「──ねえ、エンデヴァーさんって��恋�≠ニか、するんですかぁー?」

 静まり返った室内に、そんな言葉を放ってしまった自分がいちばん驚いていた。重苦しい空気に慣れきったこの部屋に似つかわしくもなく飛んだ色気のある問いに目の前の炎柱が、書類の山から顔を上げた。あの目だ。燃え盛る炎の奥に宿る、冷たい硝子のような光。言葉を使わずに人を沈黙させる、静かな青の炎。

「……貴様。いま、恋──と、言ったか?」
「いやあの、なんていうか。すんません……」
「……」
「……ほら、比喩ですよ、比喩!たとえば任務の連携がうまくいきすぎてて、それってもはや、運命?みたい、な……」
「……」
「そういう、疑似恋愛的な、錯覚っていうか」

 苦し紛れに言い訳を並べながら俺は自分の羽でそっと後頭部をぽりぽりと掻いた。こんな自分を見せるくらいなら敵連合に単独潜入したあの頃のほうが、まだマシだと思った。 

「妙だとは思っていた」
「は、はい?みょう……と、は?」
「おまえ最近、ふわふわしてるぞ」
「──ふっ……わ、……え?」

 エンデヴァーさんはそう言いながら書類を丁寧にまとめる手を止めない。ああ、やっぱり見透かされていたんだな。自分でも気づかぬ内に態度に出ていたらしい。それにしても……フワフワて。

「その��ふわふわ�=c…自覚はあるのか?」
「……や。どーでしょうねぇ。ちょっと前までは、声だけで仕事する人たちって正直──無縁な世界だと思ってたんすよ」
「……」
「名前も知らなくて、顔も知らなくて……でもあの人の声は、やたら耳に残るんですよねぇ」
「交換手か?」
「あ、そうです。現場で何度か連携してて……最近じゃ俺、無意識に彼女の声を待ってるって気づいちゃって」
「……」
「連携っていうより……依存、かもしれません」
「馬鹿を言うな」

 エンデヴァーさんは短く切った。でもその声音には意外にも怒気はなく、むしろ少しだけ笑っているような気配すらあった。へえ、珍しいこともあったもんだ。

「声を待つのは信頼だ。命を預ける現場で、その想いが間違いかどうかを、区別する必要はない」
「じゃあ……もしその声が、俺にとって一番落ち着く場所、だったら?」
「……それは、お前の言った��それ�≠セろう」
「恋?」
「ああ」
「うわっ、簡潔っすね」
「お前が面倒にしすぎているだけだ。いつもヘラヘラしているくせに、おかしな奴だ」

 ふ、と鼻で笑われた気がした。俺は小さくため息をついて、椅子の背にもたれた。

「でも、俺が踏み込んだら壊れそうで。関係が。その人、すごく繊細で。俺、軽いって思われたくないんです。いつも、ヘラヘラしてるから」
「軽く見せているのと、軽い人間は違う。それをちゃんと理解している相手となら、踏み込んでも壊れん。むしろ、変わる」

 エンデヴァーさんの言葉は、短く、重かった。それは決して��恋を語る男�≠フ言葉ではなかったけれど俺よりも遥かに長い時間を生きてきた男の経験と覚悟に裏打ちされた重みが確かにそこにはあった。

「……そんなに貴様が悩むほどの相手か」
「ええ……たぶん俺、今、人生でいちばん厄介な相手に、惚れちゃったのかもしれません」
「なら、覚悟を決めろ」
「え?」
「その声に触れるたびに救われているのならば、今度はお前が、その声の届かない場所からでも、守れる人間になれ」

 思わず「エンデヴァーはそんなこと言わん」といつもの調子で茶化しかけたがその一言に何かが胸の奥で、音を立てた。彼女の声が俺の中で反響する。実際、声だけの恋なんてもどかしすぎるし馬鹿馬鹿しいと思っていた。けれど今は、それがたまらなく大切な唯一の真実に思えてならない。

