翌朝。カーテンのない窓から容赦なく差し込む朝日がまだ何もない部屋を白く染め上げていた。段ボールの影さえ淡くぼやけるほどの光に、彼は眩しそうに目を細める。

「……ん、朝か。」

 眠気の残るまま隣へ視線を向けると彼女はまだ眠っていた。規則正しい寝息を繰り返し穏やかな顔をしている。その寝顔を見つめているだけで、胸の奥が静かにほどけていくようだった。起こさないよう細心の注意を払いながら身を寄せると、額へと、そっと唇を寄せる。

「……おはよ、名前さん」

 囁いた声は、自分でも驚くほど、優しかったと思う。こんな朝を迎えたことがこれまで一度でもあっただろうか。誰かが、隣で眠っていて、その存在だけで今日を始められる。そんな当たり前を自分が望む日が来るとは、思ってもいなかった。
 やがて、彼女の寝息を名残惜しそうに見つめてから慎重に腕を抜き、眠りを妨げないようマットからゆっくりと身を起こして窓辺へ歩く。見下ろした街は、もう、平日の速度で動き始めていた。
 そのまま洗面所に向かって顔を洗い、鏡越しに乱れた前髪を軽く整えてクローゼットに置かせてもらっていたスーツに袖を通す。ネクタイを手にしたままリビングへと戻り、枕元に置いてあったスマートフォンへ手を伸ばした。画面を点けると公安から緊急連絡がいくつも届いていた。思わず息を吐く。現実は昨夜の余韻を惜しむ暇もなく、今日という一日を連れてくる。ホークスが返信を確認しながら出勤の支度を進めていると、不意に背後から小さな声が聞こえた。

「んー......」

 寝起き特有の力の抜けた声に、ネクタイを首にかけたところで振り返る。彼女は寝ぼけ眼のまま部屋を見回していた。見慣れない天井。積み上がった段ボール。そして、自分のほうへ向けられる視線。昨夜の記憶が少しずつ繋がっていくのが、その表情だけで分かった。ホークスは、スマホをポケットにしまい、ネクタイを締めながら笑う。

「あ、起きました?さて、新生活一日目ですよ」
「む……」
「今日の昼前には、ベッド届きますんで」
「……え? 立ち会わない?」
「あー......すみません。どうしても、急ぎで確認しなきゃならない資料ができちゃって」
「そっか。もう、行くの……?」

 少しだけ寂しそうな響きに、ネクタイを締める手が止まる。ホークスは困ったように眉を下げ、素直に返す。

「行きたくないですよ?」
「……なんか、新婚さんみたい」

 彼女は、くすっと笑って当たり前のようにそう言った。その一言に指先がまた止まる。耳の先がじわりと熱くなるのを自覚しながら彼はネクタイを結び終えると背筋を伸ばし、ゆっくりと彼女のほうを見た。

「……それ、毎朝言ってもらえません?」
「毎朝言ったら、それはもう同棲じゃん」

 その返事を聞いた途端、ホークスは真顔のまま彼女の座っている簡易マットレスまで歩いて行き目線を合わせるようにして、しゃがみ込んだ。

「同棲でよかですよ」
「だーめー!」

 演技じみた勢いで肩を押されると、ホークスも律儀に後ろへよろめき、それから、大げさに肩を落とした。

「あーあ。振られた気分です」
「私も昨夜、振られた気分だったけど?」
「……うっ」

 痛いところを突かれて、言葉が詰まる。昨晩の件を蒸し返されると、弱い。自覚があるだけに、反論のしようがなかった。自分で止まると決めたのだ。その選択に後悔はない。それでも彼女からそう言われると、言葉が続かないのも事実。彼はしばらく黙り込んでから、苦し紛れに口を開く。

「あの……いってきますのキスで、手打ちにしません?」
「エッチを断られた女性相手に、キスで手打ちだとぉ〜?」
「いやいやいや!語弊!語弊があります!エッチ断ったんやなくて!」
「……」
「その目やめて!やけん、その言い方は誤解しか生まれんでしょう!」
「じゃあ、何なの」

