センターの玄関を抜けると、いつもの朝が音を立てて始まった。新人オペレーターの子が資料を手にバタバタと走り、通信端末のランプが、順に灯っていく。

「名字さん、おはようございます!」
「おはよう。たしか今日、救助部門の見学だったよね?」
「はい、ヒーローの現地調整についても。えっとあの、所長——ホークスの、同行って……」
「ああ……後で合流すると思うから、慌てなくて大丈夫だよ」

 努めて平静を装いながら言う。けれど内心ではほんの少し背中が熱くなっていた。休憩スペースでは、数人のスタッフたちがカップを手に、ひそひそと談笑している。

「なんか最近さあ〜、所長、機嫌よくない?」
「それっ!彼女できたらしい説、濃厚っすね」
「またネットで憶測流れてたよ、羽根つき彼氏の彼女はいったい、どんな人だー、ってさ」
「羽根付き彼氏!それ、なんか餃子みたいすね」
「あのセクシー女優とのネタは、やっぱハニトラだったのかねー」
「ああ、あったっすねー、そんな過去の話も。」

 私は苦笑いだけでやりすごし、手元の資料を、そっと閉じた。
 業務は、順調に進んだ。ヒーロー連携の講義、地元消防との管制連携、被災シミュレーション。私は淡々と必要な指示を与え、現場のフォローをこなす。けれど──ふとした瞬間、あの人の姿が視界に入るたび、喉の奥が熱くなるのだった。

「名前さん、ここの確認、お願いできます?」

 我らが所長、ホークスがそう言って訓練区域のタブレットを差し出してくる。顔は、昨日までと変わらぬ落ち着いた色をしているのに、指先が、ほんの少しだけ触れたとき彼は目を伏せてすぐに手を引いた。その仕草に胸の奥がくすぐられる。たぶん、同じ気持ちだった。昨日の夜の余韻が、まだ、ふたりのあいだに淡く、滲んでいるのだ。
 今はまだ仕事中。けれど、また夜が来れば……私たちは昨日よりも、もう少しだけ素直になれるだろうか。

 業務が終わり、制服を着替えたスタッフたちがぞろぞろと出ていくなか、私は会議室に忘れ物を取りに行こうと踵を返した。その瞬間——通信機越しに、彼の声が飛び込んできた。

『名前さん。今日このあと、時間、あります?』

 私はその場に立ち止まり、小さく、でも確かに──笑った。


 *


 日が落ちかけた街は、やわらかな朱に染まっていた。建物の影は長く伸び歩道に浮かぶその形がまるで、ふたりを縁取るように並んでいる。
 仕事帰りの混雑が始まる少しまえ、センターの裏口を出ると、彼は、何の前触れもなく私の隣にいた。

「お疲れさまでした」
「うん……ホークスも。」

 自然に並んで歩き出していた。言葉がなくてもどこかしら満たされている空気だった。けれど、彼が左のポケットに手を突っ込んだまま、何度かちらちらとこちらを見てくるのを感じて、私は、とうとう痺れをきかせて聞いた。

「何か、言いたいことでもあるの?」
「……うーん、いや。なんかその、ね。」

 言い淀む声が妙に不自然で、つい笑ってしまいそうになる。そのまま横断歩道にさしかかり信号が青へと変わる頃、彼はふいにポツリと呟いた。

「なんだろ。やっぱ……昨日からちょっと、うれしいんですよ、俺」
「ん……なにが?」
「んー……なんでしょうねぇ。俺たち、ほんとに付き合ってるんだなーって、実感したというか」
「えー? いまさら?怖い怖い。」

 照れくさそうに笑うその横顔は、まるで、少年みたいで心が少しだけ軋んだ。私は続きを濁したまま、信号を渡った。
 商業施設のビル脇を抜けて少し静かな裏通りに入る。足元に並んだ白いタイルがかすかに湿っていて、今日がほんの少し、雨を含んでいたことに気づく。その途中でホークスは、ぽんと自販機のボタンを押し無造作に缶コーヒーを渡してきた。

「ブラック希望だったら、ごめんなさい」
「いや、飲めるけど……あれ?そう言えば、ホークス、甘いの好きじゃなかった?」
「ええ、俺のはミルクマシマシ砂糖山盛りです」
「甘っ……。え、それ缶に書いてあるの?」
「いえ、なんとなくジャケ買いしました。甘そうな缶の絵柄」
「それ、ジャケ買いって言うかなぁー」
「疲れてるときって、糖分いるじゃないですか。だから、名前さんにも必要かなって」

