——その日の夜。
帰宅してコートを脱ぎ、鞄を定位置に揃える。何気なく引き出しを開けるとまだそこにあった、小さな赤い羽根。彼のもので、でも今は私の手元にあるもの。目を閉じれば、胸の奥で彼の声が、静かに響く。──ありがとう、って。
その言葉に、私は何度、救われてきただろう。たぶん彼も同じように思ってくれていたらいい。もう戻れないけれど、それでもいい。ほんの少しずつ歩いていけたら、そう願う。
来世では、恋になるかもしれない。でも今は、ただ信じるということから始めてみようと思う。
次の休みの日。午後から私は、街へ出かけた。交差点で足を止めると向こう側に彼がいて、手を振っていた。自然と私も笑顔になる。そして肩を並べて向かった先は、ドレスショップ。カーテンを引いた内側。鏡のなかに立っているのは——ウェディングドレスをまとった自分。白すぎるほどの布地が光を受けてわずかにきらめく。その空気はまるでこの部屋だけが別の世界にあるようで……どうしたって、少し場違いな気がした。
「……似合ってるよ」
そう言った彼の声もどこか遠くに感じた。笑ってみせる。うまく笑えていたかは、わからない。けれど、鏡の中の私はたしかに、笑っていた。
こんな私の姿を見たら、あのヒーローはどんな顔をするのだろう。きっと、いつものように興奮気味にスマホを構えて、パシャパシャと容赦なく連写するに違いない。
「天使」「女神」「お姫様」──と女性が喜びそうなフレーズを、これでもかというほど惜しみなく並べて。ああ……容易にその光景が目に浮かんでしまう自分が、憎たらしい。
「名前、それも着てみたら?」
「うん」
私が試着室に戻り新しいドレスへと着替える。布地を整え、深呼吸をひとつ。そしてカーテンを開けて再び彼の目の前に、姿を現した。
「……綺麗だよ。とても」
「ありがとう」
「ああ……俺は、君の何を見ていたんだろう」
「え?」
「名前……」
「うん?」
「すまなかった」
「え……なに?」
「俺たち、別れよう——」
私はその言葉に、何も返せなかった。けれど、どうしてだろう、驚きはなかった。ただ指先が、ドレスの滑らかな布地を、無意識に撫でる。その動きはまるでこれから袖を通すはずだった誰かの未来を、もうすでに静かに手放してしまった証のように思えた。息を深く吸う。そしてようやく、私はゆっくりと頷いた。
店を出て、私たちは、並木道を並んで歩いた。午後の光に染まる葉の影が、地面にまだら模様を描いている。そして、しばらく沈黙ののち、彼がそっと、口を開いた。
「俺は本当に君の何をみていたんだろうね。たいしたわがままも言わない、きっと子供ができたらいい母親になる。家庭的で、何があっても、俺に従うのだろうと」
「……」
「俺は君のことをその程度にしかみていなかったんだ。はっきり言うと、俺にも大事に思っている子がいた。でも……ちゃんとその子を大切にしてやれなかった」
「……」
「君のドレス姿を見て気づいたんだ。君も、そうなんじゃないかな」
「……」
「君のことを愛していない。結婚はできない」
不意に彼は立ち止まり静かにそう言った。心臓の奥が一瞬だけじんと痛む。けれど不思議と悲しくはなかった。ただ長く続いた霧がようやく晴れたような感覚だけがあった。
「今になって君のことを少しだけ理解できた気がするんだ。……遅すぎたけどね。」
その声音は淡々としているのに、どこか遠くを見ているようだった。私はなぜか涙をこぼしながら、首を何度も横に振った。否定したくて、でも言葉にならなかった。
「君は俺が留守のあいだに寂しさに負けて流されたのだろうなと思っていた。でも、それは違う。君は、そういう人じゃない」
静かな声が胸の奥に染みていく。私は唇を噛み視線をそっと落とした。
