「お疲れ様でーす」
「そこ、センターラインちょっとずれてるかも」
「救護棟、今日は午後からの対応に変更になったらしいよ」
日常は何事もなかったかのように粛々と流れていく。オペレーターデスクに座りヘッドセットをかけ、通話ログを追い、パネルに指を走らせる。それは、昨日までの私が確かに行っていたルーティンでありながらそれでもどこかピントが合っていないような感覚を伴っていた。
「あれ? 名字さん、ちょっと焼けた?」
ふと背後から声がかかって、私は、慌てて振り返った。同僚の女の子がにこにこと冗談まじりにこちらを見ている。
「そ、そうかな。向こう……天気よかったから」
そう言いながら、ほんの一瞬だけ浮かんだのはあの夕暮れの海辺。指先が彼の温度を思い出した気がして、そっと手を膝の上に戻した。
夜、自宅に戻ると、まるで空気が違っていた。白く整ったベッド、静かすぎるキッチン——クローゼットの扉の音さえ心細く感じる。着信はなし。けれどそれは私が少し落ち着いてと伝えたからであって。そしてきっと彼はそれを律儀に守ろうとしている。
私はソファに座り、スマートフォンの画面を、ぼんやりと見つめた。アプリを開くと『また来てね!』と熊だか犬だか何なんだかよくわからない動物のスタンプが会話の最後に添えられていた。一日前のそれは、やけに無邪気で、やけに、本気だった。
東京の空は遠い。けれど心のなかで確かにまだ彼の声が響いていた。
布団に潜り込んで、明かりを落とした。静寂が耳にしみて、私は枕元のスマホを手に取った。
――届いてほしくて、けれど、届きすぎたら、
また苦しくなりそうなその名前をスクロールして開く。入力欄に指をかけて少しだけ迷う。けれどたった一言、送った。
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無事、東京生活
一日目を終えました。
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それだけ。それ以上も、それ以下もいらない。言葉にすればこれだけのことなのだから。けれど送信ボタンを押すまでにどれだけの逡巡があっただろう。私は、その文面の裏にある静かな呼吸を感情を、とっさに押し殺す。
きっと彼ならわかってくれる。返事はまだないけれど、すぐついた��既読�≠フ表示にふっと胸がゆるむ。まだ続いている。離れていてもちゃんとここからまた——。そして、そのわずかな空白に応えるように数分後スマートフォンが震えと共に明かりを灯した。
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そっか、よかった
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画面にはたった一行。でもそこには私にとって必要だったすべてが詰まっていた。何を返したらいいのか考えあぐねているあいだ、再びスマホが軽快な音を鳴らした。
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でも俺はさみしいです

名前さんがいないとこっちは風通しが悪いっていうか空気が止まってる感じで

早くまた声、聞かせてください

できれば電話、してもいいですか?

