しばらくのあいだ二人はなにも話さなかった。しかしその沈黙は気まずさではなく、言葉が追いつくのを待つための静けさだった。ややあって、彼女が小さく身動ぎ、また横を向いた気配を感じ取る。今度はそれに合わせるように、ホークスも自然と身体の向きを変えた。どちらも目は閉じていない。互いの瞳に街灯の光が映り込み、揺れる小さな点が、呼吸のたびに瞬いている。

「私さ……」

 囁くような声だった。誰かに聞かせるためではなく、ただ二人のあいだで、共有するためだけの音量。ホークスはその声に応えるように身動ぎもせず、静かに、耳を傾ける。いったん離していた指先が思い出したように彼女の頬へ戻り確かめるように、そっと触れた。その温度を逃がすまいとするかのように、今度は離れようとしなかった。

「出会ったとき。ヴィランだった頃からね」

 言葉はそこで途切れ続きは一度、息に溶けた。あの頃の名前も立場も危うさも、すべてを含んだ沈黙が二人のあいだに静かに落ちる。ホークスは瞬きすら忘れたまま、ただ待った。急かさない。それだけはしないと、どこかで決めていた。
 夜はまだ、深くなり切らない。カーテンのない窓から差し込む街の光が二人のあいだに細い橋のように伸びている。

「ホークスの瞳、向日葵みたいで綺麗だなって、思ってたの」

 そのひと言が、夜の空気を、静かに震わせた。ホークスは息を詰めて、言葉を探すより先に喉が鳴る。暗がりの中でもはっきり分かるほど、彼の瞳はわずかに、揺らいでいた。街灯の光を映したその色が彼女の言葉に呼応するようにしっとりと潤む。

「……向日葵、ですか」

 掠れた声で復唱する。そこには戸惑いと、受け取りきれない感情が入り混じって、滲んでいた。

「そう。ひまわり」
「初めて、言われました」
「今日、カーテンなくてよかった」

 意味はすぐに理解できた。明るいから見える。見えるから伝えられる。ちゃんと見て、綺麗だと思ったから言葉にできたのだと。裏や余白を読むことに長けた男だからこそ、今夜の彼女の言葉が場つなぎでも軽口でもないことが、嫌というほど分かってしまう。胸の奥が、少し遅れて軋んだ。

「……ずるか、ですよ。ほんと」

 声が微かに震えたのを彼女はきっと感じ取っただろう。「狙ってないよ」と、穏やかで逃げ道を用意しない声が返ってきた。

「でもね、いつかは伝えたいなって思ってたの」

 ホークスは小さく息を吐き彼女を引き寄せる。迷いのない動きで、腕に力が入る。彼女の顔が、肩口に埋まり、体温が直に伝わってくる。強いが乱暴ではない。抱きしめるという行為そのものが今の彼の精一杯だった。言葉は出てこない。肩に触れる温度が熱を帯び、胸の奥に溜まったものが形を持つ直前で、留められている。涙と呼ぶにはまだ早い。けれど、そこに至る寸前の何か。

「連合におったときから、ずっと……そう思ってくれたと?」

 胸の奥でほどけきらないものを確かめるようなくぐもった声だった。問いの形をしていながら、実際には答えよりも、彼女の口からもう一度その事実を聞いておきたい、という欲求に近い。

「……トゥワイスにだけ、言ったことがあって」

 その名が落ちた瞬間、ホークスの身体がほんのわずかに強張った。
 トゥワイス。本名、分倍河原仁。個性は一つを二つにする��二倍�=B敵連合の一員で、明るく、妙に人懐こくて、どこか間の抜けた調子の裏に、不器用なほどの優しさを抱えていた男。まちがいなく『良い人』だった。

