火曜日の朝は、昨夜の出来事など何ひとつ知らないまま、何事もなかったように窓の外を明るくしていく。
 枕元のスマートフォンを見るとアラームが鳴るまでは、まだ、数分あった。眠れた気はしない。何度も寝返りを打ったせいかシーツは少し乱れていて、喉の奥も、ひどく乾いていた。ゆっくりと体を起こして、洗面所へ向かう。鏡の中に映った自分と目が合った瞬間、小さく溜め息が漏れた。

「……ひっどい顔」

 目の下にはうっすらと隈が落ちている。泣いた翌日というほど酷くはない。それでも、いつもの自分よりも疲れて見えた。コンシーラーをいつもより丁寧に重ねる。これくらいなら誤魔化せると思った。しかしファンデーションを馴染ませても眠れなかった夜だけは隠しきれないらしい。
 家を出る前もう一度、鏡の中の自分へ「これで大丈夫」と言い聞かせるように頷いてから、鞄を持って玄関へ向かった。
 ドアを開ける。廊下は、驚くほど静かだった。当然だ。昨日、そういう形に、されたのだから。それでも足が、ほんの少しだけ止まる。無意識に視線が隣の玄関へ向かい、誰もいないことを確認してから私は何事もなかったように歩き出した。
 エレベーターがゆっくりと一階へ降りていく。ロビーへ出ると大きなガラス越しに朝焼けの空が広がっていた。癖みたいに空を見上げても、赤い翼は見えない。この時間ならもう任務へ向かっている頃だろう。そう思って自分で納得する。もう私が探す理由なんて、どこにもないのに。

「ねえねえ、昨日の見たぁ?」
「見た見た!めちゃくちゃかっこよかったー」
「公式チャンネルとか開設してくんないかな〜」
「ほっんとそれな!」

 周囲の学生たちの会話を聞き流しながら駅まで歩く。ホームには眠そうな顔をした人たちが並びいつもの時間に、電車が滑り込んでくる。
 揺られるまま会社へ向かいパソコンを立ち上げメールを返す。会議では資料の説明をして昼休みには、同期たちと新しくできたカフェの話で盛り上がった。
 笑えていたと思う。少なくとも誰も私の様子を気に留めることは、なかった。それでいい。私の日常は何も変わってはいけない。仕事を終えればまた駅へ向かい、朝と同じ電車へ乗って、自宅に帰る。
 昨日までと同じ景色。昨日までと、同じ生活。世界は、何ひとつ変わっていない。毎日は止まらない。私が立ち止まっていても世界は昨日までと同じ速さで回り続けている。時計だけは、いつも通り前へ進んでいく。何も変わらない。変わってしまったのはきっと私の左隣の部屋と、私の心の中だけだった。

 水曜日になっても木曜日になっても朝、玄関を開けるたびに、隣のドアへ目が向く癖だけは抜けなかった。
 もしかしたらという期待を抱いているわけではない。そう自分へ言い聞かせながらも視線だけは勝手に動いてしまう。もちろん誰もいない。壁の向こうも、静かなままだ。最近は翼を動かす音が微かに聞こえていた。夜更けにシャワーを浴びる水音や帰ってきて窓を閉める音までいつの間にか私の、生活の一部になっていたらしい。
 それが聞こえなくなるだけで、部屋は驚くほど広く感じた。壁越しの「朝ですよー」という気の抜けた声も、もう、聞こえてこない。
 もともと防音が特別いいマンションというわけでもなかったのに、急に壁が、何倍も厚くなってしまったような気がした。——いや。最初から、静かな部屋だったのだ。それが、本来の姿。私がその静けさを、忘れていただけで。
 金曜日の夜。一週間が終わった。仕事帰りに、コンビニへ寄って適当に夕飯と缶ビールを買う。
 レジ袋を片手に部屋へ戻ると、誰もいないリビングが、迎えてくれた。電気をつけて冷蔵庫から冷えた方のビールを取り出しプルタブを開ける。ぷしゅっ、と、小気味いい音だけが静かな室内に響いた。一口飲む。喉を、炭酸が通り抜けていく感覚が妙に心地よくて、思わず声が漏れた。

