静かな夜だった。窓をほんの少し開けて夜風の通り道をつくる。
 電気を落とし、寝台の上で、スマホだけを手に取る。誰にも知らせない時間、誰にも、邪魔されない声。まるで、通話だけが現実のすべてだったあの頃に、戻ったみたいな夜。
 私は一度深く息を吸い、それからスマホの着信履歴の一番上にある名前をそっと押した。数秒のコールのあと、すぐに相手が出る。

『はい……もしもし。』

 眠っていたわけではなさそうだった。けれど、彼の声は、いつもよりも少しだけ、静かだった。

「こんばんは。……寝てた?」
『ううん、ずっと起きてました』
「そっか……」
『名前さんから、かかってくるかなって……少しだけ、待ってた』

 その言い方に不思議と胸がくすぐったくなる。彼はあまりストレートなことは言わない。けれどたまにこうして、じんわりと心に熱が灯るような言葉を不意打ちでくれる。

「そう。……だったら、よかった」
『今日も、話してもいいです? ちょっとだけ』
「うん。……どうぞ」

 その一言が今日も合図になった。スマホ越しの空気がわずかに変わった気配。ほんのりと、熱を帯びた吐息が、スピーカーから漏れ出すような、不思議な温度感。彼の存在が、そこにあるような錯覚を覚える。

『最近、ふと考えるんですよね。声って届くのに触れられないんだなーって』

 彼の言葉は独り言のように柔らかだった。私はそれに、すぐには返せなかった。

『いつもみたいに、ただ、言葉を交わしてるだけなのに。たまに近すぎて、苦しくなるときがあるんですよね』
「……」
『あなたと話すの嬉しいんですよ。すごく。でももっと知りたいって思う気持ちが、邪魔をするというか』
「……」
『いけないってわかってても気づいたら、もっと近くにいたくなる』

 その声に少しだけ息が混ざっていて、抑えきれなかったものが、ほんの一瞬、言葉の隙間から、こぼれ落ちたようだった。目を閉じて耳を澄ませば、すぐ隣にいるのではないかと思わせるほどにその声には彼の素の温度が、確かに宿っていた。

『……あれ、なんか俺、変なこと言ってますね』

 照れ隠しのように、けれどどこか気まずげに、彼が小さく笑う。その笑い声に私は少しだけ胸の奥がまた、きゅうっとなる。

「ううん……そんなこと、ない」

 私はただそれだけを言った。それ以上は、何も言わなかった。言葉を重ねることがためらわれたのではない。むしろ、何も足さずにいたかった。そうしてまた、ふたりの間に小さな沈黙が降りてくる。切れた会話を無理に繋ぎ直そうとするでもなく、ただその静けさに身を委ねるようにして。
 しばらくして今度は、少しだけ弱くなった声で彼が、ぽつりと呟いた。

『じゃあ、もうちょっとだけ、このままでもいいです?』
「……もちろん」

 それだけの言葉で、また、静かな呼吸が返ってきた。声だけの関係。触れられないけれど確かにそこにある気配。画面越しの光もスピーカーから漏れる呼吸の音も、どこまでも静かで、そして、優しかった。まるで夜の深さに互いの鼓動だけが浮かび上がるように私たちは、その、やわらかな温度に寄り添っていた。
 どれくらい、そうしていただろう。時計の針の音も窓の外の風の音さえも遠くなっていくなかで不意に彼が息を吸い込む音がした。そしてほんの少しだけ、緊張を含んだ声が続く。

『あの、実はちょっと、考えてたことがあって』
「うん?」
『……今度、ちゃんと食事に行きません?』
「え……?」
『前みたいなバタバタじゃなくて今度はちゃんと静かで、いい時間になるようにって思ってて』

 言葉の終わりが少しだけ急ぎ足になった。途中で止めてしまわないように、すべてを一気に吐き出したかのように……。彼がどれだけ慎重にこのタイミングを見計らっていたかわかる気がした。誰かにとっては些細な誘いかもしれない。でも、きっと彼にとっては、それが��次に進むため�≠フ大きな一歩だったのだろう。

