約一時間半後。レジを抜けた先で振り返ると、カートに積み上げられていた生活の断片はすべて姿を消し、手元に残ったのは小物類を詰めた紙袋だけだった。数だけで言えばひとり暮らしの初期装備としては十分すぎるほどだ。
ホークスは「んーっ!」と声を漏らし背伸びをする。肩から腕にかけて溜まっていた力が、ようやく、ほどけていく。
「いやー、結構買いましたね」
隣を見ると、彼女は紙袋を持ったまま、どこか居心地の悪そうな顔をしていた。視線が合いそうで合わない。そして、少しだけ迷ってから、意を決したように口を開く。
「あの……立て替えてくれてありがと。払うよ、今日のぶん」
一瞬、意味を取り損ねた。きょとんとしてからホークスは自然と目尻を下げ、ひらひらと軽く手を振る。
「いいですよ、別に。給料出たばっかなんで」
それで終わる話だと思っていた。だが彼女は、精一杯に首を横に振った。
「そういうことじゃなくてさ……ダメだよ、金の切れ目は、縁の切れ目って言うし」
ホークスの足が止まった。その言葉を頭の中でもう一度なぞる。
金の切れ目は縁の切れ目。金が尽きたと知れた瞬間、掌を返すように関係を断つ——。大昔から擦り切れるほど言われてきた、あまりに即物的な言葉だ。それを彼女は感情論ではなく現実として置いている。その線引きが妙に彼女らしい。
好意に寄りかかりすぎないための、距離。頼ることと依存することをきちんと分けておくための予防線。
ホークスはコートのポケットに手を突っ込んだまま、しばらく黙っていた。それから一拍置き、考えがまとまったところでようやく口を開いた。
「……じゃあ、出世払いで。公安入ったら、給料から天引きします」
「うわー、それは卑怯だ」
そう言って、彼女は笑った。軽口の形を借りているけれど拒絶ではないと分かる程度のちょうどいい温度。その表情を横目で確かめてから、彼もつられるように口角を持ち上げ、再び歩き出す。
「公安委員会、会長権限です」
「やるって言ってないよね?」
ホークスはそこで、もう一度足を止めた。振り返ると、逆光の中でサングラスの縁が、きらりと光る。表情は読み取りにくいまま、けれど、声音だけは、妙に涼しい。
「言いましたよ」
「言ってません」
「嫌とは言ってない」
「うぅ……ねえ、性格悪いって言われない?周りから」
彼は、はは、と短く笑って肩をすくめた。その仕草には弁解も照れもなく、ただ事実として受け入れている気配だけがある。
「よく言われます」
悪びれる様子はない。むしろ、その評価に慣れきっている人間の余裕が滲んでいた。再び並んで歩き出し駐車場へ向かう通路を進む。昼を過ぎた陽射しはまだ高く、アスファルトの照り返しが、じわじわと足元から這い上がってくる。影は短く会話の余韻だけが二人の間に静かに残っていた。
「もー。そんなんじゃ、モテないよ〜?」
またホークスの足が止まった。三度目だった。今度は、完全に不意打ちで、笑顔を作る余裕すらない。胸の奥に鈍くて確かな衝撃が落ちる。彼は少し猫背になり、そのまま歩き出す。
「……モテますけど?一応。今でもファンレターとか、山ほど来てますし」
「ふーん。でも、ラブレター書いた相手は、私が初でしょー?」
三歩ほど進んでから、再び立ち止まる。今度はそのまま空を見上げた。雲ひとつない、冬晴れの青が、やけに遠い。
「……なんで今日、そんな攻撃力高いんですか」
「ん? なんか言った?」
「なんも言ってないです」
言ってはいた。ただし誰に向けたものでもない独り言だった。ホークスは、頭をがりがり掻く。
なんとか車に辿り着きトランクを開けて荷物を積み込む。無意識に、手つきが雑になる。紙袋の音がやけに大きく聞こえた。すべてを収めてから二人で車内へ。午後の光がフロントガラス越しに差し込み、ダッシュボードをやわらかく照らしている。
シートベルトを締めながら、ホークスが不意に「次、どうしましょうか」と言う。時刻は、午後二時を回ろうとしていた。
「とりあえずは生活できそうだから……買い物はもう、大丈夫だよ」
ホークスはギアに手をかけ、そのまま一拍だけ置いた。考えていたわけではない。ただ今ここで行き先を決めてしまうのが惜しい気がしただけ。
「じゃあ、ドライブでもしますか」
エンジンがかかる。低く安定した振動が、足元から伝わってきた。行き先は決めないまま、車はゆっくりと、走り出す。目的地のない時間。それが許される状況に、胸の奥がわずかに緩む。彼女の「え……」という小さな声に、ホークスは横目でその様子をうかがった。
「嫌でした?」
「あ、えっと……。したことないから、びっくりしただけ」
ホークスはハンドルを握ったまま、思わず目を少しだけ見開いた。
「ドライブしたことない?」
「車持ってるヴィランの仲間、いなかったから」
その返事に、ふっと、鼻で笑った。深い意味はない。ただ彼女の過去があまりに静かに語られるのが、逆に現実味を帯びていて。
「分倍河原も車持ってなかったですからねぇ」
名前がするりと口をついた。収容施設。彼女の前でその名を出したとき、ホークスは、泣き出しそうな顔をしていた。それが今日は、こんなにも何気なく言えてしまった。隣に彼女がいる。それだけで、時間の重さが、変わるのかもしれない。ホークスはハンドルを切り海沿いの道へ向かう。
「窓開けていいですよ、気持ちいいんで」
「あ、うん」