「ありがとうございました、エンデヴァーさん。すんません、勤務中に色ボケな相談しちゃって」
「……まあ、たまには、悪くない」

 その言葉を背中で受けとめながら、俺は、ふと思った。恋も重い装備のひとつですか、なんて、らしくもないことを。それでも今度こそちゃんと彼女を食事に誘ってみようかと、人生で初めて、本気で悩んでいる自分がいた。


 *


 深夜のエンデヴァー事務所、微かなコーヒーの香りと共に──。

「……ったく、バレンタインなんて、ろくなもんじゃないっすねー」

 そうぼやいたのはソファの背にだらりと羽根を垂らしたホークスだった。コスチュームの上着を脱ぎ捨て、片膝を立てて胡座をかいている。その口元にはやや苦くて、やけに大人びた笑み。その対面、重たげな湯気を立てるマグカップを片手にチームアップで訪れていたベストジーニストが、ちら、と彼、ホークスを見た。

「……今年も君は、豊作だっただろうに。なにか問題でもあったのか」
「いや、べつに。まー��豊作�≠チてワードは否定しませんけどね? ただまあ、バレンタインって期待しちまう日じゃないスかー?」
「期待?」
「ほら。いいこと、あるかなーって……そう思っちゃう自分がちょっとバカみたいだなって、そういう話です」

 ホークスの言葉は、笑っているようで、どこか自嘲を含んでいた。手元のカップを指でくるくると回す仕草に落ち着かない心が滲む。ベストジーニストは黙ってカップのなかの液体に視線を落とした。少しの間だけ、時計の針が部屋の音を独占する。

「……期待するから、痛いのかもしれないな」

 ベストジーニストの低く落ち着いた声が、ふとホークスに返ってくる。

「バレンタインや満月の日にはよく死者が出る。恋人たちのドラマも破局もプロポーズも、喧嘩もぜんぶ一緒くたに溢れる」
「……」
「浮かれてるようでいてその実、心のバランスが一番崩れやすい日でもあるのだろうな」

 ホークスは、ぱちぱちとまばたきをしながら、その言葉を噛みしめた。

「さすが、女子支持率トップの覇者。言うことが深いっすねー!」
「……言うほどでもない。ただ今年の二月は──例年よりも、事件が多い気がするだけだよ」
「うん、たしかに。俺もそんな気がしてました」
「君もそのせいで長いこと、駆り出されているのだろう?この、喧噪の大都会に」
「……」
「福岡の自身の事務所は?留守にしていても問題なく回っているのか」
「まあ、なんとかやれてると思いますよー。けどなんなら、こっちに住んじゃおうかなーって」

 夜の空気がふいに冷たくなる。冗談めいたその一言にジーニストは何も返さなかった。代わりに静寂だけが、ふたりの間にそっと降りてくる。

「仮住まい、ということか?」
「いや──永住っす。」
「……。」

 一瞬だけ沈黙が落ちる。けれどそれは、言葉を失ったわけではなく、何かを受け止めようとする静かな間(ま)だった。そのあとでベストジーニストは低く、深く、呟いた。

「……君がいてくれたら助かる命がたくさんあるだろう。もちろんヒーローたちも例外ではない」

 ホークスは、手にした紙カップを軽く傾ける。カップの縁にそっと唇を添えたその仕草はどこか虚ろでけれど決して茶化してはいない。ほのかに立ち上る蒸気の向こうでホークスのまつげがゆっくりと瞬く。

「やっぱ──バレンタインなんか、嫌いですね」

 ぽつりとまるで独り言のように漏らされたその言葉にジーニストはわずかに眉を上げた。しかしすぐにその意味を察したのだろう。スーツの袖に指先を滑らせながら小さく肩を揺らして笑った。

