それから数日——。なぜか彼、ホークスからの音沙汰はない。
 あの日、彼は確かに私に鍵をくれた。ちゃんと自分の手で左のポケットから取り出して。あれがふたりの再出発点になるのだと私は思っていた。いや、信じたかった。けれどそれはもしかしたら私ひとりの思い違いだったのかもしれない。
 スマホの画面に浮かぶ送信済みのメッセージ。
『まだ、東京にいるの?』という質問に、既読はつかない。返信もない。そして着信も鳴らない。ため息をひとつゆっくりとこぼして、私は今日も変わらない朝を歩き出す。仕事へ向かうために、
いつもの改札を抜けて。

 そしてそれは、その日の昼過ぎのことだった。唐突にポケットの中でスマホが震えた。着信ではない通知音。開いた画面にひとつのメッセージが表示されていた。送り主は彼、ホークスだった。


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ホークス

今日、ジーニストさんたちとご飯行くんでよかったら ぜひ



 ――――――――――――――――

 絵文字もスタンプも何ひとつない、白黒のメッセージ。画面を見つめたまま、私はしばらく、瞬きさえ忘れていた。そのあと、間を置かずに届いたもう一通のメッセージ。開催場所と時間だけが簡潔に書かれている。返信に迷っていた指先がやがてゆっくりと文字を打つ。


 ――――――――――――――――

名前

了解。行きます。



 ――――――――――――――――


 それだけの言葉を送信して私はスマートフォンを伏せた。胸の奥で何かが、小さく波打つような音がして、それが期待なのか不安なのか自分でも判然としないまま、午後の喧騒のなかへと、身をゆだねたのだった。


 *


 飲み会の席の余韻がまだ夜の空気に薄く漂っていた。たくさんの笑顔とからかい混じりの視線。そしてほんの少し背中を押すような優しい空気。けれどそれは私と彼との関係を、ほんのわずかに現実へと引き戻す作用を持っていたのかもしれない。
 お店を出たあと彼はいつものように「送りますよ」と言って、軽やかに隣を歩いていた。でも、どこかが、違っていた。笑っているのに、笑っていない。肩が触れるか触れないかの距離で並んでいるのに、妙に遠い。

「いや〜。あれ、ちょっと違和感でしたねぇ〜」

 そう言って、彼はおどけたように笑った。私は歩きながら、うっすらと相槌だけを返す。

「ジーニストさんの『もしも何かあったなら私を頼ってくれていいよ』ってやつ。……あれ絶対、誰かに言わされましたよね〜?」

 私の方を見向きもせずに楽しげな調子のまま、彼は続ける。けれど、私の沈黙に気づいたのか、その声がわずかに揺れた気がした。わかりやすいのだ、彼は、こう見えても。

「なーんか兄貴みたいで。俺、ひとりっ子なんすけどねー」
「……」
「てか今の似てませんでした?ジーニストさんの声真似〜」

 相変わらず明るく冗談めかした口調。それでも返す言葉を見つけられずにいる私に、彼はふと、ほんの一拍だけ歩みを緩めた。そして、こちらが返す言葉を探す前に、彼の声のトーンが少しだけ落ちた。

「でも……ああいうときって、ちゃんと笑ってたほうが、他の人たちも気を遣わなくて済むかなーって思って」

 肩越しに、ちらりとこちらを見たその横顔に、ふっと冷たい風がかかる。笑顔の形を保ちながらどこか置き去りにされたような表情をしていた。その彼の声は自分に言い聞かせるような、そんな響きを持っていた。

「ファットさんとかミルコさんとかもさ。あと、あなたも、いたから。」

 その一言が胸に触れた瞬間——なにかがほんのわずか、軋んだ音がした。私は、その空気に嫌な予感を覚えていた。柔らかく繕われたやさしさの中に潜む��終わり�≠フ兆し。言葉にならない、
けれど確かに知っている感覚。そうだ。これは、別れる前のあのときの空気と同じ空気だ。だから私はつい、逃げるように口を開いた。

