日曜日が過ぎて月曜日が来た。続けて火曜日、水曜日と数日が経っても、世界は何事もなかったように回り続けている。朝になれば家を出て満員電車に揺られ、いつものオフィスで、パソコンを開く。同僚と挨拶を交わしコーヒーの香りが漂うフロアで仕事をする。メールを確認して頼まれた資料をまとめて、昼前になれば時計を見ながら、あと少しだと、小さく息を吐く。何ひとつ変わらない。変わらないはずだった。
その日も午前中の業務をいつも通りに片付け、昼休みを告げる時間になると周囲の席から椅子を引く音や、弁当の包みを開く音が聞こえ始めた。私も手を止めて、何気なくスマートフォンを手に取る。ほんの数分ニュースでも眺めてから昼食にしようと思っただけだった。そのとき、何気なく開いたニュースアプリのトップに見慣れた名前が飛び込んできた。
『速すぎる男、復帰戦で圧巻。剛翼の負傷から、わずか一週間で——』
添えられていた写真には青空を背に大きく翼を広げたホークスが写っていた。左腕を巻いていた包帯は、もうない。あの夜に見た、痛々しい姿が嘘だったみたいに、いつものヒーローがそこにはいた。記事を開く。スクロールすると称賛のコメントが、途切れることなく並んでいる。
『かっこいい』
『復帰おめでとう!』
『やっぱりNo.2』
『結婚して〜!』
私は何も書き込まずそっと画面を閉じた。久しぶりに持ってきた手作り弁当を開き卵焼きを一口だけ口へ運ぶ。いつもなら好きな味のはずなのに甘いのかしょっぱいのか、それすら曖昧だった。なんだか口の中にあるはずの味までどこか遠くへ置き去りにしてきたような気がした。
その日、退勤して駅の改札を抜けると、いつもより騒がしい空気が流れていた。駅前ロータリーに人だかりができている。その中心に立つ一人の男。私服姿だ。キャップを深く被りサングラスとマスクで顔を隠している。それでも隠しきれないオーラ。背丈。立ち姿。人混みの中でも、自然と視線を集めてしまう空気が確かにあった。そんな中で、小学生くらいの女の子が色紙を両手で差し出している。ヒーローホークスは右手だけで器用にサインを書くと、しゃがんで目線を合わせた。
「はい、ありがと。大事にしてね」
そう言って女の子の頭を優しくぽんと撫でる。その笑顔は、テレビで見るプロヒーローそのものだった。自然で。柔らかくて。誰もがきっと好きになってしまう笑顔。そのときだった。サインを書き終えた彼の視線が、人垣の向こうをゆっくり流れる。そして私のいる方向で止まった、ような気がした。距離は、かなりある。あの人混みの中から、一人を見つけられるはずなんてない。それでも唇がほんのわずか、勝手に動いていた。
「がんばって」
声は届かない。それでも、目ざとくて耳ざとい彼には私の口の動きがはっきり見えたのか、その瞬間ホークスの手が止まった。しかしすぐ隣では次のファンが、スマートフォンを構えている。
「ホークス! 写真撮ろ〜!」
呼びかけられた彼は、何事もなかったように、笑う。ほんの一瞬だけ止まっていた時間が、また動き出す。プロの笑顔。プロの距離感——けれど気づかれないくらい自然に赤い羽が一枚だけ風もないのにふわりと浮いた。まるで小さく手を振るみたいにして。
私は、足を止めなかった。イヤホンを耳へ押し込み、人混みを避けるように歩いていく。背中の向こうでは歓声が上がりシャッター音が重なっていた。それでいい。立ち止まればあのヒーローは必ずこちらに向かってくる。そうすると、騒ぎになる。彼にも周りにも迷惑がかかる。今はただの顔見知り。今の私たちはそれ以上でも、それ以下でもないのだから。
マンションへ、帰る。エレベーターで上がり、玄関の鍵を開ける。当たり前に隣は静かだった。部屋へ入り、靴を脱ぎ、明かりをつける。視界の隅に片付けきれていない段ボールが残っていた。しゃがんで蓋を開けてみる。中には文庫本がぎっしり詰まっていた。
引っ越したら、新しい本棚を買おう。一冊ずつ並べていく作業は、嫌いじゃない。本の背表紙を揃えている間だけは、余計なことを考えずに済むから。そのまま何冊か、ぱらぱらと捲っていた頃だった。廊下から、誰かの足音が聞こえてくる。重たく響く足取りではない。軽く、跳ねるようでいて、ほんの少しだけ引きずる癖のある歩き方。聞き間違えるはずがない。毎日のように、聞いてきた足音だったから。