「『ここだけの話だけどさ。ホークスって、いいやつだよなァ』って、言われたんだよ」

 ホークスはゆっくりと彼女から腕を緩め、顔を上げた。至近距離で彼女の目を捉えたまま、低く続ける。

「……それで?」
「うん。ホークスの瞳って、向日葵みたいで綺麗だよね、って言ったらさ」

 ホークスの喉の奥が、きゅ、と鳴った。抑えきれない反応は距離の近さゆえに、そのまま彼女に伝わってしまう。

「名前ちゃんさァ、なんでヴィランなの?って。本気で、不思議がってた」

 言葉が置かれたあと、部屋には沈黙が残った。重苦しいものではない。ただ、過去を過去として抱え直すために必要な、静かな余白だった。

「アイツにそんなふうに言われる資格、俺には、なかったかもしれません」
「イイヤツ?」
「はい」

 自嘲でも、懺悔でもない。長い時間、胸の奥に沈殿していた事実を、そのまま掬い上げただけの声音だった。
 ホークスは「でも」と、そこで言葉を切ると、彼女の頬へもう一度そっと指先を戻し、確かめるように、触れ直す。

「あなたが、そう思ってくれとったことまで否定する気は、ないです」

 指先に伝わる微かな震え。それが、彼女のものなのか、自分のものなのかは分からない。ただ、そのどちらでもよかった。今は、同じ夜に、同じ重さで立っている。その感覚だけで十分だった。

「ひとつ、聞いてもいいですか?」
「なあに」
「どうして、ヴィランに?」

 その言葉に、彼女は一瞬だけ呼吸を深くする。軽い問いかけの形をしていながらも、その声には探る色も試す色もなかった。ただ知りたい、それだけの温度で向けられている。
 驚きはない。いつかは向けられると思っていた問いだったからだ。ただ、それが今、この距離で来るとは思っていなかっただけで。

「さぁ。戦うことより、守りたかったからかな」
「ヒーローになるのと、なにが違うんです?」
「うーん……目的の、違い?」

 曖昧な答えを選びながら、嘘はつかなかった。言葉を濁したのではなく削ったのだと彼女自身が分かっている。そして彼女は、間を置かずに追いかけてくる。

「じゃあ、ホークスは?どうしてヒーローに?」
「……看板と、順番、ですかね」

 ホークスは少し考えてからそう言った。慎重に考えながら話す癖が、こんなところで顔を出す。

「ヒーローは先に正しさを掲げる。俺は……先に手を伸ばしたかった」
「……」
「誰にどう見えるかよりも、間に合うかどうかを選んだだけです」
「ふうん」

 彼女は短く息を吐く。その声音に、否定は混じっていない。納得とも違う。ただ、受け取った、という反応だった。

「……変なの」
「変でしょうねぇ」

 そう答えてホークスは彼女を抱いたまま天井を仰ぐ。片腕で目元を覆うと、視界がわずかに暗くなる。光を遮ったはずなのにその闇の中に一つの声が浮かび上がった。
 「ホークス!」——何の含みもなく、軽やかに名前を呼ぶ響き。笑いながら、それでいて真実を突くような、問いを投げてくる声。ホークスは、何も言わなかった。代わりに抱きしめる腕に少しだけ力を込める。失ったものも背負い続けてきた罪も、ここで言葉にするつもりはなかった。今はまだ、夜がそれを許さない。
 カーテンのない窓から差し込む光が二人の影を同じ方向へと伸ばしている。過去を共有しているわけではない。それでも同じ場所に立って、それぞれの過去を見つめている。その静かな並走が、今は必要だった。彼女の体温が、腕の中で確かに息づいている。守る理由はもう説明できないほど単純で、同時に、手放せないほど重かった。

「——はい、この話はおしまい」

 彼女が、腕の下から目だけを覗かせる。話題を畳むための、彼女なりの合図だった。それでも、彼女は分かっている。ここから先へ進めば、この男は今夜もきっと、眠れなくなる、と。