「……うん。行こう、ぜひ。」

 電話の向こうで、ふっと空気が和らぐのがわかった。少し息を詰めていた気配が、安堵とともにほどけてゆく。
 その夜、言葉だけの温もりが心の奥のどこかをそっと、灯していくのだった。


 *


 鏡の前でネクタイを締めながら、心臓の鼓動が妙に騒がしいのを感じた。
 スーツを着慣れていないわけじゃない。むしろヒーローとして、記者会見も公の式典も経験してきた。けれど今日ばかりは──ちがう。理由も、意味も、すべてがちがう。

「おいおい、本気やないかホークス。ネクタイ、ちゃんとした色選んだんやな?そのグレイッシュブルー、けっこう洒落とんで?」

 背後から聞こえてきたのは、ファットさんの声だった。こんな日くらい、一番尊敬しているヒーローに激励でも貰って少しは気合いを入れよう、そんな軽い気持ちでエンデヴァー事務所に、わざわざ顔を出したはずだった。けれど、なぜかそこには、ジーニストさんもミルコさんも揃い踏み。その瞬間、察した。これは完全にファットさんの根回しだったに違いない、と。

「黙って見ててくださいよー、ファットさ〜ん」
「いやいやだってお前、昨日『ちゃんとしたとこ誘いたいんすよねぇ』とか言いながら、店選びで二時間は悩んどったやろ」

 そのファットさんの横、ミルコさんがソファの上で腕を組んで、ふんぞり返る。

「ぶっちゃけよー、そこまで準備したって女って案外そっちの気持ち見てるからな?変に構えすぎると、かえって引くぞ?」
「ミルコ。それ、こなれたアドバイスすぎやろ。ホークスの初々しさ、台無しやん!」

 ファットさんが笑いながらツッコミを入れると書類に目を落とし込んでいたジーニストさんが、ようやく口を開いた。

「ホークス。君は君らしくいればいい。飾らなくても相手が求めているのはきっと、真剣な目だ」
「うぅ……、ジーニストさぁん……」
「それを、しっかりと伝えられる時間にしよう」

 ジーニストさんのその一言が、なぜかいちばん背筋に効いた。

「……どうですかぁ〜、エンデヴァーさん」

 少し冗談まじりに声をかけながら俺は真っ直ぐナンバーワンの前に立った。自席からゆっくりと立ち上がったエンデヴァーさんは、じろりと鋭い視線をこちらに向ける。そして、言葉の代わりに大きな手が俺の胸元へ伸び、ぐいっとネクタイの結び目を掴んだ。やば、怖……と心の中で小さく身構えた、次の瞬間。

「彼女とは、今夜……寝ない(・・・)んだぞ。いいな?」

 思わず、目を見開いた。まさかのナンバーワンからの直球。静まり返るその場の空気が、首元をすっと冷やす。

「は、はぁ!?な、なんすか、いきなり……!」

 動揺を隠せない俺の声に、エンデヴァーさんは少しだけ視線を和らげた。

「ああいう女性と真剣に付き合いたいのならば、だ。……騎士道精神を、忘れるな」

 その声音には、叱責よりも忠告の色があった。まるで父親のように、丁寧な手つきでネクタイを締め直していく。その、不器用そうでいて器用な仕草に、なぜか胸の奥が、じんとした。

