彼が、いる——。私がずっと一人で待ち続け、やがて待つことに疲れ果て、自らの手で過去へと置き去りにしたはずのあの人が今、手を伸ばせば届く距離に立っている。視界の端で、ホークスの手がほんのわずかに揺れた気がした。その仕草には言葉ひとつなく、けれどその気配が一瞬、氷のように凍りついたように思えた。一度視線を戻しそっとホークスのほうを見やる。するとゆっくりと彼もこちらに顔を向けた。その表情は、笑っているのか、それとも耐えているのか判別できないほどなんとも言えない表情だった。琥珀色の瞳は光を失い、夕暮れのなかで沈んだ赤褐色を帯びている。あの瞳がこんな色をしているのを私は見たことがなかった。ほんのわずかに眉尻が下がり、口元は動かないまま——ただ、瞳だけがすべてを語っていた。

 私は二人の間で立ち尽くしていた。右か左か。過去か、未来か。胸の奥が、音を立てて軋んだ。夕暮れの街はいっそう静かにゆっくりと色を変えていく。ネオンがまだ目覚めきらないこの時間帯の空はどこか寂しげで、それゆえにやけに美しかった。私はその空を見上げるふりをして、本当は心の奥底で、迷っていた。
 彼——ホークスは、まだ何も言わない。右か、左か選ぶ前に、もうひとりの過去が、私の背後に影を落とした。

「久しぶりだな」

 振り返った先に立っていた男は、あの頃と変わらぬ眼差しを携えていた。その視線に射抜かれた瞬間——私は、自分が何年ものあいだ夢の中から醒められずにいたのだと改めて思い知らされた。身体ごと向きを変えて、過去と正面から向き合うその一歩はたしかに��現在(ホークス)�≠ゥら遠ざかる、一歩だった。背後に彼の気配を感じながら、彼は何も言わず、ただ静かに、その距離を広げていった。
 風がまた吹いた。彼の剛翼の赤い羽根がそれにかすかに揺れて小さな音を立てる気配。どうして胸が痛むのだろう。どうしても私は振り返りたくなった。でも、怖くてできなかった。私のなかの何かが、すこしずつ剥がれ落ちていく音がする。背を向けたままでも背中に彼の輪郭を感じ取っていた。かつては、世界を軽やかに飛び回っていたはずのヒーローが今は沈黙をまとい動く気配すら見せない。見なくても肩がほんのわずかに落ちているのがわかる。それでも彼はまっすぐに立っているのだろうと——。選ばれなかった男の背中は哀しみよりもきっと、むしろ深く澄んだ静けさをたたえていて。振り返る勇気はなかったけれど、その姿を思うだけで涙がにじむほどに愛おしくてたまらなかった。

 ——ねぇ、ホークス。どうしてあなたは私に、何も言わなかったの?言って、くれなかったの。

 心の中でだけ問いかけた。彼がもし「行くな」って、ひとことでも言ってくれていたなら……。私はきっと、こんなふうに揺れなかった。でも、それを言わないのが彼なのだ。私は、過去の男と正面から向かい合ったその瞬間、ふと自分の心の一番奥が、ひどく空虚な音を立てたのを感じた。

「変わらないな、君は。昔から、優しすぎる。」

 その言葉に私は小さく微笑んでみせたけれど、どうしてだろう。心の奥がまるで霧のなかに閉じ込められたように、何も動かなかった。
 記憶のなかの彼はたしかに私を待たせて遠くに行った人だった。そして今、目の前にいる彼は、過去から戻ってきた人。それだけ。ただそれだけのこと。私はその空白の時間の重みをあらためて感じていた。

「会いたかったかい?」

 そう訊かれて私はほんの少しだけ目を伏せた。そのときだった。風の向きが変わった。ふ、と。視界の端で赤が動いた。聞こえてしまった。私のすぐ後ろ、ほんの数歩先にいたはずのヒーロー、ホークスが、その足を止めることもなく、けれど小さく、誰にも届かない声で呟いたのを——。