「それは、感情を知っている証拠だよ」

 その返しにホークスは何も言わなかった。ただコーヒーの底を見つめたまま、その表情を曖昧に崩す。そんなホークスを見てジーニストは、目をそっと伏せた。

「私も得意じゃないよ。今年のバレンタインは、特にね」
「……あれ?なんか、意味ありげっすね。もしや、ジーニストさんも、なんかあったんスかぁ?」
「ないよ」
「ふーん」
「だが、誰かのために動いたのなら意味はある。
……違うかな? 元・ナンバースリー。」
「……」

 その言葉にホークスは、開きかけた口をそっと閉じた。否定も肯定もせず、ただ少しだけ、視線を落とす。


 『──ほんとうにありがとう、ホークス。』


 あの日、空気を震わせた彼女の声。受話器越しでもマイクの先でもない。すぐそばで──自分のすぐ隣で確かに届いた本物の声。鼓膜ではなく、心に染み込むように残っている。思い出すだけで胸の奥が、熱を帯びる。

「……うん。たぶん、そうっすね。意味、ありました。」

 短く、けれど確かにそう告げてから、ふたりの間には再び静寂が落ちた。それは、気まずさではなく、温度のある沈黙。夜風がカップの中のコーヒーをすこしずつ冷ましていくのを感じながら、それでもふたりの背中には、まだじんわりとした熱が残っていたのだった。


 *


 いつからだっただろうか、バレンタインデーがこんなにも騒々しく、そしてどこか、心をざわつかせる日になったのは。バレンタイン当日の朝、街がうっすらピンク色の空気に包まれている気がした。普段よりも、通りを歩く人の顔が柔らかく見えるのは、きっと、気のせいじゃない。
 オペレータールームには、真紅や桃色のチョコレート包装が雑然と置かれ、誰かが差し入れたであろうハート型のドーナツが回ってくる。周囲の空気はやや浮ついていて、恋人たちの予定話や、誰かのプロポーズ話で盛り上がっている。そんななか、私はただ静かに通信機器を整え、いつものように受話器を肩で挟みながらデータ端末に向かっていた。そんな、ときだった。

『──こちらホークス。えっと……現場、なんかちょっと……すごいことになってまぁ〜す』

 通信が繋がった瞬間、彼の声はどこか不安定でそれでいて妙に明るかった。いつもよりやや浮ついたその調子に私は即座に応答しながらも、胸の奥では警鐘のような予感が鳴るのを感じていた。

「現場の状況を詳しく教えてください。応援が、必要ですか?」
『あー、あのですねぇ、ビルの屋上から飛び降りようとしてた男性。俺がなんとか説得して、今、腕つかんで持ち上げて救助したんですけど──』
「よかった、さすがです。では、彼は無事に?」
『うん。しかもね──そのまま今、プロポーズ、してまーす。一緒にいた彼女に』

 受話器から届いたホークスの声に、私は思わず手元のモニターから目を離せず、息を呑む。

「プロポーズ……?」

 自分でも気づかぬうちに、小さな声が、漏れていた。

『そう、いま、目の前で。……彼、涙ぐんでます!めちゃくちゃ震えてる。あ、指輪!指輪取り出しましたー!』

 突如として始まったホークスの実況が高まる。彼の視界と私の心拍数が、なぜか同期していく。

『「君が俺を、ここまで引っ張ってくれた。命の恩人だ。だから──俺と、結婚してくれ!」』

 途端にモニターに映る人影の肩が震えた。プロポーズされたであろう女性の頬を涙が伝い、彼の胸元へと迷いなく飛び込んでいく、そんな瞬間が画面の向こうに映し出されていた。

