気づけば今夜も、彼の声を聞かないまま、夜が更けた。
 今や画面に並ぶメッセージのやり取りは一日に一往復あるかないかのペースへと変わり果てて、かつて日課だった『おはよう』と『おやすみ』のやり取りも気がつけば二晩、三晩と滞っている。最初は忙しいだけだと自分に言い聞かせていた。ヒーローを生業とする彼と、交換手の私。任務や時間帯が重なれば、すれ違いが起きるのは、当然だと。でも、それにしては、彼の言葉があまりに短すぎるような気がした。

 『大丈夫?』
 『元気?』

 という、それらの文章は既読のまま、彼からの言葉は追加されない。こんなはずじゃなかった。私は彼のそばにいたかった。たとえ、遠く離れていても、その羽ばたきを信じて、支えていけると思っていたのに……これが本当の��遠距離恋愛�≠ネのかと、まざまざと思い知らされる。

 夜、洗い立てのカバーの香りがまだ残るソファに身を沈めながら私は窓の外を見上げる。夜風がレースのカーテンを揺らし東京の街をまたひとつ光が包み込んでいく。
 あの人が今どこにいるのか、私にはもうわからない。きっとこの空の向こうで何かと闘いながら無事を祈る誰かの声に応えながら私のことなんて思い出す余裕もないほどに前を向いているのだろう。そう思った途端、頬をつう、と伝ったものがあった。
 泣くつもりなんてなかった。寂しがる資格も、きっとない。私たちはまだ何も約束していない。ただ夜空の一点を見上げては、想像してしまう。もしも今彼の瞳の先に私がいなかったとしたら。たとえそれが、自分を守るための、距離だったとしても——心が、遠くへ落ちていくような静かな感覚だけが胸の奥で、じんと疼いていた。


 *


 その夜、センターの照明は半分だけ落とされていた。回線テストという名目で繋がれたモニターに映るのは東京のセンター管制室。室温や騒音、話し声すらも一切伝わらないただの無音の映像。けれどそれで十分だった。彼女が、そこにいた。湿気に前髪を少し額に貼りつかせながら、背筋を伸ばしてコンソールに向かっている。画面に映るのはいつもの制服、いつもの仕事姿。冷静にオペレートし、軽やかに仲間に指示を飛ばす。その声が今ここに届かないことがただただ、つらかった。

 数週間前、彼女と東京で別れたあの朝。「すぐ来ます。必ず、会いに来るんで」なんて——あんなふうに言ったくせに俺の心はずっと置いてきぼりのままだったらしい。仕事が、べらぼうに忙しくなった。
 そんな中で、彼女がやわらかい声をまた誰かに向けているんじゃないかと自分の中の醜い感情がくすぶるように立ち上がってくる。ああ、俺は、こんなにも小さくて、くだらない奴だったのか。
 「すぐ、会えますから」だなんて、軽々しく言わなきゃよかった。言葉一つで繋がれるような想いなら、こんなに苦しくはない。
 彼女は俺の知らない場所で自分の使命を果たしている。それが誇らしいと同時に、胸が苦しい。画面の中で笑う顔を見ているだけで、安心して、寂しくなる。なんて矛盾だ……なんて、恋だ。

 「会いたい」って……素直に言えばいいのに。電話のひとつもすればいいのに。けれどその夜、俺は結局、何もできなかった。指先が、スマホの画面を、何度も撫でては戻り、ため息をついて、やめる。画面の彼女が椅子から立ち上がったのを見届けてから、ようやくモニターの電源を落とした。ただ、君にいてほしい夜。ただ、それだけの夜だった。 
 外の風がひゅう、と街をなでるように吹き抜けた。高層階のベランダから見下ろす福岡の街は、遠くに屋台の灯りが滲んでいて、どこか懐かしいような、温かいような色をしていた。だけど俺の胸の中には、そのぬくもりがまるで届かない。
 彼女が東京に戻って、もうどれくらい経つか。数えてみようとしてやめた。きっと覚えてるのは俺のほうだけだ。……そんなこと、思いたくないのに。
 スマホを手に取り、画面を点けては、消して。何度目かのため息のあと俺はとうとう諦めたように発信ボタンを押した。呼び出し音が、ひとつ。ふたつ。みっつ。よっつ——そして七回目に到達したとき。

