夜の街は雨上がりのような匂いがした。福岡の夜風はどこか、湿り気を帯びていて、けれど、その重たさが、今日ばかりはどこか、心地よかった。
センターの仕事を終えて急いでホテルに戻り、最低限の身支度だけを整えて、ロビーに降りる。約束の時間ぴったりに現れた彼は、あいかわらず私の好きな白地のTシャツを選んでいた。
というか、あれは明らかに、私の心をわかって着ているのだろうと思う。あざとい……。
「名前さん、こんばんは。おまたせしましたー」
第一声からその調子だ。待たせたのは確実に、私のほうなのに……。わざとらしく一礼までしてみせるものだから、私は思わず苦笑いした。
「そんなかしこまらなくていいよ。こっちが少し遅れただけだし」
彼はにこっと笑って、エスコートのように私の前に立った。
人目を気にして、少し距離を保って歩いていたのに、信号待ちでふと近づいてきたとき彼の指がそっと、私の指先をくすぐるように触れた。振り払ったりしたらまた彼を傷つけてしまうだろう。だから私は、そっとその指を握り返した。
「……名前さん」
「ん?」
「今日は、名前さんとふたりでいられるって思うだけで、昼間ずっと機嫌よかったんですよ、俺」
「え、
「よかったですよ?あれが、精一杯隠してたつもりだったんです」
あっけらかんと笑うその顔がずるいほどに愛おしかった。歩きながら会話を重ね、たどり着いたのは街はずれの静かなレストラン。あらかじめ予約してあったのだろう、彼は何も言わずに私を先に通してくれる。
こぢんまりとした個室のソファ席。背後に小さなランプが揺れていて、間接照明のぬくもりが、私たちの影をゆっくりと伸ばしていた。
食事は特別なものじゃなかった。けれどたぶん私はこの先ずっとこの夜の味を忘れないだろうと思った。どんな会話をしたか、よりも。どれだけ笑ったか、よりも。彼が、ただ彼でいてくれた、その安心だけで、胸がいっぱいになったから。
「……今日、言ったでしょう。」
デザートが出てくる前に彼がぽつりと呟いた。
「逃げないでください——って。」
私は手元のグラスをいったん置いてゆっくりと彼を見た。
「あれね、俺自身に言った言葉だったのかもしれないです」
「……え?」
「ほんとはちゃんとした形で言いたいことがたくさんあって……でもずっと、タイミングばっかり見てた」
「……」
「そしたら、あなたの背中ばっかり追ってる感じになって」
「……」
「だから今度はちゃんと並んで歩いていきたい。俺……名前さんの、となりがいいです」
その言葉に返事をしたかどうか覚えていない。ただ私は、微笑んで頷いた気がする。それだけで彼は満足そうに息をついた。そして——
「……じゃあ、今夜はうち、来ます?」
まるでここまでの流れはすべてこのひとことのためにあったのかと思わせるくらいに自然にそう言ってきた彼。私は思わず、吹き出した。
「……結局、いつもどおりの流れだね」
「はい。でも、今日はちょっと……本気で、来てほしいです」
いつものように、おどけたようでいて、その声だけは、ずっと、まっすぐだった。
食事を終えて店を出ると、外の空気は少しだけ冷たかった。福岡の夜は東京よりも空が広く感じられる。きらきらと星が散った天蓋の下で、私は彼の少しうしろを歩いた。黙っていても不安じゃなかった。
マンションへ向かうタクシーの中、彼はずっと黙って窓の外を見ていた。カーステレオから流れる昭和歌謡が、妙に沁みる。どうやらそれは彼も同じだったらしく、それがたまらなく可笑しくて私は堪えきれずに笑った。
「ねえ……ちょっと、なに真面目な顔して聴いてるの」
「や……沁みますよね。今日の気分にぴったり」
「ええ? どのへんが?」
「好きになっちゃいけなかったの——ってとこ」
