彼女が目を開けると、そこには白い天井があった。病院特有の、乾いた匂い。消毒液の気配と、まだ身体に馴染みきらない現実の感触が、遅れて鼻腔を満たす。
しばらくのあいだ、瞬きをすることさえ忘れて天井を見つめていた。視界はまだ曖昧で光の輪郭だけがぼやけたまま漂っている。けれど、時間とともに、その輪郭は少しずつ形を取り戻し、白は白として、天井は天井として、確かな重さを持ち始めた。
——生きている。その事実が思考よりも遅れて胸の奥に沈んでいく。実感は重たいのに、同時にどこか空虚で掴もうとすると指の隙間からこぼれ落ちてしまう。言葉にしようとした途端に、意味だけが先に崩れてしまうような、なんとも奇妙な感覚だった。
「……起きた?」
聞き覚えのある声。静かで、抑えられていて、それでも逃げ道を与えない声音。視線を動かすとベッドの横に、椅子があった。彼が座っている。その姿を認識した瞬間、彼女はわずかに息を呑んだ。決して無事と言える状態でもない。首元には白い包帯が巻かれ、衣服の隙間から覗く肌には、まだ新しい火傷の痕が点々と残っている。顔にも細かな傷跡。完全に治りきる前の赤みが、彼が、どれだけ無理をしたかを雄弁に物語っていた。
それでも背筋は崩していない。いつもの姿勢を装うように椅子に腰掛けている。ただ目元だけがほんのわずかに隠しきれない疲労を帯びていた。
「……おはようございます」
そう言われた瞬間、喉がひりついた。眠りから引き上げられたばかりのはずなのに、その掠れた声を聞いた途端に、現実だけが先に、戻ってきてしまった気がした。それでも声色だけは、いつもの調子をなぞるように整える。ここで揺らげば、全部がまた、崩れてしまいそうだったから。
「わたし、何日、寝てた?」
「二日」
「……意外と短い」
彼女は小さく息を吐いた。その拍子に、身体の奥に溜まっていた鈍い重さが、じわりと、輪郭を持つ。確かめるように指先を少しだけ動かすと、ちゃんと動く。それだけで、胸の内に沈んでいた不安が、わずかにほどけた。
「もっと寝ててもよかったんですよ?」
「それは困る。もう、暗い夢にはうんざり」
「……」
「そっちこそ、もう少し寝てればよかったのに」
「それも困ります。後処理が山ほどあるんで」
いつものやり取り。軽く柔らかく踏み込みすぎない距離を保つための言葉選び。けれど、彼女は笑わなかった。冗談として受け取る余裕が、今はどこにもなかった。その代わり胸の奥で絡まっていた感情をひとつずつほどくみたいに息を整えて「ホークス」と名前を呼ぶ。それだけで彼の肩がわずかに強張ったのが、はっきりと分かった。
「……あの、」
一度、言葉が途切れる。喉の奥で迷いと恐れが絡まり合って声になるのを拒んでいる。それでも目だけは逸らさなかった。ここで視線を外したらこの話題そのものが夢で見た暗い闇の中に消えてしまいそうだったから。
「トゥワイスのこと」
その名が病室に落ちた瞬間、空気の密度が変わった。柔らかく保たれていた距離が、ほんの少しだけ縮まる。ホークスは天井へ逃がしかけていた視線を、今度は彼女に向けたまま、瞬きもせずに止めていた。
「……はい」
「殺したの?」
問いは、淡々としていた。感情を削ぎ落としたような声だったからこそ、余計に重く響く。彼はすぐには答えなかった。言葉を選ぶというより、どこまでが真実で、どこからが自分を守るための逃げになるのかを、無言のうちに測っているようだった。そして事実だけを、低く、短く置く。
「諭しました」
「……」
「伝わらなかった」
「……」
「止めるしか、なかった」
それ以上の説明はなかった。彼女も、踏み込まなかった。問い詰めても、答えが増えるわけではないと分かっていたから。ただ、ひとつ深く息を吸う。肺の奥まで空気を満たしてから、ゆっくり吐き出す。その呼吸に合わせて、心拍が少しずつ落ち着いていくのを待った。
「……ありがとう、教えてくれて」
そう言ってから彼女は視線を落とす。白いシーツの上に置かれた自分の手は、思っていたよりも細く頼りなかった。守られていたのだと今さらのように突きつけられる形だった。
「正しいかどうかは……まだ分からない」
彼のその言葉は誤魔化しではなく、確かに正直だった。善も悪も、正解も不正解も、簡単に線を引ける状況じゃない。
