結局——目的地まで残された十五分のあいだ、ホークスは何度もウインカーを点けた。飲み物を買うためのコンビニ、ガソリンスタンドに併設された売店。口実としてはどれも十分に成立する。彼自身、それが『必要』ではないことに気づいていないほど鈍くはなかった。それでもハンドルを切るたび、時間がわずかに引き延ばされ助手席の気配がまだここにあるという事実だけが、静かに胸の底へと沈んでいく。
 寄り道の理由はどうでもよくて、ただその隣が空白にならないまま進める数分が、思った以上に手放しがたかった。
 もう少し、この時間が続けばいい——。言葉にすれば幼稚で、認めれば取り返しがつかなくなる感情を彼は、運転という作業に押し込めていた。速度を守り、信号を守り、目的地へ向かうふりをしながらほんのわずかだけ進行を遅らせる。その小さな選択の積み重ねが、彼なりの抵抗だった。
 ホークスはほんのわずかにアクセルを緩めた。速度が落ちたことよりも、その沈黙のほうが彼女には、不思議だった。エンジンの低い唸りだけが一定の間隔を保っている。彼の横顔は前を向いたまま何かを考えているというより、考えることをいったん脇に置いたような静けさだった。
 言葉が来るなら、きっと、今ではない。そんな予感だけが、根拠もなく胸の内に浮かぶ。

「……ホークスに愛される人は、幸せだろうね」

 その言葉が車内に落ちた瞬間、彼は迷いなく、ブレーキを踏んだ。車体は滑らかに減速し路肩へ静かに収まる。エンジンのアイドリング音だけが残り、外界と切り離されたような密室が出来上がった。彼女は理由もわからないまま、周囲を見渡す。事故でも渋滞でもない。何かを見落としたのだろうかと首を傾げるその横顔をホークスは正面から見ることができなかった。前を向いたまま、逃げ場のない言葉を吐き出す。

「愛してますけど。もう」

 驚くほど、あっさりした声音だった。勢いでも衝動でもなく腹の底で決めていた人間の言い方。言ってしまえば楽になると知っている者の装飾のない告白。

「……え、いるの? 好きな子?」

 運転席に向けられた気配だけで、胸の奥が締めつけられる。ホークスは耐えきれず額をハンドルに打ちつけた。鈍い音が車内に響き自嘲混じりの声が続く。

「……鈍感にもほどがある」
「え……、うそ! 私の知ってる人!?」
「ですね」
「え、誰だろ……あー、収容所の私の担当だった女性の監視係さん?」

 顔を上げたホークスの額はうっすら赤く、目の光は遠い。疲弊と諦観が同居した、完全に生気の薄い表情だった。

「知らんですよ、誰ですかそれ。違います」
「なるほど……ああいう系は、タイプじゃないのかぁ」
「……」
「じゃあ……トガちゃん、とか?」

 その名前が出た瞬間、彼はもう一度ゆっくりと額をハンドルに預けた。芝居でも誇張でもない、純粋な現実逃避だった。

「死んでるじゃないですか、あの子……」
「ちょっと、言い方」

 ホークスは上体を起こし、今度こそ真正面から彼女を見た。眉間には、深く刻まれた皺。軽口を受け流す余地はもう残っていない。冗談で済ませられる段階は、とっくに過ぎていた。

「生きてますよ。ちゃんと、ほら」
「……ん?」
「目の前にいるでしょ」

 短く区切られたその言葉のあと、車内の空気が不自然なほど張りつめる。エンジン音も、遠くの街の気配も、すべてが薄い膜の向こうへ追いやられたようだった。
 彼女は少し間を置いてから、ぱちりと瞬きをしその大きな瞳をくるりと一回転させる。無邪気というよりも、状況を測りかねた末の反射的な動きだったのかもしれない。それをホークスは表情を殺したまま見つめていた。

「グルって回った、今」
「うん、回したけど」
「目、落ちちゃいますよ。そんなに見開いたら」
「……え?いやいやいや。目玉の話じゃなくて」
「ん?」
「今日、どこかですれ違った? その人と」

 ホークスは深く息を吸い、そして吐いた。その呼吸は、これまで無数の修羅場を越えてきた男のものとは思えないほど重い。空を裂く速さも即断即決の鋭さも、この瞬間には、何の役にも立たなかった。告白——その一点においてだけ、自分は致命的に不器用だという事実を、今さらのように思い知らされる。彼は背もたれに身を預け天井を仰ぐ。逃げ道を探す思考は、もう働かなかった。ここで踏み出さなければきっと一生、同じ場所に留まり続ける。

