋へ繋がる鍵がひとつ。それだけで、この部屋まで、昨日とは少し違って見えるのだから人間という生き物は案外、単純なのかもしれない。


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