その日の夜。都心の喧騒から少し離れた高台に建つビルの一角──そこには、都内を一望できる小さな展望フロアがあった。
私たちは人目を避けるように、ひっそりと裏口からそこへ足を踏み入れる。どうやらその場所は彼が極秘で手配した、正式な許可を得た��特別な空間�≠セったらしい。
「ここ、前にひとりで来たんですよ。んでふと、この景色、名前さんに見せたいなぁって思って」
そう言って彼は、ガラスの向こうを指差した。その横顔には、どこかあどけなさが滲んでいて、まるで、少年のようだった。ふだん人前で冗談を飛ばしてばかりの彼とは違う、静かで、柔らかな表情。そして確かにこの景色は彼が��私にだけ�≠ノ見せたかったものなのだと心の奥でわかる気がした。
「綺麗……まるで、星が地上に降りたみたい」
「俺、空から見るとね、街の灯りがけっこう愛おしく見えるんですよ。生きてるって感じがして」
私は、彼の横顔を見つめた。まっすぐに景色を見つめているその瞳が、どこか遠いものを映しているようでふと触れたくなる。けれどその想いを口にするより先に彼のスマートフォンが震えた。
「あ……。ちょっと、ごめんなさい」
しかし彼はすぐには出なかった。けれどそれが出なければいけない性質の着信であると言う事を私はもう、わかっていた。
「任務?」
「……応援要請。でも、行けないって言えば、」
「だめ……行って。」
「え、でも……」
「いいの……ホークスであるあなたが、行くべき場所に行くのは、当然のことだから」
ほんのわずかだけ間をあけて彼はうなずいた。そして、ためらいがちに言った。
「……また、ちゃんとしたデート、いつか。」
その��いつか�≠ェ、約束ではないことを、私は知っている。
彼が飛び去ったあと窓ガラスに映る自分の姿を見つめた。置き去りにされたわけじゃない。それでも、一緒にいられなかったという現実は、心のどこかに冷たく降り積もった。けれど、不思議と涙は出なかった。きっとヒーローと関わる限り、こういう夜は何度も来る。それでもまた会いたいと思ってしまうほど彼という人は誰かの��生�≠ノ触れながら、生きている。
携帯を見つめると着信履歴には彼の名前がまだ残っていた。それだけで少しだけ胸の奥が、あたたかくなった気がした。
また──声が聞ければそれでいい。いまはまだそれだけで、充分。
その夜、私は最後まで、窓際を離れなかった。彼の背中が夜空に溶けて見えなくなったあとも、まるで、いつかまた戻ってくるような気がして、ただ黙って、灯りに縁どられた都会の街を眺めていた。耳許では風の音だけがざらつき胸の奥では冷えかけた希望が、なお微かに脈を打っていた。
──そして、数時間後。自宅へ帰ってベッドに横になり、ようやく目を閉じかけたときだった。不意に携帯が震えた。画面には、あのヒーローの名前が灯っていた。
『……ごめんなさい』
第一声はそれだけ。いつものように『ホークスです』と陽気に名乗ることもなく、彼の声は妙に真面目で静かで、少しだけ、濡れていた。
『……どうしても、どうしても、行かなきゃいけなくて』
「うん……」
『名前さんの隣にいたかったのに、それでも……ああいうふうに、飛び出すしかなかった』
「……うん、わかってたよ」
『でもさ、いざ離れてからものすごく後悔した。今夜だけは、ほんとにちゃんと隣にいたかった』
「……」
『誰にも邪魔されない、そういう時間にしたかったんです……』
彼の声はどこかで自分自身に言い訳をしているようでもあった。言葉の端々に悔しさと、情けなさと、ほんのわずかな照れが滲んでいて、それがかえって、彼の誠実さを伝えていた。
『その……また、誘ってもいいですか?』
「うん、もちろん……きっとまた、誘ってくれるだろうなって、思ってました」
静かに微笑みながら言ったその言葉に、彼が、電話の向こうで、小さく笑う気配がした。
『……よかった。なら次は、ほんとに、ちゃんと隣にいます。ぜったいに』
「うん、期待してる」
彼の声はそこで途切れた。そして通話が切れるその直前、まるで祈るように、こう囁かれた。
『──あなたの声が、俺の帰る場所なんです。』