「……ゲームオーバー。」

 その響きは耳ではなく、私自身の胸に届いた。風に溶けるように、しかし確かに、私だけに聞こえてしまった気がして。
 次の瞬間、彼はそっとその場を離れていった。彼は私を、振り返らない。ただ、ゆっくりとした足取りで交差点の向こうへ向かっていた。信号の灯りが赤から青へと変わる刹那、彼の影が街路に伸びていった。風に揺れる髪、例え飛ばなくても映える艶やかな赤い剛翼。その全てがどこまでも静かで、どこまでも美しく、そして——遠く感じられた。
 私は、そこでようやく気づいてしまったのだ。私はあの人の温度に、恋をしていたのだと。忙しなくても軽やかでも、本気の顔は滅多に見せなくても。それでも確かにあの人はいつも私のそばに立っていてくれた。
 何も言わずに去っていくその姿に私は心の中で何度も何度も叫んでいた。待って、と——。今、気づいたの……と。

 私……本当はあなたのそばにいたいのに。でも声は、喉の奥で凍りついたまま、どうしても出てこなかった。過去の人が目の前で、何かを言っている。けれどもう聞こえなかった。私は胸の奥で何かが崩れていく音を、静かに聞いていただけ。


 *


 風が、強かった。高架下を抜けて、人気のない海峡橋に辿り着いた頃には夜の街が吐息のように冷え切っていた。手のひらに残る体温を、どうしても捨てきれず指先はあの一瞬を忘れまいとするようにいつまでも同じ場所をなぞり続けていた。
 彼女は、過去へと歩いていった。それを止めることができなかった。いや——しなかった。あのときの表情を見てしまったから。あんなふうに、誰かを見つめる横顔を。もうそれで、充分だなと思った。
 俺の右ポケットにはリボンで括った小さな鍵が入っていた。たぶん彼女が選ぼうとしていたのは左のポケット。結果的に俺の差し出した未来を、彼女は受け取らなかった。だから今、俺の手の中には、この右の鍵だけが残っている。俺はひとりぽつりと笑った。

「──ゲームオーバーたい。」

 でも現実はそうじゃない。ほんとうはどちらのポケットにも鍵を忍ばせていた。彼女が選ぼうとした側にも、ちゃんともう一つ。彼女がどちらを選んでも届くようにと。俺の想いをすべて、渡すことができるように。そう、仕込んでいたのだ。それが俺なりの彼女と生きていく未来への小さな誓いだった。けれど、その未来は手渡されることなく、すり抜けてしまった。
 夜風に吹かれて冷えきったそれをしばらく掌に乗せたまま、ふと、空を見上げた。ビルの谷間に沈む月はどこまでも白く、俺の影だけを淡く照らしていた。
 不意に思い出す。彼女と交わした数々の言葉たちを。まるで、走馬灯のように。


『初デートかぁ。いや、それを言うなら、もっとひどいのもあったよー?』
『え、たとえば? どんなです?』
『んー、正直よく覚えてないかも。デートなんて久しくしてないし』
『二、三週間くらい?』
『えっ? ううん。一年近くに、なるかなぁ』


 彼女と最後にデートをした相手は、あの男の人だったのだろうか。こんなに素敵な人とデートができて羨ましいな、なんて、あのときは、呑気に思っていたけれども。


『あの、私……さ、話さなきゃいけないことが、あって……』
『ん? なんです?』
『……ううん。会えるの、楽しみに、してる』
『俺も楽しみです。ちゃんと、緊張もしてる』


 きっと何度も打ち明けようとしてくれていたのだろう。なのに俺は自分のことばかりで、彼女の気持ちに碌に寄り添うこともできていなかった。
 湿気を含んだ東京の空気がいつもより重たくて飛ぶにはすこし不向きな気流。けれど、あの場に立ち続けるよりは、ずっと、気が楽だった。人の視線も感情も記憶も。全部、背中に置いて飛べるなら、俺には空しかなかった。それなのに今日の自分はそのまま橋の柵にもたれかかるようにしてしばらく動けずにいた。街が、きらきらと灯っている。まるで、誰かの夢のかけらみたいに。
 思い出すのは、彼女の手の動き。もう少しで、届いたかもしれない想い——ポケットのなかの、ほんの少しの距離を詰めれば渡せた未来。けれど届かなかった。

