おそらく——人生でいちばん感情を持て余した瞬間だった。あのとき誰から聞いたわけでもなかった。けれど、彼女のまぶたに刻まれた細い傷を見た瞬間、理由なんて考える前に、身体が動いていた。
 都内の高層ビル内に設けられていたオフィス。受付で「すんません、急用なもんで」と、笑顔で告げると俺が少し名の知れた��ヒーロー�≠セったからか女性事務員がすんなりと、奥の部屋へ案内してくれた。「綺麗なオフィスっすねー」なんて軽口を叩きながら、その後をついていく。
 ガラス扉の前、女性事務員がノックを数回して「お客様です」と、控えめに声をかける。

「お客——?誰かな、今ちょっと手が……」

 言い切る前に俺がいきなり扉を開けた。ガラス張りの瀟洒な一室で男はデスクに向かいパソコンに何かを打ち込んでいた。男の顔は一度見た程度だったけれど会ってすぐにわかった。彼女の過去のどこかにいた形ばかりの優しさを装った人間。その空気は、遠目にもすぐにわかった。

「君は——。」
「……彼女に、何をしたんです?」

 その言葉に、男は面倒くさそうに眉をひそめて立ち上がると、女性事務員に下がっていいと言うように軽く手を翳す。そして二人きりになった途端男は笑った。

「はい? なんの権利があってそんなことを?」

 その一言で意識の底がぐらりと揺れた。思わず拳が上がりそうになる。むしろ、このまま殴ってしまえば楽だったのかもしれない。そんな衝動が一瞬、脳裏をかすめた。だが、それじゃダメだ。自分がいちばんよくわかっている。ただ言葉で。そしてヒーローとして立つ姿勢で圧をかける事はいくらでもできる。

「あなたがどう思っていようと、彼女はもう——あなたの手の中にはいない」
「……」
「それでも彼女は、あなたを選んだ。その事実をあなた自身どう受け止めたらいいか、わかってます?」

 その瞬間、相手の表情にわずかな揺らぎが走った。視線が泳ぎ、それでも無理に形を作った笑みが口元に浮かぶ。そうして俺を頭の先からつま先まで舐めるように見てふっと鼻で笑った。無意識のうちに怒りが剛翼に伝わる。背中の羽根が風をはらんで一気に広がった。空気が変わる。相手は一瞬、目を見開き、そしてすぐに「お見事」と、口にした。だがその声音には明らかに揶揄の色が混じっていた。
 俺は一歩、二歩と間を詰める。踏み込むごとに相手が、わずかに後退る。呼吸が浅くなったその口から、やや矢継ぎ早に言葉がこぼれた。

「あ……あれは、事故だ。俺だって——」

 その言い訳を言い切らせる前に俺は踏み込みもせず、わずかに距離を保ったまま剛翼を緋色の弾丸のように数本、飛ばした。鋭い羽根は一瞬で男の両肩を射抜き背後の壁に縫い付ける。乾いた音がコンクリートの壁に響いた。

「お前——ヒーローだろ!こんなことして……」「腹がたったのならどうして俺を殴らない。直接俺を殴ればいい」
「はっ……?」
「なんで、彼女を傷つける」

 低く吐き捨てると、男は喉の奥で乾いた笑いをこぼした。その笑みには、歪んだ余裕がにじんでいた。俺は眉間に深く皺を刻む。

「はっ……安心したよ」
「……は? 安心?」
「ああ。どうやらお前は名前が惹かれるタイプのヒーローじゃないらしい」
「……」
「どうせ——下品で、粗野なヒーローなんだろ。トップヒーローが聞いて呆れる」
「……っ」

 胸の奥にじわりと滲んだ熱が瞬く間に怒りへと変わる。思わず舌打ちが漏れた。羽根を通して伝わる感触に力を込めると、壁に押し付けられた男の体がわずかに軋み、うめき声が上がる。だがそいつはその苦しみすら楽しむようにまた嗤った。

「魔が、差したんだよ。……ただの、遊びさ」
「……」
「残念だったなヒーロー。今回はお前の負けだ」
「……」
「彼女は、俺と——結婚する。」

 その口元に浮かぶ薄笑いが、どこまでも浅く、どこまでも卑しい。背後で、女性事務員が異変に気づき、慌てて駆け寄ってきたが吊るし上げられた男の姿を見た瞬間、短い悲鳴を上げ、助けを呼びに走り去った。足音が遠ざかるのを耳の端で捉えながら、俺はゆっくりと歩み寄り、壁に押し付けられ、羽根で固定されたその男を真っ直ぐに睨み据えた。