「ねえ?」
「はい?」
「急にさ。全然、目を合わせてくれないのはさ、どうしてなの?」

 わざと明るくした声だと、ホークスにはすぐにわかった。空気を軽くするための調子。その裏で彼の反応を静かに測っている。
 腕をどけると、視界が開ける。目元が少し赤い気がして、彼女に気づかれたくなくて、思わず、視線を落としかける。それでもその声につられるように口元が緩んだ。

「目ぇ合わしたら、余計なことまで考えそうで」
「ふうん」

 短い相槌のあと、彼女は何も言わずに待った。逃げ道を塞がない彼女なりのやり方だ。ホークスは観念したように顔を上げて、真正面から彼女を見る。向日葵色の瞳——カーテンのない窓越しに差し込む街灯が金色を透かしている。近くで見るほどその色は、単純じゃない。光を含んで深く、柔らかい。

「俺も……もっと早く気づいとけばよかった」
「何に?」

 ホークスは、鼻で小さく笑う。それは、彼女に向けたものではなく、自分自身への苦笑だった。

「全部ですよ」
「便利な言い方」

 言い返されて、ぐっ、と言葉に詰まる。普段は目ざとく、耳聡いくせに、こういう場面になると語彙が途端に、追いつかなくなる。言い訳めいた説明をするほど、何かがこぼれ落ちそうで。

「ね、私の瞳もさ。光の加減で、ちょっとグレーっぽく見えること、あるんだよ?」

 ホークスは自然と顔を近づけ、彼女の瞳の奥を真剣に覗き込んだ。街灯の反射が、金色の輪郭を縁取って揺れている。

「……嘘ですね」
「もー、信じた顔してたくせに」
「見つめられたら、見るに決まっとるでしょう」
「……はーい、嘘です」
「信じちゃいましたよ」
「私にはすぐ騙されそう」

 呼吸が混ざるほどの距離で二人は見つめ合ったまま、動かない。視線が絡むだけで、胸の奥が、忙しくなる。言葉にしない感情が、目の奥でぶつかっては形を変えて、静かに膨らんでいく。
 ホークスは、その視線を逸らさないまま、息を整えるように小さく吐いた。

「嘘ってわかっとっても、見ますよ」
「見つめて欲しくて、嘘ついたの」
「……ヴィランめ」
「なにが?」
「そういうとこ」

 彼女は何も返さず、ただ、少しだけ笑って彼の胸元に額を預けた。その重みが確かな現実として伝わってくる。今ここにいるという事実を、否応なく思い出させる温度。ホークスは迷いなく腕を回した。今度は、逃げるためじゃない。確かめるために、抱く。しばらくして、胸の奥から零れるように、ぽつりと言った。

