ヒーロー非公式懇親会という触れ込みの会合の時間は思っていた以上にくだけた雰囲気で、ゆるやかに潮の引くように過ぎていった。
 笑顔をつくるというのは、どうしてこんなにも難しいのだろう。いつもどおり仕事の時のように淡々としていればいい。そう思いながらも、私の指先は無意識の内にグラスの縁をなぞっていた。何度も何度も、円を描くように。
 少し距離を空けた隣の席で軽口を飛ばしているホークスは、あいかわらず、いや、それ以上に、どこか楽しげで、少しだけ誇らしげで。まるで何ひとつ隠す気などないような、そんな振る舞いをしている。

「電話の女神様!お疲れさまぁ〜!直接会うんは久しぶりやなぁ〜」

 ファットガムが、賑やかにこちらの席へやってきて、朗らかな声で私に呼びかける。その隣では精緻なスーツに身を包んだベストジーニストが、ぽつりとひとこと。

「支援センターの職員をここに呼ぶなんて、どういう風の吹き回しなんだか……」

 それにファットガムが肩をすくめ、笑いながら応える。

「いやいや〜、これは必要なご縁やで。なぁ〜?ホークス?」」

 その言葉に促されるように、私のすぐ隣、光を受けてゆれる黄金の髪、やわらかな眼差し。白いシャツに、黒のジャケット。ノーネクタイのくせに、それすら計算されたように似合っていて私はほんの少しだけ、息を吸うのを忘れた。

「ええ。一緒に来られて、うれしいですよ」

 彼の声が耳の奥でふわりと反響する。机の下で手に触れることすらしないまま、ほんの数センチだけ、足を寄せてくる。その距離が今夜の温度をそっと決定づけていた。

「でぇ? 結局のところホークスとは、どういう関係なんだ?」

 斜め前に座っていたミルコがストレートすぎるその物言いで切り込んできた。

「——え?あの、普通に、業務上の連携を……」

 あたふたと答えかけたそのとき。隣に座る彼がすっと口を開いた。

「付き合ってますよ。って——言っていいんですよね?」

 一瞬、場の空気が凍る。先ほど駅で「……善処します!」と彼が言ったその��間�≠フ意味をようやく、理解した気がした。ミルコは呆れたようにため息をつき、グラスを傾けながら目を細めた。

「……本人に確認も取らずに爆弾落とすなやー」

 いつの間にか私の反対隣に座っていたファットガムも、グラスを置きながら肩を竦める。でも、その口元はどこか、楽しげに笑っていた。

「ちょ、ちょっと……なに、勝手に……」
「え、違うんですか?」
「そ、それは……その……正式には……」
「じゃあ、今ここで、正式にしていいです?」

 彼が少しだけ身体を向け、まっすぐに私を見つめて言った。その瞬間、場の視線が、いっせいにこちらへ向けられた。彼の手が机に下でそっと、私の手にふれる。その体温に思考が一瞬だけ追いつかなかった。

「皆さんの前で宣言しまーす。俺、この人と結婚を前提に、お付き合いを続けていきたいと思ってまぁーす!」

 ひときわよく通る声で、片手をピンと高く挙げながら彼はそう宣言した。一瞬、空気が固まったような気がした。それでもすぐに、ざわりと熱の戻るようなざわめきが広がる。笑い声や、どよめき、誰かの「こっち、酒追加で〜」の声。けれど彼は変わらぬ調子でまるで冗談の延長みたいに、でも、どこか、火のようにまっすぐなまなざしで続けた。

「……っていうのは、ダメです?」

 視線が絡む。ああ、もう、ほんとうにどうしようもない。どうしようもないヒーローだ。なのにどうしてこんなふうに、胸の奥がきゅっと、熱くなるのだろう。

「……ダメじゃ、ないです」

 気づけばそう答えていた。小さな声で。けれどたしかに隣にいる彼にだけは、聞こえるように。その瞬間、グラスを掲げたミルコの声が響いた。

「よっしゃ〜! じゃあ乾杯だなっ!」

 カーン!とグラスが鳴る。ファットガムが「うちのヒーローを頼んだで」と微笑みジーニストは真顔のまま「職場恋愛は慎重に」と呟いて、場の空気は一気に甘く、華やかに色を変えた。
 私はそっと机の下で彼の手を握り返す。その瞬間だけは不思議と誰の視線も怖くなかった。むしろ嬉しいという気持ちのほうが強かったかもしれない。