彼女自身もまた答えを持っていなかった。ただその迷いごと向き合おうとしている姿勢だけが、胸の奥に静かに残った。
「でも、あなたに嘘をついたままなのは、もっと嫌だった」
ホークスの指先がわずかに動いた。何か続きを言いかけて、結局、口を閉ざす。病室には機械音だけが残る。それでもその沈黙は、さきほどより少しだけ柔らかかった。彼女はまだ答えを持っていない。彼もまた、救われてはいない。それでも目を覚まし言葉を交わした今、二人は同じ現実の中に戻ってきていた。痛みも、迷いも、そのまま抱えたまま。
「私ね」
「……」
「やっぱり、わかってた」
責める響きはなかった。声は静かで怒りや拒絶よりも、長い時間をかけて受け入れてきた事実をそっと差し出すような調子だった。
「前に、言ったでしょ。ホークスは、見てる先が違うって」
「……」
「それでも、もしかしたらって思ってた」
彼女は視線を逸らさない。その目には、諦めと期待が同時に残っていた。
もしも、違ったら。もしも、それが裏切りではなかったなら。そんな可能性を、最後まで手放せなかったのだと、言葉にせずとも伝わってくる。
「でも……あの戦いのあと」
彼女がまた一度、視線を落とした。白いシーツの上で、指先がわずかに絡まり、ほどける。
「全部、繋がっちゃった」
その一言でホークスの胸の奥に積み上げてきたものが音もなく崩れた。否定も、言い訳も、挟み込める余地はない。彼女はもう答えに辿り着いている。
「……ごめんなさい」
自然と口をついて出た言葉だった。ヒーローとしてでも、公安の駒としてでもない。ただ一人の人間として。
「あなたを、巻き込みました」
「うん」
短い返事だった。感情を、抑えたような声でもない。ただ、事実を事実として受け取った音。
「巻き込まれた。でも、選んだのも私」
「……」
「ホークスがヒーローだってこと」
「……」
「私、もう一回ちゃんと確認したかった」
彼女は静かに彼を見る。その目に、もう迷いはなかった。それは責任の追及でも許しの宣言でもない。ただ、彼という存在を、改めて見据え直すための言葉だった。ホークスは、ゆっくりと息を吐いた。肺の奥に溜まっていたものを、少しずつ外に逃がすように。包帯の下で疼く痛みよりも、その言葉の重さのほうがずっと深く残っていた。
「俺は、間違ったことをしたとは思ってません」
「うん」
「でも、正しいとも、言い切れん」
「うん」
相変わらず短い応答だったが、突き放す響きはなかった。彼女は逃げなかったし彼もまた、その場から、身を引かなかった。互いに踏み込まず、しかし目を逸らさないまま、同じ場所に留まっている。
「それでもホークスは、私に嘘をつくときだけ、下手だったよ」
彼女はほんの少しだけ口元を緩めた。それは、慰めでも、許しでもない。ただ事実を思い出したときの表情。思いもよらない言葉に、ホークスは一瞬、反応を忘れた。「え?」と、瞬きをして、彼女を見やる。
「視線、ちょっとだけズレるし」
「……」
「声のトーンも、微妙に変わる」
思い当たる節がありすぎて、否定の言葉が見つからない。自覚していなかった癖をいとも簡単に指摘されて、胸の奥がざらついた。
「だからさ、わたしは——」
「……」
「全部を知った上で、会いに来たの」
彼女の手が伸びる。包帯に覆われ力の入らないヒーローの手に、そっと触れた。握るでもなく、確かめるように、温度を分け合うだけの接触。
「生きててくれて、よかった」
その一言で、胸の奥に張り詰めていたものが、静かに軋んだ。英雄でもスパイでもない。使命や役割を剥がされた、その奥に残っていたのは——やはり、ただの一人の男だった。
喉が詰まり言葉が出てこない。代わりに彼は、わずかに指を動かした。触れ返すことすら躊躇いながら、それでも、彼女の手を拒まない程度に。彼女は言葉を返さなかった。ただ、その沈黙を、責めることなく、そこに居続けた。それが、今の彼に許された、唯一の救いだった。
「……失いますよ」
やっとの声。掠れた声で喉の奥に引っかかっていたものを、ようやく外に押し出したような。
「俺のせいで、たくさん」
「うん」
「それでも?」
問いは弱々しく確認というよりも、覚悟を試すような響きだった。