「……で、で? 彼女は、なんて?」
『「イエス!」って、泣きながら!イエスです!イエスって言いました! おめでと〜!ハッピーバレンタイン、イェイ⭐︎』

 モニターから流れる音声と映像に呼応するように、なぜか私以外のオペレーターたちの間にも、自然と拍手と歓声が広がっていった。

『うわぁ……こっちが泣きそう。いやぁ〜、ヒーロー冥利に尽きるね、こういうの』

 軽い口調でありながらも、ホークスの声が少しだけ感極まっている。私の頬にも知らぬうちに、微笑みが浮かんでいた。だ、が──。

『……、あっ!』
「え?」

 急な沈黙。その直後に、パァン!と、はっきり聞こえた、乾いた音。

『──で、彼、思いっきり、ビンタされました。えっらい音で』
「えっ、えぇっ?」

 思わず私は受話器を握り直し口元にぐっと近づける。すると、ホークスの甲高い笑い声が、通信越しに響いてきた。

『「このバカっ!」って怒鳴られてます。うわっ、でも今、キスされてます!ばり濃厚なやつっ!』
「の、のう……こう……」
『え、なんこれ、情緒ジェットコースターや!』

 そして微かに通信越しに助け出されたカップルの声が聞こえてきた。私はヘッドセットの小さな音に意識を向けながら、そっと、耳を澄ませる。

『ほんとに飛び降りようとしたの!? 馬鹿じゃないの!?』
『だって本来はパラシュートが開く予定だったんだって……!』
『もう……勝手にしなさいよ、結婚はしてあげるけど! バカッ!好き!愛してるっ!』

 ヒーローホークスの肩越しの光景が、目の前に広がるようだった。思わず、椅子の背もたれから腰を浮かせそうになる。受話器の向こうで、彼が笑いをこらえながら、なおも実況を続ける。

『あっ、またすっごい勢いで叩いた!ペチンじゃないっすよっ? バッシィィィ〜ン!みたいな』
「……」
『ヘッドセットつけてなかったらこっちの耳まで逝ってたかも』
「……な、なにがあったんだろう」
『さあね。でもまぁ、多分。怖かったんでしょうねー。ほんとに愛する彼が、落ちるかと思って』
「なるほどね、たしかに……」
『でもってホッとして嬉しくて、むかついて──感情、ぐちゃぐちゃ〜って、やつですよ』
「……愛って、辛い。」

 その一言を呟くと、電話の向こうから彼の声がふっと、落ち着いたものに変わった。

『……ははっ。もう俺、現場出て何年もなるけど今日がいちばん、濃いかもしれないでーす』

 彼の声と、その笑い声の裏にあった本物のあたたかさが、胸にじんわりと、しみ込んでくる。

『──でも、だからこそ助け甲斐がある。そう、思いません?』
「ですね……。愛って、ほんとうに、痛いね」
『あはは。ですねー。でも、ちゃんと伝えたからこその、愛のビンタってやつですかねー』

 ヒーロー冥利に尽きる──ほんとうにそうかもしれない。今日もこの空のどこかで、また新しい物語がひとつ、ふたつと始まっていくのだろう。

『でもさ、ちょっと、羨ましい。』
「……え?」
『あんなふうに、命がけでぶつかれる相手がいるって。──ねえ、オペレーターさん』
「はい?」
『俺にもそういう相手、現れると思います?』

