——翌日。ホークスは執務室の椅子に深く腰を沈めたまま、スマートフォンを見下ろしていた。背もたれに体重を預けすぎて、姿勢が少し崩れている。机の上には未処理の書類が、いくつも積み重なり、端が揃わないまま、斜めに傾いていた。視界の隅にそれが入るたび意識的に目を逸らす。今日は見ないでいられる日だと、そう自分に言い聞かせている。
通話履歴を一度だけ確認してから発信ボタンを押した。呼び出し音が鳴る。その短い時間が妙に長く感じられる。待っているあいだ自分が思っていた以上に緊張していることに気づき内心で苦笑した。今さら、何を構える必要があるのか。ややあって、呼び出し音が途切れる。
「おはようございます。起きてました?」
自分の出した声を聞いた瞬間、少しだけ、眉を顰める。分かりやすいほど寝起きの名残がある。実際ほとんど眠れていないのだから仕方がない。
『おはよ。起きてたよ。マンション、快適だよ。ありがとう』
その一言で胸の奥に溜まっていたものが静かに抜けていく感覚があった。ちゃんと、朝を迎えられている。それだけで、昨夜の出来事が、夢ではなかったと実感できる。
「それは、よかった。ちゃんと眠れました?」
『ベッドがまだ届かないから、床で寝たけどね。爆睡だったよ』
反射的だった。「床ァ!?」と、思った以上に声が出て自分で自分に驚く。慌てて口元を押さえ執務室の扉の方を見る。幸い、外に気配はない。遅れて、胸を撫で下ろした。
「あ、昨日……初日だったんで、本当は一緒に、マンションに入って、設備とか色々説明する予定だったんですけど」
言いながら、昨夜の記憶を辿ろうとする。
買い物をして、車を走らせて、海を見て、別れ際の距離を測って——。そこから先は、どうにも輪郭が曖昧だ。映像のピントが合わない。
『私が不意打ちにキスしたから全部、飛んだんでしょ?』
彼女のその一言を合図に、短い沈黙があたりに滲んだ。打ち消すための言葉を探そうとするほど胸の内は静まり返っていく。否定はどこにも転がっていなかった。見つからなかったのではなく、最初から、持っていなかった。
「……否定できん」
情けないほどに、正直な声が出る。あのあと、どうやって帰宅したのか、本気で思い出せない。気づいたら自宅でコートを羽織ったままソファに沈んでいた。
「でも家具の搬入とか生活用品の確認とか、全部すっ飛ばしたのは俺の落ち度です。今日行ってもいいですか?」
『待って待って。ほんと、展開が早いなぁ。追いつかないよ』
「え?」
思わず零れたその声はきっとひどく間の抜けた響きをしていたはずだ。だがそれも無理はない。ホークス自身本気で「え?」と思ったのだから。彼の感覚では、ずっと足元を確かめながら進んできたつもりだった。一歩踏み出す前に地面の硬さを確認して、危険がないかを測って、それから、ようやく、体重を預ける。そんな歩き方を、これまで何度も繰り返してきた。
それでも彼女の目には、全力で駆け抜けているように映っているらしい。その認識のずれが少しだけ可笑しくて、同時に胸の奥に温度を残した。通話の向こうから彼女が笑っている気配が伝わってくる。声そのものではなく息の揺れ方で分かる笑い方だった。それを感じながら、ホークスは、ようやく椅子から身を起こす。視線を下げると、机の上の書類が再び目に入った。山は相変わらず崩れかけている。それでも今は、不思議と、目を逸らす理由がなくなっていた。
『昨日、家具買ったときに、明後日には届くって言ってたから……明日だよね? 大型家具は』
「すね。今日、行っていいですか?」
二度目のそれは、自分でも驚くほど迷いのない問いかけだった。
『……うん、ホークスが大丈夫なら待ってるね』
その一言が、胸の奥に、じんわりと染み込む。含み笑いではあったが「待ってる」という言葉が想像していた以上に効いた。少しだけ間が空く。その沈黙を埋めるように、彼は口を開いた。
「じゃあ今日もベッドなしで寝ることになるじゃないですかぁ」
会長としての日はまだ浅い。それでもこれまで積み上げてきた危機管理能力はこういうときだけ妙に冴えていた。国家の治安でも有事の想定でもない。今この瞬間、彼女がどんな場所で、どんな姿勢で眠るか。彼女の睡眠環境、その一点だけに判断力のすべてが向けられている。自覚はある。方向性は完全に間違っている。それでも引き戻す気はなかった。
「寝袋ふたつ、持っていきますんで」
『……泊まる気?』
「え、ダメでした?」
『泊まらないくせに』
「……バレとる」
彼女が『でしょ』と小さく笑う気配が、スマホ越しにも伝わってくる。