 ホークスは「え」と目を見開いたあと、小さく咳払いをすると、一度だけ、真面目な顔になる。けれど次の瞬間には困ったように眉を下げ両手を合わせて拝むような格好をした。

「大事にするって、言ったでしょう。順番の問題なんです」
「ふふ、わかってるよ」

 ニコッと屈託なく笑う、その笑顔を見た瞬間、全部を見透かされていたのだと悟る。ホークスは肩から力を抜き、わざとらしく項垂れた。

「最初っから分かっとって遊びよったんですね」
「まだまだ甘いね。——あ、そうだ」
「……はい?」
「今日足りない物とか、いろいろ買いに行くね。ベッドも届いたら一応、連絡する」

 話題が、ぱっと切り替わる。その、切り替えの早さに一瞬だけ目を丸くしたものの、これも彼女らしいと思えば自然と笑みが浮かんだ。昨日まで囚われの身だったとは思えないほど、朝の彼女はちゃんと、前を向いている。だからこそ、自分も安心して仕事へ向かえるのだとホークスは静かに思った。

「……え、待って」
「ん?」
「買い物って、一人で?」
「友達いなくてすみませんねぇ」

 軽口で返された途端、ホークスは、慌てて首を振った。

「いや、そういう意味じゃなくて」
「じゃあ、どういう意味?」

 言葉に詰まる。元・敵連合の人間。本人はもう表舞台から離れていても、その事実は消えない。公安の委員長という立場になった今だからこそ、彼女を守ると口にしたのが、他ならぬ自分である以上、街中を一人で歩かせることへの危うさが、真っ先に頭をよぎってしまう。

「……護衛、つけます」
「え?」
「買い物くらい(・・・)、でも」
「……いや。いやいやいやっ、大丈夫だよ。そこまでしなくても。うん、ほんと」

 笑って受け流そうとする彼女を見ながらも胸のざわつきは消えなかった。頭では分かっている。彼女は弱くない。自分が四六時中守れる立場でもない。それでも守ることを仕事にしてきた身体は理屈より先に危険を数え始めてしまう。
 ホークスは、スーツのポケットへ手を入れて、スマートフォンを取り出しかけてやめた。そして「じゃあ……」と、小さく息を吐く。

「GPSだけ、入れときません?」
「過保護彼氏」

 その言葉に、ホークスは一瞬だけ目を見開き、思わず、にっこりと笑った。

「最高の褒め言葉ですね」
「褒めてはないんだけど」
「俺にはそう聞こえました」

 そう返すと彼女も肩を竦めて笑う。その笑顔を見ていると、本当に、仕事へ行きたくなくなってしまうので厄介だ。それでも時間は、待ってくれない。ホークスは腕時計に目を落とし小さく息をつくと玄関へと向かった。そして、もう一度立ち止まり、振り返る。

「……ほんと、気を付けてくださいね」
「うん」
「知らん番号から電話来ても、出んこと。変なん見つけたらすぐ俺に連絡。あと、買い物終わったら——」
「はいはい」
「……はい、は一回」
「新・公安委員長さん、細かい」
「職業病です」

 苦笑しながら靴を履く。玄関の扉を開くと朝の空気が、流れ込んできた。あと一歩踏み出せば、仕事の顔へ戻らなければならない。けれど、その前に。宣言通り「いってきます」の——。

「じゃあ、いってらっしゃい。ダーリン♡」

 その一言で、ホークスの身体が数秒間ぴたりと止まった。元No.2ヒーローにして現公安委員長。
 ��働きすぎる男��——もとい��速すぎる男�≠ニ呼ばれた彼は玄関先で完全に動きを止めていた。耳の先まで真っ赤になったまま、ドアノブを握る手だけがぎこちなく震えている。振り返れない。個性を無くした背中がその全てを物語っていた。

「……いっ、いってきます」

 完全に声が裏返っている。「あ!いってきますのキス!」と言った彼女の笑い声を背中で聞いた瞬間、彼はバタン!と、勢いよくドアを閉めた。廊下へ響く革靴の音は、普段より明らかに速い。
 ——逃げた。それを認めるのは悔しいが、どう見ても、逃げたとしか、言いようがなかった。
 一人残された部屋にようやく静けさが戻ったと思った、その瞬間。彼と並べて枕元に置いていた彼女のスマートフォンが、小さく震える。届いたのは、ショートメッセージだった。


いってきますのキスは予約で!

