夜風の中、静かな玄関。鍵が開く音すらどこか特別に思えるほど部屋の中には二人きりの世界が待っていた。リビングの照明はつけずただ薄暗い間接照明だけ。バッグを置いて振り返ったとき、彼の唇が、私のまぶたにそっと触れた。ふわりとやわらかい羽音のようなキス。

「ねぇ、……好きだって、言っていいです?」

 彼の声は低く少しだけ震えていた。私は黙って頷いた。すると、頬、耳元、鎖骨──そこに置かれるキスの温度が、ひとつずつ確かに、私の中の何かを焼いていく。

「名前さん、好きです」
「……」
「ね、言って? 俺が好きだって……言って」
「……好きだよ、啓悟くん——。」

 壁に背を預けたとたん彼の腕が私の腰をぐっと抱き寄せる。くちづけは次第に深く、熱を帯び、言葉にならない感情が交錯していく。
 ──ああ、この人は。どうしてこんなにも真っ直ぐで、激しくて、こんなに私を求めてくれるのだろう。
 Tシャツの布越しに感じる彼の体温が私の肌の奥へと染み込んでいくようで。指先が肩のラインを、背骨を、太ももをなぞるたびに息がこぼれ、名を呼ぶより早く、彼の名が心の中で燃える。

 ベッドへたどり着いたときにはもう、お互いに何もまとっていなかった。キスは途切れず腰と腰が重なり、息と息が絡まる。深く、熱く、痛いほど──求め合う。
 彼の動きは激しく、それでいて、どうしようもないほどの飢えがあった。私はそのすべてを受け入れるようにただ彼の名を何度も呼び、爪を背に立てて、身体ごと彼に応えていった。

「は、ぁ……名前、さん——」
「……ん、……うん——」

 愛してるとか、好きだとか、そんな言葉よりも確かなものが私たちの間にはあった。肌が重なるたびに、心がほどけていく。ひとつになるということが、こんなにも狂おしく、こんなにも、救いだったなんて。
 夜が深くなる。息を合わせて波のように幾度も愛を交わし、最後に彼が私のまぶたにキスを落として、吐息混じりに静かに言った。

「もう、ずっとここにいようかと。でも明後日の朝には、帰らないとですね……」

 その言葉に、思わず笑った。私は彼の胸に顔を埋めながら、小さく答える。

「帰らないで、って言ったら?」
「……言ったら? 二回戦——始めますけど?」

 頬を撫でる指先がやわらかく震えていた。その夜、私たちは幾度となく確かめ合い、気づけば、明け方の鳥の声を聞いていた。


 *


 カーテンの隙間から差し込む光が少しずつ色を変えていた。外はもう朝なのだろうけれど、この部屋のなかだけは、まだ夜の余韻に包まれているようだった。
 彼の腕の中で私はうとうとしながら、ただその体温に身をゆだねていた。頬を撫でる指先がくすぐったくて、思わずくしゃりと眉を寄せると彼が小さく笑う。

「……そろそろ起きる?もう十分寝たでしょ?」
「やです。あと五分……ていうか、今日はデートでしたね。じゃあ、気合入れて準備してぇ……」
「言ってるわりに、まったく起きる気配がないんですけど?」
「それは、名前さんが悪いんですよー。こうして隣にいて、すごく幸せそうな顔で寝てるから……離れたくなくなるじゃないですか」

 そう言いながら、彼の鼻先がそっと私の鼻先に触れ、額と額をくっつけ合う。ああ、また……。その気のないふりして甘えてくるのだ、このヒーローは。

「じゃあ私が先に起きる。シャワー浴びたいし」

 そう言って、彼の腕から抜け出そうとすると、今度は腰にしっかりと腕が回された。

「ちょっと、離して?朝からほんとズルい男ー」
「こすうてもよかですよ。離したらたぶん俺……きょう一日中、寂しい病、発症するんで」
「こどもか」
「こどもでも、甘えさせてほしい……こうして、ふたりでいられる、朝くらい」

 耳元でそんなことを囁かれたら、抗えるはずもなくて。私は小さくため息をついて彼の胸にもう一度だけ顔を預けた。

「ほんとに、どうしてそんなに甘え上手なのー?困るんですけど」
「名前さん限定なんですよ、これ。……なんなら抱っこでバスルームまで連れてってあげましょうか?お姫さま」
「やめて。いろんな意味で怖いから」
「じゃあ、キスだけください。眠れる森の、ヒーローに。支度前の……エネルギー補給」

