画面がふっと切れて、研修室が静まり返った。誰かが気まずそうに咳払いをした気がする。そのあとは椅子の軋む音、人の気配が少しずつ遠ざかっていく。それらを背に、気づけば屋上にいた。知らぬ間に日は沈み、夜がすっかり辺りを覆っている。夜風が、額を撫でた。暑くもなく、寒くもない、どこにも引っかからないただの風。なのにどうしてこんなに、胸の奥だけがざわつくんだろう。でも胸のなかだけがざらついていて、どうしようもなく、落ち着かない。
すぐそばの手すりに肘をかけて、スマホを手のひらで転がすように握る。けれど画面は暗いままだった。既読すらつかない。いや、違う。開いてないのは、俺の方だ。たった一言、『おつかれさま』と書かれているだけの、あの優しい文面が、どうしてか今日だけはまっすぐ胸に刺さるように思えて、怖かった。
今日——彼女の通信映像を見てしまった。他のヒーローとの、しかもあのイレイザーヘッドとのやけに呼吸の合ったやり取り。モニター越しなのに、空気が読めるぐらい穏やかで。あんなふうに話せてるの、俺以外にもいたんだな、って。そう思っただけで心の奥が冷えるように、妙に静かになった。
俺はなにを拗ねてるんだろう。彼女の過去に?それとも、今——?
たった一人の、この世で一番大切で、ちゃんと恋をしている相手を、信用できていないわけじゃない。けれど俺だけのものじゃないと知らされるたび、無意識に身構えてしまう。
手の中でスマホが震えた。彼女からの着信だ。どうした。ためらいなく取ればいい。なのに指が動かなかった。
「……っ、あ〜!……もうっ!」
風が少しだけ強くなる。髪が揺れ、羽根も揺れる。画面の点滅が止まり着信が切れた。結局俺はあの声すら受け取れなかった。あとでちゃんと謝らなきゃ、と思う。けれど今はまだ、彼女に何て言えばいいかわからない。そんな、夜だった。
電話を切ってからしばらくスマホを握りしめたまま、私は動けなかった。
繋がらなかった。たまたまかもしれない。でも彼、ホークスのことをたまたまで片付けたくないくらいには私はもう、彼のことを知ってしまっていた。今までは、ほんの数分でも電話ができた。
「今日もおつかれさま」
「眠れてる?」
なんて。そんなたわいない言葉でさえ彼はまるで子どものように嬉しそうに笑ってくれたのに。だからこそわかる。あの既読すらつかない沈黙は意図的なものだった。既読をつけたら返さなきゃいけなくなる。声を聞いたら、なにかをこぼしてしまいそうになる。だから彼は今電話を避けた。
「……どうしたんだろう。」
声に出してしまったところで、返事がくるわけじゃない。けれど胸の奥に重たい靄が落ちたまま私はその夜をやり過ごすしかなかった。
*
「……俺、なんであの電話出らんかったんやろ」
出動前、休憩フロアで片手にアイスコーヒーを持ちながら、テーブルに額をこすりつけるようにして俺は突っ伏していた。サイドキックの一人が苦笑しながら口火を切る。
「知らんすよ……でも、未読スルーとか、いっちばんダメなやつ」
「わかってますよ……つか、もうそろそろ、返事しても、よかかな?」
「いいもなにも、昨日の時点でしてないと、遅いですって」
笑いまじりにそう言ったのは最近入ってきたばかりの若いオペレーターだった。隣の席に座ってどうしようもないですね、という顔をしている。彼女からのひと言に、俺は思わず小さく溜め息をつく。年下の子に、こんなふうに言われてるようじゃ、ほんと、世話ない。
「ほんと所長、恋愛偏差値だけ中学生ですよね」
「は……? え、待って待って。偏差値どころか俺、もう卒業試験受けたとこまで来てるはずなんやけどぉ……」
「だったら電話くらい出てください。彼女さんが可哀想です」
「え、俺……カノジョいるーなんて、言いましたっけ?」
「言わなくても顔に書いてますよー。カノジョ命って。やれやれですね。飛べない鳥はただの鳥」
「あはは!それ紅の豚!よっ、紅の
……ボロクソである。いや、ぜんぜん笑えん。的のど真ん中に寸分違わず矢を射抜かれたような完敗感。しかも悔しいことにどれもこれもぐうの音も出ないほど、的を射ている。否定できない。それがまた、どうしようもなく腹立たしい。
「てか、ホークス。昨日の映像、見たんやろう?向こうのセンターのあれ」
と、もう一人のサイドキックが続けると、俺は背中の剛翼を項垂れさせて、しゅんと黙った。
「……やっぱ、ホークス、わかりやすかよ。嫉妬丸出しやったし」
「だって、あんな落ち着いて会話してたんすよ。俺じゃないヒーローと仲睦まじく……」
小さく嘆くように言って俺は、氷が溶け切ってしまったアイスコーヒーをぐっと一口。