「……そりゃ、そうだよなぁー」

 口の端だけで笑ってみても返ってくるのは無言の風だけ。夜気が頬を撫で皮膚の奥まで冷やしていく。今日はもう、飛べない気がする。

「俺ばっかり好きなんだから……仕方ないって」

 さっき彼女の前でもこぼした台詞と同じ言葉がまた勝手に口をつく。ぽつりと漏れた声は、風に攫われて暗い空へと溶けていった。こんな結末になることくらい、きっと心のどこかではわかっていた。彼女はちゃんと考える人だ。過去に真摯に向き合い、自分の選んだ道を責任を持って歩ける人間。だからこそ、誰かがふいに現れただけで、その心の天秤が揺れてしまうことだってある。
 俺は……早すぎたんだと思う。いや、もしかしたらずっと、彼女の恋のタイミングに自分は追いついていなかったのかもしれない。
 ポケットに残されたもうひとつの鍵を取り出す。彼女が選ぼうとしたほう。リボンはまだほどけていないまま、あたたかい体温を持っていた。

「ガラスの靴は見つかりましたか——お姫様。」

 誰に言うでもない独り言が、夜の空に吸い込まれていく。そのまま、鍵を持った左手を、ぐっと伸ばした。そしてためらいなく、海に落とした。カランとも音を立てず闇のなかへと落ちていった小さな光。波間に沈んでいくそれを、ただ黙って見送る。それは自分の気持ちの一部が、たしかにそこで終わったかのように思えた。けれど、それでも右の手の中にはもう一つの鍵がまだ、残っている。それは、彼女がもしも戻ってきたとき差し出すために。そう願うことくらい、許されるだろうか。俺はそれをそっと、左のポケットの中へと戻した。
 ひゅう、と空を切る音。銀色の小さな光が流れ星のように橋の下の黒い川面へ吸い込まれていくさまを見つめていて、それでも胸の中の彼女は、消えてはくれなかった。

 たぶん、どれだけ投げ捨てても、消えてくれるような気持ちじゃなかったんだ。なら、どうするべきだったんだろう。なにを選べば彼女と並んで歩けたんだろう。わからないまま、夜が深まっていく。さっきまで傍にいた人のぬくもりが、もうどこにもいない。それでもまだ好きだ。どれだけ傷ついても、彼女を——諦められない。

「……バカだなぁ、俺。……ほんと、救えない」

 そっと俯いて、目を閉じた。風がまた、背中の羽根を揺らした。けれどそれは、どこへも運んでくれはしなかった。
 風が頬を過ぎる。さようならと、まだ言えない想いを、夜の街にまぎれさせながら俺は、静かに歩き出した。


 *


 彼から名前を呼ばれたとき。思わず足が動いてしまった。過去の記憶が、ひどく鮮やかに脳裏に焼きついていて、思考よりも身体の方が先に反応したのだと思う。
 少し痩せた横顔。変わらぬ低い声。でもそこにあの頃のぬくもりはなかった。わかっていたはずだった。待っても、もう帰っては来ない人だと。それでもどこかで、まだどこかで、期待してしまっていた自分がいたことが、苦しかった。
 私がゆっくりとあの人の方へと歩き出したとき視線の端に、ホークスの影が揺れた瞬間。言葉も呼び止めることもせず彼がただ立っていたこと。その背中には羽根があったはずなのに、不思議とあのときは地べたに置かれた大きな荷物のように見えた。

 ——なにをしているんだろう、私は。たった、数歩、進んだだけで、息が詰まるようだった。
 間違っている。こんなの、違う。私が呼ばれたかった名前は。私が、手を伸ばしたかったのは、私が、受け取りたかった未来は……。

「……違う」

 思わず口からこぼれたそのひとことに自分でも驚いた。足を止める。鼓動がやたらと速い。胸の奥が、焼けるように熱くなっていた。振り返る。人混みの向こう、その先に——彼が、ホークスがいてくれると、信じて。

「おい……! どこ、行くんだよ」

 背後から、あの人の声が追いかけてきた。でも私は、振り返らなかった。代わりに立ち止まり、ただひとことだけを残した。

「ごめんなさい……私にはもう、あなたと一緒にいる未来は、ない。」

 言葉の重さに押し出されるように私は走り出した。息が乱れ、肺がきしむ。けれど、それでも、止まれなかった。
 橋の向こう。視線の先に、彼の姿を見つけた。その背中が夜風の中でじっと立っていた。そして彼はポケットに手を入れた。まさか——と、胸が強く波打った次の瞬間、彼は、小さな金属の光を手に取って、それを躊躇いがちに、けれど確かな意志を持って橋の欄干の向こうへそっと投げた。光がひとつ夜の海へと吸い込まれていく。あっ、と声にならない声が喉の奥で潰れた。何か大事なものが落ちていった音がした気がした。
 私はまた走る。もう、迷っている時間なんて、どこにも残されていなかったから。

「……っ、」

 あの背中を見送るなんて。渡されるはずだった想いを、知らないふりで済ませるなんて。そんなこと、できるはずがなかったのに——!