ダーリンは禁止です。
心臓がもたん

あと冷蔵庫にマカロン入ってるんで遠慮せんで食べてください。頂き物ですけど

今日も好きです







 彼の連絡先しか入っていない彼から支給されたスマートフォン。並んだ文字を眺めているだけでついさっきまでここにいた気配が、部屋へ戻ってきたような気がして、彼女は思わず頬を緩める。最後の二文字を指先でそっとなぞる。たったそれだけのことなのに、胸の奥が少しだけ温かくなった。彼女は小さく笑って、返信を打つ。



マカロンありがとう

私も好きだよ。ダーリン♡







 送信してすぐに既読が付く。続けて『入力中』の表示が現れては消え、また現れては消える。
 何度も書き直している様子が目に浮かび彼女は思わず吹き出しそうになる。ようやく届いたのはたった、一行だった。



勘弁してください😇







 どうやら無事、天に召されたらしい。彼女は、堪えきれず声を上げて笑った。スマートフォンを簡易マットレスへ放り投げ、大きく一度、伸びをした。朝の光は相変わらず遠慮がなくカーテンのない窓から真っ直ぐ差し込み、フローリングを、四角く、白く切り取っている。
 冷蔵庫を開けると本当にマカロンの箱が入っていた。しかも、『食べてください』と書かれた、小さなメモ付きだ。

「いつ入れたんだろ……」

 昨日、ここへ来たときだったのか。それとも、彼女が知らないうちにもっと前から用意していたのか。どちらにしても彼らしいなと思う。照れて逃げるくせに、こういう気遣いだけは、抜け目がない。彼女はマカロンを一つ頬張る。甘さがゆっくり広がる頃にはさっきまでの寂しさも少しだけ薄れていた。
 食べ終えた頃、インターホンが鳴る。モニターには、配達員が二人。予定どおりダブルベッドが届いたらしい。組み立て式とはいえ、箱は思っていた以上に大きく一人暮らし用の玄関を通すだけでも、一苦労だった。それでも、昨日までの簡易マットレスを思えば、この苦労さえ少し楽しみに思える。配達員を見送ると、彼女は床へ説明書を広げた。箱を開けて、木材を並べ、袋詰めされたネジを一つずつ取り出していく。日曜大工なんてしたことはない。説明書と、何度も見比べながら組み立てるたび「これ、本当に合ってる?」と、独り言が漏れる。
 ——約一時間。ようやくベッドフレームが形になった頃には額にはうっすら汗が滲み、手のひらには小さな擦り傷ができていた。

「……できたぁ」

 思わず歓喜の声が漏れる。マットレスを載せ、荷物箱の中からシーツを探し当ててかけてみる。枕だけは、まだない。今日出かけた時に、買えばいいか。部屋を見渡すと、昨日まで殺風景だった空間に大きなベッドがあるだけで、その景色は、驚くほど変わっていた。ようやくここが仮住まいではなく、自分の暮らす部屋になったような気がして、嬉しかった。
 時計を見ると、午前十一時を少し回っている。出掛けるにはちょうどいい時間だ。手ぶらが楽で財布とスマートフォンはポケットに入れベッドが届いたことだけでも伝えておこうと、ホークスに短くメッセージを送る。

 外へ出ると風が気持ちよかった。最終決戦から月日が流れ、街には少しずつ、活気が戻り始めている。崩れた建物の跡や新しい工事現場は、まだ残っている。それでも、人の笑い声や買い物袋を提げて歩く家族の姿が増え��平和�≠ニいう言葉がようやく現実になり始めている事を実感させた。
 駅ビルのホームセンターに入って、洗い変えのシーツや枕カバー、タオルを、次々とカゴへ放り込んでいく。彼と、二人で使うことを考えながら選ぶ時間は、思っていたよりずっと楽しかった。『二人用』『ペアセット』——そんな文字が目に入るたび、意識していないはずの口元がゆるんでしまう。
 持ち帰れる量だけにして彼女がレジへ並んだ、そのときだった。前に立っていた二十代半ばほどの女性が、ふと、振り返る。相手は、彼女の顔を見たまま目を丸くし、隣にいた友人らしき人物の肩を、小さくつついた。