 どこか嬉しそうに言うから、私は思わず噴き出した。そしてふいに、肩先が触れるほどに近づいたとき、彼が小さな声で囁く。

「……このまま、愛の巣、来ます?」

 私は一瞬、言葉に詰まって、立ち止まりそうになった。けれど胸の奥で私ではない誰かが瞬時に「いいよ」と、先に頷いていた。

「……うん。ちょっと、寄るだけね」
「はい、もちろん。寄ってー、ちょっと癒して、ちょっと甘やかしてー、はい解散です」
「……解散、できるの?」
「それは、名前さん次第ですよ」

 ……ずるいな、やっぱこの人は。でも、そんなずる賢いヒーローに、ずっとずっと私は惹かれている。
 陽はもうすぐ沈もうとしていた。けれど二人の夜は、まだまだ、これからだ。


 *


 靴を脱いだとたん、あたたかい床が、じわりと足裏に伝ってくる。やっぱりこの部屋は、どこか彼らしくもあり、彼らしくない。広すぎるのに、何か違うぬくもりが溢れている。まるで——

「このマンション、ホークス自身が住んでるっていうより誰かのためにって整えてあるみたいだね」

 ぽつりと呟くと、キッチンから返ってきた声は少しだけ照れていたように聞こえた。

「え、バレました? 結構がんばったんですよ、これでも」

 振り返ると、片手にマグカップをふたつ持った彼が立っていた。コーヒーの香りがふわりと鼻先をくすぐる。本日何杯目かわからないそれを受け取るとソファに腰を下ろし、そっと口をつけた。
 ほの甘い。ミルクと砂糖を少し入れてくれたのだろう。いつもの彼の好みで。並んで座っただけなのに、こんなにも胸がくすぐったいのはたぶんこの沈黙の中にある、何も言わなくていいという優しさのせいだ。

「……来週には、もう、帰るんですね」
「うん。でも、またすぐ会えるよ。きっと」

 そう言うと彼は少しだけ身体をこちらに向けて肩と肩が触れそうな距離のまま、私を見つめた。

「……もう、すぐ——じゃないとダメなんですよ俺。」

 その声音に、熱がこもっていた。わかってる。自分でも、わかってるのに——私はコップをテーブルに置いて、膝の上に手を重ねる。その指先を彼の指が、そっとなぞった。

「……やっぱり、こうしてる時間がいちばん幸せです」
「……甘えすぎ。」
「うん。でも、甘えてもいいって思わせてくれるのは、名前さんだけですから」

 そのまま彼が私の手を取り自分の唇へと導く。指先に感じたそのあたたかさに、息が詰まった。そして次の瞬間、肩を抱かれて、唇が重なった。ふれるだけの、短いキス。けれどその奥に潜んでいたものは、言葉にできないほどやさしくて——私の中の何かがひとつ、ふっとほどけていった。

「……ずっと、こうしてたいです」
「もう。それ、ば〜っかり……」
「だって、こうしてたいんですもん」
「……叶わないこと、言わないの。」
「叶えますよ。絶対に。何年かかっても——」

 私は何も返せなくて、けれど、彼の胸元に、顔を預けた。鼓動の音が確かにそこにあった。やがてふたりの間に静かな夜が降りる。カーテン越しに見える夜景の粒が、私たちの世界をそっと、包み込んでいた。


 *


 翌日——。業務が始まる直前に、静まり返った管制室に不意に通信の受信音が鳴り響いた。私は反射的にヘッドセットを装着しマイクに向かっていつもの応対文句を口にする。

「──はい。こちら、ヒーロー緊急支援センターです。事故ですか?事件ですか?」

 返答が返ってくるまでに、ほんのわずかな間があった。その沈黙は何かを探るような、あるいは言葉を選ぶような、そんな一瞬の呼吸だった。

『こちらイレイザーヘッドだ。声でわかったよ、久しぶりですね』

 その瞬間、私は思わず手元の端末を見返した。そこには彼のヒーロー名が表示されている。やっぱり……聞き間違いじゃなかったみたいだ。

「あっ……ほんと、お久しぶりです。あ、えっと、お疲れ、さまです」
『お疲れ様』

 ラインで少しやり取りしたのはつい最近のことだったけれど、こうして声でつながるのは本当に久しぶりだった。

「えっ、でも……どうして、こちらの回線に?」
『今日から、新設予定の九州回線が本部側からも接続可能になった。何か不備があれば即座に助言できるようにと』
「あ、そうでしたそうでした。なるほど、じゃあそちら側からも、繋がる仕様だったんですね」
『らしいな。まあ、他県の無線にまで耳を傾ける余裕があるかどうかは疑問だがね』
「ですよね。そっちはきっと、鳴り止まないですもんね……って、もしかして今、現場ですか?」
『御名答。こっちの応援要請が立て込んでてな。どうやら……ヒーローが足らんみたいでね』