ていうか、もう、かけてもいいです?
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画面に並ぶ、彼らしい素直な言葉の群れ。一つひとつ、すこしずつ私の心に灯をともしていく。文字の最後、その下に、小さな羽根のスタンプ。
思わず笑ってしまった。こんなのいったいどうやって見つけてくるのだろう。可愛い、あざとい。会いたい……。
布団の中でそっとスマホを握ったまま私は一つ深呼吸をしてから、画面に指を滑らせた。
「……かけていいよ、って言ったら、すぐかけてくるんでしょ、どうせ。」
ぼやくように呟いたその直後やっぱり、すぐに着信が鳴った。
「もしもし……」
『あっ、繋がった。よかった……』
受話器の向こう、彼の声はあたたかく、そしてほんのすこしだけ、寂しげで。
『おかえりなさい、名前さん。……待ってたんですからね』
そんなふうに、まるで、目の前にいるように、彼は言った。その声を耳にした瞬間ようやく私は戻ってきたと、実感することができた気がした。
「……なんか、声、近いね」
『え、そうです?いや、今日はちょっと……イヤホン使ってなくて。スマホ、枕に置いてるからかもですね』
その声はすぐそばにあるように聞こえて、私はふと目を閉じた。カーテン越しに入り込む東京の街の灯り。福岡で見上げた夜空よりずっと白くてでもどこか遠くて。だけど今は、それよりもっと遠いはずの彼の存在が、こんなにも近くにある。
「そっちは、もう……寝るところ?」
『はい。きょうは一日中、やる気が出なくて……ていうか、名前さんがいないだけでこんなにつまんないんだなーって思い知らされました』
「出た出た。また、大げさなぁ……」
『え、ほんとですよ? 俺、気づいちゃったかもしれません』
少しだけ間が空く。私は笑いかけたまま、次の言葉を待つ。
『名前さんが、俺の原動力ってやつです』
さらりと、そんなことを言う。けれどその声音は、どこか照れていて、だけど、すごく真剣で。
「……そういうセリフ、どこで覚えてくるの」
私がそう呟くと、彼はくすっと笑って言った。
『名前さんにしか、言いませんよ?』
「……ズルい男。ほんと、ずるい……」
『ずるくていいんですよ。好きな人には、ずるくなりたくなるもんですから』
電話越しなのに耳が熱を帯びる。体の奥がじわりとあたたかくなる。これはたぶん、福岡で彼と過ごした日々の余熱——まだ冷めきらない、触れ合った距離の記憶。
『名前さん。今、どんな顔してるんですか?』
「……言わない」
『ええ〜!?ちょっとだけでも、想像させてくださいよ。じゃないと寝れません』
「……お子ちゃまヒーローだ。」
『違います。恋人ヒーローです』
ぴたりと言葉を止めて、私はそのまま目を閉じた。画面にない彼の笑顔が、ありありと浮かぶ。声だけでこんなにも近いのに触れられない距離がもどかしい。だけど今はそれでもいいと思えた。
『……じゃあ、こうしましょう』
「なに?」
『お互い目を閉じて同じ夢を見る。……できるかどうかわかんないけど、俺ちょっと、がんばって念送っときます』
「なにそれ……でも、いいよ。やってみても」
『じゃあ、手、繋いでるって思っててください』
「はいはい? それで?」
『いいです? ちゃんと俺の手ですよ?あ、でも溶けちゃうかも』
「溶ける? なにが?」
『ん? 名前さんの手、あったかいから』
その言葉の温度に、私はそっと掛け布団を引き寄せた。指先が本当に触れられたみたいにじんと熱を帯びる。
『おやすみなさい、名前さん……大好きです』
「……おやすみ。うん、大好き。」
通話が切れる気配はない。たぶんお互い寝落ちするまで繋いだままでいようとしている。そんな静かな夜。東京と福岡、遠く離れていても耳元にあるその声が私の夜をあたためてくれる。だから私は安心して、そっと目を閉じた。
*
東京――ヒーロー緊急支援センター・通信室。
いつも通りの午前シフト。窓の外では陽射しが容赦なくビルの壁面を照りつけ、街路樹の葉も、重たげに揺れていた。
私はカチリとヘッドセットを装着し淡々とログインの手続きを済ませた。流れてくるのは、オペレーターたちの変わらぬ声。けれど今朝はほんの少しだけ指先が重かった。理由はわかっている。あの別れの空港で彼が見せた笑顔が、何度も夢に出てきたからだ。そんなとき、通信パネルが一つだけ点滅した。
【ヒーロー名:イレイザー・ヘッド】
少しだけ速くなった胸の鼓動をそっと押し隠すようにして私は静かに、いつもの口調で、慣れた応対の言葉を送った。
「——こちら、ヒーロー緊急支援センターです。事故ですか?事件ですか?」
『ああ、どうも。……お元気そうで。』
返ってきたのは、懐かしくも変わらない、くぐもった低音ボイス。
「イレイザーこそ。相変わらず、無茶ばかりしてませんか?」
『まあ、なんとかね。福岡で——羽根、伸ばしてこれましたか?』
思わずふっと、小さな吐息が漏れた。苦笑ともため息ともつかないその響きに、通話の向こうの相手も、わずかに笑った気配がした。
「うーん……空気と食べ物はおいしかったかな」
『そうですか』
「どうですか、関東圏のほうは。」
『あいかわらずこっちは、活動できるヒーローが足りてないよ。俺もしばらくは出ずっぱりです』
「ほんとに尊敬します。ヒーローの皆さんには」
『悪いが、また少しのあいだ、よろしく頼むよ』
「はい。こちらこそ、いつでも」
そんな何気ない世間話をいくつか交わしたあと彼はいつものように淡々と、現場の状況について語りはじめた。あくまでこれは、職務上の連絡にすぎない。だけどその声の抑揚や言葉の節々には不思議と、胸の奥をじんわりとあたためる何かがあった。ただそれが仕事を通じた一瞬のぬくもりであったとしても。
しかしまさかその一連の何でもないやりとりがあのヒーローの目に触れていたなんて……。そのときの私は、知る由もなかった。
一方その頃、福岡。ヒーロー緊急支援センター内の研修室では——。
「では次は——東京拠点の通信業務の実例を見てみましょう」
と、センターの主任に抜擢された男性社員が、リモート映像を大型スクリーンに投影したのは、その日の午後のことだった。
ホークスは腕を組んでその場にいた。まだ若いスタッフたちにとっては、ヒーローが通信越しにどう連携するか、という学びの一環だ。けれど、彼にとってはそれはまるで心臓を素手で触られるような光景だった。
画面の中に映るのは、あの声。愛しくて止まない彼女の声だった。落ち着いた語調、絶妙な間の取り方、そしてなによりも──その、表情が。
「名字さん、めっちゃ落ち着いてますねー。さすがって感じです」
「ほんと。外から見ると、オペレーターの鏡ってこういう人なんだなって思う」
「え、ちょっと待って。今、通信してた相手……イレイザーヘッドじゃない!?」
「え、誰それ?初めて見たんだけど、あんなヒーロー」
「ああ、あの人、あんまりメディアに出てこないらしいよ。でもちょっとセクシーじゃない?」
ざわつく研修室の空気をホークスは一切聞いていなかった。画面の中で彼女が誰かと会話をしている。その相手のヒーローが自分ではないという事実が無音で冷たく胸を刺した。
──あのヒーローと、連携してるのか……。
ほんの少し、喉が鳴った。目の奥が、じわりと熱を帯びる。あんな顔、俺には見せたことなかったくせに……。そう思った瞬間、胸の奥から黒いものが湧き上がってくる。醜くて情けない感情。ヒーローらしからぬ、とホークスは自分で自分を戒めながらも、それを完全に否定することもできなかった。
そのとき、傍らで気配をうかがっていたサイドキックが、ちらりとホークスを横目に見ながら、おそるおそる口を開く。
「あ、あの、ホークス……?」
「……すんません。次、ちょっと抜けますねー」
ホークスはそう言って画面からは目をそらさず静かに立ち上がった。その背中は、何よりも雄弁だった。