『ていうか、いらないよ。ホークスが置いてってくれた、来客用の簡易マット敷いて寝たから』
その言葉に、胸いっぱいに溜めていた息をようやく吐き出す。自分でも分かるほど、はっきりとした安堵だった。
「……あ、そうでしたか。よかったです」
『ちゃんと役に立ってた』
「さすがにそこは抜かりないですね、俺。じゃあ夕方くらいに行きますね」
『……なんか、大丈夫?』
「何がですか?」
『色んなこと、吹っ飛んじゃった感じ?』
一瞬、言葉が喉につかえる。それから、乾いた笑いが、喉の奥から漏れた。
「昨日からずっと、ふわふわしとります」
新・公安委員会、会長。元ナンバーツー・ヒーロー。日本の治安を背負う男。そして今は、恋に足元をすくわれて、まだ地面の感触を取り戻せていない。
『ふふ。ほんと、可愛いねぇ』
低く、からかうような声が、耳に落ちた瞬間、ホークスは反射的に背筋を伸ばした。執務室には誰もいない。それでも周囲を気にしてしまうあたり、完全に平常心を失っている。
「可愛いはやめて!かっこいいにしてださいっ」
食い気味に、被せるように返した声は自分でも分かるほど必死だった。威厳も落ち着きも、今はどこにも見当たらない。
『じゃあ、好きだよ』
完全に不意を突かれた。スマホを手にしたまま世界の動きが一瞬、止まったように感じられる。呼吸の音が途切れ、言葉を探す余裕もなく、頭の中が白くなる。彼女からのこういう一言に対する耐性が、この男は致命的に低いらしい。
「……朝からほんと、心臓に悪い」
ようやく絞り出した声は、かすれていた。胸の奥を強く掴まれたまま、それでも言葉にしようともがく、その無様さすら今はどうしても否定できなかった。
『ごめんね。また、色々吹っ飛んじゃった?』
軽く言ったつもりの調子だったが、それに返す声は、思いのほか重たくなる。
「もう、とっくに吹っ飛んどりますって……」
『あら』
「あら、じゃないです」
『ふふ』
「あのさぁ……これ以上やられると、仕事に集中できんくなるんで、ほどほどにしてください」
笑いを含ませたつもりの言葉に切実さが滲んでいるのは、自分でも分かっていた。ホークスは、それを誤魔化すように短く息を吐く。それ以上、言葉を重ねる前に、通話は終わった。画面が暗くなっても彼はしばらくスマホを胸元に引き寄せたまま動けなかった。指先にまだ彼女の声の温度が残っている気がする。実際には何も残っていないはずなのに、そこだけ現実感が薄れていた。机の上には相変わらず書類の山。昨日までと何ひとつ変わらない風景だ。それでもなぜか今日は紙一枚一枚の重さが、違って見える。世界は、きちんと現実のままなのに、その輪郭だけが、ほんの少し柔らいでいる。
「……あら、電話切られちゃったって言いよろうなぁ」
彼女が今まさに、そんなふうに呟いている姿を想像して、口元が緩んだ。通話終了。画面に表示された通信時間は、四分十二秒。短い。けれど、胸の奥を占領するには、十分すぎる朝だった。
書類の束から視線を上げた、その刹那だった。ホークスの意識の端に埃を被ったまま沈んでいたはずの光景が、薄い膜を破って差し込んでくる。
思い出そうとしたわけでもない。けれど指先の感覚が、ふっと遠のいた瞬間、過去は勝手に現在へと滲み出した。彼女がまだ敵連合に身を置き、彼自身も『速すぎる男』として、何食わぬ顔で、表舞台を飛び回っていた頃のことだ。
『敵連合に取り入れ、ホークス』
『あなたは目敏く、耳聡い』
『君ほど適任な者はいないと考えている』
公安から手渡された任務は決して軽口や冗談の延長で引き受けられるような代物ではなかった。淡々とした言葉の裏に逃げ場のない圧があった。
『断れないってわかった上でそーゆー言い方するんだもんな、人が悪い』
『否定はしないわ、ホークス』
そもそも断るという選択肢など、最初から用意されていなかったのだ。結果だけを言えば潜入は順調すぎるほどだった。
異能解放軍の主要拠点となっていた群訝山荘へ足を踏み入れたその初日に彼は彼女と出会った。警戒、詮索、探るような視線——そうしたものを想定していたホークスの予想は、いとも簡単に、裏切られる。彼女は彼を見て少しも構えず疑いも含まず、ただ、当たり前のように笑った。
「私は、名前。よろしくね」
と、それだけだった。
信用を得ろ。疑われるな。絶対に情を挟むな。何度も自分に言い聞かせてきたその言葉がそこで不意に、足場を失う。あまりに自然で、あまりに無防備な笑顔に、拍子抜けする自分がいた。