通話が終わってから私はしばらく言葉を失っていた。夜の静けさが、深海のように私のまわりを包んでいた。灯りの消えた天井を見上げたまま、そっと両手を胸元に当てる。
思えば、彼と交わした会話のほとんどは、電話越しだった。けれど、それでも声ひとつで、心が動いた。顔を見なくても、名前を呼ばれなくても何度も救われていた。
──この人は、空にいる。私は地上から、その背中を見上げている。それが、どうしようもなく遠いことだとわかっていても私はまた呼ばれたくて名を告げられたくて、この夜を過ごしている。枕元に伏せた携帯から彼の声はもう聞こえない。それでもまだ耳の奥に微かに残るあの言葉が灯のように、私の胸を照らし続けていた。
『──また、誘ってもいいですか。』
その問いかけに、私はいくつでも答えることができる。何度断ち切れてもまた繋がってしまう。そんな予感を抱えたまま、私はゆっくりと、目を閉じた。
通話が途絶えても心はまだ、応答し続けているのだ。その向こうにいる誰かの声をこれから先もずっと、待っている。
*
「……いやぁ、それにしてもあれはちょっと距離が近すぎたんとちゃうかな〜って思うてな」
チームアップで訪れたファットさんの事務所。その応接スペースで、俺はサイドキックの淹れてくれたコーヒーを手に、優雅にくつろいでいた。
香ばしい香りの立ちのぼる紙コップを手の中で揺らしながら何気ない世間話のつもりでいたのに彼がふと、そんなことを言い出した。
「え……距離って? なんの話です?」
「お前の女神様の話やで、ホークス。」
「はい?」
「あの子のこと連れてったやろ?バレンタインの夜に」
「……。」
やっぱり──、知ってたのかぁ……。頭の後ろをかきながら俺は小さく苦笑する。あの夜のことは俺にとっては、小さな奇跡みたいなものだった。彼女の手を引いて歩いた夜道。たとえ夜景が曇っていても隣を歩いてくれた彼女の気配は確かで、俺は、その温度を信じていた。いや、信じたかった。でも応援要請が入った。任務だし、仕事だし致し方ない。だって俺たちは、ヒーローだから。
それでも初めてのちゃんとしたデートが未完に終わったことに変わりはなかった。だから今は、あまり触れてくれるなって、心のどこかで思っていたのに。
「んでな、たまたま昨日のことや。エンデヴァー事務所の近くの商業ビルで見かけたんや、彼女」
「ふーん、買い物ですかねぇ。えー、何買ったんだろ〜♡ あとで、聞いてみよっと♪」
「いや、あの子、男とふたりでおったで。」
「…………え?」
紙コップの縁に添えていた指先がふと止まる。危うく落としかけた。今さらになってコーヒーの熱が急に伝わってきたような錯覚。心臓のどこか奥の薄くてやわらかい場所に何かが触れる感覚。
「買い物してたなぁ。あれたぶん……服屋やったかな?」
ぽつりと落とされたその言葉に胸の奥が静かにざわつく。思考が追いつかないまま俺はファットさんの顔を見やる。
「あー、下着屋かもなー。よう知らんけど」
「いや、そこ!めちゃくちゃ重要スよ!なんすか下着屋って!信じられん!」
「なんやねん……俺に怒鳴られてもなぁ」
「だって……し、し、下着て……なんです?!」
けれど彼はまるで気づいていないふうだった。俺の動揺も混乱も。むしろ、いつもどおりの落ち着いた声色で穏やかに、続きを継いだ。
「まぁな、お前らがどこまで進んどるかは知らんけど……ふたりとも、ええ雰囲気やったで」
「……ほんとにそれ、彼女、でした?」
声がやや掠れたのは冷静を装うために息を浅くしたせいだった。
「間違いない。声までは聞こえんかったけどな。でも、あの目元と仕草──」
ファットさんは紙コップを軽く揺らしながら、ふっと目許を細めた。
「よう見てるな〜って思うくらいホークス、お前いつも言うてたやろ?」
「……」
「��声の主は、目でも喋る�≠チて。」
たしかに、俺はそう言った。けれどその彼女の目が他の誰かの方へ向けられていたとしたら……俺の知らない表情で誰かと歩いていたとしたら。あの夜、曇った夜景を見上げて「残念だったね」と笑った彼女の横顔が、ふいに記憶のなかで色を失っていく。
