ホークスとの通話が終わってから、気づけば、数時間が過ぎていた。
 気晴らしに外へ出るかどうか、彼女は何度か、真剣に考えた。けれど、結局、床から立ち上がる理由を見つけられないまま時間だけが進み時計の針は、夕方の六時を少し越えていた。
 インターホンが鳴るよりも先に、廊下を伝ってくる足音が、耳に届く。歩幅、体重のかかり方、ほんのわずかな躊躇。聞き慣れたそれに、彼女は無意識のうちに息を整える。玄関の前で、足音が止まる。短く深呼吸をする気配。インターホンは使われず、控えめなノックが、三度だけ響いた。扉を開けると、そこに立っていたのは黒を基調としたスーツ姿のホークスだった。いかにも現在の仕事着という装いだが、その両手には紙袋が二つ提げられていて片方からは香ばしい匂いが微かに漏れている。彼は少しだけ緊張した面持ちで声を落とした。

「こんばんは。……飯、買ってきました」
「うん、ありがと」
「外、出ました?」
「出ようと思って途中で力尽きた。ここ、思ったより快適で」

 その言葉に、ホークスは一瞬だけ視線を伏せ、苦みを含んだようでいて不思議と柔らかな笑みを口元に浮かべた。張りつめていたものがそこで、ふっと緩むのが分かる。その表情を見た彼女は、理由もなく胸の奥がほどけて、つられるように、小さく微笑んだ。

「……あがって?」

 促す声は軽やかなのに、どこか親密さを帯びていた。ホークスは短く頷き余計な言葉を挟まずに玄関の扉を静かに閉める。その音が落ちた瞬間、境界がひとつ区切られたような気がして、距離が一段だけ近づいたことだけが遅れて静かな実感として残った。

「ねえ、それにしてもさ」
「はい?」
「今朝のガチャ切りは、ちょっとひどくない?」

 思いがけない角度から飛んできた指摘に、彼は瞬間的に目を見開いた。それでも片方の靴に手を掛けたまま固まっていた彼の肩から力がすとんと抜ける。ホークスはすぐに、視線を、斜め上へと逃がし、言い訳を探すように間を作った。

「あれは……名前さんのせいです」
「ドラマみたいだったよ。相手が興奮したまま、切るやつ」

 くすくすと笑う声に、彼は「興奮て」と小さく呟きながら、脱いだ靴をきちんと揃え、そのまま室内へと足を踏み入れた。言葉は軽く投げ返したつもりなのに、声の端には、隠しきれない照れが滲んでいて、それを自覚している分だけ、余計に落ち着かない様子だった。

「おじゃまします」
「はーい。あ、ホークス」
「はい?」
「お疲れさま」

 振り返って言われた、たったそれだけの言葉。それでも、彼は一呼吸置いて、ふっと力の抜けた笑みを浮かべる。

「ありがとうございます」

 リビングに通されると、床に敷かれたシングルサイズの簡易マットが真っ先に視界に入る。彼が来客用にと用意していたそれ一枚で一晩を越した痕跡。家具はまだ少なく生活の匂いも薄い。人が住み始めたばかりの部屋特有の、どこか心許ない空気が漂っている。ホークスは一瞬言葉を失ったような顔をしたがそれを悟られないように紙袋を床に置く。袋が軽く擦れる音が妙に大きく響いた気がした。
 昨日、自分は何をしていたんだろう——自責に似た思いが胸をかすめる。けれど彼はそれを表に出さず、いつもの調子を装って口を開いた。

「……こんなんで、ほんとにさ。ちゃんと、寝れました?」

 それは状況確認という体裁を取りながら、実際には、彼自身を落ち着かせるための問いだった。配慮と後悔が絡み合った声色でホークスは彼女の表情を慎重に窺っている。

「うん。電話でも言った通りぐっすりだったよ」

 少し早めに返された答えに彼は感心したようにふ、と小さく笑った。胸の奥で引っかかっていたものが音もなくほどけていくようで、その正体の曖昧さごと、ようやく形を失っていった。

「あー、テーブルも先に用意しておけばよかったですね」
「ううん。床で食べるの、慣れてるし」
「そんなん、慣れんでいいです」

 呆れたように、しかし本気で咎めるほどの強さはなく、ホークスはわざとらしく小さく息を吐いた。その仕草には、心配を軽口に包む癖が滲んでいる。

「まあ……明日家具が届いたら、だいぶ変わるでしょう」

 それ以上は踏み込まず、話題を畳むようにしてホークスは、紙袋に手を伸ばした。「とりあえず今日はこれ」と、独り言めいた調子で言いながら中身をひとつずつ床に並べていく。唐揚げ弁当がふたつ。パック入りのサラダと、ペットボトルのお茶も二本。量も組み合わせもきっちり二人分。豪華さはないが、偏りを避けようとした形跡が、はっきりと見える選び方だった。気が利くというより、律儀。必要だと思ったものを、過不足なく揃えてくる。その性分がそのまま床の上に整然と配置されている。ホークスは先に、どかりと腰を下ろして、あぐらをかくと、軽く顎で向かい側を示した。