「誤魔化せると思ってたわけじゃないんです」
「……?」
「ただ、その……どう言えばいいのか、分からなくて」

 言葉は途中で途切れた。喉の奥で行き場を失ったまま空気に溶ける。けれど彼は、もう理解していた。ここから先は言葉を選ぶ猶予も、引き返す余地もない。沈黙ですら、逃げにはならない地点まで、来てしまったのだと。

「……好きです、名前さんのこと」

 声が、思ったよりも低く出た。彼女が運転席を見つめたまま、小さく首を傾げる。

「……名前?」
「はい」
「え……っと。私と、同じ名前の人ってこと?」

 ホークスは呻くように声を漏らし、両手で顔を覆った。指の隙間から見えるのは、混乱を隠しきれない彼女の気配と、フロントガラスの向こうを流れていく何事もなかったかのような世界。路肩に停められたこの車だけが現実から切り離された箱のように静まり返っている。彼は指の間から、くぐもった声を落とす。

「あなたですよ、あなた」
「……え?」
「敵連合だった、貝殻が俺の色だって言った」
「………あ、え。」
「……」
「わた、し……?」

 彼女の声がかすかに裏返る。その一言で彼女の中に散らばっていた点がゆっくりと結び直されていくのが分かった。やがて彼が両手を下ろすと、隠れていた顔が露わになる。耳まで染まった赤は照れというよりも混乱と実感が同時に押し寄せた結果だった。一方で彼女の方は、表情が固まり、視線が宙を彷徨い、思考が現実に追いつこうと、必死にもがいていた。その時間をホークスは息を殺して待った。告白そのものよりも、この��理解されるまでの間�≠フほうが、よほど心臓に悪い。

「……やっと、届きました?」

 自分でも驚くほど声が慎重になる。祈るように問いかけると彼女は大きく何度も頷いた。ぎこちないほど真剣なその動きに、胸の奥で張りつめていた何かがふっと緩む。思わず小さく息と一緒に笑いが漏れた。

「じゃあ……返事、聞いてもいいですか」
「……え。返事って? なんの……」
「うそでしょ。本気で言ってます?」

 ここまで来てそれか、と。力の抜けた息が先に落ち、そのあとでようやく、ホークスの肩が目に見えて沈んだ。思った以上に、身体のほうが正直だった。

「あ、ああ……えっと、好きです、に対する?」

 探るような声。彼女自身まだこの状況を現実として扱いきれていないのが分かる。その浮ついた温度が、胸の奥にじわりと広がる疲労に、拍車をかけた。ホークスは、無意識に額へと手をやる。

「それ以外に、何があるんですか……」
「ホークスのことは、好ましくは思ってるよ?」

 そこで、彼の動きが止まった。——好ましくは思ってる。丁寧で間違いを避けた言葉。だがその分だけ、距離を保つために選び抜かれた表現でもある。それがはっきりと胸に刺さる。ホークスは彼女の目を見た。逃げ場を与えない距離で、逸らさせない視線だった。

「え、じゃなきゃドライブなんてお誘い断るし」
「それは……そうですね」

 自分の声が思いのほか弱く聞こえてホークスは内心で、舌打ちする。

「好ましくなきゃ、ほぼ毎日来てた勧誘も、全部ボイコットしてたし」

 彼は、ぐっと言葉を飲み込んだ。理屈としてはまったく正しい。嫌いな相手に会う理由など生まれない。それでも——それでも、そこに踏み込めない感情が、確かにある。

「……つまり?」
「ん、つまり?……好ましく、思ってる、よ?」

 その瞬間ホークスの頬が無意識にふくらんだ。自覚する前に表に出てしまった、あからさまな、不満の意思表示。それを見て今度は彼女のほうが戸惑ったように眉を下げる。

「えぇ、なんでぇ」
「好きか嫌いかで言ったら?」

 頬を膨らませたまま答えを促す。ふと脳裏に、公安で新人が詰められていた光景を思い出した。ああいう場面で、人は決まって、逃げ道を探す。

「嫌いでは、ないよ? どう考えても」

 ホークスは彼女の言葉に目を細めて人差し指を立てた。感情は揺れていても、論点整理だけは、手放さない。 

「嫌いじゃない、の次は?」
「えー......次? 次って、なに?」

 もう、待てなかった。考えるより先に、身体が動いていた。ホークスは右手をハンドルに残したまま上体ごと助手席へと傾ける。シートの隙間が消え否応なく距離が詰まる。彼女の体温と呼吸が近すぎるほどに伝わってきた。その近さが言葉を選ぶ余裕を削っていく。