潜入任務を開始してからしばらく経ったころ。その日もホークスは『二重スパイ』という正体を胸の奥に沈めたまま山荘へ足を踏み入れていた。翼には、盗聴器と小型カメラが仕込まれ、行動は常に監視下にある。公安へ送れる情報は暗号のみ。この先、どうやって連絡を取り続けるべきかその算段で頭の中は忙しかった。それでも彼女は変わらなかった。
「あ、ヒーローだ」
「……名前さん」
「ちょっとー。本名で呼ぶの、やめてくれない?一応、ちゃんとヴィラン名あるんだけど」
「初対面で本名を名乗ったの、そっちでしょう」
「まあ、それはそうなんだけどさ……今日も忙しそうだね」
敵という言葉から連想される棘は彼女の声には宿っていない。
中庭に沿って伸びる通路を歩きながら彼女は、晴れ渡った空を見上げて、それから、ホークスの目元に視線を戻し、小さく首を傾げた。
「クマ、できてるよ」
「……え、本当です?」
「うん。ヒーローも寝不足になるんだって思うとちょっと安心した」
その言い方が妙に柔らかくて、無防備で……。ホークスは肩をすくめ、いつもの癖で軽い笑みを作った。
「安心せんでください。仕様です」
「仕様?」
「ヒーローはですねぇ、寝なくても動けるようにできてるんですよ」
「うそつき」
間髪入れずに返された一言に喉の奥がひくりと鳴る。敵連合の一員。危険人物。利用価値のある駒。そうしたラベルは、彼女の声を通すと、どうしても輪郭を保てなかった。
近づきすぎるなって——。頭のどこかで遅れて警鐘が鳴る。けれど彼女はそれを知る由もなく、ただ、ホークスの隣を歩いていた。
「ねえ、ホークス」
「はいはい」
「空って、今どんな感じ?」
問いかけられた瞬間、言葉が喉の奥で止まった感じがあった。『空』という言い方は、曖昧で、けれど彼女が本当に知りたいのは壁の外に広がる��外の世界�≠フ気配なのだとホークスにはすぐに分かった。外を語ることは彼女にとって希望にもなるし、同時に届かない現実を突きつける刃にもなり得る。それでも彼女は、ためらいなく尋ねてくる。ホークスは、ほんの少しだけ視線を逸らし記憶の中の景色をなぞった。
「……そうですね。海沿いは、風が強いです」
「相変わらず?」
「相変わらず。耳、塞ぎたくなるくらいには」
「なにそれ。想像つく」
くすりと、彼女が笑う。その表情をホークスは何度も、頭の奥に刻みつけてきた。念のためだ。万が一のとき自分が何を失うのかを曖昧にしないために。そして、正確に把握しておくために。
しかし、そんなホークスの気持ちなど知る由もなく、彼女が何気ない調子で言った。
「全部、終わったらさ」
「……」
「案内してよ。ホークスの目線で見る空」
胸の奥が、静かに軋んだ。その未来が、自分の役目の延長線上に存在するものなのか、それとも最初から許されない願いなのか、うまく、判別がつかなかった。
「考えときます」
「即答じゃないんだ」
「ヒーローは慎重なんで」
「慎重?」
「約束を軽く扱わない」
「ふーん」
不満そうに唇を少し尖らせながらも、その声音には、どこか、楽しげな響きがあった。
彼女はまだ知らない。彼が敵連合の内部に入り込み、見えない綱を何本も切り捨てながら平然と笑顔でここに立っていることも。その役目の先に待つ結末が決して穏やかなものではないことも。それでもそのときのホークスは思ってしまった。この時間だけは嘘であってほしくない——本物であってほしい、と。
*
その違和感は爆発音や血の匂いのように派手なものではなかった。ただ——ほんの一瞬、彼女の視線がホークスの背中を通り過ぎ、そこにはない何かを数えるみたいに、宙で止まっただけだ。
群訝山荘の屋上。会議が始まるまでのわずかな待機時間。ホークスはいつも通り、壁にもたれて肩の力を抜き、軽口を叩きながら世間話のようにあくまで��共有�≠ニいう形を装ってヒーロー側の動きを彼女に伝えていた。実際には、選び抜いた情報だけを、だ。
「で、次はあっちの合流地点ですよね」
「うん。……ホークスさ」
彼女の声が、ほんの少しだけ沈む。それだけでホークスの胸の奥に細い針を落としたような感覚が走った。疑念と呼ぶにはまだ早い。ただ、無意識が拾ってしまった微かな違和感。彼女自身も、それを言葉にする準備はできていない。そんな、気配だった。
「その話さぁ、さっきも言ってなかった?」
「え?」
頭の中でいくつもの選択肢が一瞬で並ぶ。否定するか曖昧に流すか、それとも話題を逸らすか。そのどれもが、正解になり得ることを知っているからこそ、彼は考えるより先に、いつもの表情を選んだ。ほんのわずかな間。ホークスは、すぐに口角を上げ、軽さだけを前面に押し出す。
「言いましたっけ?俺、同時進行多いと、わりとすぐ混線するんすよ」
「そう?」