「ほらほら、座って」

 促されて、彼女は少し遅れてから向かいに腰を下ろす。床越しに向き合う距離が、妙に近い。
 二人で手を合わせて、「いただきます」と声を揃えた瞬間、部屋の空気がようやく、生活の形を帯びた気がした。
 彼女が箸を取ろうとしたその直前。ホークスが「あ、そうだ」と思い出したように声を上げる。彼女が顔を上げると、彼は、唐揚げを箸でつまみ上げたまま視線だけをまっすぐ、こちらに向けていた。ふざける様子も、照れ隠しもない。ただ、逃げずに向き合う目だった。

「今日一日、ちゃんと言えてなかったんで……。改めて」
「ん? なに?」

 問い返す声は自然だったが彼女自身、胸の奥が静かにざわついているのを自覚していた。
 ホークスは一呼吸置いてから箸を下ろす。その所作が、やけに丁寧で、これから口にする言葉の重さを彼自身が分かっているように見えた。床に置かれた弁当の湯気が、二人の間を、ゆっくりと漂う。彼は、それを挟んだまま、低く、しかし、はっきりと告げる。

「ちゃんと、伝えたいことがあるんです」

 その続きを、彼女はまだ聞いていない。けれどもう逃げ場がないことだけは、互いに、分かっていた。

「好きです。俺と、付き合ってください」

 昨日の別れ際、キスに紛れて有耶無耶になった告白を、彼はどうやら、やり直しに来たらしい。いや、どちらかといえばきちんと回収しに来たと言った方が正しいかもしれない。どちらにしてもその真っ直ぐさが、このささやかな食卓の空気にじわりと熱を帯びさせる。

「あ、二回も聞けた」
「……何がですか」
「好きって」

 軽く返したつもりの言葉にホークスは一度だけ目を瞬かせた。それから、ついに箸を完全に床に置き視線を落として声を更に一段階、低くする。

「一回目は……ちゃんと返事、もらってなかったんで」
「え、そうだっけ? 私的には、ちゃんと——」

 そこで彼女はふと、昨日のやり取りを頭の中でなぞった。確かに「あなたがいい」とは言った。けれどその先「付き合う」という言葉に対して、明確な肯定を返したかと問われれば曖昧だったと言わざるを得ない。
 公安の話を混ぜたり、これからも世話になる、などと、逃げ道を残す言い方をした記憶がある。自分の不器用さが、今になって、胸に刺さった。ホークスは、その沈黙を急かさなかった。視線を向けたまま待つ。詰め寄らず、結論を迫らずそれでも距離だけは保ったまま。彼女が逃げることも考え直すことも許した姿勢だった。その余白が、彼女の中で散らばっていた感情を、ゆっくりと、ひとつの形にまとめていく。床に置かれた弁当の湯気は、まだ、消えきらない。その温度の中で、彼女はようやく、自分の本心から目を逸らさずにいられそうだと感じていた。

「……鈍感漫才のせいでね、ごめんね」

 軽く肩をすくめる彼女のその言い方は、自嘲に近く逃げでも照れでもあった。ホークスは思わず「鈍感漫才て」と喉の奥で小さく息を漏らした。否定するほどでもなく、かといって、受け入れるには、少し気恥ずかしい。口元に浮かんだ曖昧な笑みが、そのまま彼の気持ちを代弁していた。
 唐揚げから、ほのかに湯気が立ち上っている。部屋はまだ殺風景で、壁も床も、余白だらけだ。生活感と呼べるものはほとんどない。それでも、床に並んだ二つの弁当だけで、この空間はもう、『仮の居場所』ではなくなっていた。ここに腰を落ち着ける意思があり、誰かと、時間を共有する気配が、確かに息づいている。

「じゃあ、私も。改めまして」

 彼女がそう言って姿勢を整えるのを見て、ホークスも反射的に、背筋を伸ばした。促されたわけでもないのに、自然と居住まいを正してしまう。その動きには、相手の言葉を軽く扱わないという彼なりの、誠実さが滲んでいた。

「ホークスが好きです。元ヴィランですが、よろしくお願いします」

 深く下げられた頭。その所作には、冗談や照れ隠しの余地はなかった。彼女が顔を上げたとき、ホークスは一瞬、言葉を失った。そこにいたのは敵でも協力者でも、守るべき存在でもない。ただ一人の大人として、真正面から好意を差し出してくる相手だった。

「こちらこそ!どうぞよろしくお願いします!」

 気負いのない、しかし真っ直ぐな返事とともに彼も勢いよく頭を下げる。唐揚げ弁当の蓋がずれ箸が転がりかけるほどの角度だ。それがおかしくて彼女もつられるように、もう一度頭を下げる。顔を上げた拍子に目が合ってどちらからともなく笑いがこぼれた。唐揚げは少しずつ冷めていく。けれど今は、そんなことは、どうでもよかった。ホークスは「よし」と声を出し空気を切り替えるように軽く手を叩く。

「じゃあ、飯食いましょう。冷める前に」
「切り替えも、速すぎる男だ」
「いやあ、彼女との初めてのディナーがコンビニ弁当ってのも、なかなかですけどね」

 すみませんね、と言って眉を下げるが、言葉の端々には後悔よりも気恥ずかしさが滲んでいる。彼女が小さく笑ったのは「彼女」という言葉が、彼の口から自然に出た事に気づいたからだろう。ホークスも遅れてそれに気づいたらしい。自分の言葉を頭の中でなぞり直し、じわじわと、耳まで赤くなる。感情の切り替えは早いが、学習速度が同じとは限らない。むしろ、同じところで何度も躓く。そのたびに、真剣に向き合い直す。
 彼女はそんな横顔を眺めながら、静かに、箸を取った。床に座り、弁当を挟んで向かい合うこの距離が、もう特別なものになりつつあることを、言葉にせずとも理解していた。

