夕暮れの空は、かすかに茜をにじませながら、海の端へと溶けていた。風が少しだけ冷たくて、でもそれが気持ちよくて私は小さく伸びをした。
「……こっち、夕日がよく見えるんですよー」
そう言って彼が案内してくれたのは、観光客の姿もまばらな小さな海辺の防波堤だった。昼間の喧騒とは打って変わって、静けさが波音とともに胸に沁みてくる。立ち止まった彼の隣に並ぶと、どちらからともなく、そっと肩が触れた。
「……ずっと、こうしてたいですね。」
今では口癖のようになってしまったその言葉を呟く彼の声は、ほんの風の中の一瞬で。でも私ははっきりとそれを聞いた。そして、なぜか今回もそれに答えることができなかった。返事をしようとすれば、心が先に震えてしまいそうで。だからその代わりに私は、彼の腕に自分の腕を絡めた。ゆっくりとでも確かに彼の輪郭をなぞるように。そして彼は、それだけで十分だと言わんばかりに嬉しそうに目を細めた。
海が夜に沈むころ、私たちは繁華街へ戻った。ネオンに照らされた屋台通り。あたたかい匂いと人の声が行き交うその中で、彼は、飴細工を覗き込んで、何やら真剣な顔をしていた。
「これ、名前さんに似てません?」
「……え? ぜったい、似てない」
「いや、似てる似てる。ほら、このあたりツンとしたところとか」
ふざけた言い方なのに彼の声はどこか愛おしさに満ちていて、私は顔を逸らして笑うしかなかった。こういう夜がずっと続けばいいのに。そんな気持ちが、私の胸の奥でも、そっと芽を出す。
ふたりで分け合った、明太おにぎりの温かさ。紙コップの甘酒のぬるさ。肩が触れたときの熱。その帰り道、彼がふいに言った。
「……ねぇ、名前さん」
「うん?」
「今日は、恋人同士って、感じでした?」
私はふと立ち止まり少しだけ考えて、それから彼の手をきゅっと握った。
「うん。ちゃんと、恋人同士って、感じだった」
彼はその返事に子供みたいな顔でわかりやすく顔を綻ばせた。満足そうに、そしてどこか、切なげに。
「……よかった。じゃあまた、明日も恋人でいてくれます?」
その言葉に、胸がひどくあたたかくなる。私はもう一度、しっかりと頷いた。
マンションの鍵がカチリと鳴って開いた瞬間、昼間の陽差しと喧騒とはまるで別世界のような、静けさと微かな湿気を帯びた夜の空気が出迎えてくれた。どこか寂しささえまとったその空間に、彼の気配が、すっと滑り込む。靴を脱ぐ音、鍵を無造作に置く音、そのすべてが静かに私の神経を撫でていく。
「ありがとう、今日は本当に……楽しかった」
そう口にしたのは私だった。でも次の言葉が、なかなか続かない。だから代わりにカバンに手をかけて、曖昧に笑ってみせた。
「そろそろ……ホテル戻るね。荷物、まとめたら出るから」
玄関脇に置いたキャリーケースを何気なく引き寄せようとした瞬間だった。背後から何かが空気を割くように動いたと思ったら私の身体は壁へと優しく、けれどはっきりと押し留められていた。
「いやです。
低く胸の奥に響くような彼の声が、左の耳元で囁かれる。息の熱が皮膚に触れた気がして思わずまぶたを閉じる。
「お願いです。少しだけ……もう少しだけ、今日の続きを、させてください」
そう言いながら彼は片方の手を壁についたままもう片方の手で私の頬を包み込み、躊躇うように唇を重ねてきた。柔らかく、けれど、確かに熱を持って──。そこには、昼間の明るさとは違う、夜の湿度があった。
キスは、ひとつだけでは終わらなかった。触れては離れ、また重なる。浅く、深く、また浅く。唇が覚える彼の形を何度も、何度も繰り返す。そのたびに身体の奥で、何かが微かに震えるのを感じる。息を吸う隙もないほどに彼はなにかを込めるように口づけてきた。
言葉にならない思い、熱、執着、愛しさ——。名もない約束のようなもの。私はそのすべてを、彼の唇から受け取ってしまっていた。