「あんなに見苦しい態度を取ったこの俺を、もう一度、愛そうとしてくれたんだからね」
その一言に、胸の奥が締めつけられる。返事をしようとしたが息ばかりが漏れて、言葉にはならない。
「君は、彼に心から惹かれたんだろう。俺は運命なんてものは信じないが、もしかしたら君たちはそういうものなのかもしれない」
「……」
「一時でも自分の人生を相手のために投げ出そうとしたんだからね。俺には、できないことだ」
瞳を上げると彼はわずかに笑った。その笑みがあまりに穏やかで、余計に涙がこぼれる。
「さあ、もう行っていい……彼のところへ」
「……、」
「愛しい、あのヒーローのもとへ——。」
言葉を重ねられるたびに、胸の奥に溜めていた涙があふれて止まらなかった。私はただ声にならない声を漏らしながら、立ち尽くしていた。長い沈黙ののち彼は視線を逸らし、かすかに肩を落とした。
「……さよう、なら。」
それだけがかろうじて喉の奥から漏れた。声にした瞬間、胸の奥に沈んでいた何かが、音もなく崩れ落ちていくのを感じた。彼は静かに頷いた。そして何も言わず、そのまま私に背を向けて、歩き出す。足音が一定のリズムで遠ざかっていく。その背中は、振り返ることも、立ち止まることもなかった。
私はその場に、崩れるようにしゃがみ込んで、そして、堰を切ったように、声を上げて泣いた。嗚咽が止まらなかった。それは、今まで胸の奥に閉じ込めていたすべてが、ようやく外に溢れ出たような涙だった。
*
数週間後、ある曇りの日。空は、ぱっとしないままで、天気予報の『晴れ』という言葉がまるで嘘のように重たい雲が、低く垂れこめていた。
風だけが妙に冷たく、季節がひとつ、気づかぬうちに変わりかけていることを知らせているようだった。センターのロビーで、書類を受付に提出した、ちょうどそのとき。背後から聞こえたのは久方ぶりに聞いたずいぶんと耳に残る、あの声。
「どーもー」
その軽い響きに、反射的に心が揺れる。名前を呼ばれたわけではないのに、身体が記憶しているのだ——彼の、声を。
「名前さん」
そして名前を呼ばれただけで胸の奥がかすかに跳ねる。もう何度目だろう。この名前の響きに、私はいつも弱い。自分自身の名前なのに。
振り返るとそこには少しだけ髪を短くした彼が立っていた。以前よりも、わずかに痩せた気がした。でもそのぶん瞳の奥には前よりもくっきりとした輪郭が戻っているように見えた。
「元気でした?」
そう尋ねられて、私は少しだけ間を置いてから答える。
「ぼちぼち。あなたは?」
「うん、俺も。ぼちぼち」
ただそれだけの十数秒のやりとり。なのにどうしてだろう、胸の奥が、煩いくらいにざわめく。
ふたりのあいだに、沈黙が落ちる。先にそれを破ったのは、彼だった。
「あの羽根、まだ持っててくれたりしますー?」
「……うん。ちゃんと、あるよ」
「そっか。あれね、捨ててもらっていいんで」
「え……」
顔を向き合わせているのに今日の彼とは一度も目が合わない。それが、妙に不安だった。
「あ、言っときますけど今日ここに顔出したのも深い意味はないんで。ちょっと公安に用があったそのついでです」
わざとらしい軽さが、逆に胸に引っかかる。
「ただ、なんていうか。これからもあなたとは、仕事上でも顔を合わせると思うんで、周りに気を遣われるのもめんどくさいですし」
「うん……」
「だからもうこうやって、直接会って、わーっと話しちゃった方がいいかなって。ほら、よくあるじゃないっすか、別れてもお友達? 的なやつ」
「……うん」
「あなたもそっちの方が楽でしょう。なんつーかほんと、すんませんでした」
彼の言葉は、まるで、言い訳のように重なっていく。でも私はただ首を横に振るしかなかった。