「耳、赤いよ」

 そう指摘された瞬間ホークスは反射的に自分の両耳に手を当てて覆った。熱を持っている感覚はもう、今さら隠しようがない。鏡を覗かなくても分かるほど、内側からじわじわと滲み出ている。

「……分かってます。すぐ赤くなるの、どうにかしたいんですけど」

 苦笑い混じりの元ヒーロー声に、彼女は、笑いながら、ほんの少しだけ首を傾げてみせた。

「そのたびに、塞いであげよっか」

 軽い調子のはずだった。からかいに近い、何気ない一言。それなのに胸の奥がひどくざわつく。ホークスの脳裏に、昨日の海辺の光景が、やけに鮮明によみがえった。潮の匂い。風の音。外界を遮るように添えられた、温かい掌——。

「耳、塞ぐって……あの……」

 言いかけたところで、言葉が詰まる。この先、どう続ければいいのか分からなかった。思い出が先に立ち、声が追いつかない。

「そう、あの時みたいに」

 淡々とした返答が追い打ちのようにホークスの胸へと落ちてくる。それに耐えきれずホークスは思わず「ん"ん"っ!」と、やや大げさな咳払いをひとつ落とした。

「めっ……メシ、食いましょ!」
「はは。だね」

 話題を切り替えたのは明らかだったが、彼女はそれ以上、深追いしなかった。その距離感が今はありがたい。
 二人は向かい合い、また、弁当に箸を伸ばす。交わされる会話は驚くほど平凡だった。唐揚げの衣はどこの店が好みか。サラダのドレッシングは和風か洋風か。取り留めもない話題が続く。その合間に、ふとした拍子で指先が触れる。どちらも引かなかった。それだけで、この時間が偽物ではないと分かる。
 食べ終えた容器を片付け、床に残ったのは飲みかけのペットボトルのお茶だけだった。窓の外はすっかり暗くなり、見下ろす街にはオレンジ色の街灯が点々と灯っている。派手さはないが、落ち着いた夜の顔だ。ホークスは壁にもたれ、視線を宙に漂わせていた。考え事をしているというより考えがまとまらないまま沈んでいるといった方が近いかもしれない。

「明日、九時に家具届くんで。それまでは——」

 そこまで口にしてホークスは、言葉を切った。彼女が何気なく、スマホを確認する。表示された時刻は二十一時半。思っていたより、夜はずっと深い。その仕草を横目で追いながら、ホークスは続きを探した。だがうまく見つからない。言葉にしようとした瞬間、自分がどこへ向かおうとしているのかが、急に分からなくなった。
 このまま引き留めたいのか、それともきちんと区切るべきなのか。答えはまだ胸の奥で形を持たないまま、静かに揺れていた。

「ん? それまでは?」

 痺れを切らせたというよりも、様子をうかがうような声だった。その一言にホークスは、視線の置き場を失ったまま、わずかに泳がせる。

「いや……帰るタイミング、見失ったなぁ、と」

 冗談めかす余裕もなく、なんとも、正直すぎる言い方になってしまった。彼女はそのまま、間を詰めるでもなく「明日は早いの?仕事」と問いを重ねる。その質問にはほとんど反射で考えるより先に、首を振っていた。

「午後からです。なんで、家具届く時間には……一緒に立ち会えるかと」

 言ってから、自分でその言葉の意味をなぞる。「一緒に」——口にしてみると、妙に、現実味を帯びて、胸の奥が静かにざわついた。
 彼女は「そっか」と短い相槌のあと、少しだけ間を置いた。その沈黙が妙に整っていて逃げ場を与えてくれない。

「じゃあ、泊まっていく?」

 あまりにも自然な提案だった。引き留めるでも試すでもない。ただ今の状況を並べた先に当たり前の選択肢として置かれた声。「……はい?」と思わず、間の抜けた返事になった自覚はあったが取り繕う余裕はなかった。

「シングルだけど。ほら、ホークスが抜かりなく用意してくれた? 簡易マットも? あるし?」

 その言い方には、からかう形を装っていながら拒む余地を与えない、絶妙な、柔らかさみたいなものがあった。ホークスは、ゆっくりと、天井を仰ぐ。理性は、ここで帰るべきだと告げている。夜更けに長居する理由はないし、境界線は、守るべきだ。けれど同時に、この部屋を出たくないという感情も、はっきりと存在していた。どちらも無視できないまま思考だけが行き場を失っていきこの場所が、もう��帰る場所�≠フ顔をしている。

「俺が用意したマットに……俺が寝るんですね」

 ぽつりと零れたその言葉には半ば確認のような響きがあった。来客用として置いていったものに自分が収まるとは思っていなかった。もっとも、今は、背中の剛翼もない。シングルサイズで困ることはない——はずだ。
 いや、待て。そこに二人で、という考えが一瞬よぎり、即座に自分で打ち消す。そんな設計は、最初から想定されていない。落ち着け。ただ床で大人しく眠ればいいだけだ。
 内心の慌ただしさとは裏腹に、ホークスは降参したように小さく笑った。逃げる理由を探すよりこの空気に身を委ねてしまうほうが、今は楽で、そして、正直な選択だった。

