あれから、一週間、二週間が経ち、ホークスはついに、彼女のもとを訪れなかった。日付だけが律儀に積み重なり、何も変わらない時間が彼女の周囲を薄く覆っていく。代わりに届くのは、書面だけ。公安への勧誘文書。給与体系、福利厚生、担当業務の概要。文字は整然としており行間には一切の遊びがない。感情が入り込む余地を、最初から排除したような紙面。署名欄には、ただ一行『新公安委員会会長 鷹見啓悟』と、あるのみ。あのふざけた落書きのような鳳凰のイラストは、どこにもなかった。それだけで、何かが確定したような気がした。彼が、もうここには、『私的なもの』を持ち込まないと、決めたのだと。
そして三週間目の朝が来た。廊下の奥がにわかに騒がしくなる。靴音が重なり低い声と高い声がぶつかり合っている。看守が誰かと押し問答しているらしい。扉越しに届く声を追い、彼女は耳を澄ませたが、記憶に引っかかる響きはなかった。それだけで胸の奥に、小さな失望が沈む。期待と呼ぶにはあまりに曖昧な感覚。それでも、違うと分かった瞬間、静かに重さを持った。
やがて騒ぎは収まり廊下に人影が立つ。眼鏡をかけた痩身の男だった。背筋をまっすぐに伸ばした立ち姿は、この施設の重たい空気の中でどこか浮いて見える。
彼女が目を凝らすと、胸元から下げたIDカードに細い文字が覗いた。——公安委員会事務局。
数十分後、面会室に来るようにと看守が迎えに来た。呼びかける声は事務的で余分な感情を含んでいない。面会室に足を踏み入れるとテーブルを挟んだ向こうの椅子に先ほどの男がすでに腰掛けていた。書類は几帳面に並べられていて話を始める準備は整っているらしい。
今日は、アクリル板がなかった。彼女がここに収容されて以来、初めてのことだ。距離が近い分空気の乾き具合まで伝わってくる気がして彼女は無意識のうちに、背筋を伸ばした。逃げ場のない静けさが、ゆっくりと面会室を満たしていく。
「名字名前さんですね。会長の代理で参りました、副委員長代理の
久しく耳にした、自分のフルネーム。その音の並びに、わずかに、現実感が追いつかない。そういえば公安の会長は私をヴィラン名ではなく下の名前で呼ぶ。そんなどうでもいい記憶が、ふと、浮かびかける。
彼女は小さく息を整えてから思考を切り替え、椅子に腰を下ろした。加瀬と名乗った男は四十代半ば。無駄のない所作と感情の読めない目つきが印象的だった。声も淡々としていて、そこには、個人的な関心は感じられない。
「今後の手続きについてご説明に。あと——」
そう言って、加瀬は一枚の封筒を差し出した。彼女はそれに視線を落とすより先に、目を伏せたまま、淡々と口を開く。
「正式な手続きを経ていないものを受け取っても問題にはなりませんか?」
「……」
「これ以上、刑期が伸びるのはごめんなんですけど」
彼女の声音には冗談めかした軽さと試すような棘が混じっていた。加瀬は眉一つ動かさずに即答する。
「会長から預かっている物ですので、問題ありません。本人から、直接渡せと」
封筒には何も書かれていなかった。差出人も、宛名もない、ただの白。彼女は、わずかな逡巡の末にそれを受け取る。加瀬はそれ以上興味を示すこともなく、すでに次の書類へと視線を落としていた。
「では、事務的な話から。あなたの仮釈放申請が委員会で承認されました——条件付きですが」
ペンが書面の上を走る乾いた音。日取り、保護観察期間、行動制限区域。説明は簡潔で、どこまでも合理的だった。そのひとつひとつが、彼女の未来を規定していくにもかかわらず、そこに温度はない。
「質問がなければ、こちらにサインを」
ボールペンと書類が、彼女の前に滑ってくる。白紙の署名欄が、ぽっかりと、口を開けていた。あの下手くそな絵が描かれた書類はもう来ない。その絵を描いた本人の、生の声も。彼女のそんな取り留めのない思考に気づいているのか、いないのか。加瀬が、唐突に口を開いた。
「会長は現在九州の方で、別件の対応に当たっておりまして。しばらく、東京には戻れないかと」
「……あの、淡々と進められてますけど」
「はい」
「突然のことで、判断が追いつきません」
彼女のその、感情を抑えて、距離を置くような冷たい声音に加瀬は眼鏡の位置をわずかに直して言い返す。
「ごもっともです。ただ、これは、前々から会長が進めていた案件でして。あなたに直接伝える形が途絶えてしまったので……こちらで、代行している次第です」
——途絶えた。その一言が、妙に重く胸に落ちた。加瀬はそれ以上の事情を語る気はないらしく淡々とファイルをめくる。しかし一瞬だけ彼女を見た。
「急ぐ必要はありませんが。サインは、後日でも構いません。ただし——」
「……」
「会長からの手紙は、先に読まれた方がいいかもしれませんね。判断材料になると思いますので」
それだけ言って彼は再び書類仕事に没頭した。ペンの音がまた、規則正しく、部屋を満たす。封を切れば読めばいい。切らなければ、そのままでもいい。どちらを選ぶにしてもあの軽薄な男が何を書いたのか。あるいは書けなかったのか。それはもう誰にも代行できない彼女だけの問題だった。
結局その封筒を開ける決心がついたのは日付が変わって、しばらく経った頃だった。消灯時間はとうに過ぎ、独房は完全な闇に沈んでいる。高い位置に設けられた小さな換気口からわずかに月明かりが漏れ込んでいてその淡い光を頼りに文字を追うしかない、そんな時間帯だった。