「好き、でしょ?」
「あ、うん。はい」

 その一言で世界が、ぱっと明るくなった。声は抑えたつもりだったが自然と芯を帯びてようやく捕まえた、もう逃さないと決めた人間の、静かな圧だけが滲んでいた。
 顔が緩むのを止められない。もし今も、背中に翼があったなら、確実に羽ばたいていた。それは理性も立場も関係ない、純粋な喜びだった。

「よし。じゃあ付き合いましょう」
「え?」
「ん?」

 彼女の戸惑いにホークスはつい癖で、反対側に首を傾げる。無意識の仕草だったが、その軽さが場違いに見えたのかもしれない。きょとんとした彼女の顔を前にして、ホークスはようやく、自覚した。ああ、順番をすっ飛ばしてしまったなと。告白をして理解されて、気持ちを確かめ合って、その先にようやく「付き合う」が来るはずなのに彼は三段飛ばしくらいで着地してしまっている。それでも引き返す気はなかった。ここまで来て、迷う理由だけがきれいに消えていた。そうして、彼女から唐突に問いが投げられた。

「あの、ホークスってさ……」
「はい」
「エッチの経験、ないんだよねぇ?」

 ホークスの思考は完全に停止した。目を見開き言葉を失う。さっきまで胸を満たしていた告白の余韻が風に吹き飛ばされるみたいに消えた。路肩に停めた車の外を行き交う人たちが、なぜか全員こちらを見ている気がしてくる。

「でも、こう……トントン拍子で?ノリノリで、『付き合っちゃいましょう!』とかは、簡単に、言ってきたタイプ?」

 問いかけは柔らかく責める調子ではなく答えを急かすでもない。ただ確かめずにはいられない、という戸惑いが声の奥に滲んでいる。ホークスは喉の奥で息を詰まらせた。図星だった。

「……正直に言うと、ノリです。だいぶ」

 蚊の鳴くような声で言い切った、その瞬間——彼女の視線がほんのわずかに揺れた。ついさっきまでの自分の勢いが脳裏によみがえりホークスは内心で小さく頭を抱える。

「今までも、そういうことしてきたの……?」

 胸の奥がきゅっと縮んだ。反射的にぶんぶんと首を横に振る。

「してないです。ほんとに。全部、初めて」
「あ、そうなんだ」
「そもそも……」

 言いかけて、一度言葉を噛み砕く余裕もなく、感情が先に出た。

「あなたが鈍感すぎるからですよ!もう、勢いで行かないと無理だと思って……!」

 言ってから少し息が上がっていることに気づき視線を前に戻して、ぼそりと付け足した。

「名前さんが……初めてなんすよ。こういうの」

 その言葉が口を離れた瞬間、胸の奥が不思議なくらい静まった。照れや気恥ずかしさは、確かにあるのに、それ以上に腑に落ちる感覚があった。
 ああ、だからかと。今さらながら自分の行動の全部に説明がついてしまう。

「うん……なんか、色々、理解した」

 彼女の声は落ち着いていた。妙に冷静で、そのぶん、何を言われるのか分からない怖さがある。ホークスは、無意識に肩を強張らせた。

「……理解、しました?」
「多分ね。では、整理しましょう!」

 その一言に、条件反射で背筋が伸びる。公安の会議と同じだ。話が「整理」に入った瞬間、人は容赦なく、核心を突いてくる。ホークスは小さく息を整え、覚悟を決めた。

「ホークスは、私が好きです」
「はい」

 短くはっきりと頷く。迷いのない返事。反射に近かった。それでも声音には、逃げがなかった。

「私はホークスのことを好ましく思っています」

 その言葉を受け取った瞬間、ホークスの喉が、ごくり、と、小さく鳴った。胸の奥が静かにざわめく。まだ続きがある。そう直感して次の言葉を待つしかなかった。

「でも私は、元ヴィランです」
「……」
「世間が、許さないよね」

 問いかける形をしていながら、その実、答えはもう彼女の中にある。確認であり線引きであり、諦めでもあった。何度も自分に言い聞かせてきた結論。車内の空気が、目に見えないほどわずかに冷える。ホークスは息を吸い表情を引き締めた。冗談で済ませられる話題ではない。軽く返せば、その瞬間に、彼女が積み上げてきた年月を踏みにじることになる。その一言が、彼女の人生にどれほど長い影を落としてきたのか——彼は、知っている。知ってしまっているからこそ安易な慰めも勢いだけの肯定も、選べなかった。