短い相槌。彼女はそれ以上踏み込まなかった。けれどその裏に、まだ解けきらない引っかかりが静かに残っていた。その沈黙は納得の色を帯びていない。風が屋上を抜け鉄骨が低く鳴る。彼女は腕を組み、視線を外したまま続けた。
「ねえ、ホークス」
「はいはい」
「ヒーローたちのリアルタイムの動き、詳しすぎじゃない?」
「……」
「本当に、私たちの味方なんだよね?」
——来た。その言葉が空気の底に静かに沈んだ瞬間、ホークスは悟ってしまった。派手な決定打じゃない。けれど、もう、引き返せない地点を、確かに越えてしまったのだと。
彼女の問いは疑念というより、整合性を求める視線だった。今まで積み上げてきた、��違和感の端切れ�≠ェ、ここでようやく一枚の形になろうとしている。
「まあ、こっちにも体裁ってもんがあるんで」
「でもさぁ、聞いてると……ここにいる以上に、ヒーロー業に精を出してるように聞こえる」
それでも、彼女の声音は柔らかい。責める調子ではない。疑っているというより、気づきかけている。信じたい気持ちと見過ごせなくなった事実のあいだで、まだ足場を決めかねている、そんな曖昧な場所に立っているだけだった。
「ヒーローなんでね」
軽く返す。深く考える前に、口が先に動いた。何度も使ってきた角の取れた便利な言葉。説明を拒みつつ相手を納得させた��ふり�≠セけはできる逃げ道としての台詞だった。
「情報処理能力が売りですから」
「……そういう話じゃなくてさ」
そのとき、彼女がようやく、彼を見た。視線が合ったというより、視線が届いた、という感覚に近かった。探るようでいて拒むための鋭さはなく疑うよりも先に理解しようとする気配が、静かな熱を帯びてそこにあった。ホークスはその温度の前で、息の仕方を忘れそうになる。
「ホークスが、ここに来た頃さ」
「……」
「少しずつ、質問が変わっていったよね」
彼女からヒーロー名を呼ばれただけで、なぜか胸の奥がわずかに鳴る。彼女の言葉は穏やかだった。責める調子でも探りを入れる調子でもない。だからこそ逃げ場を塞がれる。心臓がゆっくりと沈んでいく。水底に引かれるように、音もなく。
「最初は、私のことばかり聞いてきてた」
「……」
「どんな人間か、とか。何を考えてるか、とか」
「……」
「でも途中から……思想とか、戦力とか」
彼女は一度そこで言葉を区切った。その間に、ホークスは何か言うべきだったのかもしれない。けれど、口を開く前に、次の言葉が落ちてくる。
「私個人のこと、あまり聞かなくなった」
胸の奥で何かが軋む。否定の言葉は浮かんだ。正当化も言い換えも、いくらでもあった。けれどそれらはどれも、今この場で口にするには軽すぎた。彼女は彼を見たまま「ねえ」と静かに言う。呼びかけは低く、柔らかい。それが、余計に残酷だった。
「私を見てたんじゃなくてさ……その向こう側を見てたんでしょ」
沈黙が落ちる。逃げ道は、まだ確かに存在していた。冗談めかして誤魔化すこともできたし半分だけ、本当のことを言う選択もあった。それでも彼は、どれも選ばなかった。
「……鋭いですね」
それだけがようやく形になった。彼女はふっと小さく息を吐いた。怒っているわけでも、泣いているわけでもない。ただ、肩がわずかに落ちる。その仕草が、彼の視界に痛いほど焼きつく。
「やっぱりね」
「……」
「生粋の、ヒーローだったんだ」
その言い方は断罪ではなかった。期待と失望の間で揺れた末の確認。だからこそ、胸の奥に深く刺さり、何よりも、彼を追い詰めた。ホークスは視線を逸らさなかった。逸らせなかった。彼女が見ているのは、もう��向こう側�≠ナはない。ただこの瞬間の彼自身だ。その事実だけが、遅れて、しかし確実に、重みを伴ってのしかかってくる。
何を失ったのか。そして、何を選び続けてきたのか。その答えを彼はまだ言葉にできずにいた。
「いつからなの?」
「……」
「私に近づいた理由は?」
彼女が尋ねる。声は低く、しかし踏み込む覚悟を隠さない。ホークスは視線を外し遠くの夜景に目をやった。光の粒が重なっては離れ、また別の形を作る。その無数の点のどれかに嘘を預けられたなら——そう思う。嘘をつくなら、ここが最後だと、目敏い彼は理解していた。
「……最初は、仕事です」
「うん」
「途中からは……」
言葉が喉の奥で絡まる。息を整えようとしても胸の内側が先に締めつけてくる。その沈黙を破るようにして、彼女が続きを促した。
「途中からは?」
「……俺にも、わからんくなりました」
それは逃げでも誤魔化しでもなく自分でも手放してしまった境界線の、その残骸を、拾い上げるような言い方だった。彼女は何も言わない。だがその沈黙は、扉を閉める音ではない。まだ、同じ部屋にいる沈黙だった。