「おいし」

 返事はない。自分の声だけが部屋の中へ溶けて消えていく。笑ってしまう。誰もいない空間に、話しかける癖なんて、いつからついたんだろう。二本目を開ける。三本目もすぐに開けてやった。さすがにテキーラを飲んだ、あの日の夜みたいな無茶はしない。そこだけは、ちゃんと学習した。
 アルコールがゆっくりと体へ回り始める頃にはソファへ深く身を預けていた。ぼんやりと天井を眺めたまま、手探りでリモコンを拾う。何か音がしていてほしかった。静かな部屋にいると余計なことばかり考えてしまうから。

「……」

 テレビをつけると、ちょうどバラエティ番組が流れていた。芸人が派手なリアクションをして、スタジオ中が、笑い声に包まれる。
 画面の中は賑やかなのにその輪の中に自分だけ入り損ねてしまったような気がした。
 何がおもしろいのか、頭には、まったく入ってこない。口元は、少しも動かなかった。ため息をつきながらチャンネルを変える。次に映ったのはニュース番組だった。流れ始めた映像に、指先が止まる。——赤い翼。金色の髪。いつものようにカメラへ向かって笑う横顔。
 反射だった。気づけばテレビを消して、リモコンを放っていた。柔らかいクッションへ当たり、鈍い音を立てて転がる。それだけなのに静かすぎるこの部屋では、それがやけに大きく聞こえた。

「引っ越そうかな……」

 ぽつりと零れた声に自分自身がいちばん驚く。冗談のつもりで口にしたはずなのに、その響きは思っていたよりずっと、真剣だった。この部屋は好きだった。駅まで近くてマンションの近辺にはコンビニもある。家賃も無理がない。日当たりも悪くないし、そして何よりも、夜は静かで過ごしやすい。
 そう思った瞬間、胸の奥が小さく軋んだ。静かだからといって、好きだったんじゃない。その壁一枚向こうに、あのヒーローがいたから、好きになったのだ。

「はぁ……」

 独りよがりの思考に気づかないふりをするようにスマホを開き、検索窓へ指を滑らせる。
 『賃貸 引っ越し おすすめ』と、打ち込むと物件情報が、次々と並んだ。
 築年数。駅からの距離。間取り。家賃。条件を変えては、また眺めて、気になる部屋を開いては閉じる。どこも、悪くはない。住もうと思えば、住める。それなのに、どの部屋も少しだけ他人の家に見えた。
 気づけば、何件かお気に入りへ保存している。指は、勝手に動いていた。それでも表情だけは、無表情だったと思う。——と、そのときだった。検索窓へ残っている『壁が厚い』という文字が、目に入った。

「……っ」

 思わず画面をそのまま消した。自分で入力したはずなのにそんな言葉を探していたことが恥ずかしくて仕方ない。頬が熱い。ビールのせいなのかそれとも別の理由なのか、自分でも、もうわからなかった。

「一年も住んでないのに、引っ越しかぁ……」

 無駄な独り言が、静かな部屋へ落ちる。現実はすぐに、追いかけてきた。
 敷金。礼金。仲介手数料。引っ越し代。家具も買い替えるなら、その分のお金もいる。頭の中で自然と貯金残高を思い浮かべる。厳しいな。仮に引っ越したとして、それで何が変わるのだろう。通勤時間が、長くなるかもしれない。会社は好きだし、仕事にも、不満はない。人間関係だって、恵まれている。生活そのものを変える理由なんて本当は、どこにもないはずなのに。
 ——理由。引っ越しを考える、本当の理由は。そこまで考えて私は目を閉じた。考えたところで答えなんて出ないから。
 四本目の缶へと手を伸ばす。そのときだった。こん、こん、と。静かな部屋へ乾いた音が響く。

「……。」

 反射的に、顔を上げる。これは、壁じゃない。玄関だ。時計を見る。二十一時四十二分。こんな時間に誰だろう。宅配の時間ではない。友人なら連絡くらい入れるはずだ。胸の奥が、理由もなくざわつく。ゆっくり立ち上がり玄関へと向かう。モニターを見ることも忘れたままチェーンだけを掛けて、ドアを少しだけ開いた。

「……どちら、さまですか。」

 ドア越しに、声をかける。返事を待つ数秒が、ひどく長かった。息を潜めるような静けさのあと聞こえてきたのはこの一週間、忘れようとしても耳の奥から消えてくれなかった、あの声だった。

「宅配便でーす」

 あまりにも棒読みで、思わず肩の力が抜けた。張り詰めていた緊張も、その一言で少しだけほどけていく。小さく息を吐くと、向こうがふっと、静かになった。少し遅れて困ったような、それでいてどこか、気の抜けた笑い声が聞こえてきた。

