その日——。彼は朝からなんだか妙に気合いが入っていた。
管制室のドアが開いた瞬間から、すでに様子がおかしい。いつもより、10分以上早く出勤し、エントランスで、サイドキックたちに「おはようございまーすっ!」と、爽やかすぎる笑顔で声をかけていたかと思えば、いつもは私服姿のまま、コーヒーを飲んでいるだけのホークスが、今日はなぜかスタートからヒーロースーツを纏い、訓練用のエリアに直行していったのだ。
「えっ。もう緊急要請入ったと……?」
「いや、まだ全然、勤務時間前ばい……」
「もしかして昨日の名前さんとのやり取り、引きずってる感じかね……?」
サイドキック二人が小声でそんなことを呟いたとき私は思わず咳払いをして手元の資料に視線を落とした。……思い当たる節がありすぎる。その証拠にホークスは午前中いっぱい、ほとんど目にもとまらぬ速さで、センター内を縦横無尽に動き回っていた。まるで『センターで最も無駄のない速すぎる男』の称号でも狙っているかのように。それは備品庫の整理に始まりサーバーの再起動、さらにはトイレの電球交換まで。そのうえ、新人スタッフたちにまで「ねね、ちょっと時間いいっすかー?」と声をかけて実技訓練に直々付き添う徹底ぶりだった。
「す、すごかねぇ、ホークス……。今日は一段と、気合い入っとーね」
一度、管制室へ戻ってきた彼にサイドキックのひとりが、感嘆の声を漏らす。するとホークスは、まるでそれが当然とでも言うように胸を張り声を弾ませて返した。
「ふふっ、全然ですよっ!今日からの俺は、ひと味違うんで!」
その目はやけにきらきらとしていて次の瞬間、なぜかこちらへ向かってウインクを飛ばしてくる始末。私はそんな彼に気づかなかったふりをするしか選択肢はなかった。
「……名前さん、なんかしたとね?」
「い、いやぁ? 別に……」
何もしていないと言えば嘘になるけどここは、何もしていないと言っておくしかなかった。
午後——。そんな全方位スーパーモードのホークスがついに空回ったのは、訓練エリアでの対策演習中だった。
「オッケー! 次のフェイズ行きましょー!」
彼が勢いよく手を振り上げて、号令をかけたと同時に指示とは異なる動きをしたサイドキックが横から飛んできたホークスの羽根に思いきり煽られて倒れ込んだ。
「うわっ……!」
「あ!ご、ごめんなさい!狙ってなかった!めっちゃ反射で動いちゃった!」
無様に倒れたサイドキックが起き上がりながら苦笑して言った。
「いやぁ、あの……気合い入っとーとはよかばってん。ちょっと、お手柔らかにお願いしますよ」
「ははっ!気合い足んないんじゃないですー?」
「や……。アンタと同じにせんとって……」
あっちでもこっちでも、ホークスの愛と正義の過剰サービスが暴れまわっている。私はため息をついて休憩スペースに戻ってきたホークスの背中に向かって声をかけた。
「……ちょっと、張り切りすぎなんじゃない?」
「え、うそ? そーです?」
彼は、首をかしげながら素直すぎる顔で振り返る。私は彼にコーヒーを差し出しながら言った。
「みんな……ありがた迷惑になってたよ、ほんのちょっとだけ」
「えぇー。でもだって昨日、ちょっと反省して」
「そういうのは、ゆっくりでいいからさ」
私は、少しだけ声のトーンを落として言った。彼はマグを受け取りながら、すこしだけ照れくさそうに笑った。
「なんか、好きな人の前だと、全力出したくなるんすよね。いいとこ、見せたくなるっていうか」
「うん、知ってる。でも無理しないで。あなたはあなたのままで、いてほしいから」
返答がないことを不思議に思い、ふと彼の顔を見やれば私の方をじっと見つめているホークスと目があう。
「……な、なに?」
「いやぁ、名前さんって、ほんと俺を喜ばせる天才ですよね」
「はい? なに言ってんの」
「はは、こっちの話です。まあ、そっか。じゃあ、ちょっとだけセーブしますか。ちょっとだけね」
その��ちょっと�≠ェ本当に��ちょっと�≠セったためしはないけど。でもその真っ直ぐな気持ちは私も嫌いじゃないから……。私は、自分のマグを口に運びながら、つい微笑んでしまった。
夕焼けが街を染め始めたころ——本日の業務を終えてセンターの裏口に向かっているとやたらと気配が騒がしい。案の定、門の向こう、柵にもたれて、どこか満足げな顔で立っている一人の男がいた。
「おつかれさまで〜す」
──出ました。この��全然ふたりの関係を隠す気なんてさらさらないです、お迎え��
「……なに、してるの。まさか、待ってたの?」
「ん? いや〜、たまたま通りかかっただけなんですけどねぇ?」
あからさまに嘘。だって、あなたのマンションここから反対方向だし。
「ちょうど名前さんの勤務時間、終わる頃だしぃ……なんか、ちょっとお腹空いたなぁ〜なんて思ったら、足が勝手に」
「……で?」
「で、って。ごはん食べて帰るでしょ?だったらどうせなら──」
「はいはい。どうせなら『俺んちで』って、言いたいんでしょ。やだよ、今日は、ホテル帰るって言ったでしょ?」
「えぇぇ〜〜?ホテルってさぁ……なんか冷たくないです?」
「なにが?あったかいよ、高級ホテル誰かさんが取ってくれたおかげで」
「……」
ああ……もう、やめてよ。どうしてそんなに、露骨にがっかりするかなぁ。まるで、捨てられた子犬。これを無視して帰ろという方が酷な話だ。
「前も言いましたよね?ホテルなんて、名前さんには似合わない」