月光は格子を通り抜け、床に細い白線を引いている。彼女はベッドに仰向けになり、封筒を顔の高さまで掲げた。逆さまになった文字の輪郭を、月明かりが、ぼんやりと浮かび上がらせる。
中身は便箋一枚だけ。装飾のない白い紙。あの男の人柄からは少し意外なほど簡素だった。万年筆の走り書きで、ところどころ、インクが滲んでいる。書き直さなかったのだろうと彼女は思う。考えながら躊躇いながら、それでも勢いのままに書いた跡。
『名前さんへ。
多分読むの遅いでしょうね。
待ちます。急かすつもりもないです。
加瀬さんが変な感じだったらすみません。
あの人、ちょっと怖いんで。
本題だけ。あなたが公務に就く気がなくても
仮釈放は通ります。俺の権限で通しました。
これは俺、個人のわがままです。
外に出てほしい。
あなたは、こんなとこにいるべき人じゃない。
理由は山ほどあるけど、一個だけ言います。
替え玉、一緒に食べてくれる人がいないと
意味ないんですよ。 鷹見啓悟』
署名の名前——鷹見啓悟。その直前の一文だけインクの染みが、大きかった。途中で力が入ったのか、紙がわずかによれている。そこに書き手の一瞬の逡巡や、余計な感情が閉じ込められているように見えた。
「……友達の、友達枠のくせに」
誰もいない独房でその呟きは不釣り合いなほど大きく響きすぐに壁に吸い込まれた。換気口から差し込んでいた月明かりが雲に隠れて、部屋は、一気に暗くなる。それでも彼女の網膜には、癖のある筆跡が、くっきりと焼きついていた。
『個人のわがままです』——公安の会長という立場の人間がそんな言葉を使う相手はきっと最初から多くはない。そして彼女はその数少ない例外の中に自分が含まれてしまったことを、ようやく理解し始めていた。
彼女は便箋の文字を、無意識のうちになぞっていた。暗記してしまうほど、何度も心の中で読み返す。指先が紙の凹凸を辿るたび、滲んだインクの跡に触れた。万年筆を握りしめ、考え込むようにこの手紙を書いている姿がふいに浮かぶ。彼女はそれをすぐに打ち消した。想像する必要はないと自分に言い聞かせるようにして。
*
翌朝。配膳のトレーが床に置かれる、あの無遠慮な金属音で彼女は目を覚ました。眠りは浅く、夢の続きを掴みかけたまま指の隙間から零れ落ちるように現実へ引き戻され、その感触だけが頭の奥に、残っている。はっきりと思い出せる内容はない。ただ何かを失いかけた余韻だけが胸の内に沈んでいた。この区画に、食堂はない。正確には彼女のような立場の者に、共有の場は与えられていなかった。ここには檻の外に出ることを許されない者たちがいる。かつては脅威として名を連ね今もなお『凶悪敵』の札を外されないまま各々の区画で食事を受け取る者たち。彼女もまた、その例外ではなかった。
トレーの上に並んだ簡素な食事を前にしても、空腹はすぐには輪郭を結ばない。ただ金属音だけが朝が来たという事実を淡々と告げていた。枕の下には、昨夜あのまま仕舞い込んだ便箋がある。存在を確かめるように一瞬だけ首元に力を入れ、それから、何事もなかった顔で身体を起こした。寝不足の目を指で擦りながら配膳係からトレーを受け取る。いつもと同じ無味乾燥な朝食——の、はずだった。今日はその上に小さな紙片が挟まっているのが目に入った瞬間、彼女の指がわずかに止まった。施設内の職員の字ではない。整いすぎているし、何より、遠慮がない。
『 昨日の件、お返事はいつでも。 加瀬 』
どういう手順を踏めば個人名義のメモが個人のトレーに紛れ込むのか。考えるほどに公安という組織の底知れなさが浮き彫りになる。事務連絡としては簡潔だが紙を裏返した瞬間、彼女は小さく息を止めた。
『 替え玉は硬めが好きですよね? 』
明らかに別の筆跡。軽く癖があってどこか肩の力が抜けている。喉の奥で言葉にならないものが転がった。
「友達の、友達枠め……」
誰にも聞こえない声量で吐き捨てるように言いながらも、彼女はそのメモを乱暴には扱わなかった。指先で丁寧に折り畳みポケットの奥に仕舞い込む。その仕草は、ほとんど、無意識だった。
それから更に三日後。サインした書類は、滞りなく受理され、仮釈放の日取りは二週間後に決まった。保護司との面談、住居の斡旋、行動範囲の制限。歯車は一度回り始めると驚くほど静かに、しかし、確実に前へ進んでいく。
その間、公安の会長様からの直接の連絡は一切なかった。「待つ」と言った男は、本当に待っているらしい。それが約束なのか矜持なのか、あるいは単なる意地なのか。彼女にはまだ判断がつかなかった。
釈放前日の夕方。彼女は部屋で荷物をまとめていた。とはいえ、収容生活で増えたものなどほとんどない。少ない着替えと、あの手紙と、最後のメモ。それだけが彼女の「持ち出し品」だった。
職員に呼ばれ手続室へ向かう途中。渡り廊下の窓から差し込む西日が、床に、長い影を落としている。冬特有の低い光が、やけに現実感を伴って視界を染めていた。
その影の先。壁にもたれかかる人影がひとつ。黄土色の髪。黒いスーツ。片手に提げたコンビニの袋。その人物が、顔だけをこちらに向けた。
「っす。」
あまりにも気安い一言だった。まるで、昨日、廊下ですれ違った相手に投げる挨拶のようでこの二ヶ月近く姿を見せなかった人物とは思えない。気づけば年も越しているというのに、その距離感だけが、何も変わっていなかった。彼は袋を軽く持ち上げ、何でもないことのように言う。
