東京に戻ってきてから、まだそれほど、月日は経っていないはずなのに——福岡で過ごしたあの濃密な日々が時間が、もう夢の底へと沈んでいくような感覚があった。
午前の通信室は、いつもと変わらない光景だ。モニターには街の騒がしさが流れ、オペレーターたちのヘッドセット越しの声が、あちこちで交錯している。でも心のどこかで私はまだ、彼の声を探していた。
「名字さん、次の回線お願いします」
「あ、はい」
声を出すとたちまち日常に引き戻される。それでもモニターの端に映る『福岡センター』の文字が目に入るたびに、あの街で一緒に過ごした彼の姿が、不意に思い浮かんでしまう。
昼休憩の時間。デスクに置いたスマホが小さく震えた。画面に映る名前を見た瞬間、心臓が一つ軽く音を立てて跳ね上がる。
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おつかれさまでーす

今日の東京、暑いです?

こっちは羽根焦げそう

あと、ちゃんとご飯食べてます?
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それだけで胸がじんわりと温かくなる。福岡にいる彼が忙しい合間に、わざわざこうしてメッセージをくれることが妙にくすぐったくて。私は、指先で画面をなぞりながら、返事を打った。
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暑い。溶けちゃう。
羽根は焦がさないでください。
ご飯は食べてるよ、ちゃんと
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送信した瞬間にはもう既読がつきまるで彼そのものが文字に宿ったかのような、あの羽のような軽やかさ全開の返信がすぐに返ってくる。
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えらい!
俺の彼女、ちゃんとやってるね〜

あー、でも

会いたいですね、普通に
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最後の一文に、心がきゅっと、掴まれたようになった。今すぐ福岡に、飛んで行きたいわけじゃない。けれど、その声が恋しい。あの視線が——恋しい。私はそっとスマホを裏返して、机の上に置いた。通信室のざわめきが遠くに霞む。彼の声だけが心の奥に残響のように広がっていく。
*
今日も変わらずに、ヘッドセット越しの声は、いつもと同じ。けれどふとした瞬間に思い出してしまうのもまた変わらない。隣にいたはずの彼の体温を、あの笑い声を……まだ、肌の奥が確かに覚えている。
「——はい。こちら、ヒーロー緊急支援センターです。事故ですか?事件ですか?」
オペレーターとして声に余計な感情を乗せないよう努める。画面に並ぶ通報ログ、リアルタイムで更新されていく地図。現場の声はいつも真剣だし命に直結することばかりだ。だから私は彼の事を思い出しても絶対に表には出さない。でも休憩室で一息つくたびにどうしてもスマホを見てしまう。そこにはすでにいくつかの未読メッセージ。
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おはようございます

福岡は快晴、名前さんそっちは?

名前さんがこっちにいないと朝からテンション半分くらいなんですけど

ねぇ、俺が東京に呼び戻されたら
嬉しいです?(←圧)
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「圧、ってなによ……」
思わず吹き出しそうになる。やたらとハイテンションで連絡してくるのはきっと寂しいからだ。
でも、なんだろう……。その寂しさを、素直に言わないで、こうやって冗談みたいに送ってくるところが、可愛くて愛おしい。私は休憩の間に、そっと返信した。
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東京も晴れてるよ
ちゃんとヒーロー活動
頑張ってね