——がちゃり。静かな廊下に、隣室の鍵が開く音が響いた。
「ただいまー」
思わず手が止まった。一人暮らしなのに、誰へ向けて言うでもない「ただいま」。違う——彼はたぶん、壁の向こうにいる、誰かへ向けて言ったのだ。返事はしなかった。してしまえばまた元に戻ってしまいそうだったから。
私は、何事もなかったように本をまた一冊手に取り、背表紙を眺める。著者名を五十音順に揃えながら箱の中へしまい直していく。壁一枚隔てた向こうでは、コンビニ袋らしきものを探る音が、がさがさと響き続いて冷蔵庫の扉が開いて閉まる音がして、そして、そのあとに……。
「……あれ、食べるもん全然ないじゃん」
その言葉に口元が緩みそうになる。そういえば前から、そうだったことを思い出す。彼の場合、独り言が全部、筒抜けで聞こえる。本人はそれに気づいているのかいないのかわからないけれど。
「……買いに行くかあ。めんどくさ」
ぼすんとソファへ身体を投げ出した音がした。それきり静かになる。疲れているのだろう。復帰したばかりだ。怪我は治ったと、ニュースでは、言っていたけれど、身体が元通りとは限らない。
それからどれくらいの時間が経過しただろう。私は気づけば、手に取った文庫本を半分ほど読み進めていた。同じ姿勢を続けていたせいで、腰が悲鳴を上げている。そのまま足を伸ばすと太ももまで痺れていた。なんとか立ち上がり冷蔵庫からペットボトル取り出し水を一口飲み時計を見る。二十時。そこでようやく夕飯を食べていないことを思い出した。もう一度、冷蔵庫を開けてみる。ビールが三本と卵が二個。少し、しんなりとした可哀想なキャベツ。
「貧相すぎ……」
私こそ、買い物へ行かなければ。そう思って、鏡を見る。まずい……ジャージだ。髪も、適当に結んだだけ。この格好でコンビニへ行く気力は、正直なかった。そのとき。ピンポーンと、静かな部屋へ、インターホンが鳴り響いた。モニターを覗く。金髪に黒いパーカー。右手には、コンビニ袋。そして左手には、なぜか、焼き鳥のパックを二つ抱えている。
「……なん、ですか」
警戒心を隠しもせず、モニター越しに尋ねるとホークスは、カメラに向かって焼き鳥のパックを持ち上げた。
「差し入れー」
画面越しに目を細めてみると——。もも、皮、ねぎま……。二パックとも、まだ、湯気が残っている。そこで彼が少し笑った気配がした。そして肩をすくめて言う。
「駅前の『鳥よし』で買ってきたの」
「……」
「あそこのおばちゃん、俺のこと知らないから、毎回オマケしてくれるんだよね」
「……」
「——で。二つ、もらっちゃった」
本当だろうか。嘘か真実か、判別がつかない。いや、この人なら、半分くらい嘘を混ぜていてもおかしくないだろうと思う。
「ほら、一人で二パックは多いし」
「……じゃあ、いただきます」
モニターを切り玄関まで歩いて一度、深呼吸をしてから、チェーンを掛けたまま扉を開く。隙間から、焼き鳥のパックを受け取ろうとした瞬間、彼が少しだけ腕を引っ込める。そうして、困ったように笑った。
「これ——」
「……」
「チェーン外してくんないと渡せないんだけど」
見た目よりも彼は、腕が長い。少しくらいなら隙間から差し込めそうなのに、わざと、そうしている気がした。個性を使えば、簡単だろう。でも彼は、使わない。私が嫌がりそうなことだけは、ちゃんと避ける。
「入りますよ、この隙間から」
「……」
「……ありがとうございます」
私はチェーンを外さないまま、隙間から器用に受け取ってみせた。それでも彼の腕はまだ、引っ込まない。未だ焼き鳥のパックごと玄関の隙間に留まったままだ。渡す気があるのかないのか……そして、ホークスがそのまま、静かに尋ねる。
「ご飯、食べた?」
「……これからです」
そう答えると、彼は小さく頷いた。それから、パックに添えていた手をようやく離し、そのままスウェットのポケットへとしまった。
「中、見ていい?」
言いながら、チェーンの向こうから玄関の奥をそっと覗き込もうとする。その声には探るような響きはなく、ただ、本当に心配しているだけなのだとわかってしまう。それが少しだけ、困った。