「明日から外でしょ。これ、差し入れでーす」
流れに押されるように彼女はそれを受け取っていた。中身を覗くと肉まんが二つとペットボトルのお茶。冬の夕暮れの空気の中で、白い湯気が、ほのかに立ち上る。
「ありがとう……しばらく、東京には戻らないんじゃなかったの」
「えぇー?なんで俺の予定知ってんです?こわ」
「……。それより、その『っす』は、何なのよ」
「っす、でしょ」
「友達ですか?」
問いは軽い調子だったが彼女自身、その答えを無意識に待っていた。彼は間を置かずに笑った。
「友達ですよ」
即答だった。迷いも照れもない。友達の友達、ではなく、友達。勝手に格上げを宣言する、その無遠慮さに、彼女は呆れたような、そうでもないような気持ちになる。
「出世したでしょー、俺」
彼は彼女の袋から肉まんを一つ取り出しながら得意げに言った。冬の風が廊下を吹き抜け西日が二人の影を重ねる。
「友達の、友達枠から?」
「昇格試験パスしました」
胸を張って言うその姿は��公安委員長会長�≠ニいう肩書きとは、相変わらず噛み合わない。
「公安委員会の会長の権限で?」
何の試験だと突っ込みたい衝動を飲み込みつつ彼女は冗談めかしてそう言い返した。その瞬間、彼の表情が真顔になる。
「それ、職権乱用って言うんですよ」
「……君が言うな。君に言ってるんだよ、バカ」
言葉が落ちた直後、公安会長はぽかんとした。黄色い目がぱちぱちと瞬き、それからくしゃりと顔が崩れた。笑っている。けれどそれは、営業用でも軽口用でもない。目尻が下がり口角が自然に上がる、ただ単純に「嬉しい」という感情だけでできた笑顔だった。彼は照れ隠しのように肉まんで顔の半分を隠しながら呟く。
「女の子にバカって言われたの、初めてかも」
嘘だろうなと彼女は思う。絶対に初めてなはずがない。けれどもこの文脈で、この距離で、この相手から向けられた「バカ」は確かに彼にとって初めての種類のものだったのだろう。
彼はもう一つの肉まんの袋を開けながらふっと目を伏せた。その横顔は、公安の会長ではなく、ただの男のそれに見えた。
「ねぇ、名前さん」
「?」
「明日、迎えに来ていいですか」
唐突だったが軽すぎるわけでもなかった。彼女はその声を真正面から受け止める代わりにほんの少しだけ視線を逸らす。
「……それも、会長の権限?」
問いは冗談めいていたが内側には微かな探りが含まれていた。彼は、開けたばかりの肉まんを、彼女の方へと差し出す。白い湯気が二人のあいだをゆるく、曖昧に満たす。自分も肉まんを頬張ったまま、少し考えるように首を傾げた。もぐもぐと咀嚼して、飲み込んでから、静かに。
「友達の権利」
その言い方には、役職も肩書きも含まれていなかった。敵でもヒーローでも公安でもない。ただそこに来たいと思った、一人の人間としての言葉だった。彼は再び、肉まんにかぶりついたまま、もごもごと続ける。
「てか、権限とか関係ないですよ。友達を迎えに行くのに、許可いります?」
——友達。この男は、また、その言葉を使う。しかも今度は、言い直しを許さない調子で。
「あ、そう?」
彼女の返事は短かった。肯定とも否定とも取れない逃げ道を残したままの一言。それでも彼女は肉まんを受け取っていた。両手で包み込むように持ったそれはまだ熱く、冷えた指先が赤く染まっていくのが、自分でもわかった。
彼はその隣に並び、壁にもたれかかった。二人並んで収容施設の廊下で肉まんを食べる。ひどく場違いで、ひどく静かな光景だった。看守が通りかかれば咎められるだろうが、そんなことを気にする様子はどちらにもなかった。言葉はなくただ並んで食べる。それだけで彼は満足そうだった。
「私、そろそろ手続室いかなきゃ」
彼女が言うと彼はすぐに頷いた。残りの肉まんを豪快にも口の中に放り込み、気軽に。
「ん。いってらっしゃい」
この場所には、似つかわしくない言葉だった。けれどもそれを、咎める者はいない。歩き出した彼女の背中に、彼は思わず声を投げる。
「——明日、朝九時に正門前。遅れんようにしますんで」
その声に、彼女は足を止めた。背を向けたまま「あのさ」と低く落とし、振り返らない。西日が逆光になり表情は影に沈んでいる。立ち止まった背中だけがわずかに強張って見えた。ホークスはポケットに差し入れかけていた手を止めた。引き返すことも踏み込むこともできずその場で動きを失ったまま、彼女の背中を見つめていた。
「はい」
返事はほんのわずかな間を挟んで返ってきた。夕暮れの光の中、彼女は、一度だけ呼吸を置き、それから言葉を選ぶように口を開いた。
「ありがとう、ラブレター」
それだけだった。振り返りもしないまま彼女は歩き出す。足音が廊下の奥へと溶けていく。廊下にひとり残された、元ヒーロー。
——ラブレター。きっと、あの手紙のことだ。便箋一枚、替え玉がどうのと書いただけの、あの滲んだインクの痕跡。彼女はそれをそう呼んだ。彼は壁に後頭部を預け、天を仰いだ。顔が熱い。頬だけではない。耳まで、首元まで、はっきりと、熱が上がっていくのがわかる。
「……うわぁ、やばぁ。」
彼はしばらくしてから誰にも聞こえないよう、喉の奥で小さく、そう呟いた。それは、照れでも冗談でもなく、確実に何かを受け取ってしまった男の、正直すぎる独り言だった。