「あー、バレるよね。そりゃそうか」
「……声が、とても特徴的なのでね」
「そっぁ。じゃ、褒め言葉ってことにしとく」

 くっと喉の奥で笑って、それから、小さく息を吐く音。言葉が、返せなかった。それを知ってか知らずか、すぐに声は返ってきた。

「開けなくていいよ。渡すだけだから」

 チェーン越しの細い隙間から白いコンビニ袋が差し出される。私は思わず目を見開いた。揺れた袋の中にはポカリスエットとレトルトのおかゆ。それからレジ前に並べられていたであろう、グミらしきパッケージが、透けて見えた。

「左腕こんなだからさぁ。買い物するだけでも、結構、一苦労で」

 腕の固定具はもう取れていた。久しぶりに見る顔は数日前より少しだけやつれて見える。困ったように眉尻を下げて笑っているのに、その笑顔はどこか無理をしているようで、胸の奥が痛んだ。

「本当は、サイドキックにでも頼むつもりだったんだけどー。みんな、出払っちゃっててさ」

 言い訳みたいに付け足す。でも、そんなことをしなくても、このヒーローなら翼で、どうにでもなるだろう。たとえば——ベランダに置くとか。だから、わざわざ私の玄関をノックする理由には少しもなっていない。

「わざわざ、こんな……ただの隣人に」
「……」
「すみませんね。ありがとうございます」

 その言葉を口にした途端に、廊下の空気が少しだけ止まった気がした。金具のチェーンが小さく揺れる。その向こう側で、彼が、視線を落とした気配だけが、伝わってくる。

「ただの隣人かぁ」

 誰に聞かせるでもない、小さな独り言だった。やがて、袋が静かにドアノブへ掛けられる。

「……じゃ、俺もう帰るね」
「はい。お大事にしてくださいね、ヒーロー」

 足音が遠ざかる。そのまま帰るのだと思った。だから私も、ゆっくり扉を閉めようとして——。けれど数歩進んだところで足音が止まる。背中を向けたまま、ぽつりと声だけが返ってきた。

「その呼び方、やめてくんない」

 振り返りはしない。それでも、その一言だけは思っていたよりもずっと、寂しそうに聞こえた。

「……だって、あなたはヒーローなので」

 そう答えても彼は動かなかった。廊下の照明に伸びた影だけが、静かに揺れている。

「……ホークスでいいって、言ったじゃん」
「でも、もう……」

 喉がひどく乾いていた。それでも引き返したら駄目だと自分に強く言い聞かせる。私は少しだけ息をついてから、言葉を継いだ。

「あなたは……人気ヒーローで、今はただの隣人です」

 その瞬間だった。ゆっくりと振り返った彼と、目が合った。チェーン越しの狭い隙間。蜂蜜色の瞳が真っ直ぐこちらを見ている。その顔は少しも笑ってなどいなかった。

「隣人」

 その一語だけを、改めて、確かめるように繰り返す。静かな声だった。だからこそ、胸の奥まで届いてしまうのだ。

「俺って、そんな簡単に切られる存在だった?」

 何も返せなかった。返したくなかった。返してしまったらまた揺らいでしまいそうだったから。
 唇をきゅっと結ぶ。落ち着け。もう私たちは、終わったのだ。早いか遅いか、それだけだった。だからなるべく、できるだけ何ともないですって顔をしないと。でも、だけど——。

「引き止めなかったくせに……」
「……」
「……そうだねって、自分で言ったくせに」
「……」
「もう近づかないって……なかったことにって」

 彼は目を伏せ、小さく息を吐いた。その吐息に彼が何を押し込めたのかはわからない。きっと、いつものように、笑おうとしたのだろう。けれど口元に浮かんだのは、少し苦い笑みで、いつものような軽さには、まったく届いていなかった。

「言ったよ。言った。だから守ろうとしてる」

 右手がぎゅっと握られる。浮き上がった血管が白い廊下の明かりでうっすらと浮かんで見えた。彼がそっと顔を上げる。その視線だけが、私から逸れない。

「でも、連絡先、消さなかったのは名前ちゃんでしょ」
「着信拒否する前に、そっちから連絡がきたの」

 言い返した途端、彼は「あ……」と小さく声を漏らした。ほんの一瞬だけ困った子どもみたいな顔になる。

「……それは、そうなんだけど」

 頭を掻く。左腕はまだ少し痛むのか、右手で。その顔に、苦笑いが滲んでいた。

「ごめん。ずるかった」

 少し間を置いて吐き出されたその一言だけが、静かな廊下へ落ちた。どちらも、何も言えない。時計の針だけが進んでいくような、沈黙だった。それに耐え切れなくなって、咄嗟に口を開く。