「……これ、寝れんやつですね」
「寝たら、もったいないかもね」

 ホークスは思わず、息を吐いた。それは、諦めにも似ていて、それでいてどこか満ち足りた吐息だった。明るいままの部屋で、夜だけが静かに、深まっていく。

「明日、仕事なんだけどなぁ……」
「知ってるよ」

 言われる前から分かっているよ、というような声音だった。ホークスはついに観念したように、肩の力を抜いて笑う。

「でもさ。カーテンのない暗がりで、こうして、見つめ合えるのは、今日だけだから」

 感心なのか、降参なのか。自分でも判別がつかない表情のまま、彼は目を細めた。逃げる理由はいくらでも思いつくのに、いまはそれを使う気が起きない。

「じゃあ、目に焼き付けときます」
「うん」
「……」
「もう、大丈夫なの?」

 彼女の問いは軽く、けれど逃げ場を残さない。ホークスはもう一度、彼女の顔を覗き込み、眉をわずかに持ち上げた。

「何がですか?」
「キス。しなくても」
「……する派です」
「する派党でしたか」

 その言い回しに、ホークスは一瞬だけ真面目な顔になる。いつものように冗談で返すには、胸の奥が騒がしすぎた。

「党名は『名前さんとしかしない党』です」
「はははっ! もう、最高」

 笑いの余韻がまだ空気に残っている。そのまま彼女が仰向けになると、二人のあいだに、ほんのわずかな距離が生まれた。それは一瞬に過ぎないはずなのに、ホークスには、無防備すぎる空白に見えた。支えていた腕が離れ、温度が腕の中から零れる。逃げたわけじゃないと、頭では理解している。それでも、胸の奥が勝手にざわついた。
 ホークスは眉を寄せたまま、感情を隠すこともせず、自然な流れで彼女に身を寄せる。覆いかぶさる、と言うほど近づかない。けれど、逃げ場を残しつつ、視線だけは外さない位置。彼女の上に影が落ちて、マットがわずかに沈む。布の擦れる音が、耳元で静かに鳴った。

「笑ってごまかして、逃げんでください」
「え、だって、おかしくてさ……」
「そういうとこです」

 両手を彼女の頭の横についたまま、ホークスは動かなかった。距離は、呼吸が触れるほど近い。逃げ道は理屈の上では残しているのに、実際には逃げ場がない。そのことを、彼女自身が一番よく分かっている顔だった。
 彼女は瞬きを一つ、何か言いかけて結局、口を閉じる。それでも、視線だけは逸らさない。その沈黙が今の彼には十分すぎる答えのようなものに思えた。

「……ほんと、ずるい人ですね」
「まだ言う?」
「言います。何回でも」

 声は低く揺れはない。冗談で済ませる温度でもなかった。感情を確かめるように、ひとつずつ、並べていく声だ。ホークスはもう一度彼女の頬に触れかけて、指を止める。触れてしまえば、戻れない気がした。戻らない覚悟はあるのに踏み切る一瞬だけが、どうしても、慎重になる。そういう迷いまで彼女には伝わってしまうと知りながら。

「……嫌だったら、言ってください」
「言わなかったら?」
「そのまま、続けます」

 その声は慎重で落ち着いていた。欲を急がない確かめるための距離。彼女の呼吸が、すぐそこにあり、ホークスはそのリズムに合わせるように、ほんの少しだけ間を詰める。

「触らないの?」
「……許可待ちです」
「なにそれ」
「今は、ちゃんと」

 明日の仕事も、眠れなくなる可能性も、承知の上だ。それでも彼は、この距離を選んでいた。
 彼女は小さく息を吐いて、笑った。その笑みはさっきよりも静かで、柔らかい。

「じゃあ、いいよ」
「軽いすね」
「ホークスが重いんだよ」

 その返しに彼は困ったように眉を下げる。結局観念したみたいに彼女の額へ手をそっと重ねた。ただ、温度を分け合うだけの距離を、再確認するように。指先が触れる前より触れてからのほうがよほど慎重になる自分に気づいて、内心で、苦笑する。

「……これ以上は、ほんとに寝れんくなる」
「さっきからそればっか言ってる」
「事実なんで」

 そう言うとホークスは彼女の上からそっと体を退けて横に身を落とし、そのまま自然な流れで、彼女を抱き寄せた。胸元に収まった彼女の気配がわずかに動き呼吸が深くなるのが伝わってくる。剛翼はもう存在しないはずなのに背中の奥で羽毛が、逆立つような錯覚が走った。長年染みついた警戒心と今この瞬間を信じたいという安堵が相反しながら、同時に反応している。
 どちらか一方を選べば楽なのに、彼はどちらも手放さなかった。ホークスは腕を緩めずに、視線だけを落とす。彼女のまつ毛がつくる影が、頬に淡く滲んでいる。触れ合いたい衝動は疑いようもなく、そこにあった。それでも今はこれ以上は、進めない。拒んでいるわけではなく続けるために選んでいる距離だった。

