テレビのニュースに彼が映し出される機会が、最近やたらと増えた気がしている。画面には凛とした彼の横顔が映っていた。背中の剛翼が画面に揺れる。やや短くなった前髪を無造作に指で払ってからホークスはスタジオの柔らかな光の下で、インタビュアーの問いに、穏やかに笑みを向けて応えていた。
『最近は、ヒーロー活動も安定されていますね』
『あー。まぁ、そーかもですねー』
『今後の目標などあればお聞かせください』
『目標かぁ……ヒーローが暇を持て余す世の中にしたいんすよ。これ俺のモットー』
『確実に近づいてると思いますよ』
『なら、よかったです』
『どなたか、支えがいらっしゃるのでは? 恋人ですか?』
数秒の沈黙。スタジオに響くのはカメラの回る機械音と静かな空調だけだった。彼はやや片眉を上げ、あの軽やかな口調で答えた。
『……さあ、それはどうですかねぇ。ご想像に、お任せしますよ』
『実はSNSでも、あるワードがトレンド入りしているんですよ?』
『え、どんなです?』
『��ホークス・ピアス・羽根モチーフ�≠フ、三点セットです』
『あー!あれね。お守りなんすよ。たまに付けてみたりなんかしちゃったりなんかして』
『では、噂は本当だったんですね?』
『まあ、はい。それ、今も持ち歩いてますよー』
笑いながら胸ポケットに手を差し入れる。その指先が、あの銀色の小さなものをそっと探る——まさに、その瞬間だった。
——ぱちん。
室内にリモコンの乾いた音が響き、それと共に画面が闇に包まれる。私はその実物を見る前に、静かにテレビを消した。手元のリモコンを、テーブルの上に置く。部屋にはカーテン越しの夕光が淡く差し込んでいる。机の上には、たったひとつ残ったピアスの片割れ。もうひとつは、あの人が今も持っているという。そう思ったら、胸の奥がひどくざわめいた。
あんなふうに、笑うんだなぁ……。今の彼は、もう、過去の
私は指先で自分の耳元をなぞる。そこにはもうない、小さな銀の軌跡を確かめるように——。
『——ただし、一枚だけ、黄金色に光るかもしれませんね。……出会った頃の、あの季節には』
ふと自分で口にしたはずのその言葉が胸の奥を静かにかすめていった。私はゆっくりと窓を開ける。風が頬を撫でてすり抜け、薄いカーテンを、優しく揺らした。それでも——あのピアスのもう片方が今もきっと彼のポケットのどこかにあるという事実だけが、心のどこかをじんわりとあたためていた。たとえそれはもう、交わることのない未来だとしても、あのヒーローと私がたしかに、一度は重なったという証が、いまもどこかで光を宿している気がした。
私は目を閉じる。ほんの、すこしだけ。ほんのすこしだけでよかった……。そうしてまた日常の静けさへと、溶けていったのだった。
*
朝の空気がいつもよりも、冷たく感じた。肌をかすめる風が、やけに素っ気なくて、まるで——昨夜の名残りがそのまま地続きで続いているかのようだった。
あの日──彼が「深い意味はない」と笑って、会いに来た日。私の手はほんの少しだけ、迷ってしまった。たった一歩、たった数秒。その躊躇いが、すべてを遅らせ、すべてを取り逃がす結果になるなんてどうしてあの瞬間、気づけなかったのだろう。
胸の奥がじんと痛む。まぶたの裏に焼きついた彼の笑顔が消えない。あんな顔を私は見たことがなかった。あんな声を、あんなふうに笑顔を震わせた彼の姿も——。それなのに、私は……。
「……行こう。」
誰に言うでもなくぽつりと零した私は着替えを済ませると、静かに家を出た。朝の光がまだやわらかく滲む、大通り。ビルの谷間に差し込む光が舗道を淡く照らし、行き交う人々の足音だけが、街の目覚めを告げている。そんな静けさの中で、私はようやく心のどこかでひとつの決意を固めていた。
——会いに行く。もう逃げない。
そんなとき、進行方向の少し先で人垣がゆるく割れる。その中心に立っていたのは、淡い金髪に精緻なデニムのスーツをまとった長身の
「……お疲れ様です、ベストジーニスト。」
「こんな場所で会うとは奇遇ですね。これから、出社かな?」