「とにかく……本当に、お大事にしてください」

 このまま立っていたら、また何か余計なことを言ってしまう。そう思って私はドアを閉めようとした。その一言だけを残して。今度こそ。これで終わりにしよう。そう思った、そのときだった。

「名前ちゃん」

 呼ばれてしまった。手が止まる。あと少しで、閉まるはずだったドアがそのまま動かなくなる。そして追い打ちをかけるように、彼の静かな声が続いた。

「泣いてる……?」
「——泣いてない! 酔ってるだけ!」

 反射だった。思ったより大きな声が出てしまい自分でも驚いた。一瞬だけ、沈黙が落ちる。それから彼は小さく笑った。いつものように軽く笑う声ではなく、どこか、力の抜けた、優しい笑い方だった。

「ビール、何本目?」
「……何本でも、いいでしょ」

 もう顔なんて見られなかった。見たら、絶対に泣いてしまうから。だから私は、最後の力を振り絞るようにして言い放った。

「じゃあね、ヒーロー。……さようなら」

 ばたんとドアを閉めた。チェーンが乾いた音を立てる。向こう側は静かだった。足音はまったく聞こえない。きっと、飛んで行ったのだ。逃げるようにして。翼が風を掴む音さえもうここまでは届かない。私はそのまま、ドアへ背中を預ける。力が抜けていき、ずるずると床へと座り込んだ。膝を抱えようとして、途中でやめる。
 酔っていたから。だからあんなことを……八つ当たりみたいなことを、言ってしまった。

『さようなら』

 違う。本当はそんな言葉を言いたかったんじゃない。今すぐ取り消したい。謝りたい。
 スマホを開けば、まだ送れるだろうか。そんな考えが浮かぶ。でもすぐに自分で、そんな考えを打ち消した。もう恋人じゃない。友達でもない。壁一枚向こうに住むだけの、人気ヒーロー。それだけの人。そう、思い込もうとするたび、胸の奥だけが、きりきりと痛んだ。
 目の縁が熱い。泣いてないと言った。本当に、泣いてはいなかった。まだ、今は——。
 床の冷たさだけが、やけにはっきりと伝わってくる。しばらく動けなかった。時計を見る気にもなれない。
 それでも五分、十分と時間だけは過ぎていってようやく立ち上がると足元がわずかによろけた。ビール缶は四本。私には、十分すぎたのだろう。コンビニ袋を持ち上げる。おかゆはパウチだからそのままテーブルに。飲み物だけでも、冷蔵庫へしまおうと袋の中を探ると、グミの下から一枚の紙が滑り落ちた。レシートだ。何気なく裏返した瞬間、殴り書きの文字が、目に飛び込んでくる。

『ごめんね。でも、お隣さんでいることだけは、許して』

 思わず息が止まった。字が、少し乱れている。急いで書いたのだろうか。もう、振り回されたりしない。あんな、いい加減なヒーローなんかに。
 何が「泣いてる?」だ。ほんと、デリカシーがない。信じられない。その辺の若いチャラ男と、同じじゃないか。
 レシートを、テーブルへ叩きつけた——つもりだった。けれど、思うほど力は入らず、紙は情けない音を立てて、ぱさりと置かれただけだった。コップに水を注ぎ一杯飲む。足りなくて、もう、一杯。それでも、胸の奥の熱だけは、少しだって引いてくれなかった。
 スマホを手に取る。返信画面ではカーソルだけが、静かに点滅していた。打っては消し消してはまた打つ。謝るのも違う。怒るのも、違う。言いたいことはいくらでもあるのに、どの言葉も違う気がして、最後に残ったのは、たった、一文だけだった。


レシート裏に書かないでください







 送信した途端に既読がつく。その数秒後には、着信画面へと切り替わっていた。しかも、ビデオ通話だ。出ないという選択肢もあったはずなのにそれでも指は迷わず画面を押してしまう。本当に私は、あのヒーローにだけは甘い。映し出された彼はベッドに腰掛けていた。髪は、寝癖のように乱れていて、いつもなら、器用に整えられている前髪も、少しだけ額に落ちている。その姿だけでまともに休めていないことがわかってしまった。私はやや早口で、言いたいことを、そのまま口にした。