「……ホークスっ!」

 名前を呼んだ、その刹那。彼が、羽ばたいた。剛翼が夜を裂くように音を立てて、空へと昇っていく。私の声は、風にかき消されてしまいそうなほど、か細く震えていたかもしれない。けれど、
それでも彼は、振り返った。空の高みで、大きな琥珀色の瞳が、まっすぐに私を捉えていた。風に散る羽根が、月の光を受けて、静かにきらめく。まるで、祈りの欠片のように——。
 私は走った。彼のもとへ。なにも、言葉が出てこない。けれどただ迷いなく「待って!」とだけ叫んで、その腕を強く掴んだ。

「——うおっ!?」

 不意を突かれたように、ホークスが素っ頓狂な声を上げる。空へと舞い上がろうとしていた彼の翼がバランスを崩して揺れた。けれど彼は抵抗もせず羽ばたくことをやめて静かに私の前へと降りてきた。ふわりと地面に足をつけて風の音の中、ただ静かに立つ。まるで私の元へと、帰ってきてくれたかのように。
 目の前にいるそのヒーローの眼差しが優しくて少しだけ困っていて、驚いていて、でもどこか、救われたように柔らかくて……私は必死に言葉を紡いだ。

「待って……、はぁ、はぁ……お願い——っ」
「……」
「わたし……ほんとは、あの鍵、欲しかった」
「……」
「右でも左でも、きっとどっちでもよかった」
「……」
「あなただったから、どっちでもよかったのに、なのに、私——」

 唇が震えて、それ以上はうまく話せなかった。でも、彼の手のひらがそっと私の頬に触れてきてそのすべてを包み込むようにあたたかくて。そのぬくもりに触れた瞬間、もう本当に何も言えなくなってしまいそうだった。けれど——。

「あー、……あれね。」

 すっと、頬に触れていた温もりが消えていく。残された肌に夜気が入り込み、ひやりとした。
けれどその手は途切れることなくするりと下降し私の腕をなぞるように滑り落ちて、そして指先を絡めるようにして私の手を握った。ホークスが、わずかに口元を引き上げる。それは、笑顔と呼ぶにはあまりにも色のない、乾いた仕草だった。

「もう、捨てちゃいました。さっき橋の上から」「……え?」

 私の喉から小さく漏れた問いに、彼は、応えるように、わざと軽い調子を装う。

「風、強かったしー。よく飛びましたよぉ〜?」
「……」
「……って、見てたでしょ? ちゃんと、剛翼であなたがいる気配、感知してましたからねぇ」

 声のトーンは冗談のようでいてその奥底にあるものは、隠しきれない痛みだった。どこか遠くを見ているようなその横顔は言葉よりずっと深くて苦しかった。そして彼は目を伏せたまま続けた。

「だって、俺といてもあなた、笑えないでしょ」
「……」
「あの一瞬でわかった。目が俺を通り越してた。いや……俺がそう思いたかっただけかもしれないですけど」

 声に、わずかな掠れが混じる。それを誤魔化すように彼は、自ら握った手を離そうとする。私は思わずその手を逃すまいと、強く握り返した。

「ホークス……」

 しかし彼は、浅く息を吐いてかぶりを振った。

「俺、けっこう頑張ったんすよー?あなたに釣り合うようにちゃんとしたヒーローでいようって」
「……」
「遠距離でも向き合える紳士な男でいようって。でも、やっぱ……」