*
翌朝、九時。冬晴れの空はやけに高く雲ひとつない青が、正門の上に広がっていた。
収容施設の正門前に黒塗りの車が一台停まっている。公用車、ではない。ナンバーを見なくても分かる、あの妙に「仕事感」を消そうとしている感じはレンタカーだ。運転席の窓が下りていて、そこから覗き込んだ視線と、彼女の視線がぶつかった。ハンドルに腕を預けたまま彼は軽く口角を上げる。
「おはよ。時間ぴったり」
約束を破らなかったことを、誇るでもなく確認するような声音だった。同時に、運転席のドアが開く。
彼は、サングラスをかけていた。白のタートルネックにベージュのロングコート。清潔できちんとしていて、それでいてどこか、落ち着かない。ヒーローには見えない。かといってただの一般人にも見えない、どこかちぐはぐな中途半端な変装だった。その曖昧さが今の彼そのもののようで、彼女は一瞬だけ視線を逸らした。有名人の外出というのは、得てしてそういうものだ。
「おはよ。なんか、芸能人みたいだね」
思ったよりも軽い言葉が口から出た。彼はサングラスの奥で目を丸くする。あきらかに想定外の評価だったらしい。
「芸能人? 俺が?」
似合わない褒め言葉を向けられた、犬みたいな顔をしている。彼は一度、咳払いをして、照れを誤魔化すように言った。
「あぁー......ありがとうございます。乗ってください、寒いんで」
「あ、はい。お願いしまぁす」
先に回り込んで助手席のドアを開けてくれる。その所作が妙に板についていて彼女は内心で少しだけ感心した。シートに身を沈めると車内には、ふわりとコーヒーの匂いが漂う。レンタカー特有の匂いに混じった温かい生活の気配だった。彼は運転席に戻り、シートベルトを締め、エンジンをかける。低く、滑らかな音が響く。
「朝ごはん食いました?」
問いかけとほぼ同時に、ダッシュボードの上に置かれた、コンビニの袋が視界に入った。中身はおにぎり二個とカップの味噌汁。彼は前を向いたまま、顎でそれを示す。
「足りんかったら、それどうぞ」
今朝、彼女は食事の選択欄に迷った末に、結局『無』に、丸をつけた。そもそも、食べる必要があるのかどうかも、判断できなかったからだ。
「お湯はなさそうなので、おにぎりいただくね」
彼女の笑いを含ませたようなその言葉に、彼はバックミラーの角度を直しながら、こともなげに言った。
「後部座席に携帯ポットあるんですけど」
用意周到。最初から、味噌汁まで飲んでもらう想定だったのだろう。それでも彼女はこの見慣れない高級車に汁物をこぼす勇気が出なくて、もう一度、小さく首を振った。
「おにぎりだけで大丈夫」
横目でそれを見て彼はほんの一瞬だけ笑った。声に出さない静かな笑いだった。車はゆっくりと正門を離れ冬の光の中へ滑り出していく。彼女は包みを開けたおにぎりを手にしながら、助手席の窓越しに、もう一度だけ施設の門を振り返った。
閉じられていく場所と、動き出した時間。その境界線に彼がいる。「迎えに来る」という言葉がただの約束ではなかったことを彼女はその背中で理解していた。
「弁償しますよ、別に」
どうやら、味噌汁を断った理由まで把握されていたらしい。彼女は、内心で息を吐いた。やはりこの男は目敏い。言葉にしなくても、視線や間の揺れから、都合の悪い真実を掬い取ってくる。
車はすでに施設の敷地を抜け一般道に合流していた。冬枯れの街路樹が朝の低い光を受け白く粉をまぶしたように浮かび上がっている。フロントガラス越しの街はまだ完全に目覚めきっておらずラジオから流れるポップスだけが、妙に明るく、場違いだった。
一つ目の信号待ち。ブレーキを踏みながら彼が先に、口を開く。
「さて。住むとこはもう決まってるんですけど」
「……」
「家具とか日用品とか全然でしょ。今日このあと買い物行きましょうか」
「え……いや、悪いよ。大丈夫だよ、お気遣いなく」
助手席から返ってきた声は、わずかに戸惑いを含んでいた。青信号。アクセルを踏みハンドルを切りながら、ホークスはあえて、軽い調子で言う。
「気遣いじゃなくて友達の義務です」
——友達。その単語を選んだ瞬間、彼女が訂正する暇を与えないよう意図的に間を詰めた自覚があった。
「すごい主張してくるじゃん」
次の角を右に曲がる。ウインカーの音がやけに規則正しく耳に残った。
「主張しないと既読スルーされるんで」
手紙のことだ。二ヶ月の沈黙。その時間を無駄にしないために、彼なりに導き出した最適解が、この��友達�≠ニいう立場の、強調だった。
「スルーしてないでしょー。ちゃんと言ったよ?ありがとう、ラブレターって」
その瞬間ハンドルを握る手がわずかに狂った。車体が対向車線に寄り、慌てて戻す。心臓が一拍、余計に跳ねる。ラジオのDJだけが何事もないかのように軽快なトークを続けていた。
「……運転中に、やめてもらっていいですか」
自分の声が思ったより低く、硬くなった自覚があった。耳が熱い。コートの襟でも隠しきれないのが目に見えて分かる。
「安全運転してください?……ていうか暑いの?耳、真っ赤だよ」
そう言いながら彼女の指が伸びてきた、と認識したときには、もう、遅かった。耳たぶに触れた瞬間、条件反射のようにホークスの肩が跳ねる。
「っ——前、見て前!」
叫び声と同時に対向から自転車が迫っていた。ホークスは反射的にハンドルを切り、ぎりぎりで回避する。ブレーキを踏み込み、息が詰まる。
