翌日の午後、私はなんとか重たい身体を起こしやっとの思いで外に出た。食欲はまるでなかったけれど、あの部屋の中にいるのが、どうしても、耐えられなかった。
 陽に焼けたアスファルトの匂いと、少し冷たい風。ぼんやりと歩くうちに視界の端に風に揺れる古びた暖簾が映った。気づけば私は、それをくぐっていた。まるで、何かに導かれるようにして。
 そして入り口で食券を買ったその先、定食屋の隅で、ひとり黙々とご飯をかき込んでいる彼——ホークスの姿が目に入った。顔を上げた彼はほんの一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから、ゆっくりと、あの人懐っこい笑みを浮かべた。

「……あら。ここって、あなたのテリトリーじゃなかったですよねぇ?」

 皮肉とも冗談ともつかない軽い声に私は思わず目を逸らした。咄嗟に、被ってきた帽子のつばを深く下げるようにして、曖昧に答える。

「……たまたま、通りかかっただけだよ」

 そのとき、昼時ということもあって、忙しなく注文をさばいていた店員さんが、私の元へ来た。

「いらっしゃいませ!すみません、あのこちら、相席でもよろしいですかぁ?」

 まさかの申し出に、私は思わず「げっ」と顔をしかめてしまう。反射的すぎて取り繕う暇もなかった。しかし、その一瞬の反応を、目ざとい彼は見逃さなかったらしい。視線が、ふっと細まり、口元がくすりとほころぶ。

「俺は、ぜ〜んぜんっ、構わないっすよ〜」

 営業スマイル全開で、軽やかに店員に向かってそう答えるホークス。そして、視線を私に戻し、「どうぞ?」と穏やかに席を促してくる。逃げ場はもうどこにもなかった。私は言葉を持たぬままゆっくりと椅子を引き、腰を下ろす。
 会いたかった。けれど——会いたくなかった。そんな矛盾が心のなかで、静かに交差していた。帽子を被ったままで、深く目元を隠す私と彼は、向かい合っていた。こんなにも近いのに、言葉のひとつも浮かんでこない自分が、憎い。

「てか、帽子なんて、なんか珍しいっすねー」

 ふと目線を上げたホークスが私の帽子のつばをじっと見つめてそう言った。

「髪の毛、ぼさぼさなの……」
「へー。似合ってない」
「あら……残念。」
「だいたい今日、平日なのに。仕事のほうは?」
「うん……ちょっと体調崩して。今日は休んだ」

 私の声は、やや掠れていて、まだ少しだけ喉の奥に熱が残っているような気がした。すると彼は「ふーん」と短く返しつつ店員が運んできた私の頼んだお膳に視線を落とす。

「でも、そのワリに食欲のほうは——」
「無理して食べないと、元気でないでしょ」

 そう言いながら、箸を取った私の手元を見て、彼は、ちょっとだけ笑った。

「まあ、そーっすね。だから俺も親子丼。あっ、共食いとか言ったら怒りますよ?……で?そっちはぁー、イカフライ定食かぁ。うまそ」
「……イカしてる、でしょ?」

 冗談で返したつもりがあまりにもタイミングが遅くて自分でもわずかに苦笑する。けれど彼は、さっとそれを受け取ってくれる。

「ん〜、消化に悪くてイカんのでは?」

 よかった。冗談の応酬ができた。それだけで、なんだか懐かしいような胸の奥がじんわり温かくなるような、そんな気持ちになった。
 しばらくして彼は箸を置き湯呑み茶碗を両手で包み込むように持ち上げて、ズズッと音を立ててお茶をすする。その所作が、いつもより少しだけゆっくりだったのが、なんとなく、気になった。

「あ、そうだ。彼氏さん?婚約者だっけ?うまく誤魔化せましたー?」

 その声にはあくまで軽さがあったが私の心には小さく、棘のように突き刺さった。

「……大丈夫。」

 目を合わせずに答えるとホークスは一拍置いてやや口角を吊り上げる。

「そ。なら、よかったです。変なふうに拗れると、責任感じちゃうんで、こっちが」
「許してくれたよ。自分が私を寂しくさせたからいけなかったんだって」

 その言葉を口にした瞬間、私の声のどこかに、微かに、自分でも気づいてしまうような揺らぎがあった。

「へぇ〜。雨降って、地固まるーってヤツだ?」
「そうだね」
「大人ですね〜。俺だったら自分を棚に上げて、許せないかも」
「……過ちは、誰にでもあるから」

 そう言った私の声は、まるで、自分自身に言い聞かせるようでもあった。彼はまたお茶をひと口啜ったが、瞬間、その手がぴたりと止まる。

「……過ち?」

 低く呟いた彼の声に私は思わず顔を上げてしまった。湯呑みを持つホークスの手がぴくりと揺れている。そして彼の琥珀色の瞳がまっすぐに私を射抜いていた。まるで、そこにすべてを映し出す鏡のように真剣で、残酷なほどに澄んだ瞳で。私の喉が音もなく震える。見つめ返すことができなくて、私はまた、視線をそっと落とした。