「……ホークスは、何も悪くない。私が……私が全部いけなかった。ごめん——」
「謝らんで」
「……」
「いい……謝ったりしないで、ほんと。」
その声は珍しく強くて、そして、隠しきれない優しさを孕んでいた。気がつけば、周囲には誰もいなくなっていた。ただ、私と彼だけ。
「俺、なんか……不思議なんですけど。よかったなって思ってるんですよ、いやマジで」
「……」
「結婚の話、進んでます? 指輪は……あ、まだしてないんすねぇー。100カラットくらいの?つけちゃう感じで?」
わざとらしく冗談めかして自分の顔の前に左手を掲げ、その薬指をくいくいと動かしてみせた彼に私は一歩だけ、心の距離を置いた。
「あのね、こんなこと言うと余計に嫌われちゃうかもしれないけど……」
そう口を開きかけた私を彼が、先に軽く遮る。
「いやほんと良かったですねー。待ってた甲斐があったな〜って、自分でも思いません?」
「でも、あのとき、ホークスが——」
「いやいやー!俺なんて選ばなくて正解っすよ。まぁー、ゲームみたいなもんなんで」
その言い草に、私は小さく息をのむ。そして、やや眉間に皺を寄せて聞き返した。
「ゲーム……?」
「そっ。終わっちゃったら一緒っすねー。ゲームオーバー。アルバムに同じサイズに挟んでいずれセピア色に褪せる」
その言葉が冗談なのか本気なのかすぐには判断できなかった。ただ胸の奥に小さな棘が刺さったような痛みだけが残る。
「残酷なようですけど、あなたのことも、それと一緒になる。俺は、そういう人間です」
「……」
「最速! 速すぎる男。なんと、女性に手を出すのも速すぎる男だった〜っ! なんつってね」
「違うよ……ホークスは——」
「マジな恋愛なんか向いてないし、実のところ、望んでもなかったりして」
否定の言葉を口にしても彼の表情は崩れない。笑っているようで、どこか冷めた目をしていた。
「あんま、深入りとかしたくないタイプでして」
「……」
「けど、まぁ、所詮は男と女っす。時間が経てば、なんとやら〜ってね」
私は言葉を返すこともできずにただ無言で首を横に振った。その仕草ひとつに自分でも驚くほどたくさんの思いがこもっていた気がした。そんなふうに簡単に終われるものじゃない、と。少なくとも私は、そうは思えなかったから。
「あ、そうそう。大事なこと言い忘れてました」
その軽やかさのなかに、ほんの一瞬だけ沈んだ影を見た気がした。
「おめでとうございます。結婚とか、いろいろ」
「……」
「とっても、と〜〜っても後悔してます。反省してます。そう婚約者さんに伝えといてください」
「……」
「でも、ホッとしました、なんか。だってほら、危なくあなたの人生、台無しにするところだったかもしれないんで」
「私も、そう思う」
「あー、うん。ええ……」
「ホークスに合う女の子なんか……この世界中のどこにもいないと思う」
その言葉に、彼は一瞬だけ眉をひそめ、すぐに肩をすくめて笑った。
「えっ? あー、そっちかー」
「だって、ホークスはずるいから」
「……」
「ホークスは、ずるいよ」
私は言葉を選びながら、それでも逃さないように声にした。
「自分は、誰も愛そうとしない。誰にも本当の心なんて、見せようともしない」
「……」
「私にだって……最後の最後まで、見せてくれなかったじゃない」
その瞬間やっと彼と視線が重なった。その瞳の奥にどこか、懐かしい色を見た。涙が込み上げてきたけれど、私はぐっと堪えた。彼はふっと目を伏せて溜め息まじりに、小さく呟く。
「……っすね。そうかもしれない」
そうして彼はふいに私の背後にある窓の向こう──遠くに霞む空を見つめるように、わずかに、目を細めて言った。
「さてと……さよならです。これがほんとに最後」