「もうあなたの身勝手には付き合いきれません。自分の立場を考えて行動してください」

 ホークスはすぐには返事をしなかった。何度か瞬きを繰り返し、そのあとに少し視線を落としてから、小さく息を吐き出す。

『立場、ね』
「はい」

 画面越しに、視線が合う。逃げることも逸らすこともなく、ただ静かに、私を見つめていた。

『俺がヒーローだから?』
「……そうです」

 目元がゆっくり細められる。長い沈黙だった。画面の中で喉仏がひとつ上下する。少しだけ間を置いてから、彼は続けた。

『じゃあ聞くけどさ、名前ちゃん』
「……」
『俺が、ただの一般人だったら?』
「......一般人でも、あなたはホークスなので」

 一瞬、胸の奥が小さく揺れた。それでも答えは変わらなかった。彼はいつだって、ホークスだ。
 彼の唇から小さく息がこぼれた。笑ったのかもしれない。逆に、そうでは、なかったのかもしれない。もうわからない。ただ、その表情だけは、どこかひどく、遠くに感じられた。

『そっか』

 短くこぼれたその一言は、納得というよりも、自分に言い聞かせるためのものに聞こえた。
 画面の中で、右手が静かにシーツを握る。その指先にだけ、力が入っていることに気づいてしまって胸の奥がじわりと痛んだ。彼は少しだけ目を伏せて、それからこちらを見て、静かに続ける。

『わかった。俺からは、もう連絡しない』
「……はい」

 声は驚くほど穏やかだった。だから余計に本気なのだとわかってしまう。私は何度、彼から突き放されればいいのだろうか。喉の奥が詰まって、それ以上の言葉は、もう出てこなかった。

『おやすみ』

 返事をする間もなく通話が切れた。画面が暗くなる。私の顔だけが、黒い画面にぼんやり映っていた。
 スマホを伏せて浴室へ向かう。蛇口をひねると冷たい水が頭から肩へと容赦なく、流れ落ちた。アルコールで熱を持った体には冷たすぎるくらいだったのに、不思議と心だけは少しも冷えてくれない。頭が痛い——当然だろう。あれだけの量のビールを一気に飲んで、そのまま冷水を浴びたのだから。自分でも呆れる。
 髪もろくに乾かさないまま、布団へ倒れ込む。頬に触れた枕がひんやりと湿っていた。これは、涙じゃない。私の髪だ。

「……っ」

 なんなの、あのヒーロー。思えば最初からそうだった。初めて声をかけてきたときから、距離が近くて人懐っこくて、誰にでもあんなふうに笑う人なんだと思っていた。やっぱりチャラい。そう何度も言い聞かせるのに、その言葉だけが少しも胸には落ちてくれなかった。枕を軽く叩く。一度だけ。腹立たしいほど力は入らなくて、枕は柔らかく沈むだけだった。
 入居したばかりの頃。引っ越し業者が帰って、部屋の中には積み上がった段ボールだけが残っていた。どこから手を付ければいいのかわからなくて床に座り込んだままぼんやりしていたあの日。壁の向こうから、不意に、明るい声が聞こえた。

「お隣さーん? よろしくねー」

 壁越しだった。本来なら、聞こえるはずのない距離だったから今思うと、あれはきっと、個性の剛翼で、こちらの動きや振動を拾ったのだろう。
 あのとき私は嬉しかった。優しそうな人だな、なんて。あの頃の自分を、今なら思い切り殴ってやりたいと思う。


 *


 土曜日。目覚ましだけは律儀に鳴った。先週は休日出勤だったけれど、今日は、休みだ。急いで起きる理由もないし起きたところで誰かと約束があるわけでもない。布団に潜ったまま天井を見つめる。時刻は、十一時を回っていた。カーテンの隙間から差し込む陽射しだけが、もう、昼に近いことを教えてくる。

「なんで私は、ここまで男運が悪いんだよ……」

 天井に向かってぼやいてみても、返事なんて、あるはずがない。
 ——男運。思い返せば、ろくな恋愛をしてこなかった。学生時代に付き合っていた彼氏は別れたあとで三股をかけていたことがわかった。社会人になってから、真面目そうな顔で声をかけてきた人は実は既婚者だった。奥さんが知る前に終わらせたけれど、しばらく男性不信になった。そして今。日本のNo.2ヒーローに振り回されている。
 スケールだけは順調に大きくなっているのが、余計に腹立たしい。その瞬間、お腹がぐう、と、鳴いた。なんとも締まらない音だった。私は勢いよく身体を起こす。

