湯上がりのドライヤー中も「あ、名前さんの髪、いい匂い〜」と抱きついてきてまとわりつく彼に「乾かせないからどいて!」と追い払うまでが恒例行事。
 だけど、ふと、彼の手が止まって耳元でそっと囁かれる。

「毎日こうしてたいって思ってます。ちゃんと」

 その言葉も今や恒例となりつつあるけれども、その声がくすぐったいくらいに甘くてドライヤーの風の音に紛れて私の心臓が跳ねたのは、彼には聞こえていなかったはずだ——と、思いたい。
 ドライヤーの余熱がまだ髪に残るうちに私は、リビングへと戻った。彼はすでにソファに座っていて、テレビ画面ではなにやら海外ドラマが再生されている。私が好きなシリーズだ。彼がきっと事前に調べて選んでくれたのだろう。

「ほら、名前さんが好きなやつ。途中までしか、観てないって言ってたでしょ?」
「……覚えて、たんだ」
「そりゃあもう。好きな人のことですから」

 そう言ってふわりと笑う顔に、またやられた。ほんとうにこのヒーローは、あざとずるい。私は黙ってソファの隣に腰を下ろした。すると彼は、私の膝をちらちら見ながらわざとらしく咳払いをひとつ。

「……なに?」
「ん〜?膝枕ってやっぱ、特別じゃないです?」
「え、うそ。今?」
「今が一番、甘えたいタイミングなんですぅ……お願いです、名前さん……っ!」

 そのおねだり顔があまりにも可愛くて、思わず拍子抜けして笑ってしまった。

「……仕方ないなぁ、少しだけだよ」
「やったーーーー!」

 彼は嬉しそうにごろりと私の脚に頭を乗せて、くすぐったそうに目を細めた。指先でそっと彼の髪を撫でる。思っていたよりも柔らかい感触。

「うわぁ。すごい……落ち着く……ていうか……寝るかも……」
「寝ないで。まだドラマ始まったばかりだから」
「でもこのドラマより、名前さんの指のほうが……ストーリー性ありますよ……」

 そう呟いたまま彼は静かに寝息を立て始めた。私の膝の上で世界一無防備な愛おしい顔をして。
 しばらくして、私はそっと腰を浮かせて、彼を起こさぬように抜け出すと、耳元で静かに、声をかけた。

「ホークス……寝室、行こっか」
「……んー、……いっしょ、に……寝よ?」

 寝ぼけ眼のまま差し出された彼の手を取った。ベッドに並んで入ると、彼の剛翼の羽根で部屋の灯りは消され、天井には淡い月明かりだけが差し込んでいた。背中合わせに、横になっていたはずなのに気づけば彼がくるりとこちらを向き指先でそっと、私の髪をすくった。

「……名前さん」
「ん?」
「なんかさ……このまま、ずっとこうしていたくなりますね」
「……それさぁ?何度もそれ言ったら私がここに永住する魔法とか、かかってないよね?」
「なんです? その、素晴らしい魔法は」
「……言わなきゃよかった。」
「いや、ほんとに。別に何も起きなくてもいい。こうして話してるだけで、落ち着く」
「……」
「……幸せ、ってやつですよ」

 少し照れくさそうに、けれど本気で言っているのが伝わった。私は頬を枕に埋めるようにして、くすっと笑う。

「……ほんと、よく喋るよね。お風呂でも、キッチンでも、寝る前までずっと」
「だって、黙ってたら……名前さんの心のなか、分かんないじゃないですか」
「それは……たしかに。」
「少しでも離れてる時間が怖くて、つい喋っちゃうんですよ」

 その言葉の深さに、胸の奥がじんとした。私はそっと手を伸ばして、彼の頬に触れた。彼も同じように、私の指にそっと自分の手を重ねてきた。

「……ホークス」
「うん?」
「私もね、あなたのそばにいると、落ち着くよ」

 その一言で、彼の目がふっと柔らかく揺れる。次の瞬間、そっと唇が重ねられた。優しく繊細でけれど確かに愛を確かめ合うような、キス。そのぬくもりだけで言葉がいらない夜だった。そして彼は私の耳元で囁く。

「……プロポーズ、ちゃんとしたの、リベンジしますから。待っててくださいね」
「……今のでも、じゅうぶん伝わってるよ」

 そう返すと、彼はまたキスをしてくれた。夜の深さに溶けるように、ふたりの距離は、もうどこにも余白が残っていなかった。


 *


 アラームの鳴る数秒前に、目が覚めた。窓際のカーテンが、風もないのに、ふわりと揺れた気がした。まだ太陽は昇りきっていない。青でもなく灰でもなく、ただぼんやりとした色の気配が部屋全体に満ちていて、私はそれが別れの朝が近いということを、静かに理解した。
 横を見る。彼は、眠っていた。仰向けのまま、口を閉じて穏やかな寝息を立てている。けれど、その表情はどこか寂しげで、夢のなかでも何かと戦っているように眉がかすかに寄っていた。