「許させます」

 考えが形になるより先に、腹の底から声が飛び出していた。理屈も計算もない。ただ反射のように出た断言。それでも不思議と胸は張れていた。彼女は一瞬、目を瞬かせてからきょとん、とした顔のまま固まり、次の瞬間、堪えきれないとでも言うように「ぷはっ」と吹き出した。笑われたと思うより早くホークスは、ふっと肩の力を抜いていた。少なくとも、この人はいま怯えていない。身を縮めてもいない。その事実が胸の奥に静かに沁みる。それだけで、十分だと思えた。

「もー、なにそれぇ〜」

 弾けるような笑い声が車内に広がる。軽くて、明るくて、さっきまで張り詰めていた空気を一息でほどいてしまう種類の笑いだった。ホークスは思わず眉を寄せる。むっとしたようでいてどこか困った色を含んだ表情のまま、視線だけを彼女に向けた。

「笑うとこじゃないですよ、今の」

 彼女は「だって〜」と言いながらも、口元にはまだ笑いの名残が残っている。けれどホークスの目は冗談を許さない色を貼り付けたままだった。視線は逸らさず、声の温度も変えない。

「公安委員会会長の権限、舐めんでください」
「……」
「世間がどうとか世論がどうとか、そういうのは全部、俺が処理する仕事です」

 乾いた断言だった。軽口に見せかける余白すらない。彼自身が、その言葉の重さを一番理解している声だった。彼女は、その真剣さを受け止めるように、一拍置いてから、ふっと表情を柔らかくした。声音も、撫でるみたいに穏やかになる。

「ねえ。私を好きだなぁって思ってから付き合いたいなぁって思ったきっかけ、聞いてもいい?」

 ホークスは、その言葉をしっかりと受け取ってから腕を組み目を閉じた。ほんの数秒。それだけなのに、思考は意外なほど手間取った。なぜ好きなのか。考えたことはあっても、言葉にしようとしたことは、なかった。

「……最初は、実力だと思ってたんですよ」

 目を閉じたまま静かに言う。自分の声が思ったよりも落ち着いていることに少し驚いた。

「敵連合にいた人間たちの戦闘力は、本物だし、ヒーローが暇を持て余す世界を作るには、必要な人材だって」
「……」
「公安へのスカウトのつもりで面会に来てたのは本当です」

 彼女は遮らない。ただ聞いている。彼の言葉に嘘はなかった。だからこそ、そこには、罪悪感もあった。

「でも、たくさん会うようになって……」

 そこでホークスは目を開け、前を向いた。照れ臭さから逃げるように。指先がハンドルの上で、意味もなく滑る。

「くだらない話して、笑って。俺の話をいつも、ちゃんと聞いてくれて」
「……」
「俺、人の前で、本音出せんタイプなんですよ。ずっと」

 軽く笑ってみせたのは、長年の癖だった。場を和ませる角度。相手が求める距離感、誰の期待も裏切らない返し。そういうものを瞬時に選び取って、期待に沿う。そうやって生き延びてきたし、そうするしかなかった。

「名前さんといると……なんか」

 言葉が途中で止まった。考えていた表現が喉の手前でほどけて、代わりに熱を帯びた空気だけが残った。無理に飲み込むこともできず彼は一度、息を整える。

「翼、しまえるんです」

 比喩のつもりだった。翼を持っていたヒーローらしい言い回しだと自分でも思う。それでも胸の奥に広がる感覚は、驚くほど具体的だった。
 背中にあったはずの剛翼。常に広げ、構え——いつでも飛び立てるよう、張り詰めていたもの。それをこの人の隣では、畳んでもいい気がした。戦わなくていい。守らなくていい。速さを、意識しなくていい。そう思える場所が確かに、ここにあった。