その言葉に私は何も言えなかった。なにか声を探そうとしても、また喉の奥で固まってしまう。
「あー、もう。こんなベラベラ喋ってる自分にもうんざりなんすよー。それに、こんなシチュエーションにも」
「……」
「もういいっすよね? 質問は? エニークエスチョン?」
冗談めかす声色とは裏腹に、その目の奥がやっぱり、笑っていない気がした。
「オーケー!ノークエスチョン! はい、じゃあ笑って、バイバイです」
「……ほんとに、おなじサイズなの?」
「あら残念。もう質問は受け付けてませーんっ」
「私も、その他大勢のゲームの子たちと一緒?」
「ええ、はい」
「セピア色に、褪せていく?」
「うん、ですねぇ」
「そう……」
彼女は踵を返し、その背中がすっと遠ざかっていく。どこか迷いのない足取りで。その後ろ姿をずっとこの場所から見つめていた。それでも俺の中には、置き去りのような風が吹き抜けていた。──もう、追わない。もう……追えない。
静かになった、ロビーの片隅、残されたままの空気の中で、俺はぽつりとひとりごちる。
「ただし……うっすら光るかもしれない。なぜか毎年一枚だけ。出会った頃の、あの季節には。」
俺はふうと長く息を吐いた。吸い込んだ空気はやけに冷たくて喉の奥で何かを引っかけるように鈍く痛んだ。
ふと気づけば掌には羽根が一枚残されていた。彼女に、預けたはずのもの?まさか、ずっと持ち歩いていてくれた?いや、そんな都合のいい話があるわけない。なのに、これがいつ、どの瞬間に戻ってきたのかどうしても思い出せない。いや、思い出すつもりもなかった。ただただこの羽根の軽さだけが今は妙に重たくて、やけに温かくて、ひどく——痛かった。
「……同じなわけ、なかよな」
静かに誰にも届かない声で呟いた。誰の耳にも届かないように、でも確かに、自分自身の心の奥には突き刺さる言葉だった。
「はぁ……。なぁんでこげんふうにしか、できんっちゃろう……」
情けなく、ついひとりごとが口を突いて出た。センターの自動ドアが静かに閉まる音が、やけに遠く感じられる。ここから先、彼女がどう歩いて行ったのか、もう見えやしないのに、瞼の裏にはまだ、彼女の後ろ姿が焼き付いて離れなかった。
掌の羽根を見つめながら、俺はそっとそれを、ジャケットの内ポケットにしまった。あれほど、「捨ててもらっていい」と言ったくせにこうしてまた自分のもとに戻して、しれっと持ち帰ろうとしている自分がいる。まるで未練の塊だ。
——誰も、愛そうとしない。
それはずっと前からわかっていたことだった。愛されることにも慣れていないし与えることにも臆病で、誰かに��すべて�≠�見せることが怖くてしかたなかった。
でも彼女は、そんな自分を怖がりもせず優しく包もうとしてくれていた。
あの日、右か左を選ぶ前に『言っておかなきゃいけないことがあるの』と震える声で話し始めた彼女を、ちゃんと最後まで見ていたはずだった。けれど本当は、聞くふりをして逃げたのは自分のほうだったのかもしれない。
風がまたひとつ、足元をすり抜けていく。ぐずついた空が、ほんのすこしだけ明るくなった気がして、俺は顔を上げた。これが、ほんとに最後。笑ってバイバイ、だなんて、よく言えたもんだ。なんなん、ほんと。腐ってるのは誰でもない——俺自身だ。
「そんなん……、思ってもないくせして——」
そうまた、誰に聞かせるでもなく呟いて、俺はその場をあとにした。背中にはまだ、ひとすじの風が通っていた。もう、彼女が指で撫でてくれることのない俺の個性であるその剛翼の羽根の奥にまで——。
思わず小さく笑ってしまった。そしてなぜか、安心したように目を細めた。
なにも戻っていない。でも、なにも終わってもいない。そんな気もした。