しばらく無言が続いた。沈黙が気まずいというより、どう扱えばいいかわからない、やわらかい空白。ホークスはそれを埋めるように、ラジオをつけた。ちょうどリスナーからのハガキを読んでいる最中だった。
「ホークスは、昔から免許持ってたの?」
何気なく投げられたその問いに、ホークスは、片手でサングラスの位置を直しながら、少しだけ首を傾げた。考えるというより、記憶を軽く探るような仕草だった。
「いや、飛んでる方が早かったんで。免許、持ってなかったんですよ、実は」
「そうかなって思ってた」
「今の役職就いてから慌てて取りました。教習所通うの、正直めんどくさかったですけどね」
言葉の終わりに苦笑が混じる。ハンドルを握る指先は安定していて、信号が青に変わると同時に車は滑るように交差点を抜けた。窓の外に広がる景色が少しずつ開け海が近づくにつれ潮の香りがじわじわと、車内に満ちてくる。冷房に混じって運ばれるその匂いが、季節と距離感を曖昧にしていく。
「でも、運転うまいよね」
ぽつりと落としたその一言にホークスはほんの少しだけ、胸を張った。誇示するほどでもない、けれど否定するほど謙遜もしない、そんな微妙な角度で。ハンドルを切る仕草が気のせいかほんのわずかだけ軽やかに見えた。
「三回、連続で擦りましたけどね、最初」
「そうなの? 意外。上手いと思うよ」
「そーです?」
「運転上手い人ってエッチも上手いらしいよ?」
次の瞬間ぐわんとハンドルがぶれた。一瞬だけ視界が流れ、車体が対向車線に寄りかける。反射的に戻したものの心臓は元の位置には戻らない。
「わぁ!!」
「でっかい鹿が寝てたんすよっ」
「いた!? 鹿なんてっ」
「いたっ! あっぶないなぁ、もう!」
完全に苦し紛れの言い訳だった。自分でもわかっている。ホークスは大きく息を吸い込み、ゆっくり吐いた。肺に入ってくる空気が妙に冷たく、胸の内側に滞留していた熱を無理やり押し下げていく。それでも、鼓動だけは誤魔化しきれず、まだ忙しなく主張していた。
(……攻撃力、高すぎません?)
二度目のそれはさすがに口には出さなかった。代わりに、ハンドルを握る指先にほんの少しだけ力を込める。
「……今のは、名前さんが悪い」
「えっ、わたし!?」
ホークスは前方から視線を外さない。逃げ場を塞ぐように、道路だけを見据えたままで、言葉を続ける。
「急に、何言い出すんですか……」
耳の奥がじんわり熱い。赤くなっている自覚がある。サングラスでは隠しきれない場所だった。もう取り繕う余裕もない。
「あ、いや……。ドライブっぽい会話でもしようかな、と」
速度を落としながらホークスは額をハンドルに軽くぶつけた。ごん、という音は小さかったが、内心のダメージには十分だった。車内にはまだ、さっきの揺れの余韻が残っていた。言葉ひとつでこんなにも簡単に均衡を崩されることを彼自身がいちばん理解してしまっていた。
「ドライブっぽい会話の方向性おかしいでしょ」
「……いや、慣れてなくてさ。ごめんごめん」
盛大にため息を吐いてから、ホークスは姿勢を正す。背筋を伸ばし、両手を、正しい位置に戻す。運転そのものに集中するふりをしなければ、いろいろと危なかったからだ。
「慣れてないなら、仕方ないですけど」
口ではそう言ったが心臓はまだ平常値に戻っていない。海岸線に出ると冬の陽光が水面で砕け、白い光となって跳ね返ってくる。その眩しさが、妙に救いだった。
「実際、どうなの? 上手いの?エッチの方は」
ホークスは言葉を失った。返事のない沈黙が、車内に落ちる。三秒ほど——けれど、体感では、もう少し長い。彼はちらりと助手席を見て、それから何事もなかったふりで前方へ視線を戻した。
「……それ聞いて、どうするんですか」
「答えによっては、神様を恨むかも」
「どういう意味ですか、それ」
「もし上手だったら——天は二物を与えないって言葉、嘘になるでしょ」
ホークスの片眉が、ついと持ち上がる。理解が追いついた次の瞬間、堪えきれず声が漏れた。
「あははっ! なんすかぁー、それぇ」
それは久しぶりに自分でも驚くほど自然に出た笑い声だった。作った明るさでも、場を和ませるための癖でもない。喉の奥から抜けていく、軽い音。彼は目尻に滲んだものを指で拭い、ようやく呼吸を整えてから言う。
「残念ながら、未経験ですので。神様は公平ですよ」
「へぇ〜!…………え?」
ホークスは助手席を一瞥もせずに、海の方へと視線を投げたまま、淡々と続ける。
「……なんですか、その反応」
「え」
短い一音だけが返ってきて、車内にまた、妙な間が生まれた。さっきまでの冗談めいた空気が、どこかで静かに形を変え始めていることに、二人ともまだ気づかないふりをしていた。彼女の中で何かが完全に、処理落ちしている気配があった。驚きというより想定していた世界線が音を立てて崩れていくときの、あの、間の抜けた沈黙。
ホークスはそれを、横目で感じ取りながらも、ハンドルを握り直して、ほんの少し照れを残したまま車を走らせる。それから耐えきれずに、頬をかいた。
「ヒーローやってたらそんな暇なかったですよ」
「……あぁ!冗談ね?もー、脅かさないでよ〜」
助手席から遠慮のない力加減でバシバシと腕を叩かれる。その音よりも先に、衝撃が来た。
「冗談じゃないですって。痛い、痛い」
「え」
三度目だった。さすがに「え」のバリエーションが尽きたのか、それ以上、驚きの言葉も残っていないらしい。ホークスは小さく息を吐き諦めたように続ける。