「今日、海辺で耳塞いでくれたじゃないですか」
「うん」
「こうしたら、何も聞こえなくていい、って」

 その瞬間ホークスの意識に、あの光景が鮮明によみがえる。波打ち際に反射する陽の光。潮風に混じる塩の匂い。寄せては返す音の単調な反復。
 その最中で突然訪れた、世界から切り離されたような静けさ。両耳を覆ってくれた彼女の掌は、ひんやりとして、それでいて驚くほど現実的で、柔らかかった。概念でも、理想でもない。確かな現実。生きている人間の温度だった。
 思い出すだけで胸の奥が静かに緩む。ああ、と彼は思う。あのとき、確かに自分は、翼を畳んでいたのだ。

「あれで……あ、だめだって思いました」

 言い切った直後、彼自身がその言葉の曖昧さに気づいている。何が。どこから、どう、「だめ」なのか。うまく定義できていない。ただ、言葉の途中で視線が揺れたのは、これ以上踏み込んだら戻れなくなると、本能が告げたからだった。

「この人の隣がいいって。理屈じゃなくて」

 吐息に近い声だった。自分でも驚くほど静かで迷いがない。口元が、ほんのわずかに緩む。計算された軽さでも防御のための笑みでもない。翼を畳んで地面に降りた鳥が、周囲を警戒することも忘れてしまったような、無防備な表情。

「……こんな顔、誰にも見せたことないですよ」

 守衛の存在も、残された時間も、すでに意識の外へ押し流されていた。ホークスの世界は、狭い車内と、隣にいる彼女だけに収束している。
 彼女はすぐには答えなかった。ただ助手席からわずかに身を乗り出し、躊躇のない動作で、彼の頬に手を伸ばす。

「元ヴィランっていうレッテルは消えないけど」

 細い指が頬に触れる。ひやりとした感触。ついさっきまで海風に晒されていた、その冷たさが、かえって彼を強く現実へ引き戻した。夢じゃないと、肌が先に理解する。

「私も、あなたがいい」

 それだけだった。告白の定型句はない。「付き合おう」も「好き」も、あえて選ばれなかった。それでもその短い言葉の中に選択と覚悟が確かに詰まっているのがわかる。
 ホークスは一瞬、目を見開き、次の瞬間、顔をくしゃりと歪めた。笑おうとして、泣きそうになって、そのどちらにもなりきれない表情。感情の行き場を見失ったまま、胸の奥だけが熱を持つ。二十年生きてきて、こんなふうに自分を制御できなくなったのは、初めてだったかもしれない。

「公安で働くかどうかは保留だけど、プライベートの方では——これからも、お世話になります」

 軽く頭を下げる彼女を横目に、ホークスは鼻をすすった。情けないと思う前に、もう、声が出てしまう。

「そっちは保留かぁ」

 そう言いながらも、声は笑っている。拒絶じゃない。「保留」という言葉が持つ、余白と未来を彼は、正確に理解していた。

「そこは、ちゃんと分けておかないとね」

 彼女の現実的な一言に、彼は一度、ゆっくりと頷いた。胸の奥に引っかかるものが、皆無なわけではない。それでも、その慎重さこそが、彼女の生き方であり過去と地続きの現在をちゃんと踏みしめている証だと、彼は理解していた。
 この人らしい。そう思えたことの方が、何より大きかった。

「さすがですね。しっかりしとー」

 軽口の形をしていたけれど、そこに込められているのは、からかいよりも、もっとずっと率直な感情だった。頬を包まれたまま彼は一瞬だけ息を整えてから、静かに言葉を返す。

「こちらこそ。よろしくお願いします」

 それきり、なぜか、会話が途切れた。拒絶ではない。むしろ、その逆だった。踏み込んだ分だけ次の一歩の出し方が分からなくなって気恥ずかしさだけが宙に浮く。行き場を失ったそれが車内の空気を中途半端に温めていた。
 互いに視線の置きどころが定まらない。今さら何を見ればいいのか、どこまで近づいていいのか判断が追いつかない。柄にもなく、二人そろって落ち着きを失っているのが可笑しくもあり、逆に可笑しくもなかった。そうして先に口火を切ったのは、彼女だった。

「ホークス?」
「ん? なんですか」

 今度は逃げなかった。彼は、真正面から彼女を見る。もう存在しないはずの翼を畳んだままでもちゃんと立っていられる。守るためでも飛ぶためでもなく、ただ、ここにいるために立つ。そんな感覚がようやく現実として、身体に馴染み始めていた。

「好きだよ」

 あっさりと、けれど、逃げ場のない声だった。勧誘も世間体も保留も、全部ひと息に飛び越えるたった一言。ホークスは、完全に固まった。口が半開きのまま、瞬きすら忘れている。「俺の方が先に言ったのに」とか、「好ましく思ってるとか濁したのに」とか細かなツッコミが脳内で渋滞を起こす。けれど、それらを整理する前に、どうにか絞り出した。