「キャ〜!あっぶなー!前見るのはあなたね!?運転手なんだからっ!」
誰のせいだと言い返す余裕もなく、彼は何度か深く呼吸をした。指先がまだ微かに震えている。
「誰のせいだとっ、思ってんですか……」
触れられた耳たぶがまだじんわりと熱を持っていた。助手席の鏡越しに映る彼女は、涼しい顔をしている。確信犯だ。分かっていてやっている。元敵連合という肩書きが伊達でないことを今さら思い知らされる。
「あ、ごめんね。耳弱いとか、それ系?」
ホークスは反射的に、左手で耳を覆った。これ以上、不意打ちを受けるわけにはいかない。
「ノーコメントで」
「ふふっ……可愛い」
その一言が決定打だった。ホークスは急に車を路肩へ寄せた。駐停車禁止の白線の内側。エンジンは切っていない。ルールは、一応守っている。そう自分に言い聞かせながら彼は両手でハンドルを掴んだまま、前だけを見つめていた。首筋まで熱が上がっているのが分かる。これ以上進めば、何かを取り違える。そう分かっていても、彼女の気配が隣にあるだけで判断が遅れる自分が何より厄介だった。
「え……なに、どうしたの? 気分でも悪い?」
彼女が身を乗り出し覗き込んできたその距離の近さに彼は思わず顔を背ける。視線を合わせたら何かが決壊する予感がした。理屈ではなく経験則として。
「いや……ちょっと、待ってください。ちょっと待って」
二回、同じ言葉を繰り返す。その事実が、今の、自分の状態を、何より雄弁に物語っていた。
元・最速ヒーロー。冷静沈着を売りにしてきた男が「可愛い」の一言で完全に制御不能に陥っている。
「もう、怖すぎ、名前さん……」
ホークスは、片手で顔を覆った。額から目元にかけて、熱がこもっているのがはっきり分かる。思わず漏れてしまった本音に、彼女はきょとんとした声を返す。
「え、怒ってないよ? なに、怖いって」
ホークスは指の隙間から、目だけを覗かせた。見ない方がいいと分かっているのに確認せずにはいられなかった。
「……や、怒ってるとかじゃなくて」
そこから先の言葉がどうしても形にならない。沈黙が数秒、車内に落ちる。カーステレオの曲がちょうど、サビに入り、場違いなほど伸びやかなメロディが空気を満たした。観念したように彼は一度、長く息を吐く。
「俺……友達ポジでおろうと、思ってたんですよ今日。ちゃんと」
顔を覆っていない方の手をハンドルから離し、そのままシートに深く背を預ける。視線は天井。彼女を見ればまた何かを言ってしまう気がした。
「開幕から無理かもしれん……」
「えっ、やっぱ友達だと近すぎるとか?だよね、今や、公安の会長と元ヴィランだもんね」
その返答を聞いた瞬間、ホークスは天を仰いだまま心の奥で小さく呻いた。どうやら、さきほど吐かれたそれは、弱音に近い独白だったらしい。
「……天然?」
確認するような、ほとんど、祈りに近い呟きが零れ落ちる。
「え、お水飲みたい? 天然水限定な感じ?」
本物の天然だった。冗談ではなく、本気で噛み合っていない。空気を読む力はある。戦場では、致命的な判断ミスなどしない女だ。それなのに、感情の機微、特に自分に向けられたそれについてだけ驚くほど鈍い。致命的に。『友達』の距離が近すぎるのではない。そもそも、その枠に、収めようとしていること自体が、無理なのだ。
彼は明らかに『友達枠では足りない』と言っている。だが、その肝心な部分が、彼女には一切、届いていない。見事なまでに、すり抜けている。
「天然ですか、って意味です」
「天然?……え、わたしが?」
ホークスはゆっくりと顔を下ろし彼女を見た。サングラスを外す。その下の目は、笑っていなかった。冗談も、軽口もない。剥き出しの、真剣な、眼差し。ここで踏み込めば、戻れなくなる。そう分かっているからこそ彼は視線だけで答えを示し言葉を引っ込めた。
「いいです、今は」
それだけ言って、サングラスをかけ直す。深く、一度、呼吸を整えギアを入れた。車が静かに発進する。これ以上の説明も弁解も今の自分にはできなかった。沈黙のまま走り出した車内で、彼女はあっけらかんとした声を上げる。
「よかったー、なんでもなくて」
「……」
「ホークスが体調悪いか、車がご機嫌斜めなのかどっちかだと思って、ちょっと焦ったんだけど」
信号で止まる。赤信号の灯りがフロントガラス越しに滲んだ。問題はどちらでもない。ただ一つ制御できない感情が、隣に座っているだけだ。
「両方とも元気ですよ」
声はすでに平静を取り戻していた。切り替えの速さだけは現役時代から一流だ。感情を表に出さず、必要な顔を、即座に作る。その癖が、今も骨の髄まで染みついている。
「え、なんか不機嫌じゃん」
ホークスは、口元だけで笑った。サングラスの奥の目は、相変わらず前を見据えたまま。
「不機嫌じゃないですよ。普通です」
なんとも便利で、逃げ道にもなる言葉だった。実際はまるで普通ではないがそれを説明する気も説明できる自信もない。
これ以上、掘り下げさせる空気でもなかったのだろう、彼女はそれ以上踏み込んでこなかった。おにぎりの残りを頬張りながら、窓の外へ視線を流す。冬の街並みが、一定の速度で後ろへ流れていく。信号、歩行者、乾いた街路樹。彼女の横顔を視界の端に入れないようにしながらホークスは黙って、ハンドルを握り続けた。