「ありがとう、ホークス……。」

 言いながら自分の声が少し震えているのが分かった。それでも彼は何も言わずに、ただその場に立ち尽くしている。

「今日もさ。ほんとに、助かったよ……。」

 ��楽しかったよ�≠ニ言えばよかったのかもしれない。でも、口をついて出たのは��助かった�≠ニいう言葉だった。まるで彼が今日もずっと自分を支えてくれていた証のように。しかしホークスは「その言葉が一番嬉しいですよ、ヒーロー冥利に尽きる」なんて言って、相変わらず笑っている。私は思わずその場に立ち止まっていた。すぐ後ろで歩みを止めていた彼の気配が静かに私の背中に降りてくる。何も言わず、けれど真っ直ぐに彼は、こちらを見ていた。

「ねえ、名前さん。」

 彼は私の隣まで歩み寄ってきて、少し笑った。それでもどこか、透明になったような目で、私を見た。

「今日から、こうして会ったりしたあとの予定、ひとつだけ……変更したいなぁって思ってて」
「……え?」
「っていっても間も無くまた福岡戻りますけど」
「……」
「今夜からは、あなたを送らないことにします。俺、ここで帰ります」
「……」
「もう、見送るのは……おしまいにする」

 ——息が詰まった。言葉はゆっくりだったのにその言葉の意味だけが胸に深く沈んでくる。彼の声の奥に、張り詰めた糸のようなものを感じた。

「どうして……?」
「んー、……たぶん、これが俺の限界なんです」

 彼はどこか遠くを見るように空を仰いだ。街灯の光が横顔を照らし睫毛の影が頬に落ちている。

「無理して余裕ぶって……俺にしては、けっこう頑張ったほうなんですけど、ほんと……。」

 彼は少し目を伏せたあとでまた笑って見せた。まるで何でもないみたいに。まるでもう次の風に乗って、飛び立てるみたいにして。

「俺さ、あのとき——勝手に賭けてたんですよ。あなたが、どっちを選ぶか、って。」
「……」
「で……まあ、やっぱ俺、負けたなぁって思ったんで」
「そんな……私は、選んでなんて。だって、私、ホークスを、追いかけたでしょ……?」
「ううん、ちゃんとわかってますよ。あなたが、優しいのも」

 その優しいという一言が、胸の奥で鈍く響く。責められているわけじゃないのに、心のどこかがきゅっと縮んだ。

「あなたが、あの人に背を向けなかった時点で、きっともう、答えは出てたんですよ」
「……」
「あの瞬間、あなたの重心はもう——俺じゃなかった」
「……」
「たぶん恋って、どっちかが踏み出さなきゃ進まないし、どっちかが引いたら、それだけで終わっちゃうこともある」
「……」
「ジーニストさんに言われました。『初恋は実らないものだよ』——って。」

 笑ってみせているけれどその笑みは薄くてすぐに夜風にかき消されそうだった。

「……なんで、俺は引きます。今日はちゃんとそういう夜にします。ほら、ちょうど満月ですしね」
「……」
「あなたには世界で一番、幸せになってほしい」

 優しさが——残酷になる夜。その言葉は確かに優しさの形をしていたのに、私の胸に残酷な刃のように突き刺さった。彼の声は、そうやって少しずつ私の胸を締めつけていった。返したい言葉は喉の奥でからまってどうしても出てこなかった。

「ごめん……ごめんなさい……私……」
「謝ることなんて、なにもないですよ」
「……」
「だって俺……あなたのことを好きになったこと自体が、奇跡だったんですから」

 彼の声は穏やかで、まるで別れの正しさを肯定するために用意されたような優しさだった。その言葉ひとつひとつが胸に深く沈んでいく。言葉を返そうとしたけれど声にならなかった。ただ私は夜の下、交差点の真ん中で、まるで時間から取り残されたように立ち尽くしていた。

「名字名前さん、あなたが好きです。」
「……、」
「名前さん——どうか、お元気で。」

 笑わない笑顔で彼はそう言った。そしていつものように、ひとつ手を振ったあとで、そっと背を向ける。静かに剛翼の羽根を広げるその仕草には誰にも気づかれないような慎ましさと、ヒーローらしからぬ、哀しさが滲んでいた。
 緋色の翼が、夜の空をひと掻きする。まだ青の余韻が残る宵闇と街灯の赤が滲む境界線へと彼は音もなく飛び立っていった。私はただその背中を見つめていた。