「……なんでですか」
「いや……。ビールの空き缶しか、見えんやったけん」
彼は隠そうともせずに、どこか、気まずそうな笑みを浮かべた。けれど、それは、ほんの一瞬のことだ。この、ほんの少し開いた玄関の隙界から部屋の奥まで覗き込めたわけでもないのに——。
「ちゃんと……見えてるじゃ、ないですか」
呆れを滲ませた声が自分でも驚くほど低く零れ落ちた。私の視線を受けると彼はわずかに口角を上げた。まるで、皮肉を笑みに紛らわせるような表情だった。
「剛翼で振動拾った」
得意げでもなく、かと言って、自慢する風でもなく、ただ当然の事実を述べるような淡々とした口調。その軽やかさが、余計に私の神経を逆撫でした。そんな局面でばかり、その並外れた能力を都合よく使うのだ、このヒーローは。
「便利ですね」
私は口元を歪めてみせたけれどそれが自分でも痛いほど分かるくらい、冷ややかで、感情の籠もらない笑いだったことは隠せなかった。
「隣人と仲良くなって、恋人ごっこまでして……挙句の果てには、自分から関係を切り捨てて」
「……」
「……それなのに、何事もなかったみたいに差し入れなんて持って来られるんですもんね」
胸の奥から湧き上がる熱い塊が喉を焼き言葉が堰を切ったように溢れ出していく。彼の手によって引かれた境界線を踏み越えたいわけじゃない。ただその器用な立ち回りが無性に許せなかった。
ホークスの顔から表情がすっと消え去る。貼り付けられていたはずの笑みが、その形のまま硬直した。
「さすが……No.2ヒーローです。ほんと、勉強になります。見習わなきゃ」
届いた。言葉の刃が、まっすぐに、彼の胸元を穿ったのだと分かった。いつもなら、軽口で受け流すはずの男が、反論の一言さえ見つけられずにいる。
「……怒ってる?」
「ええ、すごく」
彼の瞳の奥を見つめ返し、その問いから逃げることなく、まっすぐに答えた。彼の腕が、力無く下がり、もう片方の手で握られていたコンビニのレジ袋が、二人の間に漂う歪な静寂の中で微かに揺れた。重たく沈んだそのポリ袋の音が私たちの距離の遠さを、あからさまに、突きつけてくる。それでも胸の疼きは収まらなかった。私は攻撃の手を緩めることなく、息を吸い込んだ。
「私は関係が終わったことに怒ってるんじゃありません」
「……」
「自分から距離を縮めておいて、自分から終わらせて、それなのに……」
視界が歪むのを誤魔化すように、私は苛立ちを込めて首を振った。吐き出す言葉の数だけ、胸が押し潰されそうに苦しくなる。
「何事もなかったみたいに笑ってるあなたに腹が立ってるんです」
静寂が廊下に重たく落ちる。大声を張り上げているわけではないのに、自分でも抑えが効かないほど、言葉が、次から次へと溢れ出していった。私は一度だけ深く息を吸い込み、固く結んだ唇を開く。
「人の気持ちを弄んだり、傷つけたりするのは、そんなに楽しいですか」
私の言葉にホークスが顔を上げ目を見開いた。プロヒーローとして、完璧に貼り付けられていたはずの笑顔が、完全に崩れ去った瞬間だった。
「人の気持ちを投げて、遊んでるんですよね……その個性の剛翼で、簡単に操るみたいにして」
「……別に、弄んだりなんか、」
彼は言いかけて喉を詰まらせた。私の目を正面から見据えたまま、言葉の続きを、無理やり飲み込む。その黄金色の瞳が、微かに揺れていた。
「あなたは、誰かに愛されたいと思ったこと……一回もないの?」
「……なにが。」
「誰も心なんて、開いてくれないですよ。自分が心を開かないのに誰かが開いてくれるわけない」
「そんなもん、生きていく上で必要ないじゃん」
「じゃあ、何が必要なんですか。自由?……人を傷つけて手に入れる自由ですか」
「……喧嘩売っとる?」
「許す気なんてないですから。相手の100の気持ちに2くらいの気まぐれで答えてるようなあなたのことなんて、一生」
彼は眉間に深い皺を刻み奥歯を噛み締めるようにして感情を押し殺した。それから、掠れた声で静かに問いかけてきた。
「……俺、そんなふうに見えとった?」
「ええ、ずっと」