それでも彼女は目を逸らさなかった。間を置くこともなく、ためらいも見せずに答える。声は、やや低く、静かだった。揺らぎのない調子で。
「それでも……あなたが、仲間でよかった」
胸の奥が、きしむように痛んだ。ホークスは、ゆっくりと目を閉じる。
あの夜、翼を広げることも逃げることもせず、ただ、立ったまま選んだ自分。燃え残った背中の感覚とともに抱えてきたその選択を、初めて肯定された気がした。
「……ありがとうございます」
思わず零れた言葉に、彼女は小さく息を吐く。短く微かな笑みが浮かぶ。癖のように染みついた距離感が、まだ抜けきらない。
「もう。敬語やめなって」
「……」
「じゃあさ。もう一回、言ってみて」
彼女が、少しだけ身を乗り出す。試すようでも突き放すようでもない。ただ、確かめたいだけの声音だった。
「……何を?」
「ヒーローとしてじゃないやつ」
ホークスは一瞬だけ、言葉を探してから諦めたように、視線を伏せる。飾る必要も、守るための言い換えも、もう、ここでは意味がない。
「あなたは……仲間ですよ」
肩書きも、使命も、過去も罪も、そのまま引き連れた言葉だった。彼女はそれを受け取るように静かに頷く。否定も、過剰な肯定もない。ただ、そこに置かれた関係を、両手でそっと、確かめるように。
病室の空気は、相変わらず白く、静かだった。それでもホークスは、その沈黙のなかに、確かな居場所を感じていた。
*
再臨祭ののち、ホークスを含むプロヒーローのトップスリーは、形式ばった記者会見を開いた。その場に並ぶ彼の姿を彼女は病室のテレビ越しに見ていた。整えられた言葉、計算された表情——英雄としての正解だけが、そこには並んでいた。
そして全面戦争が終結したあと、ホークスは、ようやくはっきりと痛感することになる。自分のそばにいる限り彼女は『知らなくてもいい地獄』まで見てしまう。嘘。裏切り。選別。そして——死。これからの自分の仕事はそれらを日常として引き受けるものになる。表に出る言葉よりも裏で下す決断の方が重く、取り返しのつかないものになっていく。その重さを彼女の生活の隣に置いていいはずがなかった。ならばせめて、自分のほうから、距離を取る。彼女の人生から、自分を引き剥がすことで、巻き込まずに済むのではないか。それは、誠実さというより、彼なりの自己処罰に近かった。
彼女が退院して、元の収容施設に戻ってから、三ヶ月が経った。ホークスは、来なかった。正確には、来られない理由があることを、彼女はもう知っている。だからこそ「来ない」という選択がただの多忙ではなく、明確な意志として、浮かび上がってしまう。
面会申請は通る。連絡端末も塞がれていない。それでもあの男は踏み込んでこない。その距離の取り方が、あまりにも彼らしくて、彼女は、腹が立った。だから、こちらから呼んだ。
施設内の簡易的な面談室。ガラス越しではないが、常に警備の気配がある。完全な私室にはならない、その程度の距離が保たれた場所だった。
扉が開き彼が入ってくる。以前よりも歩き方は凛としていて足音は驚くほど静かだった。戦いを終えたばかりの身体とは思えないほど無駄のない動き。その首元からは包帯が外され、火傷の痕が露わになっている。無理にでも、日常へ戻ろうとしている、その痕跡が痛々しくもあり、同時に、確かな回復の証でもあった。
彼女は、ほっと息をつく。けれど、その直後、なぜか一瞬だけ、視線を逸らしてしまう。安堵の裏に、言葉にできないざらついた感情が混じっていた。無事でいてくれたことへの感謝と、そこに刻まれた傷を真正面から受け止めきれない弱さ。その両方を、自覚してしまったからだった。
「……久しぶりですね」
そのひと言が落ちた瞬間、胸の奥がゆっくりと軋んだ。久しぶり——そう呼ぶには短すぎるとも言えず、長すぎるとも言えない。けれど確かに、三ヶ月という時間は日常の輪郭を少しずつ削り、互いの不在を��当たり前�≠ノしかけるには、十分だった。昨日まで会っていたはずの距離感では、もうない。かといって初対面に戻れるほど記憶が薄れたわけでもない。その曖昧な空白を、彼は、一言で片づけたのだ。それが正しくてだからこそ胸の奥が静かに傷んだ。
「避けてたでしょ」
「……仕事です」
「便利な言葉」
彼は否定しなかった。それが答えだと分かってしまうのが、彼女にはいちばん苦しかった。