 止められなかった。あの、優しすぎる嘘に——触れることすらできなかった。だから、泣いた。誰にも見えないように。ひとりきりで音もなく。
 信号が青から赤に変わる。終わりじゃないってそう信じたかった。けれど私はまた、なにも言えなかった。「行かないで」——たった五文字の、簡単なその言葉さえも。


 *


 彼が私の元から飛び立っていった日から数日が過ぎたある日——玄関のチャイムが鳴った瞬間、私は正直嫌な予感がしていた。モニター画面には懐かしい顔。優しさに似せた諦念を帯びた笑顔。それが、彼のいつもの癖だった。
 かつて��結婚�≠�、口にした相手。それだけを置き土産に私の元から、去っていった相手——。何もかも終わったと思っていたその人が、なぜかまた今ここに、指輪を手にして、現れるなんて。

「約束通り、君のもとへ戻った」

 声だけが先に、部屋の空気を震わせた。私は、言葉を返せずにいた。

「結婚、してくれるだろう?」

 言葉のひとつひとつが、まるで、誰かが書いた脚本をなぞっているようだった。

「やり直そう。何もかも、なかったことにして」

 私とテーブルを挟んだ向かい側。彼はゆったりとソファに身を沈めた姿勢のまま穏やかに微笑んでいた。その笑顔は確かに過去に私が愛した人のものだったはずなのに、どこか空洞を抱えているように見えた。
 そのとき、ふと思い出した。あの日��愛の巣�≠ニ呼んでいた部屋の中で、彼と寄り添って観た、海外ドラマの、ワンシーンを。薔薇の花束を手にした男性がソファの前で跪き『結婚、してくれるだろう?』と告げる。そんな、あまりにもドラマティックすぎる台詞を。そのあと、ドラマのヒロインは相手の男を躊躇なくビンタした。あまりに唐突すぎる展開に、私たちは思わず吹き出した。真剣な音楽が流れる中、ふたりして肩を揺らして笑った。あんなに、シリアスな場面だったのに。

『ねね、同じようなこと、バレンタインの夜にもありましたよねぇー?』

 彼がそう言って微笑んだときの表情が、今も、脳裏に焼きついて離れない。

「もう一度ちゃんと、向き合いたいと思ってる。君の隣に、いたいと思ってるよ。」

 私はハッと我に返る。無意識に彼の顔をそっと見つめた。目が合った瞬間に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。私は視線を外し小さく首を横に振った。

「ごめんなさい。私には……その資格が、ない」

 すると彼は目を伏せ、しばらく黙ったまま指を組んでいた。やがて顔を上げると、口にしたのは思いがけない人物の名前だった。

「このあいだの、あれ——ホークスだろ。」
「……え?」

 その名が唐突に室内の温度を下げた気がした。

「速すぎる男——ウィングヒーロー、ホークス。噂じゃ、手を出すのも(・・・・・・)速すぎる男、だってな」

 声には明らかに皮肉めいたものが滲んでいた。けれど私にはそれに応える言葉がどうしても見つからない。だから代わりに、小さく息を吐いた。それは、溜め息というよりも、自分の内側に染みついた、疲労を宥めるようなものだった。
 私はゆっくりと立ち上がり、音を立てぬようにキッチンへ向かう。何も話さない事でしか自分を守れない瞬間がある。今がまさに、そうだった。気持ちを落ち着けようとガスにやかんをかけた。静かに湯が沸き始める音が空気を満たしていく。そのとき視界の隅でふと目に入ったのは、シンク脇に置かれた、ひとつのマグカップ。ホークスの、彼、専用のカップだ。

「……。」

 ふいに胸が音を立てずに縮んだ。彼の笑い声、手のひらの温度、夜風に舞う羽根の色がふと脳裏に蘇る。それらすべてがこの部屋の片隅に、まだ確かに残っているのだ。

「——あれ、本当は迷惑しているんだろう?」

 不意に聞こえてきた背後からの低く抑えた声。けれど、その裏にある苛立ちと猜疑の熱が、肌にひりつくようだった。

「しつこくされてるなら言え。知り合いに警察もいる。なんでも俺、協力してやるから。もし、」
「違う。彼は、そんな——」

 否定の言葉を被せたその瞬間だった。彼の手が勢いよく、私の両腕を掴んだ。

「じゃあなにをされたって言うんだ!抱かれたとでも言うつもりかっ!?」

 怒気が皮膚を裂くようだった。睨みつけてくるその双眸が、かつて私の恋い焦がれたものと同じとは思えなかった。ぐっと力任せに私を引き寄せその顔が目の前に迫る。背後では、ガスにかけたやかんが、しゅんしゅんと音を立てている。