 この人と出会って、いったい何度目の朝になるだろう。思い出そうとするまでもなく、思い出せないほどの間を、私たちは電話越しに積み重ねてきた。けれど、こうして同じ部屋の空気を吸って迎える朝は、指折り数えられるほどしかない。
だからこそ、今はその一つひとつをしっかり胸に刻んでおきたいと思った。
 そっと布団を抜け出し、キッチンに立つ。彼のマンションの静けさにももう少しで慣れてしまいそうだった。豆を挽く音が、わずかに張り詰めた空気を解す。やがて背後でごそ、と布団が動く音がした。

「ごめん……起こしちゃった?」

 開け放たれたままの寝室に向かって、そう声をかけると返ってきたのは、まだ夢の中に半分足を残したような、眠たげな声。

「……コーヒーの匂い、しただけ」

 振り返ると彼がまだベッドの上で片腕で目元を隠すようにしながらこちらを見ていた。起き上がるでもなく、ただそのまま目だけがまっすぐ私を捉えていた。

「明日……ですね、ほんとに。」

 寝室のベッドの上。ぽつりと聞こえたのは彼の少し力の抜けた声だった。独り言のようでいて、確かに私に届くような、弱さの滲むつぶやき。

「うん」

 それしか、返せなかった。コーヒーを淹れる音だけが、ふたりの間に残る。やがて彼が起き上がり、ゆっくりと、私の背後に立った。あたたかい腕が、無言で私の肩を抱く。

「ほんとはね、また『熱出た』って言って、引き止めたい」
「……子どもか」

 そう言って私は肩越しに笑ったけれど心のなかでは、ほんの少しだけそれを期待していた自分がいた。
 背中越しに伝わってくる彼の体温を感じながら私は静かに言う。

「ありがとう……迎えに来てくれて、泊まらせてくれて。私と、付き合ってくれて。」
「俺の方こそ」

 彼の声は、ふわりと私の首筋にかかった。

「来てくれて、ありがとう。会いに来てくれて」

 何も言わなかった。言葉にしてしまえば、涙が落ちてしまいそうだったから。


 *


 彼女が先に出勤して愛の巣には俺ひとりだけが取り残された。
 薄曇りの朝。湿った風がまだ昨夜の名残を抱いたまま、部屋を巡っていく。洗い立てのシーツの香りが彼女の気配をわずかに残していた。歯磨きコップに並ぶ、ふたつの歯ブラシ。ぬるくなったコーヒーのカップ。洗面所にぽつんと残された、寝癖の跡をとどめたままのブラシ。どれも日常の断片にすぎないはずなのに今朝のそれらはなぜか視界の奥でじくじくと疼いて意味もなく胸を刺した。
 こんなふうに情けない気持ちになるくらいならいっそ全部、見なかったことにしてしまいたい。そう思うくせに目を逸らすことができなかった。

「また、会いに行きゃあいいだけだけん……」

 声に出して言ってみる。誰もいない部屋の中でわざと鼻で笑ってみせたが、どうにも、胸の奥が黙ってくれない。
 これがたった数週間の逢瀬であることを自分はとっくに理解していた。それでも彼女の気配が、ここにいたという事実があまりにも自然に生活に日常に、体温に、沁みついていて。ふたりで買い出しした冷蔵庫の中身も、シャワーの温度設定ももう��ふたりのもの�≠ノなってしまっている。

「はぁ〜〜〜……だっさ、俺。」

 ソファに倒れ込み、クッションに顔を埋める。すんと吸い込んだ空気には彼女の髪の香りがまだ残っていた。それがまた最悪だった。好きすぎて泣きそうになる。どうしてこんなにも、好きなんだろう。明日になれば彼女はいない。たったそれだけのことで胸の奥がじわじわと痩せていくような気がしていた。身体の中のどこか、名前もつかない部分にぽっかりと風が抜けていく。まるで、背中に生えたこの翼の根元まで風通しがよくなってしまったみたいに。軽くなるのではなく空っぽになる。翼ではなく、空虚を背負って飛ぶような感覚だった。

 その日の午後——センターでの、最後の業務を終えた彼女が、挨拶をしながら皆に囲まれているのを遠目に眺める。……笑ってる。ちゃんと笑ってる。そうだよな、あたり前だ。今は、仕事の顔だもんな。
 でも、その笑顔が、自分のためじゃないのだと突きつけられるたびに、俺の暮らしている福岡という都市が、ただの足場になっていく気がした。「もう東京に帰るんですね」とは言えなかった。「次はいつ会えるんですか」とも聞けなかった。ほんの数週間だったはずなのに彼女のいなくなってしまうこの街はもう色を失ってしまったように感じた。それくらいに俺の生活には、彼女が溶け込んでいた。無音のように——呼吸のように。