 くい、と顎を取られて、そのまま触れるだけの柔らかなキスを落とされる。けれどほんの数秒後には、やっぱり足りないとでも言うように、もう一度。くちびるが、また重なる。

「もしかして……まだ寝たいんじゃなくて、別の意味でベッドから出たくないだけじゃないの?」
「バレました?名前さんが可愛すぎるのが悪いんです。もうちょっとだけ、俺に甘えてください」
「それ、ほんとに私以外に言ったら、その羽根、燃やしちゃうからね?」
「ははっ、俺の弱点。42度以上は、ダメです」

 二人だけの甘い空気が、また少し熱を帯びる。けれど今日は、ちゃんと外に出る約束をしていたから。私は意を決して、ゆっくりと、彼の胸から身体を離した。

「じゃ、ほんとに、シャワー行ってくるからね。起きててよ、ちゃんと」
「はーい。でも……着替えてるとこ、うっかり、見に行っても怒らないでくださいねー?」
「怒るに決まってるでしょうが!」

 笑いながら起き上がった彼の髪がぐしゃぐしゃで、なんだか子犬みたいだった。そんな姿を見ていると不覚にもこちらまで頬がゆるんでしまう。

 まだ続く、朝のひととき。それはまだ始まったばかりの��ふたりだけの時間�≠フ、ほんの序章。シャワーの吐水音が、耳の奥をくすぐる。細かい水滴が肩先をつたって鎖骨を撫で肌の上に小さな流れをつくるたびにほんの少しだけ昨夜の温度がふいに、よみがえってくる気がした。


 *


 人混みに紛れた東京の街を昨日はふたりきりでよく歩いた。行き先を決めずただ気ままに喧騒の中で彼と肩を並べて過ごした時間は息をするたび胸の奥まで澄んでいくような、そんな幸福に満ちていた。
 夜には、見慣れたはずの景色さえどこか違って見えて、帰り道、彼がぽつりと「今日のことね、ずっと忘れないと思います、俺」なんて言うから、私の心はそれだけでいっぱいになってしまったのだった。

 どこからか、鳥の声がかすかに聞こえた。まだ朝というにはほど遠い、青く滲むような時間帯。眠りの中からぼんやりと浮上する感覚に私は薄く目を開けた。柔らかな布団の重みと、隣に感じる確かな体温。ああ……まだ夢の続きみたいだなと思った。
 ほんの少し視線を上げる。そこにあったのは、先に目を覚ましていたらしい彼、ホークスの顔。天井ではなく、窓でもなく、まるで飽きることがないとでも言うように、彼は私のことを、じっと隣で見ていた。薄暗がりのなかで、彼の瞳だけが静かに濡れて光っている。

「……なに、見てんの」

 まだ眠気の残る声で、そう問うと、彼は小さく目尻を和らげた。

「ん?綺麗だなぁって。朝が来てもあなたの隣にいれるの、なんか不思議で」

 そんな言葉、反則だ……夜の熱がまだどこかに残っている肌がまたじんわりと火照っていくのを感じる。

「……なんか、ちょっと恥ずかしい。見ないで」

 そう言って枕に顔をうずめようとしたら、彼が「隠さんで」と指先でするりと私の頬に触れた。

「でも……ずっと、こうしてたいなって、思ってますよ」
「もう、またそれ……」
「だって起きたときあなたが隣にいるんですよ、ただ、こうやって見てるだけの朝が来てほしいなって」

 息を呑んだ。さっきまで夢だったはずのものがこうして現実になっていることが、まだ信じられない。けれど彼の瞳は真剣で、そしてどこまでも優しかった。

「……言いましたよね。ちゃんと、プロポーズ、リベンジするって」

 声は低く、けれど確かな熱を帯びていた。その手が私の髪をゆっくりと梳くように撫で、やがてそっと、背中へと回される。わずかに残っていたはずの距離が静かに溶けて消えていく。肌と肌が触れ合い、呼吸までもが重なっていく。

「それまで、まだ一緒にいてくれます?」

 私は少しの沈黙のあと、首をふるふると、横に振って言った。

「……違うよ。それまでじゃなくて、これからもでしょ」

 彼は声を立てずに笑った。その笑みがなんともくすぐったくて、なんとも綺麗だった。鳥の声が少しずつ明るさを帯びてくる。ベッドの中、私は彼の胸元に顔を寄せた。遠くから朝の匂いがしていた。けれど今だけは、もう少しこのまま。まだこの夜が終わらないようにと、私はそっと、目を閉じた。