「マジですよ。二十と三年、生きてきて、清い体です。はい」
「……高く売れるね、きっと」
一瞬、意味が、飲み込めなかった。それから、遅れて理解が追いつきホークスは思わず品もなく吹き出す。
「公安の会長を目の前にしてさ、人身売買の話、やめてもらっていいですか」
「いや、だって!あの、ホークスの初でしょ!?競売にかけたら、億いくんじゃない!?」
「俺を何だと思ってるんですか……」
呆れたように言いながらも、どうやら、否定しきれない部分があるのが腹立たしい。��ウィングヒーロー・ホークス�≠ニいう名前の持つブランド価値を考えれば週刊誌等が、喉から手が出るほど欲しがる話題なのは事実だ。
ホークスはハンドルから視線を切らさないままちらりと、彼女を横目に見た。からかわれているだけのはずなのに、その横顔が妙に落ち着かないものに見えてしまうのは、きっと気のせいだ。
「……名前さんこそ、どうなんですか」
「へ? わたし?」
ホークスは、視線を前に戻したまま、声だけで投げる。
「聞いといてさ、自分は答えないの、ずるくないです?」
「……いつしたっけ。最後」
と、彼女は少しだけ、考える素振りを見せた。ホークスの目がわずかに泳ぐ。聞かなければよかったという後悔が、そのまま表情に浮かんでいた。けれど、車は走り続けているし、今さら耳を塞ぐこともできない。
「覚えてないや」
ぽろっと何気なく落ちたその一言にホークスは思わず「んんっ!?」と喉を鳴らした。咳払いで慌てて誤魔化す。
「あー......そうですか。覚えてないくらい昔と」
「んー、そういうことにしとく?」
胸の奥が一瞬だけ、むっとざらつく。理由は、自分でもよくわからない。ただ軽く受け流されたような気がして、気分が良くなかった。
「��しとく?�≠チて、何ですか、その含み」
「なんか、ガッカリしてるから。ホークスが」
ホークスは、「してないですよ!」と慌てて、即座に否定した。
「してない、別にっ! ガッカリとか」
「あ、そう?」
「……っ」
言葉が続かない。否定したはずなのにハンドルを握る指先だけが、さっきよりも強く力を込めていた。それでも胸の奥に残った引っかかりまでは消えない。
本当に今日は、彼女のペースに流されっぱなしだった。収容施設を出た初日からこれでは、先が思いやられる。ホークスは苦笑を噛み殺し今一度ハンドルを握り直す。革の感触が、やけに、現実的だった。冬の海は、相変わらず穏やかで、何事もなかったように青く広がっている。波は、一定のリズムで砕け、こちらの内側のざわめきなど最初から存在しなかったかのようだった。
「でもさ?」
「ん」
「さすがにドライブは私が初ではないでしょ?」
軽く投げられた、問いだった。からかい半分の響きもある。けれどホークスは、すぐには答えなかった。アクセルの踏み込みもハンドルの角度も変えないまま、数瞬ぶん、エンジン音と、ロードノイズだけが車内を満たす。
「……まあー、仕事で乗せたことはありますよ。何回か」
間を置いて「女の子?」と返された声は努めて平坦だった。その一言にホークスは「んー」と、小さく喉を鳴らす。視線は前方のまま、片手だけで指を折った。
「えーと、目良さんと加瀬さん。あとは、事務の子とぉ……」
口に出した途端、肩がほんのわずかに落ちた。並べてみれば、きれいに、公安関係者ばかりだ。自覚した瞬間、思わず苦笑が滲む。
「浮いた話も、ない感じ?」
その問いには、考えるより先に、乾いた笑いが零れた。
「ないですねぇ」
「作りたくないとか?」
ホークスは返事の代わりに運転席の窓を一気に下ろした。潮の匂いを含んだ風が流れ込み、頬を撫でていく。少し、眩しそうに目を細めながら、前方に伸びる水平線をなぞるように視線を送る。
「作る暇がなかったのと——」
そこで、言葉が途切れる。続きが見つからないまま、沈黙が一拍分、車内に落ちた。やがて噛み砕くようにして、ゆっくりと続けた。
「……なんか、しっくり来る人が、いなかったんですよね。今まで」
「うわー、わかるわかる。なんかさ、変なのしかいないよねー」
彼女のその、あまりに軽い同意にホークスは、思わず、真横を見た。
「変なのって……自分も含まれてます?」
「絞め殺すよ」
即座に出た物騒な言葉に、「わぉ」と反射的に両手を上げかけ、慌ててハンドルに戻した。冗談めいたやり取りのはずなのにその声色にはほんの少しだけ、本気が混じっていた気がした。
「すんません」
「……まあ。でも実際、含まれてるんじゃない?わたし、変人だし」
「……」
「ヴィランなんてみんな変だよ、ヒーローと違ってね」
また、沈黙が落ちた。ラジオからは最新ヒットチャートが流れている。耳にはしっかりと入っているはずなのに、旋律はすぐに背景へと溶けた。
ホークスはしばらく前を見つめたまま、静かに言った。
「変人かどうかは、俺が決めます」
それだけだった。説明も付け足しもない。再び視線を前に戻す。波が陽を受けて、白い線を引いている。車内がまた静かになる。波の音、ラジオ、ロードノイズ。それだけが均等に響く。しばらくして、ホークスは、ぽつりと零した。
「……名前さんは、変じゃないですよ」
信号のない、直線道路。速度は、いつの間にか緩やかに落ちていた。急ぐ理由がなくなっていることに、彼自身が最後に気づいた。
「……また、口説き文句」
その声音にホークスは思わず笑ってしまった。反射的に、軽く首を振る。