「……じゃあ……お言葉に、甘えて」
「歯ブラシ、何本か買い置きあったし。タオルもあるよ。先にシャワー浴びてきて?」

 その一言で胸の奥の緊張がわずかにほどけた。
『ある』と言われたものの中に自分が使う前提が含まれている。その事実をホークスは必要以上に意識してしまう。彼女の生活の端に、一瞬でも、自分の輪郭が差し込まれたような気がして視線を持て余した。

「脱衣所に、大きめのTシャツ置いてあるから」
「え……着ちゃって、いいんです?」
「まだ一回も着てないし。どうぞ?」
「ありがとうございます。お借りします」

 ここで立ち止まれば、余計な想像が膨らんで、理性が追いつかなくなる。そうなる前に、動いたほうがいい。理性がまだ機能している内に身体を認識させる。今は、それがいちばん賢い選択だ。考えるより先に動いた自分の判断を、ホークスは少しだけ、褒めてやった。

「本当は、先にどうぞって言うべきでした?」
「ここはもう私の家だから。お客様が先でしょ」

 軽い言い回しだったが、距離の取り方は柔い。踏み込みすぎず、拒まない。その線の引き方に、ホークスは隠す気もなく、口元を少しだけ緩めて「なるほど。では」と小さく頭を下げる。大げさにならない程度の礼儀だけを添えて。

「お先に」

 バスルームへ向かう背中を彼女が見送っている気配があった。振り返れば何か余計なものがこぼれてしまいそうで、ホークスは、前だけを見た。
 扉が閉まり、しばらくしてシャワーの音が立ち上がる。白いタイルに弾く水音、配管を伝って、低く反響する響き。それらが現実として耳に届くたび、彼は深く息を吐いた。
 ここにいる。泊まる。同じ夜を、同じ空間で、過ごす。ただそれだけのことなのに胸の奥が落ち着かない。水音に重なって、自分の鼓動がやけに近く、大きく感じられた。
 ——落ち着け。湯気の向こうでは、まだ、何も始まっていない。けれど確かに何かが静かに動き出している夜だった。

 十五分ほどでシャワーを終えて、ホークスは、タオルで髪を拭きながらリビングに戻ってきた。用意されていた、真新しいTシャツを手に取ったときは一瞬だけ迷った。下を履かないのもどうかとは思ったが、彼女が着るには、やや大きいその一枚は結果的にちょうどよく、ボクサーパンツの存在を曖昧に隠してくれた。
 湿った髪のせいか仕事中の張りつめた雰囲気は影を潜め、輪郭の柔らかい空気をまとっている。彼は、無意識の内に息を整え足音を抑えた。この夜を、壊さないように。

「お待たせしましたぁー」

 緊張を誤魔化すつもりで、軽く伸ばした声は、思った以上に部屋に響いた。反響した自分の声にホークス自身がわずかに肩をすくめる。今のは、少し浮いていたと自覚しながら。

「うん、おかえり」

 それでも返事は短く柔らかい。それきり会話は続かず部屋に小さな間が落ちた。空気が止まったというより、何かが言葉になるのを、待っている沈黙だった。
 首にタオルを引っ掛けたまま立つホークスは、彼女の視線が定まっていないことに気づき、首を傾げる。

「どうかしました?」
「……あのさ、さっき」
「はい」
「私の家とか……ちょっと偉そうに言っちゃったけど」

 そこで一度、言葉が途切れる。彼女は、慎重に続きを選んでいるようだった。ホークスはそれを急かさない。

「家賃とか、光熱費とか。ちゃんと払うよ?」

 その一言で、ホークスの胸の奥に溜まっていた息が抜けた。ほとんど反射的に息を吐き「いらんですよ」と言葉を返していた。迷いはなかった。躊躇も、計算もない。考えがまとまる前に、感情だけが前に出た。そしてそのまま真顔で続ける。

「彼女にお金なんて、出させるわけないじゃないですか」

 言葉の並びは完璧なはずなのに言い切ってから耳の奥がまたじわりと熱くなる。自覚した時点でもう、取り消しは利かなかった。

「いや、そういう意味じゃなくて」
「……」
「なんて言うか、ヒモみたいじゃん、それだと。仮釈放までさせてもらったのにさ」

 軽く言ったつもりなのだろうが、その口調が、かえって、胸に引っかかった。ホークスはあからさまに眉をひそめ、無意識に腕を組む。

「ヒモて……」

 どうしても軽く受け流すことができなかった。彼女がそう口にした瞬間、胸の奥に小さな痛みが走った。その正体を掴むより早くホークスは理解してしまう。自分がそう扱われたことよりも彼女自身が自分をそう扱っていることが思った以上に堪えたのだと。ホークスは少し黙り込み、視線を宙に漂わせる。言い返したいわけじゃない。ただこのまま曖昧に流してしまうのが、どうしても、嫌だった。やがて何かを思いついたように、ホークスは「じゃあ、こうしましょう」と人差し指を立てる。声は自然と、仕事のときのそれに寄っていた。感情を整理するときの、彼なりの癖だ。

「生活費は要らんです。その代わり食費は折半」
「うん?」
「必要な物も、次からは一緒に決める。光熱費はまあ……おいおい考えましょ」

 言いながら自分でも条件を並べ替えているのがわかる。彼女に��与える側�≠ナいたい気持ちと、対等でいたいという思い。その二つが、胸の中でせめぎ合って、どちらも引かなかった。