 *


 扉の向こうで、かすかに床がきしむような音がした。その瞬間、私はシャワーを握る手を止め、ゆっくりと振り返る。

「……え、うそ。ちょっと、何してんの!?」

 湯気のむこうに見慣れた羽根と金色の目。ホークスはすでにタオルも巻かずすべてを脱ぎ去った気配で、まるで猫のような足取りでこちらに向かってきていた。

「だって……置いていかれた気分になったんで」
「いやいやいや!置いてくもなにも、朝の準備中ですけど!?」
「朝からひとりでお湯かぶってるの、ちょっと、寂しくないです?」
「そっちが勝手に二度寝してただけでしょうが」
「あなたもしてたでしょ、二度寝」
「う……してたけど。でもちゃんと起きたし」
「目ぇ開けたら、名前さんいなかったから……。ほら、寂しかったんですって」

 あくまでしれっとした顔で、けれどその目元には、悪戯の灯を隠しもしない。私は呆れながらも浴びていたシャワーの温度を少し上げてそっちに向けるように軽く振った。ぬるりと霧がその肌を濡らしてゆく。

「熱くないですよー。俺、熱いの得意なんで」
「42度にしてやろうか」
「はは、望むところです」
「じゃあほら、自分で洗って。私はもう……」
「洗ってあげますよ。昨日、いっぱい触ったし、いまさら見せ合って、恥ずかしがるような仲じゃないでしょう?」
「言い方が……いちいちなんか、いやらしい!」
「だって、いやらしい気分になってきましたし」
「——なっ! はぁ……」

 結局、私は観念して、身体を少し彼に向けた。その手が優しく私の背を撫でる。指先が肩甲骨の下でくるくると円を描くように動くたび、ぞくりと背筋を這うような感覚が残る。

「なんで……そんなに手慣れてるの。ちょっと、こそばゆい」
「こそばゆいのは、悪くないじゃないですかー。ねえ、ほら。気持ちいいでしょ?」

 囁くような声が耳のすぐそばに落ちてきて私は反射的に肩をすくめる。そのまま彼の指が首筋を通って胸元へ。泡の感触とぬるい湯の中で二人の距離は自然と縮んでいく。

「ねえ……ほんとに、朝からやめて?これじゃあ支度できない」
「……やめないですよ。まだ、触れてたいです」

 正面から抱きしめられて、湯に濡れた頬が私の額にあたる。その熱の中で、私はまた静かに目を閉じた。
 泡立つ石けんの香りと肌の湿った感触。交わす言葉はどこか幼くて、でも指先だけはまるで甘い重力を帯びている。湯気に包まれたバスルームはさっきまでの熱の名残りを心地よく薄めてくれるような空間だった。ふたり並んで立つには、少し狭いけれど、それがむしろちょうどよく感じた。

「ねえ、泡立てすぎじゃない?それ、顔見えないくらいモコモコなんだけど」
「うん。泡まみれの名前さんがかわいいから見たいんです」

 そんな子どもみたいな理由を真顔で言ってのけて、彼は私の首筋に泡をのせた指をすべらせる。私はぴくりと身をすくめて、笑いながら湯をはね返すと曇った空間にふたりの声が溶けていった。身体を洗いながら指先だけはふとした瞬間にまた絡まって、触れた手と手が熱を移し合って、くちびるを近づけすぎないように気をつけながらも、時折「あ、つい……」と言って、キスが落ちる。

「……ねえ、これ、何回目の��つい�=H」
「さあ?でもついが言い合える関係性っていいと思わないです?」
「……そういうの、すぐ本気になっちゃうから。気をつけてね」
「え? なにを気をつけるんです?」
「……他の子に、言わないでねって意味」
「何か俺、遊び人認定されてません?心外です」
「んー、そういう意味じゃ……」
「じゃあ、責任取ってください。これからずっと俺の手綱、ちゃんと握っててくださいね」
「……はいはい、ヒーロー。……早く、流して」