「……ずるか。」

 空いた手が、彼女のほうへ伸びかけて、途中で止まった。衝動は確かにそこにあったが、理性がそれを、引き戻す。
 車内という密室は甘やかな錯覚を与えるには、十分で同時に現実を突きつける場所でもあった。フロントガラスの向こう、歩道を行き交う人影。ふと視線が絡んだ気がして、胸の奥が冷える。
 ホークスは反射的に前を向いた。耳だけでなく首筋まで熱がこもっているのが自分でもわかる。

「……ちゃんと送り届けます。これ以上、ここにいたら、理性が先に折れるんで」

 努めて平静に言ったつもりだったが、その声はわずかに震えて、掠れていた。

「初めてがカーセックスは、ホークスも嫌だろうしね?」

 エンジンをかける指先が、はっきりと震えた。ギアを入れ損ね、車体が短く揺れる。動揺を隠しきれない自分に、内心で舌打ちする。

「……っ、運転中にそういうこと、言わんでくださいっ!」
「ごめん、ごめん」

 彼女の軽い声に追い立てられるように、アクセルを、やや強く踏み込む。逃げるように車は発進した。バックミラーに映る自分の顔は、誤魔化しようのない赤さが映っている。言い逃れできないほど赤い。情けなさと、どうしようもない期待がないまぜになって、胃のあたりがきゅっと縮む。
 しばらく走ってからホークスは声を落とした。エンジン音に溶ける程度の、小さな呟き。

「……ちゃんとした場所で、しますから」
「なに? あぁ!セックス?」
「……っ、あ、あのねぇ!」
「わぁ〜、期待してるね♡」

 運転席からはため息が漏れ、彼は、片手で顔の半分を覆った。指の隙間から覗く視線は前方から逸らさない。逸らしたら最後、何かが決壊しそうだった。

「ハードル、上げんでください……経験ないって言ったでしょう……」
「セックスは心、だよ」

 その言葉は冗談めいた響きを帯びてはいなかった。正面を向いたままの横顔から放たれた静かな断定が、意外なほど、まっすぐ胸に落ちる。

「……今、めちゃくちゃ良いこと言いました?」
「言いましたねぇ」
「あとで忘れないように、メモしとかないと」
「それで言うならさ。私もある意味、ホークスが初めての相手になるかもしれないよ?」

 ホークスは思わず目を見張った。過去の詳細を彼は、深く知らない。彼女が歩いてきた道の輪郭だけが、ところどころ影になっている。それでも「初めて」という言葉の重みだけは今この瞬間、同じ質量で彼の胸に落ちてきた。ハンドルを握る指に、無意識に力がこもる。
 車内に流れる沈黙は重く、しかし、不思議と、不快ではなかった。前へ進むために必要な覚悟の温度だけが、静かに上がっていく。

「……大事にします、絶対に」

 短く断定的な語尾。彼女は一瞬だけ瞬きをしてから、少しだけ口元を緩める。冗談めかした逃げ道も照れを誤魔化す軽さもない。ハンドルを握ったままホークスは前方の道を見据え、ひとつずつ言葉を置くように、そう告げた。声は低く揺れがなく、決意というよりも、最初からそこにあった事実を確認するみたいだった。

「なんか……今の『絶対に』は、いろんな思いが込められていそうだね」

 図星だった。ホークスは小さく息を吐く。胸の奥に溜まっていたものをほんのわずか外に逃がすように。

「全部、込めましたから」

 冬の夕暮れが、気づかないうちに、そっと寄り添ってきていた。フロントガラス越しに差し込む橙色の光が車内を満たし、ダッシュボードの縁や彼女の横顔を、やわらかく染めていく。ガラスに反射した輪郭が重なり合い、互いの存在感だけが曖昧な層のように車内に滲んでいた。
 現実は、確かに戻ってきている。けれど、ついさっきまでとは、空気の温度が違う。

「焦らなくていいしね。いつかそういう雰囲気になったら、自然とね」

 彼女の声は穏やかで気負いがない。ホークスはそれを聞いて肩の奥に入っていた力が、ゆっくり抜けていくのを感じた。それから思わず苦笑いが漏れる。

「そうですね。焦らんでいこうと思いまーす」
「そればっか考えて仕事も手につかないと部下が可哀想だし」
「それ、否定できんのが怖いですね……」
「ふふ、ほんとにね」