「……よし!やっぱり引っ越そう。うん、それがいい」

 人間、お腹が空くと、妙な決断力だけは、湧くらしい。パジャマのままノートパソコンを開き、検索欄へ打ち込む。『引っ越し 見積もり 即日対応』——検索結果が、ずらりと並ぶ。最短で、二週間後。繁忙期ではないものの、週末を挟むとやはり少し時間がかかるらしい。
 見積もりフォームを開き、住所や間取りを入力していく。現住所。荷物量。希望日。そこまでは何も考えず進められた。けれど希望エリアの欄で不意に指が止まる。
 どこへ行きたいのだろう。会社へ通いやすくて治安が良くて、スーパーが近くて。条件はいくらでも挙げられる。それなのに一番最初に浮かんだ条件は別だった。あの、赤い羽が見えない場所。ベランダに出ても。ニュースを見なくても。偶然空を見上げても。あの人を、思い出さなくて済むくらい、遠い場所。そんな距離が、この街のどこかにあるのだろうか。考えるのも嫌になって私は勢いのまま、今度はスマホを手に取った。

「……引っ越し代、全額あのヒーローに請求してやるんだから!」

 あえて声に出してから、半分やけくそで相手の連絡先を開いてメッセージ画面を呼び出し文字を入力する。送信……した。数秒後、自分の送った画面を見て、血の気が引く。

「……え。……えぇっ!?」

 腹いせに文字を打つだけのつもりだった。すぐ消す予定だった。なのに現実では、しっかり彼、ホークスへと送られていた。慌てて取り消そうとした次の瞬間、既読のマークがついてしまった。
 早い。早すぎる。怪我で、左腕が不自由でも、メッセージに既読を付ける速さだけは、信じられないくらい早かった。



引っ越すの?







どこに?

費用なら俺が出すよ







 最初は一言だけ。絵文字もなかった。そして、少し間が空いてから、続けて、二通が届く。悪い意味で眉間に皺が寄ってしまう。私は小さく舌を打ち鳴らして、指先に力を込めた。



あなたの知らないところに







 ——送信。画面が、静かになる。一分。二分。
 既読はついたままなのに、返信はまだ来ない。『入力中』の表示も現れない。まるでその一文を前に言葉を失ってしまったみたいに。そうして、五分ほど経った頃だった。テーブルの上に置いたスマートフォンが小さく震える。メッセージではなく、着信だった。画面に表示された名前を見た瞬間、胸がぎゅっと縮こまる。
 出ないほうがいい。そう思ったのに指は勝手に通話ボタンを押していた。本当に、救えない。

「……はい」

 返ってきたのは言葉ではなく呼吸だけだった。電話越しに、静かな息遣いだけが聞こえる。何か言おうとしているのに、うまく、言葉にならないような沈黙。やがて、掠れた声が落ちてきた。

『……ごめん』

 その一言だけで、胸の奥が、じくりと痛んだ。『ごめん』と言う短い言葉の中にひとつでは足りないくらいの意味が、詰め込まれている気がしたからだ。約束を破って連絡してしまったことへの謝罪なのか。それとも、私を、引っ越しまで追い込んでしまったことへの謝罪なのか。あるいは、そのどちらもなのかもしれない。答えは、わからない。ただ、ひとつだけわかるのは、その声が、いつもの肩の力の抜けた、軽やかさを失っていたことだった。

『知らないところって……どこ?』
「……まだ、ちゃんとは決めてません」

 スマホの向こうで、小さく息を吸う音がした。何かを飲み込むような短い呼吸。それから静かに言う。

『……じゃあ、決まったら教えて』
「引っ越し代、全額請求しますよ。本気で」
『うん、払う。全部』

 迷いはなかった。その返事があまりにも自然で思わず、笑いそうになる。笑えるはずなんてないのに。気づけば言葉が先にこぼれていた。握ったスマートフォンが、少し汗ばんでいる。

「私はね……ここ、気に入ってたんですよ」
『……』
「お隣さんが人気ヒーローなんて知ったときは、びっくりしたし、不安もありました。でも防犯面では、安心だなって思って」

 自分で言ってから少しだけ笑う。自分でも驚くくらい、懐かしい話でもするような口調だった。それでも、喉はまだ熱い。

「それで、なんだか仲良くなって……毎日がちょっと楽しくなって」
『……』
「酔っ払って、キ……キスなんかしちゃいましたけど……でも、結局は、こうして振り回されて」
『……』
「でもっ!……あ。あの……ごめんなさい」