「いや……初耳なんですが?」
「ふかふかのベッドと美味しい夜ご飯、すべて、完備されてるお家があるんですよ、ほらここに」
「どこに?」
「俺の胸の中ですっ♡」
満面の笑顔で両手を広げているお馬鹿さんヒーローなど意に介さず私は肩をすくめて足早に歩き出す。すかさず彼が横に並びまるでホストの客引きのような口ぶりでささやく。
「しかも!今夜は、リクエスト制ごはん&入浴剤白くし放題!あ、白以外も揃えてみましたっ♪」
「……」
「さらにテレビは、海外ドラマチャンネルを定期購入しといたんで、全シーズン見放題ですよ?」
「……」
「ついでに、枕元にはなんと! 名前さん専用のパジャマも──」
「……なんなの、完全に誘拐コースじゃんそれ」
「大丈夫です、ちゃんと、愛情っていう名の同意がありますから♡」
「ないないない!……ああもう、ほんとに……」
呆れて笑いそうになったその瞬間、私の手を、そっと取って彼が立ち止まった。夕焼けが二人の影を、細長く伸ばしている。
「……ほんのちょっとでいいですから、ね?」
「……」
「一緒の時間、過ごしましょ?」
いつもの茶化しじゃなくて、ちゃんとした声。私は少しだけ視線を落とし、そして──肩の力を抜いて、静かに答えた。
「じゃあ、ご飯だけ。ほんのちょっとだけだよ」
「はーい! ほんのちょっとが5時間くらい続くパターンですね!」
「うるさいなぁ……せめて『ただいま』くらい、ゆっくり言わせてよね」
「——! もちろん!鍵、開けて待ってます♡」
そうして彼は、夕日を背に、剛翼の赤を大きく華麗に広げた。
「先、行ってますね〜。帰り、お気をつけて!」
軽い調子の声を残しふわりと宙に舞い上がる。羽ばたくたび、彼の羽根が夕焼けの空を切り裂くように広がり、ひときわ鮮やかな赤が暮れかけた空に滲んだ。その音は想像以上に周囲へも響いていたらしく、次の瞬間には——
「あっ! ホークス〜!」
「今の見た!?」
「マジでかっこいい〜!」
お決まりのように飛び交う黄色い声と振り返る周囲のざわめき。私はそれを背中に感じながら、息をつくようにひとつ笑った。
ほんの少しだけ——だけどそれは、帰る理由としては、もう十分すぎるほどだった。
*
「ただいま」と言ったら「おかえり」と返ってくる──それが二人の生活になりつつあることに少しだけ胸がふるえた。
リビングに入ると、ふんわりと鰹出汁の香りがした。なんとなく洋食かなと予想していた私は、少しだけ驚いて足を止める。
「和食?……珍しいね」
「ええ。たまには、ちゃんとしたの食べさせたいなーって」
テーブルに並べられた料理を見て、思わず声が漏れた。彼の得意ジャンルといえば、どこかジャンク寄りの洋食ばかりだった気がする。でも——唐揚げとか焼き鳥好きだしなぁ……うーん、まだよくわからん、彼の食の好みは。
「センターの食堂簡易的なんで、栄養足りてるかちょっと心配だったし」
「……」
「いっそ、あそこにさ、栄養管理士付きのシェフ雇ってもいいかもしれないですねー」
そんなことを言いながら、エプロン姿の彼は、キッチンから、ひょいと顔を出した。私のために炊かれたごはんの湯気、味噌汁の湯気、そして、彼の笑顔に、思わず頬が緩んでしまう。
「これが、あの自由奔放・羽ばたき系ヒーローの手料理ですか」
「ははっ、それ褒めてます? ディスってる?」「どっちも……」
「ま、とにかく食べてみてください。味は保証しないけど、気持ちは存分に入ってますから!」
彼の言葉通り味は正直ちょっと濃かった。でもそんなことは、どうでもよかった。二人で「いただきます」を言って並んでごはんを食べる。それだけで身体の奥にじんわりと熱が宿るような心地よさがあったから。
夕食を終えて、食器を片づけたあと。私は少し重たい身体を引きずるようにしてバスルームへと向かった。広々とした湯船にはすでにお湯が張られていて、洗面台の脇に置かれた、見覚えのある箱が目に入る。
「ねえ、このさ、雲の中で眠る香りってやつ……まさか、」
すると背後から、すっと腕が回ってきた。
「入れちゃダメって言われなかったんで〜♡」
「いやいや!『真っ白になってなんも見えん!』って前回、苦情言ったの、あなたでしょ!?」
「いやぁ……でも、名前さんがさ、入浴剤の匂いまとって出てきたとき、もう理性消し飛ぶくらい可愛かったから……あの瞬間の再現を……」
「そんなん再現しなくていいから!!」
すでにチャポンと投下された入浴剤は案の定、もこもこ泡を立て、湯面がほぼ不透明に。
「……もー、ちゃんと流してから上がってよ?」「わかってますよー」
「また、バスマットの色変わっちゃうから」
「はいはーい、名前さんがやってくれるなら全部流しまーす♡」
「誰がやるかっ!」
言い合いながらも、結局、ふたりで湯船に肩を並べて座る羽目になる。
「……あのさ、お願いだから今回はちゃんと距離保って」
「ええ? 保ってるでしょ?ちゃんとほら、これくらいの……」
「その腕、腰に回してますけど?」
「キャ♡……つい、癖で♡」
真っ白なお湯のなかで笑いをこらえて肩をすくめる。福岡に来てから、何度こうして彼に、翻弄されてきたことだろう。でも——。
お湯のぬくもりに包まれながら、ふと彼の肩にもたれてみた。言葉はなくても指先がそっと触れ合っただけで、胸の奥がほどけていくような気がした。たぶん、この夜もきっと、忘れられない。