間髪を入れずに強く頷く。ホークスは悔しそうに唇を強く噛む。もう今は笑うこともお調子者を演じることもできていない。ただ怒られた子供のように傷つき、どう立ち回ればいいのか分からず立ち尽くす顔をしていた。その顔を見てしまっても、私の怒りと悲しみは止められなかった。一度溢れ出した冷たい熱は、二人を苛烈に巻き込んだまま、止まってはくれない。
「キスなんて、あなたにとっては大したことじゃないんでしょうね」
「……」
「来るもの拒まずって感じですか。すごい。人気ヒーローは違いますね」
相変わらず喉が痛くて、私は言い終えて、苦笑した。ホークスが、一歩だけ後ろへ下がる。コンビニの袋を持ったまま。それは、逃げるようにも見えた。
「……違う」
とても低い声だった。これまで、聞いたことがないくらい静かな声。
「来るもの拒まずとか、そんなんじゃなか」
「嘘つき」
言葉が重なる。彼の言葉を遮るように言った。息が震える。笑おうとして、できなかった。
「無個性の何の取り柄もない一般人を振り回して楽しかったですか」
「……」
「よかったですね。私みたいなネットで騒いだりしない相手で」
ホークスは何も返さなかった。私と向かい合っていた位置からほんの少し横へずれる。そのまま玄関脇の壁に背中を預けるようにして静かに寄りかかった。逃げようと思えば、いつだって飛べる人なのに。今はただ、そこから動こうとしない。
「……もう、帰ってください」
喉の奥が熱いままで、息を吸うたびに痛くて、それでも言葉は、止まってくれなかった。
「もう、これ以上……惨めな思い、したくない」
最後の一言だけ、声が震えた。怒っているからじゃない。怒りで覆い隠していたものがとうとうこぼれてしまっただけだった。
「二度と、ヒーローなんかと、関わりたくない」
廊下が静まり返る。古い蛍光灯だけが小さく、じじっと鳴いた。ホークスは動かない。帰ってと言ったのに。その場から、一歩も動かなかった。しばらくして、ようやく彼が口を開く。
「ごめんね」
落とされたのは、拍子抜けするほど静かな一言だった。「違う」という反論も弁明も、「そんなつもりじゃなかった」という取り繕いもそこにはもう存在しない。ただまっすぐに自分にだけ向けられた、たったひとつの謝罪がどんな冷酷な言葉よりも強く二人の間に横たわる冷えた空気の中にぽつりと取り残されていた。
「全部、俺が悪い」
コンビニの袋が、小さく音を立てる。持ち手を握る指先に少しだけ力が入っているのが見えた。ホークスは、目を伏せたまま、小さく続けた。
「やっぱり、引っ越すったいね……」
「……」
「……そっか。ヒーローなんか、か」
その言葉だけが妙に静かに耳へ残った。返事ができなかった。肯定することも否定することも。何を口にしてもこの人をまた傷つけてしまう気がしたから。けれど、もう十分に傷つけてしまっている。そう思えば、今さら言葉を選んで取り繕うことにも意味がないような気がして私はただ息を呑んだ。
「……連絡先も、消してください……」
ホークスは一瞬だけ固まったあと、黙ってポケットへ手を入れた。そしてスマートフォンを取り出し、ロックを解除する。その指先が震えていたのか、それとも私の目がそう見せただけなのか。この距離ではもう、わからなかった。彼が壁から背を離して、画面をこちらへ向ける。連絡先——『名前ちゃん』というその文字が、いつも通り、そこにあった。
親指がゆっくりと削除の項目へ近づいていく。その動きをどうしても、目で追ってしまう。止めたい。でも止める資格なんて私にはない。すると彼の親指が、削除ボタンの上で止まった。
「……消すよ。今」
淡々とした、静かな声だった。けれど、私には分かってしまう。今にも泣き出しそうなのは——他でもない彼の方なのだと。それに気づいた瞬間胸が強く締め付けられ、喉の奥が熱く詰まった。
「……ホークス……ごめん、なさい……っ」
彼の親指が画面の上で止まったまま、あと少し押し込めばそれで終わる距離で、それでも彼は、押さなかった。代わりに、小さく笑うような息が漏れる。
「……なんで、名前ちゃんが謝るの」
「たくさん、迷惑……かけたので……」
言葉が最後まで続かない。ホークスは、画面を閉じるでもなく、ゆっくりとスマートフォンを、下ろした。削除は、しなかった。