「事実ですって」
それきり何も言わなかった。「口説いてない」とは、もう言わない。その言葉を使うこと自体がどこか逃げに思えたからだ。代わりにウインカーを出す。小さな電子音が、規則正しく鳴り、車体がゆっくりと路肩へ寄っていく。
ハンドル操作は丁寧だった。今は余計な揺れを作りたくなかった。
「ホークスは、英雄だよね」
車が止まる。サイドブレーキを引く音が車内に乾いて響いた。——英雄。その単語にホークスの視界から一瞬、色が抜けた気がした。ハンドルに額を預けるように、体重をかける。
「英雄なんかじゃないですよ、俺は」
声が低い。いつもの軽さはきれいに剥がれ落ちていた。トゥワイスの顔が、よぎったのかもしれない。先の大戦の、切り取れない場面が、脳裏を掠めたのかもしれない。
殺した相棒。守れなかった仲間——��英雄�≠ニ呼ばれるにはあまりにも多くのものを置き去りにしてきた。
「なんで?私みたいなのにも、こうして手を差し伸べてくれてるじゃん」
ホークスは、答えなかった。フロントガラスの向こう、海を見ていた。波が岩に当たって砕ける音が、同じ調子で繰り返されている。
「……トゥワイスを殺した手ですよ」
右手を開いて、閉じる。何でもない動作のはずなのに、その一瞬に宿る重さをこの車内で正確に測れているのは、たぶん、彼女だけだった。
「いい人だから手を差し伸べるんじゃなくて……俺が、そうしたいからしてるだけです」
「……トゥワイスは殺されても仕方ないことしたから、いいんだよ」
ゆっくりと目を閉じた。仕方ない。それは事実だった。敵に情報を流し仲間を殺し、状況もタイミングも引き返せる余地はなかった。理由は十分すぎるほど揃っている。それでも——。
ホークスは一度、小さく息を吐いてから、目を開ける。波の音が、少しだけ、大きくなった気がした。
「仕方なくても、悲しかったですよ」
「その心が美しいから、やっぱりホークスは英雄だよ」
ホークスはゆっくりと車の天井を仰いだ。何か言おうとしてやめる。「ありがとう」も「そんなことない」も、どちらも今の自分には嘘になる。言葉にしてしまえば、簡単に形が決まってしまう気がした。代わりに深く息を吐く。肺の奥に溜まっていたものが、少しだけ外に出た。
「ごめんね。私といると、彼を思い出すよね」
その言葉が落ちた瞬間、ホークスは、反射的に首を振っていた。考えるより先に、身体が否定を選んだ、というほうが近い。否定しなければならないと理屈が追いつく前に、胸の奥で何かが強く反発した。
「違います。それは違う」
声の調子が自分でもわかるほど変わっていた。普段なら無意識に混ぜ込む軽さを、意図的に削ぎ落とした声。柔らかさは残しているはずなのに、その奥に一本、硬い芯が通る。
「思い出すのは、名前さんのせいじゃない。俺の中の、問題です」
彼女は、黙ったまま視線を落とす。否定が彼女を傷つけていないか、それだけが一瞬気になったがそれでも言い直す気にはなれなかった。ここは、誤解されたままにしておける場所じゃない。
「それに、あいつのこと思い出したときに悲しいだけじゃないんですよ、最近は」
そう続けたものの、次の言葉が、すぐには出てこなかった。言葉を選ぶというより、正確な形に整えようとしている感覚に近い。
視線が、宙を泳ぐ。フロントガラスの向こう、昼の港に点在する灯りが滲んで見える。
「あいつが『良い奴だった』って、思える自分でいたいから、今こうしてるところもあるんで」
過去を美化したいわけじゃない。ただ全否定で終わらせたくない。それだけだ。そうでなければこれまでやってきたことも、これから選ぶものもどこかで、歪んでしまう気がしている。
「だから、謝らんでください」
静かな声だった。押し付けるつもりは、ない。ただ彼女に向けて投げた最低限の線引きだった。互いの声は終始穏やかだったはずなのに、車内の空気はいつの間にか、重く沈んでいた。窓を閉め切ったはずなのに、どこからか冷たい湿気が入り込んでくるような感覚。言葉にされなかった後悔や、名前を持たない感情が、澱のように溜まっていく。
「……さっきはさ、遊びに来てなんて軽く言ったけど」
彼女はそう前置きして、膝の上で指を組んだ。小さな仕草だったが、迷いが滲んでいるのがわかる。ホークスは口を挟まなかった。ここで割って入るのは違うと、直感が告げていた。
「この車降りたら、もう気にしてくれなくていいからね」
それだけ言って、彼女はドアを開けた。制止の言葉が喉まで上がったが、音になる前に引っ込んだ。ドアが閉まる乾いた音。外の潮の匂いが一瞬だけ車内に流れ込み、すぐに遮断される。
ホークスはハンドルを握ったまま、動けなかった。アクセルもブレーキも踏まず、ただ、前を見つめる。フロントガラス越しに、彼女が海の方へと歩いていくのが見える。小柄な背中。午後の光を受けて、髪が淡く揺れる。風に煽られて、ほんの一瞬だけ立ち止まりそれでも振り返らずに進んでいく。
距離が、確実に開いていく。胸の奥で何かが、静かに、音を立てた。引き留めなかった自分への苛立ちか引き留められなかった現実への諦めか、ホークス自身にもまだ、判別がつかない。ただ、今、この瞬間を逃したら、同じ距離感ではもう、並べない。そんな予感だけがやけに鮮明だった。
ハンドルを握る指先に、じわりと力がこもる。そのまま握り返せば革が軋む音でもしてくれればよかったのに、車内は妙に静かで、彼女が残していった言葉だけが遅れて、反響していた。