呼び戻されるより
福岡で羽ばたいてるほうが
ホークスには似合ってるよ
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送信ボタンを押した、その直後——いつもとはわずかに違う通知音が鳴った。彼からの、ビデオ通話だ。
『——おっと、今、お昼休憩っすよね?』
画面の中のホークスは事務所の屋上らしき場所で、風に髪を揺らしていた。いつもより少しだけ影の差す目元が、やけに愛おしい。
「……なにしてるんですか。サボり?」
『サボってません。これは、名前さん補給です」
「わたし、補給……?」
『そっ。しないと、元気出ないんで』
まっすぐそう言われると、なんだか返す言葉がなくなってしまう。私が沈黙すると、彼はすこし真剣な顔になって、こう続けた。
『ほんとにすぐ、会いに行きますから。今度は俺のほうが、東京に飛んできます』
それは軽い口調ではなかった。いつもふざけて笑う彼が、こんなふうにまっすぐ言葉をくれると胸の奥がきゅうと熱くなる。
「……待ってるよ。ちゃんと仕事に支障が出ないタイミングでね」
『任せてください!所長の権限で、上手いこと、やりますんでっ』
冗談めかしながらも、その声には確かな想いが宿っていた。
*
靴を脱ぐときに、ようやく、今日という一日が終わったのだと実感する。冷蔵庫から取り出したペットボトルの水を、ひと口だけ喉に流し込む。ぬるいのに、不思議と身体に沁みた。
都会の空気は、あいかわらず忙しなくて、でもそれが、自分の場所だと無理やり納得させながら日々を歩いている。ふとソファの上に投げ出していたスマートフォンが、明滅しているに気づく。画面には彼の名前。開くと想像よりもずっと長い吹き出しがそこに並んでいた。
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おつかれさまでしたー!今日はね朝イチで新人の子の訓練に付き合ってそのまま管制室でトラブル処理して午後は現場視察で隣県まで飛んできました。
なんかこう、やたらとできる所長感を出そうとしちゃってるの自分でもわかっててちょっと恥ずかしかったですw
あとねファットさんに彼女ちゃんと最近どうなん?って聞かれて、うまく答えられませんでした。うまくって、ほら気持ちはちゃんと伝えてるつもりだけど言葉にすると足りない気がして。会いたいなって、ほんとにそればっかり考えてる自分が少し子供っぽいのかなって思って。でもやっぱりそれでも会いたいって思うの止められなくて。
ねぇ。もし今、隣にいたら何話してくれます?俺が黙ってても背中に触れてくれますか?なーんて。ごめんなさい疲れてるのに。でもほんとに、今日もあなたのことが好きでした。明日も、好きです。
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私はそのメッセージを何度もスクロールして、何度も読み返した。まるで、恋文だ。画面の向こうの彼の気配が、この部屋にいるかのように濃く染み込んでくる。
「……ばか。」
口の中でそっと呟いてから、スマートフォンを抱きしめるように胸に押し当てた。ああ、もう、だめだ。こんなに、こんなに、好きにさせて——
彼の言葉を胸の奥に沈めながら、私はスマートフォンの画面に、ひとつひとつ指先で言葉を打ち込んでいった。
『今日もお疲れさまでした』
『私も、会いたいよ』
『好きって、たくさん伝わってきた』
そんな、当たりさわりのない文面が並びかけたところで、ふいに画面が切り替わる。着信——。その相手は、ホークス。指が、思わず止まった。けれど、躊躇は、ほんの一瞬だけ。私はその名前をタップして、スマートフォンを耳に当てた。
「……もしもし?」
『——あ、よかった……出た』
安堵の吐息が、微かに震えた声とともに鼓膜をくすぐる。
「どうしたの? まだ仕事中……だよ、ね?」
『ううん、やっと全部終わったとこです。でも、
なんか送ったそばから……声、聞きたくなっちゃって』