 *


 香ばしい焼き鳥の匂い、グラス越しに交わる、アルコールの香り。話し声が折り重なり笑い声が溶けるなか、いくつかの視線がこちらに注がれているのを感じる。

「……あ、やば。目ぇ合っちゃった」

 彼が小声で呟いたとき、見ると、あのデニムのような美学をまとうベストジーニストがこちらを見ていた。口元に苦笑とも諦めともつかない表情を浮かべて。

「……公表して、よかったのかな。彼女さんは」
「えっ? んー、まあ……正直、微妙ですね」
「でも、どうせ聞いてたのは揃い組だろ?」
「そう、そう。ジーニストさん、ファットさん、ミルコさん。他、数人のヒーローだけっすね」

 ミルコの問いに彼が肩をすくめて言った、ちょうどそのとき、向こうからまたしても陽気な声が転がってきた。

「お〜お〜!正確には聞かされてたっちゅう方が近いかもなぁ?」

 笑いながら手を挙げて近づいてきたのは、席を移動していたらしいファットガム。どこか親戚のおじさんのような人懐っこさで、私に対して目を細めてくれる。そして……。

「まあ、色々と、聞かされてたってのは合ってるかもな。聞きたくもねー下世話な話を延々とな」

 依然斜め前に座るミルコが、少しあごを上げるようにしてまっすぐに私を見下ろし、その紅玉のような光を宿した目で試すように言葉を落とす。

「ミルコさ〜ん、いじめちゃダメですよぉ〜?」

 ホークスが慌てて笑いながら遮るけれど、私の胸のうちは、別のことでずっとざわついていた。
 ああ、やっぱりこれは私の立ち入っていい世界ではなかったのかもしれない。眩しすぎる。まっすぐすぎる。彼らの放つヒーローとしての輝きが痛いほど肌に突き刺さる。そんなふうに胸の中で静かに身構えていたそのときベストジーニストがふと、私の方に向き直ってこう言った。

「もし何か粗相があったら……そうだな、すぐにエンデヴァーに言うといい。力になってくれると思うよ」

 まるで、身内を迎えるような声音だった。私が目を瞬かせていると、ファットガムがにやにやと口を挟む。

「そら牽制やろ、牽制〜。ホークスが、何かやらかしたらって話やな?」
「もー、やめてくださいよ、ほんと!そげんこと神に誓ってしないですって! ね、名前さん?」

 ホークスが必死に私を庇うように言って、けれどその言葉に、私はかすかに、笑ってしまった。もしかしたら今夜私はほんの少しだけこの世界に迎えられているのかもしれない。彼の隣に立つことを、許されているのかもしれないなって。


 *


 隣に座るホークスは、やはりいつもと変わらぬ調子だった。言葉の端々や笑い方、無意識の視線の向け方——どれを取ってもやはり彼が私たちの関係を隠すつもりなどさらさらないことが伝わってくる。そして何よりそれを物語っているのは、自然と縮まってしまったこの距離感だった。二人のあいだに吹く空気さえ、今はやけに熱を帯びている気がする。

「でさ〜名前さんが最近、管制中に急に黙るときがあって。それって多分集中してるんじゃなくて考え事してんすよね〜」
「ちょ、ちょっと、やめてください。そういうのここでわざわざ言わなくていいですから」

 声を潜めたつもりが思いのほか語気が強くなっていたらしい。そもそも福岡と東京という距離があるのにどうして私の通信状況なんて把握できるのだろう。これもまた、彼、ホークスにまつわる七不思議のひとつだ。隣にいたファットガムが、「あ〜、怒られとる、怒られとる!」と茶化し、ホークスはそれに対しても、子供のように笑って肩をすくめてみせた。