十五分ほど走ったところで大型家具店の駐車場が見えてくる。車を滑り込ませ、エンジンを止める。静寂が落ちた。ホークスは先に車を降りて、回り込んで助手席のドアを開けた。
「さ、着きましたよ」
声は軽かった。さっきまでの張り詰めた空気が嘘のように、いつもの調子——少し力の抜けた、あの笑顔を貼り付ける。役者じみた切り替えだと自覚はあるが、今は、それでいい。彼女が降りてくるのを待って、少しだけ先を歩く。そして店の入口で立ち止まり、振り返った。
「洗濯機と冷蔵庫だけは勝手に設置させて貰ってます」
「えっ?……あ、ありがと」
「あと、ベッドは必須として……他に欲しいものあります?」
「いや、あの……だからさ」
「はい?」
「気遣わなくていいって。悪いし、こんなとこで時間使わせるのも」
その言葉にホークスは「時間?」と思わず首を傾げた。心底、不思議そうだった。何を、当然のことのように言っているのか、という顔で。
「俺が使いたいから使ってるだけですよ。仕事、サボってるわけじゃないですし」
本当のところを言えば——今日という休みは、分単位で調整して捻り出したものだ。だがそれを恩に着せる気も、公務の一環だと、言い張る気もなかった。彼女の生活に、必要なものを揃える。それ自体が、今の自分にとっての優先事項だっただけだ。
「……じゃあ、すみませんが……よろしくお願いします」
少しの沈黙が流れたあと、彼女の方が一瞬だけ考えて押し問答になるのを諦めたらしい。小さく息を吐いてから折れてくれた。その一言だけで、胸の奥が、わずかに軽くなる。ホークスの顔が、分かりやすく明るくなった。
「任せてください」
嬉しさを隠す気もなかった。『友達』としての初仕事。そう言い聞かせながら張り切る、元ナンバーツーヒーローの姿は客観的に見れば少々滑稽かもしれない。それでも今は、それでよかった。
店内に足を踏み入れると、広大なフロアが視界いっぱいに広がる。ベッド、ソファ、棚、照明。
休日の午前らしく、家族連れや、カップルの姿もまばらにある。その中を、二人並んで歩く。
ホークスは迷わずベッドコーナーへ向かった。まずは、眠る場所からだ。
「名前さん、身長いくつでしたっけ」
ホークスは妙に真剣な顔で、マットレスの端を掌で押し反発の戻りを確かめていた。沈み込みと跳ね返り、そのわずかな差異になぜか無駄に集中している自分に気づいていない。
「ホークスより全然低いよ」
声がして振り返る。視線を落とした瞬間、改めて身長差が、はっきりと浮かび上がった。思っていた以上に、視線の高さが違う。
「知ってます」
即答だった。分かりきった事実を、確認されただけだと言わんばかりにホークスはセミダブルのベッドを指差す。
「これくらいあれば余裕でしょ」
一人用を選ばなかった理由を彼自身は深く掘り下げていない。あるいは掘り下げないようにしているだけかもしれなかった。
ツインでもなく、シングルでもない、その中途半端に余白のあるサイズ感が、なぜか、しっくり来てしまった。
「ホークスはさぁ。硬いクッションと、柔らかいクッション、どっち派?」
唐突に投げられた問いに彼は顎に手を当てる。「んー......硬めですかね」と答えながら、すでに別のマットレスに手を伸ばして押している。
自分の好みを伝えたところで、それを、基準にされるのが、当然だと思っている節があった。
「合う合わんは実際寝てみんとわからんですね」
そのタイミングで店員が近づき、「ご試用できますよ」と声をかけてきた。促されるまま二人でベッドの端に腰を下ろす。
並んだ瞬間、差は歴然だった。座面に対して、彼女の脚は腿の途中までしか届いていないのに、ホークスの足は膝下が余っている。視界に入ってきたその対比に、思わず口をつく。
「ちっさ」
「短足って言ってる? ぶっ叩くよ?」
ややドスの利いたその声音にホークスは思わずぎょっとして、身をすくめた。次の瞬間、慌てたように大げさな仕草で両手を上げる。
「褒めてるんですよ!コンパクトって意味で!」
言い訳の質が壊滅的だった。周囲から向けられる微妙な視線が、じわじわと刺さる。若い男女がベッドに並んで座り、軽口を叩いている——どう見ても、買い物中のカップルにしか見えない。
「ちょっとさ、寝てみてよ」
ホークスは「え、ここで?」と、きょとんとした。試用コーナーなのだから当然なのに彼女からの「寝てみて」という言葉の響きが余計な連想を引きずり出す。自分で自分を恥ずかしく思いながら、彼は素直に横になった。そのまま仰向けで、目を閉じる。
「あー......うん、悪くない」
セミダブルの中央に収まる、翼のなくなった、自分の身体を感じながら、片目だけ開けて彼女を手招きする。
「名前さんも、寝てみんとわからんでしょ」
「あ、たしかに」
彼女は何の躊躇もなく隣に横になった。二人分の重みで、マットがわずかに沈む。その動きが、予想以上に近かった。腕と腕の間は、拳ひとつ分ほど。余裕があるはずのサイズなのに距離感だけが、妙に狭い。
「……羽根があるときは、うつ伏せで寝ることが多かったの?」
「そうですね、うつ伏せが多かったです」
ホークスは天井を見つめたまま、そう答えた。声が、わずかに落ち着いたトーンになる。
羽根——今はもう失われた個性。背中にあった赤い翼は、現役時代の名残でしかない。それでも眠りの姿勢だけは、身体が覚えたままだった。