——もう、気にしてくれなくていい。
あまりに軽く、あまりに整った言い方だった。まるで、前もって何度も口の中で転がして、角を削ってから差し出された言葉のようで——だからこそ胸の奥に引っかかる。善意で切り分けられた距離ほど残酷なものはないと、彼は知っていた。
フロントガラスの向こう彼女の背中が少しずつ遠ざかっていく。あの背中を、追えばいいのか。呼び止めればいいのか……。そんな選択肢が頭をよぎるくせに身体はシートに縫い留められたまま動こうとしない。
——俺は、また同じことを繰り返すのか。
仲間を疑わないと誓ったはずだった。信じると決めた相手から距離を取られるたびにその決意が試される。
引き留めることは彼女の選択を否定することになるのか。それとも、何も言わずに、見送ることこそが、彼女を一人にする行為なのか。
答えは出ない。ただ胸の奥で、鈍い痛みが脈を打つ。悲しみとも後悔ともつかないそれはかつて手放してしまった背中と今まさに遠ざかっていく背中とを、重ね合わせてしまう、自分への苛立ちだった。
彼は一度、深く、息を吸う。エンジンを切った車内は、彼女が去る前よりも、狭く感じられる。ハンドルから手を離し、膝の上で拳を作ってからゆっくりほどいた。
追いかけない——。それを『尊重』と呼ぶのは簡単だ。けれど本当は、臆病なだけなのかもしれない。信じると言いながら拒まれることを恐れてあと一歩を踏み出さない。そんな自分を、彼女は見抜いていたのだろうか。
ガラス越しに、彼女の姿が海の色と溶け合う。その瞬間、胸の奥で、なにかが小さく崩れる音がした。音といっても、実際には何も聞こえない。ただ、確かに��壊れた�≠ニいう感触だけが残る。視線を落とし、静まり返った車内で誰にも聞こえないように短く息を吐く。まだ終わりじゃない。そう言い聞かせるには少し、時間が必要だった。
ホークスはようやく車を降りた。足元で砂利が鳴る。その音が、やけに大きく感じられた。早足ではなかった。急ぐ理由も焦る資格もない。ただ彼女と同じ方向へ歩いた。同じ速度で。横に並ぶことはせず、けれど離れすぎもしない距離を保ちながら。
波打ち際の手前で、立ち止まる。背中を彼女に向けたまま海を見た。水面が光を砕いて揺らしている。
「気にするなって言われて、はいそうですかってできるなら——」
淡々と海に語りかけるように言った。振り返らない。振り返れば決定的な何かを突きつけられる気がした。
「公安の会長なんか、やってないですよ」
「……ホークスは、仕事だから仕方ないもんね。ヴィランの更生」
その言葉を聞いた瞬間、ようやく振り返った。そこにあったのは、いつもの笑顔でも軽口を叩く��ヒーロー�≠フ顔でもない。剥き出しのままの、二十三歳の青年だった。
「仕事だから、仕方ない?」
「……」
「違いますよ。これは、俺が勝手にやりたくて、やってることです」
彼女は、何も言わない。ただ黙っている。その沈黙は言葉で否定されるよりもずっと重く、胸の奥に鈍い圧を残した。返事を待つ時間が必要以上に、長く感じられる。ホークスは一歩、彼女との距離を詰める。足元で砂が湿った音を立て靴底にまとわりついた。この時間の海は、思ったよりも冷たく、潮の匂いが肺の奥まで入り込んでくる。
「仕事なら、こんな朝から迎えに来んし」
自分に言い聞かせるような声だった。彼女ではなく、どこか、宙に向けて投げられた言葉。
「ベッドで、もうありもしない羽根の位置なんか気にしない」
言葉を重ねるごとに胸の奥で何かが削れていく感覚があった。返ってこない反応に、耐えきれず、さらに一歩、距離を縮める。二度と、同じ過ちを繰り返さないために。そう、自分に言い訳を与えながら。踏み込みすぎないように、でも引き返せないところまで来てしまったことを、もう、自覚している。
「車降りたら気にしなくていいとか……そういうこと言っちゃう感じ」
声がわずかに掠れた。潮風のせいだと決めつけたかったが、喉の奥に残る違和感は、どうにも、誤魔化しきれない。冷たい風が頬を撫でて、髪を揺らすたび、言葉にしなかった感情まで引きずり出される気がした。
「——けっこう、きついですよ」
ようやく落とした本音は思っていたよりも軽く同時に、取り返しのつかない重さを持っていた。
沈黙が降りる。二人の間を容赦なく潮風だけが行き来し、言葉の余韻を削ぎ落としていく。
「気にかけてくれて、感謝してるの、ほんとに」
ようやく彼女から言葉が返ってくる。それでも視線は合わせない。合わせてしまえば、何かが、決定的に、壊れてしまいそうだったから。
「でも、ホークスのそれは——私に対して、じゃないと思うんだよね」
最後の一文は問いかけではなかった。確認でも責めでもない。ただ、そうであってほしいという願いと、そうなのだろうという諦めが同じ高さで並んでいた。「私に対してじゃない」——。その言葉の意味は、すぐに理解できた。罪悪感。トゥワイスを失ったことへの贖罪。敵連合の人間を、更生させることで自分を赦そうとしている。そういうことだろう。
踏み出しかけた足を止めた。波が寄せては引き二人の足元をかすめていく。ホークスはしばらく黙っていた。否定する言葉は、いくらでも浮かんだが、どれも嘘になる気がした。だから、否定しなかった。
「……そうかも、しれません」
「……」
「最初はそうだったかも。義務感とか贖罪とか。でも、今は——」