素直すぎるその言葉に、胸の奥が、ふっと熱を帯びる。彼の声には不思議と、手触りがあった。耳に流れ込むたびに首筋を撫でるような柔らかい風が肌を這うような——そんな、錯覚を覚える。
「……私もちょうど、返事を書いてたところ」
『あ、ほんと? なんて書いてたんです?』
「ないしょ」
くすりと笑うと向こうで彼もほっとしたように笑い返す。それだけで、何もかもが愛おしくなる。この時間も、距離も、沈黙すらも。
『でもさ、ちゃんと聞かせてほしいんですよね。言葉で、声で——名前さんの気持ち』
「ほんとに……会いたいよ。声、聞いたらもっとそう思っちゃった」
『じゃあもう、あれっすね。来月とか再来月とか待たずに飛んでいっちゃいますか』
「だめ。お仕事あるでしょ」
『えー。あなたに会うのも俺の大事な仕事の一つなんだけどなー』
いつもの調子。けれどその声の奥には、確かに揺らぎのような、真剣さの温度が滲んでいた。
「……ねぇ」
『ん?』
「ほんとに、プロポーズ……するつもりなの?」
やけに他人行儀な言い方になってしまった気がして、言い直そうかとも考えた。けれども、ほかにしっくりくる聞き方もすぐには思いつかず結局、早々に諦めた。
『……しますよ、ちゃんと。』
「……」
『あなたのちゃんとした未来に、ちゃんと、俺を置いてもらえるように』
私は、黙ってまぶたを閉じた。彼の声が、夜の静けさの中にすうっと溶けていく。まるで音じゃなく、光のように心の奥に灯る。だけど——。
「あの、ね……」
『はい!』
「あの、私……さ、話さなきゃいけないことが、あって……」
『ん? なんです?』
「……ううん。会えるの、楽しみに、してる」
『俺も楽しみです。ちゃんと、緊張もしてる』
言わなければならないこと。だが、この距離で言うにはまだ、私には、勇気が足りなすぎる。
画面の向こうに手を伸ばせたらいいのに——。でも今夜は声だけで十分だった。声だけで確かに彼は、私のすぐそばにいてくれたから。
*
今日も今日とて耳元から流れてくる彼の声が、もう何分私の鼓膜に優しく触れていたのだろう。言葉はやがて、とぎれとぎれになっていく。
『……そっちは、もう、ベッドです?』
「うん。お布団入ったよ」
そんな、ごく日常のやりとりをこの日も交わしながら私は部屋の灯りを落とした。部屋の輪郭が闇に、溶けてゆく。スマートフォンのスピーカーから聞こえてくる彼の呼吸がまるで遠くの鼓動のように静かに、一定のリズムで鳴っていた。
『そうそう、名前さん、知ってます?』
「ん……なに?」
『昔ってさ、通話するのにお金かかってたって』
「うん、知ってるよ」
『メールも一通送り合うのに、ウン十円っていう料金が発生してたんですってー』
「ああ……パケット通信料ね」
『わー詳しい。その時代を生きていたお方で?』
「引っ叩くよ」
あはは、と、軽く笑う声が受話器越しに響く。その声はどこか眠たげで少しだけまどろんだ空気を含んでいた。だからこそなのか、そのやりとりすらも夜の静けさにやわらかく、溶け込んでいくような気がした。
『今じゃあ、電話もメールもし放題。顔だって、リアルタイムで見れちゃう時代ですもんねぇー』
「うーん。そうだね」
『この時代に生きられて、ほんとよかったなって思います』
「……」
『名前さんと、こうして、いつでも繋がっていられる時代に——』
ふっと、声のトーンが変わった気がした。冗談めかしていた彼が、ほんの少し、静かになる。
『俺ね……昔は、ひとりで寝るの得意だったはずなんですけどね』
「ふふ……どうしたの、急に」
冗談半分に問い返すとやや間を置いてから彼の声がまた、ゆっくりと響いた。
『いや……今夜は、なんか、ひとりじゃないって感じがして……。すごく、安心してます』
彼のその言葉に胸の奥がじんわりと満たされていく。目を閉じると彼の部屋の匂いや、ベッドのぬくもりまでが思い出された。私は電話の向こう側にいるであろう彼に、そっとささやいた。
「そばにいなくても……ちゃんと繋がってるよ」
『うん……ほんと、ありがたいです。名前さんの声、こうして聞けるだけで』