 蛇口をひねって温かな流れをふたりのあいだに落とすと彼の手がまたするりと私の腰を抱いた。
 朝のはじまりにしてはあまりに甘く、あまりに深いひととき。このまま、陽が昇らなければいいのにと一瞬だけ、そんなことを思ってしまった。

 私があとからバスルームを出ると、彼はすぐにふわふわのタオルを差し出して、背中を、丁寧に拭いてくれた。その手つきはあくまでやさしく、けれど拭き終わったあと、腰をそっと抱くように引き寄せて、また耳元で囁く。

「バスローブ、似合いますよね、名前さん」
「……それ、裸にバスローブって意味でしょ」
「うん。正直、すっごく好き」
「最低」
「えー。最高でしょう?」

 髪を乾かす風が、耳の奥をくすぐって、思わず、くすりと笑いが漏れた。

「ねえ、くすぐったいってばー。風、強すぎる。中にして、中に。」
「えー? 俺は、ちょうどいいと思ってるんですけどねー。ほらこっち向いてください、ちゃんと乾かすんで」

 バスタオルを腰に巻いたままドライヤーを持ったホークスが、真剣な顔で、私の髪に風を送っている。脱衣所の鏡越しに見えた彼の表情はなぜか嬉しそうで、そして、ほんのり赤い。

「私に見惚れて、ドライヤー動かす手が、止まっちゃってますけどー?」
「あ、すんません。いや、なんか……すごい美人だなって思って」
「はっ、急に、なに!?そういうの、タイミングほんと、チャラい」
「うわー、心外。」

 照れたふりをして後ろを向こうとした瞬間彼の腕が私の肩を捕まえて引き寄せられた。ぽすん、と背中から抱きしめられて湯上がりも相まって、彼のぬくもりがじんわりと広がる。

「捕まえた」
「……」
「ほんとは、まだこうしてたいんですよ?今日も行かせたくない」
「……ダメ。私は私の仕事があるし、あなたも、福岡でお仕事あるでしょ」
「うーん……。でも、所長特権ってことで、あと五分だけ……」
「あーあ。ずるいなぁ、もう……」

 そのまましばらくしてからふたりでキッチンへ向かった。湯上がりの頬がほてったまま私が冷蔵庫を開けると、彼が背後からすっと抱きついた。

「……ちょっと、料理できないってばぁ」
「してる姿が可愛すぎて、離れられないです」

 首にかかる彼の髪がくすぐったくて、私はうっかりベーコンの入った袋を落とす。それを彼が拾いながら、唇を私の首筋に落とした。

「ねえ……なにが食べたい?」
「……名前さん」
「それは、おとといの晩からずっと食べてるよ」
「はは、ですねぇ。間違いない」

 笑って、けれど、指先は朝の陽に透けるように、ぬくもりを持って私が卵を割りながら、彼が隣でベーコンを焼く。二人の動きはぎこちなく、でも不思議と噛み合って、お互いの肘がふと触れあうたびにまたどちらかが「……キス、しよっか」と言い出しそうになる。けれど今は我慢して……。そうして出来上がったプレートをテーブルに並べて座ると、彼はふたり分のコーヒーを注いでから湯気の向こうにある私の頬をじっと見つめて囁くように言った。

「ねえ、朝ごはん作るのってさ、こんなに幸せなことだったんですね」

 照れたように笑って「うん」と応える私に彼はまた手をのばしてきて、その指をからめた。
 そんな幸せなひと時も、残すところわずかだ。朝ごはんの片付けをしてベッドの横に置いていた今日着る予定の服を取ろうと手を伸ばすと、彼がふざけてそれを先にひょいっと奪い取りベッドの反対側に投げた。

「ちょっと! 返して、もう!」
「何着も持ってるでしょー?じゃ、今日は俺の服着たらどうです? 貸しますよ?俺、着る服なくなるけど」
「そんなわけにいくか、お馬鹿さんヒーロー」

 やや本気の声で返すと、彼は「ひどかねぇ」と言いながら奪い取った洋服を丁寧に拾って渡してくれる。

「……ごめんなさい。」
「ん?」
「ほんとは、離れるのがちょっとこわくなってるだけです」

 その言葉に私はそっと洋服を胸に抱えたまま、黙って彼の肩に額を預けた。互いに別れの時間が近づいていることを知っていながら、まだ言葉にしたくない。だからこそ、この数分がたまらなく愛おしい。