一度言葉を切り自分の胸に拳を当てる。心臓の音がやけに近い。そして、うまく掴めない感覚を手探りで確かめるように。
「ここが、違うんですよ。昨日と今日で」
潮騒だけがその間を埋める。彼女は何も言わずただ彼を見ていた。その視線から逃げるように、ホークスは頭の後ろを掻く。困ったような、情けない笑いが漏れた。
「うまく言えんのが情けないですね、ほんと」
「……人間の心って、複雑だよね」
「……」
「でも。生きてる証だから、上手く言えないままでも、いいんじゃない?」
ホークスは、一瞬、目を見開いた。それから、ゆっくりと細める。視界の端で海から吹き上げた風が彼女の髪を揺らし、その流れに引っ張られるように、自分の前髪も乱れた。金色の毛先が目にかかっているのに、それを直すことすら忘れて、ただ、立ち尽くす。
彼女の言葉は不思議なほど深いところに刺さった。胸の奥、普段は羽毛と冗談で覆い隠している場所に、ためらいもなく、届いてしまった感触がある。抜こうとしても抜けない。しばらく、そのままにしておくしかなかった。
「名前さん、たまにすごいこと言いますよね」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど、素直だった。
「え? そう?」
「そう」
「……なんだろ。ホークスといると、自然と出てくるんだよね」
ホークスは、小さく笑った。呆れたように肩をすくめる。その仕草で、この場の温度を少しだけ下げようとした。
「それ、口説き文句って言うんですよ」
明らかにさっきの仕返しだった。それでも声は柔らかく、角がない。波が寄せては返すみたいに丸い調子で口からこぼれた。
「えー? 違うよ。きっと、ホークスの心が綺麗だから、移っちゃうだけだよ」
その瞬間、耳の先が、熱を持つのがわかった。血が集まる感覚。本人はきっと、無自覚だ。指摘されるまで気づかない種類のやつ。
「……褒め殺す気ですか」
「あっ。また耳、真っ赤〜」
次の瞬間、視界が狭まる。両側から彼女の手が伸びてきて、ホークスの耳をすっぽりと覆った。思考が、ぴたりと、止まる。近い。想像以上に。身長差のせいで彼女は自然と見上げる形になる。
その目線の高さ、呼吸の近さ、指の温度。逃げようと思えば、いくらでもできた。体格差も力の差も歴然だ。けれど、体が命令を聞かなかった。動かなかった。
「汚い言葉も、黒い気持ちも……こうしたら何も聞こえないよ」
ホークスは目を伏せた。耳は塞がれているのに彼女の唇の動きは、はっきり見えた。その言葉が指しているものを、彼は、嫌というほど理解していた。
記者の詰問。世論の波。部下から上がる報告。期待、責任、信頼、不信——。公安の会長という肩書きに付随する、無数の雑音。耳を塞いでも、頭の中に残り続けるそれらを彼女は一言で括ってみせた。かすれた声が、自然と漏れる。
「……聞こえるのは、波の音だけですね」
彼女は何も言わなかった。ただ、そう。それでいい、とでも言うように、微笑んだ。至近距離で見るその表情に、息が詰まる。
——ああ、だめだ。ホークスは、はっきりと、そう思った。「移っちゃうだけ」と言った彼女の言葉の意味が今になって理解できてしまう。綺麗なのは、自分じゃない。この人の方だ。
ホークスはそっと自分の手を持ち上げた。耳に触れている彼女の両手に、上から重ねる。海風で冷えた指先。触れた瞬間、彼女の指が、ぴくりと震えた。それでも、離れなかった。その事実が、胸の奥を静かに締めつける。重ねた手に、ほんの少しだけ力を込めて、ホークスは低く言った。
「もうちょっとだけ、こうしてていいですか」
世界が極端に単純になる。聞こえるのは波音と遠くの、カモメの声だけ。都会の喧騒も、公安の書類も面会室の冷たい椅子もここには届かない。
ホークス——いや、鷹見啓悟の素顔は今たった数十センチの距離にいる元敵の前でだけ無防備に晒されていた。彼女が、にこっと笑って一度だけ大きく首を縦に振る。時間が溶けた。どれくらいそうしていたのか二人ともわからない。五分か、十分か、それとも一瞬だったのか。感覚が曖昧になるほど、静かな間だった。
やがて、ホークスはようやく目を開けて、口を開いた。
「……そろそろ、行きますか」
名残惜しさが声に滲む前にホークスは自分から彼女の手を離した。
触れていた時間が長すぎたわけではない。それでも、切り替えるには十分な余韻が残っている。彼女を新しい住処へ送り届ける。それが、今日の役目であり、ここに来た理由だった。ホークスは踵を返し、車の方へ歩き出す。
「——あの、ホークス」
背後から名前を呼ばれて、足が止まった。振り返ると、彼女が少しだけ距離を保ったまま立っている。
「はい?」
「ちゃんと、お礼言えてなかった」
「ん?」
「仮釈放の件、本当にどうもありがとう」
次の瞬間、彼女は深く頭を下げた。その向こう側に容赦なく青が広がっているのが見えた。波が光を砕きながら、規則正しく、寄せては返す。彼はその光景を一拍だけ眺めてから、数歩、戻った。
「顔、上げてください」
その声に冗談の色はなかった。軽さも逃げ道もない。彼女が顔を上げるのを待ってから、視線を逸らさずに言った。
「礼を言うのは、こっちの方です」
「……」
「さっきの言葉、ちゃんと、受け取りました」
どの言葉かは、あえて口にはしない。心が綺麗だから移る、という話かもしれないし耳を塞げば波の音だけでいい、という話かもしれない。あるいは、その全部だった。