「勝手な言い草で申しわけない。でも——彼女の名誉のために答えてあげますよ」
「……」
「あと、俺のヒーローとしてのプライドにかけて誓う」
「……」
「俺と彼女のあいだに、過ちなんてひとつもなかった。あったのは、ただ——真実だけだ」
「——!」
「俺と彼女は、真実で結ばれていた。俺と彼女の間で起こったすべての出来事が——真実だった」

 その言葉は拳よりも鋭く、相手の胸を撃ち抜くために放たれた。俺は静かに剛翼を解く。支えを失った男は、だらりと床に崩れ落ちて、荒く息を吐いた。もう一歩、間を詰める。そして、視線の高さを合わせるようにしゃがみ込み左手を広げて剛翼を扇状に展開しその影で男の視界を覆った。

「……わかった。わかったから、もう……やめてくれ——っ!」

 朦朧とした意識の中、あえぎながら男が掠れた声を漏らす。

「俺がここに来たのはあんたみたいに暴力で片をつけるためじゃない。警告するためです」
「……」
「——ヒーローとしてのね。」
「……」
「これ以上、彼女を傷つけるような真似をしたら次は本気で……俺たち(・・・)の仕事になりますんで」

 その声は低く抑えながらも、逃げ場を与えない硬さを帯びていた。背後から駆け込んできた数人の男たちは場の張り詰めた空気に呑まれ、ただ、その場に立ち尽くしている。俺は、バサリと音を立てて羽根を背に収めて立ち上がりその場を後にした。室内には、まだ何枚もの剛翼が漂い、わずかな揺らぎと共に緋色の残像を空中に描き続けていた。


 *


 仕事を終えて、私は一人で喫茶店に向かった。店内に漂うコーヒーの香りの中で席につき、オーダーを済ませる。バッグから手鏡を取り出して、そっと右の瞼に指先を当てた。ファンデーションの下に隠された傷跡は、まだわずかに腫れていて触れるとほんのり熱を帯びている。
 しばらくすると、カランと軽やかなドアベルが鳴り、入ってきた一人の男性が、迷わず私の前の席に腰を下ろした。湯気を上げるカップが運ばれてくるよりも早く、私は切り出した。

「——告訴を、取り下げてもらえない?」

 その瞬間、彼の表情が、わずかに硬くなった。驚きというより、どこかで予想していたような、そんな色だった。

「……やっぱり、まだ好きなんだろ?」

 落ちてきたその言葉は刃のような鋭さではなく重力に従ってまっすぐ落ちてきて心の奥で小さな音を立てた。私は静かに、しかしはっきりと首を横に振る。

「違う。……そういう感情じゃない」

 そう言ったあと私は、少し唇を噛んで、呼吸を整えてから言葉を続けた。

「お願い。これは、あなたにしか頼めない」

 彼は眉根をひそめて、短く息を吐いた。

「ここに来る前、直接電話でも聞いたけど……。君の言うことは、とても正気とは思えないね」

 その声音に反論の糸口を探すが、言葉はまだ、見つからなかった。

「職場だぞ?その事務所で、一方的に暴力を振るわれたんだ。みんなも見ていた。わかるか?」
「……」
「そりゃ裁判沙汰にはしたくない気持ちは俺にもある。でも……変な噂で大手からの商談も白紙になりかねない」

 言いながら彼は、苦く笑った。そして、溜め息混じりに吐き捨てた。

「まるで、暴力団だ。もしかしたらヒーローたちだって、実は裏の組織と繋がっていて——」
「彼は、そんな人たちとは違う」
「どこが違うって言うんだ?無抵抗な一般市民を一方的に。彼らは俺たち一般市民を守る側の人間だろ」

 私は、黙るしかなかった。沈黙のあと彼は一旦冷静になろうとしたのか店員を呼びつけてホットコーヒーを注文した。

「君の気持ちがわからない。彼を、助けてくれと言うが、だったら俺はどうなる?このまま、泣き寝入りしろとでも?」
「違う、そうじゃない。彼は私たちと同じ立場の人間なの。仲間なの。」
「……」
「ヒーローが手薄な今——彼のような優秀なヒーローが欠けたら、困るだけ」

 彼は納得できないとでも言いたげに、短く鼻を鳴らした。

「それは詭弁さ。君の本当の気持ちとは思えない」
「……そうだよね。ごめん。でも私、彼を留置所から出してあげたいの。だけどそれは、恋愛感情とは違う」
「……」
「彼には、ヒーローしかないの……それを奪ってしまうのは、気の毒だと思うだけ」