 その日の夜。明日の朝には彼女はもう、帰ってしまう。テレビもつけず部屋の灯りも、最小限にしてキッチンに立った俺は、取り出した色違いのマグカップを眺めながら、ぽつりと呟く。

「どうせ使わないんだったら、もう一個しまっとこうかな」

 自分で言って自分で傷つく。そんな自分が嫌で誤魔化すように「うぅ〜」と、うめき声を上げて心臓を掴んでみせる。でも誰も見ていない部屋でやるそれはただただ虚しかった。……やめよう、と小さく息を吐く。そう思ったそのときだった。スマホがテーブルの上で一つだけ小さく震えた。音は立てず、ただブルッと。まるで水面に落ちた雫のように。


――――――――――――――――

名前

明日、時間があったら
朝ごはんくらい一緒に食べる?



 ――――――――――――――――


 たったそれだけの言葉に俺の胸はまたぐらりと揺れた。嬉しい。けどもうそれすら名残に変わる予感がして、怖い。

「……やだなぁ、マジで……」

 無意識に呟いてマグカップを両手で包んだまま床に座り込んだ。背中を壁につけて窓の外、ぼんやりと月も見えない夜空を見上げた。
 どうか。もう少しだけでいいから朝が来るのを遅らせてほしい——。


 *


 福岡最終日。荷物は少なかったけれどそれでもキャリーケースを引く音がやけに大きく響いた。横を歩く彼は何も言わなかった。ただ、時折私の顔を覗くように、視線を送ってきた。

 福岡空港の出発ロビーは見慣れない言葉の飛び交う小さな喧噪に包まれていた。
 旅立ちを待つ人、別れを惜しむ人、それぞれの時間がゆるやかに交錯しながら、それでも確実に先へと進んでいく。私の靴音もその一部として、タイルの床に小さな音を残しながら響いていた。エスカレーターを上がるとガラス張りのロビーが広がっていて、その向こうに、滑走路が見えた。赤く滲んだ夕陽が遠くの雲を照らして、まるで、誰かの心の色を映しているみたいに思えた。
 私はそっと彼の横顔を見た。彼、ホークスは、私のキャリーを無言で引いてくれていた。表情はどこまでも平静だったけれど、歩幅が少しだけ、いつもよりもゆっくりだったように思う。それに気づいている私は、ずるいのか素直なのか、よくわからない。

「……もうすぐ、ですね。」

 彼の口からようやく落ちてきた声。それに私はただ小さく頷くだけだった。

「見送り……ちゃんとできて、よかったです」
「うん、ありがとう」

 もうそれ以上、何も言えなかった。言葉にしてしまえば、感情が押し寄せてしまいそうで必死に喉元でせき止めた。
 搭乗口に続くゲートの手前で私は立ち止まる。ここから先は、関係者以外は入れない。そう——まるで��ここで終わり�≠セと決められているかのようなライン。そのラインの直前で、私たちは向き合った。そして彼が、ぽつんと呟いた。

「ほんとは……俺が、行く側だったらよかったんですけどね」
「え……? なに、それ」

 思わず笑ってしまった。でもそれは涙を堪えるための、私なりの精一杯だった。

「帰る場所があるって、いいなって思いました」

 その言葉の奥に彼の孤独が滲んでいるのを感じて、胸が締めつけられた。私が顔を上げると彼は視線を逸らさずにいた。言葉よりもまっすぐで、どこまでも痛いほど、真摯な眼差しだった。

「また、来てくれます?」
「うん。今度は、仕事じゃなくて。ちゃんと……会いに、来る」
「待ってます。ずっと、待ってますから」
「……」
「でも。それより先に、俺から会いに行っちゃうかも」
「……うん、待ってるよ。」

 小さく手を伸ばす。指先がほんの一瞬触れた。それだけで十分だった。それ以上触れてしまえばきっと私は、飛行機になんて乗れなくなるから。
 そっと彼の手からキャリーケースを受け取り、それ以上、言葉は交わさずに、私はそのまま背を向けた。振り返らない。しかし、歩き出した私の背中に、彼の声が追いかけてきた。

「……名前さん!」

 その声に、思わず足が止まった。けれど私は、やっぱり、振り返らない。

「次は、ずっと一緒にいられる未来を──考えましょう!」

 その言葉が、朝の光のなかをまっすぐに貫いてくる。私はふいに小さく笑った。涙が零れそうになるのをこらえて彼には見せないように。それが今の私できる、精一杯の返事だった。
 振り返らない。今ここで後ろを向いてしまえばきっとあの胸の中に戻りたくなってしまうから。だけど手のひらに残る温もりだけは、どうしても消えなかった。それがたまらなく、痛かった。


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