 完全な八つ当たりだった。わかっている。それでも、止められなかった。彼は、何も言わない。耳に届くのは、回線の向こうに誰かがいるという気配だけ。やがて、静かに口を開く。

『……謝らんでよ』

 穏やかな声だ。肩の力を抜かせるような優しさではなく痛みを押し隠したまま絞り出したような声。そのまま彼は、少し間を置いて続ける。

『八つ当たりでいいけん。もっと言ってよ』
「……もう、全部言いました」

 スマホの向こうからは、小さく笑う音がした。いつものように人を安心させる笑い方ではない。どこか、力なく息を漏らしたような笑いだった。少しだけ笑みを含ませようとして、結局隠しきれなかったような声。

『……全部? ほんとに?』
「……」
『名前ちゃーん?』
「好きって言ってもらえて、嬉しかったです」
『……』
「——はい。感想文、終わりです」

 言ってしまってから自分でしまったと思った。止める前に口が勝手に続けていた。だから慌てて話を終わらせた。スマホの向こう側で息が詰まる気配がした。そして何かを飲み込むような呼吸が一つ聞こえたあと、少し遅れて声が返ってくる。

『……感想文て』

 その声はほんのわずかに震えていた気がした。それでも私は、できるだけ、淡々と続ける。

「ありがとうございました、仲良くしてくれて」

 十秒か、それ以上だったのか。時間の感覚が、曖昧になるくらい長い沈黙のあと、ようやくまた彼が口を開く。

『……仲良く、ね』

 その言葉だけを、ゆっくり繰り返す。まるで、その言葉だけでは、足りないとでも言いたげに。

「彼氏って言ってもらえて……嬉しかったです」

 電話の向こうではっきりと息をのむ音がした。嬉しかった。私は無意識に過去形で話していた。もう、終わったこととして。それを聞き逃すような人ではないと誰より私自身が知っていたのに。

『……過去形にせんで』
「もう、過去形ですよ」

 彼の一言に胸の奥がきゅっと縮んだ。それでも言葉を返した途端に、自分で自分の胸を、抉ったような気がした。

「あなたから始めて……あなたから終わらせたんでしょ」

 責めるつもりなんてなかった……たぶん。それでも口から出てしまった以上もう引き返せない。
 ホークスは何も言わなかった。否定できなかったのだろう。『なかったことにしよう』と最初に言ったのは他でもない彼だった。通話の向こうもこちらの部屋も同じ静けさに沈んでいく。時計は動いているはずなのに、秒針の音さえ遠く感じる土曜日の昼中。

『……俺さ』

 ようやく聞こえた声は、ひどく頼りなかった。テレビやニュースで聞く、No.2ヒーローの声ではない。ただの、一人の男の声だった。

『……あの夜のこと、なかったことにしようって言ったの』
「……」
『あれ、嘘』

 胸が小さく波打つ。彼は、少し息を吐いてから小さく続けた。

『なかったことにしてもらったら傷つかんで済むって、自分に言い聞かせとっただけ』
「……」
『怖かったっちゃん……』

 言葉が、ゆっくり途切れる。その一言だけが、ひどく、弱かった。

『名前ちゃんの中で、あの夜のことなんて酔った勢いで終わらせる話になるんかなって思って』
「……」
『俺なんか、その程度だったんだって思って……だから——』

 その先はもう続かなかった。私は目を閉じる。そんなふうに考えていたなんて、知らなかった。ようやく絞り出した自分の声は情けないくらいに小さい。

「酔っ払ってたから……それは、ごめんなさい」
『ううん、謝るのは俺のほう』

 スマホの向こう側で、首を横に振ったような、衣擦れの音が聞こえた。それから苦笑するように息を吐く。その拍子に、負傷した左腕がどこかへ当たったのか、小さく息をのむ音が混じった。