ふと横を向くと、不意に彼女と、目が合った。近い。思った以上に。呼吸の気配がわかる距離で黄土色の視界に、彼女の顔が収まっている。
ホークスは何も言えず、視線をまた、天井へと戻した。言葉にすればたぶん余計なものが零れてしまう。今はただこの距離が生む静けさに、身を委ねるしかなかった。
「ねえ。ちょっと、うつ伏せになってみてよ」
言われるまま、ホークスは黙って寝返りを打った。顔がマットに沈み、視界が一気に遮られる。柔らかすぎない反発が腹部と胸を受け止め、背中側が、無防備に空へ向いた。肩甲骨のあたりが、わずかに盛り上がっている。服の下に残る羽根の名残。広げることはできてもかつてのように空を裂く力はもうない。身体は覚えているのに世界の方が、それを許さなくなった、その痕跡。
「……なんすか、これ。健康診断?」
マットに口元を押し付けたままくぐもった声が漏れる。冗談めかした調子だったが、内心は少しだけ落ち着かない。背中を見せるという行為が、想像以上に無防備だった。
「たしか、この位置に剛翼があったんだよね?」
そう言われて、彼女の気配が、真横で動くのがわかった。大きく空中に何かを描いているような動き。ホークスは、うつ伏せのままで、目だけを動かす。すると視界の端に、彼女の指先が描く、円弧が入った。
そこに羽根はない。風も起きない。それでも、はっきりと見えた。かつて自在に空を裂き方向を変え、高度を操った、あの翼の軌跡。自分の一部だったものの輪郭が、幻のように浮かび上がる。ホークスは、小さく笑った。
「当たりです。そこが風切羽で、こっちが雨覆」
自分の背を、とん、とん、と指で叩く。声に、寂しさはなかった。少なくとも本人はそう思っていた。だが円を描き続ける彼女の横顔を見上げる視線が、ほんのわずかに揺れる。失ったものを、誰かがこうして、正確に指し示す。その行為自体が優しさでもあり、刃でもあった。
「もし今も、ここに剛翼があったらさぁ。天然の羽毛布団にできたのにね」
次の瞬間ホークスが、がばっと起き上がった。思考より先に身体が反応していた。目を見開き、勢いのまま上体を起こす。
「羽毛布団て。俺の羽根、むしる気ですか」
「違う違う。ちょっと、掛けてもらうだけ」
「……」
「うつ伏せなら私の方にも羽根がくるでしょ?」
想像してしまった。うつ伏せで眠る自分。背中から広がる羽根。その片側が彼女の方へふわりと掛かっている。完全に添い寝の構図だ。しかも、羽毛は生きている。体温付きで。ホークスは反射的に顔を両手で覆った。
「それ、なんか……俺だけ、損してません?」
「え、どうして?エコじゃん。布団買わなくても済むよ?」
ホークスが指の隙間から、そっと彼女を窺う。本気なのか、天然なのか、測りかねていた。
「……エコの、問題じゃなくて、ですね……」
あったかそうでも、気持ちよさそうでもなく、『エコ』という評価軸がなんだか彼女らしすぎて逆に怖いまである。ホークスは思わず声に出して重い溜め息を吐いた。
「なんか今日、ほんとにずっと顔赤いね?」
その一言で、思考が限界を迎えた。ホークスは勢いよく立ち上がった。
「よし、このベッド買いましょう」
話題転換。強制的に。あまりにも露骨に。そのまま店員のいる方向へ歩き出す。それは、光の速さだった。
「あれって配送、いつできます?」
慌てたように追いかけてきて「ちょっと!」と背後からかけられた声に、ホークスが、軽く振り返る。
「他……見なくていいの?一発で決めてたけど」
「勘はいい方なんで」
それが飛行の勘の話なのか。それとも、彼女に対する勘なのか。その答えをホークス自身もまだはっきりとは、言語化できていなかった。
ホークスは素早く配送の手続きを終え率先してカートを押しながら、枕をふたつ、迷いなく放り込んだ。その選び方に特別な理由はない。高さと反発が無難で、首を、痛めにくそうだったから。それだけだ。にもかかわらず、隣を歩く彼女が、それを当然のように受け入れているのが妙に落ち着かなかった。
「次、どこ行きます? キッチン用品?」
「あ、その前に収納コーナー寄ってもいい?」
「もちろん」
即答だった。ほんとうに、なんでもないことのように言う。反対する理由が、どこにもない。
二人は並んで、収納コーナーへ向かった。棚やラック、ボックスが規則正しく並ぶ空間。色も、素材も、揃いすぎていて逆に生活の匂いが薄い。その中で彼女がふいに、足を止めた。ホークスはカート越しに横から覗き込む。
「なに探してるんですか?」
「プラスチックだと、なんか味気ないよね?」
返ってきたのは、少し、抽象的な答えだった。彼女は二つのボックスを手に取り、左右に並べて見比べている。
「は、はぁ……で? なにが?」
「麻っぽいのがいいかな? どっちがいい?」
手にしたひとつは、つるりとした樹脂製。もうひとつは、生成り色で布の織り目が見える。ホークスは、少し考えるふりをしてから言った。
「……こっちの麻っぽい方がいいですね。温かみあるし」
「同感。じゃあこれ」
即決だった。そして、当然のように、その麻のボックスを、ホークスに差し出す。
「これは、ホークスの私物入れね。次、キッチン用品行こう」
言い切って、もう歩き出している。ホークスはその場に一瞬だけ取り残された。腕の中にある、麻のボックス。軽いが、やけに存在感があった。
(——俺の、私物入れ……?)