「でもさ。俺もヒーローなんだよねぇ?しかも、俺の方はトップヒーローなんすよー」
「まあ、そりゃ誰もが認めとーばい」
「こんなことでいちばん大切な人の声、聞かないとか……ほんと、情けなかよね」
自分で放ったその言葉には、俺自身でもわかるくらいに、心底の後悔が滲んでいた。
通信のチェックも、朝のブリーフィング資料の確認も、まったく頭に入ってこない。というか、昨日の時点で既にアウトだった。出るべき電話を無視した。既読すらつけなかった。それが、どれだけ彼女にとって無言の拒絶に思えたかようやく今さらになって冷や汗が出る。そんな中、不意にスマホが震えた。
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おはよう。
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たったそれだけ。絵文字も、スタンプもなし。時間はいつもの彼女なら既に出勤準備でバタバタしている時間帯。沈黙のあとに届く五文字。それだけで心臓が震えた。返せなかった昨夜の全ての言い訳が走馬灯のように浮かんできて俺は反射的に返信の吹き出し部分を強く押す。そして……。
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おはようございます!ごめんなさい昨日。あの、ちょっとだけ混乱してました。センターの研修映像でたまたま通信見てしまって勝手にぐるぐるして、そしたら電話出られなくなって、いや、ちゃんと話せばよかったってすっごく反省してます。ごめんなさい。嫌いにならんで。でもあのもし気を悪くしてたら本当に謝りたいし今すぐでも東京飛んで。いや、仕事あるんで無理ですけど気持ちはそうで。あの、ほんとに大事に思ってるので、それだけは信じてください
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——送信。って、いやいや……長い長い。なんこれ。改行もしていない、誰が読んでも目がチカチカしそうな文章。冷静になってから見返して、送信取り消しを押そうか躊躇って結局できず思わず両手で顔を覆った。
「うわあぁ、なんこれ!きっしょ、きしょすぎる〜っ!」
思わず、ひとりごとが漏れる。うしろで事務所に向かおうとしていたらしいサイドキックが「所長うるさい」としかめっ面で睨んでいたが、いまの俺にはもう、何も入ってこない。
既読がついた。けれど、返事は、こなかった。ただその五分後。彼女のプロフィールアイコンがそっと更新されていたことに、俺は誰よりも早く気づいていた。新しいアイコンは、福岡で見た、あの日の空の写真だった。一緒に見た、あの青と雲の重なり。そこに、少しだけ希望が見えた気がした。
*
カップに注いだばかりのコーヒーから、湯気が細く立ち上っていた。時計の針はもうすぐ八時を差すところ。センターへの出勤準備はすでに整っていて、あとはこの一杯を飲み干すだけだった。スマホが机の上で静かに震えた。その名前を見たとたん胸の奥で何かがきゅっと鳴った。通知プレビューに映ったのは……長文、だった。いつもの軽いノリとはまるで違う、真っ直ぐで、ぎこちなくて、でも一生懸命な言葉がそこに並んでいた。
「あぁ……もう。」
彼のことだ。朝から何度も打っては消してようやく送信ボタンを押したに違いない。読みながら笑ってしまっていた。怒っているどころかむしろこんなに必死になられると、こっちが申し訳なくなるくらいで。
私は少しだけ考えてからスマホを手に取り短く文字を入力した。
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もう怒ってないよ

映像のことは偶然だから。
あなたが謝ることじゃないよ
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一通目を送ったあとにほんの数秒迷ってから、そう続けた。そのふたつを送ったあとに、返信はすぐに来た。
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よかった……
ほんとによかった
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文面の中でさえ、ホークスが安心して息を吐くような気配が伝わってきて、私はまた、くすりと笑ってしまう。
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また、電話してもいいですか?