「……ねぇ、ちょっと飲み物取ってくるね」

 それだけ小さく耳打ちして、私は腰を上げた。離れてしまえば、この胸のざわめきも落ち着くと思ったのだ。なのに、ほんの数歩、歩いただけでその声はすぐ、背中を追いかけてきた。

「彼女——ほんと俺の大事な人なんで。みなさんお手柔らかにお願いしますねー」

 軽やかな調子。けれどその響きの奥には、それ以上の重みが確かに潜んでいた。彼の言葉が届いたのか、近くにいた他のヒーローたちが、視線を交わす気配がする。ああ、もうやめて。どうしてこんな場所で——その一言がどれほど私を困らせるか、誰よりも彼がいちばん知っているくせに。

「——た、ただの、オペレーターですから!」

 私はすぐに振り返り、できるだけ明るく笑いを含ませて、そう言い足した。何事もなかったかのように、振る舞うために。その瞬間、周囲に柔らかな笑いが広がる。ホークスは小さく舌を出し、「言い過ぎちゃった?」と、目だけで問いかけてくる。——無視、無視。
 どうしてこうも私の隠したい気持ちをさらりと暴き、自分は隠す気なんて、これっぽっちもない態度を当然のように押しつけてくるのだろう。
 ……それでも。そんな彼の真っ直ぐさに、少しだけ心が揺れてしまう私は、きっともう、とうに手遅れなのだ。ああ、末期だ末期。そう思った、そのとき。不意に、背後から声をかけられた。

「……飲み物、足りてるか?」

 ぼそりとした声音に顔を向けると、イレイザーヘッドが、グラスを片手に立っていた。私は軽く会釈をして飲み物が並ぶお盆から一つのグラスを手に取り、近くの座敷へと腰を下ろす。彼も黙って隣に腰を下ろし少しだけ壁にもたれかかるようにして身を預けた。この席からは座敷全体の様子がよく見える。するとグラスの中の琥珀色をひと口含んだあと、彼がぽつりと呟いた。

「……彼氏って、ヒーローだったんだな」

 何の話かなんて、言われなくてもわかる。私が否定しようとした��関係�≠�あの人があっさりとむしろ堂々と肯定してしまった先の、あの一瞬のことなのだろうな、と。

「……そう、ですね」

 なんとなく、この人には隠さなくてもいい気がして、素直にそう答えた。

「照れてる余裕があるならちゃんと覚悟しとけ。相手はプロヒーローだ。しかも……ああ見えて、意外と真剣に、相手のこと見てるよ」
「……意外と、ですか?」
「余裕に見せてるだけだろ。あんたのまえでは、特に、な」

 静かに、泡が弾けるような微かな間が流れる。イレイザーはそれ以上多くを語らず淡々とした表情で、視線をグラスに落としたまま、ふたたび口をつけた。私はそっと手元のグラスを持ち上げて、彼のグラスに軽く当てる。

「……乾杯、ですか?」
「ええ。乾杯です」
「なにに?」
「え?あー、そうだなぁ、何に乾杯しましょう」
「じゃあ、面倒な関係に巻き込まれた、君に。」
「……あはは、たしかに」

 カチン——と、ふたりのグラスが静かに、かすかな音を立てた。


 彼女が全然戻ってこないので不審に思いきょろきょろと、視線を巡らせる。誰かと話してるのを見つけたのは、グラスの中に残った氷がひとつ、からんと音を立てた、ちょうどそのときだった。
 部屋の隅。やわらかい照明に包まれた空間で、彼女は、イレイザーヘッドと並んで座っていた。グラスを傾ける相手の横顔はいつもの通り無表情とも言える、無口な静けさを携えていたけれど、あの人のそういう雰囲気に、俺は少しだけ、嫉妬する。
 彼女が笑った。わずかに——けれど、綺麗に。無理をしている笑顔じゃなかった。安心しているような、気を抜いているようなそんな顔だった。こっちはさっき、恥ずかしいくらい堂々と「俺の大事な人です」と勇気を出して言ったばかりだってのに。その直後にあんな風に距離を取られたらそりゃ、さすがの俺でも少しは堪える。
 けど……笑っててくれてよかった。俺じゃない誰かと話していてもちゃんと笑ってくれてるのを見るとなんだかホッとする。同時にどうしようもなく、胸の奥がむず痒くなる。