「それなら、ヒモでも何でもないでしょ」

 最後は少しだけ口調を和らげてそう付け足す。ホークスは彼女の反応を待ちながらタオル越しに髪を押さえた。耳の熱はまだ引いていなかった。
 ややあって、沈黙が続くのに耐えきれず、彼は言葉を継いだ。少し、早口になる。

「まあ、それはあなたが社会復帰して今の生活に慣れてからのお話でして」
「え?」
「実際、仮釈放中の生活費とか住居費は、制度として支給されてるんですよ」
「へえ」
「俺は、その窓口を通しただけで」
「……だけで?」

 思いがけず食いつかれてしまった。まさか問い返されるとは想定もしていなかったホークスは、ほんの一瞬だけ言葉に詰まる。視線を彷徨わせ、それから覚悟を決めたように短い言葉をぽつりと落とした。

「……だけで。」

 会話終了——言い訳が破綻した。苦しすぎる。自分でもわかるほど説明が雑だった。言ったそばから、これは駄目だとわかる。逃げ腰で、何より自分でも、納得していなかった。
 ホークスは、苦笑いが漏れそうになるのを堪えながら息を吐いた。そして結局、観念したように後頭部を、がりがりと掻く。言い訳は、もう通じない。それでも、この距離だけは守りたかった。

「やけん、気にしないでください」
「……」
「正直に言うと……近くに住んでほしかっただけです。俺が」
「え?ホークスのマンション、この近くなの?」

 問われてホークスは一瞬だけ視線を逸らした。耳を赤くしたまま、ばつが悪そうに「……二駅、先です」と渋々口を開く。徒歩でも二十分ほど。彼女の生活圏としては、十分すぎるほど近い距離だった。

「そう、なんだ……。あ、だからこんなに家賃が高いところ——」
「まあ……それもあります」
「……」
「あと、何かあったときに、すぐ行ける距離が、よかったんで」

 言い訳めいた調子で言葉を重ねる。理由は合理的だ。けれど、それだけではないことを彼自身が一番よく、わかっている。本心はもっと単純で、幼いほど率直だった。遠くに置きたくなかった。ただそれだけだ。今の表情がそのすべてを語ってしまっている。

「……重いですか、これ」

 思わず漏れた、本音だった。好意が負担になることが怖かった。守るつもりで差し出した距離が彼女の足を縛るものになるのではないか——その想像が、胸の奥を冷やした。だが彼女は、即座に首を横に振る。表情は柔らかく、穏やかだった。

「ううん。まだ、私をよく思ってない人がいないわけじゃないと思うし」
「……」
「すごく安心する。ありがとう」

 その一言で胸に溜まっていた緊張がゆっくりとほどけていった。ホークスは濡れた髪が乾かないままで肩の力を抜き、ようやく息をつく。守れる距離に置けた。それだけで今夜はもう十分だったのだ。

「そう言ってもらえると助かります。……じゃ、シャワーどうぞ」
「あ、うん。行ってくるね」

 短いやり取りのあと彼女は控えめなスリッパの音を残してバスルームへ向かう。ドアが閉まり、ほどなくして、水の落ちる音が夜の静けさに溶け込んでいった。
 一人になった部屋は、思った以上に広い。ホークスは、簡易マットの上に腰を下ろし、あぐらを組んだまま、ゆっくりと視線を巡らせる。壁際に残る、公安から手配させた段ボールの角。彼女が選んだ、淡い色の膝掛け。最小限の家具。それらすべてが新しく、同時に、ここから彼女の生活が始まるのだという事実を、静かに主張していた。
 胸の奥に遅れて重みが落ちてくる。守りたい。近くにいたい。何かあればすぐに駆けつけたい。言葉にすれば聞こえはいい。けれど、その奥にはもっと、剥き出しの感情が潜んでいる。

 ——もし、あのとき。もし、あの判断が違っていたら。もし自分がいなければ。幾度も反芻してきた『もしも』が、形を変えないまま、ここまでついてきている。
 彼女は笑って「安心する」と言った。その言葉が、ひどく、胸に刺さった。安心させているのは本当に自分なのか。それとも自分がそう信じたいだけなのか。彼女の人生の安全圏を自分の罪悪感で囲い込んでいるだけではないのか——。そんな疑念が、翼のない背中にじわりと重なる。
 ホークスは首にかけたタオルを指で掴み、ゆっくりと、息を吐いた。シャワーの水音が、一定のリズムで、続いている。それは、彼女が無防備にここにいる証であり、同時に、もう戻れない場所から遠ざかってしまった証でもあった。

「……彼女、か」

 思わず零れた声は頼りなく誰に向けたものでもなかった。口の中で転がすように、その呼び名を確かめる。責任の重さと許されているという錯覚とが、判別できないまま混ざり合っている。
 耳の奥がまた、じんわりと熱を帯びる。それは照れではなく、もっと鈍く処理しきれない感情の名残だった。
 彼女が戻ってきたら、きっと自分はまた、軽い調子で笑うだろう。大丈夫ですよ、と。問題ないです、と。いつもと変わらない声色で振る舞う。その選択が正しいかどうかは、まだわからない。ただひとつ、確かなのは、この部屋に満ちている静けさが、いまの彼に猶予を与えてくれているということだけだった。
 今夜はまだ踏み込まなくていい。そう言われている気がして、ホークスはマットの上で、背筋を伸ばし、再びシャワーの音に意識を預けた。