「——じゃあ、せめて。靴下履かせてください。お詫びに」
「……は? なんのお詫びでその選択になるの」
「そういうの憧れてたんですー。ちょっとした、お姫さまごっこ? みたいな」
「小学生みたいなこと言わないでよ……」

 呆れたように口では言いながらも、私は素直に椅子の端に腰をかけていた。結局彼は床にぺたんと膝をついて私の足元に手を添える。左、そして右。まるで壊れ物を扱うような手つきで、ひとつずつ、靴下を丁寧に履かせていく。その姿がなんだかまるで、シンデレラのワンシーンのようで。
私は思わず笑いをこらえるようにそっと口元に手を添えた。それに気づいたのかそれとも彼なりの演出だったのか、彼が芝居がかった声で言った。

「わあ〜、ピッタリ」
「……はは。王子様に見そめられちゃう」
「その王子様はもちろん、俺ですよね?」
「うーん……どうかなー」

 とぼける私に彼は苦笑しながらも最後まで靴下を引き上げ軽くそのつま先に手を添えて言った。

「……はい、できました、お姫さま。今日も一日がんばってくださいね」

 顔を上げたその瞳が柔らかな光を湛えて、まっすぐにこちらを見上げていた。くすぐったいような、誇らしいような、ほんの少しだけ照れくさい時間。だけど、私はきっと、こういうささやかな朝の一幕をこれからもずっと覚えているのだろうなと思った。
 朝の光は、どこかいつもよりもやさしく感じられた。肌に触れる風はもう秋の香りを孕んでいてそれでも私たちの歩調に寄り添うように静かに、背中を押してくれている気がした。

 駅前のロータリー。人の流れに交わりながら、それでも彼の隣に立っていると、どこか、時間が緩やかにほどけていくような気がする。
 ホークス——彼は、黒いサングラスを手にしていて、それをまだかけずに、私の顔を見ていた。

「ほんとに、行っちゃうんだよね……」

 私が珍しく素直にそう零すと彼は少しだけ眉尻を下げた、あの、あたたかな困り顔を見せた。

「……行かないでいいなら、何時間でも、ここにいますよ。でも俺、ヒーローなんで」

 笑いながら言うのに、目だけがすこし、寂しげだった。まるで、吸い込まれていく時間を見送るように視線の奥で、彼はなにかを手放そうとしていた。そのときふと、彼が遠くの空を見ながら、ぽつりと呟く。

「シンデレラにぴったりのはずのガラスの靴は、どうして脱げちゃったんですかねー」
「え?」

 唐突なその言葉に、私は当たり前にきょとんとしてしまう。

「あれ、シンデレラが王子様の気を引くために、わざとやったとしか思えないんですよね、俺。」

 風がひとすじ髪を揺らした。彼の横顔はまるで真剣に童話の謎を紐解いているかのようだった。

「何をやっても空回りの一人芝居で、幸せになりそこね続けた男の、ひがみですかね」

 それは——心のどこかを撫でてくるような言葉だった。私は笑ってごまかしたいのに、なぜか、笑えなかった。

「また——すぐ来ます。ていうか必ず、会いに来るんで」

 そう言い切った声は、風の音に混じりながらも真っすぐに響いていた。言葉にしたあと彼はふと照れくさそうに笑い、それから小さく口を開いたまま、しばし言葉を探すような仕草をした。

「……名前さんが同じ空の下にいるってだけで、俺、頑張れるんで。ほんとに」

 その一言はふいに胸の奥を柔らかく揺らした。駅のアナウンスが、響く。あと数分で、彼の乗る電車が到着する。

「じゃあ……気をつけて。福岡、暑いんでしょ。熱中症には、ほんと気をつけてね」
「うん。そっちも。あんまり、無理しないで」

 目が合ったまま、しばらくのあいだ動けなかった。このまま手を伸ばしたらもう一度抱きしめてしまいそうで。だけど今、それをしてしまったら彼が本当に行けなくなってしまう気がして——。
 だから私はほんのわずかに手を振った。それが合図のように彼はすっとサングラスをかけ、少し歩き出してからまたこちらを振り返って言った。

「——また、すぐ、会えますから。」

 その言葉を私は、静かに胸の奥に沈めた。駅のホームに向かう彼の背中が朝の陽に滲んでゆく。それを見送ったあと、私はゆっくりと、歩き出した。この都会の空に戻ってきた日常のなかで彼が残した温度だけをそっと、心に宿しながら——。


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