私たちは、もう特別な言葉を重ねなくてもいいくらいに、お互いの気持ちを知っていた。沈黙が心地よく流れていく。その沈黙のなか、彼がふとまるで、夢と現の境目でつぶやくように言った。
『……ねぇ、名前さん』
「ん……なあに?」
『……今夜、夢に出てきてくれます?』
「うーん……予約が、入ってたかも?」
『えー。その予約、キャンセルさせてほしかぁ』「じゃあ……特別に一番乗りで、会いに行くね」
小さくふはっと笑う音が聞こえた。私はスマホを胸の上に置き目を閉じる。彼の息づかいがすぐそばにあって、世界がやさしく包まれていた。
『名前さん……おやすみなさい。』
「おやすみなさい……ホークス。」
そのあとの、かすかに長い静寂。通話は切れず彼の呼吸が夜の子守唄のように静かに流れ続けていた。眠りの底へ、ゆっくりと沈んでいく。彼と同じ夢を見られますようにと、願いながら——。
*
窓辺にかけたカーテンが、朝の光をやんわりと透かしていた。キッチンからはトーストの焦げる匂いと、マグカップの、カチリという小さな音。リビングの奥で、私の着ていたオーバーサイズのシャツをそのまま羽織っていた彼が、背中越しに「あ、目ぇ覚めた?」と、振り返った。玄関にはふたり分の靴。洗面所には、色違いの歯ブラシが二本。ソファの隅には昨夜ふたりで観ていた映画のDVDが、まだ出しっぱなしになっていた。
あたりまえの風景だった。何ひとつ不思議じゃなくて、何ひとつ欠けていない。けれど私はその��あたりまえ�≠ェ、どこかまるで、夢の中でしか訪れない季節のように眩しくて少し切なかった。
「パン、焦がした?」
「いや〜ちょっとだけ。トースターの性格、まだうまく掴めてないっすねー」
彼がそんなことを言って笑うと、私はキッチンまで歩いていって、背後からそっと腕を回した。この背中。熱。匂い。鼓動。ああ……これが現実だったらいいのにな。
「ねぇ、ずっと、こうしてられたらいいのにね」
「あ、初めて言ってくれた」
「ん? なにを?」
「俺の合言葉です。名前さんから言ってもらうの、初めてだと思うんですが?」
「だって……ほんと、こうしていたいもん」
「うん……俺も、そう思ってます」
その瞬間、あまりにも愛おしくて涙が出そうになって、私はただ、背中に顔を埋めたのだった。そして次に目が覚めたとき、私は、東京の自室のベッドにいた。カーテンの向こうに浮かぶ、朝のひかり。夢だったのだと気づくまでに、少しだけ時間がかかった。けれど夢だと気づいても、涙が止まらなかった。スマートフォンが震えたのは、そのわずか数秒後だった。ディスプレイに映る、彼の名前。モーニングコールだ。私は震える指で通話を取る。
「……もし、もし……」
『あ、おはようございます、名前さん』
いつもよりもわずかに柔らかい声色。それでも寝起きのせいか、どこかまだ、温度の残った響きだった。
「……うん。おはよう」
『ねぇ、俺さ……今朝、ばり変な夢見よって』
「夢?」
『うん、なんか、一緒に住んでて。名前さんと』
「……」
『たぶん東京でも福岡でもなくて、もうちょっと広くて、こう、カーテンの色が白くて……』
説明しながら、彼の言葉はどこか、遠くを見ているように間が伸びる。
『なんかもう、すーっごくリアルだったんです』
その一言に、私は一瞬、息を飲んだ。胸の奥がかすかに跳ねて、握っていたスマホがほんの少しだけ手の中で熱を帯びる。
「……パン、焦がしてた?」
『え。なんで、知っとーと……?』
その声が、電話越しに、驚きと戸惑いを含んで揺れた。思わずくすっと笑みがこぼれる。そしてそれが寝起きのせいなのか、それとも心の揺れのせいなのか、自分でもわからないまま私は、涙を目尻に溜めながら静かに笑って、言葉を返した。
「……私も、おなじ夢、見てたから。」
その瞬間、受話器の向こうで、彼が何かを言いかけて、言葉を呑み込む気配があった。けれどすぐにほんとうに、そっと羽根で包まれるような声で彼が言った。
『……ねぇ、それ——、』
「……」
『いつか、ほんとにしません?』
その問いに、私はすぐには答えられなかった。けれど心の奥では、静かに、強く、うなずいた。