「……ねぇ、あの人」

 相手は声を潜めたつもりなのだろう。けれど、その囁きは、平日の静かな店内では、思いのほか遠くまで届いた。

「ねえ、もしかして……敵連合の」

 その一言で、空気が変わる。隣にいた、連れの女性が小さく息を呑み無意識のように半歩距離を取った。レジ待ちをしていた数人の客も何事かと視線を向ける。彼女は動じないし何も言わない。ただ買い物袋を抱え直し、そのまま、足早に店を後にした。背中へ突き刺さる視線だけが最後まで離れなかった。

 その頃、ホークスは、公安委員会の執務室で、デスクに置いたスマートフォンへ、何度も視線を落としていた。昼前には、『ベッド届いたよ』と写真付きで送られてきたメッセージ。そのあと、『買い物行ってくるね』とスタンプが一つ届いてそれきり、既読がつかない。書類にペンを走らせながらも意識だけは何度も画面へ引き戻される。その度に彼は、真っ暗なスマートフォンの画面を睨んだ。
 ——二時間。買い物が長引くことくらいある。頭ではそう理解している。それでも胸のどこかが妙に騒いだ。画面に表示されたGPSは、すでに、彼女のマンションを示している。
 帰宅はしている。それなのに連絡だけが途絶えたままだった。ホークスは、椅子の背にもたれ、小さく息を吐いて、天井を見上げる。過保護だと笑われることくらい、分かっている。それでも、元・敵連合の人間が一人で行動する事の危うさを誰より知っているのも、また自分だった。
 もう一度スマートフォンを手に取る。『大丈夫ですか?』と、そこまで打って消す。……重い。今必要なのは、心配を押し付ける言葉じゃない。また打ち直して、結局、最終的に送ったのは短い一文だった。


帰ったら連絡くださいね







 絵文字はなし。いつもの胡散臭い余裕が、文面から削ぎ落とされていた。普段なら添えてしまう軽口も今日は思いつかない。昨晩ムードを壊してしまった負い目もあり、今日こそ早く仕事を切り上げ彼女とゆっくりいろんな話をしようと決めていたこともあり、不安だけが募っていく。昨夜、自分で止まると決めたこと。ちゃんと伝わったと思いたい気持ちと、本当は、傷つけてしまったんじゃないかという不安が、胸の中で静かにせめぎ合っていた。
 とりあえずそのまま仕事へ意識を戻したものの区切りがつくたび視線は無意識のうちにスマートフォンへと向かってしまう。確認しても、返事はない。既読すら、まだついていなかった。画面を伏せては、また手に取り、その繰り返しだった。
 ふと、時計に目をやる。午後、四時半。いつもならこの時間からが仕事の本番だった。それでも今日は、違った。ホークスは、普段以上の速度で書類を片づけ、会議を一件、副官へと引き継ぐ。

「今日は上がります。緊急が入ったらスマホに」
「……委員長が、定時?」
「あー、すんません。今日は、ちょっと」

 それだけ言って席を立ちそそくさと帰る支度をし始める委員長を前に副官は目を丸くしていた。ホークスは、理由を説明する気はなかった。説明したところで自分でもうまく言葉にはできそうになかったから。
 午後五時十分。一度自宅へ戻りスーツを脱いで私服へと着替える。スマートフォンを開き、まだ既読のつかないメッセージ画面を見つめた。律儀すぎると自分でも思いながら、指は勝手に動く。