「……余裕なかねぇ。」

 ぽつりと零した言葉は、周囲に満ちる賑やかな笑い声や食器の音、グラスのぶつかる音にあっさりと飲み込まれていく。グラスの中で氷がひとつまた音もなく沈んだ。彼女の姿を視界の端にとらえたまま、俺は、呆然とその場で見守るだけ。
 何を話しているのかは、さすがにこの距離ではわからない。けれど、ふとした瞬間、彼女の頬がわずかに、ゆるむのが見えた。さっきまで張っていた表情が少しだけ、和らいだような気がして。たぶん隣に座るヒーローの、なにげないひと言が響いたのだろう。あの人の言葉は余計な飾り気がないぶん時に、真っすぐ人の心に届く。ヒーローとして最前線に立ちながらも、新しい世代を育て続けている。そんな生き方をしているからこそ、自然とそういう空気や言葉を、生み出せるのかもしれない。俺も、そんなヒーローになれるだろうか。でも——それでも、できることなら……ああやって心の力を抜いて笑える相手が自分であってほしかった。ただの、ほんのわがまま。

 でも、そう願ってしまうくらいにはもう、俺は彼女にとっての��特別�≠ナいたいってそう思ってしまっている。
 照明の下で交わされるささやかな乾杯。そっとグラスの縁を合わせる彼女の横顔に、言葉にならない想いがまたひとつ積もっていく。


 イレイザーの横に並んで座っていると不思議な安心感が胸の内側に広がった。言葉数は多くないけれど、その、静けさに寄り添ってくれるような佇まい。肩を並べて座るだけで少しだけ、自分を許していい気がして、私はひとつ深呼吸をした。
 だけど……ほんの一瞬後だった。まるで会場の空気を裂くような、軽やかでよく通る声が、その名前を、私の名前を、あえて高らかに呼んだ。

「名前さーん!!」

 声の主は、言うまでもない。振り返るより早くその声音に、胸が跳ねた。空気がすっと止まり、グラスを持つ手が小さく震えた。驚いたように、一瞬だけざわついた会場の空気が、すぐにやわらかな笑いへと変わっていく。それでも私はまだ、振り返れずにいた。

「おいおい、堂々とさらかっさらう気かよ!」

 と、誰かが冗談めかして言っているのが、私の耳にも届く。イレイザーが隣で、小さく肩をすくめるのが目の端に見えた。

「……行ってこいよ」

 その一言に、ようやく私は背中を押された気がしてゆっくりと振り返る。そこにいたのは片手を大きくブンブンと振りながら、それでもどこか、バツの悪そうな笑顔を浮かべている彼の姿。わざとらしく明るく振る舞っているのが逆に痛いほど伝わってくる。べつに、そんなふうにしなくてもいいのに。そう思ったのにどうしてか足が自然と立ち上がり、彼の方へ向かって動き出していた。みんなの目がこちらを向いていることなんてもうどうでもよかった。むしろその視線の真ん中で、彼の名前を呼び返してやりたい気さえしていた。
まったくもう。こっちの心の準備もできていないのに……ずるいヒーローだ、ほんとうに。

 グラスを手に、私は静かに席へと戻った。そこには少しだけ居心地悪そうに笑っているホークスがいた。けれどその笑顔の奥にあるものが何なのか、私はもう知っている。他人を笑わせながら、いつも自分をどこか遠くに置いているような──そんな、寂しさの色だ。
 彼の隣に腰を下ろした瞬間、微かに香る石鹸の匂いと、夜の空気に晒された羽根の温もりが混ざって、ふわりと漂ってきた。