「……すごいですよね、キスって。何回しても、ぜんぶ違う……」
彼が私の額に自分の額をつけてそう呟いたとき私はもう、とっくに目を伏せたまま言葉を失っていた。彼の手が腰にまわり、私の鼓動に合わせるように抱きしめる強さを深めていく。空調のやわらかな風が揺れたカーテンをふわりと持ち上げていた。部屋の隅には昼間の光が置いていった淡い残り香が、まだ漂っている気がした。
──帰りたくない、なんて。言えるわけがないのに。でも、このままもう少し彼の腕の中で心も身体もほどけてしまいたい。そう思った。
唇がふたたび私の口元を探し当てる。そこからまた静かに、終わらないキスが始まった。キスの合間に彼の指先がそっと私の髪に触れた。撫でるでもなく掬い上げるでもなく、ただそこに触れているだけの体温のような動き。それがどこまでも優しくて、胸の奥が少しずつ柔らかく、ほどけていくのがわかった。
背を支えられ、脚が揃ったまま軽く私の身体が宙に浮いた。こうして抱き上げられる事に慣れてはいない。けれど、彼の腕の中にいると不思議と重力さえも柔らかくなる。
「あ……あぶないから、ちゃんと見て歩いて」
「見てますって。名前さんを——しっかり」
「ち、ちがう……、ほんと、危ない……よ?」
「俺は、ずっと、名前さんしか見てない。」
囁くようにそう返されて、私は俯いて、小さく笑った。まったく、このヒーローは……。
寝室の扉が、彼の肩越しに、静かに開かれた。部屋の灯りは落とされ天井近くに仕込まれた間接照明だけが淡く、世界を照らしている。ベッドの上には朝からきちんと整えられたリネンがしんと静かに広がり、私たちを迎え入れる場所として、そこにあった。ゆっくりと、私をシーツの上へと横たえながら、彼の動きが一瞬だけ止まった。
「……このまま、今夜もそばにいてくれます?」
問いかけるようなその目があまりに真っ直ぐで私は逃げようがなかった。ただ黙ってうなずく。それだけで、彼は深く息をついて、私の隣に身を横たえた。
何も急がない。何も強いられない。ただ視線と呼吸と触れ合う肌の温度だけが、夜の濃さを少しずつ移していく。額と額をそっと寄せたまま彼が言葉少なに囁いた。
「……ほんとはね、こわかったです」
「え……?」
「このままずっと、名前さんが、向こうのほうが大事になったら、って」
「向こう……ああ、東京……?」
「はい。距離って……少しずつ人の心を削るんですよ。たぶん、俺のほうが、ずっと脆い」
その言葉が胸の奥にじんと響いた。目を閉じると、彼の呼吸と重なるように、私の心音が遠くで鳴っていた。指先がゆっくりと彼の頬をなぞる。
「私は──ちゃんと、ここにいるよ。」
それだけで彼の肩がふわりとほどけるのがわかった。まるで小さな少年のように、腕を絡めて、額を寄せてくる。唇が再び、静かに、ゆっくりと私の首筋に降りていく。
言葉はなかった。ただ、何度も何度も、互いの存在を確かめるように──肌に、呼吸に、そっと重なり合う夜。無理に触れ合うのではなく、ただそばに在ることで、互いの孤独がやわらいでいくような、やさしくて深い夜だった。
そうして月の光がカーテンの隙間から射し込む頃、私たちは静かに手を繋いだまま互いの呼吸を抱きながら、眠りへと落ちていった。
*
まぶたを照らす柔らかな光に、私は目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む朝の光はどこか頼りなく、それでも優しく室内を照らしていた。
天井のラインが、ぼやけて見える。ゆっくりとまばたきを繰り返し身体を小さく伸ばすと右側に感じる熱に私は気づく。彼の背中だった。仰向けで眠る彼の胸が、ゆるやかに上下している。まだ眠っているらしい。寝起きの悪い人ではないはずなのに、今日は珍しく、すこし長く眠っている。