『酔っとる子にあんなことして、最低やね、俺』
「それは違います」

 思わず声が大きくなる。慌てて咳払いをして、声の調子を少しだけ落としてから続けた。

「私が……隙だらけだっただけで」

 一瞬だけ、スマホの向こうで空気が緩んだ気がした。それから、かすかに笑う気配。そして少しだけ間を置いて。

『それは、そう』
「……っ、」
『隙ありすぎやったのは、知ってる』

 軽口を返そうとしたのだろう。けれど、声には力がなくて、笑いにもなりきれなかった。

「……ごめんなさい」
『謝るの、もう禁止』
「じゃあ、なんて言えば……」
『……わかんないなら、何も言わなくていい』

 返事は、少し遅れて返ってきた。ずいぶんと、掠れた声だった。それでもその言葉だけは、迷いなく届く。電話の向こう側で小さく息を吐く音がして、私もつられるように息を吐く。
 優しかった。どうしようもないくらい優しくてその優しさが胸の奥へゆっくり沈んでいく。とりあえず何か言わなければと思って、言葉を探して口を開く。

「……わかりました。じゃあ、これからはその、元隣人さん、という感じで——」
『元隣人は嫌だなぁ』
「……」
『……あと、さよならも嫌』

 思わず息が止まる。子どもみたいだった。若きトップヒーローが言う台詞には思えないくらい、真っ直ぐで、不器用だった。私は少しだけ笑う。すると、スマホの向こう側でも小さく笑う気配がした。

「じゃあ……そうだな。知り合い、とかなら」
『うん、まだマシかな』
「それくらいなら、ニュースにも、ならないかもしれませんしね」
『ニュースて……俺、そんなに珍しい生き物?』

 ホークスは、私の返しに少し笑ってから、そう続けた。さっきまで張りつめていた声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。それだけで、泣きそうになった。

『……じゃあさ。知り合いとして一個だけ聞いていい?』
「……なんですか?」
『引っ越したあとも、ちゃんとご飯食べる?』

 あまりにも脈絡がなくて、一瞬意味がわからなかった。でもその声は冗談なんかではなかった。本気で、心配している声。

「……お母さん、ですか?」
『彼氏はもう名乗れんしね……お母さん役でも、しよっかなーって。てか、する』

 ホークスは照れ隠しみたいに笑ってから、少し間を置いて、独り言のように続ける。

『片腕使えんとさ、惣菜選ぶだけでも結構、時間かかるっちゃん。だから、ちゃんと食べて』

 自分の話なのか私の話なのか、もうよくわからない。人の心配をしている場合じゃないのに……この人は最後まで私のことばかり気にしている。

「引っ越したら——もう……会えませんよ」

 気づけば私は、口が勝手に動いていた。静かになる。その沈黙だけで、彼がその意味をゆっくり受け止めていることが、伝わってきた。そのまま相手が短く息を吐く。そうして、少し笑うような気配がしてから。

『……うん。ごめんね』
「……」
『俺、なんか、ずるずる引っ張っちゃって……』

 ——違う。ずるずると引っ張っていたのは私のほうだ。そう、言いたかった。でも、その言葉は喉の奥で止まったまま、とうとう口にはならなかった。

『……じゃあね。』

 返事をするより早く通話が切れる。私が切ったのかホークスが切ったのか。ほとんど同時だったのだと思う。画面には通話時間だけが静かに表示されていた。——十二分と四十七秒。
 隣にいたいなんて、最初は思っていなかった。ただ、お隣さんとして、挨拶を交わせるくらいで十分だった。
 それなのに一緒にご飯を食べるようになって。笑い合う日が増えて。『彼氏・彼女』と、呼べる相手になって。気づけばそれが当たり前みたいになっていた。守られていた。何度も何度も。あの大きな赤い翼に。ありがとうと伝えたい場面は、いくらでもあった。好きです、と返せる瞬間も、きっとあった。なのに私は肝心な言葉だけを最後まで言えなかった。

 胸の奥がじくじくと痛む。土曜日の午後。窓の外は、雲ひとつない青空だった。電線には小さな鳥が何羽か並んでいて、ときおり羽ばたいては、また、別の場所へ飛んでいく。もちろん、赤い羽ではない。テーブルの上には、あのレシートが、まだ置かれていた。裏返せば、震えた文字が今も残っている。

『ごめんね。でも、お隣さんでいることだけは、許して』

 私はそっと指先でその文字をなぞった。消えてしまえば少しは楽になれるのに、鮮やかなまま、そこに留まっている。消えない。紙に染み込んだインクも。そして、消えてほしいと願ったはずの私の気持ちさえも。それだけは、最後まで、私を許してはくれなかった。
 行き場を失った想いは、どこへ行くこともなく今もここにある。胸の深底へと沈んだまま静かに呼吸を殺している。ただ『消えない』ということだけが、この部屋に彼が存在していた確かな証のように思えて、胸の奥を重く締め付けていた。


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