今日行ってもいいですか







 ——送信。じっと黙ったまま画面を見つめる。一分。二分。やはり既読はつかない。ホークスは思わず舌を打ち鳴らした。

「……はぁ」

 小さく息を吐くと、もう一度吐きそうになった舌打ちを飲み込む。玄関でスニーカーの紐を結び直したのは三度目だった。落ち着けと言い聞かせても、身体だけが急いている。玄関を飛び出し、走るかタクシーか迷ってそのまま走る。もうこの背中に、剛翼はない。それでも身体は、昔の癖を忘れていなかった。無個性になった脚で、ただ前だけを目指す。昨夜の彼女の顔が、何度も脳裏をよぎる。
 ちゃんと、話した。抱きしめて、キスをした。笑って、おやすみも言い合った。それでも——。いくら初めてを大切にしたいからと言ってやはり彼女の誘いを断ったことで、嫌われてしまったのではないか、やはり傷つけていたんじゃないかとしつこいくらいに余計な心配が増えていく。
 考え始めると止まらなかった。駅までは、あと少し。電車を待つ時間すら惜しいと、駅を一つ分走り抜けたところで、スマホが震える。反射的に足を止める。胸が跳ねる。彼女だ。そう思って、画面を開いた瞬間に、表情が曇った。彼女からの着信でもメッセージでもない。公安の緊急回線。ホークスは表示を見つめたまま、動けなくなる。
 指先が通話ボタンの上に伸びかけて止まった。数秒の逡巡。ほんの少しのはずなのに、それが、ひどく長かった。私情と職務の間で揺れた目は、一瞬だけ苦しげに細まり結果、通話を断念した。どちらを選ぶべきかなど、本当は、考えるまでもない。それでも今日は、その��当たり前�≠ェ苦しかった。
 ホークスは、長く息を吐き切ると、まず先に、メッセージ画面を開いた。そのまま再び走り出し乱れる呼吸の合間を縫うように片手だけで文字を打ち始める。今、伝えられるものがあるとすれば��言葉�≠オか、なかったからだ。


公安から連絡きました
ちょっと待っててください







 ヒーローだった頃の身体は、もう存在しない。数分走っただけで息は荒くなり肺が焼けるように痛む。それでも——あと一行だけ、と文字を打つ指は、止まらなかった。



嫌いになったとかやったら
後でいくらでも聞くけん







 送信してから自分で少し驚いたように、画面を見返した。これは、文字にして打つべき内容ではなかったのではないか、と。それに遅れて気づくくらいには余裕がなかった。返信はない。既読もつかない。しかし今さら取り消すわけにもいかずホークスは、スマートフォンをポケットへ戻し、そのまま、公安本部へ向かって走り出した。
 到着したのは、午後の五時四十分。息を整える間もなく、会議室へ入る。

「委員長、こちらを」

 差し出されたタブレットに表示されていたのはとあるSNSの投稿だった。
 ——『元・敵の女がホームセンターにいた』
 ——『普通に買い物してるんだけど 笑』
 ——『あいつらって一般人になれるの?』
 ——『こわーw やばくない?』
 短い投稿が、すでに、いくつも拡散され始めていた。ホークスの表情から最後のわずかな余裕が静かに消えた。

「身元の特定は、時間の問題かと。本人の安全を考えると——」

 報告の声が続いても、ホークスは画面から目を離さなかった。表情が消えている。普段の、軽薄そうな笑みも、場を和ませる軽口もない。ただ、無言で静かに画面に流れる文字を、ひとつひとつ噛み締めるように目で追っていた。

「……これ、いつ頃の投稿ですか」
「約、二時間前です。場所は、駅ビル内のホームセンターになります」

 ホークスはわずかに目を伏せる。頭の中で点と点が繋がった。GPSが、マンションを示していた理由。連絡が途絶えた理由。きっと彼女は逃げるように、帰ったのだ。あの視線からも、あの囁きからも、自分を守るようにして——。

「この件、報告書は上げんでください」
「……しかし、委員長! それでは正式な案件として——」

 公安の職員が顔を上げて、反論しかける。その瞬間ホークスは穏やかな声のまま言葉を重ねた。決して語気は強くない。それでもその静けさには口を挟ませないだけの重みがあった。

「これは保護案件です」
「……っ、」
「『監視強化』なんて文言を書いた報告書が上がってきたら——俺が、差し戻しますよ」

 ゆるく笑う。その声音に、感情の起伏はない。けれど、その目だけは少しも笑っていなかった。室内の空気が静まり返る。職員は小さく息をのみそれ以上、何も言えずに頷くしかなかった。
 その時だった。スマートフォンが短く震える。ホークスは、ほとんど反射で取り上げて、画面を開いた。届いていたメッセージは、一通だけ。



ごめんね
今日は会いたくない







 ホークスは画面を見つめたまま動かなかった。その短い文章を何度も読み返す。会議室の蛍光灯が、ジジと、小さく唸るような音を立てていた。
 ——ごめんね。その四文字だけが、胸の奥へと沈んでいく。震えそうになる親指を押さえながらホークスは、ゆっくり文字を打った。