「迷惑なんかじゃない」
静かに、でも、はっきりと言った。その声には少しも揺らぎがない。彼は、視線を落としたまま短く息を吐いて続ける。
「……俺さ、さっき言われたこと、全部——」
「……」
「来るもの拒まずとか、弄んだとか。そう思われても、仕方ないことした」
彼は小さく頷いて、そこで一度、言葉を切ると手にしていたコンビニ袋を、玄関の前へ、そっと置いた。
「でもさ、」
「もう、やめて……」
「お願い、最後まで聞いて」
ホークスが、顔を上げる。チェーン越しに私を見つめる目はもう笑っていなかった。胸が痛い。その先を聞いたら、戻れなくなる。だから私は、笑おうとした。廊下の灯りを受けて、彼の両耳の赤いピアスだけが、静かに光る。
「好きって言ったことも、キスしたことも」
「……」
「俺にとっては、簡単なことじゃなかった」
彼は少しだけ息を吸う。そのまままっすぐ私を見た。その視線から逃れられそうになくて、私は思わず苦笑して、何度か首を縦に小さく振った。
「……そう、ですか。なるほど、わかりました」
「……」
「気持ちだけ、受け取っておきます、ね……」
喉が詰まって最後の言葉はほとんど息だった。ホークスが、ゆっくりとチェーンに手を伸ばす。外そうとしたわけじゃない。冷たい金属へ指先をそっと、重ねただけ。
「……受け取る、だけ?」
「……はい。もう……何も返せません」
私は一度だけ固く目を閉じて覚悟を決めるようにそっと開く。視線が交わった瞬間、ホークスはチェーンから、静かに手を離す。引き止めようとする気配すら見せない、そのあまりの呆気なさに胸の奥が、冷たく冷えていく。拒むこともすがることも許されないような驚くほどあっさりとした潮引きだった。
「わかった」
それだけ言って、背中を向ける。自分の部屋の方へと。しかし彼は、少し歩いてから思い出したように、振り返らず続けた。
「焼き鳥、食べてね。あと、飲みすぎんように」
「……」
「袋の中……ポカリと栄養剤、入れとるけん」
振り向かないまま、小さく笑った気配がした。足音が遠ざかる。隣の部屋の前で止まり鍵が回る音。そして、扉が静かに閉まった。乱暴な音は、しなかった。最後まであのヒーローらしかった。廊下にはコンビニの袋だけが残される。私はその場へと座り込んだ。チェーンを掛けたままドアへ背中を預ける。冷たさがじんわり伝わってくる。涙は出なかった。泣く資格なんてないと思った。泣いていいのは、きっと、私じゃない。
思わず手に持っていた自身のスマートフォンを見る。通知は何もない。当然だ。誰からも来ないに決まっている。もう片方の手の中のパックを、開けてみる。炭火の香りが、ふわりと広がった。柔らかな鶏肉に甘辛いタレが、よく絡んでいる。駅前の『鳥よし』。前に一度だけ、一緒に買って帰ったことがあることを思い出した。
『ここの焼き鳥、コスパいいっちゃん』
そう笑っていた声が、不意に、よみがえった。気づけば、手が伸びていた。熱を含んだ長ねぎが口の中で静かに、ほどけていった。
*
どれくらいそうしていたのだろう。時間の感覚は、すっかり曖昧になっていた。ようやく重たい身体を起こし、玄関の扉を少しだけ開ける。コンビニ袋を手元へ引き寄せて部屋に入れ静かに鍵を閉めた。焼き鳥のパックは、もう、湯気を失っていて、透明な蓋の内側には細かな水滴が浮かんでいる。それでも、まだ、ほんの少しだけ温もりが残っていた。その温もりがなくなるまで私は何もできなかった。
気づけば時計の針は午後十時半を回っていた。部屋の空気が少し息苦しく感じて、夜風に当たりたくなる。音を立てないよう、ガラス戸をそっと開けてサンダルを履く。ひやりとした風が、頬を撫でる。息が白くなるほどではない。けれど昼間とはまるで違う、夜の冷たさだった。なんとなく隣を見ると、仕切り板を挟んだ向こう側、朝にはなかったはずの折りたたみのアウトドアチェアが置かれていた。今は、誰も座っていない。空にはいくつか星が瞬き、街灯の橙色が、静かな路面を照らしている。遠くでパトカーのサイレンが鳴り街のどこかへ吸い込まれるように消えていく。
これから先、また誰かを好きになる日なんて、訪れるのだろうか。今度はもっと、穏やかな人がいい。こんなふうに、心をぐちゃぐちゃに、かき乱されない人。