「……そう、過ち。」

 それが誰に対しての言葉なのか自分でも、もう分からなくなるくらい、曖昧な声だった。

「ふーん、過ちねえ……うん、そーっすね。」

 私の言葉の裏にある何かを読み取ったかのようにホークスはふっと笑った。けれどそれはどこか乾いた音のようだった。私はなぜかその鋭い視線に動揺してしまって手にしていた箸を、ぽろりと床に落とした。反射的に身を乗り出して拾おうとした瞬間、すっと彼の手が横から伸びてきて気づいたときには被っていた帽子が、ふわりと浮かび上がっていた。

「ちょ——!」
「いい帽子ですねー。ちょっとだけ貸してもらっても?」

 私は声を上げたが彼はまるで悪びれもせずそう言って、帽子を軽々とかぶってみせた。
 いたずらっぽい笑顔。そのまま、やや癖のある金色の髪を隠すように彼の頭にのせられた帽子はあきらかに、サイズが合っていなかった。

「……あら。頭ちっさ。小さくて入んないすね、俺には」

 冗談めかした口調。けれど、どうしよう……。彼は笑っていなかった。私を、じっとまっすぐに見つめている。視線は私の顔のほんの少し上——右目のあたりに向けられていてその瞬間、空気が変わったのを、はっきりと感じた。

「……誰にやられたんです? それ。」

 声は静かだった。凪のように穏やかで、それでいて深海の底に溜まった怒りがゆっくりと水圧を増していくような、そんな音を孕んでいた。
 私はすぐには答えずに首を横に振ると、箸立てから新しい箸を取って、ふたたび無言で食べはじめた。

「……ちょっと、マグカップ——洗ってて。割っちゃって……」

 何もなかったふうを装うしかなかった。けれど目の前に座っている人は、そんな嘘が通じる相手ではなかった。

「へえ、顔でマグカップを洗う個性をお持ちで」
「……時々ね」

 精一杯の皮肉を返す。けれどそれが苦し紛れだということは自分でもわかっていた。胸の奥で心臓がドクドクと速さを増していく。手のひらには、じっとりと汗が滲み出していた。

「個性事故でもあるまいし」
「……」
「時々で、そんなふうになるもんなんすか?」

 小さく、けれど明確に呟かれたその言葉に私は箸を握る指先に力が入るのを感じた。彼の瞳が、真剣だった。冗談じゃ済ませてくれない。私は、その視線から逃げたくて、俯きながら、ただひとことだけを、ぽつりとこぼした。

「……大丈夫だよ。」

 ほんとうは、助けてほしいのに。ほんとうは、その腕で、また、抱きしめてほしいのに——。
 自分から出ていった声は、あまりにも小さくて自分にも届かないほどだった。しかし次の瞬間、彼がぐいっと身を乗り出してきて自分の顔を私の顔のすぐそばまで近づけてきた。

「……な、なに?」
「俺の目、見て。」

 まるで瞳の奥底まで覗き込むような距離。そこにはもう普段の彼らしい冗談も軽口もなかった。

「あ……あら。綺麗な、蜂蜜色だねぇー」
「いーけん! ちゃんと、見てください」

 その声に、思わず視線を戻しかけた瞬間、テーブルに肘をついていた彼の指先がふわりと空気をすくうように動き、私の頬をかすめた。正確には右のまぶた。まだ、うっすらと赤みの残る傷跡の上を彼の親指の腹が優しく撫で付けていく。そのやわらかな触れ方に私はそっとまぶたを閉じた。

「……信じられん。あん男——腐っとー」

 眉間にこれでもかと深い皺を刻み空いた片手で口元を覆うようにして低く漏らしたその声には、はっきりと、怒りが滲んでいた。

「私たちの問題だから——!ホークスには、関係ない……関係、ない」

 はね返すように声を上げた瞬間、空気がしんと静まり返った。周囲のざわめきさえどこか遠くに消えたようだった。やがて、少しずつ人々の声が元の調子を取り戻しはじめた頃、低く、かすかに彼の声が落ちてきた。