「この唇も、この身体もっ!あんな男に奪われたって言うのか——っ!?」

 思わず顔を背ける。震える声すら出せないまま私はただ立ち尽くした。すると、腕に込められていた力が、ふっと緩む。

「そう……なの、か……?」

 絞り出すような問い。私は何も言えなかった。いや、答えたくても答えられなかった。

「……なんで……あんな奴なんだよ……」

 唇を歪めて彼は、自嘲するように笑った。その直後——彼の手が、私を激しく突き放した。振り上げたわけではない。けれど混乱と怒りの衝動が一線を越えたのだと、身体が先に理解した。突き飛ばされた拍子に私はシンクに手を滑らせ、その瞬間、シンク脇にあった彼専用のマグカップが、床へと転がり落ちて——ガシャン。鋭い音が室内に響く。割れた陶器の破片が、床に投げ飛ばされた私の瞼をかすめる。瞬きするたび、じわじわと、血が滲む。痛みよりも、ただ、驚きが先に来た。震える手でそっと触れる。指先に残ったその色は彼の背にある剛翼と同じ深い紅。そこは、いつも彼が優しく口づけてくれた場所だった。
 目の前の男が、ようやく何かに気づいたように我に返り、しゃがみ込んで、私の手を取る。

「大丈夫かい? どれ、見せてごらん?痛かったよな?」

 その声が、妙に穏やかで、逆に背筋がぞくっとした。

「魔が、差したんだよな?寂しかったんだよな?あんな男……本気なわけ、ない、よな?」
「……」
「ごめん……本当に……。でも、わかってくれ。俺がどれだけ、君を思っているか……」

 呟きのような言葉が続く。私はなにも言わなかった。言えなかった。ただただ、震えていた。

「いいさ、いいよ……。誰にでも、過ちはある」
「……」
「そうさ。俺が今、こんなふうに、カッとなってしまったこともそうだ。許して、くれるね?」
「……」
「俺も……君を、許すよ。過ちは、誰にでもあるから。……な?」

 まるで、決まり文句のようだった。次の瞬間、彼は私をやさしく抱きしめた。その腕の中はただひどく冷たかった。私は堪えようとして、不意に激しく嗚咽した。

「……忘れよう。何もかも。あの頃に戻るんだ」

 その声が、どんどん遠くなっていく。私はもう彼の名前すら呼べず、その背中に腕を回すことすらできなかった。だから、ただ喘ぐようにして泣き続けていた。


 *


 予想以上に長居してしまったことが上にもすっかり、バレていたらしい。ほどなくして、チームアップの要請が飛び込んでくる。ヒーロースーツを持ってきていないと告げても聞く耳すら持ってもらえなかった。まったく、ヒーロー公安委員会という組織はヒーローをこき使うことにかけては妙に長けすぎている。
 その日、任務の合間、ベストジーニストさんと二人で立ち寄った公園は、陽だまりが意外なほどやわらかかった。缶コーヒーを片手に、ベンチに腰を下ろす俺の耳に泣き声が混じった甲高い声がふいに届く。

「……あっ、風船!」

 見ると小さな女の子が泣きそうな顔で空を仰いでいた。真っ赤な風船が木の枝に絡まっている。俺は軽く笑って、缶をジーニストさんに預ける。

「ちょっと行ってきまーす」

 ひと振り、背中の羽根を散らして空気を切る。剛翼が軽く枝をつつくと赤い風船はふわりと下へ舞い戻った。俺はそれをキャッチして、しゃがみ込みながら女の子へと手渡す。

「はい、キャッチ。二度と手放しちゃダメだよ」
「ありがとう、お兄ちゃん!」
「えー。お兄ちゃんはやめてぇー。これからは、ヒーローって呼んでね?」
「うん! ありがとう、マイヒーロー!」