「……っ」
……違う。そうじゃない。胸の奥で小さな声がする。私は、ホークスを好きになっていたんだ。だから苦しかった。だから終わったことがこんなにも痛い。人気ヒーローに少し優しくされてキスなんてされて、その気になって……。ほんと馬鹿みたいだ。
缶ビールを片手に、夜風へ当たる失恋なんて、映画なら少しは様になるのかもしれない。でも、現実はジャージ姿にぼさぼさの髪。誰にも見せられないくらい格好悪かった。
そのときだった。風向きが変わる。赤い羽根が一枚夜風へ乗ってふわりと仕切り板を越えて頼りなく揺れながら私の足元へ舞い降りる。反射的にしゃがんで拾うと指先へ触れた羽根は、ほんのり温かかった。まだ体温が残っている。思わず視線を上げると、仕切り板の向こう側——アウトドアチェアの背もたれから赤い羽根の先だけが少し、覗いていた。
(……いたんだ。)
いつから。ずっと?じゃあこの羽根を返そう。そう思って立ち上がる。でも、向こうへ渡せば、また、顔を合わせることになる。
私は、手の中の羽根を見つめたまま迷っているうちに、返すきっかけを失ってしまった。ならば部屋へ戻ろう。そう決めて、音を立てないようにガラス戸へ手を掛ける。けれど、思ったよりも、大きな音が鳴ってしまった。反射的に振り返る。仕切り板の向こうから蜂蜜色の瞳がこちらを見ていた。
「あ……」
見つかってしまった。板一枚。それだけしか、離れていない。夜の暗さは互いの姿を少し隠してくれるのに、不思議なくらいに表情だけは、よく見えた。ホークスが、静かに口を開く。
「……焼き鳥、どうだった?」
さっきまでの痛そうな顔は、まるで見せない。無理にでも、いつもの自分へ戻ろうとしている。その、あまりの彼らしさに観念して、私は小さく頭を下げる。
「……美味しかったです。ごちそうさまでした」
彼は、ふっと目元を緩めた。そしてほんの少し笑った。照れくさそうな、それでいて満足そうな顔で。
「そっか、よかった」
それ以上は何も言わない。こちらへ来ようともしない。引き留めようともしない。ただの仕切り板一枚。その距離だけは、最後まで越えようとはしなかった。夜風だけがその境界を何度も静かに行き来していた。
「あの、さっきは——」
「羽根、拾った?」
私の言葉を遮るように、彼が、静かに尋ねた。謝ろうとしていたことを、見透かされたようで、思わず手元を見る。赤い羽根はまだ指先に挟んだままだった。
「あ……はい。返します。これ」
私は慌てて、手を差し出した。しかし相手は、「いや」と受け取ろうともせず首を横に振った。
「いいよ。あげる」
あまりにもあっさりとした返事だった。思わず目を瞬かせる。彼にとってこの羽根は感覚器官の一部だ。落ちたものとはいえ、そんな簡単に人へ渡していいものではないはずなのに。
「お守り代わりにでもしといて」
「え……。い、いりません……」
戸惑いが先に立ってしまい反射的にその羽根を差し出すと、ホークスは、少しだけ困ったように笑った。仕切り板の向こうで翼が小さく揺れる。それでも受け取ろうとしたのだろうか。一瞬だけ手を伸ばしかけて、けれど途中でやめたらしい。彼はそのまま、肩をすくめる。
「……じゃあ、捨てていいよ」
その言い方が妙に寂しく聞こえて胸がちくりと痛む。指先は彼の羽根を手放せなかった。捨てることも、返すこともできない。そのあいだ、夜の静けさだけが二人のあいだへ降り積もっていく。
どこかの家のテレビの音も、車の走る音さえも聞こえない。風だけがときおり仕切り板を撫でて通り過ぎるだけ。やがてホークスが手にしていた缶ビールを持ち上げた。そのままこちらへ向けて軽く掲げる。まるで普通に乾杯でもするみたいにして。
「一人晩酌、付き合ってくれん?」
眉を下げて、情けなさそうに笑う彼に、思わず私は「はい……?」と、聞き返した。
「なんで、私が……」
「俺の羽根を、持っとる人やけん」
「……は?」
意味がわからない。相変わらず首を傾げて困惑している私に対してホークスは視線を私の手元へ向けてから、平然と「ほら」と、続けた。
「名前ちゃんも、ビール持ってるしさ」