『……はい。』

 やっと聞こえた声に、胸の奥がじんわりと熱くなる。帰ってきた音。帰ってきた声。それだけで救われる夜もある。

「あ、えっと……お久しぶり、です」
『……うん』
「——起こしました? もう、寝てた?」

 俺の問いに彼女は少し笑ったように『ううん、まだ大丈夫。今ちょうど歯磨き終わったとこ』と返してくれた。それだけのなんてことのない会話だったのに、どうしようもなく愛おしくて、息が詰まりそうになる。

「……今日、こっちは天気よかったんすよ。星、よく見えてて」
『……そう。』
「あんま、見上げる余裕なかったですけど……」
『……そっちは? 忙しそうだね』
「まあ……ぼちぼち。新人の教育でちょっと振り回されてるくらいで、元気にやってますよ……。名前さんは?」
『私は……うん。今日も、無事に終わったかな。センター、ちょっとトラブったけど、なんとか』
「そっか。よかった」

 なにが。ほんとは、よくない——。ほんとは、電話越しじゃなくてもっと近くで「おつかれ様」って言いたかった。
 少しだけ黙ってしまった。言葉を探して、でも探してもうまく出てこない。ただ気づけば口から零れていた。

「……やっぱ俺、だめですね」
『え……?』
「毎晩、帰る家にいてほしい」
『……』
「あなたに。俺の、そばにいてほしい。距離的に無理なのはわかってて。でも……」
『……』
「毎晩、空っぽの部屋に帰ってくるの、すごい、しんどいんですよ、もう——」

 夜の風が吹く。彼女が何か言おうとした気配が伝わったけれど、先に口を開いたのは俺だった。

「この気持ち、重いですかね……今言うことじゃなかったかもしれないですけど」
『……』
「でも——言わないと今日、眠れそうになくて」

 すると彼女の声が、ほんの少し、細くなった。

『……重く、ないよ』
「ほんとに?」
「うん。むしろ……言ってくれて、嬉しかった」

 その言葉だけで胸の奥が、じんわりほどけて、この数週間の沈黙が、救われた気がした。

「あ、やば。今ちょっと、泣きそうでした」

 冗談めかして笑ってみせたら、彼女もくすっと笑ってくれた。

『私も、同じこと考えてた。……夜、帰っても、あなたいないってだけで、全然違うなって』

 今は遠く離れているけれど、たしかに心は同じ場所を見ている。夜風の中、ベランダから見える街は何も変わらず静かだったけれど俺の中だけははっきりと灯が灯ったように、あたたかかった。


 *


 夏の終わりを予感させるような騒がしさを少しだけ静めた夕暮れ。太陽が高層ビルの間に斜めの影を落としアスファルトに伸びるその影が今日という時間の区切りを、ゆっくりと教えてくる。
 ヒーロー緊急支援センターでの業務を終えて、私はいつものように、駅へ向かって歩いていた。
 歩道橋の上。肩からずれかけた鞄の紐を押さえながらひたすら歩みを進める。通い慣れた街並みなのに、どうしてだろう。今日は少しだけ、風が強い。
 ブラウスの裾が風に煽られて、伸ばした指先で髪を押さえながら、私は、信号の点滅に合わせて歩道を渡った。あの角を曲がれば、駅が見える。そう思ったとき、ぶわっと風が舞ってその場所に——彼が、いた。ひときわ目立つわけでもない、でも人混みに埋もれることのない存在感だった。夕焼けの斜光に包まれて、彼は街の片隅にまるで偶然を装うような自然さで、立っていた。
 白いTシャツに、細身の、黒いスキニーパンツ。前髪が風に遊ばれて揺れている。普段のヒーロースーツ姿とは異なる、だけど、そこには確かに、彼がいた。

「……」
「……」

 ふいに目が合った。私はその瞬間、言葉を失った。どこかぎこちなく、それでいて、誠実に笑う彼の表情は、いつもの軽快なそれとは違って少し緊張を孕んでいるように見えた。

「……こんばんは。お疲れさまです」

 そう言いながら彼は歩み寄ってきた。足取りは迷いなく、けれどどこか、何かを賭けるような、不思議な決意を秘めていた。

「名前さん」

 目の前に立って名前を呼ばれたとき——それはあまりに自然で私が今一番会いたくて、でも遠くにいたはずの人だった。プロヒーローホークス。背筋はどこかよそゆきに夕暮れの色が彼の輪郭に淡い橙を灯していた。