もしかしてあの笑顔は……俺にだけ向けられたものじゃ、なかったのかもしれない。
紙コップのコーヒーはもう冷えていた。けれど唇をつけることもできず、俺はただ、その静かな痛みに、じっと耐えているしかなかった。
*
その夜、彼からの着信はいつもより数分遅れて鳴った。まるでほんの少しだけ何かをためらっていたような……。けれど、きっとそれは私の気のせいだと思った。着信音が鳴り終わる直前、私はいつものように通話ボタンを押した。
「──こんばんは、ホークス。」
『こんばんは……』
「あれ、元気ない?」
『いえ……。今日も、お声が綺麗で安心します』
受話口からこぼれた彼の第一声は、やや元気がなさそうではあったものの、いつもと変わらぬ、柔らかさを持っていた。けれどその呼吸の隙間になにか小さな引っかかりのようなものがある気がして、私はそのあと、言葉を続けられなかった。
『あの……
「え? き、きのう?今日じゃなくて?」
『はい。今日のことも聞きますけど、まず昨日』
少し間が空いた。なぜかその問いかけに咄嗟の返答が詰まる。
「え、っと……とくには。ちょっと街に出て買い物してたけど」
沈黙が流れたあと彼の声が少しだけ低くなる。
『……ふーん』
「いいコーヒーカップを見つけたの。ちょっと、くすんだ感じの、ブルーの」
『へぇ、いいですねー。ちなみに、俺のイメージカラーはイエローです』
「……はい?」
思わず電話越しに眉をひそめてしまったが気づいているのかいないのか、彼は構わずに続けた。
『そーだなー。ブルーは誰すかね……あ、そうだ、ジーニストさん。彼っす、きっと』
「はぁ……?」
『で──あの、ひとりで?』
唐突に、本題が滑り込んでくる。まるで冗談の皮を一枚だけ剥がしたあとに現れる、彼の本心のような声色だった。
「……え。」
一瞬、言葉が止まった。その問いかけは、ごく自然を装っていた。けれど、電話の向こうの彼がほんの少しだけ、息を詰めているのを私は知っていた。
『ひとりで、ですか?』
「……。」
こ、こわい……。通話越しなのに、その凄みはありありと伝わってきた。もし絵に描くならば、顔全体が影になっていて、ただ鋭く光るあの鷹のような瞳だけが浮かび上がり、背後では「ゴゴゴゴゴ……」と、効果音が鳴っているに違いない。もしかして、気づいているんじゃないだろうか。私が昨日、誰かと一緒にいたことを。それとも、ただの勘……?いや、その口調はたぶん知らないふりを、してくれているだけだろう。彼らしい、優しさの形なのかもしれない。けれどそれがまた余計に、末恐ろしかった。
『いや、なんていうか……名前さんの声、今日はちょっと、少しだけ違う気がして』
「え? 違う、かな。……先輩がいたの、昔の」
『せん、ぱい……?』
「うん、オペレーターの。もうその人はとっくに退職してるんだけどね」
『……』
「偶然、ばったり。だからちょっと、話しながら歩いてただけ」
私はごく自然を装ってその出来事を口にした。あとは彼の出方を静かに待つことにする。だって単純に怖いから。今の彼に対して、下手なことはとても言えそうになかったから。
『ああ……そっか』
「……」
『な〜んだ、そうだったんですねー!よかった』
「へ?」
『や……ううん、なんでもないです。変なこと聞いちゃって、すみませんでした』
通話の向こうで風の音がひとすじだけ吹いた。彼がいま、どこにいるのかは分からない。ただ、彼の心が少しだけ、遠くへ行ってしまったような気がして、胸の奥がそっと冷えた。
「でも、ちゃんと聞いてくれて嬉しかったよ?」
『あ……それ、反則ですよ』
低く、苦笑まじりの声が返ってくる。私は返す言葉に戸惑ってしまう。そして結局、なにも言い返せなかった。
『俺って、あれですね。聞きたくても、なんか、怖くて聞けないことが多すぎるみたいで』
「……」
『でも、あなたから隠し事されるのは、もっと、怖いかも』
「……。」