ふざけているのかと思ったのにその声は真面目だった。私は思わず視線を逸らしながら窓ガラスにうつった夜の街を眺めた。
到着したマンションのエントランスで彼が先に降りてドアを開けてくれた。まるで、昔の映画のワンシーンみたいに。
「さ、どうぞ。遠慮なく」
「何度も来てるのに、その言い方、笑っちゃう」
エレベーターのなか、ふたりきり。密閉された静寂に包まれてなぜか鼓動が速くなる。彼の肩に触れそうな距離にいて触れない。けれど空気だけがすでに交わっている。その事実が、くすぐったくもあった。部屋に入ると、彼は上着を脱ぎながら言った。
「シャワー、先どうぞ。タオル、新しいのに替えておきました」
「……ありがとう」
「あと、リビングのソファに、名前さんが好きなクッション置いてます。あの、硬すぎないやつ」
私は、呆れたように笑いながら、バスルームに向かった。そして洗面台の鏡の前で自分の表情を見た瞬間思った以上に柔らかく笑っていた自分に気づいた。
シャワーを終えて用意されていたバスローブ姿でリビングに戻ると彼は既にソファに横になっていて、私を見るなり手招きしてきた。
「ここ、ここ。来てください」
「なに……その、犬みたいな誘い方」
「えー、そんなつもりなかったんですけど」
「……犬の呼び方だったよ、確実に」
「ははっ、まあまあ。ほら、早く。」
言われるままソファへ歩み寄り、彼の目の前に立つとそっと両手を取られた。指先にぬくもりが絡んだ、その次の瞬間——
「……じゃあ。恋人の特権ってことで、ちょっとだけ、甘えてもいいですか?」
出た……。まるで本物の犬みたいな顔だ。どうやら犬は、彼のほうだったらしい。
私は笑って、素直に彼の隣に座った。ソファはふたりで座ると少し狭くて、気づけば彼の肩が、私の肩に当たっていた。ただそれだけで胸の奥があたたかくなる。そして、私から口火を切った。
「ねぇ」
「うん」
「今夜は、なに話す?」
「んー。なにも話さなくても、いいですけど」
そう言って彼は私の髪にそっと手を伸ばした。指先が優しく髪を梳いていく。そんなことだけでひどく満たされてしまいそうになる。不思議だ。
「……あなたがここにいることが、信じられないときがある」
「私も。たまに、ね」
唇が触れるだけのキスをひとつ。そして、もうひとつ。時間はゆっくりと深く沈んでいく。夜のしじまが、ふたりを丸く包み込む。言葉はもう、いらなかった。私はただ彼の腕の中で静かに目を閉じた。あたたかくて、やさしくて、胸の奥が、きゅっとなる。この夜の輪郭がどうかいつまでも溶けませんように、と——。
寄り添って座った、ソファの上。彼は、ふっと小さく息を吐いて私の髪を撫でた。その指先が、まるで、猫でもあやすみたいに、ゆっくりと。
「……寝てもいいですよ」
くすぐるような声。でも私は、その言葉に首をふる。
「まだ、起きてる」
「じゃあ……話します?」
「うーん。話すこと、なんかある?」
そう問いながら見上げると、彼の目元がほんの少しだけ困ったように、でも嬉しそうに緩んだ。
「好きって、言ってもいいです?」
「……」
「言わなくてもわかってるのは知ってます。でも、言わずにいられないときがあるんですよ」
「……なに、それ」
「あるんです。こうして隣にいられるときほど」
「ふーん……」
「好きですよ、名前さん。誰よりもいちばん」
私は彼の胸元に顔を寄せた。Tシャツの生地の奥に規則正しい心臓の音が聴こえる。私のものと少しだけ違うリズムで、でも似たような静けさをたたえている。
「……今夜はホークス、甘えんぼさんなんだね」
「違います。今夜は、寂しんぼうさんなんです」
「どっちも、似たようなもんでしょ」
肩が小さく揺れて、彼が笑った。それから私の手をとって自分の指のあいだに一つひとつ絡めるようにして、ぴたりと繋いだ。