頭の中で、数秒前の会話を早送りで巻き戻す。「収納コーナー寄ってもいい?」「もちろん」
「なに探してるんですか?」「プラスチックだと味気ない」「どっちがいい?」
彼女は一度も「ホークスの」とは言っていなかった。自分の分についても聞いていない。つまり最初からそれは、自分用だったのだ。
「——ちょ、待ってください」
ホークスは、我に返って、早足で追いついた。彼女の横に並ぶ。カートを押す手にはまだ、麻のボックス。
「これ、俺に?」
「え? うん。」
あまりにも自然な返事だった。疑問に思う余地すらないという顔。
「遊びに来てくれるんでしょ? お友達さん?」
その呼び方。軽くて少しだけからかうようで、それでいて距離を置いている響き。なのに、わざわざ、自分のための収納を用意する、その手間。ホークスは麻のボックスを見つめたまま無意識に息を吐いた。軽い笑いにも冗談にも見せかけられない感情が、胸の奥で静かにほどけていく。
「……来ますよ。めちゃくちゃ来ます」
「日本語、合ってる?行きます、じゃなくて?」
「来ますし行きます! いいの、どっちでも」
「あー、なんか嬉しそう〜」
そう言われてホークスは、改めて、ボックスを抱え直した。落とさないように、というよりも、むしろ、手放したくないとでも言うみたいに。
「嬉しいですよ、普通に」
取り繕わなかった。いつもの胡散臭い笑みでも仕事用の軽口でもない。ただ口角が少し上がっているだけの表情。それを見せているのが彼女一人だけだという事実に、ホークス自身が、気づいているかどうかはわからない。
次にキッチンコーナーに着くと、また彼が先に口を開いた。
「で、料理する人でしたっけ」
「あんましない!」
迷いなく、即答だった。清々しいほどに。ホークスは、棚を一瞥してから。
「じゃあ、最低限でいいですね。フライパンと、小さめの鍋と——」
こちらも迷いなく、必要最低限の調理器具を、カートに入れていく。一人で暮らす時間が長かった男の動きだった。過不足を作らない選び方。
「主婦だね」
「主婦て。せめて、主夫にしてくれん?」
「気持ち的には『主夫』って言ったつもり」
ホークスは手を止め、あえてゆっくりと棚から振り返ると、わざとらしく、目を細めてみせた。そして、すぐにまた棚へと体ごと向き直る。
「どの口が言うんですか」
「あ、なんか悪口言われてる」
「——で、食器の数は?」
「二人分でいいや。わたし、友達いないし」
その言葉にホークスは一瞬だけ動きを止めた。そして何事もなかったようにセンスの良さそうな皿を二枚、重ねて取る。
「俺がいるんで、問題ないですね」
「そ。ホークスのぶん」
それを聞いてホークスの胸の奥で何かが静かに収まったような気がした。大げさな安堵でもはっきりした理由でもない。ただ、ずっと浮いていた小さな棘がいつの間にか見当たらなくなっているそんな感覚。
「なんか、こうやって揃えてくとさ——」
言いかけて、彼は言葉を飲み込む。代わりに、小さなお椀をひとつ、手に取った。
「味噌汁も飲むでしょ?」
「飲む!」
「じゃあ、ちゃんとしたやつ買いましょ」
「お椀も二つね!」
食い気味の返事に、ホークスは小さく笑って、二つのお椀をカートに入れる。次に立ち止まったのは鍋の棚で、今度は真剣な顔でサイズを見比べ吟味し始める。
「名前さんの好きなもの、全部教えてください」
「え? なに、急に」
「そのうちでいいけん。教えて」
「……うん。わ、わかった」
買い物は、淡々と続いた。箸。コップ。タオル。生活を形づくる欠片が一つずつ、確実にカートの中に積み重なっていく。
新しく暮らすための準備を、二人でしている。その事実を、どちらも口にはしなかった。
『友達だから』という建前が気づかないうちにゆっくりと、確実に、互いの中で溶け始めていることに、気づかないふりをしながら、二人はまた一歩、売り場の奥へと進んだのだった。