「……関係、ないんすか?」

 小さく噛みしめるように呟かれた言葉。けれどその声の奥にはたしかに、何かが崩れていく音がした。

「大切な人が他の奴に手ェ上げられても、なんも言うなと? ヒーローだから、慎ましくあれと」

 彼は声を抑えていた。怒鳴ってはいなかった。なのに私の胸の奥には容赦なく鋭くも深く、突き刺さった。

「そこには彼氏彼女とか、ヒーローとか市民とかそういうラベルは必要ないと思うんですけどね」
「……」

 私が何も言えずにいると彼はわずかに肩を落とし、呆れとも諦めともつかない響きをまとわせてぽつりとこぼした。

「……そっか。ですよね。そんなもんですよね、あなたにとっての、俺の存在なんて」
「……ごめん。」

 それは反射的な言葉だった。言ってから自分が何に謝ったのかさえ、分からなくなる。

「ごめん?えっと、それはなにに対しての?俺、関係ないんすよね?」

 そっと顔を上げる。しかし言葉とは裏腹に彼は片手で頬杖をつきながらにこりと笑って見せた。けれどその笑顔は作りもののようでいて、どこか脆く見えた。

「……嘘です。ジョーダン。まぁ、ほんと。俺が首突っ込むことじゃなかったですね、すんません」

 冗談の仮面を被ったままそれでも彼は笑った。すると、不思議なことに、その笑顔にほぐされるようにして二人のあいだにはまた目には見えないいつもの穏やかな空気が静かに流れはじめた。

「ねえ。俺さ��待て�≠ヘ得意な方なんですけど。でもやっぱ、ちょっとくらい——」
「……」
「ヒーローとして、イカっちゃダメです?」
「イカんね……ほら、冷めちゃったよ?親子丼」
「うわっ、やば。忘れてた」
「……召し上がれ。」

 私がそう言うと彼はやや困ったような顔で眉を下げ、まるで子どもに戻ったかのように素直に「いただきます」と言って冷めた親子丼をガツガツとかき込んだ。
 その姿に胸の奥に残っていた緊張がすこしだけほどけていって、私は思わず、くすりと笑った。


 *


 悪いニュース欄として彼の名前が並ぶ日が来るなんて、思ってもいなかった。彼のことだから、『今日も大活躍でした』とか、いつかまた、ヒーローランキングの話題で持ちきりになる日が来るとは思っていた。でも、まさか——こんな形で。

【トップヒーロー・暴行容疑!?】
【ヒーローの倫理観はどこへ……?】
【ヒーロー公安、ホークスを警察に一時保護】

 SNSもヒーロー界隈も、その話題一色だった。
もちろん、彼が誰に手を出したのか、そこまでは報じられてはいなかったけれど、私にはわかっていた。……いや、わかるしかなかった。私の瞼にできた、あの傷を見た時の彼の表情。言葉よりも先に感情が動いた、あの瞬間——。


 『ヒーローとして、イカっちゃダメです?』


 あれは冗談でもなんでもなかった。彼なりの、ヒーローの矜持——そして、ずっと胸の奥で抑え込んでいた何かが、とうとう彼のなかで、切れてしまったのだと、私は思った。
 その日、私は、ひとりで警察署に足を運んだ。行き交う警官や職員たちの目がことさら私に向けられているような気がして、足取りは、妙に落ち着かず手元の小さな鞄の持ち手ばかりがやけに重く感じられた。
 応対に出たのは、塚内さんだった。彼——ホークスがここにいるのは、はじめから知っていたしきっと塚内さんなら、この件にも関わっていると踏んでいた。

「塚内さん。彼に、会わせていただけませんか」

 静かに頭を下げると、塚内さんは少しだけ眉を動かして、それから、申し訳なさそうに、視線をそっと逸らした。

「……気持ちはわかります。でも本人が誰にも会いたくないと、そう言っているんです」
「……」
「とくに——オペレーターの彼女が来たら、そう伝えて欲しいと。本人から、直接頼まれました」

 胸の奥に音のない風穴が開く感覚。咄嗟に返事ができなかった。けれど、それ以上しつこく食い下がるのも違う気がして。私は黙って会釈をし、踵を返した。
 帰りの電車の窓に映る自分は、どこか少しだけ疲れ果てた顔をしていた。彼の怒りを、私は止められなかった。でも本当はあのとき、私が言えなかったたったひと言が、彼をここまで追い詰めてしまったのではないかと思う。


『そこには彼氏彼女とか、ヒーローとか市民とかそういうラベルは必要ないと思うんですけどね』


 ただそれだけのありふれた��ヒーローとして�≠フひと言。だけどあの日の私は誰かを安心させるには、あまりにも傷つきすぎていて……今さらになって、ようやく、そのことに気づく。

 二人の距離はまた簡単には越えられないものになってしまった。
 「会いたい」と言えなかった日々よりも「会いたくない」と拒まれた今日のほうがずっと静かに深く心を削っていく。まるでその痛みだけがこれからもしばらく、私の中だけで呼吸を続けていくみたいにして。


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