 唐突に、けれどどこか、投げかけるようなその問いかけに私は、反射的に受話器を握り直した。

『聞こえてますか〜? デートがご無沙汰な名字名前さ〜ん!』
「ちょっと!この通信、履歴に残るんだから!」

 声をひそめて釘を刺すと間髪入れずに茶目っ気たっぷりに笑う彼の声が耳に届く。

『なァ〜に言ってんだか、消せるでしょー?』

 ったく、なんでそんなこと知ってるのよ──と呆れつつもその裏にある照れ隠しのような甘さに気づいてしまって、私の返す言葉は、自然と熱を帯びてしまうのだった。

「……もう、現れてるのかも、しれませんよ?」

 その一言に、電話の向こうで彼が一瞬だけ息を止めた気配があった。やがて、ふっと笑うように風が通話口に触れた音だけが届いた。

『じゃあその、誰か(・・)さんを……レトロなデートにでも、誘ってみようかな。』
「……」
『──今夜も電話、かけていいです?』
「……もちろん。」

 私は受話器を静かに置いた。そして、目の前のモニターに映る見慣れた都市の灯りを見ながら、ひとりごちた。

「……ビンタしても、愛される女って、すごい」

 その日も街のどこかで誰かが泣き、誰かが笑い誰かが、心を痛めていた。けれど私の胸の奥にはほんの少しだけ、いつもよりもあたたかな光が、そっと、ともっていたのだった。


 *


 夕方、勤務を終えた私はいつもより少し足取り軽く、職場のキッチンへと向かう。制服を脱ぎ、白いエプロンを巻き、耳許には小さな羽根の形のピアスを留めたのは、単なる気まぐれだった。

「うわ、いい匂い〜。なに焼いてるの?」

 そう言って顔を覗かせたのは以前、久しぶりの外食を共にした同僚の彼女だ。制服のストールを軽く払うように、パタパタとはためかせながら、ひょいと私の隣に立つ。

「クッキー。バターときび砂糖で、ちょっとしっとりしたのが好きで」
「もしかして、あの噂のヒーローに渡すの〜?」

 思わずしゃもじを持ったままの手が、ぴたりと止まった。

「な、なんで、そう思うの……?」
「だって最近、連携してるときニヤけてるもん」「……」
「誰とは言わないけど〜あのヒーローのときだけちょっとトーン変わってるってみんな、言ってるよ〜?」

 そう言ってニヤニヤする彼女に、私はおたまの柄で軽く、抗議するふりをした。そして、生地のボウルを守るように身体をよじる。

「ただの、ヒーローです。たまたま、連携の相性がいいだけで」
「ふーん……でもクッキー焼いてるだけにしては顔が柔らかすぎるんだよなぁー」

 彼女がくすっと笑ってエプロンをつけ始める。

「……でも、いいな。バレンタインってやっぱり素敵だよね」

 ぽつりと漏らしたその言葉が、妙にあたたかく響いた。私は焼き上がるクッキーの匂いのなかでふと手を止める。

「……私ね、思うんだよね。人を想って、何かを作るって、それだけでちょっと、優しい気持ちになれる」
「……たとえ、相手が気づいてなくても?」
「うん。それでもいい。むしろ、気づかれなくていい」

 焼きあがったクッキーを取り出し、オーブンのガラス越しに香ばしく膨らんだそれを見つめる。彼の声を、今日も聞けるのかな。いつもみたいに『お疲れさま』と、言ってくれるかな。その声の奥にあの日プールの縁で命を繋いだときの温度がまだ残っているのだと、私は知っている。

「恋って、切ないねえ」
「でも、それでも……」
「ん……?」
「あの人が生きて、どこかで、空を飛んでるって思うだけで、なんだか救われるの、わたし」

 私のその呟きに、彼女は目を丸くして笑った。

「まさかの詩人!?ねえねえ、それ本人に言ってあげなよ!」
「絶対に言わない……それに、言ったらきっとからかわれるし……」

 けれど手のひらに乗せたクッキーはどれも形が良くて。私のなかの想いが少しずつ、形になって焼き上がっていくようだった。
 その後、私は職場を出て、とある会場へと足を運んでいた。バレンタイン企画として開催されるヒーローたちの公開トークイベント。いわゆる、ファンミーティングだ。その裏手にある搬入口がなぜか今日の私の行き先だった。


 『 よかったら、来ない? 』


 数日前、ホークスが何気なくそう言った。その言葉を私は断りきれなかった。だが今日の連携時彼は言った。『今夜も電話、かけていいです?』と──。だからきっと彼は、私が来るとは微塵も思っていないだろう。しかし手には先ほど職場のキッチンで焼いたクッキーを詰めた、小さな箱。なんとなく、彼に渡したかった。それだけのはずだったのに……。