 彼は視線を逸らし苦い笑みを浮かべた。そして小さく呟く。

「俺には……ただの言い訳にしか聞こえないね」
「それでも構わない。信じてくれとは言わない」
「……」
「でも、もし……もう一度だけ。私を信じてもらえるなら——」

 声がわずかに震えるのを自分でも抑えられなかった。それでも、私は続けた。

「私は……彼から、ヒーローという肩書きを奪うことはできない。たとえ彼がどんな間違いをしてしまったとしても」

 言葉を紡ぎながら、胸の奥にずっと沈んでいた確信が、ゆっくりと浮かび上がってくる。

「あの人がそれを失ってしまうことは自分自身を失うことと同じだから」

 沈黙が落ちた。彼は、何かを探るようにじっと私を見つめていた。まるで、今の私が嘘をついていないか心の奥まで覗き込もうとしているようにして。

「本当に、それだけかい?」
「うん」
「信じられないね。彼は釈放されて君たちは手を取り合って喜び合う。そうじゃないのか?」
「ううん、違うよ」
「君を、あんな男にさらわれた挙句、俺は一人。そんなのはごめんだ」
「……」
「変なプライドで言っているんじゃない。俺は、今でも君が——」

 もう言葉の続きを聞きたくなくて、私はそっと彼の手に触れた。

「私を信じて」
「信じた結果がこれさ」

 その声は苦かった。それでも私はもう一度だけと願うように、囁いた。

「お願い——もう一度だけ、信じてほしい」

 彼が私の瞳をまっすぐに覗き込んでいた。沈黙の奥で何かを測るように。私はかすかに笑った。あのヒーローがどんなふうに笑えば子供みたいに嬉しそうに目を細めるのか——その顔を胸の奥でそっと、思い出しながら。

「……彼のヒーローの道を、奪わないであげて。お願いします。」

 声はもう震えていなかった。でも胸の奥で何かが小さく軋んだ音が、自分だけにははっきりと、聞こえていた。


 *


 人間は弱い生き物だ。どこかで、自分に優しい言い訳を探してしまう。一度負ければ、悔しい。だが二度目三度目と重ねればその悔しさは次第に薄れていく。「精一杯やればいい」と自分に都合のいい言葉を盾にして、いつのまにか「負けてもいい」という前提を抱え込んでしまう。それが、最後の分かれ道になる——��勝者�≠ニ��敗者�≠�分ける、境界線だ。
 守ったつもりだった。だがそれが本当に彼女のためだったのか——今はもう、自分でも答えられない。

 膝を抱えて項垂れ、何度目かもわからない溜め息をゆっくりと吐き出す。湿った空気が、肺の奥で重く滞り、出口を探すように喉を抜けていった。
 そのとき、ガチャリと留置場の鍵が外れる音が響いた。反射的に顔を上げると、そこには、塚内さんが立っていた。無言のまま錠を外しクイッと顎をしゃくって「出ていいよ」と、合図を送る。そして短く「あっち」とだけ言って指先で方向を示す。俺は頷き、示された先へ向かうために静かにその背中を追った。

「……取り下げぇ?」

 部屋の中。塚内さんの口から出たその一言に、俺は一瞬、耳を疑った。なんとも素っ頓狂な声が自分の喉から漏れる。何かの聞き間違いだと思いたかったが彼は間違いなく、ゆっくりと首を縦に振った。

「正式にもう処分の必要はないと判断されたよ。公安はお怒りモードだけどね。……君は今日から自由の身だ」
「……え。公安が動いたんじゃないんです?」
「違うよ」
「じゃあ──いったい誰が、そんなことを」

 問いかける声が知らず低くなる。塚内さんは、ふっと肩をすくめて首を横に振った。

「言えないんだ、それは。……まあ、でも君なら心当たりがあるんじゃない?」

 胸の奥がひどくざわついた。誰かの顔が瞬間的に脳裏をかすめる。それはまるで、風がひとすじ通り抜けたような感覚だった。たったひとこと、その名を呼ぶ前に、ふっと浮かんだ人物がひとりだけいた。……でも、そんなはずはない。ありえない。その思考を慌てて頭のなかから引き剥がすように、無理やりかき消した。
 あの男は、地位や名誉を何よりも重んじる人間だ。きっと、自分の周囲からの目を気にして──それだけの理由で告訴を取り下げる決断を下したのだろう。……うん。きっと、そうに違いない。