 やがてバスルームのドアが静かに開く。ラフな部屋着に着替えた彼女が現れ、まだ水気を含んだ髪が肩口に沿って落ちていた。濡れたままの毛先が彼女の動きに合わせてゆるく揺れる。そのわずかな湿り気が部屋の空気をほんの少しだけ変えたように感じられた。未だ簡易マットに座っていたホークスが、その気配に気づいて振り向く。

「ドライヤー、使いました?」
「あ……どこだっけ。確か、この辺に……」

 段ボールの山に近づき、彼女はしゃがみ込んで中を探り始める。引っ越し直後特有の雑然とした光景の中で、その仕草だけがやけに無防備に映った。慣れない部屋、まだ定位置の決まらない生活用品。そうしたもの全部を背負ったまま、彼女はここにいる。

「引越しあるあるですね。……貸してください、乾かしますよ」
「え?」

 呆れと可笑しさが入り混じって、ホークスは、小さく息を吐いた。それから、戸惑いの声を背に柔らかく笑い、マットの上から手招きをした。

「ほら、座って。すぐ終わりますから」

 少し迷ったあと、彼女は小さく頷き、マットの端に、遠慮がちに腰を下ろす。距離は近いのに、触れないまま保たれている間合い。
 背後に回ったホークスがドライヤーを受け取りスイッチを入れる。低く安定した音が立ち上がりまずは毛先から指を通しながら風を当てていく。その動きは思っていた以上に慎重だった。絡まりやすい部分を避けるように、同じところを何度も撫でる。力を入れすぎないように、引っかけないように。彼女の髪が彼の指の間をすり抜けていくたび、意識がわずかに引き戻される。

「……慣れてるね」
「まあ。任務先で、いろいろと」

 冗談めかすこともできたはずなのに彼はそうはしなかった。軽く済ませるには、この時間は少し優しすぎたから。風の音に混じって彼女の呼吸が聞こえる。肩が上下するリズムが、ドライヤーの規則的な音と重なって、部屋の中に、ゆるやかな均衡を作っていた。

「……そんな任務、ないでしょ」
「あー、バレました?」

 髪の根元に近づくにつれて、ホークスは自然と風量を落とす。指先が頭皮に触れないよう、ぎりぎりの距離を保ちながら。触れたい衝動を抑えているのか、あるいは触れない選択をしているのか自分でも判然としない。

「熱くないです?」
「ううん、大丈夫」

 短いやり取りのあと、再び沈黙が戻る。彼女の髪は、少しずつ水分を手放していき、指に触れる感触が、濡れた重さから、軽い抵抗へと変わっていく。その微かな変化をホークスは、無言のまま追いかけるように確かめている。

「……髪、綺麗ですね」

 考えるより先に声が落ちた。自分でも驚くほど素直な音だった。乾くにつれて髪は柔らかく揺れ肩口からこぼれる光を受け止める。理由もなく、目を離しづらかった。

「ありがとう。でも、こうしてもらうの、初めてだから……ちょっと落ち着かない」

 その言葉に指先がほんの一瞬ためらう。けれどすぐに元の動きを取り戻した。特別な意味を持たせてしまわないように、丁寧さだけを残して。

「……初めて、いただきましたぁ」

 言い換えたつもりの声はわずかに弾んでいる。自覚はあったが抑え込むほどの余裕はなかった。

「……嬉しそう」
「嬉しいですよ」

 隠す気も否定する理由もなかった。彼女の背後で、ホークスは困ったように眉を下げる。表情を見られていないことが、かえって救いだった。

「顔見なくても分かるんだよね」
「そんなに出てます?」
「出てる」

 やわらいだ声色に胸の奥が少しだけ温む。それ以上は何も言わず、指の力をわずかに抜き、ドライヤーの音が、夜のリビングに穏やかなリズムを刻んだ。
 真っ白な壁に映る二人の影は、近づきそうで、決して触れない距離を保っている。その曖昧さが今の関係そのもののようで、ホークスは無意識に目を伏せた。やがて、彼女の髪が、十分に乾いたところでスイッチを切る。

「はい、終わりです」
「ありがとう。……ホークスは?」

 問いかけられて、ホークスは「え」と、自分の毛先をつまみ、肩をすくめた。

「俺はこのまま寝ます」
「半乾き派?」
「大雑把な人間なんで」

 くす、と彼女が笑う。ホークスは、それに少し眉を吊り上げてコンセントを抜き手早くコードをまとめてドライヤーを戻した。

「名前さんは、ちゃんと乾かさんと駄目ですよ。傷むんで」
「詳しいね」
「ただの聞きかじりです」

 いつもの軽い調子で会話は自然に流れていく。だが、彼女がふと視線を落とし、こちらに身体を向け、何かを思い出したように唇を開いた瞬間、ホークスは、その空気の変化を感じ取っていた。言葉が続く前の、その、わずかな間に、胸の奥が静かに身構える。

「あのさ……」
「はい」
「ちょっと、話しておきたいことがあって」

 その一言で、部屋の空気が静かに張り替えられた。ついさっきまで漂っていた柔らかさが引き、代わりに輪郭のはっきりした沈黙が満ちてくる。ホークスは無意識のうちに背筋を伸ばしあぐらを組んだまま正面から、彼女を見た。ここで軽口を挟むべきではない。理由もなくそう感じていた。
 彼女は言葉を探しているようで唇を噛み、少しだけ間を置く。だがホークスはそれを埋めようとしなかった。急かさず、逃げず、ただ待つ。その姿勢だけは、昔から変わらない。
 ドライヤーの余熱がまだ部屋のどこかに残っている。夜は深く、この先に続く一言で何かが静かに形を変える。そんな予感だけが二人のあいだに横たわっていた。