「お嬢さん、なにか?」

 突然声をかけられて驚いて顔を上げると、目の前には全身デニムのシルエット。プロヒーロー、ベストジーニストだった。

「あ……あの、すみません。わたし、今日のイベントに……呼ばれていて……」
「ほう。どなたの紹介でしょうか?」

 整った口調と視線の圧に、思わず箱をぎゅっと抱きかかえる──と、そのとき。

「おぉっ! 来よった来よったぁ〜!」

 朗らかな関西弁が響いた。姿を現したのはプロヒーロー、ファットガムだった。その大きな手で私の肩を軽く叩いてくる。

「お嬢ちゃんが、ホークスがいつも話してるあの��声の 相棒(サイドキック)�≠ゥいな!」
「え……、え?」

 何が起きているのかすぐには理解できず思わずファットガムの顔を見返してしまう。

「いやぁ〜、前から聞いてたでぇ『オペレーターさんの声があるから俺は迷わず飛べる』ってな」
「……」
「ちょっとやそっとの信頼ちゃうで、あれは」

 笑いながらそう言うファットガムの横でベストジーニストが頷く。私は当たり前にたじろいだ。

「ホークス曰くオペレーターとは思えないほどの冷静さと判断力……なるほど。彼の言うとおり、ヒーロー向きだ」
「ちょ、ちょっと待ってください……彼、そんなふうに……?」
「おぅ。まぁ、ヒーローが信頼できる人間って、限られてるやろ?せやけど君の声はたしかに彼を落ち着かせてるんやと思うで」

 少し、息が詰まった。電話越しのやりとりが、彼にとって、そんなふうに響いていたなんて……何気なく交わしてきた声が彼の中で意味を持っていたという事実が胸の奥にじわりじわりと染みてくる。

「あ──あの。これ、もしよかったら皆さんで」

 私がそっと差し出した箱をファットガムが嬉しそうに受け取ってくれた。

「おーっ、手作りやん!バレンタインにぴったりやなぁ〜、ありがとうなぁ」
「きょ、恐縮です……」

 ヒーローたちが、笑ってクッキーを受け取ってくれるその雰囲気は、まるで旧友たちの輪に迷い込んだような、不思議な心地よさがあった。私は思わず探してしまう。あの人の姿を。空を翔けるその背中を。けれどまだ羽音は聞こえなかった。ただ風の向こうに、誰かの気配だけが、かすかに漂っているようで。

「──わあ! 来てくれたんですね〜!」

 突如、背後から届いた声に振り返るとそこにはヘッドホンを外し整えた髪とヒーロースーツ姿のプロヒーロー、ホークスが立っていた。
 いつもよりも少しだけ照れたように笑っていてそれだけで騒がしい世界が、すっと遠のいた気がした。

「来てくれて、うれしいです」
「せ、せっかく、誘って、もらったから……」
「……。さぁさぁ、こっち来てください。よく、一緒にチーム組んでる人たち、紹介しますから」
「あ、う、うん……」

 そのとき彼が不意に私の耳許に視線を落として柔らかく両の目を細める。

「これ……もしかして、羽根のモチーフです?」
「えっ? あ、うん……」
「へぇ。とっても、綺麗ですよ」

 ふわりと指先で横の髪を耳にかけられた瞬間、頬に熱が集まる。けれどその直後ファットガムが背後からやってきて、勢いよく、ホークスの肩を組んだ。

「なぁホークス。ほんまにいたんやな〜、電話の女神様!」
「えっ……め、がみ?」
「ちょ──! ファットさん!」
「いやいやコイツ、い〜つも君の話してんねん。あの声に俺は導かれてるやら、カレシはいるのかやら、もう延々っ!」
「そ、そうなの……?」
「……ちょ、ちょっとだけ、ですよ」

 ファットガムが豪快に笑い声を上げて、それにつられるようにして隣にいたベストジーニストも腕を組んだまま口元をほんのわずか意味ありげに緩めた。

「��地上の羽根の持ち主�≠ニいう、あだ名があるくらいだからね」
「……!? ち──じょうの、はね……?」
「彼がどれほど助けられているか、我々もよく、知っていますよ」