 淡々と告げられたその言葉に、私は思わず操作端末を切り替え、彼がいると思しき区域を、拡大する。表示されたのは郊外の外れ。通常ならプロヒーローの派遣対象外とされるエリアだ。けれど画面にはすでに出動中を示す赤いインジケーターがいくつも点灯していて、先の言葉の通り、余裕など微塵もない現場の空気が伝わってくる。

「雄英の仕事と、兼任中なんですよね? 大丈夫なんですか、そんな無理な働き方をしても……」
『大丈夫じゃない』

 即答だった。けれど、それはあまりにも、真っ直ぐすぎて、逆に胸にひりつく。

『——が、俺に割り振られた分は、こなす。それだけのことだよ』

 短く、乾いた口調。それでも、その奥に微かに灯っているものがあるのを、私は知っている。

『そういうルールだろ、ヒーローってのは。』

 静かにけれど確固たる意志を孕んだ声だった。変わらない、彼らしい言葉だ。だけど、その奥にほんの少しだけ疲れが滲んでいることも私は感じ取っていた。

「でも、こちらは��人�≠ェ相手ですから。ルールって言葉で、押し通す必要はないと思いますよ」

 すこしだけ声を和らげながら告げると、数秒の沈黙のあと、イレイザーの低い声が戻ってきた。

『ほう……、優しいですね。ヒーロー緊急支援の職員の皆さんは、そういうケアまで叩き込まれているんですかね』
「いえ、これは……私個人の意見です。無理して、ヒーローに倒れられたら、本末転倒ですから」
『言ってくれますね』

 乾いた声がどこか愉快げに笑う。しかし、そのあとに続いたのは、予想外の言葉だった。

『……福岡(そっち)での仕事、合ってるようだな』
「いえ。まだ慣れていません。環境が違うとどうしても普段通りのパフォーマンスができなくて」
『道理ですね』

 その一言には変わらぬ温度のなかに微かに滲む共感があった。

「でも……ヒーローの皆さんは、優しいですよ。あと、ホークスが……やたらと張り切ってて」

 苦笑しながら言うと、通信の向こうでかすかに鼻で笑う音がした。

『あのヒーローは優秀ですよ。もっとも……張り切りすぎて、空回りする傾向もあるがね』

 言葉の端に長年見てきた彼だからこその含みが混じっている。

「……それ、アドバイスですか?」
『残念。忠告だ。』

 淡々とした言葉に思わず小さな笑いが漏れた。ああ、この距離感。福岡に来てからというもの、毎日がまるで、別の拍子で進んでいくようだったけれど、こうして、慣れ親しんだヒーローたちと交わす一つひとつの言葉の端々にはかつての東京の温度がそのまま残っているような気がした。その感触は思いがけず心の奥に安心感を広げてくれる。

『じゃあ——通信、遮断しますね。……そっちの管制、頼みましたよ』
「……ええ、任せてください。でも無理だけは、絶対にしないでくださいね?」

 返ってきたのは、小さく笑ったような息の声音だった。それが、余韻のように耳に残ったまま、通信は静かに切れる。
 私はそのまましばらく、モニターの画面を見つめていた。そこにもう、なにも映っていないのに彼の背中をほんの少しだけ心配しながら、どこか遠くで支えているような、そんな、つもりで。
 けれど、思う。今の私は、かつて彼と連携していた、あの若くて、頼りなかったころの自分とはもう違うのだと。

 朝のブリーフィングが終わってそれぞれの持ち場に散っていくサイドキックや、スタッフたち。私は少し遅れて、自分のデスクに向かっていた。すると、通路の途中。ソファに浅く腰を掛けて、何やらタブレットをいじっていた赤い羽根の男がちらっと、こちらを一瞥した。そう言えば今朝のブリーフィングに彼は参加していなかったな……

「——ホークス……、おはようございます。」

 一応声をかけたのに、なぜかホークスは返事をしなかった。いや、聞こえていたはずなのに。
 あれ……? もしかして私、今、無視された?歩きながら、ちらりと、もう一度だけ振り返る。彼はタブレットの画面をスワイプしながらまるで私の存在など初めからなかったかのような素振りで、深くソファに身を沈めていた。タブレットに向けられていた視線が、やけに冷たいような気がした。

「……?」

 気のせいだろうか——いや、でも……。なぜ?この温度の違いはいったい、なんなんだろうか。昨夜まで、あんなふうじゃなかったはずなのに。
 何かあったっけ。私、何かしてしまった……?頭の中をぐるぐると巻き戻すように昨日の記憶をたどる。とくに変わったことはなかった。むしろめちゃくちゃラブラブ(死語)じゃなかったっけ私たち。プライベートでも、笑っていたはずだ。しいて言うなら——今朝、あの通信。イレイザーとの、あれ。
 でもあれは仕事。業務連携の一環。前のように個人的なやり取りを、始業前に交わしたわけでもない。そもそもホークスには何も言っていない。彼と通信していたのも、知らないはずだ。いや、はず——だけど。まさか。ううん、ありえない。