 車は静かな住宅地へと入っていく。街灯が等間隔に並び、夕暮れと夜の境目を曖昧にしている。あと五分もすれば目的地だ。そう意識した瞬間、胸の奥に小さな名残惜しさが灯る。ホークスは、それを悟られないよう、声を落として言った。

「来週の海、楽しみにしときます」

 自分でも分かる。さっき口にした「明後日」という言葉をきちんと修正したのだと。ほんの少しだけ、理性が仕事をしたらしい。横目で助手席を盗み見ると彼女はちゃんと聞いていて、頷いた。

「……あと、さっき」

 自分でも意外なほど声は静かだった。胸の奥で温めてきた言葉をようやく外に出す覚悟が整ったそんな感触に近い。

「買い物のときに言ったこと覚えてます?好きなもん、全部教えてって」
「あ、うん。覚えてるよ」

 信号が赤に変わり、ホークスはブレーキを踏んだ。減速の衝撃が車内の空気をいったん落ち着かせる。止まった車の中で、彼はハンドルを握ったまま、ほんのわずか息を整えた。

「あれ、本気ですから。嫌いな食べ物も、全部」
「全部? 私の、隅から隅まで知りたいの?」

 彼女の声には試すような響きが混じっていた。けれどホークスは迷わない。迷えるほど、余裕がなかった。

「当たり前でしょ」

 当然だと言わんばかりに言い切った自分の声に少しだけ驚く。ここまで即座に、言葉が出てくるとは思っていなかった。

「でもさ、全部知ってどうするの?」

 信号が、青に変わる。ホークスは前を見据え、アクセルを、ゆっくり踏み込んだ。車が動き出すのに合わせて頭の中で言葉を選ぶ。飾りも、言い逃れも、いらない。彼は、ハンドルを切りながら続ける。

「どうもしないですよ。ただ知りたいだけです」
「……」
「名前さんのこと全部知った上で好きでいたい」

 言葉にした瞬間、胸の奥が、わずかに軋んだ。欲張りだと、自分でも分かっている。それでも、譲れなかった。彼女の一部だけを、都合よく切り取って愛するなんて、そんな、器用な真似はできない。
 翼はもうない。背中は軽く、手も普通の人間のものだ。それでも知ろうとすることだけは手放せない。失ったものがあるからこそ、今、手の届く現実を一つずつ確かめるように彼は生きている。

「……愛だね」

 ふっ、と、力の抜けた笑いが返ってくる。その一言は軽やかでありながら核心を正確に射抜いていた。

「愛ですね」

 ホークスは、素直に頷いた。照れも誤魔化しもない。ここまで言ってしまった以上、引き下がる理由など、最初から存在しなかった。

「……あの、今さらだけど」
「はい?」
「鈍感で、ほんとごめん」

 一瞬、言葉の意味を咀嚼してから、堪えきれず声が漏れた。久しぶりに、腹の底から抜けていくような笑いだった。肩の力が抜け張りつめていた何かがほどけていくのを、自分でも、はっきりと感じる。

「今さらすぎるでしょ!」

 跳ねるような声に、彼女は思わず笑って、首を振った。笑いは軽いのに胸の奥には小さな疼きが残る。

「いや、ほんとさ。私なんて眼中にないと思ってたから、本気でわからなかった」

 その言い分が可笑しくもあり少しだけ切なくもあって。ハンドルを握る指に力を入れたまま彼は短く息を吐いた。車はそのまま前へ進む。信号も道も、彼女との距離も、今はちゃんと同じ方向を向いている。

「眼中にない人間に、あんな会いに行きます?」
「あれは、スカウトのためじゃん。お仕事」

 うぐ、と喉の奥で言葉が詰まった。反論しようとして、正論が先に来る。急所を正確に突かれて、言い返す余地がない。ホークスは視線を前に固定したまま、続ける。

「……まあ、最初はそうだったんですけど」
「うん?」
「途中からスカウト関係なくなっとったのは……自覚してます」
「やっぱ公安委員会会長、暇人説だわぁ〜」

 軽口だとわかっていても条件反射みたいに眉がぴくりと動いた。冗談にされるのは慣れている。けれど、その冗談が自分のいちばん大事な部分を掠めていると気づいた瞬間、どうしても、黙っていられなかった。