 その言葉を受けた瞬間、手のひらがほんのりと温もりを帯びたような気がした。
 地上の羽根の持ち主、だなんて。そんなふうに呼ばれていたなんて知らなかった。まあ……ネーミングセンスのことはとりあえず脇に置いておくとしても。そんななか、ベストジーニストがホークスをじっと見て、わざとらしく咳払いをひとつした。

「それでホークス。今夜のバレンタインは、どこに連れて行くんだい?」
「へっ? あー……俺たち、べつに……ね?」
「えっ? ええ……あの、とくに予定は……」
「もう上がりだろう、今日は」
「ちょ、ジーニストさん!?」
「いつも電話ばかりしているわりに肝心な一歩が遅いのでは?まったく……女性の扱いが、なっていないな」

 何か言いかけたホークスを、背後から別のヒーローが囃し立てる。よく見るとラビットヒーローミルコだった。彼女は持ち前の長い耳をぴくりと動かしながら、にやりと笑った。

「そりゃそうだ!ここまで連れてきといて、クッキーもらって満足とか、ナシだろ!」
「え、ミルコさんまで!ちょっと!」
「ほら、早く誘え! ほら!デートだデート!」

 ホークスは苦笑いしながら頭を掻いた。けれど私を見たその瞳はあいかわらずまっすぐで、それでもどこか緊張していた。私はたまらず助け舟を出す。

「べ、べつに……そんな、大袈裟なこと、しなくても……。ただの、バレンタインですし……」
「いや、大事だぞ。バレンタインは男が女を喜ばせる日だ」
「そう言うそっちはどうなんです?ミルコさん」

 聞いたホークスに対し、ミルコが、片眉を吊り上げた。

「あん?私はシフトを多めに入れた。恋愛なんて非効率。働いてたほうがマシだ」
「サラダバーはやめといた方がええでホークス。前みたいに、寒っっむい空気になる」
「ちょ!もう、やめてくださいよ〜」

 ホークスはわざとらしく肩をすくめながらも、ふっと息を整えて私のほうへ向き直った。そしてすこし声を落として、けれどはっきりと言った。

「……実は。ちょっとだけ連れて行きたい場所があるんです、名前さんだけを。」

 その場の空気が、一瞬で凪いだ。背後で続いていたバレンタインの喧騒さえも、まるで、遠くへ引いていく波のように、静かに消えてゆく。

「え……ほんと? わたし、を?」
「はい。そんな大げさなとこじゃないですけど。でも、どうしても見せたい風景があって」

 まるで特別なプレゼントを手渡すように、彼はその言葉を、そっと私に託した。
 ファットガムたちは「おお〜っ!」と、わざとらしく囃し立て「お邪魔虫は退散やなぁ」と笑いながら、その場を離れていく。ホークスは「ハイハイ、さっさと行った行った、さいなら〜」と、軽く手を振りながら追い払うように言い、ベストジーニストだけは「気をつけて」と意味ありげな目配せを私に残し、ホークスの肩を軽く叩いて、背を向けた。
 気がつけばふたりきりだった。ざわついていた胸の鼓動がしんと雪明りに包まれるように、落ち着いていくのがわかった。

「見せたい……風景?」
「はい。少し前に話しましたよね。夜景の綺麗なとこ。あそこ、あなたと一緒に見たいなーって、ずっと思ってたんで」
「そんなふうに、思ってくれてたんだ……」

 胸の奥が少し熱を帯びた。たぶんバレンタインって、こうして言葉になって、相手に届くまでの想いの積み重ねなのかもしれない。

「じゃあ……その風景、見せて」
「えっ?」
「私もあなたの隣で、それを見てみたい」
「はい……もちろん。」

 彼が嬉しそうに目を細めて、やさしく笑った。あの夜、初めて彼と言葉を交わした電話の向こうでは感じきれなかった表情が、そこにはたしかにあった。


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