しばらくして彼女は、「じゃあさ」と、ほんの少しだけ声を和らげた。
「私のことは?」
ホークスは、視線を戻さずに答えた。逃げないために、あえて簡潔に。
「仲間だと思ってますよ」
揺らぎはなかった。作戦でも、方便でもない。彼の中ではもう今更、彼女の前で言葉が別の形に変わりようがなかった。
「ヒーローとしてじゃない」
「……」
「一人の、人間として思ってる」
彼女は目を伏せる。夜景の光が睫毛の影を長く伸ばした。
「……最悪だね」
「ですね」
それでも、彼女は笑った。小さく、苦く。噛みしめるような笑みだった。
「でも、ホークスらしい」
「そうですか」
「うん。優しくて、卑怯で……ちゃんと、傷つくところ」
その評価は、褒め言葉でも慰めでもない。ただ見抜かれたという事実だけが残る。
遠くで、別の気配が近づいてくる。この先で、敵連合の一人に正体が露見する未来をホークスはすでに知っていた。時間は、彼の味方ではない。それでも彼女にはどうしても嘘がつけなかった。
「……もう、戻れない?」
彼女が問う。声は静かだが、それは答えの行き先を知っている響きだった。
「俺は、戻らない」
選び直す余地は、もうなかった。彼女はほんの一瞬だけ、目を閉じる。その短さが、彼女の強さだった。
ややあって、ゆっくりと目を開けた彼女が一言「そっか」とだけ言い、そして——。
「じゃあ……生きて」
その言葉がどれほど重いかホークスというヒーローは、理解していた。祈りではない。命令でもない。彼女が彼に渡した、最後の条件だった。
「必ず」
そう答えながら、ホークスは思う。この人には近いうち、全てを見抜かれてしまうだろう、と。それでも、ここまで一緒に笑ってくれた。だからこそ。この先でどんな地獄が待っていようとも。背中に何を背負わされようとも。彼は、飛ぶしかなかった。
*
夜明け前の空は、光へ向かう決意も、闇に戻る諦めも持てずに、行き場のない色を抱えたまま、静かに滲んでいた。
薄く引き延ばされた群青の下で、ホークスは、歩調を落とさずに、彼女の少し前を歩いていた。羽根を畳んだ、いつもより静かな背中。振り返らないことが、今は最善だと知っていたから。
「……ねえ、どこ行くの」
背後から飛んできた声は疑問というより確認に近い。彼女は、まだ彼を、信じている声音をしていた。
「楽しい場所ですよ」
嘘ではない。けれど、真実でもなかった。彼の中で、その二つはすでに絡み合って、ほどけなくなっている。建物の輪郭が見えてくる。無機質で感情の入り込む余地のない構造。
「寒いですね」
背を向けたホークスからの唐突な一言。彼女は少しだけ眉を上げる。彼は、何気ない仕草で翼を揺らした。羽根が擦れる、乾いた音。その中に、微かな電子音が混じっていることを、彼女は知らない。翼に仕込まれた盗聴器と、小型のカメラ。視界と音声は常に、どこかへ流れている。彼が、どんな言葉を選び、どんな沈黙を挟むかさえ逐一チェックされていた。
「……そう?」
「羽根があると、余計に」
冗談めいた口調だ。だが、その実、翼を大きく動かすことで雑音を増やしている。会話の輪郭をわざと、曖昧にするための癖。監視に慣れきった者の、身体に染みついた対処法だった。
「今、無駄話してる場合?」
彼女が、小さく笑う。その反応に、ホークスは内心で息をついた。まだ、怪しまれてはいないと信じて。
「今の内に、どうでもいいこと言っとかないと」
「なに、それ」
「記録に残るの、厄介なんで」
半分は冗談で、半分は本音だった。ホークスは剛翼をわずかに震わせ、羽音を、徹底的に殺す。その動作と同時に、頭の中で何かを切り替える。ここから先に要るのは、気の利いた言い回しでも温度のある感情でもない。監視に引っかからず、あとで切り取られても問題にならない言葉だけを選び最短距離で核心へ近づく、そのはずだった。けれど、その微妙な変化を彼女は逃さなかった。空気が薄く張り替えられた瞬間を、正確に、掴み取ってしまう。彼女の足が、わずかに止まった。
「ホークス」
「はい」
「楽しい場所って、言ったよね」
「はい」
「……ここ、違うよね」
「ええ」
同じように足を止めたホークスが、ようやく、彼女の方を向いた。夜の名残を含んだ光が彼女の表情を、半分だけ照らす。
「話があるんです」
「改まって言うこと?」
軽く笑おうとする彼女の唇が、途中で止まる。ホークスの目が、あまりにも真剣だったから。
「あなたにはしばらく、ここにいてもらいます」
一瞬、意味が届かなかった。彼女の中で言葉が正しい位置に落ちるまで、ほんのわずかな時間がかかる。