私はそっと起き上がると足元のブランケットを抜き取って彼の肩にかけてやる。昨夜、夢と現のあいだを漂うような静けさの中で重ねた体温が、まだ布団の内側に、うっすらと残っていた。
洗面所の小さな鏡の前で自分の顔を見た。髪はゆるく乱れ、頬にはほんのりと色が差している。知らず、微笑んでしまった。こんな朝が毎日続くとしたら。そんな、夢みたいなことを考えてしまった自分を、少しだけ、恥ずかしく思った。台所に降り注ぐ光がトースターの影を長く落とすころ、ようやく彼が目を覚ました。彼のぼさぼさの頭と寝起きの掠れた声が今朝の空気をひどく愛おしくしていた。
「……名前さん、いないかと思いました」
「いるよ。勝手に帰ったりしないよ」
そう言いながら私はコーヒーのマグを彼の前に置いた。彼は「嬉しいです」と呟くように言って両手で包むようにマグを持った。
しばらく、静かだった。スプーンでゆっくりとミルクを混ぜる音と、冷蔵庫の低い駆動音が響くだけ。けれどその沈黙のなかで私は少しずつ自分の心が変わりつつあることを認めざるを得なかった。
最初はただの遠距離の恋。ひとときの繋がり。けれど彼の中にあるまっすぐな温度に触れるたび私は、帰る場所の一部を彼に委ねはじめている。それがどれほど危うい事かもわかっているのに。なのに──
「……名前さん?」
不意に、彼が顔を覗き込んできた。「難しい顔してましたよ」と困ったように笑いながら眉間に少しだけ寄った私の皺を見つけて、そっと人差し指でこめかみに触れてくる。その仕草があまりにやさしくて、私は思わず瞬きをひとつ落とした。
「大丈夫。コーヒーがちょっと、熱かっただけ」
そう返して、また彼と目を合わせる。その瞳の中に、まだ言葉にできない約束のようなものが、宿っていた。
私がこれから何を選ぶのか。きっと彼は、急かしたりしない。でも、そこにいてくれる限り私は少しずつ自分の気持ちを形にしていくのだろう。そして彼もまた私と一緒にいたいという気持ちをまだ手放さずにいてくれているのだと私は感じていた。
朝の光の中で交わした短い言葉たちは、どれも飾らない、だけど確かな愛のかけらだった。この日々が続くのか、それともまた少し離れるのか。もしくは、いつか、終ってしまうのか。それは、まだ、誰にもわからない。でもたった今、この朝だけは——私たちのたしかな同じ未来を、そっと見つめていた。
*
扉が閉まる音がいつもより遠くに感じられた。朝の空気は澄んでいて、けれどほんの少し湿っていた。福岡の夏が少しずつ近づいていることを、肌が先に、感じている。マンションの前に咲いた紫陽花の影が、濡れたように舗道に落ちていた。
「こっち、暑くなってきましたねー」
並んで歩く彼がそう言いながら空を仰ぐ。私は、うんと頷いて、それからちらりと彼の横顔を盗み見る。少しだけ寝癖が残っていて目元には寝不足の名残があった。けれど、どうしてだろう。それすらも、いとしいと思ってしまう。
この数日のあいだに私はきっと何かを決定的に変えてしまったのだ。
彼が私をタクシーに乗せたあと窓の外から軽く顎をしゃくって「窓、開けて」と、口パクで合図した。言われるままに少しだけ窓を下ろすと彼は風に髪を揺らしながら、ふっと目を細めて——
「……昨日より、ずっといい顔してますね」
ぽつりと呟いたその声は、ほんのかすかに風に溶けて、けれど確かに私の耳に届いた。運転手の視線がルームミラー越しにちらりと揺れる。私は反射的に視線を落とした。
「運転手さん、安全運転でお願いしますねー」
と、彼はいつものように軽やかに言い残し手を振った。タクシーが静かに走り出すころにはもう彼の姿は、ゆっくりと後方に溶けていった。
──昨日よりも、いい顔。なら、明日はもっといい顔で会えるのだろうか。そんなふうに、少しだけ、先の時間を信じてみたくなった。