「でも」
「うん」
「今日は……起きとってもいい気がします」

 彼女は言葉で答えず、代わりに彼のTシャツの袖をほんの少しだけ掴んだ。引き留めるには弱くそれでも離れないでと伝えるには十分な力。
 ホークスはその小さな手を見下ろし、喉の奥で息を緩めるように笑った。

「ほんなこつ、ヴィランやね」
「それ、褒めてる?」
「困らされとるだけです、こっちが」

 そう言いながら彼はもう一度、回した腕に力を込める。逃げ道を塞ぐためでも、縛りつけるためでもない。ただここにいるという事実を、互いの体温で、確かめ合うための動き。カーテンのない部屋は、相変わらず明るく、夜だというのに白々しい光が床に落ちている。その光の中で、二人は目を閉じなかった。眠ってしまうには惜しい時間だと、言葉にしなくてもわかっていたから。
 ホークスがゆっくりと体を起こすと、マットの上に影が大きく伸びる。街灯の逆光で表情は掴みにくい。それでもその目だけは、はっきりと光を宿していた。
 あの色だ、と彼女が思ったのが伝わったのか、ホークスは一瞬だけ、瞬きをする。向日葵のようだと、言われたことを思い出して。

「……やっぱり、すごく綺麗」
「……」
「その瞳、独り占めしてる気分」

 その言葉が胸の奥に静かに落ちる。独り占め。かつては何万人もの視線を受け止めてきた自分の瞳を今はたった一人が見上げている。その事実は甘く、同時に少しだけ重たい逃げ場のない温度で確かにそこにあった。ホークスは彼女の耳元へ、そっと唇を近づける。そうして、触れない距離を保ったまま、低く、掠れた声を落とした。

「……ちゃんと、言ってほしいです。聞きたい」

 彼女は短く息を吸い、片手を彼の頬へ伸ばす。今度は迷いのない動きで、彼の耳元に囁く。

「鷹見啓悟を、独り占めしたいよ」

 ホークスは目を閉じた。頬に添えられた手に、無意識のまま顔を預ける。彼女を覆っていたはずの大きな体が、ひとつの掌に甘えるように重心を委ねてしまう。再び目を開けても、距離は変わらない。近すぎるほど、近いまま。

「……全部、あげます」
「全部、ちょうだい」

 二度目のキスが静かに降ってきた。先ほどまでの確かめ合うような優しさとは違う。長く抑えてきたものを、ようやく許したような、深く、熱を帯びた口づけだった。息を継ぐわずかな隙間で、離れてはまた繋ぎ直す。そのたびに互いの存在を刻み直すように、何度も、何度も。
 言葉は要らなかった。唇が離れたあとも、額を寄せたまま、ホークスは荒くなった呼吸を整えている。黄土色の前髪が彼女の頬に触れて、揺れる瞳と、まだ震えの残る睫毛が、近すぎる距離で、視界に入った。ここで、止まれる自分でいられるかどうか。彼はそこで、ようやく動きを止める。欲望ではなく、選択として。

「もぅ……ほんと、困らせんで」
「どっちが?」
「分かっとーくせに」

 彼女は言葉を返さなかった。ただ、今度は彼の袖ではなく、裾を指先で、そっと摘む。その力はやはり、頼りないほどに弱いくせに、それでも、踏み込んで欲しいという意思だけは、はっきりと伝わってくる。ホークスはその感触に、思わず、目を伏せた。守る側として積み重ねてきた判断と気づけば、いつのまにか、守られてしまっているような感情が同じ場所で折り重なる。その境界線を確かめるみたいに、彼はひとつ呼吸を整えた。
 カーテンのない窓から差し込む光は部屋の輪郭を淡くほどきながらも、その内側に、確かな影を落としていた。明るさの中に影があり、影の中に体温がある。何かを急かすでも、奪うでもなく、ただ今、��ここにある想い�≠セけを静かに浮かび上がらせているような光だった。
 その中でホークスは、意を決したように、もう一度だけ彼女の唇へと近づきかけ、そこで動きを止めた。距離は近いまま触れない。そのわずかな隙間に選んだ沈黙が、横たわっていた。
 行き場を失った視線だけが、彼女の目元から、口元へゆっくりと彷徨う。触れないという選択が触れてしまうこと以上に意志を要する瞬間があることを、この男は知っていた。