 *


 あのいけすかない男が警察に「ヒーローに暴行を加えられた」と伝えたと後から耳にした。だが監視映像には証拠は残っておらず、公安も、正式な処分には踏み切らなかった。代わりに俺の名前はグレーな噂として、SNSの海を、ゆらゆらと漂い続けた。
 でも、それでいいと思った。彼女の傷の重さに比べれば自分の評判など、はるかに軽い。けれどあの日、わざわざ会いに来てくれた彼女に「会いたくない」と突き放してしまったのは、きっと、自分のやり方に、もう限界が見えていたからだ。

 本当は、彼女に合鍵を渡しに寄るだけのつもりだった。なのに気づけばこうして長居をしてしまっている。帰れば仕事は山積みだろう……そんな現実が頭の片隅をちらつきながら俺はジーニストさんとファットさんとその日の夜、一緒に、東京プチ休暇の締めくくりとなる夕食を囲んでいた。

「お勤め、ご苦労さんやったなぁ〜、ホークス」

 ファットさんが愉快そうに笑いながら俺の肩をぽんぽんと叩く。その大きな手の感触を片手で、俺は鬱陶しそうに払いのけた。

「色々と……大変だったようだね」

 ジーニストさんが静かに、けれど労わる響きを含んだ声でそう言った。

「まあ……ですね」
「塚内さんから聞いたよ。彼女、婚約者に告訴の取り下げを願い出たんだってね」

 ジーニストさんはいつものように飄々と装っていた。だがその声の奥底には、どうしても隠しきれない真実の重みが滲んでいた。

「いい気分ではなかっただろうね。理不尽な事でわざわざ他人に頭を下げるなんて……好んでやる者はいない」
「……」
「感謝しないといけない。君の告訴を取り下げてもらうために、彼女が下した正義ってやつを」
「……は?」

 呼吸が止まった。うまく聞き返せなかったのは胸の奥で、それをあってほしくないこととして、本能的に拒絶していたからだ。確かに一瞬は想像したりもした。でもそれは自分自身に都合のいい解釈だって……。彼女があの男の前でどんな顔をしたのか。なぜ自分には何も言わずにそんな事をしたのか。考えた瞬間、なにもかもが急に、色を失った気がした。

「……なんで、」

 こぼれた声は、情けないほど震えていた。涙が込み上げるのを誤魔化すように帽子のつばを深く下げる。今、自分がなにを守ろうとしていたのかすらも、もうわからない。全身の血が、逆流するような感覚の中、不意に塚内さんの言葉が鮮明に蘇った。


 『でも君なら心当たりがあるんじゃない?』


 自分が何をしたのか。どうして、あんな場所にぶち込まれたのか──痛いほど、わかっていた。彼女が動いたのだ。彼女が、また、自分を……。

「すんません、帰ります!」

 俺はそれだけ言い置いて、席を立った。急いで外に出ると曇り空はまだ薄く光を残し風はどこか湿っていた。その空気を切るように飛び、気づけば彼女の部屋のインターホンの前に立っていた。胸の内は、怒涛のように騒がしかった。べつに、謝りたかったわけじゃない。ただ、ただ……会いたかった。話したかった。ほんとうに、それだけだった。……けれど。

「ごめん。もう──会えない」

 インターホン越しの声は、静かだった。淡々としていて、そしてどこか、遠かった。

「ねぇ……何が、あったんです?」
「……」
「あなたですよね? それしか、考えられん」

 試すような言葉を投げかけて、申し訳ないとは思う。それでも本人の口から事実を聞きたかった。しかし問いかけても応答はない。沈黙が流れ足音ひとつすら戻ってこなかった。それでも帰れなかった。彼女の部屋のドアを背に俺はしばらくその場を動けずにいた。
 風が髪を揺らすたび、思った。あのとき彼女がどんな顔で誰と向き合ったのか。どんな気持ちで自分を救おうとしたのか。そしてなぜ今になって会おうとしないのか。自由になったこの足でまず会いに来た相手が一番、遠くにいるなんて……。
 しかしそれから一向にドアが開くことはなく、俺は仕方なく、その場を後にしたのだった。

 ——翌日。
 福岡へ戻る前に、最後にもう一度だけ、彼女の部屋の前まで来た。けれど、やっぱりチャイムは押せなかった。
 会いに来てほしくなかっただろう。もう俺には会いたくもないだろう。でも、このまま黙ってはいられなかった。手紙を書くには、感情が多すぎた。電話をするには声が震えすぎていた。だから代わりに、ただひとつ。彼女のドアノブに静かに羽根を一枚、結びつけた。何も言えなくても何も答えてくれなくても、やっぱりこれだけは最後にどうしても伝えたかった。ありがとう——って。


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