「おかえりなさい」

 彼が小さな声でそう言った。あまりに真面目であまりに真っ直ぐすぎるそのひとことに、思わず頬がゆるみそうになる。けれどそれを見せまいと私はわざと軽く「うん」とだけ返した。

「どこであぶら売ってたんです?」
「……ただの、お手洗いですけど」

 冗談めかしてそう返し私はグラスをテーブルにそっと、置いた。軽やかな言葉のつもりだった。でもその瞬間、彼の唇がわずかに動いて小さく、まるで、誰に向けたでもないように「嘘つき」と呟いた気がした。
 はっきりと聞き取れたわけじゃない。それでもその一言が落とした温度に心のどこかがひやりとする。隣にいるはずの彼の輪郭がほんの少しだけ遠く感じられた。その横顔には、さっきまでにはなかった陰りが宿っていて笑みを浮かべていてもどこか、ぎこちない空気がまとわりついていた。
 テーブルの上にはいつの間にか新しいドリンクが置かれていた。色味からして、私が最初に注文したカクテルと同じもの。氷がひとつ溶けかけている。たぶん、私の代わりに、彼が頼んでくれていたのだろう。

「……ありがとう」

 そう呟いて自分が持ってきたグラスではなく、彼が頼んでくれたであろうグラスを手に取ると、ホークスは私の隣で小さく笑った。でも、それはいつものいたずらっぽい笑みではなく、どこか、力の抜けた、寂しさを滲ませた笑みだった。

「堂々としてくれてよかったのに」

 ぽつりと、まるで、誰かに言い訳するみたいな口調だった。私はグラスを揺らして、溶けかけの氷が小さく音を立てるのを聞いた。それだけで、胸のどこかが、少しだけ軋んだ。

「……でも、私……まだちゃんと、覚悟、できてないし……」

 そう言うと彼は、黙ってグラスを傾けた。飲み干すわけでもなくただ口をつけるだけ。グラスの中の液体がほんのわずか揺れて彼の瞳に映る光が夜の室内の中で、かすかに揺らいだ。

「でも俺は、もうずっと覚悟してましたよ」

 その言葉に、なぜだか思わず息を止めてしまった。彼の声は静かだった。けれど、冗談でも軽口でもなく、本気の響きを宿していた。

「名前さんが俺のこと、仕事仲間としてしか見てなかった頃から、たぶんずっと」

 照れ笑いのように、彼は肩を竦める。私は目を逸らしてテーブルの隅に並べられた紙ナプキンに視線を落とした。

「……ずるいね、みんなに言ってるでしょ、そういうの」
「ずるくないですよ。それに言ってないですし。言えんでしょ、こんなこっ恥ずかしいこと」
「……」
「だって、好きな人にちゃんと好きって思ってるって言うのって、ずるくないじゃないですか?」

 目の奥が、少しだけ熱を帯びていく。この人はほんとうに私に言葉を選ばせてくれない。理屈で塗り固めてきた私の心の輪郭をひとつずつ、ほどいていってしまう。それが、怖くて。でもどこかでは、嬉しくて。
 気づけば私たちはもう長いこと言葉も交わさずグラス越しに視線を交わしていた。ただそれだけで、たしかに通じ合っていると、思えてしまったから、やっぱり末期なのだろう。

「相澤先生、なんか言ってましたー?」

 不意に問いかけるその声が、どこか、不自然に明るかった。いつもの調子に見せかけようとしているのが逆に伝わってきてしまう。

「……覚悟、しろって。」
「へ?」

 彼はちょっと目を見開いて、それから訝しげに眉を寄せた。

「ヒーローと付き合うなら、覚悟しろってさ」
「……うわ、相変わらず怖いこと言いますね」

 冗談めかして言ったのに、彼の目は笑っていなかった。だから私は言葉を選ぶようにゆっくりと続けた。

「でも、見てるって」
「え? なんを?」
「真剣に相手のこと見てる、って言ってたよ」
「はい? 誰が、誰のことを?」
「あなたが他人のことを。余裕があるように見せてるけど、本当は、真剣に相手を見てるって」