ホークスは、ポケットに手を入れ、思い出したように中身を探る。そして取り出したのは銀色の何かと、茶色の小さな紙袋。
「これ、忘れるとこでした。部屋の鍵」
「あ、うん」
「あと……お土産」
「ん……? お土産?」
「開けてみてください」
彼女の手の上に二つをそっと乗せる。一瞬だけ警戒するような顔をしてから、彼女は紙袋の中を覗いた。その中には透明な袋に入った貝殻のストラップがひとつ。琥珀色の光沢が光に透けて手のひらの上で、きらきらと反射する。ホークスは、照れ隠しに、頭の後ろを掻いた。
「さっき車停めたとき、売店で見つけて。別に、深い意味はないですよ」
言葉とは裏腹にその選択には迷いがなかった。気づいたら手に取っていた。それだけのことだと自分に言い聞かせる。
「わぁ……綺麗」
「……」
「ふふっ、ホークスの色だね」
彼女はそう言って、それを、海の方へ翳した。光を受けて貝殻が淡く輝く。一瞬、何を言われたのかわからずきょとんとする。それから無意識に自分の髪に触れた。黄土色に近い金。確かにこの貝殻とよく似た色味だった。偶然、選んだはずのものが、最初からそこに収まる場所を知っていたみたいにぴたりと嵌まる。ホークスは反射的に、口元を手で隠した。
「髪?」
「——と、瞳。」
「……狙ったわけじゃ、ないですよ?ほんとに」
「ホークスの色がいい。どうも、ありがとう」
口元を覆っていた手を下ろした瞬間、耳が熱くなる。今度は自覚があった。慌てて横を向くが、もう、遅い。彼女もそれに気づいたらしく、何も言わずに、くすっと笑っただけだった。
ホークスは咳払いをひとつして、今度こそ車の方へと向かって歩き出した。背中に残る視線と、ポケットの中にまだ残っている体温を、振り切るようにして。
「ほら行きますよ。日が暮れる前に着かないと」
自分でもわかるくらい足取りが少し速かった。逃げたいわけじゃない。ただ、この場に長く留まっていると余計なことまで言ってしまいそうで。あるいは言わなくてもいい本音が顔に出そうで。
彼女はそれを責めるでもなく、くすくすと笑いながら後を追ってくる。車に着くと、ホークスは反射的に助手席のドアを開けた。考えるより先に体が動く。習慣のようでいて彼女に対しては少しだけ意識している動作だった。
二人が車に乗り込みエンジンがかかる。ラジオからは少し古い冬のラブソングの残り香みたいな旋律が流れていた。バックミラー越しに、さっきまで立っていた海岸線がゆっくりと、遠ざかっていく。
どちらからともなく窓を少しだけ開けた。潮の匂いが車内に入り込み、空気が柔らかくなる。
「来週も、来ていいですか、ここ」
ホークスはハンドルを握りながら、思いついたように、ぽつりと口を開いた。そうして、一瞬の間を置いてから、付け足す。
「できれば......一緒に」
「ん?そんな時間あるの? 公安の会長さん?」
その呼び方に口角が勝手に吊り上がった。彼はにやっと、わざとらしく笑みを作る。そうして、いつもの軽くて、余裕のある顔で。
「作りますよ、時間は」
それが簡単なことじゃないのは自分がいちばんよく、知っている。それでも言い切った。いや、言い切りたかったのだ。
「かっこいぃ〜」
「でしょー?」
「うん。今日はね、ドキッとポイントがたくさんあったよ?」
ハンドル操作は自然だった。視線を前に置いたまま、体が先に、動きを覚えている。アクセルの踏み具合も、カーブの入りも、すべてが無理なく流れていく。その余裕の中で、彼女の声だけが、柔らかく耳に残る。
「何点です?」
「まずね、いちばん最初に、助手席を開けてくれたところで、120点だった」
「お、幸先のいい高得点」
冗談めかした調子で返しながら胸の奥がほんの少しだけ温むのを、彼は、否定しなかった。評価されたからではない。ただそこにちゃんと意味を見つけてくれたことが、妙に嬉しかった。
「初めてしてもらった。助手席のドアを、開けてもらうなんて……嬉しかった」
その言い方が静かすぎてかえって胸に刺さる。ホークスは前を見たまま、少しだけ声を落として答えた。
「当たり前のことなんで」
「ヴィランは、そんな場面に出会わないよ」
言葉のあとに、短い沈黙が落ちた。当たり前が当たり前として存在しなかった場所。彼女がいた世界を、完全に理解できるとは、思っていない。想像で埋めたところで届かない部分があることもわかっている。それでも今の一言の裏に横たわっている時間の重さだけは否応なく伝わってくる。
ホークスはハンドルを握る指先にほんのわずか力を込める。この時間が、彼女にとって少しでも『当たり前』に近い記憶として残るように。
「じゃあ……これから全部、初めてですね」
軽い口調だった。けれど、その中身は軽くなかった。「これから」が、自然に前提として口から出てしまったことに、ホークス自身も少し驚く。
「ほんとだよね。ドライブも、初めてだったし、二人で買い物とか、プレゼントも初めてだった」
信号で車が止まる。赤だ。ホークスは、横目で彼女を見やった。笑っているようで、その奥に、どんな感情が浮かんでいるのか確かめるように。これから、という言葉を、彼女がどう受け取ったのかを——。
「……じゃあ、全部俺ですね。初めての相手」
いつも通り、冗談めかした調子で言ったつもりだった。軽く流すための言葉だったはずだ。それなのに——。