「……煽ってますよね、ほんと」
「近づいたの、ホークスでしょ」

 軽く返されてホークスは短く笑った。近づいたのは確かに自分だ。ほんの少し踏み込んだ、その事実を否定しないまま彼女の額に自分の額をまた重ねた。外から流れ込む光が影と明るさの境目で二人の呼吸をゆっくりと同じ速さに揃えていく。

「今日は、ここまでにしときますね」
「あら、珍しい」
「明日があるんで」

 言い切ったはずなのに腕だけは離れなかった。その矛盾を彼女は指摘しない。ただ、掴んでいた裾を指先で引っ張るだけ。その小さな仕草に彼の胸の奥で、何かが緩む。

「じゃあ、目は閉じないでね」
「……努力します」

 返した声は先ほどよりも低く熱を含んでいた。カーテンのない夜は二人を急かさない。ただ今という時間を、静かに引き伸ばしていく。
 ホークスは彼女の顎を指先で掬う。触れるのは最低限支えるだけ。それでも伝わる体温が意識を逸らさせない。

「なぁに?」
「……っ、抑え、られんかも」

 切れ切れで、掠れた声が室内に落ちる。彼女はその輪郭を、言葉ではなく、視線で受け止めた。逃げも拒みもしない目で、なぞるように、見つめ返す。

「抑えないで……って言ったら、困る?」

 その一言で、彼の理性が軋む音を立てる。顎を支える指に力がこもり、数秒、ただ見下ろした。暗がりでも分かる獣じみた光を帯びた目。欲望は明確で、同時に選択も明確だった。それでも——深く息を吸い、ホークスはゆっくりと体を離す。彼女の横に倒れ込み天井を仰いだ。明るいはずの天井は視界の端で淡く滲み心拍だけがはっきりと耳に残る。
 肩が触れ合ったまま、距離は、保たれている。触れないという選択が今夜を続けるための唯一の方法だと、彼は知っていた。明日がある、という言葉は、言い訳ではない。尊重と、約束だ。
 隣で彼女が身動ぎしたそのわずかな気配だけで胸の奥が、ひくりと反応する。目は、閉じない。閉じてしまえば、越えてしまうと、分かっている境界が確かにそこにあった。呼吸を合わせ天井に映る街の光を同じ角度で受け止めながらホークスは、ただ、隣にいる。同じ夜を、同じ速度でやり過ごす。その選択の重さが、今は何よりも揺るがないものだった。

「……駄目です。今日は」
「……そっか。ごめんね」

 顔だけを横に向けると彼女と視線がぶつかる。彼女のそれは、逃げ場のない距離で、それでも、静かすぎる眼差しだった。

「謝らんでください」

 零れた声は思いのほか情けなく、掠れていた。自分でも泣いてしまうのではないかと思うほど、感情が喉元に集まっている。

「ほんと……今日は、ここまでにしときましょ」
「また、それ」
「明日も、同じ夜が欲しいんで」

 一瞬だけ、彼女の目が見開かれる。その揺れが消えるより早く彼女は何も言わずに肩口へと額を預けてきた。拒まれた感触はない。押し返されもしない。ただ、差し出した距離が、そのまま受け取られ、静かな重みとなって残る。
 ホークスは息を整えるように彼女の頭へそっと手を伸ばし、指先で髪を撫でた。逃がさないためでも、縛るためでもない。夜を同じ温度で越えるために、必要な分だけ触れる。互いの存在を確かめるための、最小限の距離だった。