 彼の唇がふいにわずかに震えた。そしてほんの少しだけ目をそらしたあと、そっと、私のほうを見て、やわらかく笑った。

「あー、……バレてましたかぁ。余裕ないの」
「うん。ばればれ」

 互いにグラスを持ちながら少しだけ笑い合う。夜はまだ終わらないというのに、どこかで、エピローグのような静けさが二人の間に降りていた。彼の羽根がそっと動き、テーブルの下で私の手にふれてくる。その柔らかなぬくもりに、胸の奥が静かにゆれる。

「……もう少し、こうしててもいいです?」

 そう囁いたのはおそらく彼だったけれど、その響きはまるで、私自身の胸の奥からも零れ落ちた言葉のように思えた。


 *


 懇親会が終わるころには、すっかり夜も更けていた。座敷席、ヒーローたちはそれぞれ名残惜しそうに別れと労いの挨拶を交わしている。そんな私と彼も、静かに会場を後にした。外に出ると、夜の風がそっと肌を撫でる。涼しくて、少しだけ切ない匂いがした。人通りの少ない歩道を並んで歩く。けれど、彼はいつものように軽口を叩こうともしない。黙って両手をポケットに突っ込んだまま、前だけを見ていた。あの会場を出てから、彼がまだ一度も、私の顔を見ていないことに気づいてしまった。

「……さっきのこと、気にしてる?」

 ぽつんと問いかけると、彼はほんの少しだけ、唇を曲げた。

「なにがです?」
「私が『ただのオペレーターです』って、言ったこと」
「いや、べつに……肯定してもらえると思ってたわけじゃないんで」
「……」
「この関係が公にできることじゃないってのも、分かってますしね」

 そう言いながら彼はふと歩みを緩めて立ち止まった。街灯の光が彼の睫毛の影を落としている。表情は見えにくい。でもその沈黙が何よりも雄弁だった。

「でもね。ちょっとくらい、肯定してほしかったなって」
「……」
「ヒーローたちに囲まれて。俺がどれだけあなたのこと大事かってこと言いたくてたまらなかったから」

 私の胸の奥にきゅっと糸が絡まる。ほんの小さな、我儘。でもそれは誰よりも真っ直ぐに愛してくれている人の、精一杯の不器用な訴えだった。
 私は黙って彼の手をそっと取った。左手の甲に指を絡ませると彼は驚いたように目を丸くして、それから、ゆっくりとその手を握り返してきた。

「……ねぇ、ホークス」
「はい?」
「今日は、ありがとう。……ほんとに」

 その言葉に、彼の眉尻がすこし緩んだ。そしていつもの彼らしい少し子どもっぽい笑みが戻ってくる。

「もう——ヒーロー名で呼ぶの、やめません?」
「え……、なに言ってんの」
「だってさ、恋人っぽくないじゃないですかー、なんか」
「公表できないって自分でさっき言ったくせに」
「でも、呼ばれたいじゃないですか。名前で」

 ……もう。私は小さくため息をついた。けれどその横顔を見ていたらふいに胸の奥に灯りがともったように温かさが溢れてくる。彼の手はいつもより、少しだけ汗ばんでいた。人目のない夜道でふたりだけの世界。あのとき、伝えきれなかった想いがこうして少しずつ、やわらかにほどかれていく。
 寄り添う肩と肩の間に、ことさらの言葉はいらなかった。街の灯が遠のいていく帰り道。タクシーではなく今日は彼がゆっくりと歩いてくれると言ったのだ。私の歩幅に合わせるように、そっと手を繋いで。まだ汗ばんだ彼の掌はそのまま私の鼓動まで知ってしまいそうなほど、やさしく熱を帯びていた。

「……それで? 今日は、どこに帰ります?」

 問いは宙に浮かせただけで、答えはすでにわかっていた。私は鍵を握りしめるようにして自分の住むマンションのある方向を小さく指差した。


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