「……キシドウ、っすか。」

 ぽつりと呟いた俺の言葉にエンデヴァーさんは一度だけ、ゆっくりとうなずく。

「そうだ。騎士道を通す者に、人は惹かれる」
「ヘマ、しちゃったら……どうしましょ、エンデヴァーさん」

 情けなく弱音が漏れた。けれどもナンバーワンヒーローは、まったく動じない。

「ヘマだと? しなければいいだろう」
「え、でも……そういう雰囲気になっちゃったら、どうしたら……」

 我ながら情けないとわかっていながら、どうしても、不安が口をついてしまう。

「なぜそうなる。……お前は流されやすいのではない。ただ、覚悟が足りん」
「でも……俺ってほら、ついその場の空気に乗っかっちゃうっていうか、ね?」

 エンデヴァーさんはチラッと俺に視線を投げてから、ふっと小さく鼻を鳴らした。

「それは関係を築くことから無意識に逃げている証拠だ。その場限りの関係に甘んじるな」

 低く、芯の通った声が空気を引き締める。俺は思わず視線を逸らしそうになったが、ここで逃げるわけにはいかなかった──はず、なのに。

「気持ちを伝えるのが怖いのか?」

 その言葉には、問いかけ以上のものがあった。突き刺すようでもなく、ただ、見透かすように、まっすぐに。

「う……。ま、まぁ……ちょっと……」

 認めたくない部分にふれるその質問に俺は曖昧に笑いながら、逃げ腰に口を濁した。ほんの少しだけエンデヴァーさんの目を見た。あの炎の奥に映る今の自分は、どう見えていたんだろう。
 一拍の間。沈黙が少しだけ重く落ちた。だから俺は、いつものように軽口で誤魔化そうとした。

「あ、つまり、こういうことすか?気持ちがこもってれば、彼女と寝ても構わないと?」
「そうじゃない! 灼くぞっ、貴様!」

 言葉が爆ぜた。鋭くまっすぐに。エンデヴァーさんの声に再び力がこもる。まるでそのまま俺の胸ぐらを掴んでぐいと引き寄せられるような迫力だった。

「す、すんませんっ……!」

 思わず姿勢を正す。冗談のつもりだった。でもその軽さが通用しないことくらい、最初からわかっていた。

「……そう、聞こえたのか?」
「え、違うんすか?」

 問い返しながら、自分の情けなさには気づいていた。どうして俺は大事なときほどこうして、ふざけたふりで、ごまかしてしまうんだろう。

「違う。まずはその考え方を変えてみろ」

 厳しい口調のなかにも、確かな真意がこもっていた。否定するのではなく、導こうとしてくれている──そんなふうに感じた。

「彼女をよく知れ。そして親しくなれ。関係は、そこからだ」

 その言葉が胸の奥で静かに響いた。俺は素直に頷いた。もう、軽口を挟む余裕なんてなかった。ただ、胸の奥に宿った熱をそのまま抱えて、しっかりと、前を向いた。

「……わかりました。今夜は、紳士でいきます。
……たぶん」
「たぶん、ではなく、誓え。」

 もはや、他人が聞いたら脅しである。完全に、極道のそれ。しかしながらその言葉に俺は思わず反射的に肩をすくめていた。

「はーい……いや、はい。誓います。」

 少し照れながらも素直に答えるとエンデヴァーさんの手が首元からそっと離れた。鏡がなくてもちゃんと締め直されたことがわかる。気持ちまで引き締まるようだった。首元に残るのは、ただの布きれの感触じゃない。言葉以上の想いを、そのナンバーワンヒーローの手が伝えてくれていた。

「……どう、です?」
「いい男に見える。言葉より姿勢で見せてこい」
「あ、ありがとうございます……」
「そしてなにより──騎士道精神を貫けば、最後まで男女の交わりには至らないはずだ」
「……それを強調されると、逆に緊張してくるんですけどぉ」

 そのとき、相変わらず空気を読まないファットさんの声が、背後から飛んでくる。

「なぁ〜、ホークス。色気は全部パンツん中に、しまっとくんやで〜!」
「ええ!? ファットさんまで……!」

 俺は苦笑しながら軽く手をあげ、背を向けた。夜景の見える静かなビストロ。彼女と落ち着いて食事のできる場所を、何時間も探して予約した。店の名前を聞いたとき、嬉しそうに笑った彼女の声が今も耳に残っている。それでも不安はある。

(……もし、想いを告げて、断られたら?もし、気持ちを、はぐらかされたら──?)