 と——思いつつ胸の内でざわついたまま迎えた昼休み。給湯スペースでマグにコーヒーを注いでいた、そのときだった。カップの中に黒い液体が静かに満ちていく音を聞きながら、ふと、背後に気配を感じた。するりと空気の縫い目を割くように、音もなく誰かが近づいてくる。

「名前さん」

 不意に名を呼ばれ思わず肩がわずかに震えた。振り返ると、そこにはホークスがいた。あいかわらずの表情。だけどその視線はやはりどこかしら冷えた色を帯びているように見えた。

「今朝……通信、取ってましたよねぇ。関東圏のヒーローと」

 言葉づかいは丁寧そのものなのにその声の端に隠しきれずに滲んだ棘が、じわじわと肌の内側へ入り込んでくる。

「……仕事の話ですよ。九州回線が本部側からも接続可能になった件で」
「……」
「人手が足りなくて、イレイザーも応援に出てるらしいですよ?」
「ふーん……イレイザー、ねぇ……」

 彼はわざとらしく肩をすくめ、私が差し出したミルクを一滴だけ、コーヒーへと垂らした。その仕草がやけに芝居がかっていて少し可笑しいのに彼から放たれている不穏なオーラに、素直に笑えなかった。

「お元気そうでした? 彼。」
「……普通でしたよ。ていうか、なんで知ってるんですか」
「なにをです?」
「私が関東圏のヒーローとやりとりしていたことです」
「うちのセンターのモニター、業務記録と、通信履歴くらいは、誰のでも容易に見られますから」
「へえ……」
「というか俺には全部筒抜けなんで。知らないとでも思ってました?」

 微笑を浮かべながらそう言った彼の目元には、どこか意地悪な光が宿っていた。それは、怒っているわけじゃない。これは——拗ねているのだ。そんな感情が絵に描いたように明らかに顔に出ていた。

「べつに、やましいことなんて何も——」
「誰もやましいなんて、言ってませんけど?」

 唇をやや尖らせ、わざと子どもみたいな口調で返してくる。その顔を見て、私はふっと、小さく笑ってしまった。

「ねえ……」
「はい?」
「やきもち、焼いてんの?」
「……は?」
「やきもち焼いてるでしょ、今。」
「焼いてません」
「……ほんとに?」
「ほんとに。焼きませんよ。俺、トップヒーローなんで。そういうのまったく気にしてないんで」

 その言葉とは裏腹に、彼の手元ではマドラーがカップの中でやたら高速に回っていた。音だけが無駄に忙しなく響いて、私はそっと彼のカップを持ち上げて、一歩、彼のほうへと近づいた。彼が反射的に少しだけ後ずさる。

「……じゃあ、なに?」
「……」
「ほら、素直に言ってみなよ」
「……っ、他のヒーローとあなたが話してるの、あんまり、面白くないだけです」

 ぽつりとこぼしたその一言が、コーヒーの湯気よりもずっと熱を帯びて、胸の奥へ降ってきた。ぼそっと呟くように言ったそれは、でも確かに、私にだけは聞こえる音量だった。それがなんだか可愛くて思わず私は、くすっと笑ってしまった。

「……バカじゃないの」
「バカかもですね」

 彼はそばにあった簡易の折りたたみ椅子に腰を落ち着け小さなテーブルの上に片肘をつくと私を見上げた。その視線は、どこまでもまっすぐで、逃げ道を探そうとしていた私の胸の奥をやさしく突いた。

「でも好きなんで。あなたのことがどうしようもなく」
「……」
「だから、そういうのぜんぶ気になるんですよ」

 その一言に、また心がふわりと浮かび上がる。私はなにも言わず、彼の指先がつまんでいた砂糖のスティックをひとつ取って、自分のカップに落とした。

「じゃあ、その分……ちゃんと仕事で取り返してもらいますからね、所長。」
「任せてください、名前さん。恋愛も、仕事も、手ぇ抜きませんよ」

 その口調はいつもの軽さだったけれどその声に宿る響きだけは冗談じゃなかった。彼の手元へとカップを戻すと、ぐるぐるとマドラーを回す音が再び静けさを撫でて、その中に、私の胸の鼓動がそっと重なった。
 私たちは今ちゃんと恋をしている。不器用で、些細なことで、距離が生まれてしまったりもするけれど、それでも少しずつ確実に。手を伸ばせば届く場所に、ちゃんといる——。


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