ホークスから距離を置いた理由は、ひとつではない。いくつもの要因が静かに重なった結果だった。まず、立場の変化。公安委員会の会長という肩書きは、単なる昇進ではない。「個人の感情を公的責任の下に完全に封じ込める役職」だった。彼自身が誰よりもそれを理解している。彼はもう軽やかに笑いながら危険な橋を渡る現場の男ではいられない。判断ひとつで、無数の命と、未来を天秤にかける側に回ってしまった。その重さを、彼女の隣に持ち込む資格はない——。そう、思い込んだ。
次に「守るために遠ざける」という選択。自分のそばにいる限り、彼女は否応なく世界の裏側を見てしまう。ならば、最初から距離を取るほうがいい。彼女を守るためという建前の奥には自分が耐えきれないという本音も混じっていた。
もうひとつは、罪悪感の未回収。トゥワイスの件は、彼の中でまだ終わっていない。彼女は理解しようとした。その優しさが、逆に彼を追い詰めた。理解されてしまえば、許される可能性が生まれてしまう。彼は、自分が許されることを、まだ受け入れられなかった。彼女の前に立つほど自分のしたことの輪郭が、くっきりと浮かび上がってしまうからだ。
そして最後に、彼女自身の選択を尊重したいという思い。彼は知っている。彼女は自分の人生を自分で選ぶ人間だ。だからこそ公安委員会会長になった自分の隣に立つことが「無言の同意」や、「覚悟の強要」になってしまうのが、怖かった。何も言わずに距離を取ることで、彼女が、自分の意思で離れる自由を残したかった。結果として、二人の距離は、「嫌いになったから」ではない。好きなまま、壊さないために離れた距離だった。
連絡は取れる。会おうと思えば、会える。それでも踏み込まない。それは未練ではなく未完成の贖罪だった。英雄としての責任と、ひとりの男としての愛情がかろうじて共存できる唯一の位置。ホークスは、そこから動けずにいる。
「私が退院したの、知ってたよね」
彼女の声は低く静かだった。詰め寄る調子ではない。ただ事実を確認するような、穏やかすぎる問いかけ。それでも彼は、視線を逸らしたまま、「はい」とだけ、短く答えた。
「ここに、戻ったのも」
一瞬の間。ほんのわずかな沈黙のあともう一度「はい」と、同じ返事が返ってくる。知っていて来なかった。その事実だけが、二人の間に落ちている。それ以上の理由があることを、彼はもう、隠そうとしていなかった。隠さないというよりも隠すだけの余力がない、と言ったほうが近い。
「ホークスさ」
「……」
「それで、距離を置いてるつもり?」
ホークスがようやく顔を上げた。責めるための言葉じゃない。彼女自身そうだと分かっている。ただ曖昧なまま放置されている輪郭を、きちんと線にしたかった。しかし、彼は答えず、わずかに視線を伏せた。その仕草だけで、十分すぎるほどだった。
「……あなたを、巻き込みたくない」
予想通りの答えだ。それでも彼女の胸の奥で、何かが静かに軋む。その言葉が彼の中でどれほどの重さを持っているかを、もう、知らないふりはできなかった。
「今さら?」
「今だから、です」
声は、抑えられているのに、切り捨てるような冷たさはない。むしろ、必死に整えられた、訂正だった。
「俺の立場が変わった。これから先……あなたが知らなくていいものを、もっと見ることになる」
「私が勝手に覗いたわけじゃない」
「それでも、です」」
淡々とした語調。その奥で感情が暴れないように、理屈という壁を何重にも積み上げているのが分かる。彼はもう、軽やかな現場の男ではいられない。判断ひとつで、無数の命を秤にかける側に立ってしまった人間の声だった。
「……守るため?」
「結果的には」
「本音は?」
逃げるような言い方に彼女は腹が立った。彼はやはり、すぐには答えなかった。呼吸が、ほんのわずかに深くなる。
「……罰です」
「自分で、自分を遠ざけてる」
「許される位置に、立つ気がないだけです」
その一言が、空気を変えた。トゥワイスの名は出なかった。けれど、その沈黙が、彼の中でまだ終わっていない罪を、はっきりと示していた。
「理解されたまま、そばにいるのが……怖い」
「それ、私の選択を奪ってるって分かってる?」
「分かってます」