「どうしても……ホークスって、昔から呼び慣れてて」

 彼女は視線を泳がせながら、言葉を選ぶように続けた。ヒーローとヴィラン。その境界がまだ、明確だった頃から積み重なってきた時間の話を、過去を、ひとつずつ撫でるように。

「私たち、あの頃からずっとそうだったでしょ。ヒーローだったときもヴィラン側にいたときも」

 ホークスは何も言わず小さく頷いた。肯定でも否定でもない。ただ、話を受け取るための合図。

「でも……やっぱり、嫌かなって、ふと考えて。今でも『ホークス』って、呼ばれるの」

 その名が背負っているものを、二人とも、よく知っている。最後の戦いで失った個性。もう存在しない背中の翼。世間では今なお『ホークス』の名で語られ続けているが、それはかつての栄光や象徴であると同時に取り戻せないものの残骸でもあった。ホークスは視線を床に落とす。そして、しばらく黙ってから、静かに口を開いた。

「嫌じゃないですよ。呼ばれ慣れとるし……今も外じゃ、その名前で通してますから」

 そこで言葉を切る。膝の上に置いた手が、ゆっくりと握られる。続けるか、迷うような間のあと少しだけ声の調子を落とした。

「ただ……いつかは、名前で呼んでもらえたら、とは思ってましたけど。啓悟、って」
「呼び捨て?」

 その問いに、空気が微かに揺れる。ホークスは一瞬固まり、反射的に視線を逸らして首の後ろへ手をやった。

「くんでも、さん付けでも。……呼び捨てでも。好きに、呼んでくれたら」
「んー……啓悟さん、啓悟くん……啓悟——。」

 三つ目に辿り着いたあたりでホークスは完全に耐えきれなくなった。最後の呼び方だけがやけに胸の奥まで届いてしまい、思わず顔を背けた。

「……全部、破壊力が強すぎるんですけど」
「え? なにが?」

 ホークスは赤みを帯びていく顔を背けたまま、左手の甲で、口元を覆った。

「名前です、名前。自分の名前がこんな効くとは思わんかった」
「……え、今ので?」

 小さく、しかし、はっきりと頷く。かつては、最前線で、数えきれない修羅場をくぐり抜けて、嘘と裏切りの中で生き延びてきた男が自分の名前ひとつで思考を止めている。その事実が彼女には少しだけ可笑しく、同時に胸の奥をくすぐった。
 ホークスは深く息を吐きようやく視線を戻す。その目は、どこか照れと、逃げ場のなさを孕んでいた。

「じゃあ……呼べないね。残念」

 わざと軽く落とされたその一言に、伏せていたホークスの顔が、勢いよく上がった。反射に近い動きだった。考えるよりも先に感情のほうが反応してしまったらしい。

「いや、呼んでください。慣れたいんで」
「ははっ、必死じゃん」
「必死ですよ」

 笑いに逃がす余地はなかった。声の調子は穏やかなままだが、その目は真剣で引き下がる気配もない。冗談めかすことすらせず、ただ事実として差し出される本音。その、真っ直ぐさに、部屋の空気がわずかに張る。
 先に視線を外したのは、彼女だった。胸の奥に広がる熱を持て余し、誤魔化すように指先を握り込む。呼び方ひとつでここまで心が揺れる理由を彼女自身まだ整理できていない。ただ、今までと同じ距離ではいられない。その感覚だけが、はっきりと残っていた。沈黙の中で、二人はそれぞれ次の一歩の重さを測っている。

「……とりあえず、寝よっか」

 話題を切り上げるような一言だった。踏み込みすぎた空気に、彼女自身が気づいている。だが、ホークスは、そのまま流すことができなかった。こういうところだけは、妙に見逃さない。曖昧にされると分かっていても置いていかれたままにはできない性分だ。

「今の、結論出てないですよね」
「ゆ、ゆっくり考えるの! なんて呼ぶかは!」

 やや早口でこれ以上は踏み込まないで欲しいと制するような声だった。ホークスは何か言いかけて唇を開きかけるが、そのまま言葉を飲み込む。不満がないわけではない。それでも押し切るほどの勢いも覚悟もなく、曖昧な感情だけが胸の内に残った。

「……わかりましたよ。ゆっくり待ちます」

 意外なほど素直に引いた。その様子に、彼女は小さく満足して「よろしい」と返す。
 床に敷かれた簡易マットは一枚だけ。シングルベッドと同程度の幅で二人分としては心許ない。ホークスはそれを見下ろしたまま少し考え込む。

「俺、床で寝ますね」
「いいよ。くっついて寝ようよ」

 空気が一瞬だけ、張り詰めた。ホークスの目が大きく見開かれる。昨日、車内で、理性の限界を口にしていた男に向ける言葉としてはあまりにも無防備だ。

「剛翼もないし、密着できるよ?」

 その言葉に彼の意識が一瞬、失われた背中へと引き戻される。かつてはあったもの。今はもう、ないもの。だがそれは痛みではなく、彼女なりの配慮だとすぐに理解できた。「もう邪魔するものはないでしょう」と、そう言われている気がしてホークスは、小さく息を抜く。