理屈になっていない。けれど本人だけは至って真面目な顔をしていた。いや。目元だけ、ほんの少し笑っている気がする。
「……あなたと今さら、何を話すんですか」
「別に?」
彼が缶のプルタブを起こす。ぷしっ、と乾いた音が夜へ溶けた。そして一口飲んでから穏やかな口調で続ける。
「何も話さんでもいいよ」
「……」
「ただ、同じ時間に外で飲んどる人がおるって、それだけで」
その言葉が妙に胸に残った。何かを取り戻そうとしているわけじゃない。無理に、近づこうともしていない。ただ、同じ夜を、過ごしたいだけ。本当に、それだけなのだと伝わってくる。
「……まあ、今日だけ、なら……」
「ありがと」
私が、観念したように缶を少し持ち上げると、ホークスも静かに缶を掲げた。仕切り板を挟んで小さく乾杯する。私の缶の中身は冷えている内に飲めばよかったと思うくらい、ぬるくなっていたけれど、それでも、構わなかった。手すりへ軽く身体を預けると彼も向こうで椅子へ深く腰掛けた気配がした。二人とも何も話さない。それなのに不思議と、居心地は悪くなかった。時々聞こえるのは缶を傾ける音だけ。私が夜空を見上げているあいだ彼は風の音を聞いていたのかもしれない。
仕切り板の幅はほんの数十センチ。越えようと思えば簡単に越えられる距離。けれど今の私たちにはその数十センチが何より遠かった。近すぎるのに、遠い。そんな曖昧な距離のまま、静かな夜だけが、ゆっくりと流れていった。そして何度か缶を傾けた頃、不意に彼が口を開いた。
「……星、見える?」
唐突にそう尋ねると、ホークスは静かに夜空を仰いだ。私もつられるようにして、彼が見つめる闇の先へと再び、目を向ける。
「……二つ、くらい」
「どれ?」
「……、あれと。……あと、あっち」
私が指した先とホークスが見上げていた方向はまるで違っていた。その事に気づいたのだろう。隣から、ふっと笑う息が聞こえた。
「それ、たぶん同じ星」
「え」
「角度が違うだけ」
思わず夜空を見直す。それでもやはり私には、二つとも、違う星に見えた。
「どっちかが一番星だと……思ったんですけど」
「一番星は、夕方見えるやつね。今見えとるのはただの星」
軽い口調で、あっさりと訂正される。この人は本当になんでもできてしまう人だ。何だって器用にこなしてしまうし、私の知らないことまで全て見通しているのかもしれない。そう思うと、ただ自分の不甲斐なさに、苦笑するしかなかった。
「……詳しいんですね」
「空飛ぶ仕事やけんね」
短く笑う。それだけの会話だった。それなのにまた胸が少しだけ痛くなる。気づけば口が勝手に動いていた。
「ホークスには……きっとどの星も、同じに見えるんでしょうね」
ホークスの、缶を持つ音が止まる。そのまま、静かな沈黙が流れた。
「……どういう、意味?」
「言ったまんまの意味です」
私は、視線は空へ向けたまま答える。とても、横を向ける状態ではなかった。唇を噛むと、少しだけ、血の味がした。
「誰にでも同じように優しくして、相手が勘違いしても、それに対して何も思わないんだろうな」
「……」
「自分の裁量で対応して、相手が傷つくこととかまったく、気にしないんでしょうね」
缶を口へ運ぶ。ぬるくなった缶ビールは当たり前に、美味しくなんてなくて、そして少しだけ、苦かった。するとホークスが、ぽつりと言う。
「……俺、そんな器用じゃない」
彼は缶のラベルを見つめたまま続ける。けれど見ているようで何も見ていないような目だった。そして、小さく息を吐く。
「全員、同じには見えてないよ。——もし、そうだったら……」
そこでホークスは言葉を切り少しだけ笑った。けれどそれは横目に見ても、寂しい笑みだった。
「さっき追い返された時点で、部屋じゃなくて、普通に空に帰ってる」
「……」
「……証明しろって言われたら、困るけど」
「でしょうね」
自分でも驚くくらい、平坦な声だった。信じることを、もう諦めた人の声。彼は、苦く笑った。そしてゆっくり立ち上がって缶を手すりへ置く。こつりと乾いた音が響く。
それ以上、言葉は続かなかった。夜風だけが、二人の間を、抜けていく。向こうのマンションに立つ旗がぱたぱたと小さく揺れていた。私はまたぬるいビールを一口だけ飲む。何も言わない時間だけが少しずつ長くなっていく。やがてホークスが、少しだけ間を置いてから言葉を紡いだ。