「……は?」
「保護です」
その単語は彼女の中に落ちた瞬間、意味を結ぶ前に音だけを残して砕け散った。守る、隔てる、閉じ込める。いくつもの可能性が同時に浮かび、どれもが現実味を帯びすぎていて、ひとつに定まらない。
「なに、それ」
「危険が迫ってる」
「私に?」
「周りに、です」
言葉は確かに投げ返されているのに会話として噛み合っていない。彼女は一歩、距離を取った。逃げるためではない。彼の顔を声を、今の言葉を正しく理解できる位置まで下がろうとするような動きだった。
「ホークス、冗談でしょ」
「冗談なら、もっと上手くやりますって」
その返しで、ようやく決定的なものが見えた。彼の目に、迷いがない。説得する気も、考え直す余地もない。すでに結論の先に立っていて彼女はそこへ連れて行かれる側なのだと。彼女の顔からゆっくりと色が引いていく。怒りよりも先に理解が追いついてしまった。これは、交渉じゃない。確認でもない。——宣告だ、と。
「……私を、売ったの?」
その言葉が彼女の口から零れた瞬間ホークスの胸の奥で、確かに何かが音もなく折れた。怒りや非難ではない。もっと静かで取り返しのつかない種類の断定だった。責めるというより、最初から用意されていた答えを、ようやく口に出しただけの声音。彼が否定しないことを、どこかで予期しながら。いや、予期していたからこそ、ここまで平静でいられるのだと彼にはわかってしまった。
否定はできた。説明だって、言葉を選べば可能だった。だが、そのどれもが彼女をさらに危険な場所へ押し出す行為になる。守るための沈黙が、裏切りとしてしか機能しない瞬間が確かにそこにあった。
「そう見えますか」
「見えるよ。十分すぎるほど」
彼女の声は驚くほど落ち着いていた。怒鳴りもしないし、泣きもしない。感情が揺れた痕跡を、すべて内側に押し込めたような静けさ。それが、ホークスには何よりも痛かった。感情的に詰られるよりも、冷静に距離を測られていることの方がずっと、深く刺さる。
「私たちを守るため?それとも——自分の立場のため?」
「……」
言葉が、出てこなかった。選ばなかったのではない。選べなかった。ここで、どんな理由を口にしても、彼女の置かれる状況が悪化する未来しか見えなかったからだ。その逡巡の沈黙は彼にとっては苦渋だったが、彼女にとっては答えそのものだった。
沈黙は肯定に等しい。説明不足ではなく逃避に映る。迷いではなく保身に聞こえる。実際彼女はそう受け取ったし、その解釈を覆す材料は、彼の側には何ひとつ、残っていなかった。
「最低」
短く、切り捨てるような一言だった。それでも彼女の声には怒りよりも、深く冷え切った失望が滲んでいた。二度目に落とされたその言葉は叫びでも罵倒でもない。感情をぶつけるための刃ではなく、二人の関係そのものに下された、静かな、判決だった。もう、引き延ばせる時間は残されていない。ホークスは彼女から視線を外した。これ以上、目を合わせれば、決意が揺らぐとわかっていたからだ。彼は感情を断ち切るように、ほんのわずかな動作で合図を送る。それは救いのための行為でありながら彼女の目には裏切りの最終確認として映る仕草だった。
「行ってください」
「……二度と、顔見せないで」
収容扉が閉まる直前、彼女は一度も振り返らなかった。その背中を、ホークスは最後まで見送ることができなかった。
これでいい。そう言い聞かせる。これで彼女は守られる。この先はじまる地獄の中心から完全に切り離される。それでも。彼女の中に残るのは、『ナンバーツーヒーローホークスに裏切られた』という、たったひとつの真実だけだ。
背中の羽根が、静かに落ちる。彼は拾わない。ヒーローは、守った事実よりも、憎まれる結果を選ぶことがある。そしてホークスは、その選択を迷いなく、選んでしまったのだった。
*
夜明け前の病室は音という音がすべて吸い取られたみたいに、静かだった。カーテン越しに滲む薄い光は朝とも夜ともつかない中途半端な色合いで、白い壁に頼りなく、染み込んでいる。時間が止まったというより、進む理由を失って立ち尽くしているような空間だった。ホークスはその中で椅子に腰掛けたまま背を預けることもなく両手を膝の上に置いて動かなかった。背中にはもう翼はない。焼け落ちた感覚だけが、記憶の残滓として奥深くに残り、幻肢のように疼いている。失った事実よりも、そこに��あった�♀エ覚のほうがまだ生々しかった。