何気ない挨拶を交わしたそのとき、背後の大型ビジョンが、街の空気を塗り替えた。ビルの壁面いっぱいに映し出されたのは、空を翔ける緋色の翼——ホークス。強風を裂き、救助活動を続けるその耳には、見覚えのある小さな光がきらめいている。胸が詰まる。あれは私が片方落としてしまった、あのピアスのもう一つの片割れだ。
「……怒ってるんですよ。」
思わず口をついて出たその言葉には、自分でもわかるくらい、かすかな苦笑いが混じっていた。私は大型ビジョンに映し出されたその姿をまるで何か遠い景色でも眺めるように、ぼんやりと見つめていた。
「わざと……見せつけるみたいにしてつけてる。そういう人なのかもしれません、実際の彼は」
隣に立つベストジーニストは、私と同じようにしばらく大型ビジョンを見上げたまま、何も答えなかった。朝の騒がしい往来の中、私たちの間にだけぽっかりと静かな時間が流れていた。やがて私は視線を落とし、ぽつりと呟く。
「『恋愛は幸福を殺し、幸福は恋愛を殺す』」
「……ん?」
「昔の人が言ってました。……好きと幸せは両立しないってことですかね」
言葉が宙に溶けるように消えていく。そのあとベストジーニストが低く落ち着いた声で言った。
「あれは——怒りじゃない」
「……え?」
「祈りだよ」
風が一瞬だけ、耳元を通り過ぎる。そのたった一文字の差が、こんなにも意味を変える。
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視線を上げる。空の中の彼は何かを守るように翼を広げ、その耳元で私の失くした光を静かに揺らしていた。胸の奥がゆっくりとしかし確実に熱を帯びていく。
祈り……そうだ、あれは私への。私を見つけるための。私がまだここにいると信じてくれている証——。気づけば足が、前へ出ていた。大型ビジョンの中の彼を一秒でも早くこの目で見たくて、確かめたくて、胸の鼓動が焦るように速くなる。
人混みをすり抜け、大通りを駆け出そうとしたその背中に、声がかかった。
「……いってらっしゃい。お幸せに。」
振り返らなくても誰の声かはわかった。彼——ベストジーニストの声音は、ただ静かに、けれど何かを察したような確信を帯びていた。その言葉に背を押されるように、私は足を速める。冷たいアスファルトが足の裏に響くたび、心の中で同じ言葉を繰り返していた。まだ間に合う、いまならまだ、間に合う、と——。
交差点を渡ると東京の空には珍しく遠く高くを舞う鷹の翼が見えた。朝の陽射しを受けて、一瞬だけ、白金色にきらめく。その瞬間、彼がふいにこちらを振り返ったような錯覚さえ覚えた。耳元で私の片割れのピアスが朝の光を受けてきらりと光る、そんな光景を想像しながら。
──待ってて。
息を切らしながら、それでも、もう迷いのない足取りで私は、彼のいる場所へ向かっていた。
空港へ向かう電車の窓の外を、色のない景色が通り過ぎていく。揺れる車内でふと思い出すのは彼が前に教えてくれた、秘密の場所。帰り道に、ぽつりと打ち明けてくれた、とっておきの、案内したい場所。そこに連れて行きたいのだと言っていた彼の声。それは高台にあるただの空き地だった。けれどそこから見える空はまるで星が降ってくるかのように瞬いていた。
『今度、いいとこ案内します』
『星が落ちそうなくらい見えるとこ』
あの言葉がずっと胸に残っていた。そして約束通り彼は本当に私をそこへ連れて行ってくれた。
思い出にしてしまうには、美しすぎて。未練が濃すぎて心が何度も引き戻される。電車の中でも空港でも、機内でも同じだった。何度もスマホを開いては閉じ、メッセージを打っては削除する。
『会いたい』
——たったその一言が、どうしてこんなにも、苦しいのだろう。それでも、今だけは伝えたい。届かなくても、残したかった。
福岡空港に着いてからはほとんど夢中で歩いていた。彼が過ごしているこの街。陽の光がビルの隙間から差し込んで世界は何事もなかったように澄み切っているのに、私の心だけが濁っていた。あのとき迷わず鍵を選んでいたら何かが変わっていただろうか。
足が止まったのは、あの見覚えのあるマンションの前。彼から手渡された鍵は今も私の左ポケットの中にある。あの日、彼が「どっちか選んでもらえませんか?」と照れくさそうに言った言葉。けれど、それすら私はまっすぐに受け取ることができなかった。