「……ねえ、名前ちゃん」
「はい」
「俺のこと、嫌い?」
私は手元の缶を見つめた。答えなんてとっくに決まっている。でも——その答えを口にしたら、本当に、すべてが、終わってしまう気がした。
「……嫌いに、なりました——」
喉が詰まりながら笑うように言った。自分でも嘘だとわかる声音で。語尾だけが、力なく夜風へ溶けていく。それでもやっぱり、棒読みになった気がした。ホークスは何も言わない。ただ小さく息を吐く音だけが聞こえた。笑ったのか、諦めたのか。そのどちらだったのかはもうわからない。代わりに缶の中身を飲み干す音がした。そして、空になったアルミ缶を指先で軽く弾くとからんと乾いた音だけが、静かな夜へ長く響いた。不意にホークスが、小さく笑う。
「名前ちゃんってさ、嘘つくの下手だよね」
缶を握る手に力が入る。だめだ、泣きそうだ。私は唇を噛んで眉間に皺を寄せ、必死に涙を引っ込める努力をした。
「……私はヒーローみたいに、知らんぷりなんかできません」
「……」
「何もなかったみたいに振る舞えるほど器用でもないので」
返事はなかった。缶の底に残っていた、最後の水滴が、ぽたりと落ちる。手すりに小さな染みが広がっていく。ホークスは、黙っていた。軽口で誤魔化すことも、笑って流すこともせず、ただ、静かに息をしている。そして、ようやく聞こえた声は、ひどく弱々しかった。
「俺……」
「……」
「何もなかったみたいにしたこと、あった?」
「……ずっと、してたじゃないですか……」
言葉が自然とこぼれ落ちる。身体を預けていた仕切り板の角へ背中が当たり、小さく音が鳴る。その音だけがやけに大きく聞こえた。ホークスが大きく息を吐き出す。
「……そっか。そう、見えとったんやねぇ」
「ええ、完璧ですよ。尊敬します、ほんと……」
笑おうとして、また失敗する。鼻の奥がつんと痛い。私はそのまま視線を落として、それでも、かすれた声で笑った。
「今度、機会があったら教えてくださいね」
「……」
「その何事もなくヘラヘラ笑っていられる方法」
私の言葉に対する返答はない。ただ、薄い木板一枚を隔てた向こう側で、微かに気配が揺れた。一度は椅子に沈み込ませた身体を、引き上げたのだとわかる。自分にはもうここに留まる資格などないのだと素直に受け入れた者の、静かな諦念がその動きから滲んでいた。
「ごめん。俺のやり方が、ぜんぶ間違ってた」
それ以上、何も続かない。言い訳もしないし、弁解もしない。ただ、謝られるとこちらは困る。怒っていたはずなのに、その怒りの置き場がなくなってしまうから。
板の向こうから気配が消える。椅子を片づける音もしない。足音さえ、聞こえなかった。残ったのは、空になった缶と、手すりに残る小さな水滴だけ。そのときになって、初めて気づく。さっきまで握っていた赤い羽根が手の中からなくなっていたことに。落として飛んでいってしまったのかもしくは彼が回収したのかも、思い出せない。
「……好き、だったのにっ」
声が自然と漏れる。誰に聞かせるつもりもない小さなただの独り言。喉の奥で、言葉が震えた。
「好きに、なったのに……最低」
自分へ向けたのかホークスへ向けたのか。もう自分でも、よくわからない。
私はそのまま部屋へ戻り、勢いよくガラス戸を閉めた。ばん、と鈍い音が夜へ響く。向こうまで聞こえただろうか。聞こえてしまったかもしれない。暖房もつけていない部屋はさっきまでと何も変わらないはずなのに、今は別の場所みたいに、冷え切っていた。立っていられなくて、そのまま床へ座り込む。膝を抱え、額を押しつける。
好きだった。そう自分の口が言った。過去形にしたのは、その方が少しだけ楽になれる気がしたから。そうしないと、壊れそうだったから——。本当は、少しも、過去なんかじゃない。聞こえていなければいい、と願う。でもきっと、聞こえてしまっただろうと思う。彼の個性は空気の震えを拾う。仕切り板一枚、隔てた声くらい、聞き逃すはずがない。それでも、確かめる術はなかった。
窓を閉めたこちら側とあちら側。たった一枚のガラスと板が、二人の世界を静かに隔てていた。