彼女はベッドの上で、身じろぎひとつせずに、眠っている。眠っているというよりも意識が深く沈められている状態だと医師は説明した。精神的な負荷が一度に重なりすぎた結果だと。ホークスはその言葉を何度も頭の中で反芻していた。精神的ショック。その正体を、誰よりも正確に知っているのは自分だった。
全面戦争のあと。すべてが終わったと、誰もが口にした。瓦礫と炎、怒号と悲鳴が渦巻き英雄とヴィランの境界線が音を立てて崩れ落ちた、あの戦場で、彼は選んだ。選ぶしかなかった、と言い換えることもできた。だが実際に選んだのは自分自身だ。その事実だけは、どうやっても消えなかった。彼女に知られるよりも先に、トゥワイスに正体が露見した。それが救いだったのかそれともただの順番の問題だったのか。考えたところで、答えは出ない。違う結末を想像すること自体が、今となっては残酷だった。
あのときも、彼女は変わらず、『いつも通り』だった。異能解放軍との全面抗争、『再臨祭』が起こる数日前。彼女を収容所へ移送する直前の、ほんの短い時間。通信機越しの会話は、拍子抜けするほど他愛なかった。
「今日も遅くなるの?」
『ええ、まあ。ちょっと立て込んどりますね』
「また危ないヒーロー仕事?」
『危なくない仕事のほうが珍しいでしょ』
「……生きて、帰ってきてよ」
軽い調子を保とうとする声の奥に拭いきれない不安が滲んでいた。それでも彼女は、それ以上を聞かなかった。
『了解です。善処します』
踏み込まない。踏み込ませない。それが、ホークスが選び続けてきた、距離だった。彼女はまだ知らない。自分が敵連合の内部に入り込んだ二重スパイであることも、その立場を維持するためにどれほどの嘘を重ねてきたかも。そしてその嘘が終わる地点が、すぐそこまで迫っていることも。
ヒーロー側の一斉強襲が始まった直後に、ホークスはトゥワイスに、自首を勧めた。それは計画通りで、予定されていた手順で、任務としては、正しかった。だが、理解が追いついた瞬間に向けられたあの目だけは、想定の外にあった。ほんのわずかな間に、信頼が裏切りへと反転していく。その速さと、あまりの鮮明さ。時間が、どれほど経ってもあの表情だけは薄れなかった。選択肢はなかった。そう言い聞かせる言葉は、頭の中では何度も反復できたが胸の奥までは届かなかった。翼が燃え、血が流れ、言葉が意味を失ったあと。戦場がようやく静まり返ったとき、そこに残っていたのは、取り返しのつかない事実だけだった。勝敗や成果よりも先にホークスの中に沈んだのはそれだった。
彼女に知られたのはその直後だ。特別施設内の病院の廊下。非常灯の白い光が天井に滲み、ヒーローと医療スタッフがせわしなく行き交う、その流れの只中。荼毘の攻撃によって、背中の剛翼は焼き尽くされ、至近距離から浴びた炎は翼だけでなく声帯にも深刻な火傷を残していた。処置は、ひと通り終えたばかりだったが痛みはまだ身体の奥に居座ったままで、鈍く、しかし確実に存在を主張している。ホークスは、ベッドに横になったまま目良と話をしていた。包帯に覆われた身体は思うように動かず呼吸をするたびに背中が軋む。
それでも、もう無理に平静を装う気力は残っていなかった。痛みを隠すことも、軽口で誤魔化すことも、この段階では意味を持たない。ここまで来てしまえば取り繕う必要はない。そう理解していたし、同時に、それが許されない立場に自分がいることも、分かっていた。だからこそ、その、『知られた瞬間』は避けようのない形で訪れた。ホークスが無防備で何ひとつ隠していない、その時間の隙間を縫うように——。ふと、理由もなく背筋が強張った。視線を向けられた気配だけが、先に届く。嫌な予感に導かれるようにして病室の入り口を見ると彼女がそこに立ち尽くしていた。視線が合った瞬間、彼女の顔から血の気が引いていくのがはっきりと分かった。言葉を失ったまま硬直する、その表情だけで彼女が何を見たのかは十分すぎるほど伝わってくる。どうして、ここにいるのか。どうやって収容施設を抜け出してきたのか。そんな疑問が形を成すよりも先に、彼女の唇が動いた。
「……ホークス?」
名前が、零れ落ちるように呼ばれた。呼ばれたはずのその名に、彼は、何ひとつ返せなかった。喉が塞がれたように声が出ず視線を逸らすこともできない。ただ焼け跡の残る身体ごと、その場に縫い留められていた。
「今の話……任務って、二重スパイって……」
目良との会話が偶然、彼女の耳にも届いてしまったのだろう。あるいは偶然を装った必然だったのかもしれない。どちらにせよ、もう引き返せる段階ではなかった。ホークスは視線を逸らさなかった。誤魔化さなかった。正確には、誤魔化すという選択肢が、もう残っていなかった。
「……は"い"」