 女の子が笑い少し離れた先にいた母親が何度も頭を下げていた。二人に軽く手を振ってベンチに戻るとジーニストさんが淡々とした声で言った。

「……君は、良い父親になりそうだな」
「えー、どうすかね」
「結婚願望は?」
「考えたこともないっすねぇー」
「彼女とも?」
「……はぁ。その話やめません?フラれたって、さっきから言ってるでしょ」
「お似合いのように見えていたけれどね」
「はは。残念でしたぁ」

 ジーニストさんに預けていた缶コーヒーを受け取り、それを口に運びながら俺は肩をすくめる。

「だが、彼女はこれから辛いだろう」
「これから?そんなことないでしょ。待ち焦がれてた彼氏が戻ったんすから」
「その場で彼は、君の存在に気づいたかもしれない」
「……ま、もしかしたら」

 ジーニストさんは隣のベンチに腰をかけて足を組んだあと、姿勢よく、視線を遠くにやった。

「二年は長い。疑う可能性は高いだろう。彼は、こう問うかもしれない——あれは、誰だ?と。」
「万が一そうなったら口裏合わせますって。何もなかった、俺の一方的な片思いでしたぁーって」
「嘘を、つくと?」
「まあ、聞こえは悪いですけどねー」

 缶コーヒーの熱が、手の中でじわじわと冷めていく感触があった。口から出た軽口とは裏腹に、胸の内は、全然軽くなどない。

「君はともかく彼女も嘘をつく。ようやく戻った恋人に。結婚まで約束していたんだろう?」
「らしいっすね。本人から聞きましたんで」
「その彼に、嘘を?」
「……仕方ないんじゃないです?」
「仕方ない?君はそれでいいだろう、二度と会わなければ済むからね。だが彼女は?一生嘘を抱えるか、あるいは……バレなきゃいいと忘れられるタイプか?」
「いや……」
「彼女は今のこの時代には珍しいくらいに、芯の通った女性だ。君が一番わかっているだろう?」

 言われて、ふと目の奥が熱くなる。俺は視線を逸らすように、遠くの遊具で笑い声をあげている子どもたちを見た。

「悪く思わないでくれ。君を責めているわけじゃない」
「わかってますよ」
「ただ——君が一方的に傷ついたと思っているのならばそれは、彼女がかわいそうだと思ってね」
「別に……そんなふうには思ってないっすけど」
「彼女も辛かったはずだ。そして、これからも」
「……どうすれば、良かったんですかねぇ」

 俺は苦笑しながら言葉をこぼした。両手で包み込んだ缶コーヒーは、さっきまであった温もりをほとんど失っている。白くはならない吐息が空気の中に静かに散っていく。その様子を目で追った瞬間、妙に現実へと引き戻される感覚があった。

「俺なんかと、出会わなきゃ良かったのかな」
「そんなことを言ったらもっとかわいそうだよ」
「っすよね。チキショーなんか俺、最低じゃん」

 なんだかうまく笑えなかった。だから苦笑いでごまかす。指先で缶コーヒーをくるりと回すと微かに金属の擦れる音が響いた。中の温もりはもう、ほとんど残っていない。

「でも彼女は最初、君の胸に飛び込まなかった」
「はい」

 そうだ。その事実だけは、どう取り繕っても、変えられない。飲み込んだ息が、重く沈む。

「彼と別れるほうが楽だったはずだ。理由はともかく、放っておかれていたわけだし」
「それだけ好きだったってことでしょ。俺なんか振り返られもしなかった。完敗です」
「……」
「九回裏、ツーアウト満塁。逆転、満塁サヨナラホームラ〜ン!てな感じで」
「それだけじゃないだろう」
「え?」

 一瞬、ジーニストさんの視線が鋭くなった気がした。風が首筋をかすめて、羽根の奥の筋肉が、ぴくりと反応する。

「原因は——君自身にある」
「そりゃあ、サイテーですからねぇ、俺。」

 苦笑の裏側で、何かを見透かされているような居心地の悪さがあった。

「君は、彼女に信用されていなかったんだ。」
「……俺、そんなにいいかげんに見えます?」
「見えるよ」

 短い断言が胸の奥に静かに突き刺さった。俺はふーっと長く息を吐き空を仰ぐ。さっきまで変わらず降り注いでいたはずの陽射しがなぜか少しだけ翳って見えた。


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