「暇人じゃないですよ、激務です!」

 声が少しだけ強くなる。それは、事実だった。業務量は冗談抜きで膨大だ。ヴィラン犯罪の統計分析、新法案の調整。ヒーロー人事の、再編成。数字と書類と会議に追われ判断を先送りできない案件ばかりが積み重なる。どれも放り出せる仕事じゃない。本気で怒っているわけじゃない。ただ否定せずにはいられなかった。
 それでも、その合間を縫って彼女のいる場所へ足を運び続けたのも紛れもない事実だ。忙しさを盾にしてきた時間も忙しさの隙間に彼女のことを考えてしまった事実も、どちらも、嘘じゃない。だからこそ、その一言だけは、訂正しておきたかった。

「でも、まあ……。優先順位が、ちょっとおかしかったのは認めます」
「そうなの?」

 車がマンションの駐車場へと滑り込む。白線に沿って停まりエンジンを切るとさっきまで流れていた時間が、ふっと、音を失ったみたいに静かになった。この沈黙がもう気まずさじゃないことをホークスは知っている。静かでも冷たくはない。
 ただ、二人分の余韻が、車内に残っているだけだった。

「書類の山、ほっぽって行ってたんで」

 会長室の机に積み上がった書類の重さと今この時間を選んだ自分の判断とが、胸の奥で、同時にせめぎ合う。周囲が頭を抱える光景が、やけに、生々しく浮かんだ。それでも後悔はない。彼女と過ごした数時間はどんな承認印よりも彼の呼吸を人間の速度に戻してくれた。ホークスはふと横を見る。

「着きました」
「ん〜! 楽しかったぁ」
「それは、よかったです」
「運転お疲れさま。ありがとね」

 労いの言葉が、素直に胸に落ちた。ハンドルを握っていた時間は仕事の延長ではなかったのだと今さらのように気づく。隣に彼女の声があるだけで緊張はほどけていた。目を細め、名残惜しさを隠しきれないまま、彼は答える。

「いえ。俺も楽しかったです」

 ドアノブへと伸びる彼女の手を、視線が追う。引き止めたい衝動とここで踏みとどまるべきだという理性が、同じ速さで、脈を打った。口が開きかけて、閉じる。

「名前さん」
「んっ?」

 振り返る——その瞬間。反射的に伸びた手は、彼女の髪に触れる手前で止まった。距離は、あと数センチ。触れないという選択が、いちばん強い自制だと、彼自身、今になって理解する。

「……おやすみなさい」

 ぎりぎりで手を引っ込める。さきほど口にした「理性がもたない」という言葉は誇張ではない。守りたいのは距離ではなく、今夜の温度そのものだった。
 その誠実さを、最初から見抜いていたみたいに彼女は、わずかに目元を緩めて微笑んだ。距離を詰める動きは急がず夜の空気を割らない速さで。伸ばされた左手が彼の頬に触れる。夜風にさらされた指先はひんやりとしていて、その冷たさが、かえって輪郭をはっきりさせた。短く、かすかな音。唇が触れ合い確かめる前にもう離れている。余韻だけを残して。

「おやすみ」

 世界が止まった。触れた感触だけが取り残され遅れて、意味を持ちはじめる。何が起きたのかを理解するまでほんのわずかな時間が必要だった。
 ホークスは左手で口元を押さえる。熱はそこに留まらず、頬を越えて耳の奥まで一気に駆け上がった。心拍の速さが、自分でもはっきりわかる。

「……理性、もたん」

 言葉は、それだけがやっとだった。声に出したことでようやく現実に踏みとどまれた気がする。
 彼女は、何事もなかったみたいに笑ってドアを閉め、車を降りる。足音がアスファルトを叩き、少しずつ、遠ざかっていく。振り返らない。その潔さが、余計に胸を打った。バックミラー越しにその背中を、見送り続ける。マンションの入口に吸い込まれるまで、目を、離せなかった。一人になった車内で、まだ口元を覆ったまま息を整える術も思い出せずにいる。

「あん、ヴィランめ……信じられん」

 呟きは誰に向けたものでもない。ただ、逃がす場所が必要だっただけだ。
 すぐにエンジンをかけることもできず身体は、シートに縫い留められたまま動かない。音のない静けさの中に、さっきまでの走行音の名残だけが薄く漂っている。その静寂の底で胸の奥に一つの現実が、ゆっくりと、しかし確かな重みをもって根を下ろしていく。それは逃げ場のない、幸福な現実だった。


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