「キスとエッチ以外はね」
信号が青に変わる。視界の端で、それを捉えた瞬間、踏むはずのアクセルに一瞬、力が入らなかった。ほんの半拍の遅れ。後続車があれば気づかれたかもしれない程度の、それでも確かな躓き。
「……強調しますね、そこ」
言葉を選びながら返す。自分の声が思ったよりも低い事に、この男自身は気づいているだろうか。
「ううん。強調してるわけじゃなくてさ?ただ」
彼女はそこで言葉を切った。珍しく間を置く。ホークスは、何も言わなかった。ハンドルを握る手の力を一定に保ちながら、ただ、待つ。急かす権利はないし今は待つ方がいいと直感していた。
「その二つも、ホークスみたいな素敵な人が相手だったら、私の人生また違ったのかなって」
車内の空気が、微かに、質を変えた気がした。
「たられば」。意味がないとわかっていても、どうしても浮かんでしまう仮定の話。過去に向けられた言葉じゃないのに、胸の奥に、触れてくる痛み。
ホークスは、しばらく黙っていた。国道沿いの並木が一定のリズムで視界を横切っていく。緑と影が交互に視界を横切り、その単調さが逆に頭の中を静めていくようだった。アクセルもブレーキも、今は必要ない。車はただ、前へ前へと進んでいる。その流れに、呼吸を合わせる。一度、深く吸って、吐く。感情が先に零れないよう、言葉の輪郭を内側で確かめてから彼は前を見たまま口を開いた。
「——みたいな、じゃなくて」
短く、低く。語尾を丸めず、余計な温度を、乗せない。そう意識していなければ、たぶんもっと、違う言い方になっていた。
「素敵な人ですよ、俺は」
それだけ言って、黙る。評価でも主張でもなくただの事実として、差し出したつもりだった。
「知ってるよ」
しかし、間髪入れずに返ってきたその一言に、思わず、息が漏れた。驚きとも、笑いともつかない喉の奥で、ほどけるような音。肩の力が、ほんの少しだけ抜ける。
「知ってるなら『みたいな』はいらないでしょ」
「そこ、強調するねぇ?」
軽く返されて、ようやく気づく。これは完全にさっきの仕返しだと。ホークスは小さく肩をすくめた。否定する気にも突っ込む気にもならない。
「真似しないでください」
そう言いながら、口元はわずかに緩んでいた。二人の笑い声がほぼ同時に重なり狭い車内に反響してすぐに消える。並木の影がまた一つフロントガラスを横切っていく。
どうでもいい会話。くだらないやり取り。それなのに、胸の奥が妙に軽い。どうしてこんなに、心地いいのか。考えるまでもなく答えはもう出ていたのかもしれない。ホークスは、笑いながら、ため息まじりに言う。
「あーもう、調子狂うなぁ」
「なんで? とっても楽しいよ、私は」
飾り気のない声音。計算も含みもない。それを自然に口にできる彼女をホークスは少し羨ましく思った。だからこそ自分もこの人の前では余計な鎧を脱げてしまうのだろう。
「俺もです」
「よかった」
それ以上はいらなかった。「俺も」と「よかった」。それだけで会話はきちんと着地している。
遠くに建物が見え始める。ホークスは、車内のデジタル時計をちらりと確認した。到着予定まであと十五分もない。その事実を、二人とも無言のうちに意識している。ラジオの曲が途切れ、天気予報に切り替わった。「明日は晴れでしょう」という、抑揚のない声。
「明日も晴れだって。よかったね」
「ああ、聞いてたんだ」
「聞いてるよ、私をなんだと思ってるの?」
「いやいや。じゃあ——明後日も晴れたら、また来ましょうか」
「海?」
「はい」
「来週って言ってたのに〜」
ホークスは前を見たままほんの一瞬だけ子どもじみた仕草で、べっ、と舌を出した。自分でも、少し驚くほど気負いのない動きだった。肩書きも立場も、今だけは、バックミラーの向こうに放り投げている。
「待てんくなりました」
胸を張って言うと、助手席から、間髪入れずに返事が飛んでくる。
「公安委員会、会長。実は暇人説だよ」
からかう声音。それを否定する言葉は、いくらでも用意できたはずなのに、喉まで上がってきた理屈は、そのまま飲み込んだ。代わりに胸の奥がわずかに緩む。暇だと言われたことがなぜか悪くなかった。誰かにそう断じられるくらい、余白を持って見られているのだと思えたからだ。
「暇を作るのが仕事なんすよ」
「ほぅ? 言うねぇ」
「ヒーローが暇を持て余す世の中、作ったんで」
「わー。かっこいいー」
少しだけ得意げに言えば棒読みの称賛が返ってくる。演技だと分かっているのに、口角は勝手に上がった。二人とも、それを咎めることなくそのまま笑いに変えてしまう。車は見慣れた街並みに差しかかっていた。ネオンと看板、信号待ちの、人波。さっきまでの他愛ない空気が現実の輪郭を帯びて迫ってくる。
仕事、肩書き、役割。それらが静かに、しかし確実に戻ってくる予感。それでも今この瞬間だけはハンドルの感触と隣に座る彼女の気配がすべてだった。
エンジン音に紛れて、心臓の鼓動が、少し早いことに気づく。楽しいという感情が思ったよりも深く、長く尾を引いている。
このまま走り続けられたらいいのに、と一瞬、思ってしまう自分にホークスは苦笑した。そんな都合のいい逃避は許されない。それでもこうして現実へ戻る直前の曖昧な境界線に立っていられる時間が、たまらなく愛おしかった。
騒がしくて眩しくて、いつも通りの風景。その中に、確かに残る温度があることを、彼は静かに噛みしめていた。