静かなエントランス内。インターホンが淡々とそこに佇んでいる。このボタンを押せばきっと、彼の部屋に繋がる。それだけのことなのに、指はなかなか動かなかった。心臓の音がうるさくて、自分の呼吸の仕方さえ忘れそうになる。それでも私は彼に、会いたい。まだ、間に合うのなら。
小さく息を吐き私はそっと指を伸ばした。弾丸でこの街を訪ねたあの日と同じように、カメラを指で覆いながら。まるで祈るようにしてインターホンのボタンに触れる。ピンポンという電子音が静寂のなかに穏やかに響いた。
——ねえ、まだそこにいるの? 私、あの日の続きを話したくて、ここまで来たよ。あなたに、会いに来たよ。
言えなかった言葉と、渡せなかった想いを胸に私はただ、彼の返事を待っていた。
*
音がした。ピンポン、と。モニターの表示灯が、赤く点滅している。部屋に漂っていたコーヒーの香りが、ようやく静かに馴染んできた頃だった。正午の少し前。ぼんやりとテレビの画面を眺めていた俺は、その音に反射的に顔を上げた。
「……」
……まさか。心の奥が、ふと、微かに震える。けれどすぐに理性が打ち消す。そんなわけがないと。だって、あの日。あんなにも冷たく、あんなにも愚かに突き放したのは、この俺だったのだから。彼女の名前すら最後まで真っ直ぐに呼ぶ事ができなかった人間に、どんな資格があるのか。
それでも。身体は勝手に動いた。マグカップをテーブルの脇に置き玄関までの短い廊下を心臓に追われるように早足で進む。
モニターに目をやると、そこには見覚えのある影が、ぼんやりと映っていた。けれど次の瞬間、その映像は、黒く塗りつぶされた。カメラが指で覆われたのだとすぐにわかった。嘘だ——でも、ああ、きっと。彼女だ。
理由なんていらなかった。部屋の空気が違っていた。彼女が近くにいると、どうしてか、温度も匂いも、すべてが変わってしまう。まるで、部屋ごと呼吸を始めたかのように。
俺は迷わず解錠ボタンを押した。画面には何も映っていないのに、そこにいると確信できた。
不思議だった。あの人だけが、いつも、そういう気配を残す。
数分もしないうちに、ドアの向こうに、足音が近づいてくるのを剛翼が感知してわかった。革靴じゃない、柔らかい布地が、フローリングを擦るような、小さくて優しい歩調。ドアノブにそっと手をかけてひとつ深く息を吸い込む。こんなにも呼吸が重くなるなんて。
——カチリ。
鍵を外す。重たい扉をゆっくりと慎重に引く。胸の奥がざわつく。再会にふさわしい言葉も表情も何ひとつ用意できていない。けれど、それでも。
そして——そこに彼女はいた。コートの襟元に手を添えたまま、少しだけ戸惑ったような顔で、でも確かに俺のほうを見ていた。もう何度も夢で見たような光景。それなのに、現実の彼女はそのどれよりも、美しかった。
「あ……」
彼女も、言葉を詰まらせたようだった。目元のあたりにかかる前髪には、まだ少し寝癖が残っていて。でもその表情は見違えるほどに真剣だった。
「あなたが先に……来ちゃったんですね。」
低く優しく、そしてどこか信じられないように俺は言った。あの日、海に捨てた鍵の記憶がまだ掌に残っているような気がした。あのとき彼女が振り返っていたら。あのとき「行かないで」と、言ってくれていたら——でも、そんなたらればを超えて、今、彼女はここにいる。
「朝……起きたときに、あなたの顔が浮かんで」
「……」
「……どうしても、もう一度、話がしたくて」
その声は震えていた。けれどそれでもちゃんと届いた。今まで、何度も何度も、閉ざされた扉を挟んだまま通り過ぎてきた言葉たちが、ようやくひとつだけ鍵をこじ開けたように。まっすぐ胸の奥まで。
「奇遇ですね……俺も、ちょうど同じこと考えてました」
「え……」
「じゃあ——入って、いきます?」
彼の口元が、ふっと緩む。今日まで置いていかれた寂しさをどこかに追いやるように。それでもどこか慎重に、まるで、私の心が壊れないように気をつけながら。
私はこくりと頷いた。そして彼はそっと身体を引いて、扉の向こうへと私を迎え入れた。午後の光が、ふたりを柔らかく包む。すれ違ったままの夜の続きを、ようやく言葉にできる時間が、いまここに、始まろうとしていた。