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その問いには迷わず『うん』と返した。二人の間にあった小さな綻びがするすると音もなく縫い合わされていくような、そんな心地がした。
それはまだ完璧な��いつも通り�≠ナはないけれど。確かに今もう一度、彼とのあいだに温もりが戻ってきている。ほんの一言で世界の色がすこしだけ優しく変わる――そういう朝も、あるのだ。
*
夜十時を過ぎた頃だった。ベッドの上に座って髪を乾かし終えた頃、スマホがひとつ震えた。
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電話してもいいです?
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その言葉に私はほんの一瞬だけ躊躇した。でも指先はすぐに『いいよ』と返していた。気づけばほんの数秒後に、着信が鳴った。
「……もしもし?」
『あ。名前さん。こんばんはー……って、あれ?なんか今、声がやさしい……!』
「そう? いつもと変わらないと思うけど」
『変わってますよぉ〜……怒ってない声だ、ってわかる』
思わず口元がゆるんでしまった。たぶん電話の向こうでは彼がベッドかソファに寝転がりながらスマホを頬に当てている。そんな気がする。
『今朝のライン、ばり緊張したんですよー?ちゃんと伝わった? 俺の……反省の気持ち』
「うん。伝わってた。ちょっと……可笑しかったけど」
『あ、さては笑ったんですね!? 俺の長い長い恋文を読みながら!』
「ごめん、笑った。必死で打ってたのがバレバレで、可愛いなぁって」
『えーもう、恥ずかしいからやめてくださいよ』
——でも、と、彼は言葉を継いだ。私は思わず息をのむ。
『あの一言がもらえたから、ほんと、救われました。ありがとうございます』
「あの、ひとこと?」
『はい。もう、怒ってないよってやつです。あれ音声メッセージなのかなって思うくらい名前さんの声で聞こえました』
「はは……、うん。」
会話はどこか慎重に言葉を選び合うような距離感だった。けれど、それでもたしかにぬくもりはちゃんとあった。
「そっちは、もう寝るところ?」
『うーん、寝ようと思ってたけど声聞けたら目が覚めちゃったかもです』
「明日も早いんでしょ?寝なよ」
『でもぉ……声、もっと聞いていたかー、です』
そう呟く声はどこか寂しげで、だけど変わらず優しかった。
『会いたいなぁ……』
「……」
『あー、黙ると余計に切なくなるやつ』
「……私も、会いたいよ」
その言葉にしばし沈黙が落ちた。けれど息遣いの向こうで彼がふわっと微笑んだ気配があった。
『——じゃあ、次の休み、そっち行こっかな』
「え、私が福岡に行くんじゃなくて?」
『��愛の巣来て�≠チて言いたいところだけど……でも、今は、会えるだけでいい。』
「……じゃあ、待って、ようかな」
『はーい。じゃあ、今日も好きをお届けしてから寝まーす』
「えー、なにそれ……」
『名前さん。ほんとに好きですよ』
「……うん」
『じゃあ、寝かせてあげます。また明日。おやすみなさい』
「うん、おやすみ」
通話が切れたあとも、私はしばらく、スマホの画面を見つめたまま動けなかった。いつもと変わらない『おやすみ』のひと言。けれど、その何気ない言葉の奥には、すれ違いを越えて、少しずつ近づこうとする私たちだけの歩幅と重ねた想いがたしかに宿っていた。
音のない部屋にぽつりと微笑みが落ちた。少しだけ、深く眠れそうな気がした。