「この手、離したくないなぁ……向こう帰ってもこうしてずっと、隣にいてほしい」
「え? 東京に帰っても、隣にいてほしい?それどういう意味?」
「んー、……どーいう意味なんでしょうねぇ」
「えー、なんじゃそりゃ」
彼の言葉は甘えるようでもあって、どこか——儚げな祈りにも似た響きだった。私はそれ以上、何も返せずにただその手をぎゅっと握り返した。やがてふたりともソファから腰をあげて、毛布にくるまり、並んでベッドに横になると彼がそっとこちらを向いて言った。
「……こっち見てくれないと、寂しいです」
「見てるよ。見てるけど……」
視線を合わせると彼は静かにキスを落とした。まぶたに、頬に、額に──それから最後に、くちびるに。
「今日も好きです。明日も、明後日も、ずっと」
「……私も。」
そう答えた声は、少し掠れてしまって、それをごまかすように、彼の胸に額を預けた。彼は何も言わず抱き寄せて、背中を撫でてくれた。
このままずっと、眠れなくてもいいと思った。心の奥が、ゆっくりと、ほどけていくような気がした。触れることも声を交わすことも、すべてが『好き』に置き換わっていく、そんな夜だった。
*
朝の光は、カーテンの隙間からこぼれ、まだ、寝ぼけ眼の私の頬をやさしくなぞった。
隣にあった温もりはもうなくて、先に起きて、シャワーを浴びたらしいホークスが髪をタオルでざっと拭きながら、キッチンに立っていた。ベーコンとトーストの香ばしい匂いがあっという間に部屋全体に満ちる。私もゆっくりと身体を起こしキッチンに向かった。
「おはようございます、名前さん。寝起きの顔も、かわいいですね〜」
からかうように笑ってホークスはマグカップを差し出した。結局、昨夜は彼のマンションに泊まってしまった。だけど不思議と後悔はなかった。むしろ今こうして並んで朝の支度をしている事がいつか夢見た普通の恋人同士、そのもののようで少し、胸の内があたたかくなる。
朝ごはんを食べてから準備を終えると私たちはそろって福岡の街へと繰り出した。
「まずは、天神あたりでもぶらっと歩きますか。昼は、屋台でラーメンでもどうっすか?」
彼はキャップを目深に被りサングラスをかけていたけれど目立たないはずがなかった。彼の歩く先々で、ちらちらと視線が向けられて、スマホを構える手も見える。
私は少し、距離を取って歩くことにした。彼のファンたちに変な誤解を招くのも避けたかったし何より彼の笑顔が、誰にでも平等に優しいことを知っているから。けれど——そうして少し離れたタイミングのときだった。
「ねぇねぇ〜、そこのキレイなお姉さん、一緒にお茶でもどげんねー?」
軽い調子の声に振り返ると数人の若い男たちが私を囲むように立っていた。
「え、いや……」
「不安そうにキョロキョロ〜ってしとったけん。俺たちが道案内しちゃあよ♪」
「あー、いや……え、っと、」
戸惑いながら後ずさる私の肩に、ふいにすっと伸びてきた腕。次の瞬間には、その背中に生える赤い羽根が私を守るように間に割り込んでいた。
「ごめんね〜!このお姉さんねぇ、大事なうちのオペレーターさんなの」
「げっ、ホークス……」
「げーって、なんったい」
「あはは……違うって、困っとーて思うて」
「そっか。ありがと。でも、ちょーっとヤキモチ焼いちゃうんで、そういうの」
黒いグラサンの奥からでもわかる鋭い目つきに男たちはあっさりと引いていった。私は彼の背に隠れるようにして、小さく息をつく。
「……ありがと。でも、あんな言い方……」
「嫉妬したんで。」
ふいに手を握られる。その手は、少し汗ばんでいたけれど不思議と心地よくて私は何も言わずに指を絡めた。こうして彼の案内する福岡デートの一日が、始まったのだった。