わかりました
でも一個だけ

名前さんが謝ることは
なにもなかですよ







 間を置かずに二通を送信すると、既読はすぐについた。けれど返信は来なかった。それでいいとホークスは思う。今の彼女に言葉を重ねても届くものではない。無理に扉を叩くより開くのを待つほうが、いい夜もある。
 ホークスは、彼女からのメッセージと、自分が送った文字に、もう一度だけ、視線を落とした。何も変わらない画面を見届けるように、短く息を吐き、スマートフォンをポケットへしまう。次の瞬間には私情を押し込み、委員長としての表情を取り戻すと、静かに公安の職員へ向き直った。

「SNSの発信元、全部洗ってください」
「……」
「最初に投稿した人間も、拡散したアカウントも一通り見ます」
「委員長……」
「……くれぐれも、丁寧にね」

 淡々とした声だったが、その最後の一言だけが妙に圧があった。皆、見て見ぬふりをする。握り締められた拳が、白く色を失っていたことにも。爪が掌へ食い込むほど力が入っていたことにも。
 原因は、あのSNSだったのか。それとも昨夜、自分が立ち止まったことだったのか。あるいは、そのどちらも——。考え始めると答えは出ず不安だけが静かに膨らんでいった。

 そのあとホークスは、コンビニの袋を片手に、彼女のマンションの前へ立っていた。袋の中にはプリンが二つと、ゼリーが二つ。それから、のど飴。何を買えばいいのか、わからなかった結果の寄せ集め。何が欲しいのかも分からずに、店内を何度も行き来した末の、ひどくまとまりのない、買い物だった。そっとエントランスを見上げる。部屋には灯りがついていた。彼女がそこにいる。それだけで少し肩の力が抜けた。エレベーターに乗る。けれど、インターホンへ伸ばした指先は、寸前で止まってしまった。
 ——会いたくない。短い一文が何度も胸の内で反芻される。彼女が、ようやく口にした本音を、自分の都合で踏みにじるわけにはいかなかった。それでも今日だけは、何もしないで帰ることもできなかった。ホークスは小さく息を吐くと覚悟を決めるように、呼び鈴を押した。

「……名前さん、俺です」

 返事はない。廊下には、電子音が消えたあとの静けさだけが残る。少し待ってからもう一度だけ口を開いた。

「これ、置いて帰ります。顔、見せてほしいとは言いません」

 柔らかな声だった。また、沈黙。けれど、その静けさの向こうに人の気配だけは確かにあった。個性がなくても、しっかりと感じ取れた。
 ——いる。すぐ、扉一枚の、その向こう側に。それでも開けないという選択を彼女はしている。

「……味、いろいろ買っときました」
「……」
「食べられそうなん食べてください——じゃあ」

 ホークスはそれ以上、何も言わなかった。いや言えなかった。少しだけ笑うように息を漏らし、コンビニの袋を、そっとドアノブへ掛ける。中で容器が小さく触れ合い、微かな音を立てた。その音を聞き流し、静かに踵を返す。振り返らない。振り返れば、もう一度、インターホンを押したくなってしまう気がしたから。
 マンションの外へ出て三歩ほど歩いたところで足が不意に止まる。夜風が火照った頬をゆっくり撫でていった。見上げた空には街の明かりにかき消されながらも、いくつかの星だけが細く瞬いている。彼は、誰に聞かせるでもなく、小さく息を零した。

「……ごめんね、やなかけん」

 謝りたかとは、俺んほうばい——。夜風がその声をさらっていく。届かなくてもいい。今はまだ届かないほうがいいのかもしれない。彼女が自分の足で扉を開けられる日まで待つと決めたのは、自分なのだから。
 その決意だけを胸に抱え、ホークスはもう一度だけ、彼女の部屋のある階を見上げた。窓には、相変わらず明かりが灯っている。それだけで十分だと、自分に言い聞かせるように、小さく頷く。そして今度こそ振り返ることなく、静まり返った夜道へと、歩き出した。

 遠ざかる足音はやがて街の喧騒に溶けて、カーテンのない部屋には夜だけが静かに降り積もっていく。互いを想いながら、それでも会えないまま終わる夜がある。
 けれど、その夜を越えた先でしか辿り着けない朝も、きっとあるのだと——。そんな予感だけを淡い星明かりが、静かに照らしていた。


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