 彼はほんの少しだけ笑った。けれどその笑みの奥にあるものは、泣きそうな少年のようにひどく脆くて……。

「二人で望まないと、意味ないですからね。鍵、なんて……。」

 そのときだった。心の奥に、何かが音を立てて崩れ落ちたのがわかった。私は彼の両手を両手で包むように取ってそのままゆっくりと見上げた。

「ごめん……っ、ごめん、なさい——」

 押し潰されそうなほど苦しい想いが堰を切ったようにあふれ出す。

「……え?」

 彼の瞳が、驚きにわずかに揺れた。私は、そのまっすぐな瞳を正面から見据えて言葉を続けた。

「あなたを、傷つけた。ちゃんと向き合わなかった。わたし……ずるいこと、した……っ」
「……」
「自分の気持ちを整理できないままあなたを試すようなことして……本当に、最低だった……っ」

 胸の奥から吐き出すように、それでも、言わなければならないと、わかっていたから。

「でも、気づいた……あの瞬間、あなたが、背を向けてしまったあの一秒が、私には、どうしても耐えられなかった——っ」
「……ちょ、待って。頼む、泣かんで……?」

 慌てたように、でもどこか、戸惑いながら彼が言う。私はそれでも首を振る。

「笑ってほしかったの。怒ってもよかった。拗ねても、泣いても、怒鳴っても……」
「……」
「なのに、いつもあなたは私のために余裕そうな顔ばっかりして……」

 息が震える。視界が、にじむ。それでももう、誤魔化さなかった。いや、誤魔化せなかった。

「わたし……ホークスがいないと、だめなの」
「……」
「あなたと未来を作りたいって、ようやく本気で思ったの……っ、」

 それが、すべてだった。そっと、彼の頬に手を添える。やわらかくて、温かい肌。その奥にある彼の想いを、たしかめるように——。

「鍵がほしい。あなたの、部屋の鍵じゃなくて、啓悟くん自身の、心の鍵を——。」

 その言葉を紡いだ瞬間、音がなくなったような気がした。そしてようやく、彼の手が私の手に、そっと重なった。

「実は——」
「……ん?」
「まだひとつだけ、ポケットに残ってるんです」

 言葉にならない想いが夜風に乗って髪を静かに撫でる。唇が震えて、うまく声が出ない。心臓の音が、やけに大きく響いていた。だけど彼の手のひらが今度は私の頬に直に触れて、そのすべてを包み込んだ。

「もう一本、あるんですよ」
「……え?」
「鍵。ちゃんともうひとつ、ポケットに仕込んでたんで」
「……」
「ずるいことしてたの、たぶん俺のほうです」
「……っ、」
「選ばせるふりをして、最初から、あなたに渡すつもりだった」

 そう言って彼は私と同じ目線になるようにしゃがみこんだ。どこかで、見たことのある光景だ。そうだ、これは、子供に向けて目線を同じ高さにしてあげていたあのときと同じ姿勢だった。やっぱりこの人は、ヒーローなんだ。心のどこかで、そう思った瞬間、胸が静かに、あたたかくなる。彼はゆっくりと左のポケットに手を差し入れた。そうして、そっと取り出されたのは黄色い小さなリボンで結ばれた、銀色の鍵。月明かりに照らされたそれは、きらきらと淡く光を反射していた。まるで夜空からこぼれたひと粒の星。あるいは、シンデレラの硝子の靴。あるいは——宝石なんかよりも、ずっと綺麗な、宝物。

「ほら、ね? これ、名前さんのです。」

 差し出された鍵はあたたかかった。掌ごと差し出されたようなその温度に、私はもう、堪えきれなかった。思い切り彼の胸の中に飛び込む。鍛えられた身体が、まるで何の迷いもなくそれを受け止めてくれた。びくともしない。そこには確かに私の帰る場所があった。

「なん……っ、で——」

 あたたかい彼の腕に包まれるなか、言葉にならないまま、肩が震える。

「んー?」
「なんで、そんな……わらってるの……っ」
「えー?なんでって……俺、楽観的なんす」

 彼の声はいつもの軽やかさに戻っていてそれがたまらなく愛おしくて、胸が苦しい。

「……お馬鹿さん、ヒーロー……っ、」
「はは、可愛いお馬鹿さんヒーローです」
「——ありがとう……マイ、ヒーロー。」
「はい……どーいたしまして、お姫様。」

 その、たった一言の感謝が涙に溶けて、夜風にそっとほどけていった。


  • prev | next

  • back
VERTEX