「初めての夜やけん。ちゃんとしたいんですよ、俺は」
「……うん、わかった」

 明るいままの部屋で、二人は自然と呼吸を合わせる。眠れなくなる未来は少し先に置いたまま。今はただ、ここにいることを選んでいた。
 静寂がゆっくりと部屋を満たす。聞こえるのはエアコンの微かな駆動音と、すぐそばで重なる、呼吸だけだった。ホークスは寝返りを打ち今度は目線だけでなく体ごと彼女の方を向く。手を伸ばして探ると彼女の手に指先が触れた。逃げない。指は自然に絡まり言葉を介さず恋人繋ぎになる。

「こうしてても、いいですか」
「うん。……胸、借りていい?」
「どうぞ。いくらでも」

 繋いだ手でそっと引き寄せ、もう片方の腕で、背中を包み込む。抱き寄せるというより居場所を作るような動きだった。
 しばらくそのままでいた。時間の感覚が曖昧になるころ、彼女の肩が小さく震えていることに、ホークスは気づく。さきほど自分が乾かしたばかりの髪に、ためらうように唇を寄せる。触れるか触れないか、その境目で留まったまま。

「……泣いてます?」
「……泣いてないよ」

 声音自体は、落ち着いているのに、その小さく震える身体だけが、どうにも正直だった。

「昨日と今日で、いろいろありましたもんね」
「ん……嬉しいのと、安心したのと、あと……」

 言葉にならない部分を、彼女は、彼の胸に顔を埋めてやり過ごす。ホークスは、何も聞かない。理由を探らない。ただ、背中を、一定のリズムで撫で続ける。
 守るために止まった夜。奪わず、急がず。それでも確かに繋がっていると分かる距離がそこにはあった。

「……違うの、ごめんっ」

 震える声が零れた瞬間、ホークスは、抱く力をほんの少しだけ強めた。言葉の代わりに離れないという意思を伝えるように。

「謝らんでいいですよ」
「……っ、やだ。ごめん、ほんとっ」

 理由は問わない。「大丈夫?」とも言わない。胸を貸すと決めたのだから、その役目を、果たすだけだった。彼女のかすかな嗚咽は、借りているTシャツに静かに吸い込まれていく。背をさする手は変わらない力加減と速度を崩さないまま動き続けた。やがてホークスは頭上で小さく囁いた。

「おるよ。ここに、おるけん」
「……わかってる、わかってるんだけど……」
「うん」

 それでも、背中に回した手は止まらない。夜が終わるまでこの距離に留まると決めた証のように一定の速さで撫で続ける。彼女の呼吸が少しずつ整っていくのを、胸越しに感じながら。

「拒絶された感じで、ちょっと心がびっくりしただけ……」

 その言葉に、撫でていた手がぴたりと止まる。ああ、しまった、と。理解が遅れて追いついた。「抑えないで」と言われた直後に、離れたこと。その選択が彼女にはまるで拒まれたように映ってしまったのだと気づく。ホークスの表情に、一瞬だけ焦りが滲むが、それはすぐに困ったような、それでも、柔らかなものへとほどけていった。

「違うんですよ、名前さん」

 彼女を抱いたまま、体勢を少しだけ変え、顔を覗き込もうとする。決して、逃げ場を塞ぐような距離にはしない。ただ、伝えるための近さで。

「逆です。大事にしたいけん、止まったんです」
「……っ」
「伝わらんかったですね、すみません」
「わかってる。さっきもそう言ってくれたから。だから……ごめん、気にしないで」

 彼女は小さく首を振りながらそう言った。その言葉に今度はホークスが、すぐ首を横に振った。

「気にしますよ」

 きっぱりとした声だったが、責める色は、一切ない。むしろ、向き合うことを選んだ音だった。

「ごめん……ああ、もう……。ほんと、やになっちゃうね。ごめん——」

 言い切らせる前にホークスは人差し指で彼女の唇に、そっと触れた。遮るためではない。言葉が溢れきる、その直前で受け止めるための合図だった。触れる指先は軽く、けれど迷いがない。