「……なん、で……、ここ、に……?」
「んー……」

 彼は斜め上を見やり、少しだけ言い淀んだあと私の目をまっすぐに見た。

「もう、終わりにしようかと。」
「え……」
「……ずっと一緒にいたいって、ようやく言えるようになったんで」
「……」
「だから、会いに来ました。」

 少し照れたように、でもどこか腹を括ったように笑う。遠距離になってからの彼の笑顔はたまに不器用で、でも真っ直ぐだ。そして彼はおもむろにポケットに手を入れた。左手、そして右手——両方のポケットに手を差し入れたあと、軽く息を吸い込んで、言った。

「どっちか、選んでもらえません?」

 いつものように軽い調子で笑っていた。けれどどこかぎこちなくて声の奥が少しだけ掠れていた気がした。

「……え?」
「見事、あなたが黄色いリボンを当てたあかつきには——」
「……」
「右か、左か。当たれば、俺の部屋の鍵が入ってます」

 風がまた、ふっと吹き抜ける。彼の少し乱れた前髪から覗く顔が、真剣な色を帯びる。
 右か、左か。彼の言葉が風の中で、ゆっくりと沈んでいく。私は目の前に立つ彼の手元を見た。彼の両手はそれぞれのポケットに軽く触れたまま微動だにしない。どちらかに確かに何かが入っているのだろう。けれど、それがどちらなのかは、わからない。どちらを選べばいいのだろう。私は迷っていた。いや——正確には選ぶ��行為�≠サのものが胸の奥に絡まりついていた。この鍵を受け取るということは、きっと彼のなかで、なにかを決める行為なのだ。それは、たとえば同棲という言葉よりももっと静かで、もっと重い、ひとつの未来の扉。きっと、ただのスペアキーではない。彼の��決意�≠サのものだ。

「慎重に選んでくださいね?これで——俺たちの運命が決まるんで」
「……」

 目を伏せて、私は小さく息を呑んだ。風がまた吹いた。頬を撫でるそれはもう秋の気配を孕んでいた。

「……選ばないっていう選択肢は、なしなの?」

 やや冗談めかしてそう言ったけれど、彼はすぐには笑わなかった。ただ、穏やかにこう返した。

「もちろん、あるにはありますけど……。それは俺にとってたぶん、一番キツい選択肢ですね」

 その声がどこまでも真っ直ぐでやわらかくて、でも、どこか脆いほどに優しくて……。私は唇を噛んだ。選ばなきゃ。選びたい——選びたいはずなのに。なのに、なぜこんなにも、喉の奥が詰まってしまうのだろう。言いたいことが、胸の中で暴れて、けれど声にならないまま、沈んでいく。

「ほんと……ちゃんとしたのしますって自分からあんだけ言っといて、なんか、ごめんなさい」

 そんなふうに切り出した彼の声はどこか乾いた笑いの気配を帯びていた。私は反射的に口を開きかけたけれど、彼はそのまま止まらずに、言葉を続ける。

「でもなんかもう、飾らなくていいかなーって」
「あ、あの……」
「いや〜、最近、なかなか寝れんで。回らん頭で絞り出した案やけん。かっこいい展開では、ないかもですけど」
「あの、聞いて——」
「でも、もう言わなきゃ苦しくて。もしや心臓の病気にでもなったんやなかー?ってくらい」
「ホークス……」
「あ、でも連絡はやっぱ、しといた方がよかったですよね?急に来るのは、誰でも驚いちゃいますからねぇ〜」
「ホークス!」

 名前を呼んだ私の声が思いのほか大きく響き、ざわめいていた空気が一瞬しんと静まり返った。そのとき彼はふと顔を伏せ、わずかに眉を寄せてひとつ、小さなため息を吐いた。つづいて自分を嘲るように笑みを浮かべ、ぽつりと呟く。