私は応えなかった。いまの私には正しい言葉が選べない気がして。どんな言葉もきっと彼のまっすぐな想いを踏み躙ってしまうような気がして。だから、ただ静かに耳を澄ませた。彼の呼吸と、鼓膜をくすぐる羽根の気配。それが確かにそこにあるだけで私はなんとか今夜を無事に終えられる気がした。するとふと、受話口の向こうで、彼が少しだけ、声のトーンを上げる。
『──ちなみになんですけど、特別推してるヒーローとかって、いるんですか?』
予想外の質問に、私は拍子抜けして、少し笑いながら返した。
「え? いないよ。ヒーローはみんな、無条件にすごいって尊敬してるし」
『いやいや、でもいるでしょ?一人や二人、特別視してるヒーロー。まあ、俺ではないってことはわかってるんで、遠慮しなくていーですよ』
わざとらしく少し拗ねたような声色が混ざる。その言い方がなんだか可笑しくて、私はちょっといたずら心で言葉を返した。
「んー、そうだなー……まあ、ベストジーニストとかは、やっぱり連携早いかなぁ」
『……やっぱジーニストさんかぁ』
その一言には、ほんの少しだけ、間があった。苦笑というより、微妙な、納得の吐息のような。
「……あ、」
『え、なに?』
「何年も前の話だけど一時期、ほら。イレイザーヘッドとか、よく対応、私が受けてたよ」
『……あの、雄英高校の?』
「そうそう。」
『へ、へえ……』
「あのヒーローも、連携が本当にスマートでね。むしろ私たちの方があまり役に立ててなかったんじゃないかなーと思うくらい」
『……』
「彼の教え子だった子がね、いま、うちの会社で何人か働いてたりするんだよ」
ふと過去を思い出すように言ったつもりだったのに通話の向こうが一気に静かになってしまって少しだけ焦る。
『あの人って……いくつなんです?』
「え、知らないよ、そこまでは。でも彼が二十代後半の頃に私がよく、対応してたから……うん。私よりは年上だね」
ごく普通の過去の業務としてのやりとり。ヒーローとオペレーターとして何度も交わした当たり前すぎる何の変哲もない情報の共有だ。けれど、通話の向こうに落ちた沈黙はいつもより、ほんの少しだけ長かった。これはちょっと、もしかして──拗ねて……いらっしゃる?
「え……何?自分で聞いておいて拗ねてんの?」
こちらが冗談交じりに問いかけると間髪入れず返ってきた彼の声は、ずいぶんと、語尾が尖っていた。
『拗ねてません、別に』
あ、これは。拗ねてますね、確実に。電話越しなのにわかってしまうくらいに彼の声のトーンが可愛らしいくらいに歪んでいた。
「……ほんとに?」
『はい、まっっっったく』
その『まっっっったく』が、語尾にいくほどに信頼度が落ちていくタイプの返答だった。聞いているこちらが少し心配になるほど、わかりやすくスネている模様。ホークスって、わかりやすいなほんとに。
「ふーん」
わざと淡々と応じると、また間髪入れず今度はやや低めの声が電話越しに続いた。
『
「いや、べつに?」
『こう、落ち着いてる感じの』
「うーん……とくには」
『相澤先生とか、ジーニストさんみたいな顔が、タイプなんです?』
「……」
『……』
急に方向性が、限定されてきた。なんとなく、『俺じゃないほう』に寄せてきているのがむしろ愛しいくらいに、分かりやすい。こちらの返事を待つ間の沈黙が、なんとも言えずかわいらしい。
『……え、ちなみのちなみに。対応中になんか、世間話とか、しました?向こうから、名前さんを指定してきたりとか』
予想外の畳みかけに私は堪えきれず吹き出してしまった。笑いを抑えながら、声だけでこんなに表情が見える人も珍しいなぁ、なんて思う。
『逆に向こうをあえて指定したりとかは?あっ、個人的な連絡先の交換は?』
「ストップ!」
『え、はい。』
「……あのねえ、対応中に世間話なんてしてくるヒーロー、あなたくらいですから」
『え……』
「それに、個人的にこちらから連絡をしたのは、あなたが初めてです」
『えっ!マジで言ってます!?』
「マジで言ってます」
少し間を置いて向こうからはふっと、安堵にも似た息が漏れたような気がした。
『……なら、もうちょっと、世間話しません?』
「いいよ。どこかのヒーローの機嫌が、それで、直るならねー」
『あっ、だから! 拗ねてないですって!』