 そんな弱気を全部飲み込んで。今日だけはふざけずに伝えたい。本当の、気持ちを。
 彼女にとっての��ヒーロー�≠カゃなく、ただの俺──��鷹見啓悟�≠ニして。

「……じゃ、行ってきます。」

 そう言って扉に手をかけた瞬間、背中越しに、いくつもの声が重なった。

「おー、男前に決めてこいや〜!」
「焦らなくていいぞぉー。大事なのは心だ」
「君の剛翼はいつも迷わず真っ直ぐに飛んでいるんだ。今夜も、そうであれ。そう──ストレートデニムのようにな」

 誰の言葉にも、茶化しはなかった。──いや、ひとつだけ、やっぱり少し意味が分からなかったけど。多分ジーニストさんの言葉には深い意図がある……の、かもしれない。
 いずれにせよ、ただただ俺の背中を押すような真っすぐで優しい応援だった。冗談まじりの優しさも、真顔のままにかけられる激励も、全部。
 事務所を出ると夜風が吹いた。ネクタイの端が少しだけ揺れる。その風が、どこか、彼女の声に似ていた気がした。

(──今夜こそ、真面目に、ちゃんと。)

 今日だけはどうかうまく風に乗れますように。誰でもない、ただの��俺�≠ニいうひとりの人間として──今夜、俺は��電話越しのヒーロー�≠ノ、会いに行く。


 *


 洗面台の鏡に向かって私は静かに息を吐いた。髪を巻く手がいつもより慎重になっていることに自分でも可笑しくなる。そこまで気負っていないつもりだったのに、まるで何かの面接でも控えているような緊張感だった。

「ねえ、それもしかしてさ……例の、ヒーローのために買った服?」

 部屋のドアをノックもせずに開けて入ってきたのは、仲の良いあの、同僚の彼女だった。自分のコーヒーカップを片手に、にやにやと、こちらを覗き込んでくる。

「……見ればわかるでしょ」
「やっぱそうなんだ〜。えっ、ちょっと、やだ。綺麗にしちゃって〜」
「ねえ、揶揄わないでよ」
「だって、いつものあんたと違って素敵だから。うん、普通にいい女」
「普通に、ってなに」
「ごめんごめん!でも、照れてるあんた見るの、私、初めてかも。」

 彼女は勝手にドレッサーの端に腰かけて、私の使っていたリップを手に取った。それをしばらく眺めたあとで彼女がふいに、真面目な顔になる。

「ねえ、怖い?」
「え……?」
「その人に、ちゃんと気持ちを見せるのが」

 鏡越しに目が合う。わたしは、ほんのわずかに頷いた。

「いつもは、声だけでやりとりしてたから。顔を見て話すって……まあ、初めてではないけど」
「あ、一回会ったんだっけ?猫ちゃんの件で」
「うん。でも……こんなに怖かったっけ?とは、思ってるかなぁ」
「だよねー。でも今夜、服も髪もちゃんと自分で選んで、こうして緊張してるってことは、さ?」
「……」
「もう、答えは出てるんじゃない?」

 彼女の声はいつになく優しかった。私が思わず笑って言葉を返そうとしたその刹那、先に彼女が立ち上がり、そっと言葉を継いだ。

「バレンタインに、クッキー手作りしたでしょ?だったらそれが一番の答えだよ。うまくいくよ、きっと」
「……ありがと。」
「でももし今夜、向こうが変なこと言ってきたら連絡して。私、ぶん殴りに行くから」
「えー?言わないよ、彼は、たぶん」
「��たぶん�≠チてとこが、もうすでに、好きって言ってるじゃん」

 私は、わざとらしく溜め息をついて彼女のコーヒーを奪う。ひと口だけ飲んで返しながら、胸のなかにじんわりと満ちる、期待と不安の混じった気持ちを、そっと奥へ押し込んだ。
 たぶん、わたしはもう、名前を呼ばれる準備をしている。声の向こうじゃなく、目の前で、彼に見られる自分を、ようやく、受け入れようとしているのかもしれない。


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