分かっていながら彼は選び続けている。それがこの男——ホークスという人間の、流儀であり、彼なりに背負い続けていく贖罪のかたちだった。迷いがないわけではない。ただ迷いを理由に立ち止まることを、最初から自分に、許していない。
だからこそ、その告白にも、縋るような弱さはなかった。同情を求めるでも、理解を乞うでもない。ただ起きたことを起きたまま差し出すような淡々とした事実の提示に近かった。
「私が、あなたの隣に立つってこと」
「……」
「覚悟を、強要することになるって、思ってるんでしょ」
「……。」
彼はやはり、否定しなかった。肯定もしない。ただ、その沈黙が、答えだった。だから彼女は、椅子から、立ち上がった。逃げるためじゃない。視線の高さを同じにするために。彼の作った距離の内側に、踏み込むために。
「だったら、逃げないで」
言葉は強くならないように、彼女は意識して、声量を落とした。責める響きが混ざればこの人はきっと、また一歩遠ざかる。だから、刃を丸めるように、慎重に。
彼は何も答えなかった。視線を伏せたまま唇を引き結ぶ。その沈黙が彼女の言葉を遮るものではないと分かっていたからこそ、彼女は続ける。
「離れるなら、ちゃんと私に言って」
喉の奥がわずかに熱くなる。声が震えないようひとつひとつ、言葉を選ぶ。
「なにも言わずに距離を取るのは、やさしさじゃない」
「……」
「それは、ホークス。あなたが、楽になるための選択だよ」
言い切った瞬間、彼の肩がほんの少しだけ落ちた。気づかれないほどの変化。それでも彼女にはそれが重荷を認めた合図のように見えた。彼女が「私ね?」と名乗るように言うと、彼はようやく顔を上げた。
「あなたの隣に立つかどうか、選ぶ権利くらいは欲しい」
面談室に沈黙が降り積もる。壁の向こうにいる警備の気配が遠くで、息を潜めている。世界は、確かに変わらず動いているはずのに、ここの部屋だけが時間ごと切り取られた標本のように静まり返っていた。
彼はひとつ深く息を吐き出す。続いて控えめに舌を打つ音。それは思案の合図というよりすでに決まっている答えをどんな形で彼女の前に置くかその置き方を選んでいる仕草に見えた。
「……それでも、今は」
「うん」
「一歩、引かせてください」
「壊さないために?」
「……はい」
彼女は、小さく、息を吐いた。張り詰めていた空気をようやく外に押し出すみたいに。
彼のそれは決して拒絶ではない。けれど、今は踏み込まないという、明確で、揺るぎのない意思だった。
「ずるいね」
「分かってます」
それでも、彼は立ち去らなかった。背を向けるでもなく距離を広げるでもなく、そこに留まっている。その事実だけでこれは逃走ではないのだと少なくとも今は信じられた。
彼女は「じゃあさ」と、少しだけ、声の調子を緩める。彼は、黙って彼女を見る。
「その距離、ホークスが決めるときが来たら」
「……」
「ちゃんと、向き合って」
ホークスは続きを遮らなかった。そして、長い沈黙のあと、彼はゆっくりと頷いた。
「約束します」
それは、恋人としてでも仲間としてでもない。ひとりの男として差し出せる、精一杯の、誠実さだった。好きなまま壊さないために離れる。その距離が、いつか埋まるのかどうかは、まだ分からない。けれど少なくともこのときの二人は互いに背を向けない位置に立っていた。
そして今——『付き合っている』という言葉をようやく、手に入れた現在から振り返ると、あの頃の自分は、あまりにも綱渡りだったと分かる。仕事として近づいたはずなのに、いつの間にか、彼女の笑い声で呼吸を整えるようになっていた。
「ほんと……危なか橋、渡っとったばい」
誰もいない執務室で、ホークスは、ごく小さく言葉を落とす。自嘲でも後悔でもない。ただ一度現実の重さを手のひらで量るような声音だった。
それでも彼は否定だけはしなかった。あの過去があったからこそ今、彼女の隣に立っていられるのなら、それでいい。そう考えることを、自分に許すまでには、あまりにも長い時間が必要だったけれど。
窓の外では薄光が、ためらうように街の輪郭をなぞっていた。彼はその曖昧な明るさに目を留め何も言わず何も願わずただその場に立っている。
終わらせることも、始めることも選びきれないまま、それでも、選び続けてきたすべてが、まだ朝に間に合うと知りながら。