「誰も、あなたなんて言ってませーん」
『……、ずるっ、』
不貞腐れたその声が、なぜだか嬉しくて。私は思わず小さく笑ってしまった。そして、そっと、言葉を返す。
「あなたの声、なんだか今夜は、落ち着くから。もう少し、世間話しよっか」
『……それ、こっちの台詞っちゃけど』
その一言が、通話の向こうで、ふっと溶けた。とても柔らかく、ゆるやかに。
私は無意識に微笑んでいた。こんなささやかなやりとりが、どうしてこんなにも、胸に沁みるんだろう。バサバサと忙しなく風を裂く羽根の音は今夜はもう聞こえない。けれどスピーカー越しに満ちる彼の息遣いと声の温度はあの羽根がいつも運んできてくれた風と、どこか似ていた。ほんのすこしだけ、くすぐったくて。ほんのすこしだけやさしくて。
それだけで、今日という一日が、音もなく深く静かに包まれていく気がした。
*
電話が切れたあとも、しばらく、スマホを耳に当てたまま俺はじっと動けずにいた。街の喧騒はとうに遠ざかって屋上の縁から見下ろす風景だけが静かに広がっている。それでも胸の奥ではさざ波のような音がしていた。風でも羽根のざわめきでもない、それは、俺の中にある見慣れない心音だった。
「……先輩、ねぇ」
彼女の声は穏やかだった。言った言葉も嘘じゃなかったと思う。でも嘘じゃないってだけで安心できるほど、俺は器用じゃなかった。
ファットさんが言った��男の人と並んで歩いているのを見た�≠ニいうその言葉がずっと胸に引っかかっていた。いや、最初は軽く流そうとした。俺はただの��電話だけのお友達�≠セしヒーローとしての立場すら守りきれているのか、わからないような、中途半端な人間だし。
けど、あの話を聞いたとき、思ったよりずっと強く胸がきゅっとなって。その理由はひとつしかない。俺は──彼女のことが好きなんだと思う。それはたぶん最初からそうだった。声だけのやり取りなのに、まるで空から見える街の灯りみたいに、いつのまにかそこに在ることが、当たり前になっていた。でも、今日みたいに少しだけ温度の違う呼吸を感じると、それが誰かに先を越されたみたいな錯覚に襲われる。そんなの……おかしいのに。
俺には、彼女を繋ぎ止める資格も、名前で呼ぶ権利も、まだちゃんとない。だけど気づけば夜の街に浮かぶ彼女の影を、俺は勝手に想像してしまっていた。
「かっこ悪か……ダッサ。」
ゴーグルを外して額をかくように髪を撫でる。思えばこんなふうに、自分の気持ちを処理しきれない夜なんてずいぶん久しぶりだ。羽根で救える命の数より、たったひとつの声をどう守ればいいのかわからなくなる夜がくるなんて思いもしなかった。でも、そういう夜を過ごせるようになったことを、どこかで嬉しいと思ってしまっている、自分もいる。
「また、電話かけてくれんのかなぁ……」
声に出してしまえば少しだけ胸が軽くなった。けれどその直後、ふと頭をよぎったのは、彼女のスマホの画面を誰かが偶然覗き込んでしまう未来だった。そこには、自分の名前がどう表示されているのか。むしろ、誰かに見つけてほしいのかもしれない。誰かの目に触れて彼女のなかで自分がどんなふうに存在しているのか、ささやかに証明されてしまえばいい。そんないじらしい気持ちが心の底で、蠢いていた。
たとえばメッセージのあとに何か記号がついていないかとか。ハートとか星とか、句読点ひとつでも。そんな些細なことで、ほっとしたり、落ち込んだりしている自分がいて。それがなんだか、可笑しくて思わず自分で自分を笑いたくなった。
「わー。……だめだわ、まじで」
吐き出すように呟いた言葉は夜の空気にすっと溶けていった。いつからだったろう。彼女の声を��仕事の相棒の声�≠ニして聞けなくなったのは。指示の的確さでも、判断の早さでもなくて。ただ彼女が彼女であるというだけで、胸のどこかが、ふわりと動くようになってしまったのは。
もう俺は、ただの��ヒーロー�≠ニして、彼女に接することはできないのかもしれない……。そう気づいた瞬間、どうしようもなく情けなく、でもどこか少しだけ、嬉しかった。ああ、わかった。これはもう、恋だ──。