「……上手いこと言いますね」

 観念したようにマットの端へ横になる。照明が落とされ窓の外から街灯の白い光が差し込んだ。
 カーテンのない部屋は、夜にしては、不思議と明るい。

「……どうぞ。俺、端っこで寝るんで」
「いいよ、もっとこっち来ても」
「……っ」

 喉の奥で言葉が詰まる。彼女はそれに、気づかないふりをして、天井を見上げたまま、身じろぎひとつしない。あまりにも近すぎる距離に、ホークスは身動きの取り方を見失いながら、それでも逃げなかった。ただ静かに彼女の体温が隣にあることを受け入れる。
 今夜はそれでいい――そう、何度目かの確認を胸の内で呪文のように繰り返した。

「カーテン、まだ届いてないから明るいね」
「明日届きます。それまで我慢ですね」

 彼女が横を向いた気配は、確かめるまでもなく近さで伝わってきた。衣擦れの微かな音、マットがわずかに沈む感触。距離の短さに、ホークスは一度だけ、呼吸を整える。やがて、仰向けのまま強張っていた身体を意を決したようにゆっくりと横へ向けた。彼女と向き合う方向へ。視界の端で輪郭が淡く滲む。

「あ、横向いた」
「こっち、向いとって」
「私はずっと向いてたよ?ホークスがガチガチで仰向けになってただけ」
「……緊張、しとったと」

 少し、拗ねたような声。小さく抗議する声は、照れを隠しきれていない。彼女が思わず、笑いを零すのを、ホークスは間近で感じた。
 ようやく重なった視線のあいだを、街灯の淡い光が満たす。触れてはいないのに近さだけで胸が騒ぐ。互いの体温がはっきりとわかる距離。眠るには少しだけ近すぎる。それでも、どちらも離れようとはしない。壁に映る影は、ほとんど一つに重なっていた。
 結局、名前の呼び方は、今はまだ置いたまま。ただ同じ夜を、同じ速度でやり過ごす。

「ねえ、今は?」
「ん?」
「まだ、緊張してる?」

 相手の輪郭がようやく判別できるほどの暗がりで、彼女の顔を見つめていると、不意にその声が落ちてきた。問いというよりも、気配を確かめるような柔らかさだった。

「……さっきよりは、だいぶマシになりました」

 自分でも驚くほど率直な返答に、彼女は小さく目を細める。

「カーテンのない夜の街の光も、なかなかロマンチックだね」

 自然とそんな発想が出てくるところがなんとも彼女らしいと思う。ホークスは喉の奥で短く息を漏らして笑った。

「カーテンない理由がそれやったら、だいぶ格好つくんですけどね」
「はは。単純にまだ届いてないだけっていうね」

 軽い応酬が途切れ、静けさが戻る。その中で、ホークスはほとんど考えずに手を伸ばしていた。指先が、彼女の頬にそっと触れる。街灯の光が、二人の横顔を淡く縁取る。近い——。互いの息の温度が、伝わるほどに。

「……キス、してもいいですか」

 声は低く、慎重だった。衝動が先に立つのを、意志で抑えている響き。欲よりも、彼女の反応を確かめたい気持ちの方がはっきり前に出ていた。

「許可制なんだ」

 返ってきた声に拒む色はない。からかうようでいて、どこか息を潜めた声音。ホークスは親指で彼女の頬をなぞった。触れ方はあくまで穏やかでいつでも退ける余地を残している。

「許可制にしとかんと……歯止め、きかんくなるんで。俺が」
「そうなの?」
「そうなの」

 距離を詰めると額と額が軽く触れ合う。呼吸が混ざり、相手の温度が思った以上に近いことを、改めて知る。そこでホークスは、一度だけ、息を整えた。

「嫌やったら、止めます」
「嫌なら、引っ叩いてる」

 短い返答に十分な許しが含まれていた。しかしそこで彼女の呼吸がわずかに揺れるのを感じ取りホークスは動きをさらに遅くして、吐息のような声を落とした。

「……いい?」
「……いいよ」

 その一言が落ちた瞬間、最後の隙間が消えた。昨夜の車内のような勢いに任せた一瞬ではない。触れる直前で一瞬だけためらい、それから、ごく軽く唇を重ねる。確かめ合うだけの、短いキス。それでも離れてなお余韻は消えなかった。街灯の薄い光の中で、影が静かにひとつに溶ける。

「……今度は?」

 彼女が小さく問う。声は穏やかで期待と警戒が同じ重さで含まれていた。

「今度は……興奮してます」
「ばか」
「うそうそ。緊張します、やっぱ」

 自分でも意外なほど率直な言葉だった。彼女はそれを受け止めるように静かに笑い二人は自然と触れ合わない程度の距離へと戻る。ホークスは、仰向けになり、天井へ視線を向けながらも、その端で、確かに彼女の気配を感じ取っていた。すぐ隣にある温度と呼吸だけが、はっきりと分かる。部屋は相変わらず明るい。カーテンのない窓から街の光がそのまま差し込み、これでは本来、眠りにくい夜のはずだった。それでも不思議と心は、落ち着いている。
 まだ決めていない呼び方も、言葉にしていない先の約束も、今は、無理に触れなくていい。ただ互いの存在だけが確かな重みをもって、同じ夜を静かに支えていた。


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