「……俺、フラれるかんじですかねぇ」
「……え?」
「こういう勘はよく当たる方で……ほら、無駄に剛翼がいろいろ感知しちゃうんで」

 笑っている。でも、その笑顔の奥にある痛みを私はもう、見逃せなかった。

「やっぱ、ダメでした?ですよね、連絡まともに取れとらんかったけん。もう、愛想尽かされちゃった感じで?」
「……」
「かっこ悪かったですかね。こんな——プロポーズなんだか、なんなんだか、よくわかんない言い回しじゃ」

 その言葉は自分のすべてを差し出したうえで、自ら一歩引こうとするような優しさに似た悲しさを滲ませていた。
 私はこの人のこんなふうに脆くて、真っ直ぐで不器用なところをちゃんと見ていたのだろうか。ずっと見えているつもりで肝心なところは、ほんとうには見ようとしてこなかったのではないか。そんな思いが、胸の奥をかすかに刺した。

「ごめんなさい。遮っちゃって。」
「……」
「どうぞ——聞きます、名前さんの話」

 彼はまっすぐに私を見ていた。焦らせることもなく、追い詰めるような空気もなく、ただ真摯に今の私の言葉を受け止めようとしている。だから私は、その沈黙に抗うように震える声で、そっと口を開いた。

「あ……あのね、」
「はい」
「言っておかなきゃ、いけないことがあるの」

 小さく呟く。彼の表情が少しだけ動いたのを、私は視界の端で捉えながら、自分の心の奥に指を差し入れるような感覚で続けた。

「実は私……婚約——してた、人がいたの……」

 その一言で空気が静止するのがわかった。彼はわずかにまばたきをして何も言わなかった。その瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れていくような気がした。私の言葉も彼の覚悟も、きっともう後戻りはできない場所に差しかかっている。

「海外に転勤が決まったときプロポーズされて、その人に待っててほしい……って、言われたの」
「……」
「でも、いつまでとか、どうなるとか、具体的な話はなくて」
「……」
「ただ、その言葉だけが置き土産みたいに、私の中に残ってて」

 言いながら、どこか自分の話を他人事のように感じていた。
 過去の感情に指を滑らせていくような、記憶の棚を、埃まみれのまま開けてしまうような……。

「ちゃんと、終わってないわけじゃない。連絡はそれからお互い、取ってはいないけど」
「……」
「でも私……ずっと、どうしたらいいか、わからなくて」
「……」
「連絡も、する気になれなくて。結局そのまま、自然消滅したって、勝手に決めつけてて……」

 彼はただ、黙って聞いていた。しかし目の奥の色が何かを押し殺すように揺れていた。それでも私は続けた。

「だから、ホークス。あなたに出会ったときも、好きになっていく過程の中でも、ずっと、言えなかった」
「……」
「言うことで、自分の中で整理しなきゃいけなくなるのが、怖くて……」

 声が少しだけ震えていた。けれど逃げるような気持ちはもうどこにもなかった。彼に、この人にだけは、ちゃんと、話しておかなきゃいけないと思ったから。
 沈黙がふたりの間に、優しくも重く横たわる。そうして、ようやく彼が静かに息を吸って言葉を返した。

「……ちゃんと、教えてくれて、ありがとうございます」

 その声は私のどこか深い場所に、そっと触れてくるような、柔らかさを持っていた。驚くほどに静かで、そして、やさしかった。私は思わず彼の顔を見た。怒ってはいなかった。責めてもいなかった。ただ少しだけまぶたの縁に影が差していてそれが余計に、胸を締めつけた。
 彼はどこか遠くの音を聞くように、ふっと目を細め、それから微かに笑った。けれど、その笑みには、ほんの少し傷のような、翳りがあった。

「そっか……なるほど。いたんですね。ちゃんといたんだ」

 それだけをぽつりと零すように言ったあと彼はそっと、ポケットに入れていた手を外に出した。私は何か言わなきゃと思った。けれど、何をどう伝えたらいいのか、わからなくなってしまって、ただ、彼の仕草を見守るしかできなかった。