短い返事だった。それでも、逃げずに返したという事実だけで、彼女には十分だったのだろう。彼女の瞳が、ゆっくりと揺れる。そこに浮かんでいたのは怒りでも嫌悪でもない。もっと根の深い理解が追いつかないまま、突然、現実を突きつけられた人間の、剥き出しの混乱だった。
「もしかして……私を、守るために?」
問いかけというより、答えを確かめにくる声音だった。それが、かえって胸の奥を締めつける。
「……私を、この戦争から遠ざけるために?」
「……」
「ホークス、答えて」
逃げ場は、もうなかった。ホークスは観念したように目を伏せて、小さく息を吐き出す。
「ぜんぶが、うぞだっだわげじゃ……ないでず」
掠れた声だった。喉を焼いたまま無理やり絞り出したような、不格好な音。それでも、その言葉だけは、迷いなく、一直線に放たれていた。
「あな……あなだを、仲間だど思っでる気持ぢ、だげは……」
そこで、言葉が途切れた。続きを口にする権利など今の自分にはない気がした。それでも必死に息を整える余裕もなく、続ける。
「最初か"ら"、最後ま"て"……ぞれだげは、本当です……」
言い切った瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ちた。守るために遠ざけたはずの距離が今、最も残酷な形で彼女を傷つけている。その事実を、彼はようやく、真正面から受け止めていた。
彼女は、何も言わなかった。ただ、一歩だけ、後ろへ下がる。その距離が、刃物のように彼の胸を抉った。拒絶でも否定でもない、もっと静かな断絶。彼が積み上げてきた時間が音もなく遠ざかっていく感覚。
そして、彼女はその場で崩れ落ちた。すべてを聞き終える前に。すべてを理解しきる前に——。倒れる、と思った瞬間にはもうホークスは動いていた。肩と背に腕を差し入れ、床に落ち切る前に引き寄せる。抱き留めた身体は、驚くほど軽い。熱も、力も、削ぎ落とされたあとの重さだった。それでも胸に受け止めた感触はどうしようもなく重い。守れなかった時間と言えなかった言葉と、これから背負わせてしまうすべてが、骨の内側に沈んでいくような重さだった。
——そして、今。夜明け前の病室。ホークスは眠る彼女の傍らで、ようやく胸の奥に溜め込んでいた言葉を、吐き出そうとしていた。誰に向けるでもなく。言い訳にもならないと、知りながら。それでも言葉にしなければ彼自身がここに立っていられなかった。
「……俺、あなたを裏切ったんですよね」
返事はない。白いベッドの上で、彼女は眠っている。正確には、眠らされていると言ったほうが近い。細い腕には点滴の管が繋がれ透明な液体が一定の速度で体内に落ちていく。その規則正しさをなぞるように頭上の機械が無機質な音を刻んでいた。生きている証拠のはずなのに、どこか遠く現実味がなかった。
ホークスはベッド脇の椅子に腰を落とし視線を下げた。彼女の顔を見ることができなかったわけではない。ただ、見てしまえば、言葉が続かなくなる気がした。
「守るためだった、なんて……言い訳にしかならんのも、分かってます」
声は思ったよりも低く落ちた。膝の上で組んだ指先が、かすかに震える。止めようとしてもどうにもならなかった。英雄として、多くの修羅場をくぐってきたはずなのにこういう震えには未だに慣れない。
「……大切すぎて、いちばん大事なことを、隠しました」
「……」
「こんなことになるなら。あなたになら、素直に言ったほうが、よかったのかもしれない」
公安からの命令。自分が、置かれている立場。ヒーローとして、背負わされている役割。世界のために用意された、最適解。そのすべてが彼女の前ではただの後付けの理由に成り下がる。それを分かっていながら彼は選んでしまった。言わないことを。遠ざけることを。
「絆されたんすよね、きっと。あなたが、いい人だから……」
「……」
「……嫌われても、憎まれても」
そこまで口にして、言葉が途切れる。それでもいい、と続けられたら、きっと少しは楽だった。自分を正当化できたかもしれない。けれど、喉の奥でその言葉は引っかかり、形にならなかった。
「それでも、そばにいたいって思ってしまうのが……」
ホークスは、小さく息を吸う。ゆっくりと頭を下げる。眠る彼女に触れることはできなかった。指先を伸ばせば届く距離にいながら、その一歩がひどく遠い。
「……俺の、罪なんでしょうね」
白いシーツの上で眠る彼女は、驚くほど、静かだった。彼の懺悔も、後悔も届かないまま、ただ時間だけが過ぎていく。その姿は英雄という言葉からはほど遠い。翼を焼かれ、答えを失い、謝ることしかできない、ただの一人の若い男だった。