「六回目。……『ごめん』」
「もぅ……数えないでよ」

 七回目は言わせない、と、言外に告げるような視線に彼女はくしゃりと顔を崩す。泣き笑いの、その境目みたいな表情だった。

「敵の言葉を逃さずに数えるのが仕事なもんで。公安、舐めんでください」
「……。ほらぁ、何も言えなくなっちゃった」

 その反応に満足したのかホークスはよしよしと言わんばかりに彼女の頭を軽く叩いた。撫でるというより、ここで終わり、という合図に近い。

「それでいいです」
「……自分でも、びっくりしてて」

 彼女の声が落ち着いてきたのを確かめてから、ホークスはもう一度抱き直す。腕の位置をわずかに変え、体重が均等に預けられるように整える。その動作は慣れたものではないが、慎重で、誠実だった。

「何に?」
「こんなふうに……悲しくなって。人前で無様に泣いてることに」

 少しの沈黙。敵連合にいた頃の彼女を深く知る人間は多くない。けれど少なくとも、人前で涙を見せるタイプではなかったはずだ。ホークスは、その変化を否定しない。

「変わったんですよ、名前さんが。悪いことじゃないです」
「うん……初めて涙を見せたのが、ホークスで、よかった」

 その言葉を聞いた瞬間、ホークスの腕に自然と力がこもる。返す言葉は浮かばなかった。言えなかったのではない。ただ、言葉より先に、身体が選んでしまっただけだ。
 夜はまだ終わらない。けれど、この場所にいる限り、彼女を独りにはしない——その決意と意思だけが、静かに伝わっていく。

「泣いた理由は、くだらなくて……バカみたいで恥ずかしいけど」
「俺のせいなんで」
「だから、違うってば」

 彼女は、息を吐くように笑った。声にならないその揺れが彼の胸にじかに伝わってくる。胸元に触れている額がわずかに動き、その振動が、言葉より先に、感情を運んできた。

「言うとくけど……俺だってあのまま、あなたに初めて、捧げたかったんですよ?」
「言い方ね……うん、わかってるよ」

 冗談めいた響きを残しながらも距離が近すぎて逃げ場のない本音だけが混じる。
 ホークスは耳元で「でも今日は、ね」と、声を低く落とす。その囁きは、夜の静けさに溶け切る前に、彼女の鼓膜を確かに揺らした。

「明日、ベッド届くけん」
「……なんか、急に生々しい」

 くっくっと小さく肩が揺れる。その動きが腕の中に伝わり、彼女もつられるように短く笑った。深刻さがほどけるその一瞬だけ、夜の空気が少し軽くなる。

「現実の話をしとるだけですよ」
「——もう、寝よう!」
「はは。おやすみなさい、名前さん」
「……おやすみ、元ヒーロー」

 腕の中で、彼女の体温が少しずつ、落ち着いていく。呼吸の間隔がゆるやかに伸び、力が抜けていくのが分かる。やがて彼女の寝息は静かに整い規則正しく一定のリズムを刻み始めた。その音を確かめるように、暗闇の中でホークスは、彼女の前髪をそっとかき上げる。

「……ほんと、寝顔だけは無防備っちゃけん」

 かつては敵として対峙し、今はこうして、狭いマットの上で肌を寄せ合っている。
 皮肉な運命、というより不思議な巡り合わせのように感じられた。それでも今の彼にとっては、この時間以上に、望むものはない。繋いだ指先は絡められたまま、どちらからも、解かれることはない。その感触を確かめるように胸の奥で静かにひとつだけ思う。
 ——この距離を、失いたくない。彼女の寝息を子守歌のように聞きながらホークスはその想いを抱えたままそっと瞼を閉じる。そしてゆっくりと意識を夜へと預けていった。


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