「……ねぇ」

 そして沈黙が続いたあとようやく私は声を絞り出した。でも彼は目を伏せたまま「はい」とだけ小さく返した。

「そんなふうに、静かにされると……こわい」
「……」

 それに対して彼はすぐには応えずほんのしばらくしてから、ゆっくりと顔を上げた。

「ごめんなさい、黙っちゃって。俺、今ちょっとかっこつける余裕がない」
「……」
「でも、大丈夫です。ほんと。ちゃんと聞けて、
よかったって思ってますよ」
「……」
「でもたぶん俺、今、すごく情けない顔してると思うんで」

 そう言った彼の声がひどくあたたかくて、でもその裏で、涙を含んでいるようにも思えた。

「自分が、一番に好きでいたつもりだったんですよね。独り占めできてるってどこかで思い込んでたのかも、俺。」

 その声は、冗談めかすふうを装っていたけれどどこか芯が、かすかに震えていた。

「……いや、違うか。そうじゃなくて、たぶん自分だけだろうって、勝手に、そう思い込んでただけだ。バカですね、ほんと。救えない」

 一つ深く息を吸い、それでもまだ沈黙が埋まらないと悟ったように彼は視線を落とした。まるで足元にしか本音を置けないみたいにして。

「うん。俺ばっかり好きなんだから、仕方ない」

 最後の一言は苦笑の滲んだ独白だった。自分で自分を納得させようとする、諦めとも強がりともつかないそれは、小さな呟きで。私は何も返せなかった。言葉が見つからなかった。目の前の彼がほんとうはどれだけ傷ついているのか、わかってしまったから。

「でも今、聞けてよかったです。言ってくれて、
本当に、ありがとうございました。」

 その言葉に込められた真摯さは、彼自身の心をそっと差し出して見せるようだった。彼は、顔を覆うように、右手をそっと口元へと上げる。声が漏れないようにするためなのか、それとも笑顔の仮面がもう保てないからなのか。
 沈黙が、またふたりの間に降りてきた。私は、ややあって、ぽつりと小さく呟く。

「……私ね、」

 言いかけて、少しだけ息を整えた。視線はまだ伏せたまま、指先がかすかに震えているのが自分でもわかった。

「きっと……誰かに、もう終わったんだよって、言ってほしかったのかもしれない」
「……」
「誰かにちゃんと、終わらせてもらいたかったんだと思う」

 自分の口から出たその言葉に、胸の奥が静かにきしんだ。ふと顔を上げると、彼がまっすぐに、迷いなく、私を見つめていた。光でも射すような翳りを含んだ琥珀色の瞳が真摯に、ただ静かに、揺れている。

「……その役、俺じゃダメです?」

 低く、けれど優しく響いたその問いかけに私は思わず息を呑んだ。彼はほんの少し、手を伸ばすような気配を見せながら、言葉を続けた。

「俺じゃその気持ちに終止符、打てんですか?」

 私は、何も言えずに彼の言葉をただ受け止めるしかなかった。だってそれは、願いじゃなくて、彼の、覚悟だったから。不安も、焦りも、すべて隠さずに抱えたまま、それでも彼は、それでもと願うように、私の心に近づこうとしていた。その姿が、たまらなくいとおしかった。そして彼は、小さく息を吐くように言った。

「あなたを、諦めきれない」

 その言葉は私の胸の奥深くに、そっと、そして確かに届いた。羽音のように静かで、でも、刃のように鋭い熱を持った声だった。

「俺——あなたじゃないと、だめなんです」

 まっすぐな声が宙に置かれたように、ふたりの間に漂う。しかしそのときだった。背後で不意に風が揺れた気がした。喧騒にまぎれることのないひとつの声が、私の名前を呼ぶ。

「……名前?」

 時間が——ふ、と逆流する。そんな錯覚を覚えた。その声には聞き覚えがあった。懐かしさと、痛みを孕んだ呼び方。最後に耳にしたのは、あの空港で交わした、別れの日。私はゆっくりと振り向いた。夕暮れの駅前、人の波が流れていく中でぽつんと立ち尽くしていた、その人は——。

「……うそ……でしょ。」

 細くつぶやいた声は、誰にも届かずに消えた。そこにいた人物は、かつて私と将来を誓い合った人。私の、婚約者だった人——。やつれた顔にはそれでも当時の面影がしっかりと残っていた。
 時間の彼方から現れたかのようなその存在が、私の心